もしもし情報局 > 1902年 > 6月25日 > 皇族

秩父宮雍仁の情報 (ちちぶのみややすひと)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

秩父宮雍仁の情報(ちちぶのみややすひと) 皇族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

秩父宮 雍仁さんについて調べます

■名前・氏名
秩父宮 雍仁
(読み:ちちぶのみや やすひと)
■職業
皇族
■秩父宮雍仁の誕生日・生年月日
1902年6月25日 (年齢1953年没)
寅年(とら年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
東京出身

秩父宮雍仁と同じ1902年生まれの有名人・芸能人

秩父宮雍仁と同じ6月25日生まれの有名人・芸能人

秩父宮雍仁と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


秩父宮雍仁と関係のある人

松平恒雄: 長女・節子は秩父宮雍仁親王妃となって勢津子と改名したが、皇室典範で皇族男子の妃は皇族または華族の女子と規定されているため、節子はいったん叔父の子爵松平保男の養女となってから秩父宮に輿入れした。


西園寺公望: 8月に事件を知った西園寺は、参謀総長閑院宮載仁親王や秩父宮雍仁親王に話して事件の元兇である二宮治重参謀次長らを更迭しようと考えたが、西園寺に近い原田や近衛文麿、牧野らは陸軍を刺激することを怖れ、結局報告は行われなかった。


高松宮宣仁: 結果的に、長兄・昭和天皇(7人:2男5女)、弟・三笠宮崇仁親王(5人:3男2女)と違い、宣仁親王は次兄・秩父宮雍仁親王同様に子女は無く、夫妻の血筋は遺されていない。


昭和天皇: 1904年(明治37年)11月9日、川村の死去を受け弟・淳宮(のちの秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に住居を移転した。


松方三郎: 1926年(大正15年)8月 - エンゲルヘルナー群峰の岩登りに槇有恒らとともに秩父宮雍仁親王に随伴。


吉行あぐり: 顧客には秩父宮雍仁親王妃勢津子もおり、1995年(平成7年)の妃薨去まで担当していた。


高松宮宣仁: 1953年(昭和28年)に兄の秩父宮雍仁親王が肺結核で危篤となった際、長兄・昭和天皇は弟宮の最期に一目会うことを願ったが叶わなかった。


山下奉文: 安藤は秩父宮雍仁親王にも溺愛され、部下からも慕われるなど人間的な魅力に溢れる人物であった。


大正天皇: その後、中央本線の千駄ヶ谷駅の隣に臨時で設置された新宿御苑駅から霊柩列車に移され、昭和天皇名代の秩父宮雍仁親王らを乗せ出発。


秋篠宮文仁親王: 1926年(昭和元年)12月25日の昭和天皇の践祚から1933年(昭和8年)12月23日の継宮明仁親王(当時)が誕生するまでの間に、秩父宮雍仁親王(昭和天皇の長弟)が皇位継承順位第1位であったが、それ以来86年ぶりで、現行の皇室典範の下では初めて、皇子以外の皇族が皇嗣となった。


高松宮宣仁: 1940年(昭和15年)11月10日に、内閣主催で、昭和天皇・香淳皇后臨御の下に宮城外苑にて挙行された「紀元二千六百年式典」の翌11月11日に同会場で行われた奉祝会で、その総裁であった兄・秩父宮雍仁親王が病気により欠席したため、その代理を務め、同奉祝会で長兄・昭和天皇への奉祝詞奏上、自身による聖寿万歳三唱などを行った。


辻政信: 陸大での同期には秩父宮雍仁親王がいる。


東條英機: この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮雍仁親王は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している。


槇有恒: 1926年(大正15年)、秩父宮雍仁親王の供奉で冬季スキーや、夏季マッターホルン、アルプスなどを登山した。


三笠宮寛仁親王: モードリンは、伯父の一人である秩父宮雍仁親王が在籍した学寮でもある。


松平恒雄: 長女:節子(改名して勢津子)- 松平保男養女、秩父宮雍仁親王妃


阿南惟幾: 1938年(昭和13年)3月1日 陸軍中将に昇進、7月に板垣征四郎陸軍大臣から、陸軍参謀本部が発議した皇族軍人の秩父宮雍仁親王を参謀総長に就任させる案の検討を命じられた。


