森山欽司の情報(もりやまきんじ) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
森山 欽司さんについて調べます
■名前・氏名 |
森山欽司と関係のある人
瀬戸山三男: 森山欽司 塚原俊郎: ^ 当選同期に池田勇人・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・木村俊夫・藤枝泉介・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一などがいる。 近藤鶴代: 森山欽司 篠田弘作: 戦後は中央政界入りを志し、1946年・1947年の落選を経て、1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党公認で旧北海道4区から立候補し初当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。 亀井光: “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第一章” (PDF). 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。 前田正男: 森山欽司 森山真弓: 夫の森山欽司とは「おしどり夫婦」として知られた。 佐々木義武: 森山欽司 福田篤泰: ^ この選挙で当選した同期に、池田勇人・佐藤栄作・岡崎勝男・前尾繁三郎・麻生太賀吉・橋本龍伍・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など 奥田幹生: 森山欽司 岡野清豪: 森山欽司 宮崎辰雄: “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十六章” (PDF). 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。 岩崎純三: “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第二十章” (PDF). 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。 渋谷直蔵: “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十八章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 竹内黎一: 森山欽司 川島廣守: “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第二十章” (PDF). 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。 丹羽兵助: 腰の低い人柄から「お辞儀の丹羽兵」、あるいは毛利松平・森山欽司らと共に「お辞儀三人衆」と呼ばれた。 足立篤郎: 森山欽司 住田正二: 大物次官で2年間務めると見られていたが、同年末の第1次大平内閣組閣の際に「運輸大臣は森山欽司以外なら誰でも良い」と発言し、以前にも野岩鉄道の計画で対立した森山が運輸大臣となった事などから任期1年で1979年(昭和54年)に退官。 毛利松平: その後三木内閣が発足すると、丹羽兵助・森山欽司と共に「お辞儀3人衆」として他派閥との折衝・調整に尽力した。 砂田重民: 森山欽司 倉石忠雄: “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十八章” (PDF). 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。 磯崎叡: “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十四章” (PDF). 2013年8月17日閲覧。 曾禰益: “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第一章” (PDF). 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。 簗瀬進: 1990年、第39回衆議院議員総選挙に森山欽司の後継者として自由民主党公認で出馬して初当選(当選同期に岡田克也・佐田玄一郎・藤井裕久・鈴木俊一・亀井久興・中谷元・森英介・福田康夫・石原伸晃・河村建夫・小林興起・塩谷立・古屋圭司・細田博之・小坂憲次・山本拓など)。 小金義照: 戦後の1949年第24回衆議院議員総選挙に旧神奈川3区から無所属で立候補し当選する(当選同期に佐藤栄作・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・木村俊夫・藤枝泉介・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・有田喜一など)。 中村梅吉: 森山欽司 熊谷太三郎: 森山欽司 荒木万寿夫: 森山欽司 木村俊夫: ^ この選挙での当選同期に、池田勇人・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・塚原俊郎・藤枝泉介・福田篤泰・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など |
