田中智學の情報(たなかちがく) 宗教家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
田中 智學さんについて調べます
■名前・氏名 |
田中智學と関係のある人
北原白秋: 1924年(大正13年)1月5日、田中智學の招きで両親、妻菊子、長男隆太郎らとともに静岡県三保の田中智學の最勝閣へ旅行し、龍華寺、羽衣の松などを観光、長歌1首、短歌173首を作る。 中里介山: 『都新聞』での連載以後は書き下ろしとして1918年(大正7年)に自費出版、1921年(大正10年)に木村毅から春秋社社主神田豊穂を紹介され同社から出版、菊池寛や国柱会の田中智學の推薦で有名になる。 北原白秋: 1921年(大正10年)、佐藤菊子(国柱会会員、田中智學の元で仕事)と結婚。 石原莞爾: 大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。 高山樗牛: また、田中智學の影響を受け日蓮研究を進めた。 |
田中智學の情報まとめ
田中 智學(たなか ちがく)さんの誕生日は1861年12月14日です。東京出身の宗教家のようです。
家族、現在、解散に関する情報もありますね。1939年に亡くなられているようです。
田中智學のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)田中 智學(たなか ちがく、田中 智学、1861年12月14日(文久元年11月13日) - 1939年(昭和14年)11月17日)は、第二次世界大戦前の日本の宗教家。本名は巴之助。 1911年(明治44年)8月3日~23日までの、三保における第2回の夏期講習会で、はじめて「日本国体学」を提唱する。 1923年(大正9年)11月3日「日本国体の研究を発表するに就いて」の大宣言を天業民報紙上に発表。 宗教家としての智學を窺い知る事ができる主張に「戦争批判と死刑廃止」がある。 それについては以下の記述あり。 平和来らんとすという。善哉。殺人運動の休止は、人類一般の望む処なり。只この大戦(第一次世界大戦)を機として、人間の世に復と斯くの如き悲惨事の根絶せんことを望まざるを得ず。巧に人を殺すことを以て、智識文明の究極と為しつつある間は、政治も哲学も宗教も道徳も、倶にその本領を竭くしたるものにあらず。人類最後の到達点は絶対平和に在り。釈尊と神武天皇とは最も早くこれを高唱して道を布き国を建てたり。日本国体と法華経の事理一雙是なり。 軍備縮小は事理紛糾の種なり。世界万国一斉に軍備撤廃を議し、絶対に武器の製作を厳禁することを提案すべし。平和裁判これによりて真剣となるべし。 残忍性を人間より取去ることを考究せざれば、人の世に平和は断じて来たらず。国際的に公議して、一切に砲火を禁ぜよ。人間の戦は人間らしくすべし、これ戦を止むる漸なり。 元来、戦争と申スものはやむを得ずして行うものにして、平和手段で決し難い場合、変則の方法としてその行詰りを打開するまでの方便ゆえ、勝負だけが目的で、国と国との間にして衝突は生まれ、戦闘に従事する各々の国民は、始めより何等罪あるものでなく、むしろ身をもって国事に殉じたる義人とも申スべきで、これを殺してその生命を奪うことは、人類の最高意識に反している。只一時戦闘力を失わすればそれで沢山、その人の骨まで焼尽くすというに至っては、下等動物より以下の妄昧残虐性を暴露したもので、かかる意味での科学の進歩は、即ち野蛮の逆転に過ぎず。そんな文化はむしろ人間世界の恥辱で厶(ござ)ル 死刑を廃止せよ、ということは法律上の議論でなくて、法律以上の人生道義感から来るもので。世に殺人が公認されない如く、国家も人を殺してはならぬ、ということを原則とする。せっかく世に生まれ出たものを、国家としてこれを殺すということは、天然理法に対する一種の反逆であって、国家の聡明量から照し、又その恩恵量から見て、不合理かつ拙劣な断獄であるというのだ。およそ人を殺すことの公認されるのは国家の戦闘行為ばかりである。しかしこれも第二義であって、純理ではない。 死刑は極刑を意味する。しかし死刑には悔悟の余地が残されない。極刑は殺さずともいくらでも課し得る。しかして悔悟の余地が与えられる。罪を憎んで人を憎まずと、けだし国家司直の精神である。 1939年(昭和14年)11月17日午前1時8分 脳溢血と悪性肺炎の併発により死去。享年79。 16日の夜、臨終近しということで、家族門下一同が集い、夜半から『法華経』寿量品の「自我偈」を幾たびも繰り返し誦していたが、まさにその巻を誦し終わろうとして、「得入無上道速成就仏身」と唱えたその刹那、智學は静かに長く、最後の息を吐き涅槃に入った。お題目唱題数十遍ののち、長男田中芳谷は「明治大正昭和三代に亙る国体開顕の導師、今正しく涅槃に入る」と宣した。 この臨終の様子は、智學の主治医であった、虎の門神経科院長・竜庸夫が「ある宗教家の死」と題して大日本雄弁会講談社(現在の講談社)の雑誌『キング』第30巻第12号1954年(昭和29年)10月特大号に以下の寄稿している。 職業柄随分いろいろの方のご臨終を見とどけましたが、田中智学先生ほど、立派で印象的な臨終はありませんでした。 【中略】 読経は静かに、力強く道場の中に響きつづけました。