保利茂の情報(ほりしげる) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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保利茂と関係のある人
周恩来: なお、アルバニア決議が採択された際に自由民主党幹事長の保利茂は訪中する美濃部亮吉東京都知事に書簡を託すも周恩来は佐藤政権への不信感から斥けていた。 三島由紀夫: 同じ7月、三島は保利茂官房長官と中曽根康弘防衛庁長官に『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』という防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、中曽根に阻止されて閣僚会議で佐藤栄作首相に提出されず葬られた。 佐藤栄作: なお、アルバニア決議が採択された際に「佐藤派の大番頭」と称された保利茂自由民主党幹事長は、訪中する美濃部亮吉東京都知事に書簡を託すも、周恩来は決議に反対していた佐藤政権への不信感から退けていた。 宮下創平: 大蔵省では主計局総務課を皮切りに名古屋国税局調査査察部国税調査官、銚子税務署長、保利茂内閣官房長官秘書官、主計局主計官(法規課)、主計局主計官(防衛担当)、主計局主計官(農林担当)などを歴任。 三木武夫: 16日には田中の政治姿勢を批判して福田蔵相が辞任し、更に保利茂行政管理庁長官も辞任した。 三木武夫: 国民協同党と民主党との合併が進まないうちに、1950年2月10日に民主党連立派の保利茂らが民自党に入党し、更に勢力を拡大した。 大野市郎: 1972年(昭和47年)に保利茂らと福田派に参じるが、1976年(昭和51年)の第34回総選挙で落選し、政界を引退した。 三木武夫: この段階で椎名は保利茂による暫定政権を決意するが、保利を指名した場合、暫定政権案が潰されることを分かった上で保利を指名し、結局は椎名にお鉢が回ってくることを狙ったと見られるため、保利暫定政権案も断念することになった。 二階堂進: 自民党では同じ吉田学校出身の佐藤栄作の側近として活躍し1957年には橋本登美三郎・愛知揆一・保利茂・松野頼三らとともに周山会(佐藤派)を結成する。 三木武夫: そこで椎名は灘尾弘吉、保利茂、前尾繁三郎といった長老議員による暫定政権を樹立して自民党を立て直し、その後に本格政権を樹立するという構想を描いていた。 塚原俊郎: 1970年には党国会対策委員長として、幹事長の保利茂とともに「沖縄国会」を成功裡に導く。 山中貞則: 1971年には、美濃部亮吉東京都知事に託した周恩来宛の書簡について当時の保利茂自民党幹事長に抗議するも、「山中君、君の中華民国を思う信念は尊いし、今後も実行し続けてほしい。 細田吉蔵: 自民党内では当初佐藤栄作率いる周山会に属したが、ポスト佐藤を巡り田中角栄と福田赳夫がしのぎを削った1972年の自民党総裁選では保利茂、松野頼三らと共に福田を支持。 橋本龍太郎: 佐藤栄作引退を受けての自民党の総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤栄作が福田赳夫を支持するように示唆したが、橋本はこれを固辞し、田中派に参加した。 橋本登美三郎: 佐藤栄作の側近として、田中角栄、保利茂、愛知揆一、松野頼三とともに「佐藤派五奉行」の一翼を占める。 灘尾弘吉: 総選挙に先立ち、保利茂議長の病気辞任に伴って1979年2月1日第60代衆議院議長に就任しており、総選挙後も引き続き第61代衆議院議長を務めた(戸川猪佐武「小説吉田学校」によると、灘尾を議長留任とすることで大平退陣・灘尾暫定政権の目を封じたい主流派の意向もあったという)。 三木武夫: この事態に保利茂幹事長はあわてた。 愛知揆一: 同派内では、田中角栄、保利茂、松野頼三、橋本登美三郎とともに「佐藤派五奉行」と呼ばれ、「社会開発」「人間尊重」のスローガンを佐藤政権誕生のブレーンとして取りまとめた。 保利耕輔: 衆議院議長や内閣官房長官、農林大臣、労働大臣、自民党幹事長・自民党総務会長などを歴任した元衆議院議員の保利茂は父。 瀬戸山三男: 佐藤派分裂に際しては、保利茂・松野頼三らとともに福田赳夫派に合流する。 菊池福治郎: その後、国会議員・保利茂の秘書を務めた。 福田康夫: 2004年4月、内閣官房長官の在任記録が1259日となり、それまで歴代1位だった保利茂の在任記録を更新し、会見で「秘密主義長官、影の外務大臣、影の防衛庁長官。 山崎達之輔: 後の衆議院議長・保利茂は山崎が岡田内閣の農林大臣時代に農相秘書官を務めた。 