高松宮宣仁: 皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がいる。


弘田長: 1902年8月宮内庁御用掛、迪宮(昭和天皇)・淳宮(秩父宮雍仁親王)を診察。


東條英機: また、三笠宮によれば当時、結核で療養中だった秩父宮雍仁親王が何度も東條へ詰問状を送っている。


乃木希典: 乃木は大正元年(1912年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)および光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。


大倉喜八郎: 大正15年(1926年)8月に秩父宮雍仁親王が立山を踏破したことに感激し、88歳でカゴと背負子に担がれた「大名登山」で南アルプス赤石岳に登頂するなど公私共に豪快な日々を送った。


三笠宮崇仁親王: 3人の兄(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)は明治生まれ即ち父である大正天皇がまだ皇太子であった時にその男子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育された。


昭和天皇: 弟に、秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)、高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)、三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)の3人がいる。


三笠宮崇仁親王: 3人の兄たち(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)とは年齢も離れた四男であり(大正天皇の4人の皇男子のうち唯一の大正時代生まれ)、皇位継承の可能性が低かったことから、かなり自由な立場で行動した。


岡田資: 1930年 参謀本部員、秩父宮雍仁親王付侍従武官


田中銀之助: 秩父宮雍仁親王


皇太后良子: 他方、1928年(昭和3年)9月28日に秩父宮雍仁親王と松平節子(改名し勢津子)が結婚すると、貞明皇后は次男の秩父宮夫妻に愛着を寄せ、翌年の孝宮誕生の直前に、秩父宮夫妻の結婚1周年の祝いとして男子誕生の期待をかけた贈り物を贈ったり、和歌を詠んだ。


昭和天皇: なお、即位に伴い皇太子は空位となり、長弟の秩父宮雍仁親王が皇位継承順位第1位の皇嗣である状態が、7年後の1933年(昭和8年)12月23日の継宮明仁親王の誕生まで続いた。


松平恒雄: 1928年(昭和3年)、長女の松平節子と秩父宮雍仁親王の婚約が内定する。


秩父宮雍仁の情報まとめ

もしもしロボ

秩父宮 雍仁(ちちぶのみや やすひと)さんの誕生日は1902年6月25日です。東京出身の皇族のようです。

もしもしロボ

兄弟、卒業、結婚、事件、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1953年に亡くなられているようです。

秩父宮雍仁のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈明治35年〉6月25日 - 1953年〈昭和28年〉1月4日)は、日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第二皇子。明治天皇の皇孫にあたる。昭和天皇は兄、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。

妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松平恆雄の長女)。御称号は淳宮(あつのみや)。身位は親王。お印は若松(わかまつ)。日本陸軍の軍人でもあり、階級は少将。勲等功級は大勲位功三級。勢津子妃との間に子女はない。

幼少の頃は兄の迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)、弟の光宮宣仁親王と共に育ち、年齢の近い三兄弟とも仲は良かったと言う。兄弟の中では最も活溌であり、そのことは1つ違いの兄宮とよく比較された。玩具の取り合いで兄宮と喧嘩し、先に手を出すことも多々あった。しかし兄がいない時は小心であり、自ら「内弁慶であった」と、戦後に回想している。

祖父である明治天皇には「よく玩具を与えられた」と回想しているが、実際には明治天皇と触れ合う機会は、天皇自身が公務を優先したため生涯ほとんど無く、崩御寸前まで玉音を聞くこともなかった。反面、義理の祖母にあたる昭憲皇太后にはよく会い、兄弟や学友と共に芝居を披露したこともあった。

1909年(明治42年)4月に学習院初等科入学、学習院中等科2年修了後、皇族身位令に基づき陸軍中央幼年学校予科第2学年に、学友9人とともに編入した(19期)。この際、幼年学校側は親王に配慮し、二人称と一人称は学習院同様に「君-僕」を生徒に使わせようとしたが、雍仁親王本人が「貴様-俺」を率先して用いた。在学中は、従来の武道以外に、野球やテニス、卓球等の他のスポーツが盛んになり、極東選手権競技大会も観戦する等、雍仁親王が幼年学校の校風に影響を与えた。少年らしい悪戯や失敗の逸話も残されており、同期の団結の中心となった。

1920年(大正9年)10月、陸軍士官学校に入校した。同期には服部卓四郎、西田税などがいる。卒業後、1922年(大正11年)10月に陸軍少尉に任官した。

1928年(昭和3年)12月に陸軍大学校に入校、1931年(昭和6年)11月に卒業した(43期)。陸大の卒業時には、成績優秀であったため慣例に反して恩賜の軍刀を与えてはとの議論が教官の間であった。そして最終的には兄陛下より賜わることとなる。

