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板東英二の情報 (ばんどうえいじ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

板東英二の情報(ばんどうえいじ) 野球、タレント 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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板東 英二さんについて調べます

■名前・氏名
板東 英二
(読み:ばんどう えいじ)
■職業
野球、タレント
■板東英二の誕生日・生年月日
1940年4月5日 (年齢84歳)
辰年(たつ年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
徳島出身

(昭和15年)1940年生まれの人の年齢早見表

板東英二と同じ1940年生まれの有名人・芸能人

板東英二と同じ4月5日生まれの有名人・芸能人

板東英二と同じ出身地徳島県生まれの有名人・芸能人


板東英二と関係のある人

タージン: 板東英二のGOODスマイル(テレビ大阪)


桂文也: 一時、板東英二の事務所に所属し、タレント活動なども行っていた。


西尾慈高: 一方、西尾は1961年こそ6勝を挙げ、準エース格だった板東英二や河村保彦を差し置く形でオールスター戦にも監督推薦されたが、その後は目立った活躍ができず、1965年に引退した。


羽田美智子: 板東英二のクリックPAPA


高橋勝: 花王ファミリースペシャル・板東英二・七転八起の人生


竹房敦司: 「板東英二のスポーツパラダイス」


松本秀夫: また、この試合の解説は田尾安志と板東英二のW解説で、後に板東はニッポン放送の別の番組でこの時のことを振り返り、「初めて球団とアナウンサーが癒着している事を知った」と冗談交じりに話している。


高橋慶彦: 広島で1年間ヘッドコーチをしたドン・ブレイザーの娘に電話攻勢をかけたり、ハワイ・キャンプの間に電話代を200万円使ったりしたこともあると板東英二の著書に記されているが、後に高橋本人は広島がハワイでキャンプをしていないことを挙げて200万円の件も否定し、当時教育リーグが所在したフロリダから、シンディではなく日本人の女の子に電話したと語っている。


岩城潤子: その一方で、『板東英二のわがままミッドナイト』(土曜日の深夜に生放送のテレビ番組)では板東英二、『すみからすみまで角淳一です』(平日午後の生ワイド番組)では当時の上司・角淳一のアシスタントを務めた。


岡村浩二: 3年生時の1958年は春季四国大会決勝に進み、エース板東英二を擁する徳島商と対戦。


西田暢: また、同年リリースの山本正之作詞・作曲『燃えよドラゴンズ!』の記念すべき第1作(歌:板東英二)では正岡、井手峻と共に6番の歌詞に登場している。


板東里視: タレントの板東英二(元中日)は中学の一つ先輩にあたる(苗字は同一ではあるが血縁関係はない)。


角淳一: 1970年代に出演の『MBSヤングタウン』(MBSラジオ、以下『ヤンタン』と略記)で笑福亭鶴光・佐々木美絵とともに人気を集めたことをきっかけに、活躍の場をMBSテレビの深夜番組(『夜はクネクネ』『イカにもスミにも』『板東英二のわがままミッドナイト』など)にも広げた。


林健造: 1966年5月8日の中日戦(川崎)では板東英二からサヨナラ本塁打を放ち、同年は36安打ながら12本塁打をマーク。


森永勝也: 5月27日の中日戦(中日)では、9回に不振であった長嶋茂雄に入団以来初の代打が送られたが、その時の代打は森永であり、板東英二より右前安打を放った。


新保友映: 板東英二のバンバンストライク(2004年4月 - 2005年3月)


横山ノック: 島田紳助と板東英二が株式投資の相談をしていた時に、そこを通りかかったノックは「養命酒、いけるぞー!!」と二人に声を掛けた。


徳光和夫: 1982年に『ズームイン!!朝!』で「巨人が優勝できなかったら丸坊主になる」と発言したが、中日が優勝したため、名古屋の中京テレビでコーナーを担当していたきくち教児と板東英二によって、バリカンで丸坊主にさせられた。


中井雅之: 板東・中井の喜・怒・哀・楽(2015年4月 - 2019年9月、板東英二と共にパーソナリティを担当)


児玉清: この折『アタック25』の司会代役を務めたのは、タレントの板東英二(元プロ野球中日ドラゴンズ投手)である。


三宅定雄: 1980年代に入ってからは、阪神戦のラジオ中継における板東英二(当時はMBSの野球解説者)との喧嘩も辞さない掛け合いが、『ニッポン放送ショウアップナイター』(MBSでも一部のカードで中継を制作・同時ネット)における深澤弘(当時はニッポン放送のスポーツアナウンサー)・江本孟紀(同局の野球解説者)コンビと並び称されていた。


毛利聡子: 板東英二のグッドスマイル(テレビ大阪、2003年)


高井美紀: 板東英二のスポーツパラダイス(日曜)


別部捷夫: 鳴門高校では1958年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、中学時代の同級生である徳島商の板東英二に0-1で完封を喫し、甲子園出場はならなかった。


青野修三: 同年の秋季四国大会は1回戦(準決勝)で石川陽造、岡村浩二のバッテリーを擁する高松商に敗退し、3位決定戦でも徳島商の板東英二に完封負けを喫する。


子守康範: しかし、同年8月26日にその取材で滞在していたカンボジアから『それゆけ!金曜板東英二』(当時MBSラジオで放送されていた生ワイド番組)へ中継リポートを入れた際に、「現地で飛行中の旅客機を操縦させてもらった」と取れるコメントを述べた。