福家俊一: 朝鮮総連の金炳植副議長と知己があり、1971年の美濃部知事の中朝訪問の際に、保利茂自民党幹事長が周恩来宛の書簡(いわゆる「保利書簡」)を託すにあたって、小森武と協力して工作を行った。 福田赳夫: 1972年(昭和47年)7月、「われ日本の柱とならん」を掛け声に佐藤後継の本命として保利茂・松野頼三・園田直・藤尾正行ら他派の親福田議員を結集して総裁選に出馬する。 森山欽司: 1978年3月2日、永年在職議員表彰を保利茂衆議院議長から受け、慣例により自民党顧問に就任した。 塚原俊平: 自民党では福田赳夫→安倍晋太郎→三塚博派(清和政策研究会)に属し、父・俊郎が保利茂系であったことから、保利に可愛がられた。 池田勇人: 自由党の中でこの解散日を知っていたのは、吉田と池田以外は保利茂内閣官房長官と麻生太賀吉の二人のみで、その二人も池田が後から伝えたといわれる。 金丸信: 1961年に再婚した際に媒酌人を引き受けてもらったのをきっかけに、佐藤派幹部の保利茂を「政治の師匠」とした(なおしばしば「金丸は、髪型まで保利にならっている」といわれたが、本人は「そんなことはない」と言っている)。 美濃部亮吉: 1971年11月に中華人民共和国を訪問し、当時自由民主党幹事長だった保利茂から俗に「保利書簡」と呼ばれる周恩来宛の書簡を託される。 |
保利茂の情報まとめ
保利 茂(ほり しげる)さんの誕生日は1901年12月20日です。佐賀出身の政治家のようです。
父親、母親、兄弟、姉妹、卒業、現在、退社、解散、事件、趣味に関する情報もありますね。1979年に亡くなられているようです。
保利茂のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)保利 茂(ほり しげる、1901年〈明治34年〉12月20日 - 1979年〈昭和54年〉3月4日)は、日本の政治家。 衆議院議員(12期)、内閣官房長官(第8代・第33・34代)、衆議院議長(第59代)、労働大臣(第45・46代)、農林大臣(第19代)、自由民主党幹事長(第12代)、自由民主党総務会長(第7代)などを歴任した。 佐賀県東松浦郡鬼塚村(現・唐津市)の零細農家に生まれる。生家は貧しく、父親は車夫、母親や兄弟姉妹は野良仕事や養蚕、行商などで生計を立てていた。保利は家の仕事を手伝いながら小学校に通った。高等小学校を優等の成績で卒業したが、経済的な理由で中学への進学はかなわず、地元の唐津鉄工所の見習工になった。3年間の見習工を終えて練習生になった17歳のとき、職場を飛び出し上京した。 東京では早大理工学部教授の西岡達郎に保証人になってもらい、専検に合格して軍の学校に入ることを目指した。働きながら独学で勉強に励み専検に合格したが保利は軍人志望をあきらめ、働きながら学べるところとして、中央大学経済学部経済学科の夜間部に入学した。 苦学して中央大学を卒業後、報知新聞に入社。中大教授の佐藤正之が先輩で報知の政治部長をしていた井上勝好を紹介してくれたことがきっかけだった。当時、清浦内閣打倒の第二次憲政擁護運動が起こり、立憲政友会が政友本党と分離し憲政会総裁の加藤高明を首相とする護憲3派連立内閣が発足したところであり、保利は政局取材に駆けずり回った。後年、保利は「取材記者としては、これでもかなり有能だった。私は終生新聞記者で、筆を持って立ちたいと思っていたんです」と語っている。 その後人事異動で千葉支局に配置換えとなった。政局取材を経験した後の地方勤務は味気なく、もんもんとした日々を送っていたところに誘いを受け、1927年5月に東京日日新聞(現在の毎日新聞)へ転職した。記者時代は政友会担当の山下倶楽部詰めが長かった。1933年5月、保利は大阪毎日新聞に転勤となった。入社の際に世話になった城戸元亮が大毎会長に転じたので、保利も大毎に呼ばれたのである。ところが10月、取締役会長の城戸を追放する大毎騒動と言われた社内抗争が起きた。保利も城戸に殉じて大毎を退社し、政友会の山本条太郎に身の振り方を相談した。 1934年7月、「雪隠詰の謀将」として知られ親しくしていた山崎達之輔が農林大臣となったためその秘書となり、農林関係の会社に勤めた。1944年12月に、郷里の佐賀で翼賛選挙に非推薦で当選した松岡平市代議士が選挙違反で失格となり、衆議院補欠選挙が行われた。保利はこれに立候補して、対立候補が出なかったため無投票当選を果たした。 戦後、当初保利は鳩山一郎による日本自由党結成に合流しようとしたが、山崎に反対されたため、日本進歩党に所属した。GHQによる公職追放の嵐が吹き荒れる中行われた第22回衆議院議員総選挙では、党の所属議員274名中260名が追放の処分となる中当選を果たした。党総裁であった町田忠治も公職追放となったため、幣原喜重郎が総裁となるが、犬養健とともに若手議員らからなる反幣原派「新進会」を結成し、芦田均を首班とする新党結成に動き出した。