1922年(大正11年)6月25日に20歳で成年式を行い、宮家「秩父宮」を創立した。宮号の由来は、秩父嶺が帝都東京と同じ武蔵国の名山であり、雍仁親王邸の西北に位置したことにちなみ選定された。同日、貴族院皇族議員に就任。1928年(昭和3年)9月28日、松平節子と結婚。成婚にあたり皇太后(九条節子)に遠慮して勢津子と改名した。当時は「世紀の大恋愛」と報道されたが、実際には自由恋愛ではなかった。

妃勢津子との間に結果として子女はなかったが、一度だけ勢津子が懐妊したことがあった。親王は非常に喜んだが流産し、親王は勢津子と共に悲しみにくれた。

1930年(昭和5年)12月5日、帝都復興記念章を授与された。

1931年(昭和6年)11月23日より第一師団歩兵第3連隊(歩三)の中隊長を務めた。歩三時代には安藤輝三などとも交流を持ち、彼らの革新思想の影響を受けた。本庄繁の日記によると、この頃に秩父宮は昭和天皇に対して親政の必要を説き、憲法停止も考えるべきと意見したため激論となった。昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して「秩父宮の考えは断じて不可」と述べ、さらにこれを受けて1932年(昭和7年)6月21日に宮内大臣官邸において、一木喜徳郎、木戸幸一、近衛文麿、原田熊雄が「秩父宮の最近の時局に対する御考がややもすれば軍国的になれる点等につき意見を交換」している。秦郁彦は谷田勇から聞いた話として、秩父宮が村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問していたとしている。昭和天皇からの内意により、青年将校から引き離すため同年9月に陸軍参謀本部第一部第二課(作戦課)に転補された。

1935年(昭和10年)8月、青森県弘前市の歩兵第31連隊第3大隊長に任ぜられた。勢津子妃も同行し、弘前市紺屋町の菊池長之別邸に居住した。

1936年(昭和11年)2月26日早朝に皇道派青年将校らによって二・二六事件が発生した。26日朝に高松宮宣仁親王から連絡を受けた秩父宮は倉茂周蔵連隊長の許可を受けた上で、翌日の27日に奥羽本線、羽越本線、信越本線、上越線経由で上京した。平泉澄が群馬県の水上駅まで迎えに行き、車中で一時間半ほど会談している。平泉はのちに「みちのくのつもる白雪かき分けていま日の皇子は登りますなり」と和歌を詠んだ。秩父宮は夕方に上野駅に到着して憲兵の護衛を受け参内し、昭和天皇に拝謁したが、翌日谷田には「叱られたよ」と語っている。同日に歩三の森田利八大尉を介して青年将校らに自決せよと伝えた。『木戸幸一日記』によると、昭和天皇は「秩父宮は五・一五事件の時よりは余程宜しくなった」と広幡忠隆侍従次長に述べている。

同年12月に参謀本部第1部付となる。1937年(昭和12年)に兄・昭和天皇の名代としてイギリスのジョージ6世国王の戴冠式に出席。その後は静養地としてスイス、スウェーデンとオランダを訪問した。当初の予定にはなかったが、ヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ大使の要請によりドイツを訪れ、日独親善の証としてニュルンベルクで行なわれていたナチス党ニュルンベルク党大会に来賓として出席し、ヒトラー総統とニュルンベルク城で会談した。ヒトラーはソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンを激しく罵り、「私は彼を信じない、また憎みます」と口にした。これに対して秩父宮は英語で「お互いに一国の責任者として、民族を指導し、世界の平和に貢献しなければならない重大な責務のある貴方のような方が、他国の代表者を、そのように毛嫌いしたりまた憎んでもよいものでしょうか?」と返した。この面会について秩父宮は、付き武官の本間雅晴に対して「ヒトラーは役者だ。彼を信用することは難しい」と述べている。

『昭和天皇独白録』によると、日独伊三国同盟の締結が議論されていた1939年(昭和14年)、同盟に消極的な兄・昭和天皇に対して週に3度参内して締結を勧めたが、「この問題については直接宮には答えぬ」と天皇に突っぱねられている。

