久保祥次の情報(くぼしょうじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
久保 祥次さんについて調べます
■名前・氏名 |
久保祥次と関係のある人
安仁屋宗八: 5月11日の巨人戦(兼六園)では瀧安治の打球が安仁屋に当たって跳ね返ったボールを捕手の久保祥次が処理したキャッチャーライナーを経験、ただ、記録上はピッチャーライナーで久保には刺殺(捕球)が記録された。 石川政雄: 入団時は田中尊、久保祥次の壁が厚く一軍に定着できなかった。 雑賀幸男: 初出場・初打席:1963年8月9日、対国鉄スワローズ19回戦(広島市民球場)、久保祥次の代打として出場、佐藤進の前に凡退 梅田邦三: 初盗塁:同上、8回表に二盗(投手:外木場義郎、捕手:久保祥次) 三浦和美: 高校同期の久保祥次、1年下の枡岡憲三(広島)がプロ入りしている。 水沼四郎: 1972年はシーズン前半を故障欠場、久保祥次に定位置を譲るが7月には復活した。 道原裕幸: 初出場:1972年4月22日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、8回表に久保祥次の代打として出場 水沼四郎: 当時の広島の捕手陣は田中尊、久保祥次がレギュラーを争っていた。 東山親雄: 一軍でもマスクを被るが、田中尊、久保祥次の壁を越えられず、レギュラーには届かなかった。 瀧安治: 主に土井正三・黒江透修の控えとして活躍するが、1965年5月11日の広島戦(兼六園)では瀧が放った打球が安仁屋宗八投手の膝を直撃し、跳ね返った打球を捕手・久保祥次が捕球したため瀧に捕直(キャッチャーライナー)が記録された。 須山成二: 1968年のジュニアオールスターにも出場するが、当時の広島捕手陣には田中尊、久保祥次といったベテランが揃っており、その後は捕手としての出場機会はなかった。 西村宏: 他の同期入団には池田英俊、漆畑勝久、久保祥次などがいた。 田中尊: 1970年からは久保祥次・水沼四郎が後継として成長し、コーチ補佐兼任となった1972年に引退。 野口善男: 初盗塁:1971年5月15日、対広島東洋カープ7回戦(広島市民球場)、9回表に二盗(投手:宮本洋二郎、捕手:久保祥次) 高岡重樹: 他の同期入団選手に池田英俊、漆畑勝久、久保祥次などがいる。 |
久保祥次の情報まとめ
久保 祥次(くぼ しょうじ)さんの誕生日は1941年11月27日です。広島出身の野球選手のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。久保祥次の現在の年齢は82歳のようです。
久保祥次のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 久保 祥次(くぼ しょうじ、1941年11月27日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(捕手)。 長男・貴は元JR東海の左腕、末弟・裕は愛知高時代に甲子園出場を果たし、中京大でもプレーした。 広陵高校では控え遊撃手で、チームは1959年に春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では1回戦で芦屋高に敗退し、夏の選手権でも2回戦(初戦)で宇都宮工に敗れた。高校のチームメイトでは同期の三浦和美、1年下の枡岡憲三がプロ入り(いずれも広島)している。 卒業後は広島大学に職員として勤務しながら軟式チームで捕手をしていたが、知人の勧めで広島カープのテストを受け、1962年9月に入団。この時に肩を壊していた鵜狩道夫が二軍で調整していたため、鵜狩の球を受け、シートバッティングで打たせてもらった。鵜狩は「あのキャッチャーは投げいいよ」と首脳陣に進言し、その上にシートの時は打ちやすい球を投げて、その後も随分可愛がった。 1963年から一軍の控え捕手となり、1965年5月11日の巨人戦(兼六園)では巨人瀧安治が放った打球が広島安仁屋宗八の膝を直撃した際、その跳ね返った打球を久保がノーバウンドで捕球、投触捕直(投手が接触した後のキャッチャーライナー)というプレーを経験、ただ、記録上は投直で久保には刺殺(捕球)が記録された。10月22日の巨人戦(後楽園)では鵜狩の10年目のボーナスがかかっていたが、それまで後楽園では一度も先発したことが無い鵜狩が監督長谷川良平に先発志願。この時、キャッチャーに久保を指名してくれた。 インサイドワークに優れ、肩もキャッチングも巧く、1967年には衰えがあった正捕手の田中尊を凌ぐ106試合に出場。同年4月29日の阪神戦(甲子園)では江夏豊にプロ初勝利を許すが、久保は完封逃れの本塁打をかましている。この後もレギュラーには定着できず、田中との定位置争いが続く。1968年9月14日の大洋戦(広島市民)で外木場義郎が史上10人目(当時)の完全試合を達成し、セ・リーグタイの1試合16奪三振を記録した試合をアシスト。 1971年には水沼四郎が台頭するが、1972年にはレギュラーを奪還した。 1973年に金銭トレードで近鉄バファローズへ移籍したが、ここでは出場機会に恵まれず、1974年に現役を引退。 引退後は愛知県名古屋市に本社を置く広告代理店に勤務。この会社は元衆議院議員・江﨑真澄の長男・乙澄が経営しており、久保は現役の時から親交があった乙澄の勧めで入社し、取締役部長の要職も務めた。 40 (1962年 - 1966年) 24 (1967年 - 1972年) 22 (1973年 - 1974年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、199ページ ^ “あの鯉人たちは今 =18= 久保祥次氏の巻 幸せだった広島時代 仏のショーちゃんは敏腕広告マン”. 日刊スポーツ. (n.d.). オリジナルの1998年12月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/19981206204248/http://www.nikkansports.com/osaka/ocp/ren/koibito18.html 2021年7月14日閲覧。 ^ “ネット裏 4回にクイズ・プレー”. 読売新聞 朝刊: p. 9. (1965年5月12日) ^ “名手”. 中日スポーツ. (2017年10月17日). https://web.archive.org/web/20210714103641/https://www.chunichi.co.jp/article/15210 2021年7月14日閲覧。 広島県出身の人物一覧 広島東洋カープの選手一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 個人年度別成績 久保祥次 - NPB.jp 日本野球機構
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2024/11/19 19:48更新
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kubo syouji
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