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三笠宮崇仁親王の情報 (みかさのみやたかひと)
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【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

三笠宮崇仁親王の情報(みかさのみやたかひと) 皇族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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三笠宮 崇仁親王さんについて調べます

■名前・氏名
三笠宮 崇仁親王
(読み:みかさのみや たかひと)
■職業
皇族
■三笠宮崇仁親王の誕生日・生年月日
1915年12月2日 (年齢100歳没)
卯年(うさぎ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
東京出身

三笠宮崇仁親王と同じ1915年生まれの有名人・芸能人

三笠宮崇仁親王と同じ12月2日生まれの有名人・芸能人

三笠宮崇仁親王と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


三笠宮崇仁親王と関係のある人

木村政彦: しかし倒閣に賛成していた三笠宮崇仁親王が、計画の過激化を恐れ密告したことにより失敗に終わった。


高円宮妃久子: 三笠宮崇仁親王が総裁を務めた第31回国際アジア・北アフリカ人文科学会議(1983年8月31日 ~9月7日、東京・京都にて開催)で、三笠宮の通訳・助手を務めた。


山下奉文: それは皇族も同様で、陸軍に軍籍を持っていた朝香宮鳩彦王、梨本宮守正王、東久邇宮稔彦王、三笠宮崇仁親王、賀陽宮恒憲王の宮家が協議した結果、山下を陸軍大臣に推薦する旨、天皇に上奏しようと画策していた。


八田一朗: 俳句を通じて三笠宮夫妻らと交友を深め、1948年の国民体育大会からレスリングが正式採用されたのも三笠宮崇仁親王の尽力があったからという。


三笠宮寛仁親王: 父の三笠宮崇仁親王の教育方針は「放任主義」で、「子供の頃は『勉強をしろ』と言われたことが無かった」という。


吉葉山潤之輔: 横綱としてはあまり活躍できなかったが、後援者の中には三笠宮崇仁親王が含まれ、後援会長は福田赳夫が務めた。


昭和天皇: 弟に、秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)、高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)、三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)の3人がいる。


阿南惟幾: この頃には、戦局の悪化に伴って阿南陸軍大臣待望論が強まっており、ダバオで阿南と面談した三笠宮崇仁親王は「阿南は人格高潔、部下は心服し、海軍との関係も良い、阿南が南方第一線を指揮することはもっとも必要であるが、陸軍大臣として活動してもらうことはそれ以上必要である」と帰国後に東久邇宮稔彦王に進言しているなど、この異動は阿南の陸軍大臣就任を見据えて、陸軍中央が外地から呼び戻したという意味合いが大きかった。


河原敏明: 「三笠宮崇仁親王には双子の妹がおり、皇籍から存在を抹消され門跡寺院の尼僧になった」という説を繰り返し主張しているが、尼僧当人や、証言したとされる関係者には否定されている。


高松宮宣仁: 開戦後も宣仁親王は和平を唱え、嶋田海相の辞任や東條内閣の総辞職を度々主張し、後の終戦後史上唯一の皇族の総理となる東久邇宮稔彦王、弟・三笠宮崇仁親王等の和平派皇族や、米内光政元首相等をはじめとする海軍左派、近衛文麿前首相及び、首相を戦後に務める吉田茂等の政界の和平派と結んだ。


高松宮宣仁: 結果的に、長兄・昭和天皇(7人:2男5女)、弟・三笠宮崇仁親王(5人:3男2女)と違い、宣仁親王は次兄・秩父宮雍仁親王同様に子女は無く、夫妻の血筋は遺されていない。


秩父宮雍仁: 昭和天皇は兄、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。


常陸宮正仁親王: 皇室では叔父の三笠宮崇仁親王とともに学者として豊富な研究成果を挙げており、高い評価を受けていた。


田中智學: 『天皇及三笠宮問題』では紀元節に反対した三笠宮崇仁親王を攻撃した。


高円宮妃久子: 日本サッカー協会総裁としてではあるが、皇族の公式な韓国訪問は、高円宮夫妻が第二次世界大戦後初である(※それ以前には、韓国最後の皇太子李垠やその妻・李方子の葬儀などに参列するため秩父宮妃勢津子、高松宮宣仁親王、同妃喜久子、三笠宮崇仁親王、同妃百合子、寬仁親王が韓国を訪問したことがあるが、公式訪問ではない)。


稲盛和夫: 1985年には同財団主催の京都賞を創設し、同年第1回授賞式で三笠宮崇仁親王夫妻やスウェーデン王国シルヴィア王妃列席の下、ノーベル財団に特別賞を授与した。