1938年(昭和13年)1月に大本営戦争指導班参謀に、同年3月に陸軍中佐に、1939年(昭和14年)8月に陸軍大佐に昇進した。

秩父宮が華北に出征していた閑院宮春仁王に送った、1937年12月30日付と1938年2月22日付の書簡が神奈川県の小田原市立図書館所蔵資料から発見されている。「中支方面の軍紀風紀に関しては、之か日本の軍隊かと唯嘆せられることのみ聞かれまして遺憾と申す外ありません」「日支親善、東洋平和確立の礎と云ふ見地から見まして疑問に思はれることも少なくない様に考へられます」「南京が陥落したとて支那人の小学生に旗行列をやらせるのが日支親善百年の大計でありませうか」と、日本軍の中国住民への振る舞いなどを憂う気持ちを吐露していた。1972年刊行の伝記『秩父宮雍仁親王』によれば、中国での戦線拡大自体に批判的で、早期収拾派であった。評伝『秩父宮』(中公文庫)著者でもある近現代史研究家の保坂正康は、この書簡の内容について、南京事件について昭和天皇周辺に伝わっていたことを示すと評している。

1940年(昭和15年)に肺結核と診断され、翌年より静岡県・御殿場で療養生活を送る。1941年(昭和16年)3月に参謀本部附、1945年(昭和20年)3月に陸軍少将に昇進したが、戦時中は御殿場別邸にて療養を余儀なくされた。戦後は療養生活を送りながら皇族として執筆を含む活動を行った。 1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。

1952年(昭和27年)1月に、静岡県御殿場市から神奈川県藤沢市鵠沼別邸に移った。同年暮に病状が悪化し、1953年(昭和28年)1月4日に50歳で薨去した。

薨去に先立ち遺書をしたためており、その中で「遺体を解剖に附すこと」「火葬にすること」「葬式は如何なる宗教にもよらない形式とすること」を指示していた。勢津子妃が天皇に許可を求めたところ、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」とこれを即座に許し、皇族としては異例の病理解剖が行われた。

1953年1月12日、葬儀は皇族として最低限の神道形式で行われ、皇族、各国大使、スポーツ関係者ら800人が参列した。その後、無宗教での一般告別式が行われ、2万5000名あまりの市民が秩父宮の遺体に拝礼した。その後、午後1時から火葬された(皇族の埋葬は、当時は土葬が基本)。遺骨は、同日午後4時20分に、豊島岡墓地の比翼塚形式の簡素な墓に愛用の品々とともに埋葬された。

この葬儀に、昭和天皇は出御しなかった。これは天皇が親王など「目下」の者の葬儀に出御した前例がなく、皇室喪儀令(廃止されたが、基準となっている)にも規定がないため、天皇が出御することで仰々しくなり秩父宮の遺志に副わないとの懸念から、出御を断念したものである。ただし、天皇・皇后は何度も遺骸と対面し、翌13日には墓へ参拝している。また秩父宮存命時の見舞いも、天皇が見舞うのは危篤の場合のみという前例から、結局果たせなかった。

1995年(平成7年)8月25日に、秩父宮妃勢津子の薨去により秩父宮家は絶家となった。

1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章

兄 - 昭和天皇

弟 - 高松宮宣仁親王

弟 - 三笠宮崇仁親王

社会活動としてはスキー、ラグビー等スポーツの振興に尽くし「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれた。1953年の薨去後、同年中に改称された秩父宮ラグビー場(旧称は東京ラグビー場)、1955年に薨去の地である藤沢市に開館した秩父宮記念体育館、1959年に国立霞ヶ丘競技場内に開館した秩父宮記念スポーツ博物館にその宮号を遺している。

1928年10月に橿原神宮参拝のため大阪電気軌道(大軌)の電車に乗車した際、「この辺に今台頭しつつあるラグビーの専用競技場を作ったらどうか」という内容の発言が大軌役員との歓談中にあったとされ、同年12月に大軌がラグビー場の建設を決議し、翌1929年11月に日本初のラグビー専用競技場となる花園ラグビー運動場(現在の東大阪市花園ラグビー場)が開場した。

寡黙で学者肌であった昭和天皇に対しテニスや登山を好んだ活溌な性格であり、上流階級の子弟からなるインテリ層サロンにおける中心人物であった。

将棋愛好家であり、全日本選手権戦が1949年にタイトル戦の「九段戦」に編成された際には秩父宮から優勝杯が下賜されることになり、秩父宮杯とも呼ばれた。1952年5月20日に行われた第11期名人戦では初代九段となった大山康晴が挑戦することもあり、第2局を対局室で観戦している。

