高山樗牛の情報(たかやまちょぎゅう) 評論家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
高山 樗牛さんについて調べます
■名前・氏名 |
高山樗牛と関係のある人
柳澤健: 文学好きは中学時代からで徳富蘆花、土井晩翠、高山樗牛を愛読した。 生田長江: 『高山樗牛 島村抱月 片上伸 生田長江集』、筑摩書房 現代日本文学全集増補決定版16(1973年)ISBN 9784480100405 三好達治: 小学生の頃から病弱で神経衰弱に苦しみ学校は欠席がちであったが、図書館に通い高山樗牛、夏目漱石、徳冨蘆花などを耽読した。 笹川臨風: 高山樗牛の友人で、ともに「帝国文学」の編集に携わった。 井上準之助: 高山樗牛と同級で、卒業時にはそれぞれ法科と文科の首席を分け合う。 内村鑑三: 内村の論評に対して、高山樗牛が雑誌『太陽』で公開質問状を発表した。 佐藤義亮: 当時、高山樗牛ら赤門派(帝国大学関係)の新人作家や泉鏡花ら尾崎紅葉門下が文壇に登場し、百花繚乱の文学時代が現出しており、文学熱がますます高じた義亮は、1895年(明治28年)3月に積善学舎を辞め上京する。 松久由宇: 野菊の墓・瀧口入道(原作:伊藤左千夫、高山樗牛、暁教育図書、1987年) 戸川秋骨: 『高山樗牛』中央公論 (1907.5) 木村荘八: 二科展や院展洋画部にも出品を重ね、1918年に院展出品作『二本潅木』で高山樗牛賞を受賞した。 土井晩翠: 1899年(明治32年)には高山樗牛の働きかけで第一詩集『天地有情』を刊行。 土井晩翠: 『帝国文学』『反省雑誌』に掲載した作品をまとめた『天地有情』は、久保天随と高山樗牛が博文館の大橋乙羽を説得して出版させたが、年々版を重ねる好評で、島崎藤村と並び称されるようになった。高山樗牛は「調において藤村に及ばず、辞においては遂に羽衣に劣る。これらの詩は瞑想詩とも呼ばれたが、高山樗牛や日夏耿之介はその本質は叙情詩であると述べている。 武島羽衣: 『小夜帖』は高山樗牛から絶賛され、これにより彼の詩人としての名声が高まった。 杉亨二: 次女・里子は高山樗牛の妻。 吉本隆明: 山路愛山、高山樗牛、石光真清、徳富蘇峰、陸羯南、中野正剛、杉本五郎、竹内好 ジャン=フランソワ=ミレー: 1902年(明治35年)には高山樗牛が『文藝界』で『晩鐘』と『落穂拾い』の図版入りでミレーを紹介した。 |
高山樗牛の情報まとめ
高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう)さんの誕生日は1871年2月28日です。山形出身の評論家のようです。
評価、墓所などについてまとめました。卒業、趣味に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
高山樗牛のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1902年〈明治35年〉12月24日)は明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎(りんじろう)。 1871年2月28日(明治4年1月10日)、羽前国鶴岡(現山形県鶴岡市)に生まれた。父は庄内藩士斎藤親信。 1872年(明治5年)、伯父・高山久平の養子になった。養父は山形県、福島県、警視庁などに勤務した。 福島中学中退、東京英語学校を経て仙台の第二高等学校に入学、井上準之助が同級の友人であった。樗牛の号は「荘子」に因むもので高校時代から用いていたといい、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表。 1893年、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。土井晩翠らが級友であった。徴兵忌避のため、本籍を北海道に移したという。 1894年、読売新聞の懸賞小説に、『滝口入道』が入選、新聞連載された(『平家物語』から題材を取ったもので、生前は匿名であった)。『帝国文学』『太陽』などに盛んに文芸評論を発表した。 1896年に大学を卒業。第二高等学校の教授になった。 1986年8月『太陽』(明治29〔1896〕年8月号)に初出の「『今戸心中』と情死」(『樗牛全集』第二巻、博文館)の中で、「天にありては星、地にありては花、人にありては愛。」と書いたのが武者小路実篤の「天に星/地に花/人に愛」(縦書き、句読点なし)の元になったと言われている。 1897年、校長排斥運動をきっかけに辞任。博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。当時は三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いた。一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐっては森鷗外と論争を行った。『太陽』1897年6月に評論「明治の小説」を、9月に「朦朧派の詩人に与ふ」を発表。 1900年、文部省から美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石・芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学の教授が内定していた。しかし、洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。 1901年、留学を辞退した。病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した。この年、東大の講師になり週1回、日本美術を講じた。『美的生活を論ず』(『太陽』1901年8月)は、美の本質を本能の満足にあるとしたもの。北村透谷の影響が見られるが、透谷の近代的な恋愛観とは異なり、本能を肯定する内容になってしまっている。また、田中智學の影響を受け日蓮研究を進めた。『太陽』1902年4月に、「日蓮上人とは如何なる人ぞ」を発表した。 1902年(明治35年)、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与された。肺結核の病状が悪化し、東大講師を辞任、12月24日に神奈川県平塚の杏雲堂病院分院で死去。墓所は龍華寺(現:静岡市清水区)で、墓碑銘に「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」とある。戒名は文亮院霊岱謙光日瞻居士。 評価日本・中国の古典に造詣が深く、欧米の思想にも通じ、美文体を得意とし、文豪と呼ばれた。 日本主義、ロマン主義、ニーチェ主義、日蓮主義など主張の変遷が激しく、急激な近代化で変転した明治思想史の歩みを体現したともいえる。樗牛の説いた日本主義の優勝劣敗論の影響は大きく、当時の小学校教科書にまで樗牛流の表現が多く見られた。 若くして亡くなった点を差し引いても、北村透谷、石川啄木らと比べて思想の浅さが指摘されている。自身が病弱であったため、ニーチェの説く超人や日蓮といった強者に憧れた。その一方、民衆を弱者と決めつけ、社会主義に対しても弱者の思想として否定的であった。 樗牛賞死後、国画創作協会は、樗牛の日本美術への造詣の深さを評価し、協会展の贈賞に樗牛賞を設けた。また、1958年(昭和33年)、出身地の鶴岡市教育委員会は、樗牛の偉業を顕彰するとともに地方文化の向上を目的に高山樗牛賞を制定。地方の文化向上に尽くした個人、団体に賞を贈っている。 墓所墓所は静岡県静岡市清水区龍華寺に建立。大型で欧州風の墓所は評判となったが、芥川龍之介は「非常に悪趣味」と評した(この影響で自身の墓碑はシンプルなものとなった)。 2024/06/09 15:01更新
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takayama chogyuu
高山樗牛と同じ誕生日2月28日生まれ、同じ山形出身の人
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