森山欽司の情報まとめ
森山 欽司(もりやま きんじ)さんの誕生日は1917年1月10日です。栃木出身の政治家のようです。
父親、母親、現在、卒業、事件、結婚、解散、脱退、姉妹に関する情報もありますね。1987年に亡くなられているようです。
森山欽司のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)森山 欽司(もりやま きんじ、1917年1月10日 - 1987年5月2日)は、日本の政治家、外務官僚。科学技術庁長官・運輸大臣を務めた。妻は森山眞弓。没後に正三位を追賜。愛称はモリキン。保守合同で自由民主党が誕生してからは三木派に所属し、後身の河本派では代表世話人を務める。2度の衆議院社会労働委員長、同建設委員長、第2次池田内閣で郵政政務次官等を経て、1973年第2次田中角榮内閣第1次改造内閣で科学技術庁長官、1978年第1次大平内閣で運輸大臣として入閣した。長年、自民党の労働問題調査会の事務局長、会長を務め、政府、三公社五現業、公社公団、特殊法人の労働問題にかかわった。1987年4月29日勲一等旭日大綬章受章。 1917年(大正6年)1月10日東京都千代田区麹町に生まれる。父親の邦雄は、鳩山一郎法律事務所に所属する弁護士で、1928年の第1回普通選挙で立憲政友会から栃木県選挙区から立候補したが、落選している。母親の初恵は、和洋裁縫女学校(現在の和洋女子大学)卒業後、裁縫の教師をしていた。 1923年(大正12年)麹町小学校に入学、当初は目立った成績ではなかったが、徐々に成績をあげて、難関の東京府立第一中学校に合格した。中学では柔道部に所属した。旧制静岡高等学校文科乙類では山岳部に所属し、3年間、寮生活を続けた。後に東京帝国大学に転学で入り、1941年10月に高等文官試験の外交と行政に合格し、同年12月、東京帝国大学法学部を繰上げ卒業と同時に外務省に入省した。ドイツ大使館任の辞令を受けたが、直後に歩兵第59連隊の二等兵として大日本帝国陸軍に入隊、経理部幹部候補生試験で第14師団中、一番の成績をとり、小平市にある陸軍経理学校へ入学した。経理学校を卒業後は、陸軍航空本部整備部に配属された。その後新たにできた軍需省航空兵器総局に見習い士官として行き、陸軍主計少尉として終戦を迎えた。1945年5月25日の東京大空襲では庁舎の防火活動に従事し、遠藤三郎中将より表彰状を受けた。 1945年9月1日、復員し、外務省に戻り、終戦連絡中央事務局に配属され、連絡官としてGHQ当局との折衝にあたり、その後物価調査会事務局長を経て、1946年3月、外務省を退官した。 1946年4月10日に行われた第22回衆議院議員総選挙に栃木県(定員10人)から立候補した。外務省・軍需省にいたときのコネを使って、調達したオートバイの陸王のサイドカーを借り受けて、選挙区巡りを行ったが、58人中18位で落選した。父親が門下生だった、鳩山一郎が公職追放されたため、日本自由党への入党をあきらめ、1947年4月、民主党へ入党した。4月25日に行われた第23回衆議院議員総選挙では、前回栃木県全県一区で行われた選挙区が1区と2区に分区され、1区から立候補したが7位で落選した。昭和電工事件で芦田均も逮捕される中、迎えた1949年1月23日の第24回衆議院議員総選挙では28,281票を獲得し、2位で初当選を果たした。 初当選後、民主自由党の吉田内閣への連立問題を巡り、連立派と分裂した野党派に属した。野党派は、その後、国民協同党、新政治協議会と合併し、1950年4月28日、国民民主党が結成、国民民主党はさらに、1952年2月8日、農民協同党、新政クラブと合併し、改進党を結成、さらに1954年1月24日、自由党新党準備会派、改進党、日本自由党が合併し、日本民主党が結成された。こうした中、民主党政調理事、国民民主党組織企画部長などを務め、たばこ問題、けい肺病問題などに取り組んだ。 初当選後は、葉たばこ収納代金の概算払い制度(前年の収納額の約20%を7月に支払う。)に関する法律の成立に尽力した。この制度はその後、米作にも導入された。初当選した1949年7月25日に、旧制静岡高校の恩師、桜井和市より東京大学に在学中だった眞弓と引き合わされ結婚した。 1952年10月1日の第25回衆議院議員総選挙では34,573票を獲得し第4位で当選したが、選挙違反容疑で警察の手入れを受けた。