1928年2月に北海道にお成りをした際、札幌の手稲山の山小屋で将来の冬季五輪招致のために世界規格の大型ジャンプ台の建設を発案し、建設に尽力した。

また、オリンピック開催に備え、札幌に洋式のホテルを建設することも併せ発案し、北海道庁と札幌商工会議所が中心になり推進した結果、1934年に札幌グランドホテルとして開業した。札幌オリンピックは、1940年の開催が取りやめとなったが、秩父宮の死後1972年に実現し、同ホテルは昭和天皇・香淳皇后の宿舎となったほか、選手村の台所運営という大任を果たした。

日英協会、日本瑞典(スウェーデン)協会の総裁等を務め、国際親善事業においても足跡を残した。

登山にも積極的であり、英国留学中にはアルプス山脈へ足を延ばしマッターホルン登頂を果たしている。秩父宮記念公園の像は、富士山の方角を向いて立てられている。

療養中は、地元御殿場の住民に親しく接し、高校の卒業式に来賓として招かれ祝辞を述べたこともあった。

戦後は積極的にメディアに寄稿し「開かれた皇室」のあるべき姿について率直な意見を述べた。また、新時代の皇室の立役者たる皇太子明仁親王にかける期待は大きかったといわれ、英国女王エリザベス2世の戴冠式に出席する天皇の名代を皇太子とするよう、宮内庁に強く働きかけたと伝えられている(皇太子は当時大学在学中であり、宮内庁内部には別の名代を立てる声も少なからずあった)。戴冠式を待たずして秩父宮は薨去したものの、皇太子の欧州訪問は無事実現した。

誕生日が母后と同じ(6月25日)だったため、母后は強い縁を感じ、最愛の息子だったとされている。

1926年(大正15年)12月25日の兄・昭和天皇の践祚から1933年(昭和8年)12月23日に甥の明仁親王が誕生するまでの約7年弱の間、秩父宮は皇位継承順位第1位(推定相続人)であり、筆頭直宮家たる皇嗣であった。ただし、践祚した時点での年齢が昭和天皇は25歳・香淳皇后は23歳とまだ若く、後継の皇子が生まれる可能性があったため、皇太弟には冊立されていない。また、令和における皇嗣である秋篠宮文仁親王のように「立皇嗣の礼」などの、皇嗣を宣明する儀礼も行われていない。

旧皇室典範制定から現在まで、皇位継承順位第1位で天皇に即位しなければ皇太子にもならずに薨去した唯一の親王である。また、弟の高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王と共に明治以降で初めての皇弟である(平成の時代には常陸宮正仁親王、令和の時代には秋篠宮文仁親王が皇弟である。うち秋篠宮文仁親王は後述の通り兄・徳仁の即位とともに皇位継承順位第1位の皇嗣となった)。

この次に皇位継承順位第1位の人物が皇弟で皇太子が空位となったケースは、2019年(令和元年)5月1日の第126代天皇徳仁即位から現在の秋篠宮文仁親王(天皇徳仁の弟、雍仁親王の大甥)である。

^ 宮内庁 旧秩父宮

^ 皇室略牒 宮内省図書寮

^ わが武寮 1982 p.515

^ わが武寮 1982 p.413

^ 『昭和史の謎を追う〈上〉』文藝春秋、1999年。ISBN 4167453045。 

^ 『銀のボンボニエール』主婦の友社、1991年、225頁。 

^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、31頁。

^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742

^ 『官報』第1476号「叙任及辞令」1931年11月30日。p.701

^ “旧弘前偕行社”. 旧弘前偕行社の歴史. 2020年9月28日閲覧。

^ 原武史、保坂正康『対論 昭和天皇』文春新書、2004年

^ 『秩父宮雍仁親王』

^ 『昭和天皇独白録』文藝春秋、1995年。ISBN 4167198037。 

^ 「秩父宮 軍紀の乱れ懸念/日中戦争初期の書簡」『読売新聞』朝刊2020年11月15日1面

^ 「秩父宮書簡 真摯な姿示す/保坂正康氏に聞く」『読売新聞』朝刊2020年12月2日(文化面)

^ 『官報』第5822号(昭和21年6月13日)

