橋本龍太郎の情報(はしもとりゅうたろう) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
橋本 龍太郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
橋本龍太郎と関係のある人
永田寿康: 2004年10月5日には自民党旧橋本派を巡る日歯連闇献金事件で、東京地検が橋本龍太郎ら3人を不起訴処分としたことについて、「不起訴は不当」として、検察審査会に審査を申し立てた。 野口健: 環境保護関連で野口の活動に理解を示した橋本龍太郎・元秘書や側近たちの選挙応援、2005年9月の第44回衆議院議員総選挙・2016年東京都知事選挙では小池百合子の選挙応援・応援演説に駆け付けている。 村岡兼造: その後は、小渕派幹部として1995年から1997年まで総裁・橋本龍太郎の下で自民党国会対策委員長、同年9月発足した第2次橋本改造内閣では梶山静六の後任として内閣官房長官に就任した。 三船敏郎: 司葉子は当時の橋本龍太郎首相に、三船になぜ国民栄誉賞をあげないのかと直訴している。 久間章生: 橋本龍太郎首相は米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の移設問題や日米防衛協力のための指針見直しを控え、自らの意向を反映するには欠かせないと考え、1997年9月11日発足の第2次橋本改造内閣でも留任し、久間は国防族幹部の地位を確立した。 若宮貞夫: 元総理大臣の橋本龍太郎および元高知県知事橋本大二郎の外祖父。 門田隆将: この手記に関する記事が自民党機関誌の自由新報でも掲載されたため、自民党と公明党の接近が計られる中、時の内閣総理大臣・橋本龍太郎が謝罪を行う事態にまで発展した。 登坂重次郎: 1963年の第30回衆議院議員総選挙に、旧茨城3区にて無所属で立候補し当選(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮など)。 麻生太郎: 首相経験者の入閣は第2次森改造内閣(中央省庁再編後)に宮澤喜一が財務大臣、橋本龍太郎が沖縄及び北方対策担当大臣兼行政改革担当大臣として入閣した時以来となる。 村山富市: 自社さ政権協議にて、自民党総裁橋本龍太郎を首班とする連立に合意した。 藤井勝志: 衆議院議員時代は、同じ選挙区に加藤六月や橋本龍太郎らがおり、苦戦することもあったが、地盤は磐石だった。 中部慶次郎: これ以外にも鳩山一郎・鳩山由紀夫・小川平吉・岸田文雄・鈴木善幸・麻生太郎・正田英三郎・安西孝之・三木武夫・齊藤了英・藤山愛一郎・田中角栄・田中直紀・池田勇人・池田行彦・中曽根康弘・5代目太田清蔵・太田誠一・櫻内義雄・福田赳夫・福田康夫・津軽義孝・中内㓛・坂野常礼・宮原旭・清水満昭・豊田章一郎・豊田達郎・飯田新一・鮎川義介・西園寺公望・橋本龍太郎・河野洋平・河野太郎・久邇宮邦彦王・仙石政敬・梅溪通虎・正力亨・池坊専永・五島昇・大隈信幸・北野隆興・竹中統一・米内光政・竹下登・金丸信・小沢一郎・山本権兵衛・松方正義・山下亀三郎・岡崎忠・伊藤次郎左衛門・下条進一郎・安倍晋三・安倍晋太郎・岸信介・佐藤栄作・佐藤信二・木内重四郎・岩崎弥太郎・加藤高明・幣原喜重郎などと縁戚関係にある。 藤本孝雄: (当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・藤尾正行・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮など)。 江藤隆美: 1989年6月、宇野宗佑内閣では自民党幹事長に昇格した橋本龍太郎の後任として、幹事長代理となる。 加藤勝信: 当選後は橋本龍太郎が会長を務める平成研究会に入会する。 久保亘: 自社さ3党連立の枠組みは変わらず、自民党の橋本龍太郎を首班とする連立内閣が発足。 松井孝治: 村山談話の起草や、橋本龍太郎首相が推進した「橋本行革」の発案にも携わった。 竹下登: このときのメンバーだった橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜、そして田中側近の小沢辰男に近いことから当初参加せず後から参加した奥田敬和、口が軽いとみられ早稲田の後輩ながら誘われなかった渡部恒三は後に竹下派七奉行と呼ばれた。 森田実: 2001年4月、その森政権崩壊に伴う自由民主党総裁選挙の際は、再登板を目指した橋本龍太郎の圧勝を断言したが、総裁選の結果は小泉の圧勝であった(ただし、当時は橋本派が自民党最大派閥で、内外のメディアも橋本勝利を予想するのが一般的であり、森田の予想はそれほど特異なものではなかった)。 笹川堯: 自民党復党後、当時の内閣総理大臣橋本龍太郎の出身派閥である平成研究会に入会(小渕→橋本→津島派)。 谷垣禎一: 自民党総裁就任時に内閣総理大臣に指名されなかったのは河野洋平、橋本龍太郎に次いで3人目であった。 金丸信: 金丸は竹下派七奉行の中でも特に小沢に目をかけ、1989年8月、竹下の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢重用は橋本龍太郎や梶山静六ら竹下に近い議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金となった。 今村豊: 1987年の全日本選手権の優勝者表彰では、橋本龍太郎運輸大臣(当時)と一般財団法人日本船舶振興会会長の笹川良一に直接表彰された。 木村守男: 橋本龍太郎首相と会談し廃棄物の搬入を認めた。 水野清: 同年11月、橋本龍太郎首相により行政改革を担当する内閣総理大臣補佐官及び行政改革会議事務局長に起用され、橋本首相の掲げた六大改革の推進を補佐した。 加藤紘一: 翌1995年、総裁・橋本龍太郎の下で自民党幹事長に起用される。 小宮山重四郎: 1960年の第29回衆議院議員総選挙に自民党公認で埼玉2区(当時)から立候補し次点で落選するも、1963年の第30回衆議院議員総選挙に再び立候補しトップで初当選(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・奥野誠亮など)。 赤松広隆: ただし、その後3党合意がなされ、村山富市が擁立された1994年6月の首班指名選挙では、赤松は村山に投票した(1996年1月の、村山首相辞任に伴う首班指名選挙では橋本龍太郎自由民主党総裁に投票せず、白票を投じた)。 松永光: 同年7月の第19回参議院議員通常選挙の敗北に伴い、橋本龍太郎首相は退陣し、松永も大蔵大臣を退任した。 岸本建男: 12月24日、名護市長の比嘉鉄也は橋本龍太郎首相に「建設容認」の意向を表明。 |
橋本龍太郎の情報まとめ
橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう)さんの誕生日は1937年7月29日です。東京出身の政治家のようです。
引退、趣味、卒業、結婚、事故、病気、事件、テレビ、解散、家族、現在、母親、父親、兄弟に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2006年に亡くなられているようです。
橋本龍太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年〈昭和12年〉7月29日 - 2006年〈平成18年〉7月1日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位菊花大綬章。学位は法学士(慶應義塾大学)。岡山県総社市名誉市民。剣道錬士六段。 衆議院議員(14期)、厚生大臣(第56代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第93・94・103代)、通商産業大臣(第57代)、副総理(村山改造内閣)、内閣総理大臣(第82・83代)、沖縄開発庁長官(第42代)、行政改革担当大臣(初代)、沖縄及び北方対策担当大臣(初代)、規制改革担当大臣(初代)、自由民主党幹事長(第29代)、自由民主党政務調査会長、自由民主党総裁(第17代)を歴任した。 初当選以来自由民主党に所属し、衆議院議員を14期にわたって務める。また第1次大平内閣で厚生大臣に就任し、昭和2ケタ生まれで初めて入閣を果たしたのを皮切りに運輸大臣・大蔵大臣などを歴任し、いわゆるニューリーダーの後を担う総裁候補と目されるようになった。 竹下派七奉行の一人であり、1990年代の日本の政界を代表する政治家である。ポマード頭と呼ばれた独特の髪型がトレードマーク。剣道教士六段の称号・段位を持つ。 1994年に発足した「自社さ連立政権」の村山内閣では通商産業大臣を務め、自由民主党総裁就任に伴って副総理を兼務し、1996年の村山富市首相退陣に伴い、内閣総理大臣に就任する。 在任中は住宅金融専門会社問題(住専問題、第136回国会)や行財政改革に取り組み、外交面ではアメリカのクリントン大統領・ロシアのエリツィン大統領と親交を深める。第18回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け引責辞任した後も、同期当選の小渕恵三首相の下で外交特別顧問に就任し、その後も第2次森改造内閣で行政改革担当大臣や沖縄開発庁長官を、また中央省庁再編後には規制改革担当大臣や沖縄及び北方対策担当大臣を歴任。 2001年自由民主党総裁選挙に再起を期して出馬するが、小泉純一郎に敗れる。2005年に政界を引退し、地盤を次男の橋本岳に譲る。翌2006年に死去。68歳没。 東京府東京市渋谷区(現:東京都渋谷区)に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれた。母・春は警視総監・朝鮮総督府政務総監などを歴任した大野緑一郎の長女であったが、中耳炎をこじらせて龍太郎を出産した5か月後に急死した。官僚である父・龍伍には転勤がつきものだったため、武家(旧:熊本藩士)の出である祖母の真都に育てられた。なお、龍伍は戦後政界に進出し、吉田茂の側近となる。 田園調布小学校に入る前の6歳の時に、継母・正を迎えた。 麻布中学受験の際、橋本の受験番号は“1073番”だったが一番違いの“1074番”に作家の安部譲二がいた。それが縁で仲良しになり、2人は中学3年間を通じて同じクラスだった。 麻布中学入学時から橋本は学校の勉強に全くついていけず、成績は常に圧倒的最下位だった。このことについて周囲は、政治家の息子なので橋本は裏口入学だ、と暗黙の了解事項として理解していた。 麻布中学時代の橋本龍太郎のニックネームは「サル」。 麻布中学時代、橋本龍太郎の試験の点数は殆ど0点ばかりだったにも関わらず麻布高校に進むと山岳部に所属した。高校時代は登山に明け暮れてそれほど勉強をしなかったため、橋本の成績は中位くらいだったという記述もある。また、大学入学後にはもう一つの趣味であった剣道にも力を入れた。 1956年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学。橋本には、腰椎カリエスによって足に障害を負っていた父・龍伍に門戸を開いてくれた唯一の高等学校であった、慶應に対する一入の思い入れがあり、以後並々ならぬ愛校心を抱き続けた。父にとっても橋本の慶應義塾大学の合格は大きな喜びだったようで、「龍伍が慶應義塾を語るとき、その目は輝いていた」という。大学時代の思い出となった講義では中村菊男の明治・大正の政治家の逸話を挙げている。 橋本龍太郎は大学でも剣道に力を入れた。とにかく前に出て攻めていたので“突貫剣士”というニックネームをつけられていた。なお目の下には傷跡が残っていたが、大学時代軽井沢の別荘に行った時にチンピラと殴り合ってナイフで切られた名残であるという。 大学卒業後、呉羽紡績株式会社(のち東洋紡に吸収合併。クレハは分社した化学部門)に入社した。 社会人3年目の1962年、父・龍伍が急死した。橋本龍太郎は会社に出勤してから2時間後に父の訃報を聞いたという。 父の意中の後継者は弟・大二郎であり、龍太郎本人も政界に進むつもりはなかった。後に橋本は「親父は僕を政治家にするつもりはなかったし、僕も全くやる気はなかった。腕白坊主だったから」と述べている。 しかし、当時未成年であった橋本大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の継母・正に出馬を求める声も上がったが、父と親交の深かった佐藤栄作による指名を受け、橋本龍太郎が亡父の後継者として選挙に出馬することになった。立候補が決まった橋本龍太郎は、当時の西村英一厚生大臣にお願いして、父が大臣を務めた厚生省の会議をまんべんなく見学、実務を熟知しているノンキャリアの課長補佐に貼り付くように質問をしながらノートを取り続けて猛勉強しており、その姿は政治記者だけでなく厚生省を取材していた社会部記者も感心していたという。 1963年の総選挙で橋本龍太郎は衆議院議員選挙で初当選する。開票結果は選挙戦前の予測を上回る7万4564票で、江田三郎に次いで2位の得票数だった。この選挙で小渕恵三(のち首相)も初当選を飾った。 初登院の時に継母・正が付き添ったことから、マスコミからは「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄され、「マザコン代議士」と冷やかす報道もあった。橋本龍太郎本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対する労いの気持ちから出た行動であると説明している。 議員当選後に遠縁に当たる久美子と結婚。久美子はカトリックだったため、六本木のチャペルセンターで結婚式を挙げた。媒酌人は佐藤栄作。佐藤家と橋本家は軽井沢の別荘も隣同士ということで毎夏顔を合わせる仲であり、父が亡くなった時、佐藤栄作が葬儀委員長を務めた。そういった関係でもあり、橋本は自民党内の派閥では、佐藤派に所属した。 1969年の第32回衆議院議員総選挙では選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長の田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。この事により、佐藤派内で橋本龍太郎は田中、竹下に傾倒するようになった。佐藤栄作引退を受けての自民党の総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤栄作が福田赳夫を支持するように示唆したが、橋本はこれを固辞し、田中派に参加した。 1978年12月7日、橋本龍太郎は第1次大平内閣で厚生大臣に任命された。当選5回にしての初入閣であり、「親子二代の厚相」としてマスコミにも取り上げられた。昭和2ケタ生まれの閣僚は、橋本が初めてであった。厚相在任中はスモン訴訟の和解に尽力した。ちなみに、次男の橋本岳は厚生労働副大臣を務めている。 水俣病の患者らが厚生省に押しかけ、死亡者補償が交通事故死の補償より安かったことについて抗議したことがあった。しかし、応対した橋本龍太郎は、患者らの「人命軽視だ」という批判に対して、「政府が人命を大事にしなかったことがあるか!取り消せ!」と激怒し、とりなした厚生省幹部を「黙ってろ!」と怒鳴りつけた。 その後、橋本龍太郎は竹下登を中心とする創政会の結成に参画し、その後の経世会においても中心人物の一人となり竹下派七奉行の一角を占めた。 1986年7月22日、第3次中曽根内閣では運輸大臣に就任し、政権の主要政策である国鉄分割民営化で辣腕を振るった。大臣在任中、橋本の似顔絵が描かれたオレンジカードをつくり、希望者(友人らを中心に、一般国民も大臣に手紙を書けば貰えたという)に無料で配布した。イラン・イラク戦争の際、海上保安庁の巡視船を派遣する案が事務レベルで調整された際には「一番船には僕が乗っていく」との決意とともに承諾したが、結局後藤田正晴内閣官房長官の反対により実現しなかった。 1987年には竹下内閣で自民党の幹事長代理に就任し、病気療養中であった幹事長の安倍晋太郎に変わって調整役を担い、消費税導入や昭和天皇の大喪の礼に対して党側の実務を担当した。 1989年、宇野内閣成立時には橋本龍太郎は幹事長代理としての実績・手腕が評価され、自民党の幹事長に昇格した。宇野政権においては、リクルート事件や消費税の影響に加えて、宇野宗佑本人の女性スキャンダルが噴出した。一方で、不人気の宇野首相に代わって自民党幹事長の橋本龍太郎は自民党の先頭に立って日本各地を積極的に遊説し、橋本は全国的に国民的知名度を得るに至った。政権与党である自民党がかつてないほどの厳しい逆風にさらされた1989年7月の参院選では、自民党は議席を大幅に減らし大惨敗した。その際に、橋本の「ちくしょう!やっぱりこれだけ(差が)開いたか」とチェリーを喫煙しながら悔しがるシーンがテレビで放映され、その眉目秀麗ぶりと併せて話題となった。 宇野宗佑が総理を辞任すると、橋本龍太郎は次の後継候補に浮上し、本命視された。しかし、女性問題を理由に自派閥の支持が伸び悩み、盟友・安倍晋太郎への配慮から世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信や小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野宗佑の後継には海部俊樹が就任した。当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本龍太郎と小沢一郎は、このころからたびたび対立を繰り返して、「一龍戦争」と呼ばれた。 1989年8月、第1次海部内閣では、橋本龍太郎は大蔵大臣に就任し、第2次海部内閣でも留任するが、1991年10月、証券不祥事などで大蔵大臣の職を引責辞任した。 1992年10月、竹下派(経世会)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれ、竹下派の後継会長の座を巡って小沢派と反小沢派が対立する。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕恵三との争いの末、小渕恵三が派閥領袖と決まり経世会は小渕派となった。橋本は小渕と協力し、小沢・羽田派は経世会を離脱して「改革フォーラム21」(羽田派)を立ち上げた。経世会の副会長に就任していた橋本龍太郎は、そのまま小渕派副会長として小渕と行動を共にした。 この間の1991年12月に弟の橋本大二郎が高知県知事選挙に立候補し、当選した。この時の知事選挙では、橋本龍太郎は自民党推薦の候補と対決し、高知県の街頭演説では、弟の大二郎の横に立って「自慢の弟です!」と弟への支持を聴衆、有権者に呼び掛けた。 1993年の総選挙の時には、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本龍太郎、河野洋平、石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ、全国遊説で奮闘した。しかし、総選挙の後には細川内閣が成立し、自民党は野党に転落した。宮澤喜一首相の後継総裁に後藤田正晴と並んで本命視されたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退し、河野洋平総裁の下で政務調査会長に就任した。この野党時代に、小沢一郎の「日本改造計画」に触発されて、橋本は「政権奪還論」を著している。 自民党が与党に復帰した際、自社さ連立政権の村山内閣では、橋本龍太郎は通商産業大臣に就任した。大臣在任中、橋本は日米自動車交渉をまとめ、交渉相手の米国からも「タフ・ネゴシエイター」として高く評価されている。 1995年9月、橋本龍太郎は圧倒的な国民的人気を背景に自民党総裁選に出馬する。 当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎討ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶応大学出身の橋本の「早慶戦」、共に昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野洋平は自らが所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂が生じるのを恐れる」として出馬を辞退する。そして、河野に代わって三塚派の小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」、「KK(慶慶)決戦」と評される総裁選が展開された。 自民党総裁選の結果は、数々の役職を無難にこなし竹下派の支持を取り付けた橋本龍太郎が304票を獲得し、87票を獲得した小泉純一郎に圧勝した。こうして、橋本龍太郎は、第17代自由民主党総裁に就任し、自民党幹事長には宮澤派の加藤紘一、総務会長には三塚派の塩川正十郎、政調会長には旧渡辺派の山崎拓を選任した。また、橋本龍太郎は総裁就任に伴って、村山改造内閣では副総理を兼務し引き続き通産相を務めた。 1996年1月11日に村山富市首相の辞任に伴い、橋本龍太郎は第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による「第1次橋本内閣」が発足した。内閣官房長官には、橋本らと共に竹下派七奉行と呼ばれた実力者である梶山静六が選任された。その後の施政方針演説では、橋本は改革の必要性を主張し、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。 橋本の就任当初は村山政権下で決定された住宅金融専門会社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題について、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開して激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開した。橋本政権は序盤から大きな批判、逆風にさらされた。ただし、海外市場では好感する動きが見られた。 1996年2月23日にアメリカのクリントン大統領との首脳会談で橋本は普天間飛行場の返還を要求し、4月12日に日米両政府が全面返還に合意した。普天間の代替基地についても安全保障政策・環境政策が絡む中でアメリカや沖縄の基地自治体関係者と対談を行い、翌1997年12月24日には比嘉鉄也名護市長によるヘリポート受け入れ(辺野古移設)表明を取り付け、普天間基地返還に本格的道筋を付けた。この結果、住専問題で逓減していた支持率は60パーセントに上昇した。 自身の59歳の誕生日である1996年7月29日に、橋本龍太郎は靖国神社を参拝した。この現職の内閣総理大臣の参拝は、中曽根康弘が1985年の終戦記念日に初の公式参拝をして以来であった。 同年の臨時国会冒頭の9月27日、橋本龍太郎は衆議院を解散する。そして、小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。選挙期間中は日本各地から橋本に選挙応援の依頼が殺到し、全国で「橋龍人気」と言われるほどの国民的人気を見せ付けて自民党は大勝利した。 1996年11月7日、社民党・新党さきがけが閣外協力に転じて、3年ぶりの自民党単独内閣「第2次橋本内閣」が発足した。この時、自民党単独内閣になったと言われたが、実際は社民党・新党さきがけが閣外から橋本内閣に協力していたので、3党の連立の枠組みはまだあった。この第2次橋本内閣では、橋本は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」の六大改革を提唱した。 特に行政改革にかける橋本の意気込みは、「火だるまになっても(行革を)やり切る」と述べるほどであり、『火だるま行革』とマスメディアに報道された。 橋本龍太郎は首相直属の「行政改革会議」を設置し、自らその議長となった。メンバーには武藤嘉文総務庁長官・中央省庁改革等担当大臣、水野清総理補佐官(行政改革担当)のほか、経団連会長の豊田章一郎、連合会長の芦田甚之助、東京大学名誉教授の有馬朗人、上智大学教授の猪口邦子ら、財界・学界などから有識者を迎え、官僚や官僚出身者を排除する体制とした。 第二次橋本内閣は閣僚に「行革を実行できる人材」を当てるとし、行革内閣として船出しており、中でも、薬害エイズ事件による信用失墜で「最も難しい人事」とされた厚相に先の総裁選で争った小泉純一郎が起用されたのも、その行革姿勢の一つの現れであった。内閣官房副長官に与謝野馨を起用した。小渕恵三は一時衆議院議長就任に意欲を見せていたが、橋本が「恵ちゃん、ぼくに何かあったときにどうするんだい」と待ったの言葉をかけ、議長は伊藤宗一郎が就任した。 1996年12月17日、ペルーのリマにある日本大使公邸を、トゥパク・アマル革命運動が占拠し、多数が人質となる「在ペルー日本大使公邸占拠事件」が発生した。橋本は直ちに池田行彦外相と医療チームを現地に派遣した。池田の帰国を受け、24日にペルーのフジモリ大統領と会談、ペルー政府を支援する方針を表明した。フジモリが武力突入を示唆し始めると、29日にフジモリに親書を送って平和解決を要請。さらに1997年1月31日、橋本はカナダのトロントでフジモリと会談し、平和解決に努力することで一致した。同年4月22日、ペルーの特殊部隊が公邸に突入。人質となっていた日本人に犠牲者を出すことなく解決した。橋本は後に、人質事件で死亡したペルー人犠牲者の家族を日本に招待した。事件の際、外務省の対策本部に木村屋總本店のあんパンを大量に差し入れ、「アンパン総理」といった声も聞かれた。 1997年の通常国会で最大の焦点であった、沖縄のアメリカ軍軍用地収用への自治体介入を防ぐ駐留軍用地特措法問題で、同年4月、新進党党首の小沢一郎と党首会談を行った。橋本と小沢は特措法を成立させることで合意し、同法は新進党の協力を得て成立した。新進党との協力が成功したことで、自民党と新進党による「保保連立」が浮上。自民党内は、加藤や野中広務らの「自社さ派」と梶山や亀井静香らの「保保派」に二分された。橋本は自社さ派と評されるようになる。 1997年6月23日にコロンビア大学での講演において聴衆から「日本がアメリカ国債を蓄積し続けることが長期的な利益」に関して質問が出た際、橋本は「大量のアメリカ国債を売却しようとする誘惑にかられたことは、幾度かあります。」と返した。そしてアメリカ経済が与える世界経済への影響などを理由に挙げた上で「アメリカ国債を売却し、外貨準備を金に替えようとしたい誘惑に屈服することは無い」と続けた。しかし、大量のアメリカ国債を保有する日本の首相が「アメリカ国債を売却」することへの言及をしたことが大きく注目され、ニューヨーク証券取引所の株価が一時下落した。 1997年9月、橋本龍太郎は自民党総裁に再選され、内閣改造を行い「第2次橋本改造内閣」が発足した。橋本は梶山に代わって村岡兼造を官房長官に指名したほか、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を中央省庁改革などの担当である総務庁長官に起用した。これには、世間から多くの非難が集中し、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったという。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった。 1997年11月のロシアのエリツィン大統領との首脳会談では、2000年までに平和条約を締結することや両国の経済協力を促進する事で合意した。 1997年11月、橋本内閣は「財政構造改革法」を成立させて、2003年までの赤字国債発行を毎年度削減するなどの財政再建路線をとり、緊縮型の予算を組んだ。しかし、その後、日本経済の景気減速が顕著となり、北海道拓殖銀行や山一證券などの経営破綻が起こると、自民党内やアメリカ政府から、さらに景気対策を求める声が増えていった。また、山一證券の破綻で、橋本内閣の掲げる6大改革の一つ「金融システム改革」および、それにに伴う「金融ビッグバン」への批判も相次いだ。これを受け1997年12月、橋本内閣は2兆円の特別減税を表明した。 1997年12月24日から「龍ちゃんプリクラ」こと橋本首相といっしょに写真が取れるプリントクラブが、党本部1階ロビーに設置された。 1998年(平成10年)4月、橋本は4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した。また同年、金融監督庁を新たに設置し、大蔵省から金融業務を分離し、金融不安に対処する体制を整えた。1998年5月、離党議員の復党などにより自民党が衆議院で半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消した。 1998年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化、橋本龍太郎や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走などで、当初は70議席を獲得すると予想されていた自民党は44議席にとどまり、選挙で惨敗した。この時、橋本龍太郎は「すべてひっくるめて私の責任だ。力不足。それ以上いうことはない」と敗戦の弁を述べた後、橋本内閣は総辞職した。 1997年には日本の総理大臣として初めて北朝鮮の拉致事件について国会答弁で触れている。 1997年(平成9年)4月1日に村山内閣で内定していた消費税などの税率引き上げと地方消費税の導入(4パーセント→地方消費税1パーセントを合わせて5パーセント)を第2次橋本内閣が実施。 産経新聞の田村秀男編集委員は、記事「カンノミクスの勘違い」の中で橋本が消費増税を実行したせいで、増税実施の翌年から、日本は長期デフレーション(失われた〇〇年の20年に当たる時期)に突入したと評している。田村編集委員は、消費増税を実施した1997年度(平成9年度)においては、消費税収が約4兆円増えたが、2年後の1999年(平成11年)度には、1997年度比で、所得税収と法人税収の合計額が6兆5千億もの税収減にとなったと指摘し、消費増税の効果が「たちまち吹っ飛んで現在に至る」と評している。さらに、「橋本元首相は財務省官僚の言いなりになった事を、亡くなる間際まで悔いていたと聞く。」と述べている。 2001年自由民主党総裁選挙に出馬した際も、橋本龍太郎が自身の公式ホームページにて、財政再建を急ぐあまり経済の実態を十分に把握しないまま消費税増税に踏み切り、結果として日本を不況に陥らせたことを謝罪している。 橋本は生前「私は平成9年から10年にかけて緊縮財政をやり、国民に迷惑をかけた。私の友人も自殺した。本当に国民に申し訳なかった。これを深くお詫びしたい」「財政再建のタイミングを早まって経済低迷をもたらした」との自責の念も示している。 日本の所得税収、法人税収はそれぞれ1998年度、1999年度と減少し続けているが、法人税は両年にわたって、所得税は1999年度に減税が実行されている。他の先進国の基準に合わせる方向で、所得税は高所得者の負担が軽減、法人税は税率が引き下げられているため、減税による税収減も含まれている。 その額は、所得税・住民税の定率減税(3兆5000億円)と最高税率の引下げ(5000億円)、法人税・法人事業税の税率引下げ(2兆5000億円)などである。この三つの合計は6兆5000億円となり、上の指摘の額と同じになる。つまり、税収の減収額は、減税の額と同じになり、消費税導入の効果は中立的であったことになる。 1997年の消費税増税、健康保険の自己負担率引き上げ、特別減税廃止など、総額約10兆円の緊縮財政の影響や金融不況の影響もあり、1998年度の日本の名目GDPは、前年度比マイナス2%の523兆円まで約10兆円縮小し、GDPデフレーターはマイナス0.5%に落ち込んで、深刻な就職氷河期、デフレーション経済が蔓延する結果になった。 首相退任後の1998年8月、橋本龍太郎は小渕恵三首相から、「首相外交最高顧問」を任じられ受けている。この首相外交最高顧問は、内閣官房長官が「任務を解く」と談話を出すまで続けられることとなっており、議員引退後もこの肩書は残っていた。小渕、森、小泉と三代にわたって務め上げた。 同年12月、育ての母である正が死去。葬儀では喪主を務める。 1999年9月、橋本は小渕首相から厚生大臣への就任を打診された。2000年4月に介護保険制度導入を控えており、実力者でなければ職務に耐えられないと判断した小渕は、厚生族の橋本に白羽の矢を立てたものだが、橋本は「(前年の)参院選惨敗の責任は私にあるから入閣は無理」として固辞する。自分に代わって、同じく厚生族の丹羽雄哉を推薦し、丹羽が厚生大臣に就任する。 2000年7月、旧小渕派会長の綿貫民輔が衆議院議長に就任したことに伴って、橋本龍太郎は旧小渕派の会長に就任したが、これは周囲が橋本を積極的に推したわけではなく、他に適格な人材がいなかったためである。実権は野中広務や青木幹雄が握っており、橋本は会長とは名前ばかりの「雇われマダム」と揶揄するマスコミもあった。橋本自身、会長職を望んでいたわけではなかったが、放っておくこともできず、仕方なく引き受けたという。 2000年11月、「加藤の乱」の際に、かつてヨーロッパで行われた儀式を引き合いに出し「猫を鉄板の上で躍らせるようにして甚振れ」と発言し、物議を醸す。 2000年12月、不人気に苦しんでいた森喜朗首相に請われ、橋本は第2次森改造内閣で沖縄開発庁長官に就任し、また、新設された行政改革担当大臣も兼務した。自身が進めた省庁再編を担当し、翌2001年、再編後の内閣では省庁再編で生まれた沖縄及び北方対策担当大臣に就任する。橋本龍太郎のその仕事ぶりは政官ともに評価が高く、ポスト森(森の後継)に浮上した。 2001年4月の総裁選では、同派幹部の高鳥修や村岡兼造らのすすめもあり派内や公明党に待望論のあった野中広務を抑えて出馬。橋本擁立に当たっては派内若手から異論も出たが、当初は橋本の勝利が予想された。しかし、実際に対決してみると、「小泉旋風」と呼ばれる絶大な人気のある小泉純一郎が大勝利し、橋本は敗北してしまった。総裁選の結果は、小泉が298票を獲得したのに対し、橋本は155票で次点に終わった。なお小泉からも入閣を要請されたが、橋本は固辞している。 2003年9月の総裁選では橋本派から熊代昭彦、笹川堯、藤井孝男の3人が総裁選出馬を表明する。橋本は3人と面談し藤井の擁立を決定するが、藤井は小泉純一郎・亀井静香の後塵を拝して落選した。この総裁選の過程で村岡兼造や久間章生らベテラン議員、さらに青木幹雄・片山虎之助らの参議院側、自身が自民党総裁・内閣総理大臣として陣頭指揮を執った1996年衆院選当選組の桜田義孝、下地幹郎、新藤義孝、大村秀章などの橋本派若手議員が小泉支持に回るなど派内の分裂が決定的となり、橋本派は弱体化した。 2004年7月、日歯連闇献金事件が発覚した。内容としては、橋本龍太郎と青木幹雄と野中広務が日本歯科医師連盟会長、理事(当時)と料亭で会食し、その際に1億円の小切手を受け取り、旧橋本派の公認会計士が換金を行って旧橋本派の派閥金庫にしまわれ、この献金について旧橋本派や平成研究会が収支報告書に記載しなかったというものであった。 東京地検が政治資金規正法違反で旧橋本派の公認会計士、日歯連会長と理事を逮捕した。この事件により平成研究会の会長を辞任し、同派から離脱。次期総選挙での小選挙区岡山4区からの出馬を辞退する意向を示した。橋本と同席していた青木・野中も東京地検が捜査していたが同年9月に不起訴となった。のちに検察審査会で同事件での不起訴は不当であるとする議決を行った。 村岡兼造が収支報告書への不記載を首謀したとして在宅起訴された。橋本は「会食で1億円の小切手を貰った記憶は無い」などと発言し、日歯連の不正献金疑惑が大きく報道に取り上げられ、当時の自民党随一の政界影響力を誇り最大派閥であった橋本派の各種団体との癒着や政治と金の問題が浮き彫りになった。その後、比例区からの出馬が模索されたものの党はこれを認めず、体調不良も重なって、政界引退を余儀なくされた。 訃報 橋本龍太郎元首相 2006年6月4日夜、腹痛を訴えて緊急入院。大腸のほとんどと小腸の一部を切除する手術を受け、その後も入院していた。 同年6月30日には見舞いに訪れた実弟の橋本大二郎が記者団に「容体はずっと変わらない。危篤です」と述べた。 7月1日、橋本龍太郎は東京都新宿区の国立国際医療センターで、腸管虚血を原因とする敗血症性ショックによる多臓器不全 のため死去した。68歳没。 7月3日には葬儀・告別式が東京高輪の高野山東京別院で営まれた。また8月8日には小泉総理大臣を葬儀委員長として、内閣・自由民主党合同葬が日本武道館で行われ、自衛隊による儀仗、堵列および弔砲が捧げられた。追悼の辞は小泉葬儀委員長が述べた。戒名は高潔院殿俊岳龍吟大居士。墓は岡山県総社市の宝福寺と東京都港区の青山霊園にある。 また橋本が登山を好んでいたため、エベレストを望むことができるネパールのタンボチェ村に慰霊碑が建てられている。 なお、死因である腸管虚血は、原因がよく分からないこともあり、橋本の死後、病院側の意向により、遺体は病理解剖に付された。ただし、彼が日常的に葉巻やたばこ、パイプやキセルなどを好んでたくさん吸っていたことから、血液の循環に支障が出たのではないかと言われている。 厚生政務次官、自民党社会部会長、衆議院社会労働委員長、厚生大臣と厚生族議員としてキャリアを積んでいき、水俣病患者に対して対応が冷酷・傲岸であるとの批判もあったが、厚生族のドンとも言うべき存在になる。身体障害を持つ龍伍が父である橋本は、福祉に強い関心を抱き、「政治は弱者のためにある」との龍伍の政治信念を守った。 環境庁の発足や環境庁から環境省への移行など、環境行政にも関わった。また、京都議定書の締結にも首相として関わった。 第3次中曽根内閣で運輸大臣に就任し、中曽根康弘が首相就任以来取り組んできた国鉄分割民営化の総仕上げに携わったが、のち郵政解散をめぐって産経新聞の取材に応じた際の2005年12月、行政改革の話題で「分割民営化をほめてくれる方がいるが、JR西日本の福知山線脱線事故が起きてものすごく後悔している」と明言。新規投資にゆとりのないJR西日本のスタートに無理があり、信楽高原鉄道事故につながったとする見解をも示唆した。 海部内閣では大蔵大臣に就任し、党内基盤の脆弱な海部俊樹首相を、特に政策面で強く支えた。湾岸戦争では多国籍軍の経費として130億ドルを拠出。過熱気味の不動産価格をソフトランディングするべく、不動産関連融資の総量規制を行う。 自社さ連立政権の基礎となった三党政策合意がまとまったのは、社会党きっての厚生労働族議員である村山富市が、国会議員の中で厚生労働問題に詳しく力量を信頼していた橋本が自民党の政務調査会長だったことも大きいと言われる。村山内閣発足後、橋本は通商産業大臣に就任する。 橋本龍太郎は国の行政改革に取り組んだ。22ある省庁を1府12省庁に削減する省庁再編、大蔵省の名称変更や金融業務の切り離し、首相権限強化を伴う内閣機能の見直し、郵政三事業の一体公社化、公務員定数の一割削減などを「行政改革会議」において最終報告という形で決定した。この最終報告は、1998年に成立した中央省庁等改革基本法に結実し、一定の成果を上げた。なお、父・龍伍も、吉田内閣において行政管理庁長官として省庁再編を目指していたが、頓挫した経緯がある。 橋本内閣では、橋本龍太郎は内閣総理大臣秘書官(政務担当)に江田憲司(通商産業省の官僚)を起用した。 薬害エイズ事件に関して、橋本は田中秀征に「秀征さん、僕が厚生族であることを知っているでしょう。この政権合意ほんとうにきついけど、政権の合意だからやらないといけない。邪魔だけはしない。」と伝えた。業界団体や会社の要望も全てはねつけ、役所も政権合意だから仕方ないと思うようになった。後で「菅直人一人がやったような気分になっているが、秀征さんはそれでいいのか」と言ってきた。田中はこの問題が解決したのは、さきがけの主張と、橋本の見えない協力が一番だったと高く評価している。 首相就任早々にクリントン大統領と日米安全保障共同宣言を出し、沖縄県・普天間基地移設問題については、基地の整理縮小含みでの同意をアメリカ合衆国から取り付けた。その一方で、新・日米防衛協力のための指針を策定。 ロシアのエリツィンは橋本を「友人リュウ」と呼んだ。フランスのシラク大統領も橋本を「リュウ」と呼んで、趣味を認め合う仲だった。 1995年まで日本遺族会会長を務めていたこともあり、首相就任後に靖国神社へ参拝した。それは継母になじめなかった子供のころに面倒を見てくれた従兄が、召集されて戦地へ行く前に「自分が亡くなった時は、靖国へ戻ってくる。」と橋本に言い残したためであり、首相就任後に参拝した日はその従兄の命日であった。 日本の慰安婦問題に関して、1996年に元慰安婦に対する謝罪の手紙を内閣総理大臣名義で発出した。 身長165cm、体重66kg。 座右の銘は「誠」、「初心忘るべからず」。趣味は、剣道、登山、写真、読書、プラモデル製作など多彩。特に剣道は政界きっての腕前であった。全日本剣道連盟顧問、全日本剣道道場連盟会長、日本美術刀剣保存協会会長を務めた。また山中寅文ともに「名誉森林インストラクター」の称号を持つ。 一般には整髪剤は「ポマードべったり」と受け取られているが、実際には水性のヘアクリームを使っていたと本人が語っている。学生時代から通していたという。ある時、鈴木宗男が橋本に隠れて「あのポマード野郎」と悪口を話していたところ、偶然後ろに橋本がいたため鈴木は顔面蒼白になったが、当の本人は「鈴木君、これはムースだよ」と言って快活に笑ったという。橋本の人柄を表す逸話として鈴木本人がよく語っている。橋本が身なりに気を使ったのは、父・龍伍の最期の言葉が橋本のネクタイの曲がりを戒めるものであったからだといわれる。橋本は1990年にベストドレッサー賞を政治・経済部門で受賞している。 高校時からの喫煙者で、「俺は意思が強いから、他人から何と言われようとタバコはやめない」「(鄧)小平が晩年まで頭が冴えていたのは、ヘビースモーカーだったからだ」と断言し、心臓発作を起こすまでチェリーを愛飲していた。親友の安部譲二にピースを勧められても、頑なにチェリーを吸い続けていたという。 制服を好み、学生時代は常に詰襟学生服か剣道着で生活していたという。また、日本国有鉄道の民営化の際に運輸大臣を務めていたので国鉄の制服を着て式典に臨み、その時に着用した制服は後々も大事に保管されていた。 橋本は内閣総理大臣在任中も、高知県知事になって東京から離れた異母弟・大二郎に代わって、しばしば公務の合間に入院中だった義母を見舞った。 弟の橋本大二郎がNHK記者だったころ、恋人と結婚したいという相談を兄の龍太郎にした。諸々の事情から龍太郎は、母が反対するので結婚しないほうが良い、と助言した。だが、大二郎が二の句を継がせずに結婚したい意志を伝えると、龍太郎は「よしわかった、俺に任せてくれ」と言ってその場を引き取り、時間を要して母を説得して、大二郎の結婚の承諾を得たという。その説得の過程では、龍太郎の苦労と母の涙があったという(2014年4月28日放送『徹子の部屋』より本人談)。 1994年の週刊文春の阿川佐和子との対談で「政界の杉良太郎」と呼ばれていますねと問われ「光栄です」と笑い、ご婦人層の人気の秘密はと聞かれ、「まだ、大人になりきってないからじゃないんですか」と答えている。 「見識はあるが、人望はない」・・・これが橋本龍太郎に対する自民党内での一般的な評価であった。 橋本龍太郎は政界随一の政策通として知られ、いささかの揶揄の意味を込めて「課長補佐」などと周囲から言われるほど、知識量は多く、各政策部門の細かな部分まで精通していた。しかし、誰かが橋本に、何かわからないことを聞いたりすると、橋本はその相手に対して、「おや、そんなこともおわかりにならない?」、「あなたが知らないことを、どうして私が知っていると思うのです?」などと必ず嫌味な返答をしたとされる。花街で最も嫌われている政治家という不名誉な噂もあった。 また、橋本龍太郎は「一匹狼」タイプの政治家として知られ、誰かと群れることを嫌い、いつも1人で単独で行動した。その為、自民党内では協調性がなく、派閥の中でも積極的に活動したり、子分の面倒を見たりすることはほとんどなかった。前述の自民党総裁選で橋本擁立に奔走した小渕派の幹部からも「橋本さんは水耕栽培だから」と揶揄された。 橋本の兄貴分である竹下登は「怒る、威張る、拗ねるが橋本になければ、とっくの昔にアイツは総理になっていた」と評した。田中角栄は「橋龍は、こまっちゃくれた風切り小僧だ。備前長船の出身。切れそうだけど、あの手は人様に好かれない。親父の龍伍は切れ味抜群だったが、仲間がいなかった」と評した。 梶山静六は「橋龍というのは遠くで見ている富士山」と評したことがある。つまり、遠くから見ると立派な人物に見えるが近くに寄って接してみると、橋本龍太郎は理論に走りすぎたり、白黒をはっきりさせないと気のすまない性格で欠点ばかりが目立つというのである。 小沢一郎は「龍ちゃんは一人で遊ぶ。だから友達ができない」と述べている。政治評論家の浅川博忠は、橋本が初当選のころの後藤田正晴を「後藤田君」と呼んでいたという逸話を紹介している。後藤田は当選回数では橋本より下だが、23歳年長で警察庁長官・内閣官房副長官を経験していた。 橋本の総理大臣時代に幹事長代理として仕えた野中広務は「橋本さんは当選1回、2回の議員との接触がほとんどなかった。若手議員の面倒を見てやれず、(2001年の)総裁選敗北になったのではないか」と著書で語っている。橋本が自民党内で田中派、竹下派と最強派閥に属していた割には、橋本は派閥の仕事に日ごろあまり関心を示さなかった。その背景には、「自分は本来佐藤栄作の弟子であり、田中角栄は師匠というより組織の中における上司、竹下登は同じ佐藤の弟子の中における兄貴分であって、腹心ではあるが子分ではない。」という意識だったのでは、という分析がある。 政界で唯一の友人と言えるのは、同期当選で同学年の小渕恵三であり、お互い「龍ちゃん」「恵ちゃん」と呼び合う仲で「当選以来お互い騙し騙された事の無い仲だった」と語っている。また、橋本を取り巻く数少ない側近には、斎藤十朗、山東昭子、藤井孝男、熊代昭彦 らがいた。河井克行は橋本を師と仰いでおり、橋本は河井と河井案里の結婚式の仲人を務めた。 マスコミからは「芝居上手」ともいわれていた。芝居がかった喋り方などの特徴から「橋龍さんは非常に芝居が上手い」などともいわれていた。首相時代に自民党のCMにも出演していた際にもその様子が窺える。 一方で、久美子夫人はインタビューで「実はわりと涙もろい人なんです」と橋本を評していて、実際に橋本の人情家としての側面を示す以下のようなエピソードがある。 橋本龍太郎は首相執務室の扉を閉めることをひどく嫌い、いつも扉を開いた状態にした。そして、廊下に誰が歩いてくるのかその人たちの足音を聞いた。また、橋本龍太郎は本人自らが頻繁に秘書室に行って顔をよく出したりした。 同僚議員の母親の葬儀の時には、橋本は直筆の弔辞を送るのが常であった。 また田勢康弘は、水俣病問題への対応の末に自死した山内豊徳(環境庁企画調整局長)の遺族に心のこもった手紙を宛てたエピソードなどを紹介しつつ、「橋本には『使用説明書(取扱説明書)』が必要だと常々思っている」と評している。この手紙の内容を知った佐高信は「(生意気、キザと思っていた)橋本に対する見方が変わった」という。 田中秀征は橋本内閣の経済企画庁長官時代に普天間基地返還問題に関して橋本が、「戦中も戦後もわれわれのために大きな苦難を担ってくれた沖縄の人たちに、できる限りのことをするのは当然だ。」と発言したことに身震いするような感動を受け、それまでキザなイメージが強かった橋本への人物感を改め尊敬するようになったという。名護市市長の比嘉鉄也が辺野古移設受け入れ表明とバーターで辞任したときには、「申し訳ない」と執務室で涙を流した。橋本が沖縄問題に精力的に取り組んだ背景には、沖縄戦で戦死した従兄の存在があるとされる。 橋本龍太郎は、95年の総裁選で総裁に選出された際、うっすら涙を浮かべていた。通商産業大臣に就任した塚原俊平は、橋本に会の報告に行った際の様子について、「ただ『有難う』といって、『僕も疲れたよ』とそんな感じでした。でもその後聞いたら、我々が帰った後で涙を流して喜んだということでした。おかしな人ですね。それなら私たちの目の前で喜べばいいのに。それが彼のシャイなところというか、パフォーマンスが下手な人ですね。」と述べている。 最後に総裁選に出馬したころは、テレビ座談会で司会の久米宏(「ニュースステーション」のニュースキャスター)に「(私を)睨まないでくださいよ」と言われて、橋本龍太郎は「睨んでないですよ。優しい眼差しを投げかけているんじゃないですか」と切り返す余裕も備わっていた。 当選前の猛勉強ぶりとその後の行動を見ていた俵孝太郎は、橋本のこれらの性格に関して、父の龍伍が障害者だったことから、健常者に負けないという障害者を抱えた家族特有の気負いが強かったことが、生意気と言われながらも、シャイで涙もろい要因だったのではと著書で分析している。 橋本龍太郎は日本山岳会の会員でもあり、日本山岳ガイド協会の会長を長きにわたり務めた。1973年、第2次RCCのエベレスト南壁(現:南西壁)の遠征隊の総隊長を務めた。この他にも、多くの海外遠征登山隊の総隊長に就任したり、あるいは総指揮を担当した。生前、「七十歳になったら、もう一度エベレストに登りたい。君たちも夢を大事にして追いかけてほしい」と少年たちに語っていた。 登山家の野口健とも親しかった。2000年にエベレストの清掃登山を行っていた野口健は、12年前に同じく登頂を果たした橋本総隊長のJPNテレビ登山隊(日中ネパール合同隊)が置いていった酸素ボンベを発見し、帰国後橋本の議員会館事務所を訪れて酸素ボンベを届けた。当初、橋本は野口を失礼な人間だと感じたが、これがきっかけで2人は親しくなり、野口は橋本を父親の様に慕っていたという。2006年正月に野口は橋本から「自分はもう登山は無理だから、これを持って行け。」と橋本愛用のピッケルを渡されたという。山をこよなく愛したことから、青山墓地にある一家の墓とは別にエベレストを望むネパールのタンポチェ村に慰霊碑がある。野口はヒマラヤ登山の度に訪れている。慰霊碑は2007年に完成し、同年3月30日に、日本からの関係者も出席して式典が営まれた。 橋本との縁で橋本没後、野口事務所には橋本龍太郎の当時公設秘書だった藤村健が環境アドバイザー・マネージャーとして入所している。 内閣総理大臣在任中の1997年に発生したペルー早稲田大学探検部員殺害事件の報に接して、1997年12月28日に記者団の前で橋本龍太郎は「ペルーはMRTAだけでなくほかにもテロ組織があって、当然、政府軍との間でピリピリしている。十分事前に準備して最小限にとどめる必要がある。十分事前に準備をできていたのか、冒険好きの僕からみると疑問に思う」と述べた。ただし、実際に殺害したのはペルーの正規軍兵士で、金銭目当ての犯行だった。橋本の発言に対し、早稲田大学探検部OBの船戸与一が厳しく反論し、探検部OB会有志47人の連名で、「内閣総理大臣・橋本龍太郎にたいする糾弾文」(原文ママ)を1998年1月26日発売の『週刊ポスト』183ページに意見広告として掲載した。 橋本龍太郎は自民党幹事長に就任してからテレビによく出るようになった。選挙戦では、幹事長として各地の選挙区を飛び回り積極的に応援演説をした。そんなテレビに映った橋本の活躍は有権者たちに好感を与え、特に女性たちから人気を集めた。やがて、そんな橋本に女性関係の噂を指摘する声が多くなり、そのために首相になり損ねたことがあった、という意見がある。 宇野の退陣後に総理に就任した海部俊樹は回顧録で、金丸信から首相就任を持ち掛けられた際、「橋本はこれ(右手の小指)があるから駄目だ」と言われたために、その後、金丸が橋本に直接確認のために質したところ、橋本は「残念ながら、おれにはあるんだ」と答えたと回想している。もっとも久美子夫人の立ち振る舞いもあってか、この橋本の女性関係の噂は政治的スキャンダルに発展することはなかった。 1990年に銀座ホステスとの関係が週刊誌で「橋本龍太郎の一夜妻」として取り上げられ、総理在任中の1996年に当人が暴露本を出版しマスコミを賑わせた。 「諸君!」1998年6月号で、加藤昭は橋本龍太郎が総理在任中に中華人民共和国の女性官僚と関係があったと報じた。これについて橋本側は、女性は中国大使館に勤務する通訳であり、職務上接点があっただけと釈明したが、女性は北京市公安局の情報工作員であったといわれる。なお、橋本龍太郎は日中友好団体の日本国際貿易促進協会会長を務めており、中国へのODA事業などを積極的に進めていた。 「文藝春秋」(2008年9月特別号)では、米原万里に橋本から関係を迫られたと聞いたとする佐藤優の記事が掲載された。米原万里は橋本が総理在任中のモスクワ外遊時に通訳を務めていた。佐藤優は後に自著『インテリジェンス人間論』においても同様の記述をしている。両者とも故人のため、コメントは得られていない。 1937年7月 - 東京渋谷区に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれる。 1950年3月 - 大田区立田園調布小学校卒業 1953年3月 - 麻布中学校卒業 1956年3月 - 麻布高等学校卒業 1960年
4月 - 呉羽紡績株式会社(現:東洋紡)に入社 1963年
7月 - 小林武治厚生大臣秘書官 11月 - 父の後を継ぎ、衆議院旧岡山2区より出馬、初当選 1964年8月 - 自民党学生部長 1966年8月 - 党産業労働部長 1968年1月 - 党内閣部会副部会長 1969年1月 - 党国民生活局次長 1970年1月 - 厚生政務次官(第3次佐藤内閣) 1971年7月 - 党環境部会副部会長、党国民運動本部副本部長 1972年
12月 - 党全国組織委員会遊説局長 1975年9月 - 党ライフサイクル調査会副会長 1976年12月 - 衆議院社会労働委員長 1977年9月 - 党岡山県連会長 1978年12月 - 厚生大臣(第1次大平内閣) 1980年8月 - 党行財政調査会会長 党社会保障調査会副会長 1981年11月 - 党国際経済対策特別調査会副会長 1984年3月 - 党医療基本問題調査会会長 1986年7月 - 運輸大臣(第3次中曽根内閣) 1987年11月 - 党幹事長代理 1989年
8月 - 大蔵大臣(第1次海部内閣) 1990年
12月 - 大蔵大臣に留任(第2次海部改造内閣) 1991年10月 - 大蔵大臣の辞意を表明 1993年
8月 - 党政調会長 1994年6月 - 通商産業大臣(村山内閣) 1995年
10月 - 副総理兼通商産業大臣(村山改造内閣) 1996年1月 - 内閣総理大臣 1998年7月 - 参院選の敗北を受けて首相を辞任。後任の小渕内閣で外交最高顧問に就任 2000年
12月 - 行政改革担当大臣・沖縄開発庁長官(第2次森改造内閣 (中央省庁再編前)) 2001年
4月 - 規制改革担当大臣 (第2次森改造内閣 (中央省庁再編後)) 2003年5月 - 党沖縄振興委員会委員長 2004年2月 - 国連のコフィー・アナン事務総長に要請され、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の議長に就任 2005年8月 - 郵政解散後、総選挙不出馬=政界引退を表明。連続14回当選。次男・橋本岳が後継者となるが、郵政選挙での柚木道義との新人対決に惜敗した。岳は比例復活となった。 2006年7月1日 - 東京都新宿区の国立国際医療センターで死去。68歳没。 死後、正二位大勲位菊花大綬章を追贈(死去した7月1日にさかのぼって贈られる)。 『馬越恭平』山陽図書出版、1976年2月10日。 『Vision of Japan : わが胸中に政策ありて』KKベストセラーズ、1993年12月5日。ISBN 4584181624。 - 翌年に英文版も出版 『政権奪還論』講談社、1994年4月19日。ISBN 4062070065。 『燃える剣―橋本龍太郎の青春秘話』日本出版放送企画 1996年 ISBN 4795253412 『橋本龍太郎外交回顧録』五百旗頭真・宮城大蔵編、岩波書店 2013年 曽祖父・源三郎(岡山県平民) 祖父・卯太郎(東京府平民、実業家・大日本麦酒の元常務) 祖母・真都(熊本藩士石光真民の娘、恵比寿麦酒支配人石光真澄・陸軍少佐、諜報活動家石光真清・陸軍中将石光真臣の妹、陸軍主計総監男爵野田豁通の姪) 父・龍伍(官僚、政治家) 実母・春子(埼玉県、官僚・弁護士大野緑一郎の長女) 継母・正(兵庫県、官僚・政治家若宮貞夫の四女) 弟・大二郎(政治家、元高知県知事) 妻・久美子(実業家・渋沢栄一の玄孫。元不二音響社長中村久次の長女) 長男・龍(1969/3/8-) 次男・岳(政治家、元厚生労働副大臣) 長女・井上寛子(1967年8月15日生) 次女・厚子(1971年9月12日生) 三女・旦子(1980年6月4日生) 伯父・叔父
橋本宙二(軍人、元海軍大佐、実業家) 橋本乾三(検事) 橋本虎六(学者、元東北大学教授)など 従兄弟
橋本宏(外交官) 橋本敬太郎(学者、現横浜薬科大学臨床薬学科/臨床薬理学研究室(教授))など 広瀬隆によれば、「彼の先代の人脈は、一見して分るように、陸軍中将が三人と、海軍少佐、朝鮮総督府政務総監らに囲まれた軍人一家であった。妻・中村久美子も満鉄総裁中村雄次郎の曾孫にあたる。」という。 ^ 日本の法人税は1990年度以降は37.5%であったが、1998年度に削減されて34.5%となった。1999年度にはさらに引き下げられ、30%になっている。財務省:法人税の推移 ^ 高鳥は「野中さんだと派閥が分裂する」として橋本に総裁選出馬を進言した ^ 橋本の父・龍伍と小渕の父・光平は第24回衆議院議員総選挙の当選同期であり、同じ吉田茂派に在籍していた ^ 同じ岡山県出身で、橋本に見いだされて政界入りした ^ 「橋本龍太郎氏の慰霊碑」『野口健ブログ』 ^ また首相在任中に行われた党首討論(日本記者クラブで各党首による公開討論)で日本共産党委員長の不破哲三が「北方領土が日本固有の領土という点においては、なぜか自民党と一致している」と発言したのに対して、「山登りも同じだよ」と混ぜっ返して会場を和ませた。不破もまた登山を趣味としていた。 ^ なお、ここで海部は「河野(洋平)にもあった」と余計な発言をしている。 ^ なお龍太郎本人は東京生まれの東京育ちであるが、岡山を選挙区として政治活動を始めてからは“岡山県総社市出身”と称した。本籍は東京都渋谷区(『人事興信録』より)。昭和43年(1968年)総社市に家を建てた(橋本久美子『夫 橋本龍太郎 - もう一度「龍」と呼ばせて 』p.48より) ^ 総社市 ^ “橋本龍太郎氏死去/元首相”. 四国新聞社. 2023年1月19日閲覧。 ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』p.12 ^ 本田雅俊『総理の辞め方』PHP研究所、2008年7月29日、232-240頁。ISBN 978-4-569-70085-4。 ^ 『橋本龍太郎・全人像』pp.98-100 ^ 『橋本龍太郎・全人像』p.108 ^ 安倍譲二署「塀の中の懲りない面々」より ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』pp.31-32 ^ 『橋本龍太郎・全人像』p.116 ^ 『橋本龍太郎・全人像』p.118 ^ 『自由 第44巻、第507~510号』2002年 ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』p.35 ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』p.39 ^ 『橋本龍太郎・全人像』p.123 ^ 『小説 角栄学校』p.83 ^ 俵孝太郎『日本の政治家 父と子の肖像』父親龍伍に学んだ橋本龍太郎の真骨頂 1997年 ^ 俵孝太郎『政治家の風景』1994年 ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』pp.47-48 ^ 『橋本龍太郎・全人像』p.128 ^ 物語・介護保険第59話 訪問看護から政治へ、"女は度胸" 2014年5月10日閲覧 ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』p.30 ^ “橋本龍太郎”. www.kantei.go.jp. 2001年11月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月17日閲覧。 ^ 『西日本新聞』 ワードBOX ^ 『橋本龍太郎・全人像』p.148 ^ 『私の後藤田正晴』編纂委員会, ed (2007). 私の後藤田正晴. 講談社. p. 128 ^ “TBSに眠るアーカイブ映像からお届けするTBS歴代総理列伝。今回は第82•83代総理大臣 #橋本龍太郎 です。”. Twitter. TBS NEWS. 2021年6月19日閲覧。 ^ “石破茂が語る「たばこ」で思い出す戦後自民党宰相録”. Smart FLASH[光文社週刊誌]スマフラ/スマートフラッシュ (2019年9月24日). 2020年10月18日閲覧。 ^ 『自民党幹事長室の30年』 pp.227-232 ^ 『実録・橋本龍太郎』岩見隆夫著 ^ 『小説 角栄学校』p.209 ^ 『小説 池田学校』pp.263-265 ^ 『小説 角栄学校』pp.266-267 ^ 『劇録!総理への道』大下英治著 pp.665-666 ^ 『新進党vs自民党』大下英治著 pp.412-442 ^ “普天間返還、沖縄の強い希望だ(96年2月橋本首相)”. 日本経済新聞 (2015年6月14日). 2021年5月8日閲覧。 ^ “橋本内閣総理大臣及びモンデール駐日米国大使共同記者会見”. www.kantei.go.jp. 首相官邸. 2021年5月8日閲覧。 ^ “「民意」実現へ〜住民投票の現場から(22)名護市民投票 投票結果と逆の判断 | 沖縄タイムス+プラス プレミアム”. 沖縄タイムス+プラス. 2021年5月8日閲覧。 ^ “【首相靖国参拝】リスク覚悟 「国民との約束」果たす”. SankeiBiz(サンケイビズ) (2013年12月27日). 2021年5月8日閲覧。 ^ 「行政改革、大蔵・厚生が試金石 第二次橋本内閣の問われる指導力」『朝日新聞』1996.11.8 p.3 ^ 61人が書き残す 政治家 橋本龍太郎、文藝春秋企画出版部、2012年、pp.188-189 ^ 芹川洋一著、平成政権史、日経プレミアシリーズ、2018年、132頁、日本経済新聞出版社 ^ 『激録!総理への道』pp.671-687 ^ 『自民党ナンバー2の研究』pp.280-281 ^ 『激録!総理への道』pp.687-695 ^ 『小沢一郎の日本をぶっ壊す』pp.389-390 ^ 『激録!総理への道』pp.695-699 ^ 『激録!総理への道』pp.707-723 ^ 『激録!総理への道』pp.723-730 ^ 『激録!総理への道』 pp.723-740 ^ 『小説 角栄学校』pp.280-283 ^ 田村秀男 (2010年6月15日). “【経済が告げる】編集委員・田村秀男 カンノミクスの勘違い (1/3ページ)”. 産経新聞 (産経新聞社). オリジナルの2010年6月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100616112438/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100615/plc1006150300003-n1.htm 2012年4月9日閲覧。 ^ 岩本沙弓『バブルの死角 日本が損するカラクリ』p.83(集英社新書、2013年) ^ “「改革への志 やむことなく」”. 橋本龍太郎ホームページ. 2001年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月12日閲覧。 ^ 【アベノ断(中)】「平成9年のトラウマ」 終止符打てるか+ (1/4ページ) MSN産経ニュース 2013年10月3日 ^ 財務省:所得税の税率構造の推移 ^ 日本共産党・用語解説 ^ 田村秀男『財務省「オオカミ少年」論』 ^ 『蠢く野中広務』pp.316-319 ^ 『小泉純一郎の「宣戦布告」』pp.341-342 ^ 『産経新聞』2005年12月22日 ^ 俵孝太郎「父親龍伍に学んだ橋本龍太郎の真骨頂」『日本の政治家 父と子の肖像』中央公論社、1997年 ^ 『激録! 総理への道』pp.670-671 pp.699-707 ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」pp.250-251 ^ “元慰安婦の方々への内閣総理大臣のおわびの手紙”. www.awf.or.jp. 慰安婦問題とアジア女性基金. 2021年3月29日閲覧。 ^ “兄のこと:橋本龍太郎について”. 橋本大二郎公式サイト. 2020年10月18日閲覧。 ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』p.199 ^ “歴代ベストドレッサー賞受賞者一覧”. ベストドレッサー賞 公式サイト (2019年6月5日). 2020年10月21日閲覧。 ^ “第十回 『タバコの思い出』”. 田中秀征のさきがけ塾. 2023年8月27日閲覧。 ^ “兄のこと:橋本龍太郎について”. 橋本大二郎公式サイト. 2023年8月27日閲覧。 ^ “霞が関「全面禁煙」で日比谷公園、霞が関ビル、裁判所に逃れる難民たち”. デイリー新潮. 2023年8月27日閲覧。 ^ 厚生族のドン元厚生大臣 橋本元首相死去 たばこ好きとしても知られ、1995年10月の麻布高校創立100周年記念祝賀会で「高校の屋上でたばこを吸い始めて以来、ヘビースモーカーになってしまった」と、あいさつで触れるほどだった。 ^ 切れ者で正直すぎる政治家 橋本龍太郎 文春写真館 ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』p.138 ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』p.93 ^ 浅川博忠『自民党・ナンバー2の研究』講談社文庫、p.258 ^ 橋本久美子『夫橋本龍太郎』2007年 ^ 田勢康弘『だれが日本を救うのか』新潮文庫、p.249 ^ 2015年4月20日中日新聞 ^ 福元大輔 (2021年4月13日). “【ゼロからわかる】沖縄「普天間返還」の合意から25年、なぜ「返還」はまったく進まなかったのか(4/7)”. 現代ビジネス. 2021年5月8日閲覧。 ^ 渡辺豪 (2016年6月2日). “米軍事件の対策は街路灯? 政府への不信強める沖縄”. 沖縄タイムス+プラス. 2021年5月8日閲覧。 ^ 小説 角栄学校 pp.267-268 ^ “特集ワイド 早大探検部員殺害事件”. 毎日新聞(東京夕刊) (東京): p. 2. (1998年1月30日) ^ 「内閣総理大臣・橋本龍太郎にたいする糾弾文」『週刊ポスト』第30巻第5号、小学館、1998年2月6日、183頁。 ^ http://www3.grips.ac.jp/~oralreport/view?item=100025 海部俊樹『海部俊樹オーラルヒストリー(下)』p.168 ^ “中国の諜報活動 橋本元首相などが騙されたハニートラップも”. NEWSポストセブン (2015年11月18日). 2020年10月17日閲覧。 ^ 『衆議院会議録情報 第042回国会 本会議 第1号』 ^ 『人事興信録. 5版』(大正7年)は八五 ^ 石光真清著『城下の人』 ^ https://www.shikoku-np.co.jp/national/political/article.aspx?id=20060703000177 ^ 人事興信録42版は38 ^ 総理の娘 : 知られざる権力者の素顔、岩見隆夫著 ^ https://gansupport.jp/article/document/document04/document02/7415.html ^ 橋本明著『戦後50年・年譜の裏面史 昭和抱擁 -天皇あっての平安-』p.112によれば、「二男・宙二は海軍大佐」である ^ 広瀬隆著『私物国家 日本の黒幕の系図』p.287 浅川博忠『橋本龍太郎 仕事師と呼ばれた男』東洋経済新報社〈人物発掘ノンフィクション〉、1995年10月。ISBN 4-492-06085-5。 岩見隆夫『実録・橋本龍太郎』朝日ソノラマ、1995年10月。ISBN 4-257-03459-9。 奥村茂編著『橋本龍太郎孤独な戦い 「剣道総理」の意外な素顔』並木書房、1998年2月。ISBN 4-89063-091-0。 仮野忠男、長田達治『橋本龍太郎・全人像』行研出版局、1996年8月。ISBN 4-87732-008-3。 俵孝太郎『日本の政治家 父と子の肖像』中央公論社、1997年4月、351-377頁。ISBN 4-12-002666-3。 橋本明『昭和抱擁 天皇あっての平安 戦後50年・年譜の裏面史』(増補版)日本教育新聞社、2000年(原著1998年4月)、112-114頁。ISBN 4-89055-208-1。 広瀬隆『私物国家 日本の黒幕の系図』光文社〈知恵の森文庫〉、2000年6月、133,173,191,244,275,283,333頁。ISBN 4-334-78001-6。 橋本久美子『夫 橋本龍太郎』聞き手:田北真樹子 産経新聞出版 2007年 『橋本龍太郎とわたし』川田善朗編、成甲書房 2001年 『61人が書き残す 政治家橋本龍太郎』同編集委員会 文藝春秋企画出版部 2012年
第2次橋本内閣 第2次橋本内閣 (改造) 金融ビッグバン 普天間基地移設問題 安部譲二 木曜クラブ ネオ・ニューリーダー 江田憲司 松井孝治 最年少帝国・国会議員 小選挙区比例代表並立制 橋本総理大臣略歴 - ウェイバックマシン(2001年11月25日アーカイブ分) 歴代内閣情報:橋本総理 「故橋本龍太郎」内閣・自由民主党合同葬儀における追悼の辞 - ウェイバックマシン(2006年8月15日アーカイブ分) 第82・83代総理大臣 橋本龍太郎【歴代総理列伝】 - YouTube (TBS NEWS) 「論争好きな首相」橋本龍太郎が田原総一朗の生放送でうろたえた理由 『橋本龍太郎』 - コトバンク 四島の帰属問題の解決を確認(川奈合意) - 海洋政策研究所島嶼資料センター 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 中村三之丞 佐々木秀世 藤本捨助 森山欽司 園田直 永山忠則 大石武一 山本猛夫 中野四郎 秋田大助 田口長治郎 松沢雄蔵 田中正巳 川野芳満 八田貞義 森田重次郎 倉成正 森山欽司 小沢辰男 田川誠一 野原正勝 大野明 熊谷義雄 橋本龍太郎 木野晴夫 森下元晴 葉梨信行 山下徳夫 唐沢俊二郎 稲村利幸 有馬元治 戸井田三郎 山崎拓 堀内光雄 稲垣実男 津島雄二 丹羽雄哉 畑英次郎 浜田卓二郎 廃止 表 話 編 歴 橋本龍太郎 石原伸晃 金子一義 村上誠一郎 中馬弘毅 佐田玄一郎 渡辺喜美 岸田文雄 与謝野馨 甘利明 一時廃止 稲田朋美 有村治子 河野太郎 山本幸三 梶山弘志 片山さつき 北村誠吾 河野太郎 牧島かれん 岡田直樹 河野太郎 平将明 表 話 編 歴 山中貞則 本名武 坪川信三 小坂徳三郎 植木光教 西村尚治 藤田正明 稲村佐近四郎 三原朝雄 小渕恵三 中山太郎 田邊圀男 丹羽兵助 中西一郎 河本敏夫 藤本孝雄 古賀雷四郎 綿貫民輔 粕谷茂 坂元親男 井上吉夫 阿部文男 砂田重民 木部佳昭 谷洋一 伊江朝雄 北修二 上原康助 佐藤守良 小里貞利 小沢潔 高木正明 岡部三郎 稲垣実男 鈴木宗男 井上吉夫 野中広務 青木幹雄 中川秀直 福田康夫 橋本龍太郎 橋本龍太郎 尾身幸次 細田博之 茂木敏充 小池百合子 高市早苗 岸田文雄 林幹雄 佐藤勉 林幹雄 前原誠司 馬淵澄夫 枝野幸男 川端達夫 樽床伸二 山本一太 山口俊一 島尻安伊子 鶴保庸介 江﨑鐵磨 福井照 宮腰光寛 衛藤晟一 河野太郎 西銘恒三郎 岡田直樹 自見英子 伊東良孝 表 話 編 歴 橋本龍太郎 石原伸晃 金子一義 村上誠一郎 中馬弘毅 佐田玄一郎 渡辺喜美 茂木敏充 甘利明 仙谷由人 枝野幸男 蓮舫 枝野幸男 蓮舫 岡田克也 稲田朋美 有村治子 河野太郎 山本幸三 梶山弘志 宮腰光寛 武田良太 河野太郎 牧島かれん 岡田直樹 表 話 編 歴 稲垣平太郎 池田勇人 高瀬荘太郎 横尾龍 高橋龍太郎 小笠原三九郎 岡野清豪 愛知揆一 石橋湛山 水田三喜男 前尾繁三郎 高碕達之助 池田勇人 石井光次郎 椎名悦三郎 佐藤栄作 福田一 櫻内義雄 三木武夫 菅野和太郎 椎名悦三郎 大平正芳 宮澤喜一 田中角栄 中曽根康弘 河本敏夫 田中龍夫 江﨑真澄 佐々木義武 田中六助 安倍晋太郎 山中貞則 宇野宗佑 小此木彦三郎 村田敬次郎 渡辺美智雄 田村元 三塚博 梶山静六 松永光 武藤嘉文 中尾栄一 渡部恒三 森喜朗 熊谷弘 畑英次郎 橋本龍太郎 塚原俊平 佐藤信二 堀内光雄 与謝野馨 深谷隆司 平沼赳夫 平沼赳夫 中川昭一 二階俊博 甘利明 二階俊博 直嶋正行 大畠章宏 海江田万里 鉢呂吉雄 枝野幸男 茂木敏充 小渕優子 宮澤洋一 林幹雄 世耕弘成 菅原一秀 梶山弘志 萩生田光一 西村康稔 齋藤健 武藤容治 表 話 編 歴 松平慶永 伊達宗城 大久保利通 大隈重信 佐野常民 松方正義 松方正義 渡辺国武 井上馨 松田正久 西園寺公望 曾禰荒助 阪谷芳郎 桂太郎 山本達雄 若槻禮次郎 高橋是清 武富時敏 寺内正毅 勝田主計 市来乙彦 井上準之助 勝田主計 濱口雄幸 早速整爾 片岡直温 三土忠造 藤井真信 町田忠治 馬場鍈一 結城豊太郎 賀屋興宣 池田成彬 石渡荘太郎 青木一男 櫻内幸雄 河田烈 小倉正恒 賀屋興宣 津島壽一 広瀬豊作 渋沢敬三 石橋湛山 矢野庄太郎 栗栖赳夫 北村徳太郎 泉山三六 大屋晋三 臨時代理 池田勇人 向井忠晴 小笠原三九郎 一万田尚登 佐藤栄作 水田三喜男 田中角栄 福田赳夫 植木庚子郎 愛知揆一 大平正芳 坊秀男 村山達雄 金子一平 竹下登 渡辺美智雄 宮澤喜一 橋本龍太郎 海部俊樹 羽田孜 林義郎 藤井裕久 武村正義 久保亘 三塚博 松永光 宮澤喜一 宮澤喜一 塩川正十郎 谷垣禎一 尾身幸次 額賀福志郎 伊吹文明 中川昭一 与謝野馨 藤井裕久 菅直人 野田佳彦 安住淳 城島光力 麻生太郎 鈴木俊一 加藤勝信 表 話 編 歴 小日山直登 田中武雄 三土忠造 村上義一 平塚常次郎 増田甲子七 苫米地義三 北村徳太郎 岡田勢一 小沢佐重喜 大屋晋三 山崎猛 石井光次郎 三木武夫 吉野信次 宮沢胤勇 中村三之丞 永野護 重宗雄三 楢橋渡 南好雄 木暮武太夫 斎藤昇 綾部健太郎 松浦周太郎 中村寅太 荒舩清十郎 藤枝泉介 大橋武夫 中曽根康弘 原田憲 橋本登美三郎 丹羽喬四郎 佐々木秀世 新谷寅三郎 徳永正利 江藤智 木村睦男 石田博英 田村元 福永健司 森山欽司 地崎宇三郎 塩川正十郎 小坂徳三郎 長谷川峻 細田吉蔵 山下徳夫 三塚博 橋本龍太郎 石原慎太郎 佐藤信二 山村新治郎 江藤隆美 大野明 村岡兼造 奥田敬和 越智伊平 伊藤茂 二見伸明 亀井静香 平沼赳夫 亀井善之 古賀誠 藤井孝男 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 木村小左衛門 一松定吉 一松定吉 益谷秀次 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 小沢佐重喜 竹山祐太郎 馬場元治 南条徳男 根本龍太郎 遠藤三郎 村上勇 橋本登美三郎 中村梅吉 河野一郎 小山長規 瀬戸山三男 橋本登美三郎 西村英一 保利茂 坪川信三 根本龍太郎 西村英一 木村武雄 金丸信 亀岡高夫 小沢辰男 仮谷忠男 竹下登 中馬辰猪 長谷川四郎 櫻内義雄 渡海元三郎 渡辺栄一 斉藤滋与史 始関伊平 内海英男 水野清 木部佳昭 江藤隆美 天野光晴 越智伊平 小此木彦三郎 野田毅 原田昇左右 綿貫民輔 大塚雄司 山崎拓 中村喜四郎 五十嵐広三 森本晃司 野坂浩賢 森喜朗 中尾栄一 亀井静香 瓦力 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 大野伴睦 緒方竹虎 三好英之 大久保留次郎 正力松太郎 川村松助 鹿島守之助 石井光次郎 山口喜久一郎 村上勇 西川甚五郎 小沢佐重喜 川島正次郎 佐藤栄作 増原惠吉 福田篤泰 前尾繁三郎 二階堂進 木村武雄 野田武夫 西田信一 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 古賀雷四郎 綿貫民輔 粕谷茂 坂元親男 井上吉夫 阿部文男 砂田重民 木部佳昭 谷洋一 伊江朝雄 北修二 上原康助 佐藤守良 小里貞利 小沢潔 高木正明 岡部三郎 稲垣実男 鈴木宗男 井上吉夫 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 西村英一 丹羽兵助 金丸信 天野光晴 田沢吉郎 櫻内義雄 中野四郎 園田清充 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 山崎平八郎 綿貫民輔 奥野誠亮 内海英男 野中英二 石井一 佐藤守良 西田司 東家嘉幸 井上孝 上原康助 左藤恵 小沢潔 池端清一 鈴木和美 伊藤公介 亀井久興 柳澤伯夫 井上吉夫 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 扇千景 石原伸晃 北側一雄 冬柴鐵三 谷垣禎一 中山成彬 金子一義 前原誠司 馬淵澄夫 大畠章宏 前田武志 羽田雄一郎 太田昭宏 石井啓一 赤羽一嘉 斉藤鉄夫 中野洋昌 表 話 編 歴 木戸幸一 広瀬久忠 小原直 秋田清 吉田茂 安井英二 金光庸夫 小泉親彦 広瀬久忠 相川勝六 岡田忠彦 松村謙三 芦田均 河合良成 一松定吉 竹田儀一 林譲治 黒川武雄 橋本龍伍 吉武恵市 山縣勝見 草葉隆圓 鶴見祐輔 川崎秀二 小林英三 神田博 堀木鎌三 橋本龍伍 坂田道太 渡邊良夫 中山マサ 古井喜実 灘尾弘吉 西村英一 小林武治 神田博 鈴木善幸 坊秀男 園田直 斎藤昇 内田常雄 斎藤昇 塩見俊二 斎藤邦吉 福永健司 田中正巳 早川崇 渡辺美智雄 小沢辰男 橋本龍太郎 野呂恭一 斎藤邦吉 園田直 村山達雄 森下元晴 林義郎 渡部恒三 増岡博之 今井勇 斎藤十朗 藤本孝雄 小泉純一郎 戸井田三郎 津島雄二 下条進一郎 山下徳夫 丹羽雄哉 大内啓伍 井出正一 森井忠良 菅直人 小泉純一郎 宮下創平 丹羽雄哉 津島雄二 坂口力 米窪満亮 加藤勘十 増田甲子七 鈴木正文 保利茂 吉武恵市 戸塚九一郎 小坂善太郎 千葉三郎 西田隆男 倉石忠雄 松浦周太郎 石田博英 倉石忠雄 松野頼三 石田博英 福永健司 大橋武夫 石田博英 小平久雄 山手満男 早川崇 小川平二 原健三郎 野原正勝 原健三郎 塚原俊郎 田村元 加藤常太郎 長谷川峻 大久保武雄 長谷川峻 浦野幸男 石田博英 藤井勝志 栗原祐幸 藤波孝生 藤尾正行 初村滝一郎 大野明 坂本三十次 山口敏夫 林迶 平井卓志 中村太郎 丹羽兵助 堀内光雄 福島譲二 塚原俊平 小里貞利 近藤鉄雄 村上正邦 坂口力 鳩山邦夫 浜本万三 青木薪次 永井孝信 岡野裕 伊吹文明 甘利明 牧野隆守 吉川芳男 坂口力 坂口力 尾辻秀久 川崎二郎 柳澤伯夫 舛添要一 長妻昭 細川律夫 小宮山洋子 三井辨雄 田村憲久 塩崎恭久 加藤勝信 根本匠 加藤勝信 田村憲久 後藤茂之 加藤勝信 武見敬三 福岡資麿 2001年の省庁再編により厚生大臣と労働大臣は統合された。 表 話 編 歴 竹下登1985-1987(1985-1987は創政会) 金丸信1987-1992 小渕恵三1992-1998(1992-1996は経世会) 綿貫民輔1998-2000 橋本龍太郎2000-2004 津島雄二2005-2009 額賀福志郎2009-2018 竹下亘2018-2021 茂木敏充2021- 表 話 編 歴 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤栄作 田中角栄 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 河野洋平 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 谷垣禎一 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 岸信介 三木武夫 川島正次郎 福田赳夫 川島正次郎 益谷秀次 前尾繁三郎 三木武夫 田中角栄 福田赳夫 田中角栄 保利茂 橋本登美三郎 二階堂進 中曽根康弘 内田常雄 大平正芳 斎藤邦吉 櫻内義雄 二階堂進 田中六助 金丸信 竹下登 安倍晋太郎 橋本龍太郎 小沢一郎 小渕恵三 綿貫民輔 梶山静六 森喜朗 三塚博 加藤紘一 森喜朗 野中広務 古賀誠 山崎拓 安倍晋三 武部勤 中川秀直 麻生太郎 伊吹文明 麻生太郎 細田博之 大島理森 石原伸晃 石破茂 谷垣禎一 二階俊博 甘利明 茂木敏充 森山裕 表 話 編 歴 水田三喜男 塚田十一郎 三木武夫 福田赳夫 中村梅吉 船田中 椎名悦三郎 福田赳夫 田中角栄 賀屋興宣 三木武夫 周東英雄 赤城宗徳 水田三喜男 西村直己 大平正芳 根本龍太郎 水田三喜男 小坂善太郎 櫻内義雄 倉石忠雄 水田三喜男 山中貞則 松野頼三 櫻内義雄 河本敏夫 江﨑真澄 河本敏夫 安倍晋太郎 田中六助 藤尾正行 伊東正義 渡辺美智雄 村田敬次郎 三塚博 加藤六月 森喜朗 三塚博 橋本龍太郎 加藤紘一 山崎拓 池田行彦 亀井静香 麻生太郎 額賀福志郎 与謝野馨 中川秀直 中川昭一 石原伸晃 谷垣禎一 保利耕輔 石破茂 茂木敏充 甘利明 高市早苗 稲田朋美 茂木敏充 岸田文雄 下村博文 高市早苗 萩生田光一 渡海紀三朗 小野寺五典 表 話 編 歴 日ソ国交回復と国連加盟 保守合同 初の総裁公選による選出 満洲人脈 警察官職務執行法改正案 新安保 国民皆保険 所得倍増計画 農業基本法公布 OECD加盟 1964年東京オリンピック 岸派分裂 財界四天王 日韓基本条約 非核三原則(日米核持ち込み問題) 公害国会 日本万国博覧会 沖縄返還(西山事件) 佐藤派五奉行 黒い霧事件 日通事件 日中国交正常化 日本列島改造論 第1次オイルショック 第一次角福戦争 青嵐会結成 椎名裁定 ロッキード事件 三木おろし 日中平和友好条約調印 福田ドクトリン 大福密約 第二次角福戦争 田園都市構想 総合安全保障構想 第2次オイルショック ダグラス・グラマン事件 四十日抗争 第三次角福戦争 ハプニング解散 「和の政治」 増税なき財政再建 新保守主義 「戦後政治の総決算」(国鉄分割民営化ほか) 二階堂擁立構想 死んだふり解散 創政会結成と田中派分裂 皇民党事件 ニューリーダー(安竹宮)と中曽根裁定 消費税導入 昭和天皇崩御 竹下派七奉行 ネオ・ニューリーダー リクルート事件 参院選惨敗 バブル景気 自衛隊初の海外派遣 YKK 一龍戦争 一六戦争 安倍派四天王分裂と三六戦争 海部おろし バブル崩壊 東京佐川急便事件 ゼネコン汚職 KK戦争 経世会(金竹小)分裂 嘘つき解散 小選挙区比例代表並立制 自社さ連立政権 阪神・淡路大震災 失われた10年 六大改革と中央省庁再編の決定 保保連合構想 金融国会 ITバブル ブッチホン 五人組 KSD事件 加藤の乱 神の国解散 自公連立政権 聖域なき構造改革 金融再生プログラム 郵政民営化 年金未納問題(政治家の年金未納) 小泉劇場(小泉旋風)と抵抗勢力 日歯連事件(日歯連闇献金事件) 中二階と麻垣康三 美しい国 憲法改正論議(国民投票法) 防衛省昇格 教育基本法改正 価値観外交(自由と繁栄の弧) 再チャレンジ 年金記録問題 フールファイブ 大宏池会構想 参院選惨敗、第一党より転落 麻生包囲網 中宏池会 大連立構想 世界金融危機(リーマン・ショック) 麻生おろし 自民大敗、民主大勝 参院選勝利、改選第一党へ復帰 東日本大震災 三党合意(社会保障と税の一体改革) 結党以来初の総裁再登板 近いうち解散 3年ぶりの政権奪還、自公で2/3確保 アベノミクス 参院選圧勝、ねじれ解消 2020年夏季五輪開催地が東京に決定 国家安全保障会議創設 特定秘密保護法制定 防衛装備移転三原則 地方創生 一億総活躍社会 集団的自衛権の行使容認(平和安全法制) 森友学園問題及び加計学園問題 組織犯罪処罰法改正によるテロ等準備罪新設 都民ファーストの会と三大政党制 憲法改正論議 憲政史上初の皇位継承と令和改元 河井夫妻選挙違反事件 桜を見る会問題 新型コロナウイルス感染症の流行 岸破義信 安倍政権の継承 東北新社役職員による総務省幹部接待問題 2020年東京オリンピック・パラリンピック デジタル庁設置 未来選択選挙 新しい資本主義 ロシアによるウクライナ侵攻への対応 安倍晋三銃撃事件 参院選で改選過半数を獲得 安倍晋三元首相の国葬 旧統一教会問題 政治資金パーティー収入の裏金問題 岸田おろし 衆院選での与党大敗 石破おろし 30年ぶりの少数与党 国民民主党との政策協議開始 宏池会(宏池会系) 宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派) → 木曜研究会(加藤派 → 小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×) 、※新財政研究会(堀内派 → 丹羽・古賀派) → 宏池政策研究会(古賀派 → 岸田派 → ×)、※大勇会(河野派) → 為公会(麻生派) → 志公会(麻生派)、※有隣会(谷垣グループ → ×) 平成研究会(木曜研究会系) 木曜研究会(佐藤派) → 周山会(佐藤派) → 周山クラブ(保利グループ → 福田派に合流×)、※七日会(田中派) → 政治同友会(田中派) → 木曜クラブ(田中派 → 二階堂派 → ×)、※経世会(竹下(登)派 → 小渕派) → 平成政治研究会(小渕派) → 平成研究会(小渕派 → 橋本派 → 津島派 → 額賀派 → 竹下(亘)派 → 茂木派)、※改革フォーラム21(羽田・小沢派 → 新生党に合流×) 水曜会 水曜会(緒方派 → 石井派 → ×) 白政会 白政会(大野派) → 睦政会(大野派) → 一新会(船田派 → ×)、※一陽会(村上派) → 巽会(水田派 → ×) 清和政策研究会(十日会系) 十日会(岸派 → ×)、※党風刷新懇話会 → 党風刷新連盟 → 紀尾井会(福田派) → 八日会(福田派) → 清和会(福田派 → 安倍(晋太郎)派 → 三塚派) → 21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派 → 森派) → 清和政策研究会(森派 → 町村派 → 細田派 → 安倍(晋三)派 → ×)、※政眞会(加藤派 → 新生党に合流×)、※愛正会(藤山派 → 水田派に合流×)、※(南条・平井派 → 福田派に合流×)、※交友クラブ(川島派 → 椎名派 → ×)、※(亀井グループ → 村上・亀井派に合流×) 志帥会、近未来政治研究会(春秋会系) 春秋会(河野派 → 森派 → 園田派 → 福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派) → 政策科学研究所(中曽根派 → 渡辺派 → 旧渡辺派 → 村上派 → 村上・亀井派に合流×) → 志帥会(村上・亀井派 → 江藤・亀井派 → 亀井派 → 伊吹派 → 二階派)、※近未来政治研究会(山崎派 → 石原派 → 森山派 → ×)、※さいこう日本(甘利グループ)、※国益と国民の生活を守る会(平沼グループ → 日本のこころに合流×) 番町政策研究所(政策研究会系) 政策研究会(松村・三木派) → 政策同志会(松村・三木派) → 政策懇談会(松村・三木派 → ) → 政策懇談会(三木派) → 新政策研究会(河本派) → 番町政策研究所(河本派 → 高村派 → 大島派 → 山東派 → 麻生派に合流×)、※(松村派 → ×)、※(早川派 → 福田派に合流×) 二日会 火曜会(石橋派)、二日会(石田派 → 三木派に合流×) 青嵐会、自由革新同友会(中川グループ → 石原グループ → 福田派に合流×) 新しい波(二階グループ → 伊吹派に合流×) 83会、新しい風(武部グループ → ×)、伝統と創造の会(稲田グループ)、保守団結の会 さわらび会(石破グループ) → 水月会(石破派 → 石破グループ) 無派閥連絡会、無派閥有志の会、のぞみ(山本グループ)、きさらぎ会(鳩山グループ → 菅グループ)、 ガネーシャの会 自由民主党総裁選挙 総裁 - 副総裁 - 幹事長 - 総務会長 - 政務調査会長 - 国会対策委員長 - 参議院議員会長 - 選挙対策委員長 - 幹事長代行 - 総裁特別補佐 自由民主党国会議員一覧 - 総務会 - 政務調査会 - 税制調査会 - 国会対策委員会 - 参議院議員団 - 青年局 - 学生部 - シャドウキャビネット - 中央政治大学院 - シンクタンク2005・日本 - 過去を学び、分厚い保守政治を目指す若手議員の会 - 文化芸術懇話会 - アベノミクスを成功させる会 - 日本教職員組合問題究明議員連盟(議員連盟) - 国民政治協会(政治資金団体) - 自由社会を守る国民会議(党友) - 自由民主党同志会(院外団) - 自民党ネットサポーターズクラブ 自公民路線 自共共闘 自社さ連立政権 保保連合構想 自公連立政権 大連立構想 創生「日本」 新自由クラブ 新党さきがけ 新生党 自由改革連合(改革の会 - 自由党 - 新党みらい - 高志会) 国民新党 新党日本 新党大地 新党改革 日本維新の会 沖縄自由民主党 新自由クラブ 税金党 保守新党 日本のこころ (自由党 → 憲政党 → 立憲政友会 → 同交会 → )日本自由党 → 民主自由党 → 自由党 (立憲改進党 → 進歩党 → 憲政本党 → 立憲国民党 → 立憲同志会 → 憲政会 → 立憲民政党 → 翼賛議員同盟 → 翼賛政治会 → 大日本政治会 → )日本進歩党 → 民主党 → 国民民主党(国民協同党が合流) → 改進党 → 日本自由党 → 日本民主党 (護国同志会 → )日本協同党 → 協同民主党 → 国民協同党 → 民主党と合同し国民民主党を結党 国民政治協会(政治資金団体) - 自由社会を守る国民会議(党友) 日本行政書士政治連盟 - 日本司法書士政治連盟 - 全国土地家屋調査士政治連盟 - 日本公認会計士政治連盟 - 全国社会保険労務士政治連盟 - 日本酒造組合連合会 - 日本蒸留酒酒造組合 - ビール酒造組合 - 日本洋酒酒造組合 - 全国卸売酒販組合中央会 - 全国小売酒販政治連盟 - 全国たばこ販売政治連盟 - 全国たばこ耕作組合中央会 - 全私学連合会 - 全日本私立幼稚園連合会 - 全国専修学校各種学校総連合会 - 全日本教職員連盟 - 日本私立中学高等学校連合会 - 一般社団法人全国教育問題協議会 - 全国ゴルフ関連団体協議会 - 私立幼稚園経営者懇談会 - 全国私立小中高等学校保護者会連合会 - 神道政治連盟 - 財団法人全日本仏教会 - 天台宗 - 高野山真言宗 - 真言宗智山派 - 真言宗豊山派 - 浄土宗 - 浄土真宗本願寺派 - 真宗大谷派 - 臨済宗妙心寺派 - 曹洞宗 - 日蓮宗 - インナートリップ・イデオローグ・リサーチセンター - 崇教真光 - 立正佼成会 - 佛所護念会教団 - 妙智会教団 - 新生佛教教団 - 松緑神道大和山 - 世界救世教 - 日本医師連盟 - 日本歯科医師連盟 - 日本薬剤師連盟 - 日本看護連盟 - 日本製薬団体連合会 - 日本保育推進連盟 - 日本柔道整復師会 - 日本歯科技工士連盟 - 全国介護政治連盟 - 全国旅館政治連盟 - 全国飲食業生活衛生同業組合連合会 - 全日本美容生活衛生同業組合連合会 - 全国クリーニング業政治連盟 - 環境保全政治連盟 - 日本環境保全協会 - 日本造園組合連合会 - 全国ビルメンテナンス政治連盟 - 全国商工政治連盟 - 全国石油政治連盟 - 全国LPガス政治連盟 - 日本商工連盟 - 全国中小企業政治協会 - 全国商店街政治連盟 - 社団法人日本調査業協会 - 社団法人全日本ダンス協会連合会 - 全国農業者農政運動組織協議会 - 21全国農政推進同志会 - 日本森林組合連合会 - 社団法人全国林業協会 - 日本酪農政治連盟 - 全国畜産政治連盟 - 全国漁業協同組合連合会 - 大日本水産会 - 日本自動車工業会 - 日本中古自動車販売協会連合会 - 日本自動車販売協会連合会 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 日本自動車整備振興会連合会 - 社団法人全日本トラック協会 - 東日本ときわ会宮城県支部 - 21テレコム会議 - 全国土地改良政治連盟 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 社団法人全国建設業協会 - 社団法人日本建設業団体連合会 - 社団法人日本建設業連合会 - 社団法人日本建設業経営協会 - 社団法人全国中小建設業協会 - 社団法人日本道路建設業協会 - 社団法人日本橋梁建設協会 - 社団法人建設コンサルタンツ協会 - 社団法人プレストレスト・コンクリート建設業協会 - 社団法人建設産業専門団体連合会 - 社団法人日本鳶工業連合会 - 社団法人日本造園建設業協会 - 社団法人全国建設業産業団体連合会 - 社団法人全国測量設計業協会連合会 - 社団法人全国地質調査業協会連合会 - 社団法人全国さく井協会 - 社団法人建設電気技術協会 - 日本下水コンポスト協会 - 社団法人全国道路標識・標示業協会 - 社団法人全国鐵構工業協会 - 社団法人日本建設躯体工事業団体連合会 - 社団法人日本塗装工業会 - 一般社団法人日本プレハブ駐車場工業会 - 社団法人不動産協会 - 全国不動産政治連盟 - 全日本不動産政治連盟 - 社団法人住宅生産団体連合会 - 全国生コンクリート工業組合連合会 - 軍恩連盟全国協議会 - 日本傷痍軍人会(解散) - 社団法人日本郷友連盟 - あすの会(解散) 表 話 編 歴 天野為之1890-1891 加賀美嘉兵衛1892-1893 林喬1894 河北勘七1894-1897 荻野六郎1897 西野久右衛門1898 花井卓蔵1898-1902 木本源吉1902 安井丈夫1903 近江谷栄次1904-1908 鈴木久五郎1908-1912 堀切善兵衛1912-1914 長沢倉吉1915-1917 松田三徳1917-1920 上塚司1920-1924 窪井義道1924 佐々木長治1924-1927 横川重次1927-1928 水谷長三郎1928-1930 坂本一角1930-1932 葉梨新五郎1932-1936 内藤久一郎1936-1937 三木武夫1937-1942 福家俊一1942-1943 森田正義1943-1944 浜田尚友1944-1945 森田正義1945 浜田尚友1945 福家俊一1945 三木キヨ子1946-1947 織田正信1947-1949 天野公義1949-1952 辻原弘市1952-1955 石橋政嗣1955-1958 谷川和穂1958-1960 海部俊樹1960-1963 橋本龍太郎1963-1967 山口敏夫1967-1969 小沢一郎1969-1972 上田茂行1972-1976 中村喜四郎1976-1979 船田元1979-1986 石破茂1986-1990 赤城徳彦1990-1993 宇佐美登1993-1996 古川元久1996-2000 原陽子2000-2003 寺田学2003-2005 杉村太蔵2005-2006 太田和美2006-2009 松岡広隆2009-2012 今枝宗一郎2012-2013 鈴木貴子2013-2021 馬場雄基2021-2024 大空幸星2024-現在 表 話 編 歴 星島二郎 中原健次 近藤鶴代 重井鹿治 多賀安郎 犬養健 近藤鶴代 橋本龍伍 星島二郎 中原健次 橋本龍伍 星島二郎 犬養健 近藤鶴代 山崎始男 中原健次 山崎始男 橋本龍伍 犬養健 星島二郎 星島二郎 橋本龍伍 犬養健 中原健次 山崎始男 橋本龍伍 星島二郎 山崎始男 中原健次 犬養健 藤原節夫 橋本龍伍 山崎始男 藤井勝志 星島二郎 江田三郎 橋本龍太郎 山崎始男 藤井勝志 星島二郎 江田三郎 加藤六月 藤井勝志 橋本龍太郎 山崎始男 橋本龍太郎 加藤六月 藤井勝志 貝沼次郎 江田三郎 加藤六月 江田三郎 橋本龍太郎 藤井勝志 山崎始男 加藤六月 貝沼次郎 藤井勝志 水田稔 橋本龍太郎 橋本龍太郎 加藤六月 貝沼次郎 藤井勝志 林保夫 橋本龍太郎 藤井勝志 水田稔 加藤六月 林保夫 加藤六月 橋本龍太郎 貝沼次郎 水田稔 藤井勝志 加藤六月 橋本龍太郎 林保夫 水田稔 貝沼次郎 橋本龍太郎 水田稔 加藤六月 村田吉隆 貝沼次郎 橋本龍太郎 石田美栄 加藤六月 貝沼次郎 村田吉隆 表 話 編 歴 逢沢一郎 熊代昭彦 津村啓介 山下貴司 平沼赳夫 阿部俊子 平沼正二郎 加藤勝信 橋本龍太郎 柚木道義 橋本岳 柚木道義 村田吉隆 加藤勝信 (2022年廃止) FAST ISNI VIAF WorldCat ノルウェー ドイツ イスラエル アメリカ 日本 オランダ CiNii Books CiNii Research IdRef 橋本龍太郎 日本の内閣総理大臣 平成時代の閣僚 昭和時代戦後の閣僚 規制改革担当大臣 沖縄開発庁長官 日本の通商産業大臣 日本の大蔵大臣 日本の運輸大臣 日本の厚生大臣 自由民主党総裁 自由民主党幹事長 自由民主党政務調査会長 自由民主党の衆議院議員 岡山県選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 平成時代の衆議院議員 慰安婦問題に関連する日本の政治家 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2024/11/21 06:15更新
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hashimoto ryuutarou
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