1947年2月、第1次吉田内閣において商工政務次官となり、同年3月の進歩党解党後は民主党に所属する。 しかし同年4月に行われた第23回衆議院議員総選挙の選挙活動の最中に追加処分を受け、出馬できなくなってしまった。なお、この追放処分は1948年に取消となっている。この間、1948年4月、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。 1950年の民主党分裂に当たっては民主党連立派に属し、吉田茂の民主自由党に合流、自由党を結成する。そのまま、いわゆる「吉田学校」の言わば「編入生」として吉田に重用される。 1950年、第3次吉田第1次改造内閣で労働大臣で初入閣。当選3回、49歳だった。吉田は保利の能力と粘り強さを高く評価した。しかし、犬養を差し置いての保利の入閣には悪評がつきまとった。1951年には内閣官房長官に抜擢された。吉田は保利に「単なる補佐役と思っては困ります。あなたがもし総理大臣だったらどうするか、そう考えて仕事をしてください」と官房長官の心得を諭した。 吉田自由党では大野伴睦・林譲治・益谷秀次が「ご三家」、池田勇人・佐藤栄作・広川弘禅・保利茂が「四奉行」と呼ばれた。公職追放が解除となり、戦前派の大物が続々と政界に復帰し、吉田に退陣圧力をかけた。戦前、政友会の幹事長を務めた松野鶴平も自由党に復帰し、死去した古島一雄に代わって吉田首相の政治指南役となった。保利官房長官は吉田と松野の連絡役を務めた。大麻唯男は松村謙三ら旧民政党系政治家と「新政クラブ」を作り、野党の国民民主党と合同して1952年2月に改進党を結成し、総裁には元外相の重光葵を担ぎ出した。通常国会は荒れ模様となり吉田首相は鳩山派の攻勢に反撃するため、松野の入れ知恵で抜き打ち解散の意向を固め、保利官房長官にその準備を指示した。 臨時国会は同年8月26日に召集され、大野が衆議院議長に選出された。その2日後に吉田首相は突如として衆議院の解散を断行した。憲法7条だけに基づく初めての解散であり、野党も鳩山派も完全に意表を突かれた。自由党執行部からも不満が噴出した。解散を事前に知っていたのは保利、池田、佐藤、松野らに限られ、林幹事長、益谷総務会長、大野衆議院議長らには事前の根回しがなかった。特に「三日議長」とやゆされた大野は激怒し、その怒りの矛先は保利官房長官に向けられた。後々まで「寝業師」「策士」と言われたのは、犬養を置いてきぼりにして入閣したことと、この抜き打ち解散の経緯がある。 1954年、吉田が退陣し、鳩山一郎内閣が成立すると状況は一変し、保利はしばらく表舞台から遠ざかる。1955年の保守合同で生まれた自由民主党に参加、党内では佐藤派に所属する。また、翌年結成された自由民主党佐賀県連の初代会長となった。 池田勇人内閣で自民党総務会長となるが、1963年の総選挙で落選し雌伏を強いられる。落選中も佐藤栄作からの厚い信頼を得ていた保利は、池田が三選を目指す1964年自由民主党総裁選挙への佐藤出馬を促したが、同じ派内で重きを為していた田中角栄が吉田の説得を取り付けてまで佐藤と池田の仲介に乗り出しており、この頃から田中との間に確執を生まれることになる。結果的に現職の池田が再選を果たすものの、程なくしてに喉頭癌で退陣を余儀なくされ、後継総裁に佐藤が当選する下地を作ることとなった。 1966年8月の内閣改造で佐藤は保利を農相に起用しようとしたが、川島正次郎副総裁・田中幹事長らの反対で実現しなかった。 1967年の第31回衆議院議員総選挙で復活当選した。10万票を超える圧倒的な得票でトップ当選を飾った。1967年11月の第2次佐藤第1次改造内閣で建設相に就任し、吉田内閣の農相以来、13年ぶりに閣僚に返り咲いた。 1968年11月の内閣改造で内閣官房長官に就任。当時66歳だった保利は「こんな年寄りではいけんよ」と固辞したが、佐藤は「一度くらい、一緒に苦労してくれてもいいだろ」と殺し文句を繰り出した。前任の木村俊夫が副長官に格下げになって保利を補佐する、「大官房長官」の体制がとられ、副総理格の扱いだった。保利は通常の行政事務はほとんど木村副長官に任せ、重要課題の処理に全力を挙げた。佐藤首相は、吹き荒れていた大学紛争を沈静化させ、安定した国内情勢を背景に沖縄返還の対米交渉に全力を挙げ、「70年安保」を無事に乗り切ることを目標としていた。そのために保利官房長官・田中幹事長・愛知揆一外相という布陣を敷いたのであった。保利は佐藤派の大番頭と呼ばれ、田中・福田赳夫とともに佐藤政権の三本柱をなした。 佐藤政権は大学紛争の沈静化のため特別立法の検討を進めていたが、坂田道太文相がまとめた文部省案に対して自民党内から「学内暴力を徹底的に取り締まる中身にすべきだ」との異論が出た。