田野倉利男: 『燃えよドラゴンズ!』では、1979年版(歌:山本正之)と1982年版(歌:板東英二)に名前が登場する。


松井裕樹: 2回戦の常総学院高校戦でも19奪三振を挙げて2試合で41奪三振、これまで板東英二が持っていた2試合計での最多奪三振記録を更新した。


松原誠: 1年目は4月15日の中日戦(川崎)で9回裏に島野雅亘の代打で初出場し、5月8日の中日戦(中日)に8番打者・捕手として初先発出場を果たすと、7回表に板東英二から初安打を放つ。


堀江しのぶ: 『毎度おさわがせします』(TBS)で共演した板東英二や『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)で共演した横山やすしからは、娘のようにかわいがられていた。


板東英二の情報まとめ

もしもしロボ

板東 英二(ばんどう えいじ)さんの誕生日は1940年4月5日です。徳島出身の野球、タレントのようです。

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詳細情報、芸能人としてなどについてまとめました。引退、父親、兄弟、現在、テレビ、事故、姉妹、解散、ドラマ、映画、母親、卒業、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。板東英二の現在の年齢は84歳のようです。

板東英二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

B.E.(Boiled Egg)チャンネル

板東 英二(ばんどう えいじ、1940年〈昭和15年〉4月5日 - )は、日本の元プロ野球選手、元タレント、野球解説者、俳優、司会者、YouTuber。「坂東英二」は誤記。愛称は「板(ばん)ちゃん」。

高校野球時代に投手として数々の記録を打ち立てて名を馳せる。プロ野球選手としては中日ドラゴンズに所属し、在籍11年で77勝を挙げた。現役引退後は、主にタレント業で活動していた。

満洲国虎林生まれ、徳島県板野郡板東町(現:鳴門市)出身。既婚者で、2女の父親

満洲の虎林で生まれ、一家は間島省(現・吉林省延辺朝鮮族自治州)図們市で高級料理店を経営していた。誕生日は公式には4月5日とされているが、板東自身が語っているところによれば、実際には3月31日だったという。4人兄弟の末っ子(姉2人、兄1人)。

5歳で引き揚げ。博多港から母・久江(旧姓 杉本)の出身地の神戸市宮ノ下に移り、神戸市立妙法寺小学校に入学。これは1947年4月のことで、実際の誕生日から見ると正規の学齢より1年遅かった。入学式の1日だけ行った後、父・操(みさお)の復員を知り、父の故郷である徳島県板野郡板東町に移り、旧板東俘虜収容所の施設を転用した引き揚げ者用住宅で過ごす。父親の就業が不安定だった小中学校時代には困窮した生活を送り、食事にも事欠いた。

板東中学校入学時に板東はバレーボール部に入り、養蚕農家の手伝いをして家計を助けた。中学2年の時に野球部の先輩から誘いを受けて入部し、遊撃手としてレギュラーを獲得する。3年に進級した板東は野球部のエースとして活躍し、中学時代に61連勝の記録を挙げた。

1956年に徳島県立徳島商業高等学校へ入学。エースとして同年の秋季四国大会に進み、1回戦で高知商の小松俊広と投げ合うが延長11回サヨナラ負け。翌1957年夏の甲子園県予選は、準々決勝で撫養高に敗退。同年秋から主将に就任した。直後の秋季四国大会は1回戦で坂出商に敗退、春の選抜には縁がなかった。

小学校以来、正規の学齢よりも1年下で就学してきたが、2年生の時に誕生日を野球部長に問われて「昭和15年3月31日」と答えると、3年生時に日本高等学校野球連盟による出場規制の対象となるため、部長の斡旋により徳島地方裁判所で実際より遅い4月5日に誕生日を変更した。日付は部長の決定で、手数料(50円)も部長が拠出したという。

3年生となった翌1958年4月の春季四国大会は1回戦(準決勝)で高知商と対戦。互いに1点を取り合い、高知商は森光正吉、山崎武昭の継投、徳島商は板東が投げ抜き、延長16回2-1でサヨナラ勝ち。翌々日の決勝は石川陽造、岡村浩二のバッテリーを擁する高松商と対戦。石川、板東が互いに無失点で延長25回に進む。最後は岡村の適時打などで0-2と敗退するが、準決勝・決勝合わせて41回を投げ抜いた板東の活躍は、地方紙だけでなく、全国紙でも報道。全国の高校野球のファンからも、一躍注目を浴びる。その一方で、この事態を重く見た日本高等学校野球連盟は、延長戦に関するルールを急遽変更。延長18回裏の時点で勝敗未決の場合には、その時点で試合を終了したうえで、後日に再試合を実施することになった。

同年夏は県予選決勝で因縁の撫養高を降し、夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で秋田商の石戸四六に投げ勝ち完封勝利、17奪三振を記録した。3回戦も八女高から15三振を奪い準々決勝に進出、板東はこの時点で右肩を痛めていた。魚津高との準々決勝は、村椿輝雄との投手戦となり延長18回0-0で終了、この試合では25奪三振を記録した。前述した再試合ルールの最初の適用例となる(魚津対徳島商延長18回引き分け再試合に詳述)。翌日の再試合では、腰の痛みを訴えたことから、麻酔注射を打って登板。3回頃から麻酔が切れたものの、9奪三振で完投勝利を収めるとともに、当時の大会記録64奪三振を更新した。準決勝でも14奪三振で作新学院に勝利。決勝は柳井高との対戦になるが、さすがに疲労で本調子ではなく、柳井高のエース友歳克彦(法大 - 日本石油)に0-7で完封負けを喫する。準優勝にとどまるが大会を通じて83奪三振を記録した。この大会で樹立した1試合25奪三振および、大会通算83奪三振の記録は、2022年の第104回大会終了時点で破られていない。