^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」194頁。

^ 【TBSスパークル】1953年1月4日 秩父宮様なくなる(昭和28年) TBSスパークル映像ライブラリー

^ 1953年1月12日『朝日新聞』夕刊「氷雨のなか故秩父宮御葬儀 告別に人波二万五千」

^ 1953年1月12日『朝日新聞』夕刊「豊島岡へのしめやかな葬列 妃殿下の頭上らず」

^ 1953年1月10日『朝日新聞』「陛下はなぜお出にならぬか 親王葬儀御参列は“異例”」

^ 『官報』第4438号 付録「辞令二」1941年10月23日

^ 山階会『山階宮三代 下』P.291

^ 歴史・沿革 (公財)日本ラグビーフットボール協会

^ “ラグビー場の歴史”. 東大阪市 (2019年11月19日). 2024年7月10日閲覧。

東幼史編集委員会 編『東京陸軍幼年学校史 わが武寮』東幼会、1982年10月15日。NDLJP:12017444。 

著作 - 『皇族に生まれて-秩父宮随筆集』(渡辺出版、2005年)ISBN 4902119048

    『英米生活の思い出』(文明社出版部、1947年)ほかを収録。

    著作 - 『皇族に生まれてII-秩父宮談話集』(渡辺出版 2008年)ISBN 4902119072

    伝記 - 『秩父宮と勢津子妃』(渡辺出版 2003年)復刻(秩父宮殿下御成婚記念会編、1928年刊)

    回想録 - 秩父宮勢津子妃『銀のボンボニエール 親王の妃として』(主婦の友社、1991年、講談社+α文庫 1994年)

    伝記 - 『雍仁親王実紀』 秩父宮家編(吉川弘文館 1972年)※松方三郎等が編纂。

    伝記 - 『秩父宮雍仁親王』秩父宮を偲ぶ会編(1970年)※関係者の文集。

      『秩父宮雍仁親王 上』(復刻 皇族軍人伝記集成 12/佐藤元英・解説、ゆまに書房、2012年)※上記の復刻版。

      『秩父宮雍仁親王 下』(同 13/同上、2012年)- 復刻 『我等の秩父宮殿下』(姫野寅之助、大日本皇道会、1928年刊)

      伝記 - 保阪正康『秩父宮 昭和天皇弟宮の生涯』(中公文庫、2000年)ISBN 4122037301

        旧版 『秩父宮と昭和天皇』(文藝春秋、1989年)、文庫あとがきで勢津子妃自身から取材した事を明かした。

        見聞記 - 吉田雪子/長岡祥三編訳『ジョージ六世戴冠式と秩父宮』(新人物往来社、1996年)

          英文著作、訪英時の見聞録。著者は吉田茂夫人、当時吉田は駐英大使。

          『昭和天皇物語』(2017年 から『ビッグコミックオリジナル』連載、作画 能條純一:原作 半藤一利「昭和史」、脚本:永福一成、監修:志波秀宇)

          秩父神社 - 薨去と同年、1953年(昭和28年)12月に合祀されている。

          秩父宮ラグビー場

          東大阪市花園ラグビー場

          秩父宮記念公園

          秩父宮記念体育館

          秩父宮記念スポーツ博物館

          秩父宮妃賜杯競輪

          秩父宮記念学術賞

          秩父宮記念山岳賞

          宮様スキー大会 - 秩父宮と高松宮宣仁親王の兄弟が1928年に北海道訪問した際に開催されたスキー大会が開設の端緒となった。

          津軽錦(ツガルニシキ) - 青森県津軽地方で育成されていたキンギョの一品種。昭和2年の弘前博覧会に行啓したときに、これを観賞。それを記念して「津軽錦」という品種認定がされた。

          大覚寺 - 幼少期の邸宅が移築(秩父宮御殿)

          旧秩父宮 - 宮内庁

          秩父宮記念公園 公式ホームページ

          赤坂表町の秩父宮御殿 『大東京写真帖』1930年

          秩父宮殿下が鵠沼のお屋敷でご逝去 - NHK放送史

          建宮敬仁親王

          明宮嘉仁親王(大正天皇)

          昭宮猷仁親王

          満宮輝仁親王

          有栖川宮威仁親王

          閑院宮載仁親王

          華頂宮博厚親王

          東伏見宮依仁親王

          迪宮裕仁親王(昭和天皇)

          淳宮雍仁親王(秩父宮)

          光宮宣仁親王(高松宮)

          澄宮崇仁親王(三笠宮)