保利が調整に乗り出し、坂田文相や文部省幹部と話し合い、大学当局者の意見を聞き、ひそかに学生の代表とも会って彼らの声に耳を傾けた。後藤田正晴警察庁長官・秦野章警視総監とも協議を重ねて「多少生ぬるい内容であっても、大学当局の自主努力を促す文部省案で行こう」と決断し、党内の一部の反対を押し切って「大学運営臨時措置法案」(大学管理法)を国会に提出した。この法案に対して社会党・共産党が強く反対したため国会審議は難航を重ねたが、田中自民党幹事長が押し切って大学管理法は1969年8月3日に成立した。この直後から大学紛争は潮が引くように沈静化していった。 1969年11月14日、佐藤首相の訪米に合わせて首相の臨時首相代理に指名される。 1971年7月5日の内閣改造で、保利は官房長官から自民党幹事長に転じた。保利の使命は同年6月に調印された沖縄返還協定の国会承認と、佐藤の円満な退陣、福田へのバトンタッチであった。しかし、このころから佐藤政権は内外の逆風に翻弄されて思わぬ悪戦苦闘を強いられた。 第9回参議院議員通常選挙では、野党共闘が奏功して自民党の議席が予想外に落ち込み、与野党の議席差が縮まった。議会運営では、岸信介・佐藤栄作と「長州ご三家」といわれ、9年間議長として参議院に君臨した重宗雄三が佐藤内閣を支える重要な一角であったが、河野謙三が「重宗王国」に造反して野党の支持のもとで議長になった。保利幹事長は重宗・河野間の調整に乗り出し、木内四郎を新議長とすることで折り合いがついたが、重宗が不出馬会見で「河野が野党と結託して」と発言したことに河野が強く反発して保利の調整工作は不発に終わった。 1971年7月キッシンジャー米国務長官が中国を訪問し、ニクソン大統領の72年訪中が公表された。日本の頭越しの米中接近に衝撃を受けた。その1カ月後、ニクソン大統領は緊急ドル防衛策を発表し、変動相場制に移行した。日米の信頼関係は一層深まったと考えていた佐藤政権は2つのニクソン・ショックにうろたえた。特に米中接近は日本の世論を刺激し、日中国交回復を求める声が一段と大きくなった。中国の国連加盟問題で困難な対応を迫られた。米国提案の逆重要事項指定決議案と、複合二重代表制決議案の共同提案国になるかどうかをめぐって自民党の意見は割れた。 保利はひそかに日中関係打開のために重要な布石を打っていた。周恩来首相にあてた「保利書簡」である。訪中する美濃部亮吉東京都知事に託され、北京で届けられた。しかし、この書簡を読んで「まやかしであり、信用できない」と受け止めた周は書簡を返却し、不発に終わった。国交のない中共に向けた書簡は国内で波紋を呼び、それまで親台派と目されていた保利は山中貞則に詰め寄られることとなった。 佐藤後の後継を選ぶこととなった1972年自由民主党総裁選挙では佐藤の意を受けて福田を支持するが、田中が佐藤派の多数派を引き連れて総裁選出馬へと動くと田中派が結成されるのに先立って派内の非・田中支持議員を糾合して「周山クラブ」(保利派)を結成。しかし田中支持への動きを止められずに福田は落選。総裁選挙後に福田派へと合流する。 第2次田中角栄内閣では行政管理庁長官となる。第10回参院選での自民党の敗北を受けて三木武夫が環境庁長官を辞任したのに続き、福田が大蔵大臣の辞意を表明すると、保利は自ら慰留に動くが、福田の意志は変わらず、責任をとって行政管理庁長官を辞任した。1974年に田中金脈問題の表面化から田中首相が退陣した際に、自由民主党副総裁だった椎名悦三郎と組んで後継総裁の調整に動き、三木を後継総裁に指名した『椎名裁定』を陰で演出する役回りを演じた。この過程で椎名は保利暫定政権を模索したこともあり、金丸信や田村元は保利擁立に動いていたため、保利の総理・総裁の可能性もあったとされる。三木政権では訪中して周恩来や鄧小平と会談するなど、「保利書簡」以来の念願を果たした。しかし1976年にロッキード事件の発覚から「三木おろし」が起きた際には椎名や船田中・園田直と共に反主流派連合党挙党体制協議会(挙党協)が結成され船田中とともに代表世話人になり、三木降ろしの先頭に立った。 保利は「大福一本化」工作に乗り出し、金丸信が二人を仲介して保利・福田会談が実現した。保利は大平の側近・田中六助を招いて大平説得を依頼した。この間、田中派の西村英一を通じて田中の意向も確認した。10月27日、品川のホテルパシフィック東京で保利と福田・大平・園田直・鈴木善幸が会談し、その席上で2年交代を示唆する大福一本化のメモが読み上げられ、保利が立会人となって文書に福田・園田・大平・鈴木の4人が署名し調整役として大福密約を結ばせた。 同年12月5日に行われた第34回衆議院議員総選挙での敗北の責任をとって三木が退陣し、12月24日に福田赳夫内閣が発足。保利は衆議院議長に就任した(在任期間・1976年12月24日 - 1979年2月1日)。