松野鶴平の情報(まつのつるへい) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


松野 鶴平さんについて調べます
■名前・氏名 |
松野鶴平と関係のある人
松野頼三: 父である松野鶴平(通称:ヅル平)は参議院議長などを歴任した。 鳩山一郎: 鳩山が主として軽井沢を舞台に交流したのは、近衛文麿、吉田茂、宇垣一成、真崎甚三郎、松野鶴平、芦田均、笹川良一、赤尾敏といった人々であり、隠遁とはいっても軽井沢にいる政治家たちとの情報共有は欠かさず、終戦和平工作にも関与した。 松野頼久: 祖父は参議院議長、鉄道大臣、衆議院議員を歴任した松野鶴平。 小澤栄太郎: 小説吉田学校(1983年、東宝) - 松野鶴平 小川半次: 革新知事として知られた京都府知事の蜷川虎三とは保革を超えた良好な関係を持っており、蜷川3期目の選挙の際には松野鶴平を紹介し、自民党の推薦を与えている。 小沢栄太郎: 小説吉田学校(1983年、東宝) - 松野鶴平 三木武夫: また同パンフレットの中で、同僚政治家からの推薦人として清瀬一郎、桜内幸雄、中島知久平、町田忠治、松野鶴平らが名を連ねるとともに、頭山満も三木を人格識見卓越し、とりわけ思想精神上立派な人物であると称え、政治家として得がたい人物であるとして三木への投票を依頼していた。 松野頼三: 松野鶴平の三男。 沢田一精: 熊本県の総務部長や副知事を務めた後、松野鶴平の死去を受けた1962年の第6回参議院議員通常選挙に熊本県選挙区から自民党公認で立候補し、初当選。 重宗雄三: 重宗は自民党全盛時代の参議院自民党の力をフルに活用し、しばしば危惧されていた「参議院の独自性」を守ろうとした節がある(松野鶴平の例と同じ)。 鈴木喜三郎: また長野県軽井沢町では、鈴木総裁を中心として、離山麓三万三千坪を貿易商野沢源次郎から買収し、主に政友会メンバーの松野鶴平、砂田重政、前田米蔵、内田信也、山岡万之助、芳沢謙吉、伍堂卓雄、宮田光雄、箸本太吉、島田俊雄、肥田琢司らと別荘三〇余戸を建てた。 有田喜一: 同じ運輸省だった佐藤栄作と共に吉田茂や松野鶴平から政界入りを誘われたが、実兄の岸信介の薦めもあって自由党からの出馬を選んだ佐藤に対し、有田は芦田首相下で官房次長を務めた手前もあって民主党から出馬。 石橋蓮司: 負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜(2012年) - 松野鶴平 野村吉三郎: 自由民主党に参加して、防衛政策を担当した他は、外交調査会会長を務め、松野鶴平の参議院議長就任に伴い党参議院議員会長に就任した。 寺尾豊: 参議院では松野鶴平の側近となる。 保利茂: 戦前、政友会の幹事長を務めた松野鶴平も自由党に復帰し、死去した古島一雄に代わって吉田首相の政治指南役となった。 |
松野鶴平の情報まとめ

松野 鶴平(まつの つるへい)さんの誕生日は1883年12月22日です。熊本出身の政治家のようです。

現在、結婚、解散に関する情報もありますね。1962年に亡くなられているようです。
松野鶴平のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)松野 鶴平(まつの つるへい、1883年〈明治16年〉12月22日 - 1962年〈昭和37年〉10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、鉄道大臣、参議院議長などを歴任。権謀術数に長けたことから「松のズル平」とあだ名された。また、実業家として菊池電気軌道(現・熊本電気鉄道)の社長も務めた。熊本県平民。 妻・タキノは商工大臣等を務めた野田卯太郎の娘。自由民主党政調会長、総務会長などを務めた松野頼三は三男。民進党の衆議院議員松野頼久は孫、2016年ミス日本グランプリ受賞者の松野未佳は曾孫にあたる。 明治16年(1883年)12月22日、熊本県菊池郡城北村(鹿本郡菊鹿町、現在の山鹿市)中農の長男として生まれる。 父・松野長八は農業を営む傍ら馬の仲買人をしていたが、鶴平が生まれて間もなく、農業に見切りをつけて造り酒屋を始めた。鶴平少年は家業の酒造業を手伝いながら地元の木野小学校に通った。 城北学館中退。松野によれば「酒造業は灘などのように名前が通るようになれば別だが、地方の片田舎での営業は、なかなか波があってむずかしい。私の家もご多分にもれず、どんともうかったかと思うと、バッタリといけなくなったりして、とにかく浮き沈みが激しかった。だから小学校を出て中学校に入ったけれども、家業の方が気がかりで仕方がなかった。