バカヤロー解散を受けて1953年4月19日に行われた第26回衆議院議員総選挙では31,208票で次々点の7位と落選した。 落選中は、けい肺法案の実現に奔走。鳩山ブームに乗った1955年2月の第27回衆議院議員総選挙では、52,528票でトップ当選した。同年7月に「けい肺及び外傷性せき髄障害に関する特別保護法」が成立した。 保守合同後の1957年7月には、自由民主党労働局長、党労働問題調査会事務局長に就任した。同年12月には社会労働委員長に選任された。 1958年に勤務評定闘争が行われた際、日教組からの脱退者による組合の育成、日教組幹部を労働貴族と主張して一般教師に喧伝するなど、日教組攻撃に奔走。1962年1月までに過半数の組合員脱退など、1963年までの5年間で栃木県内の日教組組織率低下させた。 1958年5月22日の第28回衆議院議員総選挙では国鉄の労働組合や日教組の反撃により、37,288票で7位と落選した。1960年11月20日の第29回衆議院議員総選挙では50,406票を獲得し第2位で当選、同年12月9日付けで第2次池田内閣の郵政政務次官に就任した。小金義照郵政大臣から全逓信労働組合との問題を任された。郵政省への初登庁のその日、玄関にある郵政省の銅板より大きい木製の全逓信労働組合本省本部の看板を直ちに外させた。また勤務時間中に一時間以上の職場大会参加者に対してのみ戒告処分が行われてきた慣習を改め、四十五分以上の職場大会参加者は、戒告処分とするように改め、在任7ヶ月の間に過去20年分にあたる組合員に対する処分を実施した。1961年の春闘では全逓に一切妥協せず勝利をあげた。 1960年の三井三池争議では、日本共産党系の自由法曹団や総評弁護団に対抗して、自らが育て上げた労政法曹団を派遣した。彼らは1961年春闘での全逓による奈良県・上市・下市局闘争にも派遣された。 1961年7月18日、内閣改造に伴い、郵政政務次官を退任、自民党全国組織委員会副委員長兼労働局長に就任、1962年10月、列国議会同盟へ派遣された。1963年の内閣改造の際には、自民党広報委員会副委員長、教育正常化委員会副委員長に就任した。同年11月21日の第30回衆議院議員総選挙では、60,748票で第4位で当選した。 1964年6月の国会では、ILOの87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)の批准問題に関連して、大橋武夫労働大臣を立ち往生させたこともあった。同年7月に自民党政調・住宅対策特別委員会副委員長に就任、1965年1月25日には、衆議院建設委員会委員長に就任し、建設省の職員組合である全建労や住宅公団の労組問題や中小建設業問題に取り組んだ。全建労の加入者への働きかけを実施し、組合員を二万人から五千人まで減らした。1966年1月、自民党建設部会中小建設業振興対策小委員会委員長に就任し、建設事務次官通達「中小建設業に対する受注機会の確保について」をまとめた。 1967年1月29日の第31回衆議院議員総選挙では、64,955票を獲得し、4位で当選した。同年11月1日、衆議院法務委員会で、裁判所職員等で構成される全司法労働組合の関係者が「日本の裁判所が資本家、政府の手先となっている」という発言をしたり、組合員の職員が「リボン闘争」に参加して法廷内で政治運動を支援するリボンを着用したことを取り上げ、職員がそのような認識を持っているとすれば裁判の公平性の観点から問題であると主張した。1968年1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争の際には、河野洋平、佐藤文生、坂本三十次を伴い現地調査を行った。同年7月の第11回参議院議員通常選挙では、選対委員長を務めた。 1968年11月27日の自民党総裁選挙では、佐藤栄作の三選阻止のために立候補した三木武夫のために党内工作に動き、大方の予想に反して三木は前尾繁三郎を押えて2位となった。1969年12月27日の第32回衆議院議員総選挙では、68,527票を獲得し第2位で当選した。 1970年2月、自民党政調審議会・審議委員に就任した。1971年6月27日の第9回参議院議員通常選挙後の7月14日に召集された第66臨時国会で、14年ぶりに社会労働委員長に就任した。1969年の衆議院本会議で自民党が強行突破を計って大混乱し、石井光次郎、小平久雄の衆議院正副議長が辞任した健康保険法の改正を目指して、日本社会党とも協議を行い、社会労働委員会、衆議院本会議を通過させたが、参議院で社会党にストップされ、健康保険法改正案成立は、1973年までずれ込んだ。 1972年12月10日の第33回衆議院議員総選挙で8回目の当選を果たした後、1973年11月25日、第2次田中内閣で科学技術庁長官として初入閣を果たした。科学技術庁長官時代には、事務次官と原子力局長2人を更迭した。