在任中は話し合い重視の円満な国会運営を心がけた。野党も保利の重厚な人柄に敬意を払い、保利の議長在任中は与野党伯仲状況だったにもかかわらず、国会運営は極めてスムーズに運んだ。 その後、福田首相の周辺から衆議院の解散論が流れるようになる。政権や自民党の支持率が回復傾向にある中、解散して勝利すれば総裁再選を経て長期政権の足固めとなる可能性が高かった。しかしこれは大福一本化の合意から逸脱するものであり、保利は解散論をけん制するため「解散権の恣意的な乱用は好ましくない」と繰り返し述べた。解散論は1978年春を過ぎるころには下火になったが、結果的にはこのことは福田政権の寿命を縮めることになった。 保利が福田首相の決断を促してきた懸案の日中平和友好条約の締結についても、同年8月12日に調印に至り、保利の残りの使命は同年11月の自由民主党総裁選挙で福田から大平への円満なバトンタッチを見届けるだけであったが、大福2年交代の密約は守られることなく福田は続投を表明した。告示の11月1日、福田と大平が出馬のあいさつに訪れた。福田に対して保利は「私は2年前のことに責任を感じている」と厳しい表情で対応したが、大平には温かく激励した。保利はこの2年間、幹事長として黙々と福田政権に協力してきた大平を高く評価していた。結局、福田は総裁選で敗北し、大平政権が誕生することになった。 1978年11月総裁選告示の翌日、肝臓がんで入院。大平の総裁選勝利を見届け「大平総裁でわたしの使命は終わった。大平の門出はわたしがやってやらなきゃ」とつぶやいた。12月7日の首相指名選挙では病を押して議長席についた。1979年1月の施政方針演説と各党代表質問が終わると辞任。 議長退任間もない1979年3月4日に、心不全のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。享年77。墓は佐賀県唐津市山本の万徳寺にある(その他川崎市春秋苑にも墓がある)。法名は、正覚院釋祥瑞。 文部大臣、自治大臣を務めた衆議院議員の保利耕輔は長男。副総理、自民党副総裁を務めた金丸信は保利を師と仰ぎ、一時期、髪型まで真似する程、傾倒したといわれる。 「謀将」と呼ばれ典型的な「密室型」「調整型」政治家であり、裏方に徹した。その時々の政局に関し深い読みを持ち、保守本流の維持をはかった。一方で無欲恬淡とした性格で佐賀県出身者らしい「葉隠」精神の持ち主と評される。 「百術は一誠に如かず」をモットーに政治活動に打ち込んだ。「寝業師」「策士」とも評されたが、晩年は誠実で重厚な人柄が高く評価され、与野党の枠を超えた人望を集めて「名議長」と評された。 派閥はつくらず、「政界の脇役」を任じてきた。財界人とは新日鉄の永野重雄や日本精工の今里広記と特に親しく、2人を幹事とした財界人の集まり「二火会」を持っていた。趣味はゴルフ・マージャン・囲碁で、保利の周囲には人望を慕う坪川信三・塚原俊平・細田吉蔵・金丸信らマージャングループの側近が常に集まっていた。 『戦後政治の覚書』毎日新聞社、1975年。NDLJP:12227676。 岸本弘一 編『一誠の道 保利茂写真譜』保利茂伝刊行委員会、1980年3月。NDLJP:12262890。 保利茂伝刊行委員会 編『追想保利茂』1985年3月。NDLJP:12253623。 ^ “苦学力行、新聞記者から政界に 「いぶし銀の調整役」保利茂(1)”. 日本経済新聞 電子版. 2020年2月19日閲覧。 ^ “犬養健と芦田民主党結成に動く”. 日本経済新聞 電子版 (2011年9月25日). 2020年3月12日閲覧。 ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第15号 昭和23年4月14日 ^ “佐藤長期政権を要職で支える”. 日本経済新聞 電子版. 2020年2月19日閲覧。 ^ 臨時首相代理に保利長官『朝日新聞』昭和44年(1969年)11月14日夕刊、3版、1面 ^ “日中関係打開めざした「保利書簡」 「いぶし銀の調整役」保利茂(7)”. 日本経済新聞 電子版. 2020年2月19日閲覧。 ^ “「角福」調整に腐心、衆院議長に”. 日本経済新聞 (2011年11月6日). 2022年7月23日閲覧。 ^ “「角福」調整に腐心、衆院議長に”. 日本経済新聞 (2011年11月6日). 2022年7月23日閲覧。 ^ “「角福」調整に腐心、衆院議長に”. 日本経済新聞 電子版. 2020年2月16日閲覧。 吉田学校 佐藤派五奉行 吉田13人衆 周山会 自由民主党幹事長 表 話 編 歴 中島信行 星亨 楠本正隆 鳩山和夫 片岡健吉 河野広中 松田正久 杉田定一 長谷場純孝 大岡育造 長谷場純孝 奥繁三郎 島田三郎 大岡育造 奥繁三郎 粕谷義三 森田茂 元田肇 川原茂輔 堀切善兵衛 藤沢幾之輔 中村啓次郎 秋田清 浜田国松 富田幸次郎 小山松寿 田子一民 岡田忠彦 島田俊雄 樋貝詮三 山崎猛 松岡駒吉 幣原喜重郎 林讓治 大野伴睦 堤康次郎 松永東 益谷秀次 星島二郎 加藤鐐五郎 清瀬一郎 船田中 山口喜久一郎 綾部健太郎 石井光次郎 松田竹千代 船田中 中村梅吉 前尾繁三郎 保利茂 灘尾弘吉 福田一 福永健司 坂田道太 原健三郎 田村元 櫻内義雄 土井たか子 伊藤宗一郎 綿貫民輔 河野洋平 横路孝弘 伊吹文明 町村信孝 大島理森 細田博之 額賀福志郎 議院 衆議院 貴族院 参議院 表 話 編 歴 浅沼稲次郎 山口喜久一郎 大村清一 小沢佐重喜 石田博英 福永健司 菅家喜六 中村梅吉 椎熊三郎 保利茂 山村新治郎 江﨑真澄 荒舩清十郎 周東英雄 福永健司 小平久雄 福田一 佐々木秀世 福永健司 坪川信三 塚原俊郎 坪川信三 伊能繁次郎 久野忠治 塚原俊郎 渡海元三郎 田澤吉郎 海部俊樹 佐々木秀世 田澤吉郎 金丸信 細田吉蔵 亀岡高夫 山下元利 内海英男 山村新治郎 小沢一郎 綿貫民輔 越智伊平 三塚博 山口敏夫 小此木彦三郎 山下徳夫 森喜朗 中西啓介 与謝野馨 奥田敬和 中村正三郎 谷垣禎一 平沼赳夫 亀井善之 中川秀直 大島理森 藤井孝男 鈴木宗男 鳩山邦夫 大野功統 武部勤 川崎二郎 佐田玄一郎 逢沢一郎 笹川堯 小坂憲次 松本剛明 川端達夫 小平忠正 高木義明 佐田玄一郎 高木毅 逢沢一郎 林幹雄 河村建夫 佐藤勉 古屋圭司 高市早苗 高木毅 山口俊一 浜田靖一 表 話 編 歴 斎藤隆夫 船田享二 船田享二 殖田俊吉 工藤鉄男 本多市郎 岡野清豪 広川弘禅 橋本龍伍 木村篤太郎 野田卯一 本多市郎 塚田十一郎 西田隆男 川島正次郎 河野一郎 大久保留次郎 石井光次郎 山口喜久一郎 益谷秀次 高橋進太郎 小沢佐重喜 川島正次郎 山村新治郎 増原恵吉 福田篤泰 田中茂穂 松平勇雄 木村武雄 荒木万寿夫 中村寅太 浜野清吾 福田赳夫 保利茂 細田吉蔵 松沢雄蔵 荒舩清十郎 西村英一 荒舩清十郎 金井元彦 宇野宗佑 中曽根康弘 斎藤邦吉 後藤田正晴 廃止 表 話 編 歴 中村弘毅 井上毅 土方久元 田中光顯 田中光顯 小牧昌業 周布公平 平山成信 伊東巳代治 高橋健三 平山成信 鮫島武之助 武富時敏 安広伴一郎 鮫島武之助 柴田家門 石渡敏一 南弘 柴田家門 南弘 江木翼 山之内一次 児玉秀雄 高橋光威 三土忠造 宮田光雄 樺山資英 小橋一太 塚本清治 鳩山一郎 鈴木富士彌 川崎卓吉 森恪 柴田善三郎 堀切善次郎 河田烈 吉田茂 白根竹介 藤沼庄平 大橋八郎 風見章 田辺治通 太田耕造 遠藤柳作 石渡荘太郎 富田健治 星野直樹 三浦一雄 田中武雄 広瀬久忠 石渡荘太郎 迫水久常 緒方竹虎 次田大三郎 楢橋渡 林譲治 林譲治 西尾末広 苫米地義三 佐藤栄作 増田甲子七 岡崎勝男 保利茂 緒方竹虎 福永健司 根本龍太郎 石田博英 愛知揆一 赤城宗徳 椎名悦三郎 大平正芳 黒金泰美 鈴木善幸 橋本登美三郎 愛知揆一 福永健司 木村俊夫 保利茂 竹下登 二階堂進 竹下登 井出一太郎 園田直 安倍晋太郎 田中六助 伊東正義 宮澤喜一 後藤田正晴 藤波孝生 後藤田正晴 小渕恵三 塩川正十郎 山下徳夫 森山眞弓 坂本三十次 加藤紘一 河野洋平 武村正義 熊谷弘 五十嵐広三 野坂浩賢 梶山静六 村岡兼造 野中広務 青木幹雄 中川秀直 福田康夫 細田博之 安倍晋三 塩崎恭久 与謝野馨 町村信孝 河村建夫 平野博文 仙谷由人 枝野幸男 藤村修 菅義偉 加藤勝信 松野博一 林芳正 表 話 編 歴 小日山直登 田中武雄 三土忠造 村上義一 平塚常次郎 増田甲子七 苫米地義三 北村徳太郎 岡田勢一 小沢佐重喜 大屋晋三 山崎猛 石井光次郎 三木武夫 吉野信次 宮沢胤勇 中村三之丞 永野護 重宗雄三 楢橋渡 南好雄 木暮武太夫 斎藤昇 綾部健太郎 松浦周太郎 中村寅太 荒舩清十郎 藤枝泉介 大橋武夫 中曽根康弘 原田憲 橋本登美三郎 丹羽喬四郎 佐々木秀世 新谷寅三郎 徳永正利 江藤智 木村睦男 石田博英 田村元 福永健司 森山欽司 地崎宇三郎 塩川正十郎 小坂徳三郎 長谷川峻 細田吉蔵 山下徳夫 三塚博 橋本龍太郎 石原慎太郎 佐藤信二 山村新治郎 江藤隆美 大野明 村岡兼造 奥田敬和 越智伊平 伊藤茂 二見伸明 亀井静香 平沼赳夫 亀井善之 古賀誠 藤井孝男 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 木村小左衛門 一松定吉 一松定吉 益谷秀次 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 小沢佐重喜 竹山祐太郎 馬場元治 南条徳男 根本龍太郎 遠藤三郎 村上勇 橋本登美三郎 中村梅吉 河野一郎 小山長規 瀬戸山三男 橋本登美三郎 西村英一 保利茂 坪川信三 根本龍太郎 西村英一 木村武雄 金丸信 亀岡高夫 小沢辰男 仮谷忠男 竹下登 中馬辰猪 長谷川四郎 櫻内義雄 渡海元三郎 渡辺栄一 斉藤滋与史 始関伊平 内海英男 水野清 木部佳昭 江藤隆美 天野光晴 越智伊平 小此木彦三郎 野田毅 原田昇左右 綿貫民輔 大塚雄司 山崎拓 中村喜四郎 五十嵐広三 森本晃司 野坂浩賢 森喜朗 中尾栄一 亀井静香 瓦力 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 大野伴睦 緒方竹虎 三好英之 大久保留次郎 正力松太郎 川村松助 鹿島守之助 石井光次郎 山口喜久一郎 村上勇 西川甚五郎 小沢佐重喜 川島正次郎 佐藤栄作 増原惠吉 福田篤泰 前尾繁三郎 二階堂進 木村武雄 野田武夫 西田信一 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 古賀雷四郎 綿貫民輔 粕谷茂 坂元親男 井上吉夫 阿部文男 砂田重民 木部佳昭 谷洋一 伊江朝雄 北修二 上原康助 佐藤守良 小里貞利 小沢潔 高木正明 岡部三郎 稲垣実男 鈴木宗男 井上吉夫 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 西村英一 丹羽兵助 金丸信 天野光晴 田沢吉郎 櫻内義雄 中野四郎 園田清充 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 山崎平八郎 綿貫民輔 奥野誠亮 内海英男 野中英二 石井一 佐藤守良 西田司 東家嘉幸 井上孝 上原康助 左藤恵 小沢潔 池端清一 鈴木和美 伊藤公介 亀井久興 柳澤伯夫 井上吉夫 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 扇千景 石原伸晃 北側一雄 冬柴鐵三 谷垣禎一 中山成彬 金子一義 前原誠司 馬淵澄夫 大畠章宏 前田武志 羽田雄一郎 太田昭宏 石井啓一 赤羽一嘉 斉藤鉄夫 中野洋昌 表 話 編 歴 高橋是清 岡崎邦輔 早速整爾 町田忠治 山本悌二郎 町田忠治 山本悌二郎 後藤文夫 山崎達之輔 島田俊雄 山崎達之輔 有馬頼寧 櫻内幸雄 伍堂卓雄 酒井忠正 島田俊雄 近衛文麿 石黒忠篤 井野碩哉 山崎達之輔 千石興太郎 松村謙三 副島千八 和田博雄 吉田茂 木村小左衛門 平野力三 波多野鼎 永江一夫 周東英雄 森幸太郎 広川弘禅 根本龍太郎 広川弘禅 小笠原三九郎 広川弘禅 田子一民 内田信也 保利茂 河野一郎 井出一太郎 赤城宗徳 三浦一雄 福田赳夫 南条徳男 周東英雄 河野一郎 重政誠之 赤城宗徳 坂田英一 松野頼三 倉石忠雄 西村直己 長谷川四郎 倉石忠雄 赤城宗徳 足立篤郎 櫻内義雄 倉石忠雄 安倍晋太郎 大石武一 鈴木善幸 中川一郎 中川一郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 亀岡高夫 田沢吉郎 金子岩三 山村新治郎 佐藤守良 羽田孜 加藤六月 佐藤隆 羽田孜 堀之内久男 鹿野道彦 山本富雄 近藤元次 田名部匡省 宮澤喜一 畑英次郎 加藤六月 大河原太一郎 野呂田芳成 大原一三 藤本孝雄 越智伊平 島村宜伸 中川昭一 玉澤徳一郎 谷洋一 谷津義男 武部勤 大島理森 亀井善之 島村宜伸 小泉純一郎 岩永峯一 中川昭一 松岡利勝 赤城徳彦 若林正俊 遠藤武彦 若林正俊 太田誠一 石破茂 赤松広隆 山田正彦 鹿野道彦 郡司彰 林芳正 西川公也 林芳正 森山裕 山本有二 齋藤健 吉川貴盛 江藤拓 野上浩太郎 金子原二郎 野村哲郎 宮下一郎 坂本哲志 小里泰弘 江藤拓 表 話 編 歴 木戸幸一 広瀬久忠 小原直 秋田清 吉田茂 安井英二 金光庸夫 小泉親彦 広瀬久忠 相川勝六 岡田忠彦 松村謙三 芦田均 河合良成 一松定吉 竹田儀一 林譲治 黒川武雄 橋本龍伍 吉武恵市 山縣勝見 草葉隆圓 鶴見祐輔 川崎秀二 小林英三 神田博 堀木鎌三 橋本龍伍 坂田道太 渡邊良夫 中山マサ 古井喜実 灘尾弘吉 西村英一 小林武治 神田博 鈴木善幸 坊秀男 園田直 斎藤昇 内田常雄 斎藤昇 塩見俊二 斎藤邦吉 福永健司 田中正巳 早川崇 渡辺美智雄 小沢辰男 橋本龍太郎 野呂恭一 斎藤邦吉 園田直 村山達雄 森下元晴 林義郎 渡部恒三 増岡博之 今井勇 斎藤十朗 藤本孝雄 小泉純一郎 戸井田三郎 津島雄二 下条進一郎 山下徳夫 丹羽雄哉 大内啓伍 井出正一 森井忠良 菅直人 小泉純一郎 宮下創平 丹羽雄哉 津島雄二 坂口力 米窪満亮 