金丸信の情報(かねまるしん) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
金丸 信さんについて調べます
■名前・氏名 |
金丸信と関係のある人
中川一郎: 中川にとっては兄貴分的存在で政治の指南役でもあった金丸信は、 野中英二: 金丸信 河野一郎: これ以外にも加納久朗・麻生太郎・鈴木善幸・宮澤喜一・小川平吉・谷村裕・吉國一郎・岸田文雄・石橋正二郎・美濃部亮吉・濱口儀兵衛・藤山愛一郎・久邇邦昭・昭和天皇・安西正夫・大原總一郎・正田英三郎・濱口雄幸・犬養毅・橋本龍太郎・橋本大二郎・田中角栄・田中直紀・太田誠一・櫻内義雄・福田赳夫・福田康夫・越智隆雄・山崎種二・安倍晋三・松崎昭雄・森永太平・今井善衛・鈴木三郎助・鈴木恭二・盛田昭夫・永野重雄・中曽根康弘・西園寺公望・鮎川義介・豊田章一郎・豊田達郎・清水満昭・武田國男・細川護熙・近衛文麿・北野隆興・中部幾次郎・中部謙吉・中部慶次郎・上野十蔵・永山治・竹下登・小沢一郎・金丸信などと縁戚関係にある。 戸井田三郎: 安藤俊裕 (2011年8月28日). “田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5)”. 石川要三: 金丸信 福田篤泰: 金丸信 毛利松平: 1953年・1955年と3回連続落選し、1958年の第28回衆議院議員総選挙にて初当選を果たす(当選同期に竹下登・金丸信・安倍晋太郎・斎藤邦吉・倉成正・谷川和穂など)。 保岡興治: 1987年7月4日、竹下登、金丸信らによる新派閥「経世会」が結成され、田中派は竹下派、二階堂グループ、中立系の3派に分裂する。 三木武夫: 会談に同席した金丸信の回想によれば、三木は部屋に入るなり座ろうともせず、立ったままで「日中問題をやるか」と、田中に詰め寄った。 坂元親男: 金丸信 梶山静六: しかし、1985年、田中に反旗を翻す形で竹下登を総裁候補に担ぐ「創政会」旗揚げに参加し、金丸信の命を受け小沢一郎と共に田中派内の多数派工作を担当、竹下派の結成に尽力する。 田辺哲夫: 1986年第14回参議院議員通常選挙で東京都選挙区から自由民主党公認木曜クラブ新人候補(田辺の後援会会長を務めていた金丸信が属していた)として出馬し初当選。 船田元: 竹下派分裂の際は羽田孜や小沢ら、金丸信の後継会長に羽田を推す陣営に加わり、スポークスマン役を務める。 羽田孜: こうした姿勢に対して自民党の副総裁を務めた金丸信は彼を「まるで熱病患者」と評した。金丸信は彼を小沢一郎と合わせ「平時の羽田、乱世の小沢」と評し、田原総一朗は、羽田は正直で真面目な人物であり、彼が竹下派七奉行だったころでも彼には敵がおらず、自民内に「反羽田」はいなかったと述べている。 中曽根康弘: 「日本一の中曽根嫌い」を公言していた金丸信との和解もあり田中派の支持を得た中曽根は、党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、1982年11月に鈴木善幸の後を受けて第71代内閣総理大臣に就任する。 保利耕輔: 竹下派会長・金丸信の後継をめぐり派内が小渕恵三を推すグループ、羽田孜を推すグループに分かれた際は綿貫民輔らと共に最初はどちらにも与さず、後に平成研究会(小渕派→橋本派)に参加した。 新井将敬: 1992年に東京佐川急便事件が発覚すると、疑惑が取りざたされた金丸信・自民党副総裁を激しく批判し、金丸と竹下登に対して議員辞職を要求する。 中村梅吉: 金丸信 山下徳夫: 最小派閥ながら閣僚ポストに恵まれたのは、金丸信と親交が深く、経世会との連絡役を務めていたからという側面もあった。 中島衛: 安藤俊裕 (2011年8月28日). “田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5)”. 田辺国男: 初当選の際には同選挙区からは金丸信も初当選しており、当時の山梨県知事であった天野久に近く党主流(佐藤→田中派)でもあった金丸のほか、安定した選挙基盤を持つ内田常雄や堀内一雄(堀内光雄の父)らと鎬を削った。 田邊圀男: 自民党では、福田赳夫→安倍晋太郎→三塚博→森喜朗派(清和政策研究会)に所属し、田中派→竹下派の金丸信と政争を繰り広げた。 谷川和穂: 全国最年少の27歳で初当選を果たした(当選同期に金丸信・安倍晋太郎・倉成正・斎藤邦吉らがいる)。 青島幸男: 1992年の第16回参議院議員通常選挙で国会議員に返り咲き、金丸信が絡む東京佐川急便事件について、東京地方検察庁が金丸を罰金のみの略式起訴で幕引きを図った際には、抗議のハンガーストライキを国会議事堂前で行った。 多々良純: 日朝文化交流協会の副理事長を務めていたことがあり、『資料・朝鮮民主主義人民共和国』の冒頭には金丸信・上田哲・宇都宮徳馬・斉藤一雄・佐々木秀典らと共に、推薦の言葉を寄せている。 筧栄一: 検事総長在任中には、藤波孝生、江副浩正、真藤恒らが起訴された後のリクルート事件を、さらに東京佐川急便事件では与野党議員百名以上への不正献金疑惑から1992年の金丸信自民党副総裁辞職に及び、共和汚職事件ではヤミ献金疑惑にメスを入れ、阿部文男北海道開発庁長官起訴にまで踏み込んだ。 岡田勢一: 金丸信 玉置和郎: 衆院転身直後に佐藤隆、桜井新、浜田幸一、鈴木宗男ら、宗政研系の議員を従えて、「玉置グループ」として派閥発足を画策するも頓挫、その後は中曽根康弘 - 金丸信ラインに接近し、党内工作に奔走する。 古賀雷四郎: 金丸信 田邊誠: 国対委員長時代には、自民党の金丸信国対委員長とのパイプを築いた(国対政治)。 |
金丸信の情報まとめ
金丸 信(かねまる しん)さんの誕生日は1914年9月17日です。山梨出身の政治家のようです。
現在、卒業、結婚、再婚、解散、事件、家族、テレビ、兄弟、父親、姉妹に関する情報もありますね。1996年に亡くなられているようです。
金丸信のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)金丸 信(かねまる しん、1914年〈大正3年〉9月17日 - 1996年〈平成8年〉3月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、副総理、民間活力導入担当大臣、防衛庁長官(第35代)、建設大臣(第34代)。 1914年9月17日、山梨県中巨摩郡今諏訪村(後の白根町、現在の南アルプス市)の造り酒屋を営む地主の家に長男として生まれる。父は金丸康三、母はとくで信は長男。祖父は山梨交通電車線のルーツ甲府電車軌道の中心的人物であった金丸宗之助。叔父には県会議長などを務めた小宮山清三がいる。金丸家は、多くの使用人を抱えている裕福な家柄だった。 西野小学校を卒業の後、旧制甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学するも素行不良により退学となり、父の友人が校長をしていた、旧制身延中学校(現山梨県立身延高等学校)に入学したという(甲府中の受験に失敗し、身延中に入学したとも)。 1933年に東京農業大学農学部へ入学し、柔道に明け暮れる。卒業論文は「桜桃栽培の進化」。 農大卒業後、旧制身延中学の恩師が校長を務めていた旧制韮崎中学校(現山梨県立韮崎高等学校)で博物(生物学)の教諭となる。また、柔道を教えたり野球部の監督もした。 1938年、徴兵により日本軍に入営する。軍隊では関東軍電信三連隊第二中隊に配属されて満洲に渡った。しかし、塹壕で過ごすうちに風邪をこじらせて胸膜炎となり、新京(現長春)の病院に入院、内地送還となり兵役免除となった。 帰国後は茨城県久慈郡(現常陸太田市)の姉夫婦のもとでしばらく静養をした後に実家に戻り、家業の造酒屋を継ぎ、果樹園経営も行った。 