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大山倍達の情報 (おおやまますたつ)
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【11月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

大山倍達の情報(おおやまますたつ) 格闘家/空手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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大山 倍達さんについて調べます

■名前・氏名
大山 倍達
(読み:おおやま ますたつ)
■職業
格闘家
空手
■大山倍達の誕生日・生年月日
1923年6月4日 (年齢1994年没)
亥年(いのしし年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
東京出身

大山倍達と同じ1923年生まれの有名人・芸能人

大山倍達と同じ6月4日生まれの有名人・芸能人

大山倍達と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


大山倍達と関係のある人

山崎照朝: 記者が本業である山崎は空手で生活の糧を稼ぐのではなく、場所代など経費の都合上から月謝は発生していても、自身はあくまでもボランティアとして、近所の子供たちと山崎を慕ってくる人たちに、自らが大山倍達という偉大な師から受け継いだ空手を教え続けている。


山崎照朝: 山崎は断り続けていたので、プロモーターはとうとう大山倍達に泣きついた。


芦原英幸: しかし1980年9月、自らの弟子石井和義に命じた芦原道場の関西進出などが原因となり、師である大山倍達と対立し極真会館を永久除名される。


山崎照朝: 友人は田舎に帰ったり、アルバイトしたりといろいろな過ごし方をしていたが、山崎は大山倍達の勧めもあり空手の稽古に専念することにした。


平岡正明: 大山倍達の極真空手にも入門し、有段者である。


芦原英幸: 芦原は決して大山倍達だけではなく、他の極真空手高弟達とも少なからず確執があったと伝えられている。


山崎照朝: 同年の秋、選手を引退していたものの大山倍達の命令で第4回全日本選手権に2年ぶりに参戦。


増田章: しかし、極真会館は大山倍達の死後、わずか1年で組織が分裂する騒動が勃発する。


渥美二郎: 大山倍達が名付け親となり「渥美健」の芸名で、1975年の東映映画『けんか空手 極真拳』の挿入歌『空手


遠藤幸吉: 1952年、「コウ東郷」を名乗り、空手家の大山倍達(マス東郷)とともにアメリカ遠征。


武田邦太郎: 開墾作業には町井久之、大山倍達、さらには戦前、大逆罪に問われたアナーキストの朴烈らも参加した。


添野義二: 館長の大山倍達を筆頭に、大山道場時代からの師範代である石橋雅史・黒崎健時らが指導を行っていた。


山崎照朝: 東京12チャンネルもキックボクシングへ参入し、キック戦国時代と呼ばれて4局視聴率争いにしのぎを削るブームだったが、NETは選手集め・マッチメイク・運営の手法で他局より杜撰であったことや、立ち上げ初期は極真ジムとして極真会館の全面協力と大山倍達自らプロモーションに関わっていたが、その一方で全日本選手権の準備に忙殺されていたことから、徐々に協力的でなくなったということも原因と云われている。


三浦美幸: 同年、大山倍達よりシカゴ支部長に任命され、渡米。


小島一志: 2014年に松井章圭との共著で『大山倍達の遺言を背負って…』(仮)を出版予定であることが2013年6月に発表されていたが、現在ブログ上の出版予定からは消えている。


黒崎健時: 黒崎の厳しい指導でオランダに格闘技を根付かせることができ、その名残で極真会館から離脱したジョン・ブルミンの極真武道会と現存の極真会館のオランダ支部道場には、大山倍達と黒崎の写真が飾られている。


山崎照朝: 同月21日に大山倍達以下、大山泰彦・山崎・添野・鈴木浩平・三浦美幸・佐藤勝昭・磯部清次・大石代悟、ハワード・コリンズなど黒帯・茶帯約20名からなるメンバーが、赤坂の迎賓館に訪問。


山崎照朝: 会社勤めをしながら、十分に納得できる稽古を積めずギリギリまでやった山崎だが、限界まで来たと決断して大山倍達に道着を返した。


増田章: 開始前に大山倍達は「対戦者は真剣に戦え。


アンディ=フグ: 大山倍達総裁の「止めがかかったとはいえ、その不意をつかれる者は勝者ではない」という判断により一本負けとなった)。


芦原英幸: 口も聞いてくれない師大山倍達の代わりに「ご苦労さん、君はもう来なくていいんだよ」と、無期禁足処分を伝えたのは師範の黒崎健時であった。


添野義二: しかし、復帰が認められなかった事から「大山倍達と梶原一騎の対立のあおりで、添野がスケープゴートにされた」、「 (当時の規則で全日本チャンピオンは出身地に道場を開ける) を活用した 盧山初雄が川口市に支部を開設した。


つのだじろう: 『空手バカ一代』を連載していた際、作品のモデルとなった極真会館に通い、大山倍達から直々に稽古をつけて貰っていたという。


前田日明: 空手は無想館拳心道館長の岩崎孝二から学んで二段を取得し、極真空手の大山倍達の弟子たちのようにアメリカで空手道場を開きたいという夢を持っていた。


山崎照朝: 大山倍達は当時の高弟から山崎・添野義二・及川宏を選出して極真ジム所属のキックボクサーとして参戦させ、彼らは「極真三羽烏」と紹介された。


山岡徹也: 柔道一直線(1969年、TBS / 東映) - 大山倍達


芦原英幸: 極真会館を退会した直後、ある後援者に「これで大山とは師でも弟子でもなくなったな」と言われた際に「私の師匠は今も昔も大山倍達です」と静かに返したという逸話が、芦原の逝去を伝える『ゴング格闘技』に掲載された。