東條英機: 津野田は陸軍士官学校時代に同級生であった三笠宮崇仁親王に計画を打ち明けた。


細川護煕: 文芸春秋での実弟・忠煇の発言によれば、護煕は細川家次期当主と言えど、当時、三笠宮崇仁親王の長女・甯子内親王と結婚したばかりの忠煇より知名度が低く、忠煇自身も政界進出には否定的だったという。


高円宮憲仁親王: 1954年(昭和29年)12月29日、三笠宮崇仁親王の三男として誕生。


辻政信: 澄宮(後の三笠宮崇仁親王)が陸士本科に入学する予定であったことが関係しているとみられる。


高円宮憲仁親王: 日本サッカー協会総裁としてではあるが、皇族の大韓民国訪問は、高円宮夫妻が第二次世界大戦後初である(※それ以前には、韓国最後の皇太子李垠やその妻・李方子の葬儀などに参列するため秩父宮妃勢津子、高松宮宣仁親王、同妃喜久子、三笠宮崇仁親王、同妃百合子、寬仁親王が韓国を訪問したことがあるが、公式訪問ではない)。


近衞忠煇: 妻:近衞甯子 - 三笠宮崇仁親王の第一女子・甯子内親王(元皇族)


田中卓: 当時、「2月11日」について反対の意を表明していた三笠宮崇仁親王に進呈した。


三笠宮寛仁親王: 1946年(昭和21年)1月5日、神奈川県葉山町の三笠宮御假寓所(三井家別荘)にて、三笠宮崇仁親王と百合子妃の長男として誕生した。


三笠宮寛仁親王: 三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第1男子(3男2女のうち第2子)。


石原莞爾: 計画は、東條が乗っているオープンカーに向けて、皇居二重橋前の松の樹上から青酸ガス爆弾を投げ付けて東條を暗殺するというものであったが、内閣打倒までは賛同していた三笠宮崇仁親王に対して津野田が計画の細部を打ち明けたところ、東條の暗殺までは容認できなかった三笠宮が憲兵隊に通報した為に津野田と牛島は逮捕された。


江沢民: また、江の回顧録では、この宮中晩餐会で、同席した三笠宮崇仁親王から「今に至るまでなお深く気がとがめている。


細川護熙: 文芸春秋での実弟・忠煇の発言によれば、護煕は細川家次期当主と言えど、当時、三笠宮崇仁親王の長女・甯子内親王と結婚したばかりの忠煇より知名度が低く、忠煇自身も政界進出には否定的だったという。


板垣征四郎: 板垣を慕った本部附きの辻政信とともに起草した 「派遣軍将兵に告ぐ」 で日満支三国による東亜連盟結成を訴え、板垣と会談した宮崎らは嘱託となり、辻の部下津野田知重は同じ派遣軍勤務の三笠宮崇仁親王とのちに東条暗殺を計画するなど支那派遣軍は和平工作の拠点となった。


近衞忠煇: 1966年(昭和41年)に三笠宮崇仁親王の長女・甯子内親王と結婚した。


三笠宮崇仁親王の情報まとめ

もしもしロボ

三笠宮 崇仁親王(みかさのみや たかひと)さんの誕生日は1915年12月2日です。東京出身の皇族のようです。

もしもしロボ

皇族議員として、人物などについてまとめました。現在、卒業、結婚、事件、姉妹、解散に関する情報もありますね。100歳で亡くなられているようです。

三笠宮崇仁親王のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大正4年〉12月2日 - 2016年〈平成28年〉10月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人、歴史学者(古代オリエント史)。三笠宮家初代当主。御称号は澄宮(すみのみや)、お印は若杉(わかすぎ)。身位は親王。敬称は殿下。勲等は大勲位。最終階級は陸軍少佐。

第126代・今上天皇(徳仁)の大叔父。

大正天皇と貞明皇后の第4皇男子。昭和天皇は兄(長兄)、第125代天皇・現上皇の明仁は甥。

現在の皇族には彼の孫が3人おり3人共女子である(息子3人は逝去、娘2人と孫2人は皇籍離脱)。

1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四男子として誕生。

3人の兄(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)は明治生まれ即ち父である大正天皇がまだ皇太子であった時にその男子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育された。一方で、崇仁親王はすぐ上の兄である宣仁親王から10歳年下、長兄・皇太子裕仁親王から14歳年下であり、「末子を手元で育てたい」という両親の意向が貫かれ、御所で養育された。

学習院初等科・中等科を経て、1936年(昭和11年)に陸軍士官学校(第48期、兵科:騎兵)を卒業。陸士在校中は、辻政信が自ら願い出て教育を担当した。辻とはのちに同じ支那派遣軍で勤務している。