また、第1次オイルショックによる混乱からの脱却のため、代替エネルギーとなる原子力発電の推進に取り組み、安全研究予算を追加要求し、前年度の70億円から150億円へ倍増させた。また建設地地元住民への優遇策となる電源三法を1974年6月3日の通常国会最終日に成立させた。1974年1月29日、日本共産党の不破哲三書記局長が指摘した日本分析化学研究所の放射能測定結果ねつ造問題に善処を約束、当時の原子力局長、放射能課長を更迭、新たな検査組織の設立を目指した。その際、国が全額出資する場合、法律を作成する必要があるが、野党の賛成が得られないことから、日本原子力研究所や動力炉・核燃料開発事業団などが出資したかたちで、同年6月、財団法人日本分析センターを樹立した。1974年4月3日の衆議院科学技術特別委員会では社会党、公明党、共産党から那覇市ホワイトビーチで漁獲されたハリセンボンから60ピコキュリーの放射能が検出されたことについて、論争を繰り広げた。ラジオ・アイソトープ行政の刷新にも取り組み、行政管理庁が1974年1月28日に出した「放射線障害防止に関する行政監察結果に基づく勧告」に対して、労働省、文部省、厚生省の協力を取り付けた。 原子力船むつの問題にも取り組んだ。1974年8月26日、大湊港から「むつ」を出港させた。出港から7日目の9月1日、上甲板に設置された鋼製原子炉ハッチの側面にある測定器が、ガンマ線を感知し警報を発した。このとき検出された放射線量は最高でも毎時0.2ミリレントゲンで、連続500時間浴びても、胸部レントゲン写真1回分相当の極微量であったが、マスコミはこれをセンセーショナルに報道、野党各党から森山は激しく非難された。 田中金脈問題で田中内閣が退陣し、三木内閣が誕生すると、丹羽兵助、毛利松平とともに、党内基盤の弱い三木内閣を支えるために、他派や野党への工作に動き回り、おじぎ三人衆と呼ばれた。1975年秋、公労協がスト権ストを実施した際、自民党内にもスト権を付与するべきだという意見がある中、スト権付与に強く反対した。 1975年12月、自民党総務に就任した。1976年5月20日の朝日新聞では反主流派である三木おろしを行っている大平派幹部の福永健司と対談した。9月15日の党役員人事で、内田常雄幹事長の下で幹事長代理に就任、三木おろしに対する防戦に尽力した。自民党の選挙資金が少ない中、任期満了で迎えた12月5日の第34回衆議院議員総選挙では37億円ほどで選挙を実施した。 1977年2月1日、倉石忠雄に代わり、自民党・労働問題調査会長に就任、その後運輸大臣在任中を除き死去するまで十一期務めた。同じく1977年2月27日、船田中、小平久雄(1976年総選挙で落選)に次いで第三代の自民党・栃木県連会長に就任、1983年10月23日まで務めた。1980年の衆参ダブル選挙の際、妻の眞弓が参議院栃木県選挙区の候補者となり、二議席を独占したが、妻の立候補には積極的ではなかった。同年7月の第11回参議院議員通常選挙では、選対委員長を務めた。 1978年3月2日、永年在職議員表彰を保利茂衆議院議長から受け、慣例により自民党顧問に就任した。25年間在職した議員は彼で171人目であった。その年の自民党総裁選挙では、河本敏夫の選対事務局長を務めた。同年運輸大臣に就任、12月20日からの値上げが決定していた私鉄運賃の値上げを大臣就任直後に延期した。12月26日には高木文雄総裁ら国鉄役員のボーナス半額カットを指示した。1979年1月12日、それまで受験資格が男子に限定されていた航空管制官、気象観測官、海上保安官などの五職種を女子にも受験資格を与えるよう指示した。1月23日、六大都市のタクシー運賃値上げにストップをかけた。1月29日、鉄道労働組合の辻本滋敬組合長らと懇談し、国鉄再建への協力要請を行った。3月30日、尖閣諸島・魚釣島にヘリポート建設を指示した。3月26日、笹川良一日本船舶振興会長への勇退を勧告、全日空の若狭得治会長へ辞任要求を行った。6月には国会で、「国鉄の財政改善のため、非効率な夜行列車は廃止すべき」と表明し、議論を呼んだ。第1次大平内閣発足時に(運輸大臣は)「森山さん以外ならだれでもいい」と発言した住田正二運輸事務次官を1979年7月に辞任に追い込んだ。 日本の領土や領海の確保について積極的に取り組み、水路測量原標の埋め込み実施を督励した。1979年7月5日には下地島空港の開港式に臨席し、グラマン ガルフストリーム IIに試乗した。その後、同空港よりYS-11に乗り、西銘順治沖縄県知事とともに、尖閣諸島周域の視察を行った。 三木派が河本派となってからは、代表世話人を亡くなるまで務めた。 1979年4月25日、国労、動労によるストライキが行われたが、6月1日に行われた閣議で、当局側が予定しているスト参加者への処分の凍結をするべきと表明した。同年7月2日には、自ら作成した「国鉄再建の基本構想案」を国鉄総裁の顔を立てるために、国鉄に発表させた。同年11月9日の第2次大平内閣発足とともに運輸大臣の座を去った。 