松井章圭: 大山倍達、盧山初雄と共に日本における極真空手道の普及に貢献した。


数見肇: また、大山倍達が優勝杯を渡した最後のチャンピオンとなった。


藤巻潤: 姉が大山倍達の妻であることが縁で、大山道場で空手道の修練をし、黒帯を


大山倍達の情報まとめ

もしもしロボ

大山 倍達(おおやま ますたつ)さんの誕生日は1923年6月4日です。東京出身の格闘家
空手のようです。

もしもしロボ

卒業、結婚、兄弟、映画、家族、現在、テレビ、ドラマ、引退に関する情報もありますね。1994年に亡くなられているようです。

大山倍達のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

大山 倍達(おおやま ますたつ、韓国名: 崔 倍達〈チェ・ベダル、朝: 최배달〉、民族名: 崔 永宜〈チェ・ヨンイ、チェ・ヨンウィ、朝: 최영의〉、1923年〈大正12年〉6月4日 - 1994年〈平成6年〉4月26日) は、空手家で極真会館創始者、国際空手道連盟総裁。段位は十段。別名はマス大山。日本統治時代の朝鮮出身。

1970年代に週刊少年マガジンに連載された劇画『空手バカ一代』での主人公であり国内外に極真カラテの普及に努めた。

注意
以下は本人の著書・自称などに基づく客観的に確認できない情報を含んでいます。
父・崔承玄(チェ・スンヒョン、최승현)と母・金芙蓉(キム・ブヨン、김부용)との間に、6男 1女の第4子として当時日本領であった朝鮮全羅北道金堤市で生まれた。大東亜戦争終結に伴い日本が朝鮮半島の領土から撤退し、1948年に同地に大韓民国が建国された後は朝鮮籍となったが、1968年(昭和43年)に日本国籍を取得し通称名大山倍達を本名として登録した。 一時期、崔猛虎(チェ・メンホ、최맹호)、大山猛虎、大山虎雄、崔倍達(チェ・ベダル、최배달)などを名乗っていた事もある。大山の姓は、書生として住み込んでいた大山家(大山茂、大山泰彦の実家)の恩義から名乗ったとする説があり、日本名にも使った「倍達」とは朝鮮(韓国)の雅名の一つ(そのため朝鮮民族は「倍達の民」「倍達民族」を美称として使うことがある)。 幼少期は満州国と朝鮮半島で育ち、16歳で日本一の軍人を志し、山梨県の山梨航空技術学校〈現・日本航空高等学校|日本航空学園)〉に入学。
      日本航空高校50周年記念アルバムにも昭和17年卒業写真が現存している。

      きつい肉体労働でアルバイトをしながら学校へ通い、当時難関であった陸軍士官学校へ入学する為の受験勉強も少ない時間の中で行うという苦学生の身であった。

      この当時の大山の格闘技のベースは朝鮮時代の中学で習っていたボクシングであった。

      1943年(昭和18年)6月に空手道を松濤館流の船越義珍に師事、その後山口剛玄に剛柔流を主に学ぶ。山梨少年航空技術学校卒業後に陸軍士官学校を受験するも失敗し挫折する。だが、当時拓殖大学学生であった木村政彦が、柔道界最高の栄誉であった天覧試合優勝を成し遂げた事に感動し、同じ拓殖大学に入学したとされる。同大学では司政科に在籍したとされ、政治家を志したらしい。

        拓大学務課や同学友会によると拓殖大学に在籍していた事実はないという(『大山倍達正伝』p.116 小島一志・塚本佳子(著)、新潮社、2006/7/28、ISBN 978-4103014515)。

        石原莞爾主催の東亜連盟協会に参加する等の活動をするも、昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争が勃発。徴用工として千葉県館山郊外の飯場で軍関連の土木工事に従事。終戦前に海軍の「特攻隊」に志願したが終戦を迎えて出撃出来なかったらしいという逸話もあるがそのような事実はない(これは梶原一騎原作の劇画『空手バカ一代』の主人公、大山倍達のキャラクター設定となっている)。 終戦直後の1945年に組織された在日朝鮮人による「健青」「健同」「民団」などの争いで、それらの団体の黒幕の一人である曹寧柱の直弟子である大山は組織間の衝突の際に、最前線に経って大人数相手の喧嘩を続けた。まだ若くすぐに腕力に訴える大山は当時の民族運動家の間では評判が悪かったという。

        1946年4月に早稲田大学高等師範部体育科に合格し入学する。大山曰く「こう見えても私の頭はボンクラじゃなかったんだ」

        【学部変遷】 早稲田大学高等師範部体育科 → 早稲田大学教育学部体育専修 → 人間科学部スポーツ科学科 → スポーツ科学部

          大山倍達はスポーツ特待生ではなく一般入試の学籍証明書が早稲田大学から発行されている)中退。

          【早稲田大学・学籍証明書】

            氏名〈崔永宜 (改姓届:1968年 (昭和43年) 大山倍達〉

            生年月日〈1923年 (大正12年) 6月4日生〉

            学部・学科・専修〈早稲田大学高等師範部体育科〉

            入学年月日 〈1946年 (昭和21年) 4月〉

            卒業・退学等年月日〈1948年 (昭和23年) 除籍〉

            除籍の理由について大山は「学費が払えなかった」とか「学業以外にやりたいことがあった」等と答えている。

            終戦後は千葉を中心に、日本の領土から離れた朝鮮半島の民族運動に参加したとする説もある。また、「山篭り」で空手修行に励んだともいう。1946年(昭和21年)6月に俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子と結婚。このときの媒酌人は田中清玄。3人の女の子(留壹琴・恵喜・喜久子)をもうける。