1941年には大政翼賛会山梨県支部の発足に伴い大日本翼賛壮年団が結成されると翼壮団郡世話人として活躍し、翼壮団長で戦後には山梨中央銀行頭取として県政財界に影響力を持っていた名取忠彦の知遇を得ている。1943年には山梨県酒造組合常務理事に就任したが、戦局の悪化に伴い造酒屋の企業整理命令(70軒ある造酒屋を半分に減らせとする内容)が下された際には、自ら造酒屋を廃業し、同業者にも命令に従うよう促した。その後、軍需産業の溶接に使う酸素をつくる「日東工業」(後の日東物産)を設立した。 戦後には家業の酒造業において焼酎を造る「中央発酵化学工業」を設立して成功をおさめる。また、戦前から知遇を得ていた名取忠彦に地場産業振興のためにと勧められ、撤退予定だった「福泉醸造工業」のワイン工場を買収するとともに、会社名を「太平醸造」に改め、このワイン事業でも大きな成功をおさめる。 造酒屋時代、税務署の「造酒屋は、酒を密造し、税をごまかしている」という態度に怒りを覚え、政治の道を志したという。 戦後、翼壮団長や在郷軍人会分会長のため、父の康三とともに公職追放となり、同じく公職追放となった名取忠彦は台頭する左翼勢力に対して翼壮団時代の同志を集めて「脈々会」を結成し、金丸もこれに参加する。1951年(昭和26年)の公選第2回となる山梨県知事選挙においては、保革連合の推薦を受けた天野久が当選するが、名取や金丸は天野を容共分子として敵対する。 知事就任後に、名取が山梨県総合開発審議会会長として迎えられると、金丸も天野に接近し、1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙では、名取の実兄で天野の推薦を受けた広瀬久忠の陣営の裏選対に際して、選挙活動に従事する。選挙後金丸は、山梨県警察の取り調べを受けるが、買収の証拠となる名刺5枚をとっさに飲み込み、起訴を免れたという。 このことがきっかけとなり、金丸は衆議院議員選挙に担ぎ出される。その際、「佐藤栄作は将来、必ず宰相になる男だ。選挙をやるなら派閥に入った方がいい」と広瀬に勧められ、佐藤のもとを訪ねる。しかし、このときは佐藤に「キミのような中途半端は使いものにならない」とけんもほろろに追い返された。金丸は激怒したが、広瀬の取り成しで再び佐藤を訪ね、無事自由民主党保守本流の佐藤派に入る。 1958年5月の第28回衆議院議員総選挙に、自由民主党公認で山梨県全県区から出馬。トラックの荷台を舞台とする選挙カーで選挙運動をする(これ以後も、金丸は、選挙の際、トラックの荷台を舞台とする選挙カーを利用した)。なおこの選挙活動中佐藤は1回だけ応援に来て北巨摩、韮崎、長坂、白根、櫛形、鰍沢、市川大門、身延にて、応援の選挙運動をした。また、学校での友人や教師時代の教え子、自分の会社の者などによる選挙運動も行われた。5月22日の投開票で69,354票を得て、トップ当選を果たしたが、直後の6月24日に、妻の玲子を狭心症で亡くす。 同期当選には竹下登、安倍晋太郎、倉成正らがおり、彼らと親交を深めた(特に竹下とは、自分の長男の康信と竹下の長女の一子を結婚させ親戚関係を結ぶまでになった)。 1960年の日米安保条約改定に関する一連の騒動の際、混乱する国会の中、衆議院議長清瀬一郎を担いで議長席まで運び、会期延長と新安保条約可決へと繋げる。なお、この際に撮影された写真がアメリカ合衆国の『ライフ』誌に掲載され、後のアメリカ合衆国連邦政府との交渉の際に役に立ったと、金丸は後に自伝で記している。 1961年に再婚した際に媒酌人を引き受けてもらったのをきっかけに、佐藤派幹部の保利茂を「政治の師匠」とした(なおしばしば「金丸は、髪型まで保利にならっている」といわれたが、本人は「そんなことはない」と言っている)。1963年に郵政政務次官に就任。 1972年1月、金丸は幹事長となった保利の強い後押しを受け、労働大臣に就任した塚原俊郎の後任として自民党国会対策委員長の職に就く(当時国対委員長は閣僚経験者がなる職であり、入閣のしたことのない金丸の就任は異例中の異例であった)。 だが、その後に行われた自由民主党総裁選挙の際、官僚出身の福田赳夫を支持していた保利の意向に反し、同じ党人派の田中角栄を支持し、田中派結成に奔走した。これは、金丸が田中を大変評価していたことに由来する。なお、保利にはその旨を伝えており、師弟関係が崩れることはなかった。 田中角栄は、金丸の総裁選での活躍を評価しており、「君には建設大臣をやる」と言っていたが、第1次田中角栄内閣では、木村武雄に持っていかれてしまったものの(金丸は国対委員長に留任)、第2次田中角栄内閣で念願の初入閣を果たす。その際、迎賓館の改修や中央自動車道の工事着手を行った。しかし立花隆の明らかにした田中金脈問題で田中は首相を辞任に追い込まれる。 続く三木武夫内閣では国土庁長官に就任。また「三木おろし」の気運が高まった際、金丸は三木に衆議院解散を勧めたというが、三木は解散を決断せず、金丸は三木への不信感を募らせたという。金丸は三木への対抗馬を一本化しなければ三木を下せない以上は福田赳夫でまとめるしかないと考え、仲がこじれていた保利と福田の関係修復を周旋する。三木退陣後は、福田の総裁任期は1期2年のみでその後は大平に禅譲するという「大福密約」の保証人となったとも言われる。 1976年12月、福田政権のもと衆議院議院運営委員長に就任。同時に保利が衆議院議長となり、師弟で衆議院の表のトップと裏方調整役を担当した。 1977年11月、福田改造内閣の防衛庁長官に転じる。長官時代、「自衛隊が外国に脅威を与えてはいけないという人がいるが、敵に脅威を与えずして何の防衛か」と発言する。また、統幕議長栗栖弘臣の「現状の法制では、有事の際に自衛隊は超法規的行動をとらざるを得ない」という発言に対して、文民統制に反する発言であるとして金丸が激怒し、結果、栗栖は自ら辞職せざるをえなくなった。後に、栗栖の更迭について「私の原点は出征する私を両親の目の前で殴った憲兵の横暴である。シビリアン・コントロールがいかに大事かということは、習わずとも身にしみている」と回想している。 長官在任中の1978年、在日米軍基地で働く日本人従業員に対する負担を表明。反発が予想されたため、金丸は「思いやりの気持ちで行うべき」と発言、これが現在に至る「思いやり予算」である。 この年、福田派が総裁再選への流れを作るために「解散風」を吹かせるが、金丸は「大義名分のない解散には反対する。解散が閣議で諮られたら署名を拒否する。」と公言。福田赳夫は金丸を注意するが、結局解散できぬまま総裁選が行われ、田中派と同盟関係にある大平が福田を下し、総理総裁の地位に就く。 大平政権では2度目の国対委員長に就任。伯仲国会の当時、与党は竹下が委員長を務める衆議院予算委員会において半数を割っていたことから、予算案可決のため金丸は野党の公明党と民社党から修正合意を取り付ける。しかし大平首相は予算組み替えを拒否し、委員会では否決させて本会議で原案通り可決させることを指示したため、金丸ら国対委員の面目が潰されることとなった。このさなかの1979年3月に保利が死去している。 1980年5月、憲政史上初の衆参同日選挙が行われた際、「世代交代論」を唱える。これは、四十日抗争を見て、「政治を若返らせねばならない。七十歳・八十歳の派閥の長が指導する時代ではない」と思ったことに由来する(その本心は、後述する理由により中曽根康弘の政権樹立を阻止するためだったとされる)。これがきっかけで、田中と金丸の仲は悪化し、一方、竹下と親密な関係を築いていく。 保利から「冷や飯を食って耐え忍ぶ」という政治信念の薫陶を受けた金丸は、政界風見鶏と呼ばれた中曽根康弘の立ち回りを肯定できず、中曽根が自民党総裁になるまでは日本一の中曽根嫌いを自認していた。