在校中の1935年(昭和10年)の成年式に伴い、「三笠宮」(みかさのみや)の宮号を兄帝より賜り、同時に大勲位に叙せられる。陸軍騎兵学校を経て、士官候補生時代に指定された原隊たる騎兵第15連隊で小隊長、続いて中隊長を務めのちに陸軍大学校(第55期)を卒業する。

1935年(昭和10年)に成人したことに伴い、帝国議会上院の貴族院議員となる。下記の通り、活動実績はあまりないが、1946年(昭和21年)までの11年間に及んで議員(貴族院議員)の職を務めた。旧憲法下では、皇太子と皇太孫以外の皇族議員(男子)は満20歳になると同時に自動的に貴族院議員となることや、成年男性の皇族は原則として大日本帝国陸軍または大日本帝国海軍軍人であることから、皇族議員が議事に加わることは稀であったため、活動実績が皆無であることは皇族議員として一般的である。

1941年(昭和16年)10月22日、子爵高木正得の次女高木百合子と結婚。近衞甯子(甯子内親王)、寬仁親王、桂宮宜仁親王、千容子(容子内親王)、高円宮憲仁親王の三男二女の5人の子女をもうけた。

父の大正天皇
父の大正天皇

母の貞明皇后
母の貞明皇后

1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後、陸軍大尉時代の1943年(昭和18年)1月から翌1944年(昭和19年)1月まで、コードネーム「若杉」(姓は印にちなんで作られた)として、南京市の支那派遣軍総司令部に勤務。三笠宮は「日本軍は中華民国との戦争が長引き戦闘が泥沼状態になっており、軍紀が乱れている者が一部いる事を深く反省すべきである」と畑俊六総司令官に言い、対中政策のブレーキ役となった。

総司令部は、着任に際して部隊内に通達を出し、勤務中の接遇及び食堂での食事の際の礼遇について周知している。若杉の正体は陸軍省上層部に秘匿されていたため、部内にはかなり後期まで若杉が三笠宮であることを知らない者も多かった。支那派遣軍勤務中には、中国語のエキスパートであった通訳の木村辰男から中国語と中国事情を学んでいる。また、中国共産党の八路軍に興味を持ったことは、後のオリエント考古学への関心に影響を与える。その後、大本営参謀に転出。

日本帰国後、戦争終結を摸索し、同僚の津野田知重陸軍少佐らと共に東條内閣打倒のクーデター計画を立てるが、東條英機首相暗殺、主戦派数百名大量粛清などその過激な内容に躊躇し、自ら憲兵隊に通報。津野田らは逮捕され、クーデター計画は未遂に終わった。成功時には支那派遣軍総司令官の職に就く予定であったと言われる(津野田事件)。

事件への関与は明白ではあったが不問に付され、1944年(昭和19年)9月、願い出て陸軍機甲本部付に異動になる。津野田はじめ他の将校も軽度な処分で済まされた。こうした経緯があったためか、1945年(昭和20年)4月に長兄・昭和天皇に対面を願い出た時には「『何を言うつもりなのかな』と天皇が不安がった」とも言われる。終戦時の階級は陸軍少佐・航空総軍参謀であった。1945年(昭和20年)8月12日に皇族会議が召集されて、昭和天皇が終戦の決意を語り、三笠宮は「忠実に実行したい」と語った。8月13日に陸軍大臣阿南惟幾が「昭和天皇に徹底抗戦に翻心させよう」と三笠宮に説得を願い出たが「陸軍は陛下の大御心に反する」と断り、阿南を叱責した。

3人の兄たち(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)とは年齢も離れた四男であり(大正天皇の4人の皇男子のうち唯一の大正時代生まれ)、皇位継承の可能性が低かったことから、かなり自由な立場で行動した。

1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職。1947年(昭和22年)4月に東京大学文学部(旧制東京帝国大学)の研究生となり、歴史学を学修した(専攻はオリエント史)。

1946年(昭和21年)1月、第1男子寬仁親王が誕生。1947年(昭和22年)、東京都品川区上大崎長者丸の邸宅を三笠宮家が購入し転居、以後13年間御仮寓所とする。この地は1985年にプラトーの分譲(清水建設施工)よってマンションになり、館名は崇仁親王の「お印」にちなんで「若杉ホームズ」とされた。