一段と声高くなり、お経が静かに終わりました。その瞬間先生の脈ははたと止まりました。呼吸はその以前になかったかも知れませんが、読経にきき入って居た自分には判りませんでした。脈の止まった瞬間に、先生の瞳孔がサッと黒目一ぱいに拡がるのを認めました。成仏のお経の終わった一瞬に、先生は死亡されたのです。 【中略】 お断りしておきますが、自分は法華信者ではありません。 長男田中芳谷は父の死後国柱会の会長(寨主(さいしゅ))に就任した。国柱会は1945年(昭和20年)、戦災によって本部講堂を失い、また敗戦に伴い勢力は著しく減退した。国柱会は現在も「純正日蓮主義」を掲げ、在家主義と国粋主義を標榜する団体として独自に活動を行っているものの、「在家主義」や「国立戒壇」、またその独自の右翼思想も時代に埋没してかつての活況を見せていない。寨主の地位は田中家による世襲制となっている。 次男田中澤二は1928年(昭和3年)に立憲養正會の後援のもと第16回衆議院議員総選挙に東京1区から無所属で立候補。落選したが、翌1929年(昭和4年)、父の後を継ぎ立憲養正會総裁に就任した。以後同会は政治団体色を強め、各種選挙に公認候補者を擁立。衆議院選挙では当選者を出したほか、地方議会や農会には最盛期で100人を超す同会所属議員がいた。新体制運動や大政翼賛会には批判的で、1942年(昭和17年)3月17日結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。第二次世界大戦後同会は再建された。澤二は公職追放されたが、衆議院選挙では再び当選者を出した。澤二の死後は振るわず、政界再編の中で同会の勢力は大きく衰えた。以後選挙への候補者擁立は途絶えたものの、政治団体として存続した。 三男里見岸雄は国体学者となり立命館大学法学部教授を務め、同大学に国体学科を増設し主任教授。法学博士号を授与された。1924年(大正13年)12月、里見日本文化学研究所を開設、1936年(昭和11年)2月、同研究所を母体に日本国体学会を創立したほか、立正教団を興した。『天皇とプロレタリア』をはじめ多数の著作を発表、戦前・戦後を通じ言論人として活動した。『天皇及三笠宮問題』では紀元節に反対した三笠宮崇仁親王を攻撃した。 娘の田中望子(大窪梅子)は日本国体学会を引き継ぎ、記紀神話や万葉集の研究を行ったほか、天皇陵保護活動などにも取り組んだ。里見岸雄との共著作もある。 末娘の岩永蓮代は国史学や文化人類学を学び、諸国国分二寺跡保存発願者として日本全国の国分寺・国分尼寺の遺跡の調査保存運動に取り組んだ。啓蒙活動も行い、著作の出版のほか、各地国分寺遺跡地に碑を寄贈している。姉田中望子との共著作もある。蓮代の娘暉子・ホン・バーゲンは現在アメリカ・ニューオーリンズ日本人会副会長を務める。 『師子王全集』全38巻 師子王全集刊行会(うち10巻は自伝。師子王文庫より復刻) 田中芳谷『田中智學先生略伝』 師子王文庫、1953年 日本国体学会『日本の師表田中智学』 錦正社、1968年 田中香浦『田中智學』 真世界社、1977年 田中香浦『田中智學先生の思い出』 真世界社、1988年 末木文美士『明治思想家論 近代日本の思想・再考1』 トランスビュー、2004年 『キング』第30巻第12号1954年(昭和29年)10月特大号P76~P78「ある宗教家の死」大日本雄弁会講談社 田中巴之助『日本国体の研究』真世界社、1981年(昭和56年)復刻 (原著・大正11年発行) 里見岸雄『国体学創建史 上』展転社、平成18年 ^ 日本国体の研究 大正11年発行 (2頁目) アインシュタインの予言 - 智學の著書中の文章が原型であると中澤英雄が指摘している。 石原莞爾 - 国柱会会員の一人。彼と深い繋がりのある満州国の建国理念や著作「世界最終戦論」は日蓮宗の教義解釈の影響を受けている。 宮沢賢治 - 国柱会会員の一人。作品の一部に法華経の影響を受けた物がある。 創価教育学会(創価学会)・霊友会・立正佼成会 - いずれも法華系の新宗教。これらは「国立戒壇」や「在家主義」といった国柱会の思想を受け継いでいる点が多い。 松岡幹夫 (2001年). “田中智学における超国家思想の思想形成史” (PDF). 東京大学大学院 総合文化研究科 国際社会科学専攻. 2009年9月4日閲覧。 大谷栄一. “戦前期日本の日蓮仏教にみる戦争観” (PDF). 千葉大学附属図書館. 2009年9月4日閲覧。 伊勢弘志「思想運動としての『銀河鉄道の夜』」 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 オーストラリア オランダ CiNii Books CiNii Research Trove(オーストラリア)
IdRef この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 新宗教の開祖 日本の政治運動家 日本の死刑廃止論者 戦前日本の人物 還俗した僧 武蔵国の人物 1861年生 1939年没 2024/11/24 01:08更新
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