1982年、政府が財政再建、行政改革推進の見地から人事院勧告を凍結した際、労働三権が制約されることとの均衡から勧告実施を強く主張した。 1985年10月、自らの呼びかけで自民党内に教科書問題を考える議員連盟が結成された。晩年には、教育基本法やそれに基づく教育体制、教育内容、教科書の是正など、戦後教育の総決算に強い意欲を示した。 1986年10月19日、野岩鉄道会津鬼怒川線の開通式では、野岩線完成促進議員連盟会長としてテープカットを行った。 1987年5月2日、静養先であった山梨県河口湖町で急性心不全のため、死去した。70歳没。死没日付をもって正三位に叙された。自民党葬がおこなわれ、旧制静岡高校の一期後輩だった中曽根康弘首相が弔辞を読んだ。追悼演説は同年5月26日の衆議院本会議で、広瀬秀吉により行われた。 地盤は簗瀬進が継承した。
参考文献
^ “森山欽司”. コトバンク. 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第二章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第一章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十四章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ 「旧制高等学校物語 第10」財界評論社 1965年 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第三章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第七章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第四章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第六章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第八章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第五章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第九章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ 1957年に郵政大臣に就任した田中角栄は、『歴代郵政大臣回顧録』第三巻(逓信研究会、1974年)の中で、自分が就任直後に全逓の看板を外すよう指示したと述べている。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十一章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ 衆議院会議録による。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十三章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第二十章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ [視界]"住田解任"運輸省走る 森山批判の本音がたたった? 1979年7月24日 朝刊9ページ ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十六章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十七章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十八章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十九章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ 国鉄再建、組合に協力を要請 森山運輸相 読売新聞 1979年1月29日 夕刊2ページ ^ 笹川さん、お辞めになっては… 森山運輸相"勇気ある勧奨" 読売新聞 1974年3月28日 朝刊22ページ ^ 「全日空若狭会長いかがなものか」 森山運輸相また"苦言" 安西社長と会談 読売新聞 1979年4月12日 朝刊3ページ ^ 参考:参議院運輸委員会会議録(1979年6月5日)[1] ^ 開港式典参加の森山大臣 突然の"尖閣視察" 読売新聞 1979年7月6日 朝刊22ページ ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第二十一章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第二十三章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ 第108回 衆議院 本会議 第22号 昭和62年5月26日 - 国会会議録検索システム ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十五章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 ^ “森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第二十二章” (PDF). 