1958年秋に慶應義塾大学のセレクションに合格するが、家庭の事情でプロ入りを決意し中日ドラゴンズに入団。同期には江藤愼一、片岡宏雄らがいる。契約金は同期入団でセンバツ優勝投手の王貞治より高額であり、現在の貨幣価値に直すと数億円に値する金額であった。この際、操が全額をもって徳島から出奔したため、地元の親族との間に壁ができたという。1年目の1959年から一軍で起用され4勝。入団2年目の1960年には10勝を挙げ、オールスターゲームにも監督推薦で選出。1961年には、21歳にして開幕投手に抜擢され、初めて規定投球回(リーグ11位、防御率2.60)に達する。その後は故障もあって一時低迷するが、1964年にはリリーフに回り復活、チーム最多の53試合に登板する。

1965年は12勝7敗、防御率2.25(リーグ6位)の好記録を残す。1966年8月26日の対読売ジャイアンツ戦に中継ぎで登板し、塩原明を1球で打ち取って降板。これによりプロ野球史上2人目、セントラル・リーグ初、日本人投手として初の「1球だけの勝利投手」となった。1967年には、中継ぎ投手として好調を維持し、自己最高の14勝を挙げた。

1968年にはシーズン中の6月に、東京大学医学部附属病院での緊急手術で右肘の軟骨を除去。当時のプロ野球選手では前例のない手術だったが、シーズン終盤の9月には一軍へ復帰した。

1969年には、一軍公式戦16試合に登板したが、プロ入り後初めて1勝も挙げられなかった。開幕戦の広島東洋カープ戦では山内一弘にサヨナラ本塁打を打たれて敗戦投手。シーズン最後の巨人戦へ登板した直後に、当時の一軍監督・水原茂から、コーチへの転身を打診。さらに、球団が自身を任意引退選手として扱うことを新聞で知ったため、コーチへの就任を前提に現役引退を決断した。しかし、後に球団内の人事異動で、板東と折り合いの悪い人物が現場のトップへ就任。そのあおりで、コーチへの就任は幻に終わった。さらに、球団からスカウトへの転身を勧められたが、「自分に合わない」という理由で固辞した。

1970年より中部日本放送(CBC)の野球解説者へ就任。1974年当時野球解説をしていたCBCラジオで、昼ワイド番組『ばつぐんジョッキー』の月曜パーソナリティを担当し、木曜パーソナリティ上岡龍太郎と中日対阪神で盛り上がる。

名古屋で野球解説を担当していた時代は数多くの事業に手を出し、不眠不休の生活を送っていた。しかし、1979年のシーズン途中に、CBCから野球解説者としての契約を解除(詳細後述)。プロ野球中継以外のレギュラー番組からも一斉に降板したため、タレント活動の拠点を関西へ移した。ただし、CBCとの縁が切れたわけではなく、以降もタレントとしてテレビ・ラジオ番組への出演を継続。プロ野球中継にも、スポット契約扱いで随時出演していた。

タレント活動が全盛期だったころは、毎日放送(MBS)の解説者として契約しながら、出演はゲスト扱いの1試合のみ、という年もあった(毎日放送解説者としての活動開始は1984年)。活動が落ち着いてきた2000年代以降は他の解説者同様に出演するほか、2003年以降はニッポン放送とも契約し、達川光男(2009年まで)同様に関東・関西を股に掛けて活躍した。さらに2012年8月より現在まで、徳島県鳴門市からの委嘱で「鳴門観光大使」を務めている。

板東は1988年に、国税庁の確定申告PRポスターのキャラクターに起用。また、名古屋市に住民票を置いていることから、確定申告の期間中に名古屋国税局へ出向く姿が東海地方を中心に毎年報じられてきた。2007年には、同国税局から感謝状を贈られている。

ところが、感謝状を贈られた5年後の2012年暮れに名古屋国税局が「オフィスメイ・ワーク」(かつて板東が役員も務めた事実上の個人事務所)に税務調査をすると、確定申告PRポスターのキャラクターに起用されながら2011年8月期までの7年間にわたって約5000万円の所得を名古屋国税局に申告していなかったことが判明。所得隠しを含めた申告漏れの総額が約7500万円にのぼったことから、同事務所ではその事実を認めたうえで、ただちに修正申告と追徴税の支払いで対応した。名古屋国税局では、板東自身の指示で所得隠しを続けていた可能性を指摘。TBS News iなどでは、「架空発注などを含む悪質な所得隠し」と報じた。このため、年明けの2013年1月から各局は板東の出演を順次見送ることを決定した(後述)。