(中略)家業をつぶしては困るから私も小さいながらよく働いたものである。学校はどうせ中途半端な通学しかできないのなら、いっそやめてしまえ、と思って中途で退学してしまった。そして、それからはもっぱら家業に励むことになったのである。これが私の社会へ出た第一歩である」という。 少年時代から、酒造米の買付けを行い、商売に優れていた。1904年、日露戦争に伴う米の需要を見込んで精米所を開設。日本郵船との取引で莫大な利益を上げる。 1908年、衆議院議員野田卯太郎の長女・タキノと結婚。 1918年、政友会から出馬し落選。大正9年(1920年)、第14回衆議院議員総選挙に故郷の旧熊本県第4区から立憲政友会公認で立候補し初当選。その後、政友会が分裂し、再び落選。 1932年に国政復帰し、以後、東条内閣下での衆議院選挙まで7期当選。政友会では鳩山一郎派に所属し、内務政務次官、政友会幹事長、米内内閣の鉄道大臣などを歴任した。昭和7年(1932年)2月20日の第18回衆議院議員総選挙では、政友会の選挙対策を取り仕切り、466議席中、304議席を獲得し「選挙の神様」の異名をとった。昭和14年(1939年)に政友会が分裂した際は鳩山や久原房之助らとともに政友会正統派に所属した。1940年、鉄道大臣になる。東海道線の大火災の時にはすぐに現場に駆けつけて復興の手をさしのべた。新聞では「新大臣の手腕鮮か」と賞賛された。 戦後は、鳩山とともに旧政友会正統派鳩山系勢力を糾合し、日本自由党の結党に参加。総務となる。 昭和21年(1946年)5月に鳩山が公職追放となったため、後継総裁をめぐり古島一雄、松平恒雄、外務大臣の吉田茂らの名前が取りざたされる中で、鳩山とともに吉田を訪問し、後継を打診するが拒否される。鳩山はあきらめたが、松野はそれから夜な夜な吉田のもとを訪れて「総理概論」とでもいうべき講義を行い、ついには吉田をその気にさせてゆく。 1946年5月13日、深夜、鶴平が外相官邸の塀を乗り越えて、これに忍び込み、寝ていた吉田茂を起こし、朝まで総裁になるようにと説得しつづけた。吉田茂は根負けして総裁となり、第一次吉田内閣が発足する。 鶴平は党務に弱い吉田首相の私的政治顧問として、吉田内閣を支えることになる。政界の寝業師として、同年の抜き打ち解散を吉田首相に進言したり、吉田派と鳩山派の政権抗争では仲介役を務めた。 松野自身も公職追放となっていた、代わりに三男・松野頼三を立候補させる。昭和22年(1947年)の総選挙で、頼三が初当選した。1948年、第二次吉田内閣の発足に際しても、裏舞台で吉田内閣を支え続けていたことが『小説吉田学校』に描かれている。 昭和27年(1952年)の追放解除後は、参議院議員に当選する。このとき「子どもから大人までたくさんの人が手を振って迎えてくれたことが非常に嬉しかった。政治というものは常に国民と一心同体でなければならないと痛感した」という言葉を残している。 しかし、造船疑獄をきっかけに吉田体制が崩壊する中で、内閣不信任案をつきつけられ、解散総選挙をもくろむ吉田に対し、「総裁あっての党ではない、党あっての総裁だ!」「自由党から吉田を除名する」と激怒。副総理の緒方竹虎と共に、退陣へのきっかけを作った。 昭和30年(1955年)の保守合同でもプロモーターとして活躍し、自由民主党結党に参加。自民党の初代参議院議員会長に就任。 昭和31年(1956年)緒方の急死に伴い、2月に後任の総裁代行委員となる。4月には参議院議長に選出される。 戦後の参議院では、議事の遂行において公平を期すために議長在任中は党籍を離脱する慣例となっていた。なお松野以前の3人が所属していた緑風会は無所属議員のための会派であって身分的には無所属である。だが、戦前の帝国議会で唯一の公選によって選ばれていた衆議院の議長(通常は第一党から選出)は、その党籍を維持してその権威によって議事運営を行う一方で、第一党の独断的な動きに対しては党員としての発言力によって阻止し続ける事によってその暴走を食い止めるという慣例が存在していた。戦前立憲政友会に在籍していた松野はその時代の議長観を戦後になっても保持しており、他党の党籍離脱要求にもかかわらず参議院議長在任中も党籍を維持。自民党会派にも所属し続けた。日米安保条約改訂などで政局が流動的な情勢の中、松野は己の議長観に忠実に従うことによって自民党側の強引な議事運営を防止しつつ、円滑な審議に尽力して一定の成果を収めたが、それは同時に「参議院の政党化」を促進する事にも繋がった。一方で1961年には衆議院で可決された政治的暴力行為防止法案を参議院で廃案とすることもしている(松野クーデター)。 