佐藤栄作の情報(さとうえいさく) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
佐藤 栄作さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐藤栄作と関係のある人
ヘンリー=キッシンジャー: 佐藤栄作首相の密使として沖縄返還交渉に当たった若泉敬の著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(1994年)によると、キッシンジャーは1969年11月に、「返還後も緊急事態の際に事前通告により沖縄に核兵器の持ち込みおよび通過を認める権利」を要求。 堀田庄三: 安西家は、正田英三郎家から皇室、そして岸信介、佐藤栄作、三木武夫の元内閣総理大臣などに連なる姻戚関係を持つ一族である。 前田佳都男: 自民党では佐藤栄作派(周山会)に属して郡祐一、斎藤昇、徳永正利らとともに参院佐藤派の重鎮として重きをなした。 原田昇左右: 佐藤栄作 中村梅吉: 佐藤栄作 砂田重民: 佐藤栄作 木村禧八郎: 以後も参議院社会党を代表して、政府与党に対する批判者として活躍し、池田勇人内閣では、所得倍増論を、佐藤栄作内閣では、国債発行を批判し、蔵相の福田赳夫と論戦を繰り広げ、田中角栄内閣では、日本列島改造論をインフレーションと公害促進政策だとそれぞれ批判した。 安倍晋三: 同法人は昭和43年(1968年)、自民党の起源となる板垣退助を顕彰する目的で、佐藤栄作が名誉総裁となり創立された組織。 石田和外: 当時の司法大臣が、のち、当人を最高裁長官とするよう佐藤栄作に推薦したとされる木村篤太郎であった。 田中六助: 自民党総裁三選を果たした佐藤栄作首相が池田の後継者・前尾繁三郎に約束した内閣改造を反古にし(背景には佐藤のライバル・三木武夫が111票を取ったことへの不満があった)、これを切っ掛けとして前尾に飽き足りぬ派内からの批判が噴出。 安倍晋太郎: 岳父に元内閣総理大臣の岸 信介、義理の叔父は元内閣総理大臣の佐藤栄作、次男は元内閣総理大臣の安倍晋三である。 天野光晴: 佐藤栄作 始関伊平: 佐藤栄作 足立篤郎: 自民党では佐藤栄作派-田中角栄派に所属。 中村梅吉: 佐藤栄作 斎藤昇: 自由民主党では佐藤栄作派に属し、1961年(昭和36年)7月に第2次池田第1次改造内閣の運輸大臣として初入閣。 西田敏行: また、「沖縄返還で佐藤栄作元首相がノーベル平和賞をもらったけど、日中国交回復をなしとげた角栄さんが受賞してもよかったのに、と僕は思ってます」、「中国のトップレベルの俳優に周恩来役をやってもらって」、「日中国交回復で周恩来と体当たりでマオタイ酒を交わした名場面を演じてみたいのです」、「日中の国交が回復した際の周恩来とのやりとりだけを抽出して2時間ぐらいのドラマにしても面白いななんて思っています」 と度々述べている。 坂田道太: また翌1969年1月には、東大安田講堂事件直後の東京大学を視察する佐藤栄作首相に同行した。 石原幹市郎: 60年安保闘争時に石原は、柏村信雄警察庁長官と小倉謙警視総監と共に、緊急臨時閣議において警察の限界を認めて「警備力に限界がある」「警備に自信が持てない」と発言し、治安閣僚懇談会で佐藤栄作、池田勇人らが赤城宗徳防衛庁長官に自衛隊の治安出動を要求する事態になった。 由比忠之進: 1967年(昭和42年)11月11日、世界に先駆けてアメリカの北爆支持を表明した佐藤栄作首相の訪米と沖縄返還、小笠原諸島返還問題に対する弱腰な態度への抗議行動として、首相官邸前でガソリンをかぶって焼身自殺を図る。その際に携えていた佐藤栄作宛の抗議書には、「ベトナム民衆の困窮を救う道は、北爆を米国がまず無条件に停止するほかはない。 青島幸男: 首相の佐藤栄作を「もし理想的な政治資金規正法がつくられまして、これが厳密に運用されたら、自民党政府の存立はあり得ないでしょう。 中曽根康弘: 佐藤栄作政権下では運輸大臣や防衛庁長官、党総務会長などを歴任。 稲村左近四郎: 佐藤栄作 安倍晋太郎: 同秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていたが、岸や岸の実弟の佐藤栄作から時期尚早と反対された。 熊谷太三郎: 佐藤栄作 松野頼三: 自民党では佐藤栄作派に所属し田中角栄、保利茂、愛知揆一、橋本登美三郎とともに「佐藤派五奉行」の一人に数えられる。 水田三喜男: 佐藤栄作夫人の佐藤寛子は水田の追悼集で「大蔵大臣といえば、戦前は高橋是清、戦後は水田三喜男」と評している。 魁傑將晃: 同郷である元首相の佐藤栄作が、現役時代の後援会長を務め、結婚時の仲人は佐藤の義理甥である安倍晋太郎が務めた。 安倍晋三: 2019年11月20日、首相通算在職日数が2887日となり、それまで最長だった桂太郎(2886日)を抜き歴代最長となり、さらに2020年8月24日、連続在職日数が2799日となり、それまで最長だった大叔父の佐藤栄作(2798日)を抜き歴代最長となった。 野田武夫: 佐藤栄作 |
佐藤栄作の情報まとめ
佐藤 栄作(さとう えいさく)さんの誕生日は1901年3月27日です。山口出身の政治家のようです。
卒業、現在、兄弟、結婚、引退、病気、事件、テレビ、家族、解散、父親、姉妹、ドラマ、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1975年に亡くなられているようです。
佐藤栄作のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐藤 栄作(さとう えいさく、旧字体:佐藤 榮作、1901年〈明治34年〉3月27日 - 1975年〈昭和50年〉6月3日)は、日本の官僚、政治家。 東京帝国大学卒業後、鉄道省に勤務した。 鉄道総局の長官などを歴任し、運輸省の次官を最後に退官すると、非議員ながら第2次吉田内閣の内閣官房長官に任命された。 その後、第24回衆議院議員総選挙にて衆議院議員に当選。民主自由党を経て自由党に参加し、一年生議員ながら自由党の幹事長に就任した。 一時無所属となるも、自由民主党に入党した。その後、内閣総理大臣を3期務めた。首相在任期間は歴代3位で、連続在任期間は歴代2位の2,798日、昭和時代においては最長の長期政権である。20世紀生まれ初の首相であり、自由民主党史上唯一4選された総裁でもある。また、第56・57代内閣総理大臣岸信介の実弟にあたる。なお、ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。位階は従一位。勲等は大勲位。 山口県熊毛郡田布施村(現在の田布施町)に酒造業を営む佐藤秀助・茂世(もよ)夫妻の三男として生まれた。父・秀助は山口県庁に奉職したが、1898年ごろ勤めを辞め、酒造業を始めた。佐藤家には酒造の権利が昔からあった。その権利は一時他家に貸していたが、母・茂世が分家するにあたって酒造の権利を取り戻して茂世に与えられたものだった。秀助・茂世夫妻は、本家のある田布施町上田布施中西田縫のすぐそばの岸田で酒造りに従事した。 地元の人たちは佐藤家の市郎・信介・栄作の兄弟について「頭は上から、度胸は下から」と評している。 1907年小学校に入学した。小学校のころのあだ名は肌の色が黒かったため「ごぼう」。佐藤家の坊ちゃんとして一目おかれる存在で「栄だんさま」(旦那の意)とよばれた。小鳥を追ったり、鰻とりをしたりと、自然児だった。夏は家の側の小川で、真っ黒になって泳いだ。また、村人が佐藤家の者と道で会うと「お許しなさいませ」とあいさつし、佐藤家の子が川で水遊びをしていると無礼のないように避けて通ったという話もある。 高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に池田勇人と同じ宿に泊まり合わせた。池田は広島の忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日、5人は酒を飲み大騒ぎして別れた。試験には合格したが、失敗したら南米へ行こうと思っていたという。 東京から電報で「五高入学おめでとう」と知らせてくれたのは親戚でもある松岡洋右だった。田布施の役場に官報が届くのを待って確かめた。山口中学の同級生も合格し、池田勇人の名もあった。池田は一部乙類で文科、佐藤は一部丙類でドイツ法である。 1921年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学。大学時代の佐藤は真面目によく勉強するおとなしい学生だった。 1923年12月、高等文官試験(行政)合格。口述試験はあっさりしたものだった。試験官が「あなたは一通りは本を読みましたか?」と聞く。「はい、受験のため一通り読みました」、「よろしい、それで結構です」という。佐藤は思わず試験官の顔を見たが試験官は「もう何も聞くことはありません、お帰りください」というだけである。こんな簡単な口述試験で終わるのは、筆記試験の方がよほど悪く、初めから見込みがなかったのだと、涙が出る思いで歩いて帰ったと、後日佐藤は語っている。 1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。 兄の岸からは同じ農商務省への入省を勧められたが、特に役人を志望していたわけではなく、秀才で鳴らした兄と比較されるのも気が進まなかった。当時、満鉄の理事をしていた親戚の松岡洋右が日本郵船への就職を勧め、松岡は社長の伊東米治郎に頼んでいたため採用される予定だったが、会社の都合で採用取り消しになった。そこで浅野セメント(現・太平洋セメント)への就職が決まりかかっていたが、高文にも合格していたため、鉄道省にも願書を出した。鉄道省へは松岡が鉄道大臣の小松謙次郎に頼んでいたため順調に採用された。 のちに佐藤は二転三転した就職の経緯について、「人間の運命は奇妙なもので、あのとき日本郵船に入っていたら、海運不況で苦しい思いもしたろうし、戦争中には郵船の船は全部沈められたので、海の藻屑と消えたかもしれない。同じ輸送の商売でも鉄道に入ったので、仕事も順調だったし、戦争にも行かなかった。セメント会社に入ったら、大金持ちになっていたろうか」と述懐している。 1924年5月、鉄道省に入省(門司駅助役)。同期に柏原兵太郎など。主に鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。 1926年、佐藤家本家当主の叔父・佐藤松介の遺児で、かねてからの許嫁であった従妹の寛子と結婚し、佐藤家本家の婿養子となった。 10年に及ぶ門司鉄道局管内での勤務を終え、1934年から2年間、在外研究員として海外留学。1年目は米国、2年目は欧州に滞在した。研究題目は「欧米における運輸について」。ニューヨークとロンドンを拠点にしながら、米国各地のほか、カナダ、メキシコ、英国、スイス、ドイツ、フランス、イタリアなど幅広く視察している。 1940年、鉄道省監督局総務課長、翌年、監督局長となり、全国の鉄道・バス会社の整理統合の政策的促進を図るため陸上交通事業調整法の立法、陸運統制令などによる運用に腐心した。当時、早川徳次と五島慶太により東京地下鉄道(現・東京地下鉄)経営権争奪戦が展開されていたが、政府は1941年に同法に基づく帝都高速度交通営団(営団地下鉄)を成立させ、これを調停した。このとき栄作は、「私鉄二社の無駄な競争をやめさせ、営団に一本化すべき」との主張からこれを主導した。 1944年4月、大阪鉄道局長となる。大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。業務上の立場から陸軍高官と対立したためとする説がある。長男・龍太郎は「親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら、鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。親父はああいう性格なので、官僚的に事務処理をする。五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…」と述べている。 1945年3月13 - 14日の大阪大空襲の際、3月13日朝に大阪市電気局(のちの大阪市交通局)局長に対し「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話で警戒を促した。 左遷されていたことが幸いして、岸が遭った公職追放からは免れることができた。 1947年運輸次官に就任、同年社会党首班政権の片山内閣が誕生した際、西尾末広に内閣官房次長に起用される案があったが、辞退している。1948年退官し、民主自由党に入党した。 遠縁に当たる吉田茂とは早くから親交があり、1948年第2次吉田内閣で非議員ながら内閣官房長官として入閣。池田勇人とともに「吉田学校」の代表格となる。翌1949年、総選挙に当選してキャリアを重ねるも、自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚して逮捕寸前になった際に、法務大臣・犬養健に指揮権の発動をさせようとしたが、犬養は動かず、吉田に犬養を罷免させ、新法相に指揮権を発動させようとした。結局、犬養が指揮権発動したことにより逮捕を免れた。その後、政治資金規正法違反で在宅起訴されるが、「国連加盟恩赦」で免訴となる。 保守合同による自由民主党結成では、自民党参加を拒否した吉田に橋本登美三郎とともに従った。鳩山一郎引退後の1957年2月、自民党へ入党。兄の岸信介の片腕として党総務会長に就任、政務調査会長・三木武夫とともに岸政権を支えた。続く池田内閣でも要職を務めたが、池田の高度成長路線に批判的な立場を取り、その歪みを是正すべく、「社会開発」「安定成長」「人間尊重」といったスローガンのもと、ブレーンらとともに自らの政権構想を練り上げていった。 