2013年8月10日には、観光大使を務める地元の徳島県鳴門市で開催の阿波おどりイベントにゲスト出演。前述の申告漏れ報道以来約8か月振りに、公の場へ姿を見せた。さらに、自らの個人事務所であったオフィス・メイワークを閉鎖したうえで、11月10日に大阪市内で記者会見を開催。前述の申告漏れ問題を釈明すると共に、一連の経緯に関する事情説明が遅れたことなどを公式に謝罪した。名古屋国税局から申告漏れを指摘された背景については、公私にわたる金銭の管理をオフィス・メイワークのスタッフ1名に任せていたことや、過去に20年ほど続けていた頭部への植毛に対する税務上の「経費」の扱いで国税当局と認識の違いがあったことを明かしている。

この頃、同じ理由で降板したメ〜テレ『ドデスカ!』放送中に、突如スタジオに現れ出演者を驚かせる。これは顔馴染みの警備員がゲストと誤認し顔パスで通したことにより、局内に勝手に入室したものだったという。

2013年11月23日に、インターネットテレビ番組『めちゃ×2ユルんでるッ!』(ゼロテレビ)へのゲスト出演によって、芸能活動を事実上再開した。同年12月9日には、ラジオ番組『吉田照美 飛べ!サルバドール』(文化放送)のスタジオゲストとして、活動再開後初めて地上波での生放送およびラジオ番組に出演。前述の記者会見で明かした植毛のきっかけについて、最初に行ったのは20数年前の俳優活動中で、当時両面テープを使って行ったことを明かしている。12月25日未明には、『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』(フジテレビ)の生放送中に、明石家さんまへの電話を通じて地上波のテレビ番組へ1年振りに出演した。

オフィス・メイワークの閉鎖後はフリーランスで活動していたが、2014年1月16日付で、さんまの所属する吉本興業(当時・よしもとクリエイティブ・エージェンシー)への所属が同社から発表された。この所属については、「活動の場を広げたい」という本人の希望に加えて、さんまや島田紳助からの後押しも決め手になったとされる。先述発表の際に、「所属事務所(オフィス・メイワーク)の所得の申告漏れに関して、世間をお騒がせし、応援して頂いている皆様や、関係各社様にご迷惑をお掛け致しましたことを、深くお詫び申し上げます。今後はよしもとクリエイティブ・エージェントに所属し、同じ過ちを繰り返すことなく、芸能活動も再開できればと思っております」とのコメントを寄せた。

2014年2月2日には、ナゴヤドームで開かれたSKE48のコンサートで、名古屋城をかたどった正面ステージに戦国武将の姿で登場。「御心配をお掛けしました」と謝罪したうえで「開幕宣言」を述べた。同月には、関西テレビが制作するさんまの冠番組『さんまのまんま』(2月15日放送分)にゲスト出演。この番組で、吉本興業所属後初めて地上波のテレビ番組に登場した。毎日放送の番組には、4月13日・4月20日放送分の『MBSヤングタウン日曜日』(事前収録)、4月25日放送分の『上泉雄一のええなぁ!』(生ワイド番組、いずれもラジオ)に相次いでゲスト出演。5月9日には、『5時に夢中!』(東京MXテレビ)のゲストコメンテーターとして、テレビの生放送番組にも本格的に復帰した。また、サンケイスポーツの野球評論家として、不定期ながら観戦記の寄稿を再開している。

このように、在京キー局以外の地上波民放局が制作するテレビ番組では、徐々に出演の機会を増加。2014年10月からは、『バラいろダンディ』(東京MXテレビ)の火曜日でレギュラーコメンテーター(火曜ダンディ)を務めている。ただし、前述した『さんまのまんま』の板東が出演した回は、ネット局のフジテレビ(関東広域圏)では放送されなかった。TBSでも、衛星放送(TBSチャンネル)で以前から不定期に放送している『金曜日の妻たちへ』シリーズを、脱税発覚後は板東が出演していない第1シリーズに限って再放送を繰り返していた。ただし、TBSでは板東が出演した系列局制作のネットワークセールス番組(2014年12月21日放送の毎日放送制作『今だから言えるナイショ話』など)については差し替えずネット受けした。

その後、在京キー局でも単発番組へのゲストでは徐々に出演が再開され、2018年9月28日放送の『今夜解禁! ザ・因縁』で久々にTBSテレビ制作番組に出演し、草野仁とも対面した。

その一方で、ラジオ番組については、2014年のナイターオフ編成から毎日放送で『板東英二のおばあちゃんと話そう』のレギュラー放送を再開。また、ラジオ関西で新しい冠番組『板東・板東・晴れ・板東!』が始まったほか、『師岡正雄 サタデーショウアップスポーツ』(ニッポン放送)内で「板東英二のプロ野球バンバン伝説」というレギュラーコーナーを持つようになった。

2015年には、『バラいろダンディ』の特別企画で、マルタ国際マラソン(2月22日開催)のウォーカソン(ウォーキング&マラソン)部門に日本人最年長の74歳で出場。21kmのコースを完走した。3月12日には、芸能活動再開後初めての著書『板東英二の生前葬』を双葉社から発売。5月29日には、『MBSベースボールパーク』(毎日放送ラジオ)の埼玉西武ライオンズ対阪神タイガース戦(西武プリンスドームのナイトゲーム)中継で、ゲスト扱いながら野球解説者としての活動を本格的に再開した。