松野の後任となった重宗雄三も同様に自民党所属のまま参議院議長を9年間務め、党内で絶対的な権力を持つに至った。議長の党籍、ないしは院内会派からの離脱が定着するのは、重宗の後任となった河野謙三が党籍を離脱してからである。 昭和37年(1962年)10月18日、78歳にて死去。従二位勲一等旭日桐花大綬章。墓所は鎌倉市東慶寺。 父・長八(農業、馬の仲買人、造り酒屋) 母・ソノ(祖父榮三郎長女) 姉・スナ(熊本県人平井唯蔵に嫁す) 妹 妻・タキノ(商工大臣野田卯太郎長女) 長男・昌太郎 次男・良助(実業家) 三男・頼三(政治家) 野田卯太郎(福岡県平民、政治家、実業家) 古市公威(男爵、東京帝国大学名誉教授) 参院のドン ^ 原敬内閣の総選挙で初当選 「吉田茂を引き出した男」松野鶴平(1) ^ 『人事興信録. 7版』(大正14年)ま五九 ^ 近代の山鹿の偉人たち 013熊本県初の参議院議長 松野 鶴平. 山鹿市教育委員会 教育部 文化課. (平成 22 年 3 月 発行) ^ 熊本4区 第14回衆議院議員選挙 - ザ・選挙 - ^ 旧政友会の議員でも昭和14年(1939年)の政友会分裂に際し革新派・中立派に与した議員は日本進歩党の結党に参加した。また、政友会分裂に際し松野とともに正統派に与した議員でも久原系の議員は自由・進歩両党の結党には参加せず、院内会派・無所属倶楽部の結成に参加した。 ^ “熊本選挙区 第2回参議院議員補欠選挙”. ザ・選挙. JAN JAN. 2010年8月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月12日閲覧。 表 話 編 歴 元田肇 大木遠吉 山之内一次 小松謙次郎 仙石貢 井上匡四郎 小川平吉 江木翼 原脩次郎 床次竹二郎 三土忠造 内田信也 前田米蔵 伍堂卓雄 中島知久平 前田米蔵 永井柳太郎 永田秀次郎 松野鶴平 村田省蔵 小川郷太郎 村田省蔵 寺島健 八田嘉明 表 話 編 歴 松平恆雄 佐藤尚武 河井彌八 松野鶴平 重宗雄三 河野謙三 安井謙 徳永正利 木村睦男 藤田正明 土屋義彦 長田裕二 原文兵衛 斎藤十朗 井上裕 倉田寛之 扇千景 江田五月 西岡武夫 平田健二 山崎正昭 伊達忠一 山東昭子 尾辻秀久 関口昌一 議院 貴族院 参議院 衆議院 表 話 編 歴 田方進↓ 堀内到↓ 城義臣↑ 松野鶴平↑ 谷口弥三郎 深水六郎 深水六郎 谷口弥三郎 森中守義 林田正治 園木登↓ 林田正治 北口龍徳↑↓ 園田清充↑ 高田浩運 園田清充 高田浩運↓ 園田清充 田代由紀男↑ 田代由紀男 園田清充↓ 守住有信↑ 田代由紀男 守住有信 守住有信 浦田勝 本田良一 木村仁 松野鶴平 寺本広作 桜井三郎↓ 松野鶴平↓ 野上進↑ 沢田一精↑ 森中守義 沢田一精 寺本広作 森中守義 三善信二↓ 細川護熙 三浦八水↑ 沢田一精 浦田勝 紀平悌子 沢田一精 阿曽田清↓ 三浦一水 魚住汎英↑ 三浦一水 松野信夫 馬場成志 木村仁 松村祥史 表 話 編 歴 松野鶴平 野村吉三郎 吉野信次 重宗雄三 林屋亀次郎 青木一男 平井太郎 郡祐一 安井謙 徳永正利 町村金五 木村睦男 藤田正明 土屋義彦 山内一郎 長田裕二 原文兵衛 斎藤十朗 遠藤要 坂野重信 井上吉夫 井上裕 村上正邦 竹山裕 青木幹雄 尾辻秀久 中曽根弘文 溝手顕正 橋本聖子 関口昌一 武見敬三 VIAF 日本 参議院議長 自由民主党の参議院議員 自由民主党参議院議員会長 自由党(日本 1950-1955)の参議院議員 熊本県選出の参議院議員 昭和時代の参議院議員 在職中に死去した参議院議員 熊本県選出の衆議院議員 (帝国議会) 大正時代の衆議院議員 昭和時代戦前の衆議院議員 昭和時代戦前の閣僚 日本の鉄道大臣 日本の鉄道実業家 熊本電気鉄道 従二位受位者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 公職追放者 私の履歴書の登場人物 世襲政治家 松野長八家 熊本県出身の人物 1883年生 1962年没 外部リンクがリンク切れになっている記事/2015年9月 プロジェクト人物伝項目 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2025/04/02 09:31更新
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matsuno tsuruhei
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