          継宮明仁親王(上皇)

          義宮正仁親王(常陸宮)

          寬仁親王(三笠宮家)

          宜仁親王(桂宮)

          憲仁親王(高円宮)

          浩宮徳仁親王(今上天皇)

          礼宮文仁親王(秋篠宮)

          悠仁親王(秋篠宮家)

          日本ラグビーフットボール協会 (JRFU)

            関東ラグビー協会

            関西ラグビー協会

            九州ラグビー協会

            男子

              選手

              試合

              女子

                選手

                試合

                JAPAN XV

                U20

                高校

                7人制男子

                  選手

                  試合

                  7人制女子

                    選手

                    試合

                    ジュニア・ジャパン(2020年まで)

                    ラグビーワールドカップ

                      男子

                      女子

                      ラグビーワールドカップセブンズ

                      パシフィックネイションズカップ

                      WXV

                      アジアラグビーチャンピオンシップ

                        男子

                        女子

                        スーパーラグビー(日本チーム:サンウルブズ(2020年まで))

                        リーグワン

                        地域リーグ(トップイースト - 関東社会人 - トップウェスト - トップキュウシュウ)

                        ジャパンラグビートップリーグ(入れ替え戦)(2021年度まで)

                        ジャパンラグビートップチャレンジリーグ(2021年度まで)

                        北海道

                        東北

                        関東対抗戦

                        関東リーグ戦

                        東海

                        北陸

                        関西

                        中国

                        四国

                        九州

                        日本ラグビーフットボール選手権大会 (トップリーグプレーオフ)(2021年まで)

                        三地域対抗試合(2010年まで)

                        全国クラブラグビーフットボール大会

                        全国大学ラグビーフットボール選手権大会

                        全国地区対抗大学ラグビーフットボール大会

                        東西学生クラブ対抗試合

                        東西学生対抗試合 (全国大学オールスターゲーム)(2008年度まで)

                        関東大学オールスターゲーム

                        全国女子ラグビーフットボール選手権大会

                        関東女子ラグビーフットボール大会

                        女子ラグビーフットボール関西大会

                        全国高等専門学校ラグビーフットボール大会

                        全国高等学校ラグビーフットボール大会 (冬の花園)

                        全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会 (春の花園)

                        U18合同チーム東西対抗戦 (もう一つの花園)

                        全国高等学校合同チームラグビーフットボール大会(U17・U18・女子)

                        サニックスワールドラグビーユース交流大会

                        全国高等学校東西対抗試合(2008年度まで)

                        全国中学生ラグビーフットボール大会

                        全国ジュニア・ラグビーフットボール大会

                        全国小学生タグラグビー大会

                        ジャパンセブンズ選手権大会

                        YC&AC JAPAN SEVENS

                        ウィメンズセブンズシリーズ

                        リージョナルウィメンズセブンズ

                        大学女子7人制ラグビーフットボール交流大会

                        全国高等学校7人制ラグビーフットボール大会

                        全国U18女子セブンズラグビーフットボール大会

                        田中銀之助

                        エドワード・B・クラーク

                        秩父宮雍仁親王

                        秩父宮ラグビー場

                        東大阪市花園ラグビー場

                        JAPAN BASE

                        ラグビーワールドカップ2019

                        スクール☆ウォーズ

                        日本ラグビーフットボール選手会

                        ジャパンラグビーマーケティング

                        ジャパンラグビーリーグワン マスコット総選挙

                        FAST

                        ISNI

                        VIAF

                        WorldCat

                        フランス

                        BnF data

                        イスラエル

                        アメリカ

                        日本

                        韓国

                        オランダ

                        CiNii Books

                        CiNii Research

                        KulturNav

                        秩父宮

                        日本の親王

                        貴族院皇族議員

                        大正時代の貴族院議員

                        昭和時代の貴族院議員

                        戦後日本の男性皇族

                        大正天皇の子女

                        皇族陸軍軍人

                        大日本帝国陸軍少将

                        日本学術振興会の人物

                        二・二六事件の人物

                        大勲位菊花大綬章受章者

                        功三級金鵄勲章受章者

                        御殿場市の歴史

                        藤沢市の歴史

                        日本のラグビーユニオンに関する人物

                        スキーに関する人物

                        日本のスカウト運動

                        秩父神社

                        20世紀日本の人物

                        20世紀の軍人

                        20世紀日本の登山家

                        20世紀に結核で死亡した人物

                        結核で死亡した日本の人物

                        日本の神 (人物神 戦前日本)