大蔵大臣を務めていたときには共産主義と戦うため、日本共産党、日本労働組合総評議会の高野実派、日本教職員組合などに対抗し、実業界、財界トップからなる非政府グループを設立するなどした。しかし、資金面で非常に難しいとダグラス・マッカーサー2世大使と協議を交わし、東京グランドホテルでS.S. カーペンター大使館一等書記官にアメリカからの財政援助を願い出、資金工作の受取人としては当時自民党幹事長だった川島正次郎を挙げた。 吉田学校の盟友である佐藤と池田であったが、先述のように、池田政権の特に後半期においては政権に批判的な立場を取っていた。逆に河野一郎、大野伴睦といった党人派が池田政権を支える形となっており、特に河野は池田と密接で、河野は池田からの将来の禅譲に期待を寄せていた。佐藤は後ろ盾の吉田の後押しを受け、池田の3選断念を迫ったが、池田は容れなかった。 1964年7月、佐藤は池田の3選阻止を掲げ自由民主党総裁選挙に出馬した。池田、佐藤に藤山愛一郎を加えた三つ巴選挙戦は熾烈を極め、各陣営からは一本釣りの現金が飛び交い、「ニッカ、サントリー、オールドパー」という隠語が流布するまでとなったが、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した。佐藤は藤山との2位・3位連合による逆転勝利に自信を持っていたため敗北には落胆し、「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、総裁選挙から3ヶ月後、病に倒れた池田の退陣に伴い、実力者による党内調整会談を経て11月9日の池田裁定により後継者に指名された。後継指名を巡っては、池田は河野への思いも強かったとされるが、財界や吉田茂、岸信介らは河野に強く反発していた。同日の自由民主党両院議員総会で首班指名候補として承認された後、同日召集の第47回国会での首班指名を経て内閣総理大臣に就任した。但し手続きの関係から佐藤が第5代自由民主党総裁に就任したのは12月1日であった。 総裁公選のすぐあとに当選者が病気退陣することとなり、惜敗していた次点の候補者がその後継者に選ばれるという過程は、奇しくも兄・岸信介の総理総裁の就任の仕方と同じとなった。当時佐藤派の幹部であった田中角栄は後にこれについて、「たいていの代議士(議員)は、努力や勉強さえすれば大臣や幹事長にはなることができる。だが、総理・総裁はそういうわけでなれるものではない。あくまで運だな」と語っている。 首相就任後、翌年までの短期間に、池田政権が積み残していたILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准、農地報償法案、日韓基本条約批准などを、野党の激しい抵抗を押し切って強行採決した。 そして1965年8月19日、那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還への意志を明確に表明した。1965年1月のジョンソン会談に向けて沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて呆れられたとの逸話も残るが、結果的に在任中に返還を実現させた。 なお、交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議のうえで認める密約を結んだことが、1994年に交渉の密使を務めた若泉敬により公表された(日米核持ち込み問題)。後にアメリカでも別の外交文書から合意の存在が確認されたが、佐藤の遺品にこの合意議事録が含まれ、2009年12月に遺族が保管していたことが報道された。なお、この密約を公開したとして毎日新聞社で記者を務めていた西山太吉が国家公務員法違反で有罪となった西山事件が起きている。 日米首脳会談で沖縄返還に合意したの3日後の1969年11月24日付のリチャード・ニクソンからキッシンジャーに宛てたメモによると、「大変満足できる内容の秘密合意を日本と結んだ」「佐藤栄作との約束に背かない範囲で」「外部に漏れたら密約の存在は否定する」日本政府から秘密裏に「沖縄の基地使用に関する際保証」を得ている事を上院の民主党の有力議員2人に伝えるように指示した事が機密解除され分かり、「核抜き本土並み」の返還のはずが骨抜きにされていたことをニクソン自身が明らかにしていた。 また、1967年12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。 その一方で、1964年10月16日に中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、直後の1965年1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定したうえで、日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが公開された外交文書から明らかとなっている。また、翌13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカがただちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えている。 他に祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定を始めとした公害対策、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決、内閣総理大臣顕彰制定などを行った。 政権は「黒い霧事件」に見られるような数々のスキャンダルに見舞われ、「待ちの佐藤」と呼ばれた手堅く無難な選択を行う「守り」の政治スタイルも国民受けする華やかなものではなく、在任中の支持率は決して高くなかったが、5度の国政選挙と3度の総裁選を乗り越え、日本政治史にもまれな長期連続政権となった。 この背景には、何といっても好調な経済が第一に挙げられる。佐藤政権期、世は高度経済成長に邁進し続け、「昭和元禄」(福田赳夫が命名)を謳歌していた。かつて池田の経済優先の姿勢を批判し続けた佐藤だが、就任直後の証券不況を乗り越えて以降は空前の好景気となり(いざなぎ景気)、皮肉にも池田時代以上に経済は拡大した。 さらに自民党内での佐藤の政敵が相次いで世を去ったという事情がある。同じ吉田門下の池田勇人が病に倒れたことによって佐藤は政権の座についたが、その池田はまもなく病没(1965年8月)。大野伴睦(1964年5月没)、河野一郎(1965年7月没)といった党人派のライバルも、佐藤の首相就任前後に相次いで他界した。特に直前の内閣改造を巡って関係が悪化し、閣外に去っていた実力者、河野は有力な非主流派となり得ただけに、その死は極めて大きかった。 このように、佐藤にとって政敵不在の中、派閥横断的に将来の総理総裁候補、特に田中角栄、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、鈴木善幸、宮澤喜一、竹下登たちを政府・党の要職につけて競わせ育成し、「人事の佐藤」と呼ばれる人心掌握術で政権の求心力を維持し続けた。また、情報収集能力が高く「早耳の佐藤」と呼ばれた。 また、当選回数による年功序列や政治家の世襲といった、その後の自民党を特徴づけるシステムが確立したのも佐藤政権である。議会運営においても、国対政治と批判された、金銭や「足して二で割る」妥協案などによる野党懐柔がこのころに定着したとされ、それまで政権交代に意欲を見せていた日本社会党の党勢を削ぐ上でも大きな役割を果たした。他方で、参議院自民党の実力者であった重宗雄三と協力関係を結んで政権基盤を確立しながら、田中角栄や園田直らに強行採決を自ら指示することもあり、日韓基本条約、大学措置法、沖縄返還協定など与野党の対立が激しい懸案を、牛歩戦術や議事妨害で抵抗する野党に対し徹夜や抜き打ちなどで強引に採決し、時にはこれに抵抗する衆議院議長を更迭するなど、硬軟織り交ぜた国会運営を行った。 こうして、好調な経済と安定した党内基盤、そして野党の脆弱さを背景に、国政選挙で安定多数を維持し続け、自民党の黄金時代を体現した。他方で、当初、佐藤が意図していたような経済成長の副作用の是正や、社会資本整備といった課題は先送りされた面は否めず、沖縄問題にエネルギーを集中せざるを得なかった任期後半にかけては、公害問題や対中外交などで後手に回って批判を浴び、苦慮することが多かった。こうした佐藤長期政権への不満は、たとえば自民党の得票率が漸減の傾向にあったことや、全国各地で革新首長が誕生したことなどからも読み取れるが、保守政治の動揺が国政の場で顕在化するのは、ポスト佐藤の保革伯仲時代になってからである。 石原慎太郎は戦後最強の内閣に佐藤内閣を挙げている。「忘れてならないのは、敗戦で喪った小笠原と沖縄という領土を返還させた功績は歴代内閣で比類がない。強いからこそ長くやれるということもあるけど、あの人は物凄い二枚舌だったね、核の問題に関して。『持たず、つくらず、持ち込ませず』の非核三原則を言うから、僕は参議院であの人に楯突いたことがあるの。ところが彼はその裏で、実は若泉敬を使って、アメリカと核持ち込みの密約をむすんでいた。しかもそのとき、片一方で(西)ドイツと組んで核保有の議論をやろうとしていたんだ。凄いよ。岸さんも立派だったけれど、佐藤さんは寡黙なだけに凄味があったね。佐藤栄作は、見事な二枚舌を使って国家の大計を考えたんだ。日本人が核アレルギーというセンチメントで右往左往としているあの時代にね」 と述べている。 昭和43年(1968年)、明治維新百年の記念事業が全国的に高まりをみせるなか、自民党の起源を顕彰する意義から「板垣退助先生顕彰会」を設立 。自ら揮毫して京都・御香宮に『明治維新・伏見の戦跡碑』を建立したほか、東京・品川の板垣退助墓前に『板垣退助先生顕彰碑』を建立した。 1970年の自民党総裁4選については、自民党内部に政権の長期化を懸念し、勇退による意中の福田赳夫への禅譲論の声もあった。しかし、次期総裁を狙いつつ佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に“福田嫌い”から袂を分かった副総裁・川島正次郎の思惑などが合致し、川島・橋本登美三郎らは、総理引退を考えていた佐藤に4選すべきだと持ちかけ、強力に佐藤4選運動を展開した。そして、佐藤は「沖縄返還の筋道をつけること」を大義名分に、三木武夫を破り自民党総裁4選を果たした。4選直後の党大会において浜田幸一が「昨日まで我々は佐藤政権を支持してきた、しかし今日からは違う」と発言したことが語り草になっている。 また外交では、ベトナム戦争における北爆を支持したため左翼団体から猛反発を浴び、1967年11月には官邸前での焼身自殺事件までも引き起こされた。国際連合では、中華人民共和国の加盟と国連安保理常任理事国入りは賛成しつつ、中華民国(台湾)の議席追放には反対する「二重代表制決議案」と「重要問題決議案」を米国とともに共同提案 し、外務大臣・福田赳夫とともにアルバニア決議に反対したことから、野党や台湾との断交も厭わない自民党内の親中派からも反発を招き、1971年には福田赳夫の不信任決議案に、河野洋平、田川誠一ら親中派若手議員の一部が欠席している。しかし、アルバニア決議が可決されたことで、1972年1月の施政方針演説では「中国は一つであるという認識のもとに、今後中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である」として、中華人民共和国との国交正常化を目指す意向を示した。密使を香港に派遣して周恩来に親書を送り、北京訪問の希望も伝えていた。なお、アルバニア決議が採択された際に「佐藤派の大番頭」と称された保利茂自由民主党幹事長は、訪中する美濃部亮吉東京都知事に書簡を託すも、周恩来は決議に反対していた佐藤政権への不信感から退けていた。 また、4選以降は、佐藤自身が次は立候補しないことを米国からの帰途、早々と言明してしまったため、「ポスト佐藤」をめぐっての後継争いが早くから激化した。ニクソン・ショック(1971年7月15日および8月15日)や沖縄密約事件(1972年(昭和47年)3月27日)が相次いだことや、日米繊維交渉のこじれ、統一地方選挙における革新陣営の台頭などで佐藤政権の求心力は弱まっていった。佐藤が当初意図していた福田へのスムーズな政権移譲は不可能な状況となり、逆に、佐藤派の大番頭だった田中が派の大部分を掌握して分派、田中派を結成し(1972年5月)、また通産相として、長年の懸案であった日米繊維交渉を強引にまとめ上げる(1971年10月)などして急速に地歩を築いた。この間、佐藤自身が田中・福田の争いの調停に乗り出すこともなく、また退陣時期を先延ばしにしたことなども、田中の台頭に拍車をかけた。佐藤は6月16日、国鉄運賃値上げ法案と健康保険法改正案が参議院で廃案となったとき、初めて辞職を決意する。周囲には「大事な案件が自分の力で処理できなかったときこそ、やめるべきものさ。政治家とはそういうもんだ」と語ったという。佐藤の自民党総裁の任期は、この年の10月まであり、仮に10月3日まで在職となれば、桂太郎の通算在職日数(2886日)を超え、当時として、連続・通算の両方で在職1位を記録できた。総裁公選は田中が宿敵の福田を破って勝利した(1972年7月5日)。佐藤政権は、田中を首班とする内閣に政権を引き渡すべく、同年7月6日に内閣総辞職し、予定通り沖縄返還を花道として、7年8か月にわたる長期政権を終えた。 1972年の第68回通常国会が閉幕した翌日の6月17日の退陣表明記者会見を行った。冒頭、佐藤は「テレビカメラはどこかね? テレビカメラ……。どこにNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱり言ってくれないかな。今日はそういう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。違うんですよ、僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると(真意が)違うからね。残念ながら…、そこで新聞を、さっきもいったように偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。(記者は)帰って下さい」と発言。最初は冗談かと思った記者たちより笑い声もあったが、佐藤はそのまま総理室に引き上げてしまった。 その後、内閣官房長官として同席していた竹下登の説得で、佐藤は再び会見室に戻った。何事もなかったように佐藤が「そこで国民の皆さんにきょう……」と話し始めたのを反発した新聞記者が遮り、「総理、それより前に……。先ほどの新聞批判を内閣記者会として絶対に許せない」と抗議した。佐藤はテーブルを叩いて「出てください。構わないですよ」と言い放ち、これに対して抗議した記者は「それでは出ましょう」と応じた。毎日新聞の岸井成格が「出よう出よう!」と他の新聞記者達に呼びかけ、記者全員が退席した。 その日の朝日新聞夕刊は、事の顛末を「…ガランとした首相官邸の会見室で、首相はモノいわぬ機械(テレビカメラ)に向かって一人でしゃべっていた」と突き放すように締めくくった。全国紙が時の首相を「一人でしゃべっていた」などと書くのは前代未聞の出来事だった。 なお竹下によると、佐藤はあらかじめ記者クラブの了解をとってテレビのみの会見を設定しようとして、秘書官を通じて記者クラブ幹部に話をつけていた。しかしそこで行き違いがあり、記者クラブ側としては、佐藤がテレビに向かって独演することは了承したが、記者が会見の席に出られないという意味では受け取っていなかったため、最後の見送りという意味も含めて陪席することとした。そのため当日の席でまず佐藤が話が違うといって怒り、それに対して見送りのつもりで来ていた記者らも腹を立てて退席することとなったという。劇団四季創設者として知られる浅利慶太は佐藤に「退陣会見では、一度だけテレビを通じて国民に語りかけられてはどうか」と進言していたことを著書『時の光の中で』の中で明かし、この顛末の責任は佐藤にはなく「50パーセントは私、残りの50パーセントは当時の竹下登官房長官」としている。 また、佐藤はこの会見の中で「中共、中共と草木もなびくが、自分はそうは思わない」と述べて中華民国との関係継続を訴えた。 1974年晩秋、田中金脈問題が騒がれ始めるなか、佐藤は非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて受賞した(受賞に関する詳細は後述)。賞金は「国際連合の下に設立された国連大学の発展に協力するなど、世界の平和と福祉の向上に資すること」を目的として佐藤栄作記念国連大学協賛財団に寄附され、国連大学の行う世界的課題の研究のうち、業績顕著なる者への褒賞として佐藤栄作賞が制定されている。 1975年5月19日、築地の料亭「新喜楽」で、政財界人らとの宴席での最中にトイレに行こうとして立ち上がったところで崩れるように横倒しとなり、すぐいびきをかき始めたという。すぐ駆けつけた主治医の東京慈恵医大教授や虎の門病院名誉顧問の医師らが絶対安静を求めた。家族も誰も病院に運ぼうとしなかった。倒れた原因は脳溢血。寛子夫人の強い意向で4日間「新喜楽」で容態を見たあと、港区の東京慈恵会医科大学附属病院に移送されたが一度も覚醒することなく昏睡を続けたのち、6月3日に死去、74歳。 6月16日、日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」が行われた。葬儀委員長は当時首相だった三木武夫、副委員長は福田赳夫。遺族代表は兄・岸信介だった。 浄土真宗本願寺派第23世門主・勝如より法名「作願院釋和栄」を受け、また山口県田布施町にある佐藤家菩提寺の浄土真宗本願寺派帯江山真光寺 より「周山院殿作徳繁栄大居士」の戒名も受けている。墓所は東京都杉並区永福の築地本願寺和田堀廟所と、郷里の山口県田布施町にある。 1996年から1997年に、倒れる前日まで記していた『佐藤栄作日記』(全6巻、伊藤隆監修、朝日新聞社)が刊行された(佐藤自身は、朝日新聞を同紙の編集方針から毛嫌いしていた)。 2019年8月23日、自身の大甥である安倍晋三が内閣総理大臣在任通算2798日となり自身の記録と並び戦後最長となる。 2020年8月24日、自身の大甥である安倍晋三が内閣総理大臣連続在職日数が2799日となり自身の記録を抜き歴代最長となる。さらに安倍は2期目であり1期と合わせると通算在任期間が去年の11月20日に歴代最長となっている(最終的に3188日在任)。 彫りの深い顔立ちで、くりくりとした大きな目が特徴的だった。口数の少ない佐藤が見開いた目で睨みつけると、誰もが戦慄を禁じ得なかったという。「ギョロ目の睨み」といえば歌舞伎の世界では「市川團十郎」の代名詞だが、特に59年ぶりに十一代目市川團十郎の襲名となった1962年(昭和37年)は團十郎ブームに湧いていた。佐藤もその恩恵を受けて、ついたあだ名が「政界の團十郎」。当時警察官僚として面識があった佐々淳行も著書で「團十郎ばりの巨眼で(佐藤に)睨みつけられたという秘書官がいた」と記している。 癇癪持ちで、じっと我慢するのは苦手だったという。発話がドモリぎみということもあり、腹を立てると口より先に手が出ることが多かった。手が早いといっても殴ることは少なく、テーブルをたたいて怒りの言葉を発したという。寛子夫人が週刊誌の対談で「私は若いころ主人に殴られたことがある」と漏らしたことから、訪米の際、米誌に「ワイフ・ビーター(妻を殴る男)」として紹介されたことがある。 自分より目下の者にはそれなりの礼節を求めた。東宮侍従が予算の陳情で首相に面会を求め、皇太子の御用をかさに高圧的な態度で発言したときは、「無礼じゃないか!おれは総理大臣だぞ」と怒鳴りつけた。 短気な一面については、長男の佐藤龍太郎が父・栄作について「『待ちの政治家』と言われましたが本来は短気なんです。我慢強くなったのは政治家になってからのことで、僕らの知っている父は短気なところが恐ろしかった。カーッとなるとお膳をひっくり返す。おふくろの鏡台を叩き割る。買ったばかりの火鉢を庭に放り投げて壊してしまう。幼いころからそんな光景をよくみました...」と述べている。 首相に昇りつめてからも短気な性格が時として頭をもたげた。1972年(昭和47年)に久野忠治が北朝鮮を訪問する際、佐藤と口論になり「除名する」と告げられ、久野が理路整然と総裁の恣意で党を除名させることはできないことを指摘すると、テーブルを引っくり返しながら「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ、ドアを蹴飛ばして出ていったという。 三木武吉は岸信介に対し「佐藤とキミは兄弟だと言うけれどちがうなぁ。キミの弟ではあるが、なかなかたいした奴だ。気に食わんとなると寝転びやがって口をきかないんだ。キミは、とにかく反対なら反対のようにちゃんと言うてくれるからいい。けれどもあいつは、いざとなるとゴロッと寝ちゃって何も口をきかない」と呆れたように言ったという。 石原慎太郎は、達筆で話がうまく、人を集める魅力を持つ兄の岸を、佐藤が「羨んでいる節があるように思えた」と述べている。 また、田中龍夫(田中義一の長男)は、「岸さんと佐藤さんはえらく違うよ。佐藤さんは情報をよくとるし、八方心くばりをしていて、コワい感じがした。話していても秋霜烈日として、ひとこと間違うとビンタがとんでくるのではないかと思うほどだ。ところが岸さんとなると話していても実になごやかで楽しくなるね」と述べている。 中曽根康弘は、岸・佐藤兄弟は2人とも武士の風格を持ち、宰相学を身につけていたと高く評価していた。また、岸を「直入正直型の長州人」、佐藤を「狡いズルシャモ型長州人」と評した。 岸信介は総理大臣在任中にノーベル平和賞候補者になり、歴代総理大臣で初のノーベル平和賞候補者であった。 無愛想な反面、面倒見のいいところもあり、竹下登の述懐によれば、鉄道官僚時代には敵対していた国鉄労組OBの引退後の生活を心配し、折に触れては何くれとなく世話を焼いていたという。人並み以上の義侠心や涙もろさ、あるいは義理人情の厚さといった日本的美徳の持ち主だが、公式の政治の舞台でこれらが表にでることはなかった。そうした感情を表に出さずに仮面を被り続けた佐藤は、『栄ちゃんのバラード』という反戦フォークソングから柳家つばめの『佐藤栄作の正体』に至るまで格好の標的であり続けたが、これに対して寛容な態度をとれない不器用な人物でもあった。 聞き上手な面があり、人の話によく耳を傾けた。学者や財界人、女性評論家といったグループとは首相就任後も定期的に会合を持ち、そこに信頼する閣僚や党幹部が加わることも多かった。自らはほとんど酒を飲まないにもかかわらず、夜の宴席には頻繁に顔を出し、情報や知識の吸収に務めていた。 『佐藤栄作日記』では、総理在任中も政治家や官僚に対する好悪の情をはっきり書いており、好き嫌いの激しい人間だったことが窺い知れる。宏池会のホープでは宮沢喜一を好み、大平正芳のことは好かなかった。一方、政敵・河野一郎の葬儀の帰途、車内で夫人や側近に「これで悪いやつは全部死んだ」と発言したとされ、冷酷な一面を覗かせた(河野の死去当日の日記では、「気の毒、遺憾なり」としながらも「梟雄去るの感なり」と記述されている)。また、ある時期まで反佐藤の急先鋒だった中曽根康弘には比較的好意的だった。 なお、首相退任後、昭和天皇と香淳皇后との金婚式の際に昭和天皇が事前に断っていたにもかかわらず、黒松の盆栽を持ってきたため昭和天皇を困惑させたことがある(皇室経済法によって、皇室財産の譲渡および取得は国会の議決が必要なため、昭和天皇は外国元首からの儀礼的なプレゼント以外は受け取らない方針をとっていた)。結局、宮内庁長官・宇佐美毅との協議の結果、この盆栽は佐藤に返すことになった。このほかにも、佐藤は香淳皇后に反物を献上しようとしたが、昭和天皇から断られている。昭和天皇は「佐藤は何を考えているんだろうね」と困惑していたという。昭和天皇は佐藤政権を引き継いでいた当時の田中内閣に対し、「高価な贈り物は持ってこないように」と異例の申し入れを行っている。 退任の記者会見における騒動にも代表されるように、佐藤は新聞や雑誌などの活字報道を一貫して嫌っていたことで知られるが、その始まりは第2次吉田内閣で内閣官房長官に抜擢された際に、当時はまだ非議員で政界に不慣れな佐藤を新聞各社の社説が酷評したことにさかのぼる。佐藤が特に嫌悪していたのが朝日新聞で、首相の見解や政府の方針などあげた記事や社説が、実際に自身や政府が意図するものとは異なったものになっているときには激しく怒り散らした。 佐藤の朝日嫌いは自身の日記に成田デモ事件への報道に関連して「何としても朝日征伐にかからねばなるまい」と書きなぐるほど徹底したものだったが、佐藤の死後にその日記をまとめて『佐藤栄作日記』全六巻を刊行したのは、皮肉なことにその朝日新聞社にほかならなかった。 また、佐藤は毎日新聞にも好意を持っておらず、毎日新聞社傘下で大阪のテレビ局の毎日放送(現:MBSメディアホールディングス)が東京のテレビ局で当時経営危機に陥っていた東京12チャンネル(現:テレビ東京)を買収して、「東京毎日放送」に商号変更し、新テレビネットワークを構築しようと計画していたのに反対し、東京12チャンネルは日本経済新聞または東京新聞(の発行元である中日新聞)が引き受けるべきと郵政事務次官の浅野賢澄(後のフジテレビ会長)を通して、毎日放送社長の高橋信三に伝達。結局、毎日放送は東京12チャンネルの買収を諦め、佐藤が候補として挙げていた日本経済新聞社が東京12チャンネルを引き受けることで決着した。 1964年、大野伴睦を偲ぶ会に出席し「“伴ちゃん”、“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい、私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」と述べた。 1968年12月16日(月曜日)参議院予算委員会において、山田勇(横山ノック)との間に以下のやり取りが記録されている(議事録より一部表記を改編)。 「内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる」 「参議院を制する者は政界を制する」 「テレビはどうした? テレビはどこにいる!」(退陣表明をした記者会見の最初の発言。早い時期からテレビ報道が国民に与えるインパクトの強さを認識しており、テレビ映りに配慮していた) 1969年(昭和44年)11月16日(日曜日)、訪米前日、学生らによる佐藤首相訪米阻止闘争デモが吹き荒れる中、吉田茂の墓を訪れ長い間祈りをささげていた姿が報道されている。 1971年(昭和46年)10月19日(火曜日)の夜半、総理私邸内に若い男の刺客が侵入したが、難を逃れた。 長野県軽井沢に別荘を所有し(現存。個人所有のため非公開)、多くの政財界人や芸能人をこの別荘に招待している。中曽根康弘は、首相として初めての夏休みを、佐藤の別荘を借りて過ごし、その後至近距離に別荘を新築している。佐藤の死後は、大平正芳が寛子未亡人から頼まれてこの別荘を借り受けた。鈴木善幸も首相在任中、佐藤の別荘を借りていた。また橋本龍太郎の別荘とは隣同士。ちなみに鎌倉では、佐藤は旧前田利為別荘(現・鎌倉文学館)を1964年から11年にわたり借りて休暇を過ごしていた。 劇団東京ヴォードヴィルショーの主宰者で俳優の佐藤B作は、自らの芸名を佐藤栄作にちなんで決めたという(両者に血縁・縁戚関係はもちろんない)。1995年、アフリカのガンビア共和国からノーベル平和賞の受賞者として佐藤栄作を描いた記念切手が発行されたが、その切手には誤って「Bisaku Sato」と表記されていた。 