水沼四郎の情報(みずぬましろう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
水沼 四郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
水沼四郎と関係のある人
西沢正次: 1974年には正捕手であった水沼四郎から定位置を奪って自己最多の95試合に出場する。 達川光男: 進学を決意した理由のひとつに本人はカープ入りを熱望し、カープのスカウトから認められていたこともあり、高校卒業してすぐにプロ入りしたかったが、一方では当時のカープで正捕手として活躍していた水沼四郎に勝てないと悟り、大学で実力をつけるためであると自著「広島力」で語っている。 三宅昇: 高校同期に基満男、水沼四郎、1年下に控え投手の谷村智博がいた。 石川政雄: 1972年には一軍に上がり、久保、水沼四郎に次ぐ捕手として10試合に先発マスクを被る。 藤本和宏: 2回は女房役の水沼四郎の満塁本塁打、3回にも2点の援護があったが「大量点を貰った時は、どうもよく代えられるケースが多い」と、かえって自信を持てずにプレーしていた。 柳田豊: 1979年の広島東洋カープとの日本シリーズでは3試合にリリーフとして登板するが、第3戦では7回裏に集中打を浴び逆転を許し、最終第6戦では水沼四郎に決勝本塁打を喫し、いずれも敗戦投手となった。 金田進: 初出場・初打席:1983年5月29日、対ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤ球場)、水沼四郎の代打、梶間健一から三振 梅野隆太郎: セ・リーグにおける規定試合数を満たした捕手の捕逸0は、1979年の水沼四郎(広島)以来35年ぶり。 柴田猛: 水沼四郎・道原裕幸の2人をカバーするのが主な役割であり、古葉も「まあ見ていてください。 金田留広: ノーサインで水沼四郎からの返球を捕っては投げ、捕っては投げた。 今井譲二: 初盗塁:1983年6月7日、対中日ドラゴンズ戦(広島市民球場)、9回裏に二盗(投手:小松辰雄、捕手:水沼四郎) 谷村智啓: 長坂以外の1年上のチームメイトに捕手の水沼四郎、二塁手の基満男、右翼手の三宅昇がいる。 田中尊: 1970年からは久保祥次・水沼四郎が後継として成長し、コーチ補佐兼任となった1972年に引退。 久保祥次: 1971年には水沼四郎が台頭するが、1972年にはレギュラーを奪還した。 達川光男: 1年目の1978年から一軍に上がり、7月には水沼四郎に代わり9試合に先発マスクを被る。 佐藤龍一郎: 初盗塁:1974年6月29日、対広島東洋カープ10回戦(広島市民球場)、5回表に二盗(投手:金城基泰、捕手:水沼四郎) 国貞泰汎: 性格的にもひょうきんで面白く楽しいネアカキャラで人気があり、国貞は「ワシがカープのおとなしいカラーを変えてやる」と若い連中の山本浩二、衣笠祥雄、水沼四郎らに刺激を与えた。 宮本幸信: 1年下に水沼四郎捕手、同期に中塚政幸一塁手がいた。 中塚政幸: 1967年春季リーグでは同期のエース宮本幸信と1年下の水沼四郎捕手のバッテリーを擁し、チームを7季振りの優勝に導き、打率.385、13盗塁という好成績でMVPに選ばれた。 道原裕幸: 即戦力捕手として期待されるが、打撃面での低迷もあって水沼四郎、西沢正次らの壁を破れず、出場機会に恵まれなかった。 中井康之: 初盗塁:1979年4月17日、対広島東洋カープ1回戦(北九州市民球場)、6回裏に二盗(投手:金田留広、捕手:水沼四郎) 北角富士雄: 1回戦で水沼四郎、基満男らがいた報徳学園に9回サヨナラ負け。 柴田猛: ノーサインで水沼四郎からの返球を捕っては投げ、ポンポンと、テンポよく投げることで打者に考える隙を与えず、5回を3安打1点に抑えた。 高橋善正: 卒業後は1963年に中央大学法学部政治学科へ進学し、野球部では高森正則(日本鋼管)・水沼四郎とバッテリーを組み活躍、東都大学野球リーグでは在学中に2回優勝を経験する。 石原慶幸: 広島の捕手でシーズン二桁本塁打を打ったのは1976年の水沼四郎(11本)以来33年ぶりである。 木庭教: 以降、山本浩二、水沼四郎、三村敏之、池谷公二郎、金城基泰、正田耕三ら有名アマチュア選手の獲得に辣腕を振るい、また達川光男、高橋慶彦、川口和久、大野豊、長嶋清幸、紀藤真琴といった野に埋もれていた無名選手の才能も見出した。 基満男: 他の高校同期に捕手の水沼四郎、右翼手の三宅昇、1年下に控え投手の谷村智博がいた。 |
水沼四郎の情報まとめ
水沼 四郎(みずぬま しろう)さんの誕生日は1947年2月27日です。兵庫出身の野球選手のようです。
卒業、事故、引退、テレビ、現在に関する情報もありますね。水沼四郎の現在の年齢は77歳のようです。
水沼四郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 水沼 四郎(みずぬま しろう、1947年2月27日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。 報徳学園では、同期のエース長坂正稔(中大-東芝)を擁し、1964年春の選抜に出場。1回戦は北角富士雄のいた東邦高に9回サヨナラ勝ち。2回戦ではこの大会に優勝した徳島海南高の尾崎将司に完封を喫した。同年夏の甲子園県予選では、準決勝で育英高の鈴木啓示に抑えられ惜敗。他の高校同期に基満男、三宅昇、1年下に控え投手の谷村智博がいた。 卒業後は長坂、三宅とともに中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは、1年生時から高橋善正らとバッテリーを組み活躍。1967年春季リーグでは宮本幸信の好投もあり優勝を飾る。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で慶大を破り初優勝。リーグ通算94試合出場、322打数65安打、打率.202、7本塁打、30打点。ベストナイン2回。 1968年、ドラフト2位で広島東洋カープに入団。当時の広島の捕手陣は田中尊、久保祥次がレギュラーを争っていた。 