2013年8月18日閲覧。 森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 表 話 編 歴 小日山直登 田中武雄 三土忠造 村上義一 平塚常次郎 増田甲子七 苫米地義三 北村徳太郎 岡田勢一 小沢佐重喜 大屋晋三 山崎猛 石井光次郎 三木武夫 吉野信次 宮沢胤勇 中村三之丞 永野護 重宗雄三 楢橋渡 南好雄 木暮武太夫 斎藤昇 綾部健太郎 松浦周太郎 中村寅太 荒舩清十郎 藤枝泉介 大橋武夫 中曽根康弘 原田憲 橋本登美三郎 丹羽喬四郎 佐々木秀世 新谷寅三郎 徳永正利 江藤智 木村睦男 石田博英 田村元 福永健司 森山欽司 地崎宇三郎 塩川正十郎 小坂徳三郎 長谷川峻 細田吉蔵 山下徳夫 三塚博 橋本龍太郎 石原慎太郎 佐藤信二 山村新治郎 江藤隆美 大野明 村岡兼造 奥田敬和 越智伊平 伊藤茂 二見伸明 亀井静香 平沼赳夫 亀井善之 古賀誠 藤井孝男 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 木村小左衛門 一松定吉 一松定吉 益谷秀次 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 小沢佐重喜 竹山祐太郎 馬場元治 南条徳男 根本龍太郎 遠藤三郎 村上勇 橋本登美三郎 中村梅吉 河野一郎 小山長規 瀬戸山三男 橋本登美三郎 西村英一 保利茂 坪川信三 根本龍太郎 西村英一 木村武雄 金丸信 亀岡高夫 小沢辰男 仮谷忠男 竹下登 中馬辰猪 長谷川四郎 櫻内義雄 渡海元三郎 渡辺栄一 斉藤滋与史 始関伊平 内海英男 水野清 木部佳昭 江藤隆美 天野光晴 越智伊平 小此木彦三郎 野田毅 原田昇左右 綿貫民輔 大塚雄司 山崎拓 中村喜四郎 五十嵐広三 森本晃司 野坂浩賢 森喜朗 中尾栄一 亀井静香 瓦力 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 大野伴睦 緒方竹虎 三好英之 大久保留次郎 正力松太郎 川村松助 鹿島守之助 石井光次郎 山口喜久一郎 村上勇 西川甚五郎 小沢佐重喜 川島正次郎 佐藤栄作 増原惠吉 福田篤泰 前尾繁三郎 二階堂進 木村武雄 野田武夫 西田信一 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 古賀雷四郎 綿貫民輔 粕谷茂 坂元親男 井上吉夫 阿部文男 砂田重民 木部佳昭 谷洋一 伊江朝雄 北修二 上原康助 佐藤守良 小里貞利 小沢潔 高木正明 岡部三郎 稲垣実男 鈴木宗男 井上吉夫 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 西村英一 丹羽兵助 金丸信 天野光晴 田沢吉郎 櫻内義雄 中野四郎 園田清充 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 山崎平八郎 綿貫民輔 奥野誠亮 内海英男 野中英二 石井一 佐藤守良 西田司 東家嘉幸 井上孝 上原康助 左藤恵 小沢潔 池端清一 鈴木和美 伊藤公介 亀井久興 柳澤伯夫 井上吉夫 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 扇千景 石原伸晃 北側一雄 冬柴鐵三 谷垣禎一 中山成彬 金子一義 前原誠司 馬淵澄夫 大畠章宏 前田武志 羽田雄一郎 太田昭宏 石井啓一 赤羽一嘉 斉藤鉄夫 中野洋昌 表 話 編 歴 大木喬任 木戸孝允 西郷従道 寺島宗則 河野敏鎌 福岡孝弟 大木喬任 森有礼 榎本武揚 芳川顕正 大木喬任 河野敏鎌 井上毅 西園寺公望 蜂須賀茂韶 濱尾新 外山正一 尾崎行雄 犬養毅 樺山資紀 松田正久 菊池大麓 児玉源太郎 久保田譲 桂太郎 牧野伸顕 小松原英太郎 長谷場純孝 柴田家門 奥田義人 大岡育造 一木喜徳郎 高田早苗 岡田良平 中橋徳五郎 鎌田栄吉 犬養毅 岡野敬次郎 江木千之 岡田良平 三土忠造 水野錬太郎 勝田主計 小橋一太 田中隆三 鳩山一郎 斎藤実 松田源治 川崎卓吉 潮恵之輔 平生釟三郎 林銑十郎 安井英二 木戸幸一 荒木貞夫 河原田稼吉 松浦鎮次郎 橋田邦彦 東條英機 岡部長景 二宮治重 兒玉秀雄 太田耕造 松村謙三 前田多門 安倍能成 田中耕太郎 高橋誠一郎 森戸辰男 下条康麿 高瀬荘太郎 天野貞祐 岡野清豪 大達茂雄 安藤正純 松村謙三 清瀬一郎 灘尾弘吉 松永東 灘尾弘吉 橋本龍伍 松田竹千代 荒木万寿夫 愛知揆一 中村梅吉 有田喜一 剱木亨弘 灘尾弘吉 坂田道太 高見三郎 稲葉修 奥野誠亮 三原朝雄 永井道雄 海部俊樹 砂田重民 内藤誉三郎 谷垣専一 田中龍夫 小川平二 瀬戸山三男 森喜朗 松永光 藤尾正行 塩川正十郎 中島源太郎 西岡武夫 石橋一弥 保利耕輔 井上裕 鳩山邦夫 森山眞弓 赤松良子 与謝野馨 島村宜伸 奥田幹生 小杉隆 町村信孝 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 町村信孝 遠山敦子 河村建夫 中山成彬 小坂憲次 伊吹文明 渡海紀三朗 鈴木恒夫 塩谷立 川端達夫 高木義明 中川正春 平野博文 田中眞紀子 下村博文 馳浩 松野博一 林芳正 柴山昌彦 萩生田光一 末松信介 永岡桂子 盛山正仁 阿部俊子 省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。 カテゴリ 表 話 編 歴 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 三木武夫 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 中曽根康弘 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 内閣府に編入 表 話 編 歴 柏原義則 淺利三朗 藥師神岩太郎 松本一郎 篠田弘作 西村英一 久野忠治 佐藤虎次郎 内海安吉 徳安實藏 薩摩雄次 西村直己 堀川恭平 羽田武嗣郎 大倉三郎 加藤高藏 二階堂進 福永一臣 丹羽喬四郎 森山欽司 田村元 森下國雄 加藤常太郎 始関伊平 金丸信 亀山孝一 天野光晴 服部安司 木村武雄 天野光晴 渡辺栄一 北側義一 伏木和雄 北側義一 稲村利幸 村田敬次郎 松永光 浜田幸一 保岡興治 瓦力 村岡兼造 中村喜四郎 野呂田芳成 東家嘉幸 中島衛 桜井新 古賀誠 野中広務 鳥居一雄 遠藤和良 二見伸明 市川雄一 二階俊博 遠藤乙彦 平田米男 大口善徳 井上義久 廃止 表 話 編 歴 中村三之丞 佐々木秀世 藤本捨助 森山欽司 園田直 永山忠則 大石武一 山本猛夫 中野四郎 秋田大助 田口長治郎 松沢雄蔵 田中正巳 川野芳満 八田貞義 森田重次郎 倉成正 森山欽司 小沢辰男 田川誠一 野原正勝 大野明 熊谷義雄 橋本龍太郎 木野晴夫 森下元晴 葉梨信行 山下徳夫 唐沢俊二郎 稲村利幸 有馬元治 戸井田三郎 山崎拓 堀内光雄 稲垣実男 津島雄二 丹羽雄哉 畑英次郎 浜田卓二郎 廃止 表 話 編 歴 相馬助治 矢野政男 戸叶里子 船田享二 高瀬伝 船田享二 森山欽司 尾関義一 高塩三郎 戸叶里子 船田中 戸叶里子 高瀬伝 森山欽司 野沢清人 尾関義一 黒沢幸一 船田中 高瀬伝 戸叶里子 森山欽司 船田中 高瀬伝 野沢清人 戸叶里子 大貫大八 高瀬伝 戸叶里子 野沢清人 船田中 船田中 森山欽司 尾関義一 広瀬秀吉 戸叶里子 高瀬伝 船田中 戸叶里子 森山欽司 渡辺美智雄 船田中 広瀬秀吉 渡辺美智雄 森山欽司 戸叶里子 渡辺美智雄 森山欽司 船田中 戸叶里子 広瀬秀吉 船田中 渡辺美智雄 森山欽司 広瀬秀吉 稲葉誠一 渡辺美智雄 森山欽司 船田中 稲葉誠一 広瀬秀吉 渡辺美智雄 船田元 森山欽司 広瀬秀吉 稲葉誠一 渡辺美智雄 船田元 森山欽司 広瀬秀吉 稲葉誠一 渡辺美智雄 船田元 森山欽司 広瀬秀吉 稲葉誠一 渡辺美智雄 船田元 広瀬秀吉 稲葉誠一 森山欽司 小林守 渡辺美智雄 船田元 簗瀬進 安田範 渡辺美智雄 船田元 簗瀬進 小林守 蓮実進 ISNI VIAF 日本 改進党の衆議院議員 日本民主党の衆議院議員 自由民主党の衆議院議員 栃木県選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 在職中に死去した衆議院議員 昭和時代戦後の閣僚 科学技術庁長官 戦前日本の外交官 正三位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 旧制静岡高等学校出身の人物 東京大学出身の人物 東京都立日比谷高等学校出身の人物 東京都区部出身の人物 1917年生 1987年没 宣伝活動の記述のある項目/2014年1月-4月 プロジェクト人物伝項目 2024/11/21 20:28更新
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moriyama kinji
森山欽司と同じ誕生日1月10日生まれ、同じ栃木出身の人
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