松平恒雄の情報(まつだいらつねお) 外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
松平 恒雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
松平恒雄と関係のある人
末次信正: 1930年(昭和5年)3月14日、米国側は対米6割前後の腹案であったが、若槻禮次郎、松平恒雄らの全権団による交渉の結果、 小原直: 旧制第一高等学校では松平恒雄(宮内大臣、初代参議院議長)、長島隆二(大蔵省理財局長心得、政友会代議士、桂太郎総理の娘婿)らと同級であった。 松本治一郎: 副議長就任の経緯について治一郎本人は「部落出身の自分を議長にしないために保守派の連中が緑風会をつくって第一党にしてそこから議長(松平恒雄)を出した。 松平勇雄: 初代参議院議長などを務めた松平恒雄は叔父。 西園寺公望: また湯浅宮内大臣が内大臣に、松平恒雄が宮内大臣となっている。 三淵忠彦: これに加え、GHQの指示によって当時の裁判所法に規定されていた裁判官任命諮問委員会の委員には、三淵の大審院時代の同僚や参議院議長の松平恒雄がおり、三淵を推した。 松岡洋右: 陸軍からの三国同盟推進の動きが活発となる中で、小幡酉吉・松平恒雄・吉田茂といったOB達をふくむ外務省の一部は日独提携に強く反発していた。 松野鶴平: 昭和21年(1946年)5月に鳩山が公職追放となったため、後継総裁をめぐり古島一雄、松平恒雄、外務大臣の吉田茂らの名前が取りざたされる中で、鳩山とともに吉田を訪問し、後継を打診するが拒否される。 中井正一: そのため、参議院議長松平恒雄らは金森徳次郎を館長に据え中井を副館長とする妥協案を示した。 山本五十六: 山本はヒトラーとの面会を了承したが、松平恒雄駐英大使や武者小路公共駐独大使が、日本海軍高官がヨーロッパで孤立するドイツのトップといきなり会うことを危惧したため実現しなかった。 下条康麿: 下条は同じ無所属で当選した河井彌八、松平恒雄、佐藤尚武、田中耕太郎、高橋龍太郎、山本有三らと語らって緑風会を結成する。 |
松平恒雄の情報まとめ
松平 恒雄(まつだいら つねお)さんの誕生日は1877年4月17日です。東京出身の外交官のようです。
栄典、家族などについてまとめました。卒業、事件、家族に関する情報もありますね。72歳で亡くなられているようです。
松平恒雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)松平 恒雄(まつだいら つねお、旧字体:松󠄁平󠄁 恆雄、1877年〈明治10年〉4月17日 - 1949年〈昭和24年〉11月14日)は、日本の外交官、政治家。外務次官、駐英大使、駐米大使、宮内大臣、初代参議院議長を歴任した。位階・勲等は従一位勲一等。 1877年(明治10年)4月17日、旧会津藩主で京都守護職を務めた松平容保の六男として福島県会津若松市の御薬園で生まれた。母は容保の側室・名賀(川村源兵衛女)。 学習院から第一高等学校を経て、1902年(明治35年)に東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、外交官及領事官試験に首席合格して外務省に入省。 ロンドン在勤、清国在勤を経て、天津総領事、欧米局長、外務次官兼情報部長、駐米大使、駐英大使を歴任。ほかにロンドン海軍軍縮会議首席全権を経験するなど、幣原喜重郎と並ぶ親英米派外交官として知られるようになる。 1928年(昭和3年)、長女の松平節子と秩父宮雍仁親王の婚約が内定する。 1936年(昭和11年)、二・二六事件で殺害された斎藤実内大臣の後任に擬せられたが、岳父が青年将校の標的になることを懸念した秩父宮の反対により、かわって3月6日に国政への影響力をもたない宮内大臣に任じられた。それでも外交官としての経験を生かしてイギリス王室との宮廷外交などを模索したが、時節柄その効果は限定的だった。 宮内大臣として9年3か月にわたり在職したが、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)にアメリカ軍による5月25日の山手大空襲で明治宮殿を焼失した責任を負って辞任した。 戦後は枢密顧問官に任じられる。また、一時は大命降下を目前にして公職追放になった日本自由党総裁の鳩山一郎の後継に擬せられ、本人もこれを受ける意思があることを表明したが、数日後に鳩山と直接会ってみたところ全く折が合わず、この話は立ち消えとなった。