1971年には正捕手に抜擢された。8月19日には中日を相手に、藤本和宏とバッテリーを組みノーヒットノーランを達成した。 1972年はシーズン前半を故障欠場、久保祥次に定位置を譲るが7月には復活した。 1974年には打力に優る西沢正次にポジションを譲るが、同年末に西沢が太平洋クラブライオンズに移籍し定位置を取り戻す。 1975年のリーグ初優勝に貢献、同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、シーズン後半に台頭した道原裕幸が主に先発マスクを被るが、全6試合に出場し投手陣を支えた。 1976年は開幕から道原が起用されるが、5月には定位置を奪還。 1978年には119試合に先発マスクを被り、初の規定打席(30位、打率.271)に達する。 1979年と1980年の連続日本一にも大きく貢献。1979年の近鉄との日本シリーズは全7試合に先発マスクを被り、11月4日の最終第7戦では6回に柳田豊から勝ち越しとなる2点本塁打、結局これが決勝点となる。9回裏のいわゆる「江夏の21球」の際の捕手も水沼であった。翌1980年の近鉄との日本シリーズも全7試合に先発、第3戦では9回に井本隆から決勝適時2塁打を放つ。 1981年7月15日、同僚の高木真一が運転する車の助手席に乗っていた際に交通事故に巻き込まれ、頭を30針縫う大ケガを負った。このため定位置を道原に譲るが8月には復帰、しかし同年は達川光男の成長もあり出場機会が大きく減少した。 1983年に中日ドラゴンズへコーチ兼任で移籍し、同年引退。 現役引退後の1984年から86年まで中日でバッテリーコーチを務めた。その後は監督古葉竹識の招聘で横浜大洋ホエールズのスカウトを務めた。スカウト業の傍らで読売テレビ・広島テレビ野球解説者も兼任。 1997年に広島市へ戻ると、少年野球の指導に力を入れたほか、東広島市でお好み焼き店「しろう」を経営した。14年間営業したが、2007年5月24日に脳梗塞で倒れ3ヶ月半入院して一旦閉店し、リハビリを経て回復し、広島市中区で同名の居酒屋を開店した。同店は2015年2月22日より「カープ100円食堂」にリニューアルし、現在は夫人と共に実業家として活動している。 孫の山本彩加は、NTT西日本広島所属のソフトテニス選手として活躍している。 打力はそれほどではなかったが、捕手としての能力は高く、ノーサインでも獲れるキャッチングの上手さ、冷静かつ大胆なリード、そして捕手としては俊足であるという武器もあり、チームの要としての役割を十分に果たし、1971年以降の10年はほとんどのシーズンで広島のレギュラー捕手として活躍した。 正捕手だったこともあり、捕手としての守備力は高く評価されていた。のちの正捕手のひとりとなり、カープ入りを熱望していた達川光男も「高校の時点でスカウトがきたけど、水沼さんがいるのだから出場機会がないのは大いに予想できた。自分だって早くプロになりたかったけど、水沼さんに負けるのがわかったから、大学へ行って実力をつけてから指名を待とうと考えた」と語っている。 初出場:1969年4月12日、対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民球場)、10回裏に藤井弘の代走として出場 初先発出場:1969年5月7日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、8番・捕手として先発出場 初本塁打・初打点:1969年6月14日、対阪神タイガース9回戦(阪神甲子園球場)、5回表に鈴木皖武からソロ 1000試合出場:1979年7月13日、対阪神タイガース11回戦(阪神甲子園球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上210人目 39(1969年 - 1973年) 22(1974年 - 1982年) 66(1983年) 86(1984年 - 1986年) ^ [1] ^ 広島カープの捕手として活躍した水沼四郎さん 鉄板焼きラウンジ「しろう」 - 広島の人・広島の情報 エポカわ~るど(2013年2月20日) ^ 広島を支えて/6 広島東洋カープ元捕手・水沼四郎さん /広島 毎日新聞(2016年1月9日 地方版) ^ 2015年2月22日より鉄板焼きラウンジ「しろう」は「 カープ100円食堂」へ ^ 元広島水沼四郎さんは居酒屋店主 ”江夏の21球”を解説も ^ 達川光男『広島力』株式会社講談社、2019年、101ページ、ISBN 978-4-06-515499-1 兵庫県出身の人物一覧 中央大学の人物一覧 広島東洋カープの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 個人年度別成績 水沼四郎 - NPB.jp 日本野球機構 水沼四郎のお店(みずぬましろう)のホームページへようこそ! 表 話 編 歴 1位:山本浩司 2位:水沼四郎 3位:山口喜司 4位:石川政雄 5位:前保洋(入団拒否) 6位:稲葉光雄(入団拒否) 7位:益田芳樹(入団拒否) 8位:六條誠一(入団拒否) 9位:上林成行(入団拒否) VIAF 日本 日本の野球選手 報徳学園高等学校出身の野球選手 中央大学硬式野球部の選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 日本の野球指導者 横浜DeNAベイスターズ関連人物 日本の実業家 兵庫県出身のスポーツ選手 1947年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 書きかけの節のある項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/09 15:02更新
|
mizunuma shirou
水沼四郎と同じ誕生日2月27日生まれ、同じ兵庫出身の人
TOPニュース
水沼四郎と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「水沼四郎」を素材として二次利用しています。