田中が中曽根を総裁に擁立するつもりであることを知った金丸は、「おんぼろ神輿」とまで批判していたが、中曽根政権では自民党総務会長―幹事長―副総理と重用された。鈴木善幸内閣の末期に開かれた中曽根派と田中派の料亭会合の際に、表向きは和解したとされており(内心は中曽根を生涯嫌っていた)、その際に中曽根は「腹も太いし、三木武吉以来の大物だ」と金丸を評している。 1984年、側近の小沢辰男を推す田中の意向に反して中曽根総理は金丸を幹事長に指名した。翌1985年、田中派内に勉強会「創政会」を結成する。この動きが金丸の親戚である竹下を後継領袖とするクーデターであったことを知った田中は猛烈な切り崩しをかけるが、創政会発足直後に田中が脳梗塞で倒れたことで創政会の優勢が固まる。反対派や中間派の取り込みのために創政会を一旦解散した後、田中派の大多数をまとめて1987年7月に独立派閥の「経世会」(竹下派)を発足させる。竹下の総理就任後は金丸が経世会会長に就任したが、当時はこのような場合に派閥の通称が変更されず、「竹下派の金丸会長」という形であった。 同年に初当選してから文字どおり二人三脚で歩んできた“金竹関係”だったが、頂点を極めた頃から隙間風が吹くようになった。総理についた頃から竹下は独自の行動をとるようになり、竹下が連絡を取らないことをなじった金丸に配慮して、その後はたびたび極秘裏に金丸邸を訪れることになる。 1989年、消費税導入による不人気とリクルート事件が発覚し、竹下内閣は総辞職、竹下は謹慎し、後継総裁には宇野宗佑が就いたが、話を聞かされていなかった金丸は、元総裁の福田赳夫を、高齢ではあるが後継総裁として擁立に動いていたため面目を失った。最初に宇野ありきの状態だったことを自虐して、自らを「雇われマダム」と評した。 とはいえ、宇野政権が1989年参院選の過半数割れの大敗により2か月あまりで倒れると、最大派閥の会長である金丸は大きな力を持つようになる。宇野の退陣後、ニューリーダーがリクルート事件の影響で出馬出来なくなったため、野党とのパイプを持つ金丸自身も候補に上がるが、竹下らの反発で潰され、出馬に意欲的であった河本敏夫に電話し出馬を辞退させた。日本社会党のマドンナブームに関し「バーのマダム(長谷百合子のこと)が当選したようだが政治がわかるのか。国家国民のためにならない政治家が生まれるのは問題だ。」と発言した。 結局、河本派の海部俊樹が総理総裁に選出されたが、参議院の自民党過半数割れによるねじれ国会において野党との協調が政権運営に不可欠となった状況で、国対族のベテランであり最大派閥経世会の会長たる金丸と、同じく国対族で経世会オーナーの竹下、さらに両者の姻戚で自民党幹事長の小沢一郎の経世会中枢3名の権勢が海部首相のそれを凌駕し、金竹小と称された。金丸は竹下派七奉行の中でも特に小沢に目をかけ、1989年8月、竹下の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢重用は橋本龍太郎や梶山静六ら竹下に近い議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金となった。 長く国会対策委員長を務めて日本社会党議員と交流し、社会党との連携で党内対立を制する手法を身に付けた。1980年代末から、自民党と社会党を解体、再編成して政権交代する二大政党を作るという政界再編構想を抱くようになった。特に「足して二で割る」という絶妙の妥協案は金丸国対とまで評されるほど絶妙なものであった。 1990年8月、中華人民共和国を訪問して北朝鮮訪問に向けた協力を要請した。同年9月には日本社会党の田邊誠らと訪朝団を団長として編成した(金丸訪朝団)。金丸と金日成は、日本語を用いて差しで対談を行った。しかしやり取りが文書として残っていないため、一体何を話したのかが謎となっている。この空白の数時間の間に取り決められたといわれる約束が、日朝の交渉においてしばしば「金丸さんが金日成主席と約束した」という形で北朝鮮側から持ち出されることがある。重村智計によれば、この会談の冒頭、金日成は金丸に「ご先祖が、わが国から渡られたことは、よく存じております」と話し始めた という。 このとき自民党の代表として国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党、社会党、朝鮮労働党の3党で交した。この約束は帰国後「土下座外交」と批判を浴びた。このとき、1983年に北朝鮮兵士閔洪九の亡命事件に関連して北朝鮮にスパイとして拿捕され7年間服役していた「第十八富士山丸」の日本人船長紅粉勇と機関長栗浦好雄の2名の釈放、帰国についても合意し、こちらは実行された。 1991年10月の自民党総裁選では、当初小沢一郎に出馬を促したが本人が固辞し、他派の領袖を擁立することとした。派内の橋本龍太郎が高い一般人気を誇る中で、金丸と小沢は派内の異論を押し切って宮澤喜一を支持した。なお、金丸本人は渡辺美智雄支持に最後まで拘った。「心情はミッちゃんだが、常識的判断になるとミッちゃんというわけにはいかない。宮沢で行こう。」と述べた。東大出身者以外を露骨に見下す癖のあった宮澤を、金丸はもともと毛嫌いしていた。しかし、宮澤が当時の世論、財界の圧倒的な支持があったこと、経世会と宏池会が長年の蜜月関係にあったことから、渋々宮澤支持に転じた。派内の渡辺支持派は金丸が渡辺支持を断念したことにより、一気に派として宮澤支持に移行した。とはいえ、宮澤を支持するという金丸の報告を派の集会で拍手承認するという段取りだったにもかかわらず拍手がまばらで、金丸が叱りつけてようやく拍手が増えるというぎくしゃくした状況であった。宮澤は自派の増岡博之を国会対策委員長に起用したが、増岡は国対の経験に乏しく野党とのパイプもなく、宮澤はPKO協力法案の成立と政治改革の実現を目指したがPKO協力法案は継続審議になり政治改革は進まなかった。そこで宮沢は金丸の担ぎ出しに直接動き出す、自民党副総裁への就任だったが、宮沢はアメリカの大統領ジョージ・H・W・ブッシュを使った。宮沢は次のようなエピソードを明かしている。「92年のお正月にブッシュが日本に訪れることがあったので・・・私はブッシュに「ちょっと手伝ってくれよ。この人(金丸)の協力が党内で必要なんだ。あなたのディナーにも来るから、僕がその時サインするから、ひとこと声をかけてくれよ」と頼んだんです。そうしたらブッシュは、「いいよ、そういうことなら得意とするところだ。」と言う。それで金丸さんに対してブッシュが「あなたのことはよくミヤザワから聞いている、ひとつ助けてやってくれ」というようなことを言ってくれたんです。それがあって金丸さん副総裁になってくれました。」。金丸はブッシュとの夕食会のあった1992年1月8日、自民党副総裁を受諾し、政権は安定し、宮澤政権の支柱となり、天皇の訪中決定を躊躇う宮澤に「天皇訪中問題について決めるべきはごちゃごちゃ言わず早く決めたまえ」 と発破をかけるなど暗躍した。 1992年3月、栃木県足利市で山岡賢次の応援演説中に右翼の銃撃を受けるが、弾丸は全て外れ、金丸は助かる。同年3月25日に世界基督教統一神霊協会教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国した。アメリカで脱税により1年以上の実刑判決を受けているため、それまで出入国管理及び難民認定法の規定で入国できなかったが、「北東アジアの平和を考える会」という国会議員の会合に出席する名目で田原隆法務大臣から上陸特別許可が下りた。法務省入国管理局が金丸から打診があったことを認めたため、金丸が法務省に対する政治的圧力をかけたのではとの疑惑を生んだ。同月31日、金丸は都内のホテルで文鮮明と会談を持った。同年の埼玉県知事選挙では畑和の後継を巡り、公示直前で土屋義彦の支持を撤回し山口敏夫を担ぎ出そうとしたため反発を浴びた(結果として土屋は埼玉県知事に当選した)。また金丸は首都機能移転の推進論者であったといい、反対派の石原慎太郎を強く批判している。 1992年8月、東京佐川急便事件に絡んで東京佐川急便から5億円の闇献金が発覚した。金丸は副総裁を辞任し、東京地方検察庁に政治資金規正法違反を認める上申書を提出した。9月に東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。刑罰の軽さに批判が大きく、こうした世論の反発の強さから、金丸は10月14日に衆議院議員の辞職願を提出し、10月21日付で辞職した。竹下派会長も辞任した。 1993年3月6日、金丸は政治資金を流用して個人資産を蓄財し脱税したとして東京地方検察庁に逮捕された。検察は金丸が1987年から1989年にかけて約18億4230万円の所得を隠し、10億3775万円を脱税したとされた(1987年と1989年は金丸単独の犯行、1988年は金丸と第一秘書の生原正久との共同の犯行とされた)。金丸は捜査段階では罪を認めていたが、保釈後は「政界再編のための資金」として無罪を主張するようになった。だが、金丸の体調は持病の糖尿病により悪化し、左目は白内障によりほぼ失明しながらも、最後まで裁判を続けるつもりで1ヶ月に1度から2度、裁判のために甲府市から東京地方裁判所へ通っていた。しかし、金丸のあまりの体調の悪化を心配する家族の申し出により、1996年3月21日に公判は停止した。 その1週間後の3月28日に脳梗塞で死去した。81歳没。このため、公訴棄却となった。 没後10年目の命日の2006年(平成18年)3月28日、「金丸信先生を偲ぶ会」が、金丸の後援会である「久親会」の元会員を中心に設立された。 また、同年4月2日には、南アルプス市飯野に、高さ約7メートル、幅約2メートルの「金丸信先生顕彰碑」の石碑が設置され、同日には、自由民主党国会議員を始め、山梨県知事、山梨県議会議員、山梨県内の市町村長など、360人が出席し、式典が行われた。 大雑把な性格であるとみなされることが多かった。そのため竹下登は金丸を「アバウトスキイ」と呼んだ。 北朝鮮を支持の在日朝鮮人団体朝鮮総連と親しく、総連の外交部門を担う国際局出身で後に総連のトップになる許宗萬と社会党の田邊誠、自民党の野中広務、山崎拓、加藤紘一と共に日本の政治家の中で北朝鮮と特に親しかった。 身長は170cm、体重は最盛期で90kg。日本軍徴兵の際に行われた兵役検査では甲種合格であった。 地元山梨県の支持者からは「かねまるの信ちゃん」や「信ちゃん」と呼ばれていた。 田中角栄が自民党幹事長であったとき、幹事長室の職員がジョニー・ウォーカー黒ラベルの中身を別物に差し替えて出すことがあった(当時の「ジョニ黒」は、物品税とウイスキー等級制の酒税法上、かなり高価であり、「高級酒」のブランドイメージが強かった)。田中を含め酒を出された者の多くは、その正体に気づかなかったが、金丸は一口含むなり「ありゃー、こりゃジョニ黒じゃねえな」と見抜いた。 テレビ朝日の金丸番記者だった三反園訓(後の衆議院議員、鹿児島県知事)によると、リニアモーターカーを「リビア」、パラボラアンテナを「バラバラ」と呼ぶなど、非常に独特な言い回しをすることがあり、その言葉の意味を訊ねると「君も学がないね」と返したという。三反園はそれらの言い回しを「金丸語」としている。 長年、自由民主党道路調査会の会長(建設族のドン)として、全国の道路整備に精通し、地元の「中部横断自動車道」の建設など、地元への利益誘導し自身も闇で財を成すという、古い型の政治家だった。とりわけ「中部横断道路」は、「山梨県には海がない。山梨県民は太平洋の海を見たい。」ということで力をいれており、中部横断道路の双葉ジャンクション〜白根インターチェンジ間は「金丸道路」と日本道路公団内では言われていた。なお、白根インターチェンジは、金丸のお膝元である。 甲府盆地で恐れられていた日本住血吸虫症撲滅のため、水路コンクリート化において、ネックとなっていた日本国有鉄道用地内(中央本線および身延線)溝渠のコンクリート化は、金丸が縦割り行政の垣根を越えた各方面へ働きかけた結果、実現した。 竹下内閣時代、当時の運輸大臣石原慎太郎の元を訪ね、金丸が「中央リニア新幹線の着工と甲府付近への駅設置」を求めた際、石原から「東京からそんな近く(甲府のことを指す)に作っても仕方がないでしょう。(民営化されたばかりの)JR東海の社長にお願いしてくださいよ」と言われた。当時はリニア実験線の誘致を巡り、山梨県と北海道が争っており、石原は北海道に肩入れしていたが、結局は金丸の推した山梨県に軍配が上がった。 同じ田中派の塩島大が1期目中に病死した際、異常に悔しがったため、側近が理由を尋ねると「あいつを議員にするために何億も使った。それがすべて水の泡だ」と答えたという。 長男の康信は竹下登の長女を妻に迎え、テレビ山梨の相談役、エフエム富士の取締役を務めている。竹下との間には共通の孫、幽木遊貴がおり、過去に同人活動を行っていた。また、シンガーソングライター、タレントのDAIGOは康信の義理の甥、漫画家の影木栄貴は康信の義理の姪であり、影木栄貴は幽木遊貴の影響を受けて漫画を描き始めた。 金丸の次男である信吾によると、金丸自身は政治家の世襲を嫌っていたという。金丸は自分の3人の息子たち(金丸家は3兄弟だった)に「俺は絶対にお前たちを政治家にはしないからな」と語っていたことを信吾が証言している。 大下英治は、日本で総理大臣になることを断った人物として、金丸を挙げている。政治家であれば総理大臣を目指したいのではないかとの問いに、「ぼくは総理大臣で苦労するよりも、陰で総理大臣を操っていたほうがおもしろいんだ」と語り、1980年代後半当時の金丸の立場を象徴するコメントとして話題になった。インタビュアーだったアナウンサーの吉川美代子も、印象的なインタビューとして回想している。 上記のトラックの荷台で演説するエピソードに加えて地縁、血縁や無尽を巧みに取り込み、揺るぎなき組織戦術を行なうなど常に有利な選挙戦を行なっていた。のちにこの戦術は甲州選挙と言われるようになり、山梨県選出の国会議員や県知事なども、この戦術を行なうようになった。 1978年9月、同月18日に進水予定であった海上自衛隊「5200トン型護衛艦(50DDH)」の1番艦の名称は当初、気象や山岳名を基準とする自衛隊の命名規則に照らしたうえで「はるな」、「ひえい」に続いて、旧海軍で戦艦に使用されていた「山岳名」から取るのがセオリーとなりつつあったことから、1番艦を「こんごう」、同じく2番艦「きりしま」とする予定であった。しかし金丸が、自らの選挙区にある白峰三山北岳の俗称、白根山からとって、「しらね」とすることを強硬に推し、最終的に「しらね」と命名された。政治家の一存で自衛艦名が決められたのは、後にも先にもこのときだけである。 1981年7月、義姉(金丸の先妻の兄弟の妻)が山梨県職員の男に身代金目的で誘拐され殺害された。彼女の遺体確認に金丸も立ち会った。 1992年2月、バブル崩壊後の不況に際して「日銀総裁の首を切ってでも公定歩合を下げさせろ」と発言した。これを紹介した経済評論家の原田泰は「これは十年後にアメリカ連銀の優秀なスタッフが到達した結論と同じである。一体、金融の専門家とは何なのだろうか」「(金丸は金融の素人だろうが)この時点では間違いなく素人が正しかった」と述べて、金丸の「政治的な直感」を称えている。 同郷出身で宗教学者の中沢新一が叔父で歴史学者の網野善彦との思い出を記した『僕の叔父さん 網野善彦』のなかに金丸信と彼が経営する醸造業に関する記述がある。 竹下派全盛期時代は絶大な権力を持ち、「キングメーカー」と呼ばれた。しかし、ポスト竹下やポスト海部においては、不本意な総理総裁擁立を強いられるケースもあった。 外交官、外交評論家の岡崎久彦は「捕まった時に秘書や側近に罪を着せようとしなかった」という理由で金丸を評価しているという。岡崎がタイ王国特命全権大使として在任していた、1991年に起こったクーデターに際して、たまたまタイを訪れた金丸が「『他国のクーデターとは違う、ただの政権交代』と本質を突いた発言をし、日タイ関係の継続に大きく貢献した」経緯が述べられている。 鈴木宗男は、代議士となった当初金丸を師と仰いだ(金丸の失脚後、鈴木は金丸側近だった野中広務を師と仰ぐようになる)。 漫画『美味しんぼ』には、金丸をモデルにしたとおぼしい「学生時代柔道三昧だった」角丸豊介副総理がたびたび登場する。 昔の政治家の中では、リッチなところを見せ付けるためか、釣りはチップとして受け取らない人もいた。盟友の竹下登は、県議時代からいつもポチ袋に小銭を入れており、ホテルのボーイなどにサービスを受けた際に、周囲には分からないようにサッと渡していた。それに対して金丸自身は金銭面で非常にシビアであり、日々の細々とした出費(食費や散髪代など)では、必ず定価通りの支払いしかせず、釣りもしっかりもらっていたという。 亀井静香は「あれは84年ごろだ。俺は平沼赳夫たちと内戦が続いていたカンボジアに義援金を届けようと、自民党の実力者らにカンパを募った。当時幹事長の金丸先生も共感してくれた。事務所を訪ねると背広のポケットからぽんと金を出した。「これでは足りないな」と棚や机の引き出しをごそごそやり、積み上がったのは500万円。あれには驚かされた。」と述べている。 島根県選出の竹下登とは年齢が10歳違うが、衆議院同期当選で、多くの共通点があり、次第に盟友となっていった。金丸の長男と竹下の長女は結婚し共通の孫までいる関係なのは有名である。 共に造り酒屋の生まれである。 共に父親は県会議員である(竹下は本人も県会議員経験者)。ちなみに父親は両方とも入り婿である。 共に学校の教員を経験している(金丸は旧制中学の「博物」、竹下は新制中学の「英語」)。 共に学生時代は柔道をしており、有段者である(金丸も竹下も柔道五段)。 共に私立大学(旧制)卒である(金丸は東京農業大学、竹下は早稲田大学)。 共に前妻と死別し、再婚経験がある(竹下はあまり公にはしていないが、前妻を戦争中に亡くし、戦後改めて後妻を迎えている)。 これらの共通点から田中派内では「金丸・竹下」と常にセットで呼ばれていた。当初から竹下は総理大臣、金丸は衆議院議長を目指していたとも言われる。新人議員の頃は、東京から選挙区が近い金丸の地元山梨から来る多くの陳情客を待たせるのに、竹下の議員事務所を使っていたこともある。竹下の選挙区は東京から遠い島根ということで、陣笠議員の頃は陳情客も少なかった。 月刊誌『文藝春秋』1998年6月号によれば、1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯金賢姫の証言によって捜査が開始された「李恩恵(リ・ウネ)拉致容疑事案」に関連して、韓国側からの情報提供を得た警察庁は、警備局審議官をトップに十数名からなる「李恩恵身元割出調査班」を設置し、警視庁公安部でも通称「ウネ・チーム」を設け、さらに、各都道府県警察警備部外事課でも同様のチームが設置されて全国規模の大がかりな捜査活動が展開された。その結果、朝鮮総連幹部で北朝鮮に高額の献金をし、訪朝の際には国賓待遇を受ける大物商工人、その配下の2名、1人は偽装転向して多数の偽造旅券を隠し持った北朝鮮工作員、もう1人は海岸での拉致犯罪を補助する「沿岸徘徊人」、いずれも在日朝鮮人実業家の計3名が、田口八重子(朝鮮名、李恩恵)の拉致にかかわった人物として浮かびあがった。この資料は「むかご」リストと称されている。1990年5月初め、警視庁に警察庁、検察庁、警視庁公安部外事第二課など関係各所の幹部約150名が集められ、5月10日付の大物商工人(朝鮮総連幹部)の捜索令状と、5月14日付の多数の偽造パスポートを保有する工作員の逮捕状が用意された。さらに、朝鮮総連本部や朝鮮大学校にも捜索令状が出され、機動隊も動員されて総勢450名体制で捜査に着手する予定であったが、突如、直前の5月9日に中止させられた。この件については緘口令がしかれたが、同年9月の金丸訪朝によって握り潰されたという伝聞情報がある。 同事件については、2001年12月16日付『産経新聞』が「朝鮮総連元幹部の外国人登録法違反-故金丸氏捜査に圧力」という見出しで報じた。それは、以下のような内容である。 平成2年(1990年)5月に警視庁公安部が摘発した朝鮮総連の元幹部らによる外国人登録法違反事件の捜査過程で、日朝関係への影響を懸念した自民党の金丸信元副総裁が捜査を朝鮮総連などに拡大しないよう、捜査当局に圧力をかけていたことが明らかになった。警視庁による朝鮮総連中央本部や朝鮮大学校への家宅捜索は行われず、捜査当局内部からも捜査が不十分だと疑問の声が上がっていた。金丸氏は同年9月に訪朝した。 田口八重子拉致事件の真相を解明しようという試みは、金丸信の圧力で大きく妨害された疑いがもたれている。 1936年
その後、山梨県立中学校教員となりつつ、実家の醸造業を継ぐ 1959年
1962年
1969年
1990年
9月26日 妙香山で金日成と会談する。 1992年
9月29日 同法違反で罰金20万円。 1993年
1996年
1958年
1971年
1972年
12月22日 建設大臣【近畿圏整備長官兼中部圏開発整備長官兼首都圏整備委員会委員長兼任】(第2次田中角栄内閣)就任。 1974年
1976年
1977年
1978年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
11月 経世会会長就任。 1992年
8月27日 党副総裁辞任。 10月14日 衆議院議員辞職。経世会会長辞任。 「保革連合勢力には主義も主張もない。水と油が一緒になっている。水と油で天ぷらが揚がるか。」(1967年1月30日) 「列島改造もさることながら、何よりも人づくりを先にやらなければならない。ぐうたら人間を育てていては列島改造も砂上の楼閣になる。」(1972年12月10日) 「一般消費税は悪税だと言わざるを得ない。富士山の五合目以下の人から徴税するのではなく、中間ベルト地帯を太くすることが今日の政治だ。」(1979年2月3日) 「このシャバは君たちの思うようなシャバではない。親分が右と言えば右、左と言えば左なのだ。親分が右と言うのにいやだというなら、この派閥を出て行くほかない。」(1982年10月22日) 「中曽根嫌いは日本一の金丸信だ。みんなの言っていることも分からんじゃあないが、いまさらどうするわけにもいかん。オヤジ(田中角栄)の声は天の声だ。オヤジも義理人情があるから中曽根といっているんだ。二度も中曽根を持ち出す気持ちもわからんわけじゃない。好き嫌いじゃない。義理人情も政治のうちだ。私はオヤジが中曽根でいく以上、中曽根でいく。嫌な人は田中派を出ていくしかない。」(1984年10月26日) 「民主主義の基本は妥協である」
長男:康信(甲府商工会議所名誉会頭、前テレビ山梨社長、エフエム富士取締役、山梨県教育委員長、NHK記者。竹下登の娘婿) 次男:信吾(境川カントリー倶楽部社長)。2022年3月死去。 三男:吉宗(境川専務) 『わが体験的防衛論 : 思いやりの日米安保新時代』エール出版社〈Yell books〉、1979年7月25日。NDLJP:12015681。 『人は城・人は石垣・人は堀 : ありのままの政界25年』エール出版社、1983年4月1日。NDLJP:12262966。 末木幸一郎 編『行き過ぎれば刺し違える : 金丸信語録 27年間の足あと』ユニバース出版社、1985年3月1日。NDLJP:11923874。 『立ち技寝技 : 私の履歴書』日本経済新聞社、1988年8月。ISBN 4532094666。 ^ 金丸家は子どもの名を『南総里見八犬伝』にちなんだ命名を行っており、3番目に生まれた長男は「信」と名づけられた。なお、兄弟は上から、禮(礼)、悌、信、仁、忠、智義と付けられている。 ^ 旧制身延中では、父の友人が剣道の師範をしていたことから剣道をはじめるが、試合で頭を叩かれたことから剣道嫌いとなり、柔道に精進するようになったという。東京農大時代には「農大に金丸信あり」として知られ、日本代表の「柔道使節団」として2度満洲に渡っている。 ^ 桜桃は山梨県の名産であるが、金丸の卒業論文は太平洋戦争による空襲で農大が被災した際に焼失している。 ^ 柔道をしていたことから、体格がよく、自分のサイズに合う軍服がなかったという。 ^ 金丸のワイン工場には昭和天皇、香淳皇后の工場視察を迎えている。なお、このワイン工場は現在のサントネージュワインの工場となっている。 ^ 金丸、竹下、小沢は三重の縁戚関係であり、竹下の弟、亘の妻と小沢の妻は姉妹であった ^ 野中広務の著書によると、金丸は野中に「社会党との連立は俺が最初に考えていた。しかし、田辺は何らかの事情があってできなかった」と語っていたという(実際、社会党は左右再統一後も左派が優位に立ち、右派出身の田邊誠がリーダーシップを発揮することはできなかった)。 ^ 元々経世会と宏池会は自由党吉田茂派の流れを汲む兄弟派閥であり、自民党の派閥では友好関係が深かった。 ^ この「大物商工人」とは、朝鮮総連の副議長で東海商事という貿易会社の会長をしていた安商宅だと考えられている。 ^ “柔道・実業家…「政界のドン」金丸信の青年期(政客列伝)”. 日本経済新聞 電子版 (2011年7月31日). 2019年2月12日閲覧。 ^ 翼賛壮年団については雨宮昭一「翼賛壮年団の結成」『山梨県史』通史編6近現代2 ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、210頁。NDLJP:1276156。 ^ “身代わり出馬でトップ当選(政客列伝 金丸信)”. 日本経済新聞 電子版 (2011年8月7日). 2019年2月12日閲覧。 ^ “保利茂に師事、田中内閣実現に奔走(政客列伝 金丸信)”. 日本経済新聞 電子版 (2011年8月14日). 2019年2月12日閲覧。 ^ 世代交代論を唱える 「政界のドン」金丸信 (4) :日本経済新聞 ^ 坂本龍彦『風成の人―宇都宮徳馬の歳月』岩波書店、p168 ^ 衆議院会議録情報 第084回国会 内閣委員会 第22号 1978年6月6日 衆議院内閣委員会議事録 ^ “岸と金丸、対日政界工作=親台派取り込み-中国建国70年秘史”. 時事通信. (2019年10月6日). https://web.archive.org/web/20191006070356/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019100500380 2019年10月6日閲覧。 ^ 重村智計 (2006). 外交敗北. 講談社. p. 94 ^ 『平成政治史 1』, p. 102. ^ 芹川洋一著、平成政権史、日経プレミアシリーズ、2018年、43-45頁、日本経済新聞出版社 ^ 『聞き書 宮澤喜一回顧録』聞き手御厨貴・中村隆英、岩波書店、2005年、308頁 ^ 城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』p127、文春新書、平成21年 ^ 【栃木の戦後70年】「パーン、パーン、パーン」 銃声3発 2000人の聴衆騒然 金丸副総裁狙撃事件 産経新聞(2015年10月26日) ^ Sunday世界日報 1992.4.5(世界日報社) ^ 『官報』第1022号11ページ「国会事項 衆議院 議員辞職」、1992年(平成4年)10月23日 ^ “第124回国会 衆議院 議院運営委員会 第3号 平成4年10月21日”. 国会会議録検索システム. 2020年8月23日閲覧。 ^ 『平成政治史 1』, pp. 152–153. ^ 『官報』第1864号9ページ「国会事項 衆議院 弔詞」、1996年(平成8年)4月3日 ^ 金丸信吾「金丸信 政界のドン晩年の日々」『文藝春秋』2008年2月号、文藝春秋社。 ^ “[ニュース分析]許宗萬議長・家宅捜索は朝鮮総連没落の劇的な象徴”. japan.hani.co.kr. ハンギョレ新聞 (2015年5月23日). 2019年2月12日閲覧。 ^ 奥島, p. 20. ^ 三反園訓『ニュースステーション政治記者奮闘記』ダイヤモンド社、2003年、pp.76-82。 ^ 読売新聞、2002年11月12日 ^ 吉川美代子『アナウンサーが教える 愛される話し方』朝日新書、2013年、185頁。 ^ 志岐叡彦『[投稿]護衛艦「しらね」の改名を要望する』軍事研究 1993年6月号 ジャパン・ミリタリー・レビュー ^ 事件・犯罪研究会 村野薫「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典」821頁、東京法経学院出版、2002年 ISBN 4808940035。なお、犯人は無期懲役判決が言い渡されている。 ^ 原田泰「奇妙な経済学を語る人々」日本経済新聞社、P220 ^ 岡崎久彦「クーデターの政治学」p.76-78 中公新書 ^ <16> 政治とカネ 屈指の「集金力」 派閥運営 生きて 元自民党政調会長 亀井静香さん(1936年~) 中国新聞、2020/2/27 ^ “田口八重子さんを救うぞ!」-東京連続集会71報告5(2013/02/07)”. 救う会全国協議会ニュース. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会. 2022年1月3日閲覧。 ^ 『官報』第9617号187-188頁 昭和34年1月16日号 ^ 『官報』第10584号39-42頁 昭和37年4月3日号 ^ 『立ち技寝技 : 私の履歴書』日本経済新聞社 ^ “甲府商工会議所、新会頭に進藤中・山梨中央銀行会長”. 日本経済新聞 (2019年11月1日). 2021年12月7日閲覧。 ^ “金丸信氏の没後20年、山梨に残したもの”. 日本経済新聞 (2016年3月26日). 2021年12月7日閲覧。 麻生幾『戦慄―昭和・平成裏面史の光芒』日経ビジネス、1999年9月1日。 奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』中公文庫、2005年9月25日。ISBN 978-4122045934。 後藤謙次『ドキュメント 平成政治史 1 崩壊する55年体制』岩波書店、2014年4月17日。ISBN 978-4000281676。 国対政治 国際興業 - 金丸信の東京佐川急便事件などを解明するために東京地検が1993年親密企業であった国際興業に家宅捜索を行う 吉田博美 - 秘書を務めていた 表 話 編 歴 浅沼稲次郎 山口喜久一郎 大村清一 小沢佐重喜 石田博英 福永健司 菅家喜六 中村梅吉 椎熊三郎 保利茂 山村新治郎 江﨑真澄 荒舩清十郎 周東英雄 福永健司 小平久雄 福田一 佐々木秀世 福永健司 坪川信三 塚原俊郎 坪川信三 伊能繁次郎 久野忠治 塚原俊郎 渡海元三郎 田澤吉郎 海部俊樹 佐々木秀世 田澤吉郎 金丸信 細田吉蔵 亀岡高夫 山下元利 内海英男 山村新治郎 小沢一郎 綿貫民輔 越智伊平 三塚博 山口敏夫 小此木彦三郎 山下徳夫 森喜朗 中西啓介 与謝野馨 奥田敬和 中村正三郎 谷垣禎一 平沼赳夫 亀井善之 中川秀直 大島理森 藤井孝男 鈴木宗男 鳩山邦夫 大野功統 武部勤 川崎二郎 佐田玄一郎 逢沢一郎 笹川堯 小坂憲次 松本剛明 川端達夫 小平忠正 高木義明 佐田玄一郎 高木毅 逢沢一郎 林幹雄 河村建夫 佐藤勉 古屋圭司 高市早苗 高木毅 山口俊一 浜田靖一 表 話 編 歴 柏原義則 淺利三朗 藥師神岩太郎 松本一郎 篠田弘作 西村英一 久野忠治 佐藤虎次郎 内海安吉 徳安實藏 薩摩雄次 西村直己 堀川恭平 羽田武嗣郎 大倉三郎 加藤高藏 二階堂進 福永一臣 丹羽喬四郎 森山欽司 田村元 森下國雄 加藤常太郎 始関伊平 金丸信 亀山孝一 天野光晴 服部安司 木村武雄 天野光晴 渡辺栄一 北側義一 伏木和雄 北側義一 稲村利幸 村田敬次郎 松永光 浜田幸一 保岡興治 瓦力 村岡兼造 中村喜四郎 野呂田芳成 東家嘉幸 中島衛 桜井新 古賀誠 野中広務 鳥居一雄 遠藤和良 二見伸明 市川雄一 二階俊博 遠藤乙彦 平田米男 大口善徳 井上義久 廃止 表 話 編 歴 增原惠吉 大橋武夫 柳沢米吉 木村篤太郎 木村篤太郎 大村清一 杉原荒太 砂田重政 船田中 小瀧彬 津島壽一 左藤義詮 伊能繁次郎 赤城宗徳 江﨑真澄 西村直己 藤枝泉介 志賀健次郎 福田篤泰 小泉純也 松野頼三 上林山栄吉 増田甲子七 有田喜一 中曽根康弘 增原惠吉 西村直己 江﨑真澄 增原惠吉 山中貞則 宇野宗佑 坂田道太 三原朝雄 金丸信 山下元利 久保田円次 細田吉蔵 大村襄治 伊藤宗一郎 谷川和穂 栗原祐幸 加藤紘一 栗原祐幸 瓦力 田沢吉郎 山崎拓 松本十郎 石川要三 池田行彦 宮下創平 中山利生 中西啓介 愛知和男 神田厚 玉澤徳一郎 衛藤征士郎 臼井日出男 久間章生 額賀福志郎 野呂田芳成 瓦力 虎島和夫 斉藤斗志二 中谷元 石破茂 大野功統 額賀福志郎 久間章生 久間章生 小池百合子 高村正彦 石破茂 林芳正 浜田靖一 北澤俊美 一川保夫 田中直紀 森本敏 小野寺五典 江渡聡徳 中谷元 稲田朋美 岸田文雄 小野寺五典 岩屋毅 河野太郎 岸信夫 浜田靖一 木原稔 中谷元 表 話 編 歴 小日山直登 田中武雄 三土忠造 村上義一 平塚常次郎 増田甲子七 苫米地義三 北村徳太郎 岡田勢一 小沢佐重喜 大屋晋三 山崎猛 石井光次郎 三木武夫 吉野信次 宮沢胤勇 中村三之丞 永野護 重宗雄三 楢橋渡 南好雄 木暮武太夫 斎藤昇 綾部健太郎 松浦周太郎 中村寅太 荒舩清十郎 藤枝泉介 大橋武夫 中曽根康弘 原田憲 橋本登美三郎 丹羽喬四郎 佐々木秀世 新谷寅三郎 徳永正利 江藤智 木村睦男 石田博英 田村元 福永健司 森山欽司 地崎宇三郎 塩川正十郎 小坂徳三郎 長谷川峻 細田吉蔵 山下徳夫 三塚博 橋本龍太郎 石原慎太郎 佐藤信二 山村新治郎 江藤隆美 大野明 村岡兼造 奥田敬和 越智伊平 伊藤茂 二見伸明 亀井静香 平沼赳夫 亀井善之 古賀誠 藤井孝男 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 木村小左衛門 一松定吉 一松定吉 益谷秀次 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 小沢佐重喜 竹山祐太郎 馬場元治 南条徳男 根本龍太郎 遠藤三郎 村上勇 橋本登美三郎 中村梅吉 河野一郎 小山長規 瀬戸山三男 橋本登美三郎 西村英一 保利茂 坪川信三 根本龍太郎 西村英一 木村武雄 金丸信 亀岡高夫 小沢辰男 仮谷忠男 竹下登 中馬辰猪 長谷川四郎 櫻内義雄 渡海元三郎 渡辺栄一 斉藤滋与史 始関伊平 内海英男 水野清 木部佳昭 江藤隆美 天野光晴 越智伊平 小此木彦三郎 野田毅 原田昇左右 綿貫民輔 大塚雄司 山崎拓 中村喜四郎 五十嵐広三 森本晃司 野坂浩賢 森喜朗 中尾栄一 亀井静香 瓦力 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 大野伴睦 緒方竹虎 三好英之 大久保留次郎 正力松太郎 川村松助 鹿島守之助 石井光次郎 山口喜久一郎 村上勇 西川甚五郎 小沢佐重喜 川島正次郎 佐藤栄作 増原惠吉 福田篤泰 前尾繁三郎 二階堂進 木村武雄 野田武夫 西田信一 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 古賀雷四郎 綿貫民輔 粕谷茂 坂元親男 井上吉夫 阿部文男 砂田重民 木部佳昭 谷洋一 伊江朝雄 北修二 上原康助 佐藤守良 小里貞利 小沢潔 高木正明 岡部三郎 稲垣実男 鈴木宗男 井上吉夫 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 西村英一 丹羽兵助 金丸信 天野光晴 田沢吉郎 櫻内義雄 中野四郎 園田清充 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 山崎平八郎 綿貫民輔 奥野誠亮 内海英男 野中英二 石井一 佐藤守良 西田司 東家嘉幸 井上孝 上原康助 左藤恵 小沢潔 池端清一 鈴木和美 伊藤公介 亀井久興 柳澤伯夫 井上吉夫 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 扇千景 石原伸晃 北側一雄 冬柴鐵三 谷垣禎一 中山成彬 金子一義 前原誠司 馬淵澄夫 大畠章宏 前田武志 羽田雄一郎 太田昭宏 石井啓一 赤羽一嘉 斉藤鉄夫 中野洋昌 表 話 編 歴 岸信介 三木武夫 川島正次郎 福田赳夫 川島正次郎 益谷秀次 前尾繁三郎 三木武夫 田中角栄 福田赳夫 田中角栄 保利茂 橋本登美三郎 二階堂進 中曽根康弘 内田常雄 大平正芳 斎藤邦吉 櫻内義雄 二階堂進 田中六助 金丸信 竹下登 安倍晋太郎 橋本龍太郎 小沢一郎 小渕恵三 綿貫民輔 梶山静六 森喜朗 三塚博 加藤紘一 森喜朗 野中広務 古賀誠 山崎拓 安倍晋三 武部勤 中川秀直 麻生太郎 伊吹文明 麻生太郎 細田博之 大島理森 石原伸晃 石破茂 谷垣禎一 二階俊博 甘利明 茂木敏充 森山裕 表 話 編 歴 石井光次郎 砂田重政 佐藤栄作 河野一郎 益谷秀次 石井光次郎 保利茂 赤城宗徳 藤山愛一郎 中村梅吉 前尾繁三郎 福永健司 椎名悦三郎 橋本登美三郎 鈴木善幸 中曽根康弘 鈴木善幸 灘尾弘吉 松野頼三 江﨑真澄 中曽根康弘 倉石忠雄 鈴木善幸 二階堂進 田中龍夫 細田吉蔵 金丸信 宮澤喜一 安倍晋太郎 伊東正義 水野清 唐沢俊二郎 西岡武夫 佐藤孝行 木部佳昭 武藤嘉文 塩川正十郎 森喜朗 深谷隆司 池田行彦 小里貞利 村岡兼造 堀内光雄 久間章生 丹羽雄哉 二階俊博 笹川堯 田野瀬良太郎 小池百合子 塩谷立 細田博之 野田聖子 二階俊博 細田博之 竹下亘 加藤勝信 鈴木俊一 佐藤勉 福田達夫 遠藤利明 森山裕 鈴木俊一 表 話 編 歴 大野伴睦1957.7-1960.7 大野伴睦1961.7-1964.5 川島正次郎1964.7-1966.12 川島正次郎1967.11-1970.11 椎名悦三郎1972.8-1976.12 船田中1977.11-1978.12 西村英一1979.1-1980.11 二階堂進1984.4-1986.7 金丸信1992.1-1992.8 小渕恵三1994.7-1995.10 山崎拓2003.9-2003.11 大島理森2010.9-2012.9 高村正彦2012.9-2018.10 麻生太郎2021.10-2024.9 菅義偉2024.9- 表 話 編 歴 中村梅吉 倉石忠雄 村上勇 福永健司 小沢佐重喜 山村新治郎 江﨑真澄 竹山祐太郎 園田直 佐々木秀世 中野四郎 佐々木秀世 長谷川四郎 園田直 塚原俊郎 金丸信 原田憲 福田一 江﨑真澄 宇野宗佑 海部俊樹 安倍晋太郎 三原朝雄 金丸信 田沢吉郎 田村元 小此木彦三郎 江藤隆美 森下元晴 江藤隆美 藤波孝生 渡部恒三 奥田敬和 村岡兼造 梶山静六 増岡博之 梶山静六 瓦力 小里貞利 島村宜伸 山崎拓 村岡兼造 保利耕輔 古賀誠 大島理森 中川秀直 細田博之 二階俊博 大島理森 川崎二郎 逢沢一郎 岸田文雄 浜田靖一 鴨下一郎 佐藤勉 竹下亘 森山裕 高木毅 浜田靖一 坂本哲志 表 話 編 歴 天野久 松沢一 鈴木正文 平野力三 樋貝詮三 樋貝詮三 鈴木正文 天野久 深沢義守 小林信一 吉江勝保 平野力三 内田常雄 荻野豊平 古屋貞雄 古屋貞雄 古屋菊男 小林信一 平野力三 鈴木正文 堀内一雄 荻野豊平 小林信一 古屋貞雄 内田常雄 金丸信 金丸徳重 堀内一雄 田邊圀男 内田常雄 金丸信 堀内一雄 内田常雄 小林信一 田邊圀男 金丸徳重 内田常雄 堀内一雄 金丸信 田邊圀男 小林信一 金丸信 金丸徳重 内田常雄 中尾栄一 内田常雄 金丸信 小林信一 中尾栄一 金丸徳重 金丸信 内田常雄 中尾栄一 小林信一 金丸徳重 鈴木強 中尾栄一 金丸信 堀内光雄 内田常雄 金丸信 田邊圀男 中尾栄一 堀内光雄 神沢浄 金丸信 田邊圀男 鈴木強 堀内光雄 中尾栄一 金丸信 鈴木強 田中克彦 田邊圀男 堀内光雄 金丸信 堀内光雄 中尾栄一 田邊圀男 上田利正 金丸信 上田利正 輿石東 中尾栄一 田邊圀男 堀内光雄 輿石東 小沢鋭仁 横内正明 中尾栄一 表 話 編 歴 竹下登1985-1987(1985-1987は創政会) 金丸信1987-1992 小渕恵三1992-1998(1992-1996は経世会) 綿貫民輔1998-2000 橋本龍太郎2000-2004 津島雄二2005-2009 額賀福志郎2009-2018 竹下亘2018-2021 茂木敏充2021- 表 話 編 歴 岩手県第2区(中選挙区時代) 岩手県第4区 岩手県第3区 比例東北ブロック 小沢佐重喜 竹下亘 竹下登 金丸信 DAIGO 北川景子 竹中統一 黒田善太郎 椿原慶子 自由民主党 新生党 新進党 自由党 (1998-2003) 民主党 国民の生活が第一 日本未来の党 生活の党 生活の党と山本太郎となかまたち 自由党 (2016-2019) 国民民主党 立憲民主党 周山会(自民党佐藤派)- 七日会(自民党田中派) 創政会(自民党竹下系) 経世会(自民党竹下派) 改革フォーラム21(自民党羽田派) 旧自由党G(民主党小沢G) 一新会(民主党小沢G) 北辰会(民主党小沢G)- 新しい政策研究会(超党派小沢G) 衆議院議院運営委員長 第34代自治大臣 第44代国家公安委員長 内閣官房副長官 自由民主党幹事長 新生党代表幹事 新進党党首 自由党 (1998-2003)党首 民主党代表代行 民主党代表 民主党幹事長 国民の生活が第一代表 生活の党代表 生活の党と山本太郎となかまたち共同代表・選挙対策委員長 自由党 (2016-2019)代表 高橋嘉信 藤原良信 樋高剛 鶴保庸介 青木愛 横山北斗 石川知裕 川島智太郎 大久保隆規 金淑賢 木戸口英司 『日本改造計画』 『語る』 『男の行動美学』 『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』 『剛腕維新』 『小沢主義(オザワイズム)―志を持て、日本人』 『日米関係を読む』(ジェームズ・ファローズ・松永信雄共著) 『ジョン万次郎とその時代』(川澄哲夫編) 『政権交代のシナリオ―「新しい日本」をつくるために』(菅直人共著) 『小沢一郎総理(仮)への50の質問』(おちまさととの対談) 佐藤栄作 田中角栄 羽田孜 平野貞夫 小池百合子 奥田敬和 藤井裕久 田村秀昭 山岡賢次 鈴木克昌 広野允士 東祥三 森裕子 梶山静六 橋本龍太郎 小渕恵三 鳩山由紀夫 1991年東京都知事選挙 政治改革四法 三宝会 小沢一郎政治塾 小沢チルドレン 小沢訪中団 西松建設事件 陸山会事件 ワン・ワン・ライス 金竹小 竹下派七奉行 ネオ・ニューリーダー 一龍戦争 一六戦争 岩手めんこいテレビ 福田組 西松建設 竹中工務店 カテゴリ 表 話 編 歴 1.いつも抱きしめて/無限∞REBIRTH 2.BUTTERFLY/いま逢いたくて… 3.CHANGE !!/心配症な彼女 4.K S K 5.真夏の残響/今夜、ノスタルジアで 1.DAIGOLD 2.Deing みんなのKEIBA eGG 今夜解禁!ザ・因縁 3秒聴けば誰でもわかる名曲ベスト100 DAIGOも台所〜きょうの献立何にする?〜 オールスター合唱バトル ウマウマ! 〜アノミズキのビギナー育成TV〜 くりぃむクイズ ミラクル9 DAI★安BSフジNAVI 検定ジャポン 太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。 森田一義アワー 笑っていいとも! 笑っていいとも!増刊号 笑撃!ワンフレーズ お宝発信タワー DAI-NAMO 馬の王子様 ヴァンガ道 新堂本兄弟 ニンゲン観察バラエティ モニタリング 相葉マナブ ご対面バラエティー 7時にあいましょう もしかしてズレてる? ひるおび! 24時間テレビ 「愛は地球を救う」
全国高等学校クイズ選手権 カンニングのDAI安吉日! 天才!志村どうぶつ園 火曜サプライズ 幸せ!ボンビーガール 最初と最後にはワケがある ラストキス〜最後にキスするデート DAIGOの!世界きまぐれリモートツアー ZIP!(木曜日) 馬好王国〜UmazuKingdom〜 ウルトラマンサーガ 劇場版 カードファイト!! ヴァンガード 3つのゲーム BREAKERZ
SHINPEI 竹下登 影木栄貴 北川景子 内藤武宣 内藤用一郎 竹下亘 金丸信 小沢一郎 氷室京介 佐野瑞樹 椿原慶子 小澤陽子 堤礼実 竹俣紅 小嶋陽菜 白石麻衣 松村沙友理 神部美咲 生駒里奈 武田玲奈 カンニング竹山 安めぐみ タモリ 徳光和夫 桝太一 水卜麻美 武田真治 徳島えりか 佐藤梨那 KinKi Kids 高橋みなみ 志村けん 相葉雅紀 山瀬まみ TAKA マオ 河村隆一 西川貴教 ゴールデンボンバー YOSHIKI 清春 GLAY
TAKURO hyde yasu MIYAVI GACKT 石原良純 長嶋一茂 ビーイング A-PLUS カテゴリ FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ 日本 オランダ 金丸信 昭和時代戦後の閣僚 日本の建設大臣 国土庁長官 防衛庁長官 自由民主党の衆議院議員 山梨県選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 平成時代の衆議院議員 自由民主党副総裁 自由民主党幹事長 証人喚問された人物 有罪判決を受けた日本の政治家 20世紀日本の実業家 日本の醸造家 関東軍の人物 日本の在郷軍人会の幹部 日本の中等教育の教員 高校野球指導者 日本の野球監督 紺綬褒章受章者 私の履歴書の登場人物 脱税した人物 政治資金問題 テレビ山梨 公職追放者 竹下登 小沢一郎 鈴木宗男 保利茂 東京農業大学出身の人物 山梨県立身延高等学校出身の人物 山梨県出身の人物 1914年生 1996年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ 2024/11/20 15:12更新
|
kanemaru shin
金丸信と同じ誕生日9月17日生まれ、同じ山梨出身の人
TOPニュース
金丸信と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「金丸信」を素材として二次利用しています。