2016年からはかつて野球解説者として出演していたニッポン放送のプロ野球中継 『ニッポン放送ショウアップナイター』のゲスト解説者として不定期ながら出演していた。

2016年9月4日、YouTubeに『B.E.(Boiled Egg)チャンネル』を開設し、サングラスを掛けて「B.E.」と名乗り、YouTuberとしての活動を開始した。初投稿分では、吉本興業所属のダンスユニット・エグスプロージョンの『本能寺の変』を踊り、その他に好物のゆで卵を取り扱ったものや、元高校球児の運動神経を生かした動画等を投稿した。だが、その評判は芳しくなくチャンネル登録者数も思ったより伸びず、初投稿から5ヶ月後の2017年2月17日付を最後に、動画の投稿は一切更新されていない。

なお、2017年9月20日に放送された『良かれと思って!』(フジテレビ)のスタジオ収録では、前述した植毛をめぐる事情について改めて釈明。一時は耐用期間が2週間に満たない人工毛(1本180円)を3万本以上植えていたものの、2週間に1回の植毛で費用が嵩んだため、現在は前頭部にアデランス製のカツラを着用していることを告白した。

ところが、2018年3月を以って板東自ら吉本興業との所属契約を解除。以後は、ラジオ番組のパーソナリティをメインに活動していた。

しかし、2020年7月22日に毎日放送でのレギュラー番組の収録に現れず、同月中旬に大阪の自宅近所で転倒して頭部分を強打、総合病院に緊急入院したことを同局番組プロデューサーが明かした。この事故を境に出演復帰することはなく、同年の9月末限りでラジオ番組打ち切りに伴うレギュラー全番組終了と、板東がゲスト出演したテレビのバラエティ番組のロケVTRがお蔵入りになったこと、さらには大阪の自宅を引払い東京に居住する娘の自宅への転居などが重なり、週刊誌やタブロイド紙では「事実上の芸能界引退」との報道記事が躍った。

かつて板東と旧知であり、当時芸能リポーターとして活動していた井上公造は、2020年10月に自身の取材結果として、板東の近況とコロナ禍である点に鑑みた上で「現在は未だ体調が回復せず仕事復帰に慎重姿勢だが、『生涯現役の拘り』は変わらないと主張し、芸能界復活の意志を持っている」と説明した。しかし2021年3月にスポーツライター・小林信也が、板東への取材を試みたが体調不良の為外部との接触を絶っており、全くコンタクトは取れなかったという。

2023年7月27日、第105回全国高校野球選手権・徳島予選で徳島商が優勝し、12年振り24回目の夏の甲子園出場を達成した。しかし、同校OBの板東がコメントを発表することは無く、またNEWSポストセブンの取材により、2021年末限りで個人事務所を閉鎖していた事が判明した。2023年に坂東の親族へ取材したFLASHの報道によると、実姉でさえ板東の消息を一切把握出来ず、更に長女から「誰にも何も言わないで」と口止めされたとの事。後日同誌は、娘2人に再度取材を試みたが明確な回答を得られず、板東の音沙汰は全然掴めなかったと報じている。

詳細情報

年度別投手成績

記録

初登板:1959年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、5回裏に救援登板、3回3被安打2失点

初勝利:1959年7月2日、対国鉄スワローズ11回戦(後楽園球場)

オールスターゲーム出場:3回 (1960年、1966年、1967年)

背番号

30 (1959年 - 1960年、1963年 - 1964年)

14 (1961年 - 1962年、1965年 - 1969年)

芸能人として

中日の投手時代に背番号「14」に因んで「十姉妹(ジュウシマツ)」と呼ばれたほどの饒舌振りが評価されて、現役引退を機に、CBCの野球解説者へ就任。また、「漫画トリオ」を解散したばかりの上岡龍太郎と知り合ったことを機に、『ばつぐんジョッキー』『オー!サンデー!』(いずれもCBCラジオで放送された生ワイド番組)のパーソナリティを務めた。

野球解説者としての契約の解除を機に、CBCのレギュラー番組を全て降板した1980年からは、上岡や漫画トリオ時代の相方・横山ノックを頼ってタレント活動の拠点を関西へ移した。素人同然の話術で当初は苦戦したが、「何もなくても、大声を出しながら一生懸命やっていれば、他人に『面白いことを言っている』と錯覚させることができる」という上岡のアドバイスで、漫談や上岡との漫才にも挑戦。やがて、『THE ビッグ!』シリーズ(朝日放送制作の視聴者参加型ビンゴゲーム番組)のメインMCとして「ビンゴブーム」に大きく貢献するなど、在阪のテレビ・ラジオ局でも数々のレギュラー番組で人気を博した(詳細後述)。上岡が板東を関西に呼び寄せたのは、前述の事情とテレビ局スタッフから「面白いタレント居らへんか?」というオファーがあったことによる。そのような経緯から、板東は上岡のことを「恩人であり師匠でもある」と語っている。なお、関西からの東京進出で全国的に知名度が上がってからは、名古屋からも番組やイベントへの出演依頼が再び舞い込むようになった。2001年には第12回CBC小嶋賞を受賞している。

東京にも進出し、本格化していた芸能活動が落ち着いたかに見えた2000年代後半。明石家さんまらとのゴルフから生まれた名言「勝ちたいんや!」に代わり「売れたいんや!」と、本人曰く「再ブレイク」すると宣言。現役時代やゆで卵に関するエピソードらを引っ提げて2008年頃からテレビ出演が増えだし、再ブレイクを果たしていた。