1955年(昭和30年)に東京女子大学講師に就任したほか、青山学院大学、専修大学、天理大学、拓殖大学でも講義を行い、日本オリエント学会の会長も務めた。

1968年には翻訳した『聖書年代学』(ジャック・フィネガン著、岩波書店)が第4回日本翻訳文化賞を受賞している。

1979年(昭和54年)、出光佐三(出光興産創立者)の協力を得て、東京都三鷹市に「中近東文化センター」を設立し、同センター総裁を長く務めた。また出光が中心となってすすめた福岡県宗像市に鎮座する宗像大社の沖ノ島祭祀遺跡の調査が行われた際には立ち会っている。この時に宗像大社沖津宮の前に、槙の木を植樹している。

2006年(平成18年)に中近東文化センター図書室がリニューアルオープンした際には、その功績を記念して「三笠宮記念図書館」と命名された。1991年(平成3年)にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任、また1994年(平成6年)6月にはロンドン大学東洋アフリカ研究学院の名誉会員に就任した。

1950年代後半から「紀元節」(神武天皇即位紀元(皇紀)に基づき、三笠宮自身の父系祖先と伝承される初代天皇・神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年2月11日を「日本建国の日」とするもの)の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者及び歴史学者としての立場から「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」として、「『神話』と『史実』は切り離して研究されるべき」と強く批判し、皇族の身分でありながらも積極的に「紀元節復活反対」の論陣を張った。編著『日本のあけぼの』は、このときに刊行されたものである。このため「赤い宮様」とあだ名された。

当然、紀元節復活を推進する人々は三笠宮を激しく非難し、なかでも里見岸雄や野依秀市は、三笠宮を「無責任」「非常識」「左翼」と罵倒し、皇族の身分を離れることを要求する著作を公表している。右翼団体の構成員が宮邸に押しかけて、面会を強要した事件も起きている。最終的に「紀元節」という旧来の呼称は使用されなかったものの、国民の祝日のひとつとして、2月11日を建国記念の日とすることになり、三笠宮らの反対運動は成功しなかった。

90歳前後から、心臓の僧帽弁に異常が見つかり、度々僧帽弁閉鎖不全で入退院することがあった。

2012年(平成24年)6月14日、長男の寬仁親王の斂葬の儀(葬儀)に出席した翌日の6月15日に体調を崩し、聖路加国際病院に入院した。当初は過労によるものと診断され、1週間の入院の予定だったが、僧帽弁閉鎖不全のため心機能と血圧が低下し、改めて鬱血性心不全と診断された。7月2日には集中治療室に入り、7月11日に川副浩平による手術を受けた。その後再び集中治療室で治療を受け、8月31日に退院した。11月21日には、高円宮邸で行われた三男の高円宮憲仁親王十年式年祭霊舎祭に出席し、退院後はじめて公の場に姿を現した。

2014年(平成26年)6月17日に行われた二男の桂宮宜仁親王の斂葬の儀では、孫である寬仁親王第一女子の彬子女王が喪主代理となり、父の三笠宮崇仁親王は車椅子で参列し拝礼した。

2015年(平成27年)12月2日、百寿(満100歳)を迎え、同時に確かな記録の残る皇族としては初めて100歳となった。

2016年(平成28年)10月27日8時34分、東京都中央区の聖路加国際病院で心不全のため薨去。享年102(満100歳没)。皇位継承順位は第5位であった。

11月4日、葬儀にあたる斂葬の儀が豊島岡墓地で行われた。喪主は百合子妃が務め、司祭長は自身が名誉総裁を務めた日本・トルコ協会の東園基政常任理事が務めた。当時の天皇皇后は「皇族であっても自身らより目下の者の葬儀には参列しない」という皇室の慣例により参列せず、使者として河相周夫侍従長が拝礼した。告別式にあたる葬場の儀には600人が、当日行われた一般参拝には、1335人が参列した。午後、新宿区内の落合斎場で火葬され、豊島岡墓地にある寛仁親王、桂宮宜仁親王、高円宮憲仁親王の墓の近くに埋葬された。

皇族議員として

1935年(昭和10年)12月1日に満20歳に達し、男子の皇族である為、貴族院令の規定により自動的に貴族院の皇族議員となる。皇族議員である為、普通選挙を経ずに議員となった。上記の通り軍人としても活動しており、軍人の政治的関与を好ましくないとする慣例や、皇族議員はほとんど貴族院に出席しないことから、実際の議員としての活動はほぼ見られない。1946年(昭和21年)5月23日、貴族院皇族議員を辞職した。

1946年(昭和21年)10月29日、枢密院本会議において、日本国憲法制定の採決が行われた際、「GHQによるマッカーサー憲法であり、日本人の手によるものではない」として、採決を棄権した。一方で、日本国憲法第9条の非武装中立については支持した。