竹下登の孫で漫画家の影木栄貴(内藤栄子)の本名は佐藤栄作と田中角栄にちなみ、祖父の竹下が命名した。 新東京国際空港(現・成田国際空港)の反対運動(三里塚闘争)を題材にしたフィクション漫画『ぼくの村の話』(尾瀬あきら作)では、「加藤」首相として描かれている。 「政界の団十郎」「早耳の栄作」の別名を持つ。 「人事の佐藤」と評された(連続在任記録及び戦後最長在任記録は大甥の安倍晋三が更新)。 2024年(令和6年)10月に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が受賞するまで、日本では唯一のノーベル平和賞受賞者であった。なお、被団協は団体であるため、個人としては同年時点でも唯一の受賞者である。 1974年のノーベル平和賞受賞は、上記の通り非核三原則の制定などが評価されてのものであった。この受賞には国連大使だった加瀬俊一によるロビー活動が寄与したといわれており、佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表している。元外交官で自民党の元参議院議員鹿島守之助(鹿島建設会長)もこの受賞工作に関与した。日本では、前年に平和賞を受賞したキッシンジャーの推薦があったのではないかとの説を唱える者もいたが、50年経って公表された資料には元米政府高官等の名はなかった。 実際には平和賞を選考するノルウェーのノーベル平和賞委員会は、2001年に刊行した記念誌『ノーベル賞 平和への100年』の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で、米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。のちに公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。この記念誌はノルウェーの歴史家3名による共同執筆で、同年8月の出版記念会見の際にその1人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と見解を述べて当時の選考を強く批判し、「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」と語ったという。 この報道に対して次男の佐藤信二は「受賞当時は一部から抗議を受けたが、それは誤解で父は真の平和主義者だった。非核三原則を打ち出したのは佐藤内閣であり、受賞はその点を評価された。父は受賞したとき『佐藤個人ではなく、国がもらったものだ』と語っている」とコメントした。ただし上記の通り、2009年(平成21年)に、沖縄への核持ち込みに関する密約の合意文書が佐藤家に保管されていたことが明らかになった。さらに、2010年(平成22年)10月に『NHKスペシャル 核を求めた日本』において、佐藤内閣下で、極秘に核保有は可能か検討が行われていたことが明るみに出た。西尾幹二は、佐藤が核武装論から変節し、「アメリカに日本国を売って」ノーベル平和賞を得たことが日本の保守政権を堕落させた、と批判している。 佐藤はノーベル平和賞の受賞記念講演の原稿を作成した際に、助言を求めた学者(高坂正堯・梅棹忠夫ら)の意見を入れて「非核三原則を世界各国も導入することを望む」という内容の一節を入れたが、最終的に削除した。これについて上記『NHKスペシャル』では、佐藤が最終稿を作る前に、来日したアメリカ国務長官のヘンリー・キッシンジャーと面談した影響を指摘している(キッシンジャーは、「何をとぼけたことを言い出すのか」と反発したという)。ちなみに西尾幹二はこの件について、「キッシンジャーは彼(注:佐藤)の前に立ち塞がるアメリカの『意志』そのものであり、ノーベル平和賞とはアメリカの政治意志の一道具である」と論じ、佐藤が削除した上記の一節を「日本を核大国の仲間に入れないのならお前たちだけ勝手なことはさせたくない、と一発かましたい思いからだったのかもしれない」と評し、核武装論者としての佐藤のせめてもの抵抗だったのではないか、と論じている。 この1974年(昭和49年)11月19日に元赤坂の迎賓館で行われた佐藤・キッシンジャー会談の具体的内容は、佐藤がキッシンジャーに、「もし可能なら、核兵器の先行使用の放棄を話し合うため、核保有5か国が集まるよう受賞講演で提案しようと考えている」と述べ、すべての国が核兵器の先行使用を放棄する方向への提起を授賞式講演「核時代の平和の追求と日本」に盛り込みたい意向を伝えたが、キッシンジャーは、「米国はそうした話し合いへの参加を拒んでいる唯一の国だ」と答え、「米国が核兵器の先行使用を放棄したら、それは日本にとって危険だ」として、ソ連と中国の軍事的脅威を理由に拒んだ。 キッシンジャーは、「ソ連は欧州の国々を上回る兵力を、中国も隣国を上回る兵力を持っている。核兵器がなければ、ソ連は通常兵力で欧州を蹂躙できます。中国も同様です」という見解を示し、翌日の中曽根康弘との会談でも、もしも米国が非核国への核使用を放棄すれば、ソ連の東欧の同盟国にも使用できなくなるとの懸念を示して、中曽根がNPTに関連して発した「米ソは非核国に核兵器を使ったり、核兵器で脅迫したりしないと確約できますか」という要求を拒んだ。 なお、ベトナム戦争支援政策、中国敵視外交などを進めた佐藤の受賞を疑問視する意見もあり、フランスの『ル・モンド』紙は「驚くべき、異議のある決定」と批判している。 ノルウェーのオスロ国際平和研究所でアジアを専門に研究しているスタイン・トネソン名誉研究教授は、他ならぬ日本からを中心に多くの批判が寄せられたとしながらも、「佐藤氏の受賞を支持したアジアの多くの国がその後、日本の高度経済成長路線をなぞって経済を優先させ、軍事的な冒険を避ける政策をとったことで、地域的な平和を長く享受することができた」とし、この受賞が周辺のアジア諸国に良い影響を与えたと評価した(「佐藤元首相が」ではなく、「アジアで平和賞が出たことが」である)。 1901年(明治34年)3月27日 - 山口県熊毛郡田布施村田縫(現・田布施町)に生まれる。 1907年(明治40年)4月 - 国木尋常小学校入学。 1913年(大正2年)4月 - 山口県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)入学。 1918年(大正7年)9月 - 第五高等学校(一部丙類)入学。 1921年(大正10年)4月 - 東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学。 1923年(大正12年)12月 - 高等文官試験(行政)合格。 1924年(大正13年)
5月 - 鉄道省入省。 6月 - 鉄道局書記・門司鉄道局勤務。 1926年(大正15年)
11月 - 二日市駅長。 1928年(昭和3年)
1929年(昭和4年)5月 - 門司鉄道局庶務課文書掛長。 1931年(昭和6年)4月 - 門司鉄道局鳥栖運輸事務所長。 1932年(昭和7年)2月 - 次男・信二が生まれる。 1933年(昭和8年)8月 - 門司鉄道局運輸庶務掛長。 1934年(昭和9年)6月 - 欧米の鉄道研究を目的とした在外研究員で、8月に出発。2年にわたり北中米・欧州各地を視察する。 1936年(昭和11年)
7月 - 鉄道省事務官・監督局業務課勤務。 1937年(昭和12年)6月 - 鉄道省陸運監理官。 1938年(昭和13年)
6月 - 帰国。 8月 - 鉄道書記官・監督局鉄道課長。 9月 - 中華民国へ出張。 1939年(昭和14年)6月 - 中華民国より帰国。 1940年(昭和15年)6月 - 鉄道省監督局総務課長。 1941年(昭和16年)12月 - 鉄道省監督局長。 1942年(昭和17年)11月 - 監理局長。 1943年(昭和18年)11月 - 運輸通信省自動車局長。 1944年(昭和19年)4月 - 大阪鉄道局長。 1946年(昭和21年)2月 - 運輸省鉄道総局長官。 1947年(昭和22年)2月 - 運輸次官。 1948年(昭和23年)
4月 - 民主自由党山口県連合会支部長。 10月 - 第2次吉田内閣で官房長官に就任( - 1949年2月)。 1949年(昭和24年)1月 - 衆議院議員に初当選( - 1975年6月)。 1950年(昭和25年)4月 - 自由党幹事長。 1951年(昭和26年)
12月 - 第3次吉田内閣第3次改造内閣でも留任( - 1952年7月)。 1952年(昭和27年)10月 - 第4次吉田内閣で、建設大臣兼国務大臣北海道開発庁長官に就任( - 1953年2月)。 1953年(昭和28年)1月 - 自由党幹事長。 1954年(昭和29年)
7月 - 幹事長辞任、党総務。 9月13日 - 山口県で行われた外遊壮行会会場で、男に包丁で切りつけられるが無事。 1955年(昭和30年)11月 - 自由民主党結成に不参加、吉田茂とともに無所属となる。 1956年(昭和31年)12月 - 政治資金規正法違反で訴追されたが、国際連合加盟の恩赦で免訴。 1957年(昭和32年)2月 - 鳩山一郎の引退後、自由民主党入党。 1958年(昭和33年)6月 - 第2次岸内閣で大蔵大臣に就任( - 1960年7月)。 1961年(昭和36年)7月 - 第2次池田内閣第1次改造内閣で通商産業大臣に就任( - 1962年7月)。 1963年(昭和38年)7月 - 第2次池田内閣第3次改造内閣で北海道開発庁長官、科学技術庁長官に就任。 1964年(昭和39年)
12月 - 自由民主党総裁。 1965年(昭和40年)7月 - 心臓血管研究所付属病院に入院。 1967年(昭和42年)
12月 - 衆院予算委において非核三原則言明。 1968年(昭和43年)7月 - 板垣退助先生顕彰会を設立。 1970年(昭和45年)1月 - 第3次佐藤内閣発足。 1971年(昭和46年)8月 - 日本の首相として初めて広島平和記念式典に出席。 1972年(昭和47年)
7月 - 第3次佐藤内閣総辞職。 1974年(昭和49年)12月 - ノーベル平和賞受賞。 1975年(昭和50年)
6月3日 - 午前0時55分に意識が戻らないまま港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去、満74歳。従一位・菊花章頸飾を追叙。 6月16日 - 日本武道館で国民葬。 1977年(昭和52年)5月 - 遺骨を山口県田布施町国木の佐藤家墓地に埋葬。 1972年(昭和47年)11月3日 - 大勲位菊花大綬章 1974年(昭和49年)12月27日 - 銀杯一組(菊紋) 1975年(昭和50年)6月3日 - 従一位・菊花章頸飾 1965年(昭和40年)2月23日 - スペイン:イサベル・ラ・カトリカ大十字勲章(es:Orden de Isabel la Católica, Gran Cruz) 『繁栄への道』周山会出版局、1963年2月14日。 『今日は明日の前日』フェイス、1964年6月20日。 『有言実行 参議院選挙第一声』自由民主党広報委員会、1965年6月。 佐藤栄作、福田赳夫、椎名悦三郎『第49回臨時国会所信表明演説集』自由民主党広報委員会、1965年7月。 佐藤栄作、椎名悦三郎、藤山愛一郎『第50回臨時国会所信表明演説集』自由民主党広報委員会、1965年10月。 内閣総理大臣官房 編『佐藤内閣総理大臣演説集』内閣総理大臣官房、1970年5月。 In quest of peace and freedom. Japan Times. (1973) 『佐藤栄作ノーベル平和賞1974受賞記念講演集』佐藤栄作後援会、1975年1月。 『佐藤栄作日記』 第1巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1998年11月。ISBN 9784022571410。 『佐藤栄作日記』 第2巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1998年2月。ISBN 9784022571427。 『佐藤栄作日記』 第3巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1998年7月。ISBN 9784022571434。 『佐藤栄作日記』 第4巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1997年6月。ISBN 9784022571441。 『佐藤栄作日記』 第5巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1997年10月。ISBN 9784022571458。 『佐藤栄作日記』 第6巻、伊藤隆監修、朝日新聞社、1999年4月。ISBN 9784022571465。 佐藤家(武家家伝 信夫佐藤) 佐藤家の祖先については、遠祖は源義経の家臣・佐藤忠信だという口伝がある。佐藤家の祖は、およそ300年さかのぼることができる。それ以前は、源義経の家臣・佐藤忠信に発する、という口伝がある。もちろん信ずべき証はない。ただ佐藤の本家に生まれ、あとで栄作と縁組することになる寛子は“子どものころから、浄瑠璃狐忠信の忠信は先祖と聞かされて”いる。義経千本桜四段目で狐の化けた忠信が静御前を守護する。この忠信は源氏車の家紋をつけた衣装で舞う。佐藤家の紋所もまた同じ源氏車であるとある。 山口県史学会の調査によると、確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久といい、寛文2年(1662年)ごろから萩藩の藩士となり、扶持方2人・米2石4斗を受けた。下級武士で、この待遇はそのあともあまり変わらない。役によって4石5斗あるいは6石に加増されたこともある。代々、市郎右衛門あるいは源右衛門を名乗った。 2代・市郎右衛門信友は妻をめとらず、3代目を継いだ源右衛門信貞は、同藩の福井清兵衛信政の次男である。歴代佐藤家の当主の中で世に出たのは、まず4代目の源右衛門信早である。その功を認められて禄高を6石に加増されている。熊毛郡下田布施村の「宝暦検地絵図」などの文書も残した。 7代目の佐藤嘉津馬は安永8年(1779年)に12歳で病死する。佐藤家はこの7代目まで大内町御堀(現・山口市南部)の周辺に住んだ。嘉津馬夭折のあと、佐藤家は萩に住む一族吉田八兵衛の三男菊三郎に別の親戚福田某の娘を嫁に迎え、夫婦養子とする。8代目市郎右衛門信孝で、この信孝の時代から、佐藤家は田布施に移った。 10代目の曽祖父・寛作信寛は長州藩士として御蔵元本締役、大検使役などを歴任、長沼流兵学を修め、幕末期の思想家・吉田松陰に『兵要録』を授けた。明治になり、島根県令、浜田県権知事などの要職に就いた。吉本重義著『岸信介傳』p.21に「この曽祖父は、佐藤家の歴史においては最も傑出した人であった。もっとも、その叔父の九右衛門は坪井家に養われて長井雅楽の一味として当時、藩政の要路にあり、非常な傑物だったといわれる。佐藤家に伝わる政治家的な性格は、この坪井九右衛門や、曽祖父の信寛によって最も顕著にあらわれた」とある。 11代目の祖父・信彦は山口県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。信彦の妻・みねは徳山藩士国広治左衛門の娘である。信彦の弟・鼓包武は、大村益次郎に兵学を学び、西南戦争でも活躍した。日清戦争では留守第六師団参謀長を務めた。最終的には陸軍少将。 父・秀助 母・茂世(田布施・佐藤信彦の長女) 長兄・市郎(軍人・海軍中将) 次兄・信介(官僚、政治家・首相) 姉
こま(泉伍郎の妻) 音世(玖珂郡川越村、吉永貫一の妻) 千代子 妹
敏子(恒光四郎の妻) 保子 叔父・義父・佐藤松介(茂世の弟、医師・岡山医学専門学校教授) 義叔母・養母・藤枝(外相・松岡洋右の妹) 従妹・妻・寛子(松介と藤枝の長女) 従妹・義妹・正子(松介と藤枝の次女) 長男・龍太郎(JR西日本取締役などを務めた、1928年4月1日生))
孫 栄治 中華城市燃気集団取締役、エム・ピー・ソリューション社長(1961年1月5日生)
次男・信二(政治家) 従弟・吉田寛(茂世の妹・さわの子、首相・吉田茂の娘・桜子の夫) 従姉妹・岸良子(信介の妻、信介の養父で信介と栄作の伯父・信政の娘、栄作と同年生まれ) 姪・洋子(信介と良子の娘、政治家安倍晋太郎に嫁する)
同次男・安倍晋三(政治家・元首相) 同三男・岸信夫(政治家・元防衛大臣) 孫婿・阿達雅志(次男・信二の娘婿、現自由民主党参議院議員、菅義偉内閣経済・外交担当首相補佐官) 義伯父・松岡洋右(養母・藤枝の兄、外相) (参考文献)『財界家系図』、『日本の有名一族』、『御侍中先祖書系圖牒』、『土佐の墓』、『日本人なら知っておきたい名家・名門』、『閨閥』、『板垣精神』、『平成新修旧華族家系大成』 小説吉田学校(フィルムリンク・インターナショナル製作、東宝配給、1983年4月9日公開、演:竹脇無我) 華麗なる一族(1974年、大映) - 演:伊東光一 ※役名は佐橋。 金環蝕(1975年、大映) - 演:神田隆 ※役名は酒井和明。 日本の戦後(1977年-1978年、NHK総合、演:観世栄夫) ドラマスペシャル 吉田茂 関西テレビ開局25周年記念(関西テレビ・東映制作、1983年4月9日、フジテレビ、演:竹脇無我) 負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜(2012年9月-10月、全5回、NHK総合、演:高橋和也) アメリカに負けなかった男〜バカヤロー総理 吉田茂〜(2020年2月24日、テレビ東京、演:安田顕) 華麗なる一族(1974年、毎日放送・NETテレビ) - 演:伊東光一 ※役名は佐橋総理大臣。 運命の人(2012年、TBS) - 演:北大路欣也 ※役名は佐橋慶作。 華麗なる一族(2021年、WOWOW) - 演:伊武雅刀 ※役名は佐橋。 ^ 友人として急速に接近するのは、お互いに政界入りしてからである。池田が死亡した際、佐藤が葬儀委員長を務めている。なお五高同期には、後に佐藤総理の私的なシンクタンクを果たしていたとされる思想家の仲小路彰や、他に濱口巌根らがいた。 ^ 2候補から金をもらうことを「ニッカ」、3候補から金をもらうことを「サントリー」、すべての候補(オール)から金をもらいながらそのいずれにも投票しなかった(パー)ことを「オールドパー」といった。いずれもウィスキーの銘柄(ニッカウヰスキー、サントリー角瓶、オールド・パー)にかけたもの。 ^ 池田勇人242票、佐藤栄作160票、藤山愛一郎72票、灘尾弘吉1票。 ^ 公務員や公共企業体職員へのストライキ権付与の議論については先送りとなり、佐藤の二代後の三木内閣でのスト権ストまで持ち越されることとなる。 ^ 佐藤の親台姿勢を物語るものとして、台湾の國立故宮博物院には、佐藤夫妻が寄贈した唐三彩の「三彩天王増長天像」が展示され、「元日本國首相佐藤榮作氏及令夫人寄贈」と記されている。 ^ 浅利は佐藤のブレーンとしてマスコミ対策や外交についての相談役をしていた。 ^ 一方で、江鬮眞比古を密使として北京政府と国交正常化に向けた交渉を水面下で相当程度まで進めていたとされる。 ^ 佐藤自身は日記刊行を持ちかけられると「僕は120歳まで生きるから」とはぐらかしていたが、佐藤家と交渉し没後約20年を経て実現した。原本紛失(首相就任前の数年分)により未収録がある。なお堀越作治『戦後政治裏面史 「佐藤栄作日記」が語るもの』(岩波書店、1998年)がある。著者は朝日新聞社政治部記者・編集局次長などを務めた。 ^ ステネルセンのコメントはノルウェーのアフテンポステン紙からの引用。 ^ 高坂は、佐藤ブレーン(前述の通り受賞記念の演説に際しても、原稿草案の助言をするなど、政策の相談者だった)の一人として、後年ある月刊誌の座談会で「この受賞は、吉田茂・池田勇人・佐藤栄作3人が、行ってきた戦後政策全体に対する評価としての面が大きい(大意)」と、弁護する見解を述べている。 ^ 佐藤とキッシンジャーのこの会談の内容は、2008年(平成20年)に早稲田大学客員教授・春名幹男がフォード大統領図書館で確認した記録に残されている。 ^ “史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月26日閲覧。 ^ 山田 1988, p. 23(上). ^ 岩川 1984, p. 19. ^ 山田 1988, p. 27(上). ^ 岩川 1984, pp. 18–19. ^ 山田 1988, p. 42(上). ^ 山田 1988, pp. 44-45(上). ^ 山田 1988, pp. 45-46(上). ^ 山田 1988, pp. 65-66(上). ^ 山田 1988, pp. 67-69(上). ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、240頁 ^ 山田 1988, p. 85(上). ^ 山田 1988, pp. 96-102(上). ^ 岩川 1984, p. 65. ^ 『大阪大空襲と市営交通事業』公営交通研究所、31-32頁(『続東区史』別巻(1979年)からの引用)。 ^ 福永 2008, p. 123. ^ 福永 2008, p. 67. ^ “「即位の礼」の恩赦10月にも、軽微犯罪限定・規模縮小か”. 産経ニュース (2019年5月2日). 2021年1月11日閲覧。 ^ 福永 2008, pp. 68–69. ^ 福永 2008, pp. 125–126. ^ ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋 ^ 『佐藤栄作日記』によれば、直前には「勝算漸く歴然たり」、敗北後は「長蛇を逸した感」と感想を記している。 ^ 池田勇人VS佐藤栄作 昭和政権暗闘史 三巻 (静山社文庫) 大下 英治(著) ^ 福永 2008, pp. 123–124. ^ “自民党の歴史”. 自由民主党. 2020年8月28日閲覧。 ^ 小林吉弥 (11 January 2017). "【田中角栄 不敗の世渡り力】「運」たぐり寄せる努力をしているか 角栄氏「勉強せい」の言葉に隠された思い". 夕刊フジ. 産経デジタル. 2020年8月28日閲覧。 ^ “核密約文書、佐藤元首相邸に…初の存在確認”. 読売新聞. (2009年12月22日). オリジナルの2009年12月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091225111627/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091222-OYT1T00775.htm ^ https://web.archive.org/web/20191117142038/https://www.nishinippon.co.jp/item/o/560181/ ^ “「日中戦争なら核報復を」佐藤首相、65年訪米時に”. 朝日新聞. (2008年12月22日). オリジナルの2008年12月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081224011848/http://www.asahi.com/politics/update/1221/TKY200812210172.html ^ “佐藤栄作とは”. コトバンク. 2021年1月11日閲覧。 ^ 福永 2008, p. 124. ^ 福永 2008, p. 126. ^ 文藝春秋2011年十月特別号、150-152頁、政界三強鼎談、今学ぶべきは誰の内閣は、政権交代二年でこの体たらく憂国三銃士が吠える、石原慎太郎・野中広務・亀井静香・司会後藤謙次 ^ 設立の実務は、参議院議員・寺尾豊(財団法人板垣会会長)、東京高知県人会会長・浜口雄彦、弁護士・丁野暁春、法政大学第一高等学校数学科教諭・土居音三郎らが行った。(『板垣精神』) ^ “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2023年3月27日閲覧。 ^ 碑文は「板垣死すとも自由は死せず」と佐藤栄作の揮毫が彫られている。 ^ “『「板垣死すとも…」死せぬ自由誓い安倍氏慰霊祭・板垣退助玄孫の髙岡功太郎さん、憂国の遺志「重ねずにはいられない」』”. 産経新聞デジタル. (2023年3月27日). https://www.sankei.com/article/20230326-42GTY2H7FBKP7PRKWKKAROYUSM/photo/ZNK6FK7B7JLWVLJMIEZYHWPYTE/ 2023年3月27日閲覧。 ^ 第4章 国際連合における活動とその他の国際協力 ^ (4)第68回国会における佐藤内閣総理大臣施政方針演説 ^ “日本前首相披露中日交往過程中的另一面”. 人民網 (2004年7月6日). 2017年10月10日閲覧。 ^ NHK BS1スペシャル「日中“密使外交”の全貌~佐藤栄作の極秘交渉~」2017年9月24日 ^ “日中関係打開めざした「保利書簡」 「いぶし銀の調整役」保利茂(7)”. 日本経済新聞. (2011年10月30日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2401G_V21C11A0000000/ 2017年10月10日閲覧。 ^ “(新聞と9条:320)中曽根政権まで:13”. 朝日新聞. (2016年8月18日). オリジナルの2017年5月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170530170442/https://www.asahi.com/articles/photo/AS20160818002397.html 2020年8月2日閲覧。 ^ 青島顕 (2017年4月13日). “Listening:<メディアの戦後史>佐藤栄作首相の退陣会見 新聞嫌い、記者に「出ろ」”. 毎日新聞. 2020年4月16日閲覧。 ^ 朝日新聞昭和四十七年六月十七日夕刊 ^ 「『政界の団十郎』佐藤栄作」、文春写真館「本の話 web」2009年2月2日号、2014年3月19日閲覧 ^ 竹下登 『政治とは何か 竹下登回顧録』(講談社、2001年1月)、第9章2節 "「話がちがう、出て行け」" pp.249-450 ISBN 4-06-210502-0 ^ “佐藤栄作首相「新聞記者は出ていけ」発言の真相 浅利氏、「責任の半分は私に・・・」と明かしていた”. J-CASTニュース (2018年7月18日). 2020年1月22日閲覧。 ^ “佐藤栄作 最後の密使 宮川徹志著”. 日本経済新聞 (2020年5月30日). 2021年1月12日閲覧。 ^ 本田善彦『台湾総統列伝 - 米中関係の裏面史 』中央公論新社、2004年、51頁。ISBN 4-12-150132-2。 ^ 山田 1988, p. 441(下). ^ 山田 1988, p. 443(下). ^ 真光寺 田布施町観光協会Facebook ^ “安倍首相 在任期間が 戦後最長に”. 2024年6月3日閲覧。 ^ “安倍首相 2次政権発足後 連続の在任期間が歴代最長に”. 2024年6月3日閲覧。 ^ “【産経抄】10月30日”. 産経ニュース (2020年10月30日). 2020年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月11日閲覧。 ^ 山田 1988, p. 123(上). ^ 岩川 1984, p. 58. ^ 岩川 1984, pp. 94–95. ^ 岩川 1984, p. 187. ^ 中曽根 2004, p. 66. ^ 中曽根 2004, p. 93. ^ Nomination Database Nobusuka Kishi (2015年現在、1964年分まで公開). ノーベル賞公式サイト. 2015年4月30日閲覧。 ^ Nomination Database Country of nominee is: JAPAN (2015年現在、1964年分まで公開). ノーベル賞公式サイト. 2015年5月4日閲覧。 ^ 『政治とは何か 竹下登回顧録』 87-89頁 ^ 楠田や佐藤の日記には犬養道子、中根千枝、江上フジ、相馬雪香、秋山ちえ子、田辺繁子、斉藤美紗緒らの名前が見られる。 ^ 堀越作治『戦後政治裏面史』(岩波書店、1998年) ^ 上坂冬子『宰相夫人の昭和史』。 ^ 魚住昭『渡辺恒雄メディアと権力』 ^ 佐藤栄作 (1998). 佐藤栄作日記〈第2巻〉. 朝日新聞社. p. 293 ^ 岩見隆夫『陛下の御質問』より、(新版・文春文庫、2005年) ^ 村上聖一. “民放ネットワークをめぐる議論の変遷―発足の経緯、地域放送との関係、多メディア化の中での将来―”. NHK放送文化研究所 年報2010 第54集. pp. 25,30. 2019年12月25日閲覧。 ^ 阿部斉 2003, pp. 197–198. ^ 「今日の問題 宰相失格宣言」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月19日夕刊、3版、1面 ^ 吉田さんの墓に参拝 「心境? 明鏡止水さ」『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月17日朝刊 12版 15面 ^ 佐藤寛子 1985. ^ 潮田潮『1000日の譲步: 円はドルに勝ったのか』(新潮社、1988年)p.58 ^ 新井俊三『文人宰相大平正芳』(春秋社, 1982年)8頁 ^ 『財界 第33巻 第21~30号』(財界硏究所, 1985)92頁 ^ 浅川博忠『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』(東洋経済新報社, 1995年)30頁 ^ 鎌倉文学館 鎌倉市 ^ 佐藤B作 プロフィール 松竹映画男はつらいよ公式サイト ^ 内藤陽介『外国切手に描かれた日本』光文社新書、2003年。 ^ 尾瀬あきら『ぼくの村の話 1巻』講談社、東京都、1992年、33頁。ISBN 978-4-06-328305-1。「第1話 白い馬」 ^ TBSテレビ (2024年10月11日). “【速報】日本被団協にノーベル平和賞 1974年の佐藤栄作元総理以来50年ぶり”. TBS NEWS DIG. 2024年10月12日閲覧。 ^ 共同通信ロンドン支局取材班編『ノーベル賞の舞台裏』(ちくま新書 2016年) ^ 吉武 2010, pp. 37, 38, 43. ^ “佐藤栄作元首相のノーベル平和賞 受賞当時の選考資料 初公開”. NHK. 2024年11月5日閲覧。 ^ 朝日新聞2001年9月5日付(共同通信配信) ^ 『核を求めた日本』は、2010年10月3日夜に放送 ^ 『三島由紀夫の死と日本の核武装』、WILL 2011年2月号 ^ 「『核の先行使用』放棄探る――佐藤元首相が提案、米は拒絶」(朝日新聞、2016年3月14日号 1面・3面) ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京、堺屋太一、立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p1089。 ^ 「佐藤栄作切りつけた犯人送検」朝日新聞 昭和29年9月13日夕刊 3面 ^ 「日本の信用問題 佐藤さん病院からかけつけ」『日本経済新聞』昭和40年7月20日 15面 ^ 山田 1988, p. 15(上). ^ 『岸信介傳』25、26頁 ^ 人事興信録第45版さ77 ^ https://imagelink.kyodonews.jp/search?keyword=%E3%81%8A%E5%AD%AB%E3%81%95%E3%82%93&opendetail=2578386 ^ https://www.nna.jp/news/show/807704 ^ http://www.irtimes.com/data/7921/pdf/movie_792114148.pdf ^ “ようこそ、田布施町郷土館へ”. 田布施町. 2015年2月6日閲覧。 岩川隆『忍魁 佐藤栄作研究』徳間文庫、1984年。 佐藤寛子『佐藤寛子の宰相夫人秘録』朝日新聞社〈朝日文庫〉、1985年。
阿部斉「高度経済成長で最長在任記録、外交上の懸案に熱心に取り組みノーベル平和賞を受賞 佐藤栄作」『実録首相列伝―国を担った男達の本懐と蹉跌』学研〈歴史群像シリーズ(70号)〉、2003年6月、124-127頁。ISBN 978-4056031515。https://hon.gakken.jp/book/1860315100。 中曽根康弘『自省録-歴史法廷の被告として』新潮社、2004年6月。 福永文夫『大平正芳-「戦後保守」とは何か』中央公論新社〈中公新書〉、2008年12月。ISBN 9784121019769。 吉武信彦「ノーベル賞の国際政治学 -ノーベル平和賞と日本:序説-」『地域政策研究』第12巻、第4号、高崎経済大学地域政策学会、21-43頁、2010年3月。http://www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun12-4/02yoshitake.pdf。 楠田實『首席秘書官 佐藤総理との10年間』文藝春秋、1975年。 千田恒『佐藤内閣回想』中公新書、1987年。 『佐藤政権・2797日』(上・下)、楠田實・千田恒 ほか編著、行政問題研究所出版局、1983年12月 『楠田實日記 佐藤栄作総理首席秘書官の二〇〇〇日』和田純編・校訂、五百旗頭真編・解題、中央公論新社、2001年。 岡本文夫『佐藤政権』白馬出版、1972年。 『鉄道人 佐藤栄作』 同 刊行会編、1977年。関係者の回想集 宮崎吉政『宰相 佐藤栄作』原書房、1980年。 回想座談も収録 神一行『閨閥-特権階級の盛衰の系譜 改訂新版』角川書店〈角川文庫〉、2002年、61-75頁。 秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年、247頁。 御厨貴 編『歴代首相物語』新書館、2003年。 新版2013年 渡邉昭夫 編『戦後日本の宰相たち』中公文庫、2001年。 「佐藤栄作―「待ちの政治」の虚実」収録 Eddy Dufourmont (2008). “Sato Eisaku, Yasuoka Masahiro and the Re-Establishment of February 11th as National Day: the Political Use of National Memory in Postwar Japan”. In Wolfgang Schwentker and Sven Saaler ed.,. The Power of Memory in Modern Japan. Global Oriental. pp. 204-222 衛藤瀋吉『佐藤栄作 衞藤瀋吉著作集 第十巻』東方書店、2003年。
服部龍二『佐藤栄作-最長不倒政権への道』朝日新聞出版〈朝日選書〉、2017年。 村井良太『佐藤栄作-戦後日本の政治指導者』中公新書、2019年。 宮川徹志『佐藤栄作 最後の密使 日中交渉秘史』吉田書店、2020年。 馬場錬成『沖縄返還と密使・密約外交 宰相佐藤栄作、最後の一年』日本評論社、2022年。
吉田13人衆 保守本流 佐藤内閣 - 在任中の各内閣については当項目よりリンク 人物 橋本龍伍 - 佐藤が葬儀委員長を務めた 野中広務 - 佐藤が大阪鉄道局長時代、局に勤務 団体 極真会館 - 初代会長を務め、会長就任の3ヵ月後に総理大臣に就任した。 “佐藤榮作《第61・62・63代》”. 歴代総理の写真と経歴. 首相官邸. 2015年2月11日閲覧。 “国民葬儀における追悼の辞”. データベース「世界と日本」. 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室. 2015年2月11日閲覧。 “兄弟で首相になった 岸元首相・佐藤元首相の実家”. 著名人のお墓. 日本の墓. 2015年2月11日閲覧。 “佐藤榮作宰相の遺品展示室”. 田布施町郷土館. 田布施町. 2015年2月6日閲覧。 『佐藤栄作』 - コトバンク 昭和のノーベル賞 非核三原則・沖縄返還などで日本人初の平和賞 佐藤栄作氏(1974年)【映像記録 news archive】 - YouTube(ANNnewsCH) 1975年 佐藤栄作元総理の「国民葬」 日本武道館で6400人が参列 儀仗隊に弔砲も【映像記録 news archive】 - YouTube(ANNnewsCH) 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 中村弘毅 井上毅 土方久元 田中光顯 田中光顯 小牧昌業 周布公平 平山成信 伊東巳代治 高橋健三 平山成信 鮫島武之助 武富時敏 安広伴一郎 鮫島武之助 柴田家門 石渡敏一 南弘 柴田家門 南弘 江木翼 山之内一次 児玉秀雄 高橋光威 三土忠造 宮田光雄 樺山資英 小橋一太 塚本清治 鳩山一郎 鈴木富士彌 川崎卓吉 森恪 柴田善三郎 堀切善次郎 河田烈 吉田茂 白根竹介 藤沼庄平 大橋八郎 風見章 田辺治通 太田耕造 遠藤柳作 石渡荘太郎 富田健治 星野直樹 三浦一雄 田中武雄 広瀬久忠 石渡荘太郎 迫水久常 緒方竹虎 次田大三郎 楢橋渡 林譲治 林譲治 西尾末広 苫米地義三 佐藤栄作 増田甲子七 岡崎勝男 保利茂 緒方竹虎 福永健司 根本龍太郎 石田博英 愛知揆一 赤城宗徳 椎名悦三郎 大平正芳 黒金泰美 鈴木善幸 橋本登美三郎 愛知揆一 福永健司 木村俊夫 保利茂 竹下登 二階堂進 竹下登 井出一太郎 園田直 安倍晋太郎 田中六助 伊東正義 宮澤喜一 後藤田正晴 藤波孝生 後藤田正晴 小渕恵三 塩川正十郎 山下徳夫 森山眞弓 坂本三十次 加藤紘一 河野洋平 武村正義 熊谷弘 五十嵐広三 野坂浩賢 梶山静六 村岡兼造 野中広務 青木幹雄 中川秀直 福田康夫 細田博之 安倍晋三 塩崎恭久 与謝野馨 町村信孝 河村建夫 平野博文 仙谷由人 枝野幸男 藤村修 菅義偉 加藤勝信 松野博一 林芳正 表 話 編 歴 松平慶永 伊達宗城 大久保利通 大隈重信 佐野常民 松方正義 松方正義 渡辺国武 井上馨 松田正久 西園寺公望 曾禰荒助 阪谷芳郎 桂太郎 山本達雄 若槻禮次郎 高橋是清 武富時敏 寺内正毅 勝田主計 市来乙彦 井上準之助 勝田主計 濱口雄幸 早速整爾 片岡直温 三土忠造 藤井真信 町田忠治 馬場鍈一 結城豊太郎 賀屋興宣 池田成彬 石渡荘太郎 青木一男 櫻内幸雄 河田烈 小倉正恒 賀屋興宣 津島壽一 広瀬豊作 渋沢敬三 石橋湛山 矢野庄太郎 栗栖赳夫 北村徳太郎 泉山三六 大屋晋三 臨時代理 池田勇人 向井忠晴 小笠原三九郎 一万田尚登 佐藤栄作 水田三喜男 田中角栄 福田赳夫 植木庚子郎 愛知揆一 大平正芳 坊秀男 村山達雄 金子一平 竹下登 渡辺美智雄 宮澤喜一 橋本龍太郎 海部俊樹 羽田孜 林義郎 藤井裕久 武村正義 久保亘 三塚博 松永光 宮澤喜一 宮澤喜一 塩川正十郎 谷垣禎一 尾身幸次 額賀福志郎 伊吹文明 中川昭一 与謝野馨 藤井裕久 菅直人 野田佳彦 安住淳 城島光力 麻生太郎 鈴木俊一 加藤勝信 表 話 編 歴 大木喬任 木戸孝允 西郷従道 寺島宗則 河野敏鎌 福岡孝弟 大木喬任 森有礼 榎本武揚 芳川顕正 大木喬任 河野敏鎌 井上毅 西園寺公望 蜂須賀茂韶 濱尾新 外山正一 尾崎行雄 犬養毅 樺山資紀 松田正久 菊池大麓 児玉源太郎 久保田譲 桂太郎 牧野伸顕 小松原英太郎 長谷場純孝 柴田家門 奥田義人 大岡育造 一木喜徳郎 高田早苗 岡田良平 中橋徳五郎 鎌田栄吉 犬養毅 岡野敬次郎 江木千之 岡田良平 三土忠造 水野錬太郎 勝田主計 小橋一太 田中隆三 鳩山一郎 斎藤実 松田源治 川崎卓吉 潮恵之輔 平生釟三郎 林銑十郎 安井英二 木戸幸一 荒木貞夫 河原田稼吉 松浦鎮次郎 橋田邦彦 東條英機 岡部長景 二宮治重 兒玉秀雄 太田耕造 松村謙三 前田多門 安倍能成 田中耕太郎 高橋誠一郎 森戸辰男 下条康麿 高瀬荘太郎 天野貞祐 岡野清豪 大達茂雄 安藤正純 松村謙三 清瀬一郎 灘尾弘吉 松永東 灘尾弘吉 橋本龍伍 松田竹千代 荒木万寿夫 愛知揆一 中村梅吉 有田喜一 剱木亨弘 灘尾弘吉 坂田道太 高見三郎 稲葉修 奥野誠亮 三原朝雄 永井道雄 海部俊樹 砂田重民 内藤誉三郎 谷垣専一 田中龍夫 小川平二 瀬戸山三男 森喜朗 松永光 藤尾正行 塩川正十郎 中島源太郎 西岡武夫 石橋一弥 保利耕輔 井上裕 鳩山邦夫 森山眞弓 赤松良子 与謝野馨 島村宜伸 奥田幹生 小杉隆 町村信孝 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 町村信孝 遠山敦子 河村建夫 中山成彬 小坂憲次 伊吹文明 渡海紀三朗 鈴木恒夫 塩谷立 川端達夫 高木義明 中川正春 平野博文 田中眞紀子 下村博文 馳浩 松野博一 林芳正 柴山昌彦 萩生田光一 末松信介 永岡桂子 盛山正仁 阿部俊子 省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。 