2008年3月12日放送の『クイズ!ヘキサゴンII』(フジテレビ)で、司会者の島田紳助、同チームの渡辺正行、別チームで水落ち担当の優木まおみに薦められて水に落ちる最高年齢記録を更新したが、3か月ほどで村田満に更新されてしまった(2008年8月6日放送で初共演した)。

2009年3月12日、毎日放送で番組の収録をしていた時、新譜の告知で同局を訪れていたMR. BIGのボーカル、エリック・マーティンに、サインを頼まれる。

ものまねタレントの大平シロー、コージー冨田、松村邦洋、かみじょうたけしなど多くの人にものまねされている。なかでも、かみじょうのものまねは板東英二本人が公認しているほどである。

司会者・解答者

1979年8月から『THE ビッグ!』のメインMCを担当。「ビンゴシュート!」の掛け声とともに投球フォームを披露した。

1980年代の土曜昼に放送されていた『ノンストップゲーム』(関西テレビ)では司会として、横山ノックや桂文珍と共に人気を博す。1984年、フジテレビ主催の「第12回 日本放送演芸大賞」で、最優秀ホープ賞を受賞している(ホープ賞はコント赤信号、片岡鶴太郎、桂文福、斎藤ゆう子、三遊亭小遊三、山田邦子で、大賞はタモリが受賞しているなど、逸材が揃っていた)。

1980年代から2001年ごろまで、クイズ番組に司会および解答者として多く出演(『クイズのりもの講座』、『わいわいスポーツ塾』、『マジカル頭脳パワー!!』、『スーパークイズスペシャル』、『クイズ!純粋男女交遊』など)、解答者の意見を一方的に遮断する威圧的な司会術で人気を博す。特に『マジカル』では、相方の永井美奈子やパネラー達との絶妙なやりとりが人気となり、ピーク時には毎週20%を超え、時には30%台に達することもあるなど驚異的な高視聴率番組となり9年間という長期続くロングラン番組となった。期間が長かったこともあり最終回では通常通りこなした司会であったが、打ち上げでは号泣したという。番組内容によって関西弁と標準語を使い分け、自身が司会を務めるクイズ番組では標準語を使うことが多かった。『マジカル』終了後は、クイズ番組の司会者としての仕事はあまりない。元スポーツ選手で引退後に芸能界に進出し、クイズ・バラエティ番組の司会者で成功したのは板東ただ一人であり、「元野球選手で天下を取った男」として一役全国区となった。

1984年に児玉清が盲腸の破裂による急性腹膜炎で入院した結果、司会を務める『パネルクイズ アタック25』(朝日放送)に出演できなくなった時、板東が代理司会として10月14日と28日の2週にわたって抜擢されたことがある。その他、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(日本テレビ)でも、当時胃ガンで休養→死去した逸見政孝の代理司会を担当したこともある。板東は後年『クイズ!紳助くん』(朝日放送)で行われた『アタック25』のパロディに解答者として出演している。

俳優活動

自身と同じ徳島県出身の脚本家・鎌田敏夫による発案で、1984年には、鎌田の脚本による『金曜日の妻たちへII 男たちよ、元気かい?』(TBS)で俳優デビュー。板東自身は「(ワンシーンに出演する程度の)チョイ役」のつもりで出演依頼を引き受けたが、篠ひろ子の相手役として、レギュラー出演を果たした。

翌1985年には、『毎度おさわがせします』に中山美穂の父役、金妻シリーズの第3作目『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』(いずれもTBS制作)にも小川知子演じる山下由子の夫(山下宏治)役で出演した。同局制作の連続ドラマでは、2007年にも、『華麗なる一族』(TBS)第4話に水谷通産大臣役で登場。2009年3月で放送が終了した『ひるドラ』の『オーバー30』(中部日本放送制作分)と、『愛の劇場』の『大好き!五つ子完結編』(TBS)という、TBS系の2つの帯ドラマの最終作品にもレギュラーで出演した。

1989年には、向田邦子原作の映画『あ・うん』で高倉健と共演。自身も、同年の第2回日刊スポーツ映画大賞で助演男優賞、翌年の第13回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、第32回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞している。高倉とは、その後も『四十七人の刺客』『鉄道員(ぽっぽや)』でも共演した。

演じている役のほとんどが関西出身者と設定されている関係で、俳優としては関西弁で演技することが多い。『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』第3話「いっちゃん好きや!」では、妻役の小川による不倫を許すシーンにおいて、「(『一番好きだ』という意味の関西弁である)いっちゃん好きや!」という台詞をアドリブで連呼。放送後には一時、「いっちゃん」が流行語になった。板東は、このアドリブについて、「(台本にあった)『お前のことが一番好きだ』という台詞が、関西の人間にはこそばゆく感じられるので、自分流に『いっちゃん好きや』と言った。台詞の棒読みしかできないような人間が口にした言葉が、たまたま人気になるんだから、『世の中ええ加減(いい加減)なもんや』と思った」と述懐している。

1993年4月から9月までは、NHK連続テレビ小説『ええにょぼ』(NHK大阪放送局制作)において、戸田菜穂が演じるヒロイン・朝倉悠希の父親・源太郎役を演じていた。同月9月18日には、『ええにょぼ』第144回(源太郎が末期の癌で息を引き取る回)を放送した直後に『土曜大好き!830』がスタート。板東は、オープニングにアップの映像で登場すると、にこやかな表情で視聴者に向けて『ええにょぼ』での臨終シーンを報告した。その一方で、2010年にワンシーンだけ出演した映画『きな子〜見習い警察犬の物語〜』の舞台挨拶では、17回もNGを出したことを監督から暴露された。

ラジオパーソナリティ

1984年、『それゆけ金曜!! 板東英二』(毎日放送)の放送が始まると毎週、実の母親から放送局に苦情の電話が入っていた。内容は、「板東の母です!」「お願いですから英二を黙らせて下さい!」「あの子はホンマに嘘ばっかり吐いて…」「英二の言う事は信じんといて下さい!」「皆さんにはご迷惑ばっかりお掛けしまして」といったものであった。あまりにしつこいのでスタジオに繋いだ事も複数回あり、放送中に板東は怒られ、共演者はひたすら謝られていた。

この頃、電話コーナー「おばあちゃんと喋ろう」がスタートする。

聴取者から田舎のおばあちゃんを紹介してもらい、板東が事前連絡なしで直接電話をする。

板東は絶対に名乗らず、名前を聞かれると「僕やがなー!」「忘れたんかいな!かなんなー!」「名乗るほどの者でもございませんが…○○さんのおばあちゃんですね?」を繰り返しながら、巧みにおばあちゃんの近況を聞き出したり、電話口で十八番を唄ったりという電話のやりとりをそのまま放送。

20分程度喋ったところで「(名産品やお金を)送ってーな!」とねだりだす。

最後に「わたくし板東と申しますがー!」と正体を明かすが、声で早々に判る人や最後まで信じない人もいた(名乗りそびれも複数回あった)。

このコーナーで話したおばあちゃんが感激し、生きたニワトリ100羽を当時千里丘にあった毎日放送に送ってきたことがあり、大混乱の末送り返した事態は語り草となっている。

オレオレ詐欺(振り込め詐欺)が流行し始めると、所轄の警察幹部から「オレオレ詐欺の考案者は板東さんですよ!!」と怒られ、『板東英二金曜生BAN BAN』等で複数回ネタにしている(これ以降、事前連絡が入るようになる)。

このコーナーは好評で、『金曜生BAN BAN』が終了後も、『板東英二のおばあちゃんと話そう』という番組で、2020年9月まで存続していた。

交友

プロ野球・芸能界の双方で一定の実績を残していることから、幅広い交友関係を持つ。プロ野球関係者では、自身と同学年の王貞治や、中日時代のチームメイトだった権藤博・星野仙一らと仲が良い。また、自身は政界から距離を置きつつも、同郷の政治家・後藤田正晴から知遇を得ていた。

王との間には、年齢が同じであることに加えて、「高校時代に投手として甲子園の全国大会で活躍」「高校からの卒業を機にセントラル・リーグの球団へ入団」「同リーグの一軍公式戦に1年目から出場」といった共通点がある。ただし、高校時代には対戦していない。また、野球解説者に転じてからも、公の場で王に言及する際には王を呼び捨てにしている。

板東より年齢が7歳も年下(学年は6つ下)の星野は、板東が現役を引退する1969年に中日へ入団したため、1年だけチームメイトになった。そのような関係であったにもかかわらず、板東は野球解説者やタレントとして星野と接するたびに、星野を「監督!」と呼んで敬語で接していた(板東は後年、星野の人となりについても「闘志あふれる男と言われるがあれは星野の実像ではない。交代も自分から替えてくれと言った方が多いのではないか。ホントは気の小さい男なのだ」「巨人相手に投げるのが生き甲斐だなんて言っているが広島戦の方がよっぽど一生懸命投げていた。その方が勝星につながるからだ」と語っている)。逆に星野は、板東を「板ちゃん」と呼びながらも、公の場では板東に敬語を使わなかった。なお、2018年1月に星野が70歳で永眠した直後には「まさか、(1997年に永眠した)奥様も含めて自分が見送ることになるとは、さびしい限りです。すぐに後を追いますので待っていて下さいね」というコメントで星野を偲んだ。

金妻シリーズや『金曜日には花を買って』『毎度おさわがせします』で共演した篠、香坂みゆき、佐藤B作とは、現在に至るまで親交が深い。後に司会を務めた『土曜大好き!830』(関西テレビ)で、香坂は女性アシスタントとして板東とタッグを組み、篠はこの番組の第1回と最終回の放送で記念ゲストとして、B作もこの番組のゲストとして何度も迎えられている。

また、『あ・うん』への出演をきっかけに、高倉とも25年以上にわたって交流。高倉から折に触れて、高級腕時計、花束、直筆の手紙を贈られるほどの間柄にまで発展した。高倉の逝去(2014年11月10日)直後にゲスト出演した番組や、2015年発売の著書『板東英二の生前葬』では、高倉との公私にわたる交流や秘話を披露している。

10歳年下の和田アキ子とは、「板ちゃん」、「アッコ」と呼ぶ関係である(芸能人においては、板東と和田は、年下の先輩と年上の後輩という関係である)。年下である明石家さんまや島田紳助などからは「板東さん」と呼ばれるが、同じ年下であるやしきたかじんなどからは「板ちゃん」と呼ばれている。

黒柳徹子とは『世界・ふしぎ発見!』(TBS)で初めて共演したが、始めから黒柳を「オバン!」呼ばわりし(関西弁で「おばさん」という意味。黒柳曰く、神戸出身ながら「オバハン!」を聞きなれないため、こんばんはの意味の「おばん」と解釈した)、黒柳を驚かせたという。「オバン!」以外には「お母さん」と呼ぶこともある。黒柳は、関西での板東の番組のゲストに名乗り出ることもあり、正しくない関西弁で板東の素顔を語っている。黒柳は、野球に対する知識がまったくないが、内容を吟味しているのか、会話が混乱することはない。

島田紳助が駆け出しのころ、板東のラジオに出演した際破格のギャラを提示し、躊躇う紳助に対し「売れて返してくれたらいい」と答え、紳助は意気に感じたという。その後、珍プレー特集の司会者として長年紳助と共演した。

明石家さんまとも長年交流が深く、さんまが板東本人のものまねを披露したり、プライベートでよくゴルフを一緒にすることや『痛快!明石家電視台』『さんまのまんま』『恋のから騒ぎ』『踊る!さんま御殿!!』『さんまのSUPERからくりTV』『明石家マンション物語』『明石家ウケんねん物語』『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』など、多くのレギュラー・単発特番含めさんまが司会の番組へスタジオ・VTR・ロケ問わずゲスト出演している。妻の訃報を、徳島のいとこのほか、娘を通じてさんまにだけ伝えた。

2000年に元付き人で、自分の番組で共演もしていた桂春彦から7億円を脅し取られそうになったが、春彦が逮捕されて未遂に終わった。

CBCの野球解説者だった1970年代後半には、東海地方における板東の人気を「少なくとも50万票の獲得が見込める」と評価した自民党が、板東に対して国政選挙への出馬を要請。2,000万円もの選挙資金を用意したり、当時の内閣総理大臣で総裁でもあった福田赳夫との面会の場を設けたり、名古屋で開いた総決起集会の司会を板東に任せたりした。板東自身も、「事業で抱えた借金を選挙資金で返せる」という思惑を持ちながら、出馬に意欲を見せていた。しかし、板東から相談を受けていた当時のCBC報道局長や、家族からの諌言(詳細後述)によって出馬を断念。板東自身は、この一件を機に、政界から距離を置くことを一貫して表明している。

その一方で、1983年の第37回衆議院議員総選挙の最中には、当時の内閣官房長官で自民党から出馬していた後藤田の選挙事務所を突如訪問。「『後藤田と面識がある』と思われれば、視聴者が自分のことを見直すだろう」という打算の下に、自身の番組に後藤田を出演させようと秘書に交渉した。板東自身が後藤田のライバル・三木武夫と同じ徳島商業のOBであることから、「三木陣営のスパイではないか」と警戒した秘書は、板東に対して後藤田陣営の総決起大会での応援演説を依頼。結局、投票前日(土曜日)に徳島市民会館で開かれた大会で、満員の観衆を前に演説する羽目になった。後藤田自身も、「前述の交渉での約束を果たしたい」という理由で、選挙の数年後に『板東英二のわがままミッドナイト』(徳島県内の大半の地域でも視聴できた毎日放送土曜深夜の生放送番組)を放送中の毎日放送千里丘放送センターを突然訪問。秘書すら連れず、土曜日の深夜に同センターを訪れた後藤田を、板東は急遽スペシャルゲストとして同番組に迎えた。後藤田の逝去後に刊行された追悼文集には、歴代の内閣総理大臣や衆議院議長を初めとする政官界の重鎮の寄稿とともに、板東の追悼文も掲載されている。もっとも、三木は生前、板東の東京の自宅近辺に居住していた。そのため、板東が三木の妻・睦子と会った際には、後藤田との関係を知る睦子から直々に「裏切り者」と呼ばれたという。

執筆活動

1984年に、当時のプロ野球や自分の現役時代の裏話を集めた『プロ野球知らなきゃ損する』『プロ野球これだけ知ったらクビになる』を執筆。それぞれその年の1位、2位のベストセラーとなり、以後人気シリーズとなる。

なお、著書の執筆やスポーツ紙への寄稿に際しては、ゴーストライターを一切使わないことを強調している。これは、自分を事実上の中日初代リリーフエースに育て上げてくれた近藤貞雄にも、「自分で書かないとボケますよ」とのアドバイスを送っている。

歌手活動

1974年、CBCラジオ『ばつぐんジョッキー』に当時愛知県在住の大学生だった山本正之が「燃えよドラゴンズ!」を録音テープで投稿し大きな人気を呼んだため、急遽番組企画としてレコードを吹き込んだところ、中日の優勝も相まって大ヒットを記録した。未だに同球団の正式な球団歌は知らなくとも、この歌は知っているというドラゴンズファンは多い。同曲は、現在では、準球団歌的な扱いとなっており、歌の中に選手名が織り込まれている事もあって、折々に新しいバージョンがリリースされている。板東はオリジナル版のほか、1982年版、2000年版も歌っている。この間、中日の本拠地が中日球場→ナゴヤ球場→ナゴヤドーム(1997年から)と2度変わっているが、そのバージョンを歌ったのは板東と作詞作曲者である山本正之の2人のみである。

「燃えよドラゴンズ!」シリーズ以外でも、ソロ歌手として1976年に「あやまち」というシングルレコードを東芝EMIから発売し、1984年には上岡竜太郎・香月美保子との共演で「よくある酒場の物語」を発表している。

2024/06/12 20:50更新

bandou eiji


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