新憲法の施行を目前に控えた1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙に地元会津の福島地方区から立候補して当選する。当選後は緑風会に所属するが、すぐに初代参議院議長に選出される。議長在任中には国立国会図書館館長選任問題を裁定している。 1949年(昭和24年)11月14日午後5時25分、心臓麻痺のため東京都品川区荏原七丁目524番地の自宅で急死した。享年73(満72歳没)。17日には史上初の参議院葬が執り行われた。墓所は青山霊園にある。戒名は鷲峰院殿真月常住法恒大居士。 栄典1902年(明治35年)12月27日 - 従七位 1903年(明治36年)6月20日 - 正七位 1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等単光旭日章 1909年(明治42年)3月1日 - 従六位 1911年(明治44年)
9月20日 - 正六位 1916年(大正5年)
4月1日 - 勲四等旭日小綬章・大正三四年従軍記章 1918年(大正7年)8月30日 - 正五位 1919年(大正8年)6月28日 - 勲三等瑞宝章 1920年(大正9年)11月1日 - 勲二等旭日重光章 1922年(大正11年)7月20日 - 従四位 1924年(大正13年)5月31日 - 勲一等瑞宝章 1925年(大正14年)1月9日 - 正四位 1926年(大正15年)2月10日 - 金杯一組 1928年(昭和3年)2月2日 - 従三位 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章 1931年(昭和6年)4月11日 - 勲一等旭日大綬章・金杯一組 1933年(昭和8年)2月15日 - 正三位 1934年(昭和9年)4月26日 - 金杯一組 1936年(昭和11年)3月16日 - 従二位 1937年(昭和12年)12月13日 - 日本赤十字社有功章 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1941年(昭和16年)4月1日 - 正二位 1949年(昭和24年)11月14日 - 従一位 1913年(大正2年)
3月4日 - スウェーデン王国:北極星第三等勲章(英語版) 1914年(大正3年)3月21日 - 中華民国:三等嘉禾章 1916年(大正5年)7月11日 - 中華民国:二等嘉禾章 1919年(大正8年)3月17日 - 中華民国:三等文虎勲章 1920年(大正9年)6月28日 - 中華民国:レジオンドヌール勲章コマンドゥール 1921年(大正10年)9月30日 - イタリア王国:クーロンヌ勲章(英語版)グランオフイシエ 1924年(大正13年)5月19日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グラントフィシエー 1927年(昭和2年) - ポーランド共和国:ポルスキー勲章グランクロア 1928年(昭和3年) - ペルー共和国:ソレイユ勲章(英語版)グランオフイシエー 1930年(昭和5年) - イギリス帝国:ヴィクトリア勲章ナイトグランドクロス 1939年(昭和14年)
イタリア王国:サンモーリスエラザル勲章グランクロア 1942年(昭和17年)2月2日
満洲国:建国神廟創建記念章 家族長女・節子は秩父宮雍仁親王妃となって勢津子と改名したが、皇室典範で皇族男子の妃は皇族または華族の女子と規定されているため、節子はいったん叔父の子爵松平保男の養女となってから秩父宮に輿入れした。長男一郎の次男・恒孝は徳川宗家の徳川家正の養子となって第18代当主を相続した。 父:松平容保 - 旧陸奥会津藩主、京都守護職、会津松平家10代
異母兄:山田英夫 - 山田繁栄養子、伯爵・貴族院議員(伯爵互選) 異母兄:健雄 - 伊佐須美神社宮司
恒雄 異母弟:保男 - 海軍少将、会津松平家12代、子爵、貴族院議員(子爵互選) 恒雄 妻:信子 - 侯爵鍋島直大四女
長女:節子(改名して勢津子)- 松平保男養女、秩父宮雍仁親王妃 次女:正子 - 尾張徳川家第20代当主・徳川義知夫人 次男:次郎 - 夭折 2024/06/17 20:04更新
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matsudaira tsuneo
松平恒雄と同じ誕生日4月17日生まれ、同じ東京出身の人
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