カテゴリ 表 話 編 歴 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 三木武夫 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 中曽根康弘 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 内閣府に編入 表 話 編 歴 小沢佐重喜 田村文吉 佐藤栄作 高瀬荘太郎 塚田十一郎 武知勇記 松田竹千代 村上勇 石橋湛山 平井太郎 田中角栄 寺尾豊 植竹春彦 鈴木善幸 小金義照 迫水久常 手島栄 小沢久太郎 古池信三 徳安実蔵 郡祐一 新谷寅三郎 小林武治 河本敏夫 井出一太郎 広瀬正雄 三池信 久野忠治 原田憲 鹿島俊雄 村上勇 福田篤泰 小宮山重四郎 服部安司 白浜仁吉 大西正男 山内一郎 箕輪登 檜垣徳太郎 奥田敬和 左藤恵 佐藤文生 唐沢俊二郎 中山正暉 片岡清一 村岡兼造 大石千八 深谷隆司 関谷勝嗣 渡辺秀央 小泉純一郎 宮澤喜一 神崎武法 日笠勝之 大出俊 井上一成 日野市朗 堀之内久男 自見庄三郎 野田聖子 八代英太 平林鴻三 片山虎之助 竹田儀一 野溝勝 岩本信行 木村小左衛門 木村小左衛門 本多市郎 岡野清豪 岡野清豪 本多市郎 塚田十一郎 西田隆男 川島正次郎 太田正孝 田中伊三次 郡祐一 青木正 愛知揆一 青木正 石原幹市郎 石原幹市郎 山崎巌 周東英雄 安井謙 篠田弘作 早川崇 赤沢正道 吉武恵市 永山忠則 塩見俊二 藤枝泉介 赤沢正道 野田武夫 秋田大助 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 石破二朗 安孫子藤吉 世耕政隆 山本幸雄 田川誠一 古屋亨 小沢一郎 葉梨信行 梶山静六 坂野重信 渡部恒三 奥田敬和 吹田愰 塩川正十郎 村田敬次郎 佐藤観樹 石井一 野中広務 深谷隆司 倉田寛之 白川勝彦 上杉光弘 西田司 野田毅 保利耕輔 西田司 片山虎之助 後藤田正晴 江﨑真澄 玉置和郎 山下徳夫 高鳥修 金丸三郎 池田行彦 水野清 塩崎潤 佐々木満 岩崎純三 鹿野道彦 石田幸四郎 山口鶴男 江藤隆美 中山正暉 中西績介 武藤嘉文 佐藤孝行 小里貞利 太田誠一 続訓弘 片山虎之助 片山虎之助 麻生太郎 竹中平蔵 菅義偉 増田寛也 鳩山邦夫 佐藤勉 原口一博 片山善博 川端達夫 樽床伸二 新藤義孝 高市早苗 野田聖子 石田真敏 高市早苗 武田良太 金子恭之 寺田稔 松本剛明 鈴木淳司 松本剛明 村上誠一郎 表 話 編 歴 小沢佐重喜 田村文吉 佐藤栄作 廃止 表 話 編 歴 稲垣平太郎 池田勇人 高瀬荘太郎 横尾龍 高橋龍太郎 小笠原三九郎 岡野清豪 愛知揆一 石橋湛山 水田三喜男 前尾繁三郎 高碕達之助 池田勇人 石井光次郎 椎名悦三郎 佐藤栄作 福田一 櫻内義雄 三木武夫 菅野和太郎 椎名悦三郎 大平正芳 宮澤喜一 田中角栄 中曽根康弘 河本敏夫 田中龍夫 江﨑真澄 佐々木義武 田中六助 安倍晋太郎 山中貞則 宇野宗佑 小此木彦三郎 村田敬次郎 渡辺美智雄 田村元 三塚博 梶山静六 松永光 武藤嘉文 中尾栄一 渡部恒三 森喜朗 熊谷弘 畑英次郎 橋本龍太郎 塚原俊平 佐藤信二 堀内光雄 与謝野馨 深谷隆司 平沼赳夫 平沼赳夫 中川昭一 二階俊博 甘利明 二階俊博 直嶋正行 大畠章宏 海江田万里 鉢呂吉雄 枝野幸男 茂木敏充 小渕優子 宮澤洋一 林幹雄 世耕弘成 菅原一秀 梶山弘志 萩生田光一 西村康稔 齋藤健 武藤容治 表 話 編 歴 小日山直登 田中武雄 三土忠造 村上義一 平塚常次郎 増田甲子七 苫米地義三 北村徳太郎 岡田勢一 小沢佐重喜 大屋晋三 山崎猛 石井光次郎 三木武夫 吉野信次 宮沢胤勇 中村三之丞 永野護 重宗雄三 楢橋渡 南好雄 木暮武太夫 斎藤昇 綾部健太郎 松浦周太郎 中村寅太 荒舩清十郎 藤枝泉介 大橋武夫 中曽根康弘 原田憲 橋本登美三郎 丹羽喬四郎 佐々木秀世 新谷寅三郎 徳永正利 江藤智 木村睦男 石田博英 田村元 福永健司 森山欽司 地崎宇三郎 塩川正十郎 小坂徳三郎 長谷川峻 細田吉蔵 山下徳夫 三塚博 橋本龍太郎 石原慎太郎 佐藤信二 山村新治郎 江藤隆美 大野明 村岡兼造 奥田敬和 越智伊平 伊藤茂 二見伸明 亀井静香 平沼赳夫 亀井善之 古賀誠 藤井孝男 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 木村小左衛門 一松定吉 一松定吉 益谷秀次 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 小沢佐重喜 竹山祐太郎 馬場元治 南条徳男 根本龍太郎 遠藤三郎 村上勇 橋本登美三郎 中村梅吉 河野一郎 小山長規 瀬戸山三男 橋本登美三郎 西村英一 保利茂 坪川信三 根本龍太郎 西村英一 木村武雄 金丸信 亀岡高夫 小沢辰男 仮谷忠男 竹下登 中馬辰猪 長谷川四郎 櫻内義雄 渡海元三郎 渡辺栄一 斉藤滋与史 始関伊平 内海英男 水野清 木部佳昭 江藤隆美 天野光晴 越智伊平 小此木彦三郎 野田毅 原田昇左右 綿貫民輔 大塚雄司 山崎拓 中村喜四郎 五十嵐広三 森本晃司 野坂浩賢 森喜朗 中尾栄一 亀井静香 瓦力 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 大野伴睦 緒方竹虎 三好英之 大久保留次郎 正力松太郎 川村松助 鹿島守之助 石井光次郎 山口喜久一郎 村上勇 西川甚五郎 小沢佐重喜 川島正次郎 佐藤栄作 増原惠吉 福田篤泰 前尾繁三郎 二階堂進 木村武雄 野田武夫 西田信一 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 古賀雷四郎 綿貫民輔 粕谷茂 坂元親男 井上吉夫 阿部文男 砂田重民 木部佳昭 谷洋一 伊江朝雄 北修二 上原康助 佐藤守良 小里貞利 小沢潔 高木正明 岡部三郎 稲垣実男 鈴木宗男 井上吉夫 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 西村英一 丹羽兵助 金丸信 天野光晴 田沢吉郎 櫻内義雄 中野四郎 園田清充 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 山崎平八郎 綿貫民輔 奥野誠亮 内海英男 野中英二 石井一 佐藤守良 西田司 東家嘉幸 井上孝 上原康助 左藤恵 小沢潔 池端清一 鈴木和美 伊藤公介 亀井久興 柳澤伯夫 井上吉夫 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 扇千景 石原伸晃 北側一雄 冬柴鐵三 谷垣禎一 中山成彬 金子一義 前原誠司 馬淵澄夫 大畠章宏 前田武志 羽田雄一郎 太田昭宏 石井啓一 赤羽一嘉 斉藤鉄夫 中野洋昌 表 話 編 歴 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤栄作 田中角栄 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 河野洋平 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 谷垣禎一 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 石井光次郎 砂田重政 佐藤栄作 河野一郎 益谷秀次 石井光次郎 保利茂 赤城宗徳 藤山愛一郎 中村梅吉 前尾繁三郎 福永健司 椎名悦三郎 橋本登美三郎 鈴木善幸 中曽根康弘 鈴木善幸 灘尾弘吉 松野頼三 江﨑真澄 中曽根康弘 倉石忠雄 鈴木善幸 二階堂進 田中龍夫 細田吉蔵 金丸信 宮澤喜一 安倍晋太郎 伊東正義 水野清 唐沢俊二郎 西岡武夫 佐藤孝行 木部佳昭 武藤嘉文 塩川正十郎 森喜朗 深谷隆司 池田行彦 小里貞利 村岡兼造 堀内光雄 久間章生 丹羽雄哉 二階俊博 笹川堯 田野瀬良太郎 小池百合子 塩谷立 細田博之 野田聖子 二階俊博 細田博之 竹下亘 加藤勝信 鈴木俊一 佐藤勉 福田達夫 遠藤利明 森山裕 鈴木俊一 表 話 編 歴 湯川秀樹 (1949) 朝永振一郎 (1965) 江崎玲於奈 (1973) 小柴昌俊 (2002) 小林誠・益川敏英・南部陽一郎 (2008) 赤﨑勇・天野浩・中村修二 (2014) 梶田隆章 (2015) 眞鍋淑郎 (2021) 福井謙一 (1981) 白川英樹 (2000) 野依良治 (2001) 田中耕一 (2002) 下村脩 (2008) 鈴木章・根岸英一 (2010) 吉野彰 (2019) 利根川進 (1987) 山中伸弥 (2012) 大村智 (2015) 大隅良典 (2016) 本庶佑 (2018) 川端康成 (1968) 大江健三郎 (1994) カズオ・イシグロ (2017) 佐藤栄作 (1974) 日本原水爆被害者団体協議会 (2024) 表 話 編 歴 レオン・ジュオー (1951) - アルベルト・シュヴァイツァー (1952) - ジョージ・マーシャル (1953) - 国際連合難民高等弁務官事務所 (1954) - レスター・B・ピアソン (1957) - ドミニク・ピール (1958) - フィリップ・ノエル=ベーカー (1959) - アルバート・ルツーリ (1960) - ダグ・ハマーショルド (1961) - ライナス・ポーリング (1962) - 赤十字国際委員会 / 国際赤十字赤新月社連盟 (1963) - マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (1964) - 国際連合児童基金 (1965) - ルネ・カサン (1968) - 国際労働機関 (1969) - ノーマン・ボーローグ (1970) - ヴィリー・ブラント (1971) - ヘンリー・キッシンジャー / レ・ドゥク・ト (1973) - 佐藤栄作 / ショーン・マクブライド (1974) - アンドレイ・サハロフ (1975) 表 話 編 歴 日ソ国交回復と国連加盟 保守合同 初の総裁公選による選出 満洲人脈 警察官職務執行法改正案 新安保 国民皆保険 所得倍増計画 農業基本法公布 OECD加盟 1964年東京オリンピック 岸派分裂 財界四天王 日韓基本条約 非核三原則(日米核持ち込み問題) 公害国会 日本万国博覧会 沖縄返還(西山事件) 佐藤派五奉行 黒い霧事件 日通事件 日中国交正常化 日本列島改造論 第1次オイルショック 第一次角福戦争 青嵐会結成 椎名裁定 ロッキード事件 三木おろし 日中平和友好条約調印 福田ドクトリン 大福密約 第二次角福戦争 田園都市構想 総合安全保障構想 第2次オイルショック ダグラス・グラマン事件 四十日抗争 第三次角福戦争 ハプニング解散 「和の政治」 増税なき財政再建 新保守主義 「戦後政治の総決算」(国鉄分割民営化ほか) 二階堂擁立構想 死んだふり解散 創政会結成と田中派分裂 皇民党事件 ニューリーダー(安竹宮)と中曽根裁定 消費税導入 昭和天皇崩御 竹下派七奉行 ネオ・ニューリーダー リクルート事件 参院選惨敗 バブル景気 自衛隊初の海外派遣 YKK 一龍戦争 一六戦争 安倍派四天王分裂と三六戦争 海部おろし バブル崩壊 東京佐川急便事件 ゼネコン汚職 KK戦争 経世会(金竹小)分裂 嘘つき解散 小選挙区比例代表並立制 自社さ連立政権 阪神・淡路大震災 失われた10年 六大改革と中央省庁再編の決定 保保連合構想 金融国会 ITバブル ブッチホン 五人組 KSD事件 加藤の乱 神の国解散 自公連立政権 聖域なき構造改革 金融再生プログラム 郵政民営化 年金未納問題(政治家の年金未納) 小泉劇場(小泉旋風)と抵抗勢力 日歯連事件(日歯連闇献金事件) 中二階と麻垣康三 美しい国 憲法改正論議(国民投票法) 防衛省昇格 教育基本法改正 価値観外交(自由と繁栄の弧) 再チャレンジ 年金記録問題 フールファイブ 大宏池会構想 参院選惨敗、第一党より転落 麻生包囲網 中宏池会 大連立構想 世界金融危機(リーマン・ショック) 麻生おろし 自民大敗、民主大勝 参院選勝利、改選第一党へ復帰 東日本大震災 三党合意(社会保障と税の一体改革) 結党以来初の総裁再登板 近いうち解散 3年ぶりの政権奪還、自公で2/3確保 アベノミクス 参院選圧勝、ねじれ解消 2020年夏季五輪開催地が東京に決定 国家安全保障会議創設 特定秘密保護法制定 防衛装備移転三原則 地方創生 一億総活躍社会 集団的自衛権の行使容認(平和安全法制) 森友学園問題及び加計学園問題 組織犯罪処罰法改正によるテロ等準備罪新設 都民ファーストの会と三大政党制 憲法改正論議 憲政史上初の皇位継承と令和改元 河井夫妻選挙違反事件 桜を見る会問題 新型コロナウイルス感染症の流行 岸破義信 安倍政権の継承 東北新社役職員による総務省幹部接待問題 2020年東京オリンピック・パラリンピック デジタル庁設置 未来選択選挙 新しい資本主義 ロシアによるウクライナ侵攻への対応 安倍晋三銃撃事件 参院選で改選過半数を獲得 安倍晋三元首相の国葬 旧統一教会問題 政治資金パーティー収入の裏金問題 岸田おろし 衆院選での与党大敗 石破おろし 30年ぶりの少数与党 国民民主党との政策協議開始 宏池会(宏池会系) 宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派) → 木曜研究会(加藤派 → 小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×) 、※新財政研究会(堀内派 → 丹羽・古賀派) → 宏池政策研究会(古賀派 → 岸田派 → ×)、※大勇会(河野派) → 為公会(麻生派) → 志公会(麻生派)、※有隣会(谷垣グループ → ×) 平成研究会(木曜研究会系) 木曜研究会(佐藤派) → 周山会(佐藤派) → 周山クラブ(保利グループ → 福田派に合流×)、※七日会(田中派) → 政治同友会(田中派) → 木曜クラブ(田中派 → 二階堂派 → ×)、※経世会(竹下(登)派 → 小渕派) → 平成政治研究会(小渕派) → 平成研究会(小渕派 → 橋本派 → 津島派 → 額賀派 → 竹下(亘)派 → 茂木派)、※改革フォーラム21(羽田・小沢派 → 新生党に合流×) 水曜会 水曜会(緒方派 → 石井派 → ×) 白政会 白政会(大野派) → 睦政会(大野派) → 一新会(船田派 → ×)、※一陽会(村上派) → 巽会(水田派 → ×) 清和政策研究会(十日会系) 十日会(岸派 → ×)、※党風刷新懇話会 → 党風刷新連盟 → 紀尾井会(福田派) → 八日会(福田派) → 清和会(福田派 → 安倍(晋太郎)派 → 三塚派) → 21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派 → 森派) → 清和政策研究会(森派 → 町村派 → 細田派 → 安倍(晋三)派 → ×)、※政眞会(加藤派 → 新生党に合流×)、※愛正会(藤山派 → 水田派に合流×)、※(南条・平井派 → 福田派に合流×)、※交友クラブ(川島派 → 椎名派 → ×)、※(亀井グループ → 村上・亀井派に合流×) 志帥会、近未来政治研究会(春秋会系) 春秋会(河野派 → 森派 → 園田派 → 福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派) → 政策科学研究所(中曽根派 → 渡辺派 → 旧渡辺派 → 村上派 → 村上・亀井派に合流×) → 志帥会(村上・亀井派 → 江藤・亀井派 → 亀井派 → 伊吹派 → 二階派)、※近未来政治研究会(山崎派 → 石原派 → 森山派 → ×)、※さいこう日本(甘利グループ)、※国益と国民の生活を守る会(平沼グループ → 日本のこころに合流×) 番町政策研究所(政策研究会系) 政策研究会(松村・三木派) → 政策同志会(松村・三木派) → 政策懇談会(松村・三木派 → ) → 政策懇談会(三木派) → 新政策研究会(河本派) → 番町政策研究所(河本派 → 高村派 → 大島派 → 山東派 → 麻生派に合流×)、※(松村派 → ×)、※(早川派 → 福田派に合流×) 二日会 火曜会(石橋派)、二日会(石田派 → 三木派に合流×) 青嵐会、自由革新同友会(中川グループ → 石原グループ → 福田派に合流×) 新しい波(二階グループ → 伊吹派に合流×) 83会、新しい風(武部グループ → ×)、伝統と創造の会(稲田グループ)、保守団結の会 さわらび会(石破グループ) → 水月会(石破派 → 石破グループ) 無派閥連絡会、無派閥有志の会、のぞみ(山本グループ)、きさらぎ会(鳩山グループ → 菅グループ)、 ガネーシャの会 自由民主党総裁選挙 総裁 - 副総裁 - 幹事長 - 総務会長 - 政務調査会長 - 国会対策委員長 - 参議院議員会長 - 選挙対策委員長 - 幹事長代行 - 総裁特別補佐 自由民主党国会議員一覧 - 総務会 - 政務調査会 - 税制調査会 - 国会対策委員会 - 参議院議員団 - 青年局 - 学生部 - シャドウキャビネット - 中央政治大学院 - シンクタンク2005・日本 - 過去を学び、分厚い保守政治を目指す若手議員の会 - 文化芸術懇話会 - アベノミクスを成功させる会 - 日本教職員組合問題究明議員連盟(議員連盟) - 国民政治協会(政治資金団体) - 自由社会を守る国民会議(党友) - 自由民主党同志会(院外団) - 自民党ネットサポーターズクラブ 自公民路線 自共共闘 自社さ連立政権 保保連合構想 自公連立政権 大連立構想 創生「日本」 新自由クラブ 新党さきがけ 新生党 自由改革連合(改革の会 - 自由党 - 新党みらい - 高志会) 国民新党 新党日本 新党大地 新党改革 日本維新の会 沖縄自由民主党 新自由クラブ 税金党 保守新党 日本のこころ (自由党 → 憲政党 → 立憲政友会 → 同交会 → )日本自由党 → 民主自由党 → 自由党 (立憲改進党 → 進歩党 → 憲政本党 → 立憲国民党 → 立憲同志会 → 憲政会 → 立憲民政党 → 翼賛議員同盟 → 翼賛政治会 → 大日本政治会 → )日本進歩党 → 民主党 → 国民民主党(国民協同党が合流) → 改進党 → 日本自由党 → 日本民主党 (護国同志会 → )日本協同党 → 協同民主党 → 国民協同党 → 民主党と合同し国民民主党を結党 国民政治協会(政治資金団体) - 自由社会を守る国民会議(党友) 日本行政書士政治連盟 - 日本司法書士政治連盟 - 全国土地家屋調査士政治連盟 - 日本公認会計士政治連盟 - 全国社会保険労務士政治連盟 - 日本酒造組合連合会 - 日本蒸留酒酒造組合 - ビール酒造組合 - 日本洋酒酒造組合 - 全国卸売酒販組合中央会 - 全国小売酒販政治連盟 - 全国たばこ販売政治連盟 - 全国たばこ耕作組合中央会 - 全私学連合会 - 全日本私立幼稚園連合会 - 全国専修学校各種学校総連合会 - 全日本教職員連盟 - 日本私立中学高等学校連合会 - 一般社団法人全国教育問題協議会 - 全国ゴルフ関連団体協議会 - 私立幼稚園経営者懇談会 - 全国私立小中高等学校保護者会連合会 - 神道政治連盟 - 財団法人全日本仏教会 - 天台宗 - 高野山真言宗 - 真言宗智山派 - 真言宗豊山派 - 浄土宗 - 浄土真宗本願寺派 - 真宗大谷派 - 臨済宗妙心寺派 - 曹洞宗 - 日蓮宗 - インナートリップ・イデオローグ・リサーチセンター - 崇教真光 - 立正佼成会 - 佛所護念会教団 - 妙智会教団 - 新生佛教教団 - 松緑神道大和山 - 世界救世教 - 日本医師連盟 - 日本歯科医師連盟 - 日本薬剤師連盟 - 日本看護連盟 - 日本製薬団体連合会 - 日本保育推進連盟 - 日本柔道整復師会 - 日本歯科技工士連盟 - 全国介護政治連盟 - 全国旅館政治連盟 - 全国飲食業生活衛生同業組合連合会 - 全日本美容生活衛生同業組合連合会 - 全国クリーニング業政治連盟 - 環境保全政治連盟 - 日本環境保全協会 - 日本造園組合連合会 - 全国ビルメンテナンス政治連盟 - 全国商工政治連盟 - 全国石油政治連盟 - 全国LPガス政治連盟 - 日本商工連盟 - 全国中小企業政治協会 - 全国商店街政治連盟 - 社団法人日本調査業協会 - 社団法人全日本ダンス協会連合会 - 全国農業者農政運動組織協議会 - 21全国農政推進同志会 - 日本森林組合連合会 - 社団法人全国林業協会 - 日本酪農政治連盟 - 全国畜産政治連盟 - 全国漁業協同組合連合会 - 大日本水産会 - 日本自動車工業会 - 日本中古自動車販売協会連合会 - 日本自動車販売協会連合会 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 日本自動車整備振興会連合会 - 社団法人全日本トラック協会 - 東日本ときわ会宮城県支部 - 21テレコム会議 - 全国土地改良政治連盟 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 社団法人全国建設業協会 - 社団法人日本建設業団体連合会 - 社団法人日本建設業連合会 - 社団法人日本建設業経営協会 - 社団法人全国中小建設業協会 - 社団法人日本道路建設業協会 - 社団法人日本橋梁建設協会 - 社団法人建設コンサルタンツ協会 - 社団法人プレストレスト・コンクリート建設業協会 - 社団法人建設産業専門団体連合会 - 社団法人日本鳶工業連合会 - 社団法人日本造園建設業協会 - 社団法人全国建設業産業団体連合会 - 社団法人全国測量設計業協会連合会 - 社団法人全国地質調査業協会連合会 - 社団法人全国さく井協会 - 社団法人建設電気技術協会 - 日本下水コンポスト協会 - 社団法人全国道路標識・標示業協会 - 社団法人全国鐵構工業協会 - 社団法人日本建設躯体工事業団体連合会 - 社団法人日本塗装工業会 - 一般社団法人日本プレハブ駐車場工業会 - 社団法人不動産協会 - 全国不動産政治連盟 - 全日本不動産政治連盟 - 社団法人住宅生産団体連合会 - 全国生コンクリート工業組合連合会 - 軍恩連盟全国協議会 - 日本傷痍軍人会(解散) - 社団法人日本郷友連盟 - あすの会(解散) 表 話 編 歴 重富卓 受田新吉 田村虎一 守田道輔 中嶋勝一 佐藤栄作 青柳一郎 田中尭平 受田新吉 高橋定一 久原房之助 佐藤栄作 受田新吉 青柳一郎 西村茂生 佐藤栄作 受田新吉 岸信介 青柳一郎 石村英雄 佐藤栄作 岸信介 高村坂彦 受田新吉 石村英雄 岸信介 佐藤栄作 受田新吉 橋本正之 石村英雄 佐藤栄作 小澤太郎 岸信介 石村英雄 受田新吉 佐藤栄作 受田新吉 大村邦夫 山田耻目 岸信介 佐藤栄作 小澤太郎 岸信介 受田新吉 山田耻目 佐藤栄作 岸信介 小澤太郎 宮井泰良 受田新吉 山田耻目 佐藤栄作 岸信介 受田新吉 小澤太郎 宮井泰良 岸信介 山田耻目 受田新吉 高村坂彦 佐藤信二 吹田愰 山田耻目 吉井光照 部谷孝之 佐藤信二 吹田愰 高村正彦 山田耻目 部谷孝之 小沢克介 吉井光照 吹田愰 佐藤信二 高村正彦 吹田愰 佐藤信二 高村正彦 吉井光照 小沢克介 小沢克介 高村正彦 吹田愰 佐藤信二 吉井光照 松岡満寿男 吹田愰 佐藤信二 高村正彦 桝屋敬悟 表 話 編 歴 第90代内閣総理大臣(2006 - 2007) 第96-98代内閣総理大臣(2012 - 2020) 第72代内閣官房長官(2005 - 2006) 衆議院議員(1993 - 2022) 第21代自由民主党総裁(2006 - 2007) 第25代自由民主党総裁(2012 - 2020) 第1次安倍内閣
第2次安倍内閣
第3次安倍内閣
第2次改造 第3次改造 第4次安倍内閣
第2次改造 旧山口1区
山口4区
第42回 第43回 第44回 第45回 第46回 第47回 第48回 第49回 2006年 2012年 2015年 2018年 教育基本法の改正 防衛庁の省への昇格 国民投票法の制定 自由で開かれたインド太平洋戦略
女性活躍推進 人生100年時代 積極的平和主義 戦後レジームからの脱却 アベノミクス 国家安全保障会議の創設 特定秘密保護法の制定 平和安全法制の整備 改正組織犯罪処罰法
地方創生 憲政史上初の天皇退位による皇位継承の実現 安倍昭恵(妻) 安倍晋太郎(父・故人) 安倍洋子(母・故人) 安倍寛信(兄) 岸信夫(弟) 岸信千世(甥) 安倍寛(祖父・故人) 西村正雄(叔父・故人) 岸信介(祖父・故人) 岸良子(祖母・故人) 佐藤市郎(大伯父・故人) 佐藤栄作(大叔父・故人) 美しい国へ 安倍晋三 回顧録(没後に刊行) 日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ 森友学園問題 加計学園問題 桜を見る会問題 河井夫妻選挙違反事件 旧統一教会問題 安倍晋三宅火炎瓶投擲事件 安倍晋三銃撃事件 美しい国 日本を、取り戻す。 この国を、守り抜く。 麻生太郎 阿比留瑠比 甘利明 有本香 飯島勲 石橋文登 和泉洋人 井上義行 今井尚哉 岩田明子 衛藤晟一 小川榮太郎 加計孝太郎 加藤勝信 加藤清隆 北村滋 金美齢 小泉純一郎 佐伯耕三 櫻井よしこ 塩崎恭久 島田洋一 菅義偉 杉田和博 世耕弘成 高市早苗 高橋洋一 田﨑史郎 谷口智彦 津川雅彦 萩生田光一 長谷川榮一 長谷川三千子 平井文夫 平川祐弘 藤井聡 前田晋太郎 森喜朗 谷内正太郎 柳瀬唯夫 山口敬之 吉田真次 渡部昇一 麻垣康三 あべぴょん アベガー 安晋会 うちで踊ろう 潰瘍性大腸炎 ご飯論法 アベノマスク アベ政治を許さない 故安倍晋三国葬儀 妖怪の孫 産経新聞 安倍派5人衆 安倍おろし カテゴリ コモンズ ウィキニュース ウィキクォート ウィキソース FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イスラエル アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research ドイッチェ・ビオグラフィー 公文書館(アメリカ) SNAC IdRef 佐藤栄作 日本の内閣総理大臣 昭和時代戦後の閣僚 日本の大蔵大臣 科学技術庁長官 北海道開発庁長官 日本の建設大臣 日本の通商産業大臣 日本の郵政大臣 日本の内閣官房長官 運輸事務次官 日本の鉄道官僚 自由民主党総裁 自由民主党の衆議院議員 自由党(日本 1950-1955)の衆議院議員 山口県選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 在職中に死去した衆議院議員 20世紀日本の政治家 20世紀アジアの統治者 格闘技の関係者 極真会館の人物 成田空港問題に関連する政治家 大阪万博に関係した人物 田布施佐藤家 従一位受位者 大勲位菊花章頸飾受章者 大勲位菊花大綬章受章者 法学士取得者 日本のノーベル賞受賞者 ノーベル平和賞受賞者 日本の死刑廃止論者 山口県立山口高等学校出身の人物 旧制第五高等学校出身の人物 東京大学出身の人物 山口県出身の人物 1901年生 1975年没 Pages using the JsonConfig extension 出典のページ番号が要望されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ プロジェクト人物伝項目 2024/11/21 06:37更新
|
satou eisaku
佐藤栄作と同じ誕生日3月27日生まれ、同じ山口出身の人
TOPニュース
佐藤栄作と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「佐藤栄作」を素材として二次利用しています。