加藤勘十 増田甲子七 鈴木正文 保利茂 吉武恵市 戸塚九一郎 小坂善太郎 千葉三郎 西田隆男 倉石忠雄 松浦周太郎 石田博英 倉石忠雄 松野頼三 石田博英 福永健司 大橋武夫 石田博英 小平久雄 山手満男 早川崇 小川平二 原健三郎 野原正勝 原健三郎 塚原俊郎 田村元 加藤常太郎 長谷川峻 大久保武雄 長谷川峻 浦野幸男 石田博英 藤井勝志 栗原祐幸 藤波孝生 藤尾正行 初村滝一郎 大野明 坂本三十次 山口敏夫 林迶 平井卓志 中村太郎 丹羽兵助 堀内光雄 福島譲二 塚原俊平 小里貞利 近藤鉄雄 村上正邦 坂口力 鳩山邦夫 浜本万三 青木薪次 永井孝信 岡野裕 伊吹文明 甘利明 牧野隆守 吉川芳男 坂口力 坂口力 尾辻秀久 川崎二郎 柳澤伯夫 舛添要一 長妻昭 細川律夫 小宮山洋子 三井辨雄 田村憲久 塩崎恭久 加藤勝信 根本匠 加藤勝信 田村憲久 後藤茂之 加藤勝信 武見敬三 福岡資麿 2001年の省庁再編により厚生大臣と労働大臣は統合された。 表 話 編 歴 岸信介 三木武夫 川島正次郎 福田赳夫 川島正次郎 益谷秀次 前尾繁三郎 三木武夫 田中角栄 福田赳夫 田中角栄 保利茂 橋本登美三郎 二階堂進 中曽根康弘 内田常雄 大平正芳 斎藤邦吉 櫻内義雄 二階堂進 田中六助 金丸信 竹下登 安倍晋太郎 橋本龍太郎 小沢一郎 小渕恵三 綿貫民輔 梶山静六 森喜朗 三塚博 加藤紘一 森喜朗 野中広務 古賀誠 山崎拓 安倍晋三 武部勤 中川秀直 麻生太郎 伊吹文明 麻生太郎 細田博之 大島理森 石原伸晃 石破茂 谷垣禎一 二階俊博 甘利明 茂木敏充 森山裕 表 話 編 歴 石井光次郎 砂田重政 佐藤栄作 河野一郎 益谷秀次 石井光次郎 保利茂 赤城宗徳 藤山愛一郎 中村梅吉 前尾繁三郎 福永健司 椎名悦三郎 橋本登美三郎 鈴木善幸 中曽根康弘 鈴木善幸 灘尾弘吉 松野頼三 江﨑真澄 中曽根康弘 倉石忠雄 鈴木善幸 二階堂進 田中龍夫 細田吉蔵 金丸信 宮澤喜一 安倍晋太郎 伊東正義 水野清 唐沢俊二郎 西岡武夫 佐藤孝行 木部佳昭 武藤嘉文 塩川正十郎 森喜朗 深谷隆司 池田行彦 小里貞利 村岡兼造 堀内光雄 久間章生 丹羽雄哉 二階俊博 笹川堯 田野瀬良太郎 小池百合子 塩谷立 細田博之 野田聖子 二階俊博 細田博之 竹下亘 加藤勝信 鈴木俊一 佐藤勉 福田達夫 遠藤利明 森山裕 鈴木俊一 表 話 編 歴 中村又一 森直次 大島多蔵 梁井淳二 角田藤三郎 永井英修 保利茂 中村又一 三池信 北川定務 保利茂 愛野時一郎↓ 井手以誠 三池信 館林三喜男 江藤夏雄↑ 井手以誠 保利茂 三池信 館林三喜男 江藤夏雄 保利茂 八木昇 井手以誠 真崎勝次 大坪保雄 三池信 保利茂 井手以誠 八木昇 大坪保雄 古賀了 保利茂 三池信 井手以誠 館林三喜男 井手以誠 大坪保雄 三池信 八木昇 館林三喜男 保利茂 三池信 八木昇 大坪保雄 井手以誠 保利茂 三池信 大坪保雄 山下徳夫 八木昇 保利茂 八木昇 愛野興一郎 三池信 山下徳夫 保利茂 山下徳夫 三池信 大坪健一郎 愛野興一郎 保利耕輔 八木昇 愛野興一郎 山下徳夫 大坪健一郎 保利耕輔 三池信 八木昇 愛野興一郎 山下徳夫 八木昇 保利耕輔 愛野興一郎 山下徳夫 三池信 大坪健一郎 保利耕輔 山下徳夫 愛野興一郎 緒方克陽 緒方克陽 山下徳夫 保利耕輔 坂井隆憲 愛野興一郎 山下徳夫 保利耕輔 愛野興一郎 緒方克陽 坂井隆憲 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 保利茂 衆議院議長 佐賀県選出の衆議院議員 佐賀県選出の衆議院議員 (帝国議会) 昭和時代戦前の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 自由党(日本 1950-1955)の衆議院議員 自由民主党の衆議院議員 在職中に死去した衆議院議員 昭和時代戦後の閣僚 日本の農林大臣 日本の労働大臣 日本の建設大臣 行政管理庁長官 日本の内閣官房長官 自由民主党幹事長 証人喚問された人物 東京日日新聞社の人物 戦前の報知新聞社の人物 日本の政治家秘書 金丸信 公職追放者 自由民主党の都道府県支部連合会会長 従二位受位者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 中央大学出身の人物 佐賀県出身の人物 1901年生 1979年没 春秋苑に埋葬されている人物 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事
2024/11/16 13:23更新
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