            1947年(昭和22年9月)に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝。

            1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効以降は日本国籍を喪失し朝鮮籍となるが、引き続き日本で活動を続ける。 同年、プロ柔道の遠藤幸吉四段と共に渡米。 全米各地で在米のプロレスラーグレート東郷の兄弟という設定(Mas. Togoのリングネーム)で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラーやプロボクサーと対決したとされる。帰国後大山は、牛を素手で倒し(合計47頭、うち4頭は即死)、その映像は映画『猛牛と戦う空手』1954年(昭和29年)として公開された。

            多くの武道家と交流し、また世界各国を巡りさまざまな格闘技を研究、空手の指導を行い、直接打撃制の空手(極真空手・フルコンタクト空手)を作り出した。短期間ではあるが、1956年(昭和31年)に大東流合気柔術の吉田幸太郎から合気柔術とステッキ術も学んだ。その他、講道館柔道を曾根幸蔵九段に、ボクシングをピストン堀口にそれぞれ師事。

            目白の自宅の野天道場、池袋のバレエスタジオ跡の大山道場を経て、1964年(昭和39年)国際空手道連盟極真会館を設立し、数々の名だたる弟子・名選手を輩出している。多くのフルコンタクト系各流派を生み出す元ともなった。

            1994年(平成6年)4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。豪快で情に厚い人物であったという。訃報を受けて、添野義二、東孝など、既に極真を去った元弟子達も多数極真会館総本部に駆けつけ、その死を悼んだ。特に添野は「極真会館」という組織は除名されていても、大山とは私的に家族ぐるみでの交友が続いていたこともあり、「悲しいねえ…!」と人目も憚らず泣き崩れていた。

            死亡直前の4月19日に立会証人5人の下で松井章圭を後継者とする旨などとした危急時遺言が作成されたが、公証役人がいなく、妻の智弥子に知らされていなかったことから大きな確認裁判へと発展。裁判ではこの危急時遺言について、立会証人の中に遺言によって組織上の地位を得る利害関係者がいたこと、その利害関係者が立会証人として遺言内容の決定に深く関わったことなどから、大山が遺言者として遺言事項につき自由な判断のもとに内容を決定したものか否かにつき疑問が強く残ると判断されて、1995年4月に「遺言書は無効」と家庭裁判所に却下された。

            大山には、「韓国にも戸籍があり妻と3人の息子がいる」と言われたが、韓国の戸籍とされた書類は生年が違うことから、「同一人物ではない」と東京法務局と裁判所で認定された。 なお、韓国の戸籍では1922年生まれとなっており、実際の生年は通例の1923年ではなく、1922年と推定される資料もあるが、死亡時の裁判にて否定されている。

            大山は、多額の財産を残したものの、極真会館を法人化するなどの措置は一切とらず、その財産が、誰のものかという点が曖昧になっていたため、裁判沙汰になってしまっている。

            注意
            以下は本人の著書・自称などに基づく客観的に確認できない情報を含んでいます。
            日本に渡る前の朝鮮時代、中学入学後に、中退するまでの三年間はボクシングを習う。その後1939年、釜山にやって来た曹寧柱の講演に感動して、その場で曹に日本行きを直訴、同年の暮れに渡日して曹のもとで剛柔流空手を学ぶ。
            ウエイトトレーニングに励む28歳の大山倍達。
            青年時代より、日本ボディビル界の祖と言われた若木竹丸の著書「怪力法」に影響を受け、戦後実際に若木よりウエイトトレーニングの指導を受けた。発達した胸筋と背筋のためレントゲン撮影では薄く影が出来るほどであったといわれる。またパンチ力の増強のために懸垂が有効と聞けば、最後は片手懸垂を連続20回こなすほど腕力があった。 その反面、若い頃の大山の空手は、荒々しく実戦を重視しすぎていたため、巻き藁突き・サンドバッグ・組手稽古・ボディビルの鍛錬ばかりして、型の稽古を嫌い、たびたび先輩方から苦言を受けるほどであった。
            大山に黒帯を允許した松濤館の船越義珍。1年3カ月での異例のスピードだった
            空手修行時の大山を知る空手関係者は異口同音に「彼は力は強いし、組手や実戦は強いが型は下手」と語っていた。ただし、壮年期から晩年にかけて好んで剛柔流の「転掌」や「鉄騎」を演じるフィルムが現存し型稽古を見ることができる。第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会において、最後の演武は創作型「円転掌」であった。 『空手バカ一代』の爆発的人気により、伝説的存在として「大山神話」が広まったが、実際のところ戦後の一時期においては、敗戦という心の痛手のために、暴力団の用心棒稼業を行ったり、娼婦といちゃつく連合国軍の兵士を叩きのめして回り、指名手配されるなどの荒れた生活であった。連合国軍の憲兵隊から追われる身となった大山は一度逮捕されるが、すきを見て脱走。衆議院議員であった小沢専七郎の助力で身を隠すために仕方なく身延山、それに引き続き清澄山に山篭りすることとなった。 松濤館の船越義豪から1年3か月で初段を得て以降、剛柔流の山口剛玄や曺寧柱(書籍における日蓮宗僧籍“曺七大師”)、大東流合気柔術の吉田幸太郎、朝鮮YMCAからアマチュア・ボクシング、ピストン堀口からプロボクシング(実際地方のボクシング興行で試合した経験もあり)、曾根道場での講道館柔道(四段)、若木竹丸や井口幸雄などからボディビルや重量挙げ、金城裕から沖縄空手との交流や空手界の古老との仲介役になってもらったりと、当時としても多岐に渡る格闘技、武術関係者との親交を深める。
            柔道家の木村政彦。大山は木村とも親交があった
            また、武術修行のみならず、船越門下では実力随一であった船越義珍の三男「義豪」を見舞ったり、本部朝基の弟子、山田辰雄(書籍では由利辰朗)、太気拳の澤井健一、玄制流空手、躰道の祝嶺正献、虎殺しの空手家である山元勝王などとも親交を結んでいた。 合気道家の塩田剛三は拓殖大学の先輩にあたるとされ、澤井健一と共に養神館本部道場で稽古を見学したこともある。拓殖大学には先輩とされる、木村政彦も居る。大山は若い頃この木村の強さに惹かれ柔道の試合を観戦しているが、晩年「木村の全盛期ならヘーシンクもルスカも3分もたないと断言できる」と言っている。 この木村政彦との戦後の深い親交については『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也)に詳述されている。この作品は、木村政彦vs力道山戦で木村が力道山のブック破りでKOされた時にリングサイドにいた大山を克明に描写している。木村がリングに倒れた時、大山はその場で立ち上がってリングに上がろうとするが、周りの人間が必死に止めている。また増田は、柔道側からの新視点による綿密な取材から「大山は間違いなく日本屈指のストライカー(打撃格闘家)だった」と断言している。
            極真会館初代会長の佐藤栄作首相。大山は政治家などとも親交を持っていた。
            著名な政治家とも親交があり、極真会館の初代会長を衆議院議員の佐藤栄作(極真会館設立の3か月後に首相に就任)、副会長を衆議院議員の毛利松平が務めた。衆議院議員であった辻兼一や同じく衆議院議員の小沢専七郎は、戦後の荒れた時期、大山の庇護を行っていた。 他に親交があった人物としては漫画原作者の梶原一騎が挙げられ、双方が互いに精神的・物質的に大きく影響し合った。『空手バカ一代』の制作などを通じ大山は梶原とその実弟である真樹日佐夫それぞれと義兄弟の契りを結ぶなど親交を深めていくが、やがて映画『地上最強のカラテ』の利益分配をめぐるトラブルなどから関係が悪化し、義兄弟関係も絶えることになる。ただ晩年は梶原に対する気持ちは氷解していたようで入院中の梶原に対し匿名で励ましのハガキを出すなどしていた。その他に親交のあった作家としては森川哲郎が挙げられる。 1991年(平成3年)の第5回全世界選手権におけるアンディ・フグ - フランシスコ・フィリォ戦で、試合終了の合図が入ったが、フィリォが構わず左上段回し蹴りをして、アンディ・フグが失神したのを見て「止めが入ってたとはいえ、倒された者は勝者にふさわしくない」とし、フグの反則勝ちにはせずフィリォの一本勝ちを認めた。 大山は極真会館の門弟にとっては何者にも代え得ない絶対無比のカリスマであった。それゆえに1994年(平成6年)の大山の死は、上位クラスの指導者や大山の遺族などの間で“極真”の主導権や方向性・商標、そして大山の後継者の座を巡っての数多くの諍いが繰り広げられる直接の引き金となった。かくて、大山が作り上げた極真空手は内紛と分裂、さらには大山の“極真”の正当後継を自認する団体の乱立で現在に至るまで揺れ続けている。 一方で極真会館(松井館長)の機関紙、ワールド空手の編集を請負い、大山倍達正伝などの著作がある作家小島一志は大山を「劇画や著書の内容は95%が虚飾であり何もかも嘘で固めた人生を送ったのが大山倍達という人間の素顔」と評し、小島が聞いたとする黒崎健時の大山倍達に対する評価として「何一つ師らしいことをしていない」「喧嘩ができない最低の大法螺吹き」「最低の人間」と記している。なお黒崎は件の発言の前に「空手では私より強くても」と前置きしている。また、全盛期の大山の強さを知らない入門したての東孝に、「(大山)館長は若い頃強かったですか?」と聞かれ「強かったよ。俺が勝てなかったんだから」と答えている。なお大山茂は創生期の極真会館で大山倍達は本気で弟子の中段を突くことはKO必至のために避けていたと証言する(後述)。

            組手スタイル

            大山の組手スタイルについて高弟はそれぞれ次のように証言している。
            石橋雅史
            立ち方は両足に均等に体重をかけた「自然体」に近い立ち方を用い、片方の掌でみぞおちをカバーしている。構えから間合いをつめる場合は、ただ歩を進めるのではなく、掌を外側に向けて回しながら、掌の旋回がそのまま「掛け受け」になっている状態で前進する。大山先生は組手では決して後ろに下がることはなく、攻撃を捌きながら側面に回って反撃する動きを身上としていた。剛柔流の型を生かし、
              掛け受けからの掌底打ち、

              手刀上段受けから正拳回し打ちまたは手刀打ち、

              相手の肘関節の逆を取る

              弓張受けからの孤拳受け

              猫足立ちから下突きに繋ぐ掛け受け、

              猫足立ちから逆技につなぐ掛け受け

              など、円型逆突きを基本にした掛け受けからの手技を多用し、手刀・回し打ち・掌底打ちなどの円の攻撃、また、相手の攻撃をかわしながら入る柔の歩法などに長じていた。しかも、その動きは剛柔流の型の中に見出せるものが多く、大山先生は、ある意味で伝統の空手の動きを組手でそのまま体現できる数少ない達人のひとりであった

              総裁の組手で多かったものは、遠い間合いは両手を前に出して「前羽の構え」で構えて、近づくとダイナミックな動きになる。よく使われていたコンビネーションは、左足前の構えのままで右手を前に出し相手の前手をひっかけ左の掌底、このあとに右の貫手・右の金的蹴りへと繋げる。ストレートな攻撃が得意だった。蹴りも前蹴り・後ろ蹴りといった直線的な攻撃が得意だった。左の前蹴りを出して、回転して右の後ろ蹴りを出したりね。この時の後ろ蹴りは、腰を入れた横蹴りぎみのやつだね。私も参考にさせてもらった。でも、総裁の蹴りの中で一番危なかったのは何と言っても金的蹴りだね。泰彦なんかも当時一番動いたからね。よく金的蹴りを喰らっていた。当時は毎日、総裁ひとりで何十人も組手の相手をしていた。とにかく総裁との組手はいい思い出ですよ。

              総裁は体は大きかったけれども、組手になると動きに柔らかさがあり、手が上から下から横から出たりしていた。普通の人だと一、二と真っ直ぐに来てそれから横の技となるんだけど、総裁の場合、いきなり裏拳だったり回し打ちが下からくる。ある時は裏拳打たれて右の正拳をお腹にポーンともらったり、ある時は摑まれて投げられたりした。とにかく総裁の両手が変幻自在で何が来るか、全く分からなかった。あとは目突きと金的蹴りかな。目突きは横から下からパッと入れられてしまうので「アッイテ」と思ったときには涙が出てた。金的蹴りも総裁の得意技で、蹴りを大きく蹴っていくとパチンとスナップをきかせて蹴られる。すると総裁は「キミ、金的は男の魂だよ。ケ、ケ、ケ」と(笑)。金的蹴りは私もよく真似した。

              総裁はよく私の突きや蹴りをその大きな体で受けてくれた。「叩いてこい」というので、思い切り叩くと汗がパチッとはね返ってくる。「もっと強く」と再び言われ、「よーし」ともう1回叩くと上から掌底で頭をガチンと叩かれ、グシャと総裁の足元に潰されてしまう。でも、私たちには思い切りは攻撃しなかったね。裏拳でもキチっと握るんじゃなくて軽く握ってパンという感じだった。だから、総裁と組手をして次の日に残るケガというのはなかった。他の黒帯の人たちの方がイヤだったよ。総裁との組手は「パチっ」とのばされるんだけど気持ちよかった。「泰彦、頑張れ」という意味で叩いたと思う。それだけ弟子のことを思っていたんだと思うよ、総裁は。

              でも、僕なんかじゃなく、もっとうまい上手な先輩とやる時は正拳も使うこともありましたよ。僕は高一でまだ始めて間もない頃で館長も手加減してくれていましたが、安田先輩や茂さん、泰彦さんなんかと、組手をするときは激しくやってましたね。大山館長は右の正拳が得意だったようですが、直線的な正拳だけでなく、回して打つ正拳もよく使っていましたね。それが回し打ちとは違って、正拳の背刀部側の拳頭で打つんです。館長の正拳は普通の人の何倍も拳頭が大きく、いろんな角度から鍛錬されていましたから、その拳頭の背刀部側をフックのように使い、相手が前へ出てくると、サッと左側45度へ体サバキして、すれ違いざまに右の正拳回し打ちを当てるんです。ただし、顔面やみぞおちは危ないので、わざと胸を狙って入れてましたね。

              館長の組手は柔らかく受け、変幻するけれども、極めの時は「ウウッ!」と腹から呼吸というか気合を出し、瞬間的にすごい威圧感を感じさせるんです(原文ママ)。こちらは自由に攻撃させてくれるんですが、他から見るとあまり動いていないように見えるんです。実際に大山館長と向き合うと、撹乱されて攻められないんですね。「上からくるか下からくるか?」と思っているうちに倒されてしまう。最初は間合いが遠くて、こちらは突いたり、蹴ったりできるんですが、わからないうちにスーッと入ってきて、瞬間に何か小技を出してきてやられてしまう。今思うと、遠い間合いの攻撃も全て館長にコントロールされていたんでしょうね。館長はダイナミックな攻めの方に、接近すると相手の突きを孤拳で受け、その手を掌底に返して腹を打ったり、手刀に変化させたり非常に小技もうまい方でした。たぶん当時は30代前半の一番円熟していた時期だったんじゃないでしょうか。大山館長はあの大きな体で動きが速く、足も股割りで全部開く柔軟性をお持ちでした。回し蹴りも横蹴りも上段にヒュッと上がりましたよ。組手のときはほとんど中足で回し蹴りを使い、やはり強く当てないように気を使っていましたね。でも一番の得意技はやはり右の正拳で、掌底や孤拳はそれを使うための付随する技だったと思います。

              大山の異種格闘技戦について、遠藤幸吉は極真会館の機関誌であるパワー空手の取材に対して「いろんな事がありました。詳しい事は大山さんに聞いて下さい」と多くは語っておらず、1995年発売の〈大山倍達とは何か?〉というムックの中で、アメリカでの大山は試し割りなどのデモンストレーションだけで実際に闘ってはいないと語り、そのインタビューの時は「私が知らないところでやったんじゃないの?」と話していた。

              基佐江里の告白

                パワー空手のインタビュアーである基は大山没後に出版した〈大山倍達の真実〉の中で遠藤に〈大山倍達とは何か?〉と同じ内容の話を聞かされていた、と告白している。が、存命中の大山に質す事が出来ず遠藤の「いろんなことがありました。詳しいことは大山さんに聞いて下さい」と創作したと書いている。

                後年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で改めて当時の発言について聞かれ、再び否定し、〈大山倍達とは何か?〉内での「私が知らないところでやったのでは」との部分すら、「ないない(笑)。間違いなくないよ。何年後かに東郷が日本に来たでしょう? でもそこまでやったなら大山のところに連絡が行くだろうに、何もないんだから」と完全に否定している。強さそのものを否定しているわけではなく、その演武を見て「間違いなく威力があると思った」としており、「空手については『強かったんでしょうね。』としか言いようがないけどね」と語っている。また遠藤は大山のみならず力道山についても、米国修行時代の戦績を「年間300試合」と喧伝していた事について、年間300試合をこなすのに一日何試合のペースで試合をしなければならないか、という数字上の矛盾を挙げて否定し、「だから大山だけを責められない」と嘆息している。だが遠藤の発言に首を傾げる人物もいる。

                東京スポーツ・櫻井康雄

                  「私は1950年代に遠藤の口から大山が戦ったレスラーや試合の模様を直接聞いている。ディック・リール(全米チャンピオン)は遠藤の口から聞かされた。力道山が負けたタム・ライス(レッド・スコーピオン)と大山との対戦も私が梶原一騎さんに教えたんですよ」と答えている。

                  木村政彦の証言

                    木村が本格的にプロレスラーに転向する前、昭和26年から28年頃、大山倍達は一緒に地方巡業に回っている。その際、木村と遠藤幸吉らがプロ柔道の試合をやったりプロレスの試合をやったりしていた。試合が終わると「誰か挑戦する人はいませんか」と観客の飛び入りを求めた。相手をするのは大山であった。

                    ある地方興行で元大相撲の力士が挑戦してきた。大山はこれを簡単に倒してしまった。次に名の知られた全日本クラスの柔道家が挑戦してきた。大山はこれも簡単に料理してしまった。大山は今度は「2人同時でいいですよ」と言った。大山の強さを知る木村政彦は客に「もう危ないからやめた方がいい」と止めたが、この相撲取りと柔道家は大山が当時まだ名を知られていなかったのでまた「やらせろ」と上がってきた。後ろから柔道家が、前から相撲取りが迫ってくるのを、大山はまずは後ろ蹴りで柔道家を倒し、前蹴りで相撲取りをKOしてしまった。どちらも一発であった。そのあまりの技の速さに観客たちは騒然となった。2人ともそのまま病院送りとなった。相撲取りは肋骨が2本折れていた。

                    この木村政彦の証言は「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に出てくる。著者によると木村は他の格闘家の強さという物に厳しく、自分が「本当に強い」と思った格闘家しか絶対に認めない男で、その木村が言うのだからこのエピソードは間違いなく事実だとしている。また大山が当時の大学柔道チャンピオンとの喧嘩に勝ったことも、柔道家や空手家への取材で事実だろうと書いている。

                    US修斗の中村頼永は、1990年にロサンゼルスで出会ったミツ山下という柔術家から「大山倍達の異種格闘技戦を見たことがある。彼は凄い」という話を聞かされた。当時、山下はグレイシー柔術の中級者であり、ホリオン・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの長兄)の道場でアシスタント指導員をしていた。山下から聞かされた話を中村は次のように語る。

                    以上が中村の証言だが、大山茂はこの話を聞いて、「大山総裁の現役時代は、貫手はほとんど目を狙って出しており、右中段逆突きが非常に強く、それを喰って立ってられる人間はいないだろうというほどの威力だったから、おそらく、正拳だったであろう」と語っている。ただ、素手で手を開いて構えたところから、握りながら突き、即引き手をとると、空手を見慣れていない人(当時のアメリカ人で見慣れた人物がいるとは考えにくい)にとっては、貫手に見えることがある。いずれにしても仮にボクサーを倒したのが貫手ではなく正拳だったとしても、この話の価値や信憑性が全くさがるものではない。

                    注意
                    以下は本人の著書・自称などに基づく客観的に確認できない情報を含んでいます。
                    非常に握力の強い空手家であった。著書『強くなれ! わが肉体改造論』によると、若い頃の握力は100キログラムを超えていたとのこと。最近の検証では120〜130キログラムあったと言われている。若い修行時代から、両手の五指の訓練は欠かさなかった。その結果、硬貨を、親指・人差し指・中指の腹の部分で押さえて曲げることが出来たとされる(「パワー空手」の記事による)。未だにこの記録を打ち破る者は、自らの弟子からも、それ以外からも出ていない。大山の著書には柔道家の木村政彦が実見しているとある。 目撃談として、剛柔流の山口剛史(山口剛玄の息子)が「1953年(昭和28年)に浅草公会堂で演武会を開いた時、10円玉を曲げていた。後で目の前でやってもらったこともある」と言い、南本一郎は「初めて会った時に、3つの指で10円玉を曲げたんですよ。それもハンパな曲がり方じゃなくて、しっかり曲がってた」と証言している。 『空手バカ一代』などの漫画でもこのエピソードが語られ、この際全身にジンマシンが出るという話を聞き、当時の週刊少年マガジン編集長が連載を決意したという逸話がある。劇中では「原因は不明だが人間の限界を超えた動きの副作用」というような表現がされていた(『男の星座』)。まだ極真会館が設立される前、饗応を受けた際お礼としてこの技を披露したといわれている。 これら(硬貨曲げ等)はトリックがあったと指摘する関係者もいるが、昭和26年から昭和33年に作成された10円玉(いわゆるギザ十)は現行の10円玉よりも若干薄く、大山倍達は実際に曲げたという説が有力となっている。10円玉の硬貨折りを実見したと語る人も多数存在する。前述の証言をした山口剛史は幼少の頃、新年会や演武会で大山の硬貨折りやビール瓶の手刀斬りなどの神技を見るのが楽しみだったと語っている。なお、硬貨を曲げることは貨幣損傷等取締法違反である。
                      大山没後
                        自宅で家族が遺品整理の際に曲がった十円玉 (昭和27年) が発見され『月刊大山倍達』に掲載され雑誌にも転載されている。

                        渡邊一久の実演

                          大山道場時代の門下生で〈This is Karate〉のモデルも努めた渡邊一久は自身が曲げた10円玉をブログで公開した。「黒崎健時先輩と一緒に挑戦し黒崎先輩は出来なかったが自分は3枚連続で曲げた。最盛期は両手で2枚曲げることも出来た」と、当時を実演して見せた。

                          大塚剛プロ空手創設者

                            大塚は雑誌の対談で100円玉をプロ空手の試合の後楽園ホールで500円玉を両手で曲げて見せ、ハワイで横綱・輪島の前で25セント・コインを曲げて見せ大関・若嶋津が記念に貰った。

                            レフトフック・デイトン

                              アントニオ猪木と異種格闘技戦を行ったデイトンはテレビ朝日〈アフタヌーンショー〉に出演し、猪木の前で10円玉を両手で曲げて見せた。

                              大山は歴史小説『宮本武蔵』を愛読しさらに作者である吉川英治に知己を得ており、極真会館の道場訓は吉川の監修を得たものである。

                              宮本武蔵を深く尊敬していた大山は、作家吉行淳之介と対談した際、吉行から「五味康祐によると武蔵はホモだったそうですね」と言われたため(なお17世紀の武士において同性愛は珍しいものではなかった)、怒りのあまり吉行を殴りそうになったが、自制して手を出さず、怒りを顔に表すことすらしなかった。このため吉行は大山の怒りに気付くことなく平然と対談を終えたが、後日、知人を介して大山から危うく暴行を加えられる寸前だったと知り、恐怖におののいたと語っている。

                              横山やすしの弟子である横山ひろしによると、若き日のやすしがクラブで大山と遭遇した際に10円玉が曲げられるかどうかで言い合いになり、大山は「僕は曲げられるけど今日は帰るよ」と言い残し、やすしは「兄ちゃんちょっと待て!逃げんのかい」と絡んだ。なお、やすしは大山を何者であったのか全く知らずに、クラブのママから空手道場を経営されている人と紹介され「明日おまえんとこ決着に行ったるわ」と啖呵を切ったが、実際に行ったかは不明である。

                              高校時代、とんねるずの石橋貴明が極真会館近くの中華料理屋でバイトをしていた頃に大山が現れ、『空手バカ一代』に影響を受けていた石橋は、瓶ビールの栓を抜かずに持っていけば手刀で割ってくれるのではと期待したが、普通に「栓抜きは?」と聞かれて拍子抜けした挿話を語っている。

                              大山は常々「握り方3年。立ち方3年。突き方3年。9年やらないと空手の門には立てない」といっており、それでも晩年、夜中に目が覚めて「自分の拳の握り方が本当に正しいのか?」と自問することがあったという。

                              空手バカ一代の登場人物、大山の内弟子、元支部長、全日本大会入賞者など、著名な人物に限る。

                              待田京介

                              南本一郎

                              石橋雅史

                              安田英治

                              黒崎健時

                              岡田博文

                              大山茂

                              渡辺一久

                              梶原一騎

                              ジャック・サンダレスク

                              大山泰彦

                              千葉真一

                              藤巻潤

                              ジョン・ブルミン

                              郷田勇三

                              中村忠

                              加藤重夫

                              藤平昭雄

                              芦原英幸

                              盧山初雄

                              山崎照朝

                              添野義二

                              鈴木浩平

                              西田幸夫

                              松島良一

                              長谷川一幸

                              岸信行

                              佐藤勝昭

                              磯部清次

                              大石代悟

                              南里宏

                              東孝

                              真樹日佐夫

                              瀬戸利一

                              山田雅稔

                              竹隆光

                              浜井識安

                              廣重毅

                              岡崎寛人

                              三瓶啓二

                              中村誠

                              三宅進

                              三好一男

                              藤原賢治

                              川畑幸一

                              平岡正明

                              竹山晴友

                              七戸康博

                              小田勝幸

                              成嶋竜

                              ヤン・カレンバッハ

                              及川宏

                              高木薫

                              三浦美幸

                              吉岡幸男

                              ハワード・コリンズ

                              佐藤俊和

                              花澤明

                              石井和義

                              高見成昭

                              二宮城光

                              安田郁雄

                              ウィリアム・オリバー

                              ウィリー・ウィリアムス

                              ドルフ・ラングレン

                              アデミール・ダ・コスタ

                              松井章圭

                              水口敏夫

                              増田章

                              ミッシェル・ウェーデル

                              アンディ・フグ

                              マイケル・トンプソン

                              大西靖人

                              小笠原和彦

                              米津等史

                              黒澤浩樹

                              堺貞夫

                              緑健児

                              八巻建弐

                              金子雅弘

                              三明広幸

                              桑島靖寛

                              小井義和

                              高見彰

                              フランシスコ・フィリォ

                              田村悦宏

                              数見肇

                              塚本徳臣

                              ニコラス・ペタス

                              木山仁

                              アルトゥール・ホヴァニシアン

                              エヴェルトン・テイシェイラ

                              ルペシ・ダンゴル

                              タリエル・ニコラシビリ

                              クリス・ドールマン

                              魔裟斗

                              セミー・シュルト

                              那須川天心

                              長嶋一茂

                              上田幹雄

                              『What is Karate?』 日貿出版社、1958年(昭和33年) ※世界で25万部のベストセラー

                              『This is Karate』 日貿出版社、1965年(昭和40年)

                              『Vital Karate』 日貿出版社、1967年(昭和42年)

                              『ダイナミック空手』 日貿出版社、1967年(昭和42年)

                              『Advanced Karate』 日貿出版社、1970年(昭和45年)

                              『空手を始める人のために』 池田書店、1971年(昭和46年)

                              『100万人の空手』 講談社、1975年(昭和50年)

                              『わんぱく空手』 KKベストセラーズ、1976年(昭和51年)

                              『秘伝極真空手』 日貿出版社、1976年(昭和51年)

                              『続・秘伝極真空手』 日貿出版社、1977年(昭和52年)