                        公職追放者

                        学習院中・高等科出身の人物

                        陸軍大学校出身の人物

                        陸軍士官学校 (日本)出身の人物

                        1902年生

                        1953年没

2024/11/22 04:48更新

chichibunomiya yasuhito


秩父宮雍仁と同じ誕生日6月25日生まれ、同じ東京出身の人

山地 まり(やまち まり)
1994年6月25日生まれの有名人 東京出身

山地 まり(やまち まり、1994年6月25日 - )は、日本の元女優、元バラエティタレント。東京都出身。 高校2年(2012年)の冬、居酒屋のアルバイト面接に行った際に立ち寄った青山の薬局で事務所…

白岡 今日花(しらおか きょうか)
2002年6月25日生まれの有名人 東京出身

白岡 今日花(しらおか きょうか、2002年6月25日 - )は、日本の女性アイドル、タレント。東京都出身。ヴェルヴェットマネージメント所属、サンミュージック出版と業務提携。 女性アイドルユニットTa…

佐藤 衣里子(さとう えりこ)
1990年6月25日生まれの有名人 東京出身

元ワンエイトプロモーション 佐藤 衣里子(さとう えりこ、1990年6月25日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル、レースクイーン。 東京都出身。元ワンエイトプロモーション所属。 201…

中山 愛梨(なかやま あいり)
1983年6月25日生まれの有名人 東京出身

中山 愛梨(なかやま あいり、1983年6月25日 - )は、日本の着エロ系グラビアアイドル。趣味は料理、バドミントン。血液型A型。身長157cm、B90(H)W55H84。 東京都出身。窪塚愛とし…

水野 マリコ(みずの まりこ)
6月25日生まれの有名人 東京出身

水野 マリコ(みずの まりこ、6月25日 - )は、日本の元声優、ナレーター、女優、タレント。東京都出身。 旧芸名は水野 麻梨子(読みは同じ)。俳協ボイスアクターズスタジオ30期生。元東京俳優生活協…


丹阿弥 谷津子(たんあみ やつこ)
1924年6月25日生まれの有名人 東京出身

丹阿弥 谷津子(たんあみ やつこ、1924年〈大正13年〉6月25日 - )は、日本の女優。東京市本所区両国(現・東京都墨田区両国)出身。本名:金子(かねこ) 谷津子(やつこ)、旧姓:丹阿弥。身長15…

高山 かな(たかやま かな)
6月25日生まれの有名人 東京出身

高山 かな(たかやま かな、6月25日 - )は、日本の女優、声優。東京都出身。血液型はB型。 1999年から2000年にかけて「KiraKira☆メロディ学園」の1期生として活動していた(同期であ…

牛原 千恵(うしはら ちえ)
1966年6月25日生まれの有名人 東京出身

牛原 千恵(うしはら ちえ、1966年6月25日 - )は、元女優、元子役。 映画監督である牛原陽一の娘として東京に生まれる。1979年に監督今井正の『子育てごっこ』の主役に抜擢され、注目を浴びる。…

島村 俊治(しまむら としはる)
1941年6月25日生まれの有名人 東京出身

島村 俊治(しまむら としはる、1941年6月25日 - )は、スポーツジャーナリスト、フリーアナウンサー。 個人事務所である有限会社「ニューヴォイス嶋村プロ」所属で、代表取締役。元NHKエグゼクテ…

福田 陽一郎(ふくだ よういちろう)
1932年6月25日生まれの有名人 東京出身

福田 陽一郎(ふくだ よういちろう、1932年〈昭和7年〉6月25日 - 2010年〈平成22年〉4月11日)は、日本のディレクター、脚本家、作詞家である。伊奈 洸(いな あきら)のペンネームも用いる…


海野 和男(うんの かずお)
1947年6月25日生まれの有名人 東京出身

海野 和男(うんの かずお、1947年6月25日 - )は、日本の昆虫写真家であり、同ジャンルの草分け的な存在。日本自然科学写真協会会長、日本昆虫協会理事、日本写真家協会会員を歴任。広角レンズを使った…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
秩父宮雍仁
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

Da-iCE E-girls Travis Japan GALETTe 放課後プリンセス HEADS FLAME GEM WEST. さんみゅ~ 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「秩父宮雍仁」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました