海部俊樹の情報(かいふとしき) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
海部 俊樹さんについて調べます
■名前・氏名 |
海部俊樹と関係のある人
岡田有希子: 岡田の死は国会でも取り上げられ、4月9日の衆議院文教委員会では江田五月の質問に文部大臣・海部俊樹が答弁した。 高市早苗: 同年7月、自由党は自由改革連合(自民党を離党した海部俊樹を代表とした)に参加し、さらに同年末に新進党に合流。 中山太郎: 第1次海部内閣では駐米大使の松永信雄などが外務大臣就任を断った為派閥のバランスを考えて中山が外相に任命され、海部俊樹首相の退陣まで一貫して海部内閣の外相を務めた。 津島雄二: 1994年、自社さ連立政権構想に反対し、海部俊樹を説得し、非自社さ連立の統一候補へと担ぎ上げる。内閣総理大臣指名選挙では非自民連立の統一候補となった海部俊樹を支持し、自民党を離党する。 後藤田正晴: 宇野の後を受けた海部俊樹内閣では、伊東正義を本部長に擁する自民党政治改革推進本部の本部長代理となり、伊東や「ミスター政治改革」の異名をとる羽田孜らと共に小選挙区制導入に執念を燃やした(後述)。 三木武夫: 当時新人代議士であった海部俊樹が2度目となる科学技術庁長官就任を断るように進言したところ、これからの時代、科学技術は大切になるのだ、とたしなめたという。 玉澤徳一郎: 奥州大学講師、富士大学助教授、海部俊樹の秘書を経て、1976年の第34回衆議院議員総選挙で初当選。 金丸信: 結局、河本派の海部俊樹が総理総裁に選出されたが、参議院の自民党過半数割れによるねじれ国会において野党との協調が政権運営に不可欠となった状況で、国対族のベテランであり最大派閥経世会の会長たる金丸と、同じく国対族で経世会オーナーの竹下、さらに両者の姻戚で自民党幹事長の小沢一郎の経世会中枢3名の権勢が海部首相のそれを凌駕し、金竹小と称された。 堀川和洋: ^ 海部俊樹回想録 第7章 皇室とのかかわり (2) 大嘗祭 厳戒態勢 不安な夜 2014年10月24日 中日新聞 朝刊 朝刊県内版 18頁 細川護熙: 1995年7月の第17回参議院議員通常選挙では、細川は党首海部俊樹、羽田孜とともに首相経験者3人組で政権交代可能な二大政党の一つであることをアピール(三総理作戦)、勝利に導いた。 細田吉蔵: 1960年に退官後、第29回衆議院議員総選挙に旧島根全県区から出馬し初当選(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・亀岡高夫・仮谷忠男・小沢辰男・佐々木義武・田沢吉郎・谷垣専一・久保田円次・伊藤宗一郎・田川誠一・渋谷直蔵・藤井勝志など)。 坂田道太: 後に内閣総理大臣を務める海部俊樹や森喜朗も、坂田の指導を受けた。 原文兵衛: 1991年、海部俊樹総裁の下で参議院議員会長に就任し、宮澤喜一総裁の下でも再任される。 山口俊一: 1994年6月29日の首班指名選挙では自民党は党議拘束により日本社会党委員長の村山富市への投票を決定していたが、山口は旧連立与党側が擁立した元首相の海部俊樹に投票し、造反した。 三沢あけみ: 1991年(平成3年)4月-海部俊樹首相主催「ゴルバチョフ・ソ連大統領歓迎晩餐会」にて日本人歌手として初めて歌を披露。 石原慎太郎: 8月8日 - 自民党総裁選挙に出馬、海部俊樹に敗れる。 三木武夫: そして昭和20年代から30年代にかけて三木と政治活動を共にしていた河野金昇の秘書となり、1958年(昭和33年)の河野金昇の急死を経て、1960年(昭和35年)に昭和生まれ初の国会議員となった海部俊樹は、三木を政治の師と仰ぎ、1989年(平成元年)に自民党総裁、首相となった。 森喜朗: 1990年の第39回総選挙後、第2次海部内閣の組閣人事で、海部俊樹首相は「リクルート関係議員は入閣させない」と公言しているにもかかわらず、安倍は森を入閣候補として推薦した。 笹山登生: 1999年1月の自・自連立を機に、同じく新進党解党後は無所属だった海部俊樹と共に自由党に所属し、同党秋田県連代表となる。 唐沢俊二郎: 第3次中曽根内閣の郵政大臣、海部俊樹総裁の下で自民党総務会長を歴任した。 稲垣実男: 1994年6月29日に行われた首班指名選挙では1回目は海部俊樹に投票するも、決選投票では一転し村山富市に入れた。 小沢辰男: なお当初総理総裁経験者で新進党初代党首の67歳誕生日前後の海部俊樹を想定していたものの、海部が改革クへの参加を拒否したため、長老議員で海部と1960年衆院初当選同期の小沢辰男がまとめ役を期待されて就任した。 保岡興治: 当選後は小渕派に所属するが、1994年の羽田孜首相後の首班指名選挙では、自民党が推す日本社会党委員長の村山富市ではなく、元首相の海部俊樹に投票し、海部に従い離党。 野呂恭一: 四十日抗争に際しては、三木や海部俊樹(後の内閣総理大臣)に従い福田赳夫に一票を投じた。 鳩山邦夫: 改革の会は高志会(海部俊樹代表)、新党みらい(鹿野道彦代表)、自由党(柿澤弘治党首)と共に自由改革連合を結成するが、同年12月に解散し、新進党結党に参加した。 橋本龍太郎: しかし、女性問題を理由に自派閥の支持が伸び悩み、盟友・安倍晋太郎への配慮から世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信や小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野宗佑の後継には海部俊樹が就任した。 小泉純一郎: 1991年(平成3年)、自民党総裁選で再選を目指し、最大派閥の経世会(竹下派)の支持を受けた海部俊樹(首相)に対抗し、盟友の山崎拓(渡辺派)、加藤紘一(宮澤派)と組んで、「海部続投阻止」「経世会支配打倒」を打ち上げた。 村田吉隆: 当選後、自由民主党の海部俊樹総裁から追加公認を受け、自民党に入党。 野田毅: しかし、野田の政界の師匠である中曽根康弘元首相や渡辺美智雄らが村山首班に反発し、野田は海部俊樹元首相らと共に離党。 三木睦子: 夫・武夫を政治の師と仰ぎ政治家を志し、三木武夫内閣で内閣官房副長官を務めた海部俊樹を若年の頃からとくに可愛がっていたことは有名で、晩年に至ってもメディアの前では憚らず「俊樹ちゃん、俊樹ちゃん」と愛称で呼ぶ姿が知られた。 |
海部俊樹の情報まとめ
海部 俊樹(かいふ としき)さんの誕生日は1931年1月2日です。愛知出身の政治家のようです。
兄弟、卒業、結婚、事件、家族、解散、現在、引退、テレビ、姉妹、母親、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2022年に亡くなられているようです。
海部俊樹のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)海部 俊樹(かいふ としき、1931年〈昭和6年〉1月2日 - 2022年〈令和4年〉1月9日)は、日本の政治家。第76・77代内閣総理大臣を歴任した。位階は正二位、勲等は大勲位菊花大綬章(没後叙勲)である。 衆議院議員(16期)、労働政務次官(第1次佐藤第2次改造内閣 - 第2次佐藤内閣)、内閣官房副長官(三木内閣)、自由民主党国会対策委員長(第21代)、文部大臣(第98・107代)、自由民主党総裁(第14代)、大蔵大臣(第95代)、新進党党首(初代)などを歴任した。 国際天文学連合(IAU)会長の海部宣男、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠の従兄である。 名古屋市東区七曲町(現・東区東桜一丁目)に生まれる。6人兄弟の長男だった。家業は祖父が明治時代に創業した「中村写真館」。店は中区栄の松坂屋名古屋店の北側にあった。1943年3月、名古屋市立南久屋国民学校(現・名古屋市立栄小学校)卒業。旧制愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)を受験するが不合格。同じ学校から受けた11人のうち9人が受かり、落ちたのは海部を含め2人だった。同年4月、旧制東海中学(現:東海中学校・高等学校)に入学。学徒動員により、名古屋市東区大幸町にあった三菱重工業の工場で働かされる。航空機のエンジン部品造りに明け暮れた。 1945年、少年飛行兵学校に合格。10月に入校することが決まるが、その前に敗戦を迎える。旧制中央大学専門部法科卒業後は河野金昇の秘書になる。新制早稲田大学第二法学部法律学科に編入学。中大在学時は中央大学辞達学会に、早大在学時は早稲田大学雄弁会に所属した。1956年には早稲田大学大学院法学研究科修士課程を中退して、学生時代から務めた河野金昇の秘書に専念する。 1957年11月17日、旧岐阜1区の柳原三郎衆議院議員の手伝いをしていた岐阜県美濃市出身の女性と結婚。 1958年3月29日、河野が急死。後継候補の一人に押し上げられるが、三木武夫の判断で妻の河野孝子が地盤を引き継ぐこととなった。同年4月20日、孝子の秘書となり、5月22日に行われた第28回衆議院議員総選挙で孝子は初当選した。 1960年9月16日、河野孝子の代わりに、秘書の海部が次期衆院選・旧愛知県第3区に立候補することが決定。同年11月20日に行われた第29回衆議院議員総選挙で全国最年少で初当選した。 1960年12月、自民党青年局学生部長に就任。1964年、青年海外協力隊の構想をまとめ、アフリカを横断調査。同団体の創設に力を注いだ。1965年には自民党青年局長となった。 1971年ごろまで一宮市新生で借家住まいをし、その後、同市平和一丁目に自宅兼事務所を構えた。 三木派が河本派に移行してからは、1994年に離党するまでの間、名実共にナンバー2として河本敏夫を支えたが、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名された。ニューリーダーの次を狙う政治家として橋本龍太郎、藤波孝生らと共に「ネオ・ニューリーダー」と呼ばれた。早稲田大学雄弁会の先輩である竹下登ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」ともいわれた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは」と囁かれたこともある。 1966年に労働政務次官、1972年に衆議院議院運営委員長、1973年に自民党人事局長、1974年に自民党副幹事長などの要職を歴任する。 1974年には、三木内閣の内閣官房副長官に就任する。内閣官房長官の井出一太郎の代わりにランブイエ・サミットの調整を行い、1975年スト権スト問題の時には、政府の窓口として労政交渉や野党対応、マスコミ討論を担当する。 1976年9月、自民党国会対策委員長に就任。同年12月、福田赳夫内閣で文部大臣として初入閣を果たした。石原慎太郎とともに昭和生まれ初の大臣であった。1985年、第2次中曽根内閣で再び文部大臣を務めた。文部大臣時代の業績として、「共通一次試験」の導入が挙げられる。 1989年7月24日、宇野宗佑首相が第15回参議院議員通常選挙敗北の責任をとり辞意を表明。 当時、主な有力議員は軒並みリクルート事件に関与していた。中曽根康弘は責任をとって離党。安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄らニューリーダーは自民党が定めた「1年間、もしくは次の総選挙まで党の役職を辞退する」という内規の対象となり謹慎中の身であり、四大派閥(竹下派・安倍派・宮澤派・旧中曽根派)はいずれも後釜の総裁候補を出せる状態になかった。 宇野が辞意を表明した7月24日、安倍が退院した。同日、小沢一郎、梶山静六、奥田敬和ら竹下派幹部は意見交換した。どの派もリーダーが総理になる前にナンバー2が手を挙げるわけにはいかない事情があったが、梶山はこの席で「橋本総裁でもいい」と発言。特に異論は起こらなかったため、一部に「橋本氏擁立」との情報が伝わった。 竹下の意中の候補は早稲田大学雄弁会の後輩で親しい関係にある海部であった。クリーンなイメージはリクルート後には相応しかったし、再登板も視野に影響力を維持したい竹下にとっては、若くはあるが決定的な世代交代に至らないという点でも好ましかった。何より、中小派閥の出身で独自に強い政治基盤を持たない海部は、竹下にとって統制しやすい存在でもあった。当時、竹下と海部はTBRビルに事務所を構えていた。竹下は4階、海部は10階。竹下に呼ばれた海部は7月26日、人目を忍ぶように竹下事務所に足を運んだ。竹下は、自派からの橋本龍太郎擁立は難しいことを海部に伝えた。ここから「海部俊樹首相」への道が始まった。 7月27日、安倍は竹下を私邸に訪ね、ポスト宇野の選出方法について意見交換した。 三番町の自宅マンションの電話は朝から深夜まで鳴りっぱなしであった。議員や記者が連日押しかけてきた。7月29日、海部は妻と長男と長女を車に乗せ、逃れるように八ヶ岳のふもとのホテルに向かった。このころには海部も覚悟を決めていた。「俺も政治家として死ななきゃならんのだから、その前に精一杯のことをしたい」と家族に伝えるが、全員から反対される。二泊し、東京へ帰る車中でようやく妻が折れた。 7月30日、元麻布の金丸邸に小渕恵三、小沢一郎、奥田敬和、梶山静六、羽田孜、渡部恒三ら竹下派幹部が顔を揃えた。ただしそこに橋本の姿だけがなかった。橋本への一本化は100人を超える派閥の分裂につながりかねなかったため、金丸は「橋本君にはもう少し人間修業をしてもらう」と述べた。7月31日、竹下派は常任幹事会を開き、自派の候補者擁立を見送る方針を正式に確認した。同日、橋本は不出馬を表明。 竹下派の派内調整が進行する中で、河本派内では領袖の河本敏夫の擁立の動きが続いていた。すでに78歳であったが、最後のチャンスと総裁選出馬への意欲を見せた。8月2日、河本は自派議員から個別に意見を聞く一方、安倍、金丸らと意見調整するが、説得された結果、出馬を断念した。同日、海部は記者会見し、出馬表明した。 同年8月8日に行われた自由民主党総裁選挙には、海部のほか、宮澤派の支援を受けた二階堂派の林義郎、安倍派の石原慎太郎が立候補。いずれも派閥の長ではないという点で当時としては異例な総裁選となったが、最大派閥の竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて自由民主党総裁に選ばれた。 参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、ねじれ国会に突入した。首班指名選挙では、自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党委員長の土井たか子を指名した。日本国憲法第67条第2項の規定に基づき両院協議会で協議されたが、両院の意見は一致せず、衆議院で指名された海部が内閣総理大臣に就任した(衆議院の優越)。海部は初の昭和生まれの首相でもある。 海部が首相に就任したころはバブル景気の真っただ中で経済は好調だったが、いわゆるリクルート事件などによって国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家に代わり、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の政治改革法案が廃案になる遠因にもなった。 第1次海部内閣発足直後、内閣官房長官山下徳夫の女性スキャンダルが発覚する。海部はすぐさま山下を更迭し、環境庁長官森山眞弓を横滑りさせて女性初の官房長官を誕生させ(後任の環境庁長官は志賀節)、各種行事に夫婦同伴で出席するなどして女性層の支持拡大を目指した。 海部にとって最初の大きな課題は総選挙で勝利することだった。衆院任期切れが迫る中、自民党は次の総選挙で参院選と同様の敗北を喫することだけは避けねばならなかった。結果、1990年の第39回衆議院議員総選挙で自民党を大勝に導く。1990年には首相として即位の礼を仕切り成功させた。 1990年9月28日、ニューヨーク大学から名誉博士号を、1991年7月10日、ボストン大学から名誉法学博士号を授与された。 党内基盤が脆弱であった海部は、自民党にとってはその場しのぎの「看板」という側面もあった。中小派閥である河本派の幹部である海部が総裁選に勝利したこと自体、元首相の竹下が自派の頭数をもって海部を押し上げたに過ぎなかった。例えば第1次海部内閣の発足時にあたっては、首班指名の1時間後にまず党三役が決定、即座に小沢一郎新幹事長らが党本部の幹事長室で各派と連絡を取りながら海部抜きで組閣を進め、隣の応接室で待たされる海部は一切関わることはなかった。そのあと首相官邸に海部と三役が移動して正式の組閣を小沢らの人選そのままに進み、首班指名からわずか5時間で新閣僚名簿が発表された。 石原信雄の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた」と記され、自民党幹事長の小沢一郎からも「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方がよっぽどましだ」と酷評され、金竹小が海部以上に強い影響力を持っていた。 1991年、小沢主導により湾岸戦争の戦費として多国籍軍に130億米ドルもの資金を提供する。当初、戦後クウェートの新聞に載せられた感謝広告に日本の国旗が掲示されなかったが、その後改められた。この施策に関し、右派からは「金だけだして人出さない」「似非国際貢献」「一国平和主義」、左派からは「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した」と批判されるなど、左右の知識人から批判を浴びた。停戦後、自衛隊創設以来初の海外実任務となる海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣する。1991年にはソビエト首脳として最初で最後の来日となったミハイル・ゴルバチョフと会談している。 自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、小選挙区導入反対派の加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の「YKK」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。 六四天安門事件後、ヒューストンの第16回先進国首脳会議で円借款再開を表明し、世界から孤立しかかった中国に天安門事件後の西側先進国首脳では初めて訪問して円借款を再開させた。ヒューストン・サミットを前に海部は対中制裁反対派の中曽根康弘・鈴木善幸・竹下登元首相に制裁解除を迫られていた。海部自身は、「中国に対して原則を貫いた」と語り、天安門事件の犠牲者の冥福を祈るため、訪中時に天安門広場で献花を行ったという。当時のアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は議会と対立するほど制裁全面化に消極的であり、秘密裏にヘンリー・キッシンジャーやブレント・スコウクロフトを中国に派遣して民主化運動家の方励之の出国をめぐる交渉を行っていたとされる。方励之の出国を条件に融資再開を日本は中国に持ちかけたともされ、ブッシュは第16回先進国首脳会議で対中円借款再開を表明した海部に同調した。 1991年に民主化後初の大韓民国大統領である盧泰愚と会談し、その席で懸案であった在日韓国人の指紋押捺の廃止を約束し、その後実施された。 湾岸危機や国連平和協力法案の廃案といった困難はあったが、政権支持率は概ね高水準で推移し、海部は政権運営に自信を深めていく。そして政治改革関連法案の成立に意欲を燃やしたが、国会で審議未了廃案となったことを受け、「重大な決意で臨む」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱が起こった(海部おろし)。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派親小沢勢力でさえ明確に解散不支持を表明したため、海部は結局解散に踏み切ることができなかった。また、それまで海部を支持してきた竹下派親小沢勢力が海部の不支持を表明し、宮澤喜一、三塚博、渡辺美智雄ら反海部の派閥の領袖たちが総裁選に立候補を表明した。これにより、海部を支持するのは自身の派閥である小派閥の河本派だけとなり、総裁選に再選できる道は閉ざされた。 1991年11月5日、海部は総理大臣を辞職。在任中は竹下派に手足を縛られて思い通りの政権運営はままならず、PKOや政治改革といった重要課題は次期政権に持ち越すことになった。バブル景気末期や冷戦体制の終焉といった激動の時期に総理の座にありながら、海部本人が政治的なイニシアチブを取った形跡もなく、政権として目立った実績は乏しい。しかし決定的な失政があったとみなされたわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けた。在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており、煮え切らない不完全燃焼の中での退陣となった。 首相在任日数818日間は、日本国憲法下において衆議院で内閣不信任決議が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。 1994年6月29日、自民党総裁の河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党、新党さきがけと自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して自民党を離党した。同じく造反した津島雄二の説得により、旧連立与党である新生党や日本新党から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。 同年7月18日、公職選挙法235条違反による裁判で参議院議員の新間正次の有罪判決が確定。新間の当選無効に伴う再選挙で野党9党派は労働官僚の都築譲を擁立し、7月27日、海部は都築の総合選対本部長に就任した。対する自民党は国連職員の水野時朗に出馬要請し、党県連会長の村田敬次郎は海部と絶縁する宣言を行った。海部の番頭格だった服部光孝県議も「25年間の縁を切る」と強い口調で述べ、自民党との溝は一層深まった。また、7月27日に海部は自由改革連合を結成して代表に就任している。 同年12月10日、新進党を結党して初代党首に就任。自民党総裁を務めた人物が離党し他党の党首となるのは極めて異例(2024年現在唯一の事例)。同じ旧愛知3区の江崎鐵磨も新進党結成に参加した。 同年11月21日に政治改革四法における小選挙区の具体的な区割り法案が国会で可決。海部も江崎鉄磨も一宮市を含む愛知10区の公認を主張して譲らなかったが、1995年3月17日、新進党本部の調整で海部は愛知9区、江崎は愛知10区と決まり、両現職の戦争は回避された。 新進党分党後は1年1ヶ月の無所属暮らし(院内会派「無所属の会」)を経て、自民党との連立政権に加わった自由党に入党。2000年の同党分裂の際には、自民連立継続派の保守党に所属する。 保守新党に改組して臨んだ2003年に第43回衆議院議員総選挙では、民主党の新人岡本充功に比例復活を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣河本派の後継である高村派には戻らず、二階俊博ら一緒に復党した旧保守新党議員らと二階グループを結成した。自民党復党の折には自民党幹事長安倍晋三から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の肖像画も再び掲額された。 2009年の第45回衆議院議員総選挙にて、小選挙区で民主党の岡本に8万票以上の大差をつけられ惨敗し、党の73歳定年制もあって重複立候補できなかったため、比例復活もできず落選した。同日、政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えたことも落選の一因とされる。首相経験者が落選したのは、1963年の第30回衆議院議員総選挙の石橋湛山、片山哲以来46年振り、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。解散時点で海部の連続当選回数は16回、勤続年数48年9ヶ月と衆議院議員としては現職トップだった。このとき当選していれば、尾崎行雄や師匠である三木などに続いて衆議院議員在職五十年に到達するところであった。 政界引退後は、世界連邦運動協会会長、日本ソフトテニス連盟会長、大正琴協会理事長、日本ティーボール協会会長などを務めた。また、三木睦子が理事を務める中央政策研究所では最高顧問を務める。2010年には回想録『政治とカネ』を新潮新書から出版した。 2011年、桐花大綬章を受章。同年6月29日、愛知県一宮市名誉市民授与。同年12月3日、愛知県名誉県民授与。2012年3月、中華民国の国立中央大学より名誉博士称号を授与される。同年9月、自民党総裁選に立候補した町村信孝の表敬訪問を受け、激励した。2014年から中日新聞県内版(愛知県向け紙面)に『海部俊樹回想録』を連載した。また、清華大学の出資を受ける道紀忠華シンクタンクの顧問を務めていた。 2019年11月29日に中曽根康弘が死去したことにより、首相経験者で最古参になった。また、この時存命の首相経験者としては村山富市(1924年3月3日生まれ)に次ぐ高齢者となった。最高齢の総理大臣経験者と最古参の総理大臣経験者が異なるのは、1993年12月16日に田中角栄が死去して以来であった(田中は死去時点で最古参の首相経験者であったが、最高齢の首相経験者は福田赳夫であったため)。 2022年1月9日4時、肺炎のため東京都内の病院で死去。読売新聞、時事通信、NHKは死因を老衰としている。91歳没。政府は18日の閣議で正二位叙位と大勲位菊花大綬章追贈を決定した。海部の死去に伴い、細川護熙が最古参の首相経験者となった(最高齢は村山富市のまま)。 世界連邦運動協会会長 日本ソフトテニス連盟会長 日本ティーボール協会会長 大正琴協会理事長 EU・ジャパンフェスト日本委員会最高顧問 地球環境行動会議 (GEA) 最高顧問 中央政策研究所最高顧問 教育美術振興会会長 公益財団法人中部日本書道会名誉会長 道紀忠華シンクタンク顧問 公益社団法人全日本アーチェリー連盟名誉会長 南京事件については、日本軍による虐殺を認めた立場を取っている。2010年に中国の招待で訪中した際に南京事件論争に触れ、「日本は歴史上、南京市民に対して許されない過ちを犯してしまった。1人の政治家として、南京市民に深くお詫びを申し上げたい」と市民への謝罪を行った。 水玉模様のネクタイをトレードマークとしている事で知られる。これは、三木内閣の官房副長官時代に国鉄のスト権スト問題でテレビの討論番組に出演した際、対処で多忙を極め帰宅もままならぬ時期であったことから、たまたま水玉模様の同じネクタイを連日連夜着用し続けていたことに関して視聴者からツッコミが入る一幕があり、それを機に意図的に自らのトレードマークとして決めたという経緯によるものである(なお、この討論番組では当時、公共企業体等労働組合協議会事務局長であった富塚三夫に対して後述の弁論経験を活かした一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった)。首相時代には水玉模様のネクタイばかり600本以上も持っていたと語っており、広島と長崎の平和記念式典にも黒地に黒の水玉模様のネクタイをして出席していたほどの徹底ぶりであった(表向きは喪服用の黒いネクタイだが、明るい場所で見ると仄かに水玉模様が見える)。また、昭和天皇の大喪の礼でも同じく黒地に黒の水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。 旧制東海中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、旧制中央大学専門部法科入学と共に中央大学辞達学会(弁論部)に所属し、数々の弁論大会で活躍。同大学卒業後、一旦は法務省に事務官として入省するも退職し、同郷の代議士河野金昇の書生(議員秘書)を務め、河野の母校でもある早稲田大学第二法学部法律学科へ編入学し、早稲田大学雄弁会に所属。早大在学中は雄弁会で弁論術の研鑚及び人脈作りに勤しんだ。学生弁論大会で優勝した折には、審査委員の一人だった早稲田大学総長の時子山常三郎から「海部君(の演説)に勝る者はいない。海部の前に海部なし、海部のあとに海部なしだ」と評されている。同年代の雄弁会仲間には渡部恒三などがおり、この時代に培った人脈が政界入り後に大きな力となって、小派閥の番頭格でありながら首相のポストを得る原動力となった。当時は単独講和反対を主張していたと言われている。 1960年に行われた第29回衆議院議員総選挙に、河野金昇の死後、後継として出馬して一期務めた未亡人河野孝子の後継者として出馬。応援演説に来た井出一太郎が放った「サイフは落としてもカイフは落とすな」というキャッチフレーズで人気が沸騰し当選した。 このとき海部の年齢は29歳であり、また初めて入った議員会館の部屋も29号室であったことから、「29回総選挙に29歳で当選したから、29年後、総理大臣になって恩返しする」と公言していた。しかし自民党内では傍流である三木派に属していたため当時は総理になること自体が現実味のある話とは見做されておらず、また本人も講演会などの挨拶における半ば冗談交じりのネタとして用いていた。 ところが、後に前述の条件が重なったことにより、初当選から奇しくも29年後の1989年、公言通り総理大臣就任が実現した。 首相の座を射止めたことから、多くの秘書が政治家として勇躍した。 田中志典 - 元犬山市長、元愛知県議会議員。 熊田裕通 - 衆議院議員、元愛知県議会議員。 長坂康正 - 衆議院議員、元愛知県議会議員。 岩村進次 - 元愛知県議会議員、元議長。私設秘書に暴行を加えた事件が明るみとなり、2019年の選挙で落選。 西川学 - 名古屋市会議員。大学在学中に海部の事務所見習いとなる。 1990年、アメリカ・ヒューストンで開催された第16回先進国首脳会議における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、アメリカ合衆国大統領ブッシュ、イギリス首相サッチャー、カナダ首相マルルーニーが爆笑している場面の写真が全世界に配信された。 海部によれば、以下のようなやり取りがあったという。 内閣総理大臣就任後は、国民の人気を得るためにさまざまなパフォーマンスを行った。体育の日には国民とともに体力テストとして反復横跳びを行ったことや、また首相公邸へ高齢者を招待してゲートボールを遊んだこともあった。 首相就任中の1991年に放映されたテレビアニメ『ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え』に登場するゲストキャラクター「海辺(うみべ)首相」のモデルとなっている。ちなみに、海辺首相の口癖は「幹事長とも相談しますが」であり、当時の自民党幹事長小沢一郎との力関係を揶揄したパロディとなっている。 首相退任後、バラエティ番組『三枝の愛ラブ!爆笑クリニック』に夫婦で出演した。 若年のころから三木武夫を政治家として尊敬して親交を持ち、三木睦子からは息子のように可愛がられた。睦子から「俊樹ちゃん」と呼ばれている姿がテレビなどで報じられるうち、いつしか視聴者の間でも「俊樹ちゃん」が愛称として定着した。 記録的な長寿で話題となった双子姉妹、成田きんと蟹江ぎんは生前、「尊敬する政治家」として海部の名を挙げていた。海部はきんの葬儀委員長を務めている。 元名古屋市長で、地域政党減税日本の代表及び政治団体「日本保守党」の共同代表でもある河村たかしとは、河村の母親が海部の姉と友人で、名古屋市にあった母親の実家が海部の自宅と隣同士であり、河村が案内して一緒にかつて家があった場所を訪れる約束をしていた。また、新進党時代には初代党首に就いた海部と河村は同僚で河村はよく指導頂いたと言い、海部が自民党に復党した時、「俺の処に来い」と声を掛けられ、河村は悩んだが断ったと言う。 長渕剛の曲「親知らず」の歌詞の中に、ミハイル・ゴルバチョフ、サッダーム・フセイン、ジョージ・H・W・ブッシュと共に登場する。 映画『小説吉田学校』(1983年)では、福田勝洋が海部を演じた。 総理として国民栄誉賞を授与した千代の富士との因縁もあってか、1990年5月26日には大相撲夏場所14日目を国技館の貴賓席で観戦した。2016年7月31日に千代の富士が逝去した際には弔電を送っている。 2度目の文部大臣就任直後に岡田有希子が自殺。衆議院文教委員会で江田五月が採り上げ質問した際に「アイドルは皆に夢を与える存在。どうか命を大切にして欲しい、強くたくましく生きて欲しいものです」と答弁した。 テレビプロデューサー、アニメプロデューサーの海部正樹は玉川大学卒の長男で秘書を務めた。葬儀では喪主を務めた。 長女・睦(1963年7月19日生、青山学院大学卒) 曽祖父の海部昂蔵は尾張徳川家の家令、御相談人を務めた。 外交官の海部篤は甥。 天文学者の海部宣男、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、シンコーホーム詐欺事件で2002年に有罪判決を受けたシンコーホーム元常務の海部俊一は従弟。 名古屋コーチンの生みの親として知られる、旧尾張藩士の海部壮平・海部正秀兄弟は遠い親戚(壮平・正秀の姉の曾孫)。 1948年 - 旧制東海中学(現・東海中学校・高等学校)卒業。 1951年 - 旧制中央大学専門部法科卒業、法務省に事務官として入省。 1952年 - 河野金昇代議士の秘書をしながら新制早稲田大学第二法学部法律学科3年次に編入学、在学時は雄弁会に所属する(副幹事長に就任)。 1954年 - 早稲田大学第二法学部法律学科卒業、法学士号取得。 1956年 - 早稲田大学大学院法学研究科修士課程中途退学。 1960年11月20日 - 第29回衆議院議員総選挙に全国最年少で当選、以降連続当選16期を数えた。 1966年8月1日 - 労働政務次官(第1次佐藤内閣第3次改造内閣)。 1974年12月9日 - 内閣官房副長官(三木内閣)。 1976年12月24日 - 文部大臣(福田赳夫内閣)。 1985年12月28日 - 文部大臣(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)。 1989年8月10日 - 第76代内閣総理大臣。 1990年
12月29日 - 第2次海部改造内閣発足。 1991年
11月 - 内閣総辞職により内閣総理大臣を辞任。 1994年
12月 - 新進党初代党首。 1998年1月 - 新進党分党に伴い無所属(院内会派「無所属の会」)。 1999年1月 - 自由党に入党し、党最高顧問に就任。 2000年4月 - 保守党最高顧問。 2002年12月 - 保守新党最高顧問。 2003年11月 - 保守新党解党に伴い自民党復党。二階グループ最高顧問に就任。 2009年8月30日 - 第45回衆議院議員総選挙に17回目の当選を目指して出馬するも、民主党の岡本充功に敗れ落選。同日政界引退を表明。 2011年 - 桐花大綬章を受章。名誉愛知県民章を受章。 2022年1月9日4時、死去。91歳没。死没日付をもって大勲位菊花大綬章受章。 『模範スピーチ385選』有紀書房、1968年1月1日 『未来への選択 : 創造と充実の時代へ』徳間書店、1981年3月19日。 『21世紀を目指す : 海部俊樹鼎談集』共同通信社、1985年6月24日。 『志ある国家日本の構想』東洋経済新報社、1995年7月27日。 『政治とカネ―海部俊樹回顧録』新潮新書、2010年11月20日。ISBN 978-4-10610394-0。 『海部俊樹回想録―自我作古』垣見洋樹編、人間社、2015年12月1日。ISBN 978-4931388956。
『ニューメディア・ルネッサンス 多彩な執筆陣が見通すニューメディアの未来像』自由民主党昭和会共編. 紀尾井書房, 1985.6 『モンゴル馬ダライフレグの奇跡 日本とモンゴル友好のかけ橋になった名馬の物語』志茂田景樹共著, 笹森識 絵, 籾山彩恵子英訳,宮田修企画・監修. Kiba book, 2006.7 ^ 自民党は単独で275議席を獲得し、さらに保守系無所属の11議席を足して286議席となり、過半数を上回った。 ^ 田崎史郎「小沢一郎との訣別」『文藝春秋』1994年10月号より。小沢の数々のオフレコ発言を明かした同記事で「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」という小沢の発言が初めて明るみに出たが、これは、1982年の自民党総裁選挙で田中派が中曽根康弘を支持した時の小沢のコメントであり、海部を指したものではない。だが、海部を指した発言と誤って伝えられることがあり、海部自身も、人づてに小沢がそう評したことを聞いたと回顧録に書き記している。 ^ 自民党を離党し他党の党首を務めた人物が後に復党し総裁となった例としては河野洋平がいる。 ^ 当時のカナダは独立後8年目である。1931年にウエストミンスター憲章によってイギリス帝国からの独立性が認められたものの、1982年憲法制定をもって政体が安定した。 ^ 現職総理の国技館での観戦は岸信介以来であり、その後も小泉純一郎が貴賓席で観戦している。 ^ 『官報』令和4年(2022年)1月27日付本紙第663号9頁 ^ 海部元首相に大勲位菊花大綬章 - 時事ドットコム 2022年1月18日 ^ 故海部元首相に大勲位菊花大綬章 戦後の首相経験者で11人目 - 朝日新聞デジタル 2022年1月18日 ^ 海部 2015, pp. 30–31. ^ 海部 2010, pp. 34–35. ^ “海部俊樹氏が死去、91歳 水玉ネクタイがトレードマーク、第76代首相”. 日刊スポーツ (2022年1月14日). 2022年1月14日閲覧。 ^ 海部 2010. ^ 海部 2010, pp. 38–39. ^ 海部 2015, pp. 223–224. ^ 海部 2015, pp. 40–41. ^ 『中部日本新聞』1960年9月17日付朝刊、尾張版、5面、「海部俊樹氏が出馬 衆院選第三区 河野現代議士に代わり」。 ^ 昭和35年11月 中日ニュース No.358_3「政局再び二大政党へ」 中日映画社 ^ 海部 2010, pp. 42–43. ^ 『中日新聞』1989年8月9日付朝刊、22面、「海部氏夫人、幸世さん 当選自宅で祈り続ける テキパキ内助の功、青春時代は文武両道」。 ^ 海部 2010, p. 47. ^ 海部 2010, pp. 16–19. ^ 『平成政治史 1』, p. 50. ^ 早坂 1991, pp. 113–116. ^ 『中日新聞』1989年7月6日付朝刊、3面、「核心/ どうなる!?自民後継 カギ握る竹下派 橋本氏擁立ムードは高まるが... 金丸氏、冷ややか」。 ^ 『平成政治史 1』, p. 52. ^ 海部 2015, pp. 13–15. ^ 『平成政治史 1』, pp. 53–54. ^ 『朝日新聞』1989年8月1日付朝刊、1面、「河本氏、自民後継総裁選出馬に強い意欲 派内も擁立めざす」。 ^ 『中日新聞』1989年8月3日付朝刊、1面、「『海部総裁』が確実 自民党内の大勢支持 河本氏は出馬断念 石原氏ら推す動きも」。 ^ 『中日新聞』1989年8月3日付朝刊、23面、「『若さ』『清新』 リ社の影 海部さん緊張の会見 総裁選立候補 『責任ひしひし』 “雄弁”おさえて神妙」。 ^ 俊樹, 1931-, 海部 (1992). 海部内閣総理大臣演説集. 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西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 松平慶永 伊達宗城 大久保利通 大隈重信 佐野常民 松方正義 松方正義 渡辺国武 井上馨 松田正久 西園寺公望 曾禰荒助 阪谷芳郎 桂太郎 山本達雄 若槻禮次郎 高橋是清 武富時敏 寺内正毅 勝田主計 市来乙彦 井上準之助 勝田主計 濱口雄幸 早速整爾 片岡直温 三土忠造 藤井真信 町田忠治 馬場鍈一 結城豊太郎 賀屋興宣 池田成彬 石渡荘太郎 青木一男 櫻内幸雄 河田烈 小倉正恒 賀屋興宣 津島壽一 広瀬豊作 渋沢敬三 石橋湛山 矢野庄太郎 栗栖赳夫 北村徳太郎 泉山三六 大屋晋三 臨時代理 池田勇人 向井忠晴 小笠原三九郎 一万田尚登 佐藤栄作 水田三喜男 田中角栄 福田赳夫 植木庚子郎 愛知揆一 大平正芳 坊秀男 村山達雄 金子一平 竹下登 渡辺美智雄 宮澤喜一 橋本龍太郎 海部俊樹 羽田孜 林義郎 藤井裕久 武村正義 久保亘 三塚博 松永光 宮澤喜一 宮澤喜一 塩川正十郎 谷垣禎一 尾身幸次 額賀福志郎 伊吹文明 中川昭一 与謝野馨 藤井裕久 菅直人 野田佳彦 安住淳 城島光力 麻生太郎 鈴木俊一 加藤勝信 表 話 編 歴 大木喬任 木戸孝允 西郷従道 寺島宗則 河野敏鎌 福岡孝弟 大木喬任 森有礼 榎本武揚 芳川顕正 大木喬任 河野敏鎌 井上毅 西園寺公望 蜂須賀茂韶 濱尾新 外山正一 尾崎行雄 犬養毅 樺山資紀 松田正久 菊池大麓 児玉源太郎 久保田譲 桂太郎 牧野伸顕 小松原英太郎 長谷場純孝 柴田家門 奥田義人 大岡育造 一木喜徳郎 高田早苗 岡田良平 中橋徳五郎 鎌田栄吉 犬養毅 岡野敬次郎 江木千之 岡田良平 三土忠造 水野錬太郎 勝田主計 小橋一太 田中隆三 鳩山一郎 斎藤実 松田源治 川崎卓吉 潮恵之輔 平生釟三郎 林銑十郎 安井英二 木戸幸一 荒木貞夫 河原田稼吉 松浦鎮次郎 橋田邦彦 東條英機 岡部長景 二宮治重 兒玉秀雄 太田耕造 松村謙三 前田多門 安倍能成 田中耕太郎 高橋誠一郎 森戸辰男 下条康麿 高瀬荘太郎 天野貞祐 岡野清豪 大達茂雄 安藤正純 松村謙三 清瀬一郎 灘尾弘吉 松永東 灘尾弘吉 橋本龍伍 松田竹千代 荒木万寿夫 愛知揆一 中村梅吉 有田喜一 剱木亨弘 灘尾弘吉 坂田道太 高見三郎 稲葉修 奥野誠亮 三原朝雄 永井道雄 海部俊樹 砂田重民 内藤誉三郎 谷垣専一 田中龍夫 小川平二 瀬戸山三男 森喜朗 松永光 藤尾正行 塩川正十郎 中島源太郎 西岡武夫 石橋一弥 保利耕輔 井上裕 鳩山邦夫 森山眞弓 赤松良子 与謝野馨 島村宜伸 奥田幹生 小杉隆 町村信孝 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 町村信孝 遠山敦子 河村建夫 中山成彬 小坂憲次 伊吹文明 渡海紀三朗 鈴木恒夫 塩谷立 川端達夫 高木義明 中川正春 平野博文 田中眞紀子 下村博文 馳浩 松野博一 林芳正 柴山昌彦 萩生田光一 末松信介 永岡桂子 盛山正仁 阿部俊子 省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。 カテゴリ 表 話 編 歴 周東英雄 滝川末一 曾禰益 福島愼太郎 有田喜一 橋本龍伍 郡祐一 菅野義丸 田中不破三 松本瀧藏 北沢直吉 田中龍夫 松本俊一 小川平二 保岡武久 服部安司 八田貞義 草野一郎平 斎藤邦吉 竹下登 木村俊夫 亀岡高夫 木村俊夫 三原朝雄 山下元利 大村襄治 梶山静六 海部俊樹 鯨岡兵輔 塩川正十郎 森喜朗 加藤紘一 瓦力 池田行彦 藤波孝生 水平豊彦 山崎拓 唐沢俊二郎 渡辺秀央 小沢一郎 牧野隆守 志賀節 藤本孝雄 大島理森 近藤元次 鳩山由紀夫 北村直人 園田博之 渡辺嘉蔵 藁科満治 与謝野馨 額賀福志郎 鈴木宗男 額賀福志郎 安倍晋三 細田博之 杉浦正健 長勢甚遠 下村博文 大野松茂 塩谷立 松本純 松野頼久 古川元久 藤井裕久 仙谷由人 斎藤勁 加藤勝信 萩生田光一 西村康稔 西村明宏 坂井学 木原誠二 村井英樹 橘慶一郎 上杉光弘 松谷蒼一郎 上野公成 山崎正昭 鈴木政二 岩城光英 鴻池祥肇 浅野勝人 松井孝治 福山哲郎 長浜博行 芝博一 世耕弘成 野上浩太郎 岡田直樹 磯﨑仁彦 森屋宏 青木一彦 郡祐一 井上清一 剱木亨弘 江口見登留 谷口寛 井上卓一 田中栄一 岡崎英城 鈴木俊一 小笠公韶 佐々木盛雄 細谷喜一 石岡實 小池欣一 後藤田正晴 川島廣守 梅本純正 道正邦彦 翁久次郎 藤森昭一 石原信雄 古川貞二郎 二橋正弘 的場順三 二橋正弘 漆間巌 瀧野欣彌 竹歳誠 杉田和博 栗生俊一 佐藤文俊 表 話 編 歴 浅沼稲次郎 山口喜久一郎 大村清一 小沢佐重喜 石田博英 福永健司 菅家喜六 中村梅吉 椎熊三郎 保利茂 山村新治郎 江﨑真澄 荒舩清十郎 周東英雄 福永健司 小平久雄 福田一 佐々木秀世 福永健司 坪川信三 塚原俊郎 坪川信三 伊能繁次郎 久野忠治 塚原俊郎 渡海元三郎 田澤吉郎 海部俊樹 佐々木秀世 田澤吉郎 金丸信 細田吉蔵 亀岡高夫 山下元利 内海英男 山村新治郎 小沢一郎 綿貫民輔 越智伊平 三塚博 山口敏夫 小此木彦三郎 山下徳夫 森喜朗 中西啓介 与謝野馨 奥田敬和 中村正三郎 谷垣禎一 平沼赳夫 亀井善之 中川秀直 大島理森 藤井孝男 鈴木宗男 鳩山邦夫 大野功統 武部勤 川崎二郎 佐田玄一郎 逢沢一郎 笹川堯 小坂憲次 松本剛明 川端達夫 小平忠正 高木義明 佐田玄一郎 高木毅 逢沢一郎 林幹雄 河村建夫 佐藤勉 古屋圭司 高市早苗 高木毅 山口俊一 浜田靖一 表 話 編 歴 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤栄作 田中角栄 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 河野洋平 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 谷垣禎一 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 中村梅吉 倉石忠雄 村上勇 福永健司 小沢佐重喜 山村新治郎 江﨑真澄 竹山祐太郎 園田直 佐々木秀世 中野四郎 佐々木秀世 長谷川四郎 園田直 塚原俊郎 金丸信 原田憲 福田一 江﨑真澄 宇野宗佑 海部俊樹 安倍晋太郎 三原朝雄 金丸信 田沢吉郎 田村元 小此木彦三郎 江藤隆美 森下元晴 江藤隆美 藤波孝生 渡部恒三 奥田敬和 村岡兼造 梶山静六 増岡博之 梶山静六 瓦力 小里貞利 島村宜伸 山崎拓 村岡兼造 保利耕輔 古賀誠 大島理森 中川秀直 細田博之 二階俊博 大島理森 川崎二郎 逢沢一郎 岸田文雄 浜田靖一 鴨下一郎 佐藤勉 竹下亘 森山裕 高木毅 浜田靖一 坂本哲志 表 話 編 歴 日ソ国交回復と国連加盟 保守合同 初の総裁公選による選出 満洲人脈 警察官職務執行法改正案 新安保 国民皆保険 所得倍増計画 農業基本法公布 OECD加盟 1964年東京オリンピック 岸派分裂 財界四天王 日韓基本条約 非核三原則(日米核持ち込み問題) 公害国会 日本万国博覧会 沖縄返還(西山事件) 佐藤派五奉行 黒い霧事件 日通事件 日中国交正常化 日本列島改造論 第1次オイルショック 第一次角福戦争 青嵐会結成 椎名裁定 ロッキード事件 三木おろし 日中平和友好条約調印 福田ドクトリン 大福密約 第二次角福戦争 田園都市構想 総合安全保障構想 第2次オイルショック ダグラス・グラマン事件 四十日抗争 第三次角福戦争 ハプニング解散 「和の政治」 増税なき財政再建 新保守主義 「戦後政治の総決算」(国鉄分割民営化ほか) 二階堂擁立構想 死んだふり解散 創政会結成と田中派分裂 皇民党事件 ニューリーダー(安竹宮)と中曽根裁定 消費税導入 昭和天皇崩御 竹下派七奉行 ネオ・ニューリーダー リクルート事件 参院選惨敗 バブル景気 自衛隊初の海外派遣 YKK 一龍戦争 一六戦争 安倍派四天王分裂と三六戦争 海部おろし バブル崩壊 東京佐川急便事件 ゼネコン汚職 KK戦争 経世会(金竹小)分裂 嘘つき解散 小選挙区比例代表並立制 自社さ連立政権 阪神・淡路大震災 失われた10年 六大改革と中央省庁再編の決定 保保連合構想 金融国会 ITバブル ブッチホン 五人組 KSD事件 加藤の乱 神の国解散 自公連立政権 聖域なき構造改革 金融再生プログラム 郵政民営化 年金未納問題(政治家の年金未納) 小泉劇場(小泉旋風)と抵抗勢力 日歯連事件(日歯連闇献金事件) 中二階と麻垣康三 美しい国 憲法改正論議(国民投票法) 防衛省昇格 教育基本法改正 価値観外交(自由と繁栄の弧) 再チャレンジ 年金記録問題 フールファイブ 大宏池会構想 参院選惨敗、第一党より転落 麻生包囲網 中宏池会 大連立構想 世界金融危機(リーマン・ショック) 麻生おろし 自民大敗、民主大勝 参院選勝利、改選第一党へ復帰 東日本大震災 三党合意(社会保障と税の一体改革) 結党以来初の総裁再登板 近いうち解散 3年ぶりの政権奪還、自公で2/3確保 アベノミクス 参院選圧勝、ねじれ解消 2020年夏季五輪開催地が東京に決定 国家安全保障会議創設 特定秘密保護法制定 防衛装備移転三原則 地方創生 一億総活躍社会 集団的自衛権の行使容認(平和安全法制) 森友学園問題及び加計学園問題 組織犯罪処罰法改正によるテロ等準備罪新設 都民ファーストの会と三大政党制 憲法改正論議 憲政史上初の皇位継承と令和改元 河井夫妻選挙違反事件 桜を見る会問題 新型コロナウイルス感染症の流行 岸破義信 安倍政権の継承 東北新社役職員による総務省幹部接待問題 2020年東京オリンピック・パラリンピック デジタル庁設置 未来選択選挙 新しい資本主義 ロシアによるウクライナ侵攻への対応 安倍晋三銃撃事件 参院選で改選過半数を獲得 安倍晋三元首相の国葬 旧統一教会問題 政治資金パーティー収入の裏金問題 岸田おろし 衆院選での与党大敗 石破おろし 30年ぶりの少数与党 国民民主党との政策協議開始 宏池会(宏池会系) 宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派) → 木曜研究会(加藤派 → 小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×) 、※新財政研究会(堀内派 → 丹羽・古賀派) → 宏池政策研究会(古賀派 → 岸田派 → ×)、※大勇会(河野派) → 為公会(麻生派) → 志公会(麻生派)、※有隣会(谷垣グループ → ×) 平成研究会(木曜研究会系) 木曜研究会(佐藤派) → 周山会(佐藤派) → 周山クラブ(保利グループ → 福田派に合流×)、※七日会(田中派) → 政治同友会(田中派) → 木曜クラブ(田中派 → 二階堂派 → ×)、※経世会(竹下(登)派 → 小渕派) → 平成政治研究会(小渕派) → 平成研究会(小渕派 → 橋本派 → 津島派 → 額賀派 → 竹下(亘)派 → 茂木派)、※改革フォーラム21(羽田・小沢派 → 新生党に合流×) 水曜会 水曜会(緒方派 → 石井派 → ×) 白政会 白政会(大野派) → 睦政会(大野派) → 一新会(船田派 → ×)、※一陽会(村上派) → 巽会(水田派 → ×) 清和政策研究会(十日会系) 十日会(岸派 → ×)、※党風刷新懇話会 → 党風刷新連盟 → 紀尾井会(福田派) → 八日会(福田派) → 清和会(福田派 → 安倍(晋太郎)派 → 三塚派) → 21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派 → 森派) → 清和政策研究会(森派 → 町村派 → 細田派 → 安倍(晋三)派 → ×)、※政眞会(加藤派 → 新生党に合流×)、※愛正会(藤山派 → 水田派に合流×)、※(南条・平井派 → 福田派に合流×)、※交友クラブ(川島派 → 椎名派 → ×)、※(亀井グループ → 村上・亀井派に合流×) 志帥会、近未来政治研究会(春秋会系) 春秋会(河野派 → 森派 → 園田派 → 福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派) → 政策科学研究所(中曽根派 → 渡辺派 → 旧渡辺派 → 村上派 → 村上・亀井派に合流×) → 志帥会(村上・亀井派 → 江藤・亀井派 → 亀井派 → 伊吹派 → 二階派)、※近未来政治研究会(山崎派 → 石原派 → 森山派 → ×)、※さいこう日本(甘利グループ)、※国益と国民の生活を守る会(平沼グループ → 日本のこころに合流×) 番町政策研究所(政策研究会系) 政策研究会(松村・三木派) → 政策同志会(松村・三木派) → 政策懇談会(松村・三木派 → ) → 政策懇談会(三木派) → 新政策研究会(河本派) → 番町政策研究所(河本派 → 高村派 → 大島派 → 山東派 → 麻生派に合流×)、※(松村派 → ×)、※(早川派 → 福田派に合流×) 二日会 火曜会(石橋派)、二日会(石田派 → 三木派に合流×) 青嵐会、自由革新同友会(中川グループ → 石原グループ → 福田派に合流×) 新しい波(二階グループ → 伊吹派に合流×) 83会、新しい風(武部グループ → 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- 全国小売酒販政治連盟 - 全国たばこ販売政治連盟 - 全国たばこ耕作組合中央会 - 全私学連合会 - 全日本私立幼稚園連合会 - 全国専修学校各種学校総連合会 - 全日本教職員連盟 - 日本私立中学高等学校連合会 - 一般社団法人全国教育問題協議会 - 全国ゴルフ関連団体協議会 - 私立幼稚園経営者懇談会 - 全国私立小中高等学校保護者会連合会 - 神道政治連盟 - 財団法人全日本仏教会 - 天台宗 - 高野山真言宗 - 真言宗智山派 - 真言宗豊山派 - 浄土宗 - 浄土真宗本願寺派 - 真宗大谷派 - 臨済宗妙心寺派 - 曹洞宗 - 日蓮宗 - インナートリップ・イデオローグ・リサーチセンター - 崇教真光 - 立正佼成会 - 佛所護念会教団 - 妙智会教団 - 新生佛教教団 - 松緑神道大和山 - 世界救世教 - 日本医師連盟 - 日本歯科医師連盟 - 日本薬剤師連盟 - 日本看護連盟 - 日本製薬団体連合会 - 日本保育推進連盟 - 日本柔道整復師会 - 日本歯科技工士連盟 - 全国介護政治連盟 - 全国旅館政治連盟 - 全国飲食業生活衛生同業組合連合会 - 全日本美容生活衛生同業組合連合会 - 全国クリーニング業政治連盟 - 環境保全政治連盟 - 日本環境保全協会 - 日本造園組合連合会 - 全国ビルメンテナンス政治連盟 - 全国商工政治連盟 - 全国石油政治連盟 - 全国LPガス政治連盟 - 日本商工連盟 - 全国中小企業政治協会 - 全国商店街政治連盟 - 社団法人日本調査業協会 - 社団法人全日本ダンス協会連合会 - 全国農業者農政運動組織協議会 - 21全国農政推進同志会 - 日本森林組合連合会 - 社団法人全国林業協会 - 日本酪農政治連盟 - 全国畜産政治連盟 - 全国漁業協同組合連合会 - 大日本水産会 - 日本自動車工業会 - 日本中古自動車販売協会連合会 - 日本自動車販売協会連合会 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 日本自動車整備振興会連合会 - 社団法人全日本トラック協会 - 東日本ときわ会宮城県支部 - 21テレコム会議 - 全国土地改良政治連盟 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 社団法人全国建設業協会 - 社団法人日本建設業団体連合会 - 社団法人日本建設業連合会 - 社団法人日本建設業経営協会 - 社団法人全国中小建設業協会 - 社団法人日本道路建設業協会 - 社団法人日本橋梁建設協会 - 社団法人建設コンサルタンツ協会 - 社団法人プレストレスト・コンクリート建設業協会 - 社団法人建設産業専門団体連合会 - 社団法人日本鳶工業連合会 - 社団法人日本造園建設業協会 - 社団法人全国建設業産業団体連合会 - 社団法人全国測量設計業協会連合会 - 社団法人全国地質調査業協会連合会 - 社団法人全国さく井協会 - 社団法人建設電気技術協会 - 日本下水コンポスト協会 - 社団法人全国道路標識・標示業協会 - 社団法人全国鐵構工業協会 - 社団法人日本建設躯体工事業団体連合会 - 社団法人日本塗装工業会 - 一般社団法人日本プレハブ駐車場工業会 - 社団法人不動産協会 - 全国不動産政治連盟 - 全日本不動産政治連盟 - 社団法人住宅生産団体連合会 - 全国生コンクリート工業組合連合会 - 軍恩連盟全国協議会 - 日本傷痍軍人会(解散) - 社団法人日本郷友連盟 - あすの会(解散) 表 話 編 歴 天野為之1890-1891 加賀美嘉兵衛1892-1893 林喬1894 河北勘七1894-1897 荻野六郎1897 西野久右衛門1898 花井卓蔵1898-1902 木本源吉1902 安井丈夫1903 近江谷栄次1904-1908 鈴木久五郎1908-1912 堀切善兵衛1912-1914 長沢倉吉1915-1917 松田三徳1917-1920 上塚司1920-1924 窪井義道1924 佐々木長治1924-1927 横川重次1927-1928 水谷長三郎1928-1930 坂本一角1930-1932 葉梨新五郎1932-1936 内藤久一郎1936-1937 三木武夫1937-1942 福家俊一1942-1943 森田正義1943-1944 浜田尚友1944-1945 森田正義1945 浜田尚友1945 福家俊一1945 三木キヨ子1946-1947 織田正信1947-1949 天野公義1949-1952 辻原弘市1952-1955 石橋政嗣1955-1958 谷川和穂1958-1960 海部俊樹1960-1963 橋本龍太郎1963-1967 山口敏夫1967-1969 小沢一郎1969-1972 上田茂行1972-1976 中村喜四郎1976-1979 船田元1979-1986 石破茂1986-1990 赤城徳彦1990-1993 宇佐美登1993-1996 古川元久1996-2000 原陽子2000-2003 寺田学2003-2005 杉村太蔵2005-2006 太田和美2006-2009 松岡広隆2009-2012 今枝宗一郎2012-2013 鈴木貴子2013-2021 馬場雄基2021-2024 大空幸星2024-現在 表 話 編 歴 江﨑真澄 河野金昇 佐藤観次郎 江﨑真澄 鈴木幹雄 河野金昇 江﨑真澄 佐藤観次郎 河野金昇 佐藤観次郎 河野金昇 鈴木幹雄 江﨑真澄 河野金昇 佐藤観次郎 江﨑真澄 河野孝子 佐藤観次郎 江﨑真澄 佐藤観次郎 海部俊樹 江﨑真澄 佐藤観次郎 海部俊樹 江﨑真澄 海部俊樹 佐藤観次郎 江﨑真澄 海部俊樹 佐藤観樹 江﨑真澄 佐藤観樹 海部俊樹 海部俊樹 佐藤観樹 江﨑真澄 海部俊樹 江﨑真澄 佐藤観樹 海部俊樹 江﨑真澄 佐藤観樹 海部俊樹 江﨑真澄 佐藤観樹 海部俊樹 江﨑真澄 佐藤観樹 海部俊樹 佐藤観樹 江﨑真澄 海部俊樹 江﨑鐵磨 佐藤観樹 表 話 編 歴 河村たかし 佐藤夕子 熊田裕通 河村たかし 青木宏之 古川元久 吉田幸弘 近藤昭一 池田佳隆 近藤昭一 三沢淳 牧義夫 工藤彰三 牧義夫 赤松広隆 木村隆秀 赤松広隆 神田憲次 赤松広隆 神田憲次 西川厚志 草川昭三 前田雄吉 丹羽秀樹 石田芳弘 丹羽秀樹 青山丘 小林憲司 鈴木淳司 山尾志桜里 鈴木淳司 山尾志桜里 鈴木淳司 日野紗里亜 久野統一郎 大木浩 伴野豊 伊藤忠彦 伴野豊 伊藤忠彦 伴野豊 海部俊樹 岡本充功 長坂康正 岡本充功 江﨑鐵磨 佐藤観樹 江﨑鐵磨 杉本和巳 江﨑鐵磨 藤原規眞 伊藤英成 古本伸一郎 八木哲也 丹野みどり 杉浦正健 中根康浩 青山周平 重徳和彦 嶋聡 大村秀章 大西健介 大見正 大西健介 浅野勝人 鈴木克昌 今枝宗一郎 村田敬次郎 山本明彦 森本和義 根本幸典 (2022年新設) 福田徹 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 オーストラリア CiNii Books CiNii Research Trove(オーストラリア)
海部俊樹 日本の内閣総理大臣 昭和時代戦後の閣僚 日本の大蔵大臣 日本の文部大臣 内閣官房副長官 自由民主党総裁 自由民主党の衆議院議員 自由党 (日本 1998-2003)の国会議員 新進党の衆議院議員 無所属の会の国会議員 保守新党の国会議員 愛知県選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 平成時代の衆議院議員 日本の憲法護憲論者 正二位受位者 大勲位菊花大綬章受章者 桐花大綬章受章者 法学士取得者 三木武夫 日本の政治家秘書 ロッキード事件の人物 中央大学出身の人物 早稲田大学出身の人物 東海高等学校出身の人物 名古屋市出身の人物 1931年生 2022年没 Pages using the JsonConfig extension 外部リンクがリンク切れになっている記事/2017年9月 ISBNマジックリンクを使用しているページ プロジェクト人物伝項目 2024/11/19 20:11更新
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