また、所在が明確かつ存命であった最後の貴族院議員経験者であった。

人物

幼少時より文才を認められ「童謡の宮さま」と呼ばれた。大正時代の詩作品には作曲家・本居長世によって曲がつけられ、本居みどり子・喜美子姉妹が歌うレコードもニッポノホン(日本コロムビア)から発売されている。また、童曲として宮城道雄に曲がつけられたものも存在しレコード化されている。

俳句を星野立子に師事、1957年(昭和32年)に百合子妃と共に『句集 初雪』(新樹社、著名は三笠宮若杉・ゆかり)を、2012年(平成24年)には結婚70周年を機に鷹羽狩行の勧めで『句集 夕虹』を角川書店より出版した。

日本レクリエーション協会総裁として、『レクリエーション随想録』(非売品、1998年)を出している。

古代オリエント史、特にアナトリア考古学を専門とする歴史学者として知られ、長らく東京女子大学、拓殖大学などで古代オリエント史の講義を担当、「宮さま講師」と通称され、1968年にはジャック・フイネガンの『聖書年代学』(岩波書店)の翻訳で第4回日本翻訳文化賞を受賞している。社団法人日本オリエント学会設立にかかわり、同学会会長を務めた。同学会では三笠宮オリエント学術賞が創設された。ほかに岡山市立オリエント美術館名誉顧問なども務めた。

財団法人中近東文化センター(東京都三鷹市)の設立にも尽力。また同センター総裁として、トルコ共和国でのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査を進め、近年は現地における常設の研究機関アナトリア考古学研究所の建設を進めている。ちなみに、同センターの隣には、兄・高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁を務めた国際基督教大学(ICU)があり、大甥にあたる秋篠宮文仁親王・同妃紀子の長女の眞子内親王と次女の佳子内親王の姉妹卒業している。

陸軍時代に支那派遣軍に在籍していた関係から、日中国交回復前夜には中国の招請を受けた。語学にも堪能であり、流暢な中国語・ヘブライ語を操る。学術関係の公務において他の皇族と同席する機会も多い。

『東方学回想 VIII 学問の思い出〈3〉』(刀水書房、2000年)に、護雅夫・中根千枝ら5名と座談会で回想がある。

鉄のカーテンと竹のカーテンになぞらえて「菊のカーテン」という言葉を最初に使ったとされている。

私的な旅行であるにもかかわらず、過度に丁重な儀礼的な扱いを受け、外出が嫌になったことを挙げ、「公私の区別を明確にした対応を希望する」と述べたことがある。

終戦後の心境として「不自然きわまる皇室制度」「『格子なき牢獄』から解放された」ので「生活環境が激変した」と述べている。エピソードとしては、30歳になって独りで誰にも気付かれず、町歩きをしたことを挙げている。

上述のように、公私に渡って皇族として特別扱いされることを強く不満に思っていたので、帝国陸軍において一般将兵と全く同等の待遇を受けることを喜び、週番勤務(週番士官)時など、自由な軍隊生活を非常に楽しんでいた。

    三笠宮は、特に自由な軍隊生活を送っていた騎兵第15連隊時代を懐かしんでおり、第二次世界大戦後は「戦友会」である『騎兵第15連隊将校団会』の名誉会長を務め、同会が2010年(平成22年)に解散されるまで、総会および懇親会に妃と伴に、積極的に出席していた。また、騎兵第15連隊自体の戦友会である『習志野三笠会』の「三笠」は、三笠宮から取られたものである。

    太平洋戦争については「1943年1月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして1年間在勤しました。その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました」「聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけ離れたものであったからこそ、そして、内容が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである」「こうして聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」などと述懐している。

    1971年(昭和46年)に、イランのアケメネス朝建国2500周年を祝ったイラン建国二千五百年祭典に百合子妃とともに日本を代表して出席した。

    1955年より、長野県軽井沢町の「三笠」地区に別荘を所有しており、かつては昭和天皇や上皇明仁らも滞在、自身も晩年まで度々滞在していた。

2024/06/17 07:32更新

mikasanomiya takahito


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三笠宮崇仁親王と近い名前の人

三笠宮 寛仁親王(みかさのみや ともひと)
1946年1月5日生まれの有名人 東京出身

寬仁親王(ともひとしんのう、1946年〈昭和21年〉1月5日 - 2012年〈平成24年〉6月6日)は、日本の皇族。身位は親王。敬称は殿下。お印は柏(かしわ)。勲等は大勲位。 大正天皇の皇孫(四男の…

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三笠宮崇仁親王
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