                              『史上最強の空手を始める人に』 みき書房、1982年(昭和57年)

                              『極真カラテ入門・マス大山が教える武道カラテの神髄』 池田書店、1983年(昭和58年)

                              『これが試し割りだ』 日貿出版社、1984年(昭和59年)

                              『世界ケンカ旅行』 ベストセラーズ新書、1968年(昭和43年)

                              『ケンカ空手 世界に勝つ』 スポニチ出版、1972年(昭和47年)

                              『闘魂 拳ひとすじの人生』 サンケイドラマ出版、1972年(昭和47年)

                              『私の空手道人生』 講談社、1973年(昭和48年)

                              『続ケンカ空手 わが青春の修練秘録』 スポニチ出版、1974年(昭和49年)

                              『わが空手修行』 徳間書店、1975年(昭和50年)

                              『大山カラテもし戦わば』 池田書店、1979年(昭和54年)

                              『わが空手五輪書』 講談社、1975年(昭和50年)

                              『極真への道-私の空手哲学』 日貿出版社、1975年(昭和50年)

                              『世界に賭けた空手-5000万人日本脱出への提言』 潮出版、1976年(昭和51年)

                              『わがカラテ革命』 講談社、1978年(昭和53年)

                              『The Kyokushin Way』 日貿出版社、1979年(昭和54年)

                              『わがカラテ日々研磨』 講談社、1980年(昭和55年)

                              『わがカラテ覇者王道』 サンケイドラマ出版、1982年(昭和57年)

                              『わがカラテ求道万日』 講談社、1982年(昭和57年)

                              『極真大道空手一代』 日貿出版社、1982年(昭和57年)

                              『わがカラテ武道教育』 講談社、1983年(昭和58年)

                              『青春をどこまでも熱く生きよ』 みき書房、1983年(昭和58年)

                              『空拳士魂・わが極真の実像』 テレハウス、1985年(昭和60年)

                              『昭和五輪書(地之巻)』 PHP研究所、1983年(昭和58年)

                              『昭和五輪書(水之巻)』 PHP研究所、1985年(昭和60年)

                              『昭和五輪書(火之巻)』 PHP研究所、1986年(昭和61年)

                              『昭和五輪書(風之巻)』 PHP研究所、1987年(昭和62年)

                              『昭和五輪書(空之巻)』 PHP研究所、1987年(昭和62年)

                              『極真カラテ21世紀への道』 徳間書店、1992年(平成4年)

                              『武道論』 徳間書店、1992年(平成4年) ※平岡正明と共著

                              『勝負の鉄則』 PHP文庫、1993年(平成5年)

                              『爆発マス大山空手』 勁文社、1974年(昭和49年)

                              『極真空手世界を征く』 講談社、1975年(昭和50年)

                              『一撃必殺空手いのち』 講談社、1976年(昭和51年)

                              『必殺カラテ! わがいのち』 講談社、1979年(昭和54年)

                              『大山倍達 空手極限の世界』 朝日出版社、1984年(昭和59年)

                              『ゴッドハンドの軌跡』 コア出版、1987年(昭和62年)

                              『強くなる東洋食のすすめ』 講談社、1988年(昭和63年)※作画:沖一

                              世界ケンカ旅行 空手戦争 講談社、1974年(昭和49年)※作画:守谷哲己

                              (梶原一騎との連名)

                              『限界の挑戦』 宝友出版、1977年(昭和52年)

                              『強くなれ! わが肉体改造論』 講談社、1985年(昭和60年)

                              『自分に勝て! わが性格改造論』 講談社、1990年(平成2年)

                              『わがカラテ日本への提言』 サンマーク出版、1991年(平成3年)

                              『マス大山の正拳一撃』 市井社、1994年(平成6年)

                              猛牛と闘う空手 (1954年、大洋プロダクション)

                              ボディガード牙 (1973年、東映) - 大東徹源

                              ボディガード牙 必殺三角飛び (1973年、東映) - 大東徹源

                              けんか空手 極真拳 (1975年、東映) - 本人

                              地上最強のカラテシリーズ - 本人

                              四角いジャングルシリーズ - 本人

                              どっこい大作 第27話「世界一に負けぬ日本一!!」(1973年、NET) - 本人

                              夜明けの刑事 第86話「地上最強のカラテ 仕組まれた札人のワナ」(1976年、TBS) - 本人

                              空手バカ一代 (1973年 - 1974年、NETテレビ) - 声:田中信夫 ※役の名は飛鳥拳

                              「大野望(テーヤマン)」大韓民国にて、「空手バカ一代」と全く同じ期間(1971~1977年)に発表された「韓国版空手バカ一代」。大山の韓国名の一つである「崔倍達(チェ・ペダル)」を主人公として、空手バカ一代とストーリーはほぼ同じだが、主人公が使う武術がテコンドーである、朝鮮民族を押さえ付ける日本人に立ち向かうなど、全ての要素を韓国に置き換えて連載された。

                              けんか空手 極真拳 (1975年、東映) - 演:千葉真一

                              けんか空手 極真無頼拳(1975年、東映) - 演:千葉真一

                              空手バカ一代 (映画) (1977年、東映) - 演:千葉真一

                              風のファイター (2004年、韓国) - 演:ヤン・ドングン

                              山岡徹也 - 柔道一直線 (1969年)

                              ^ この「朝鮮籍」とは北朝鮮国籍のことではない。朝鮮籍とは1947年以降の外国人登録制度において「旧朝鮮戸籍登載者及びその子孫(日本国籍を有する者を除く)のうち、外国人登録上の国籍表示を未だ『大韓民国』に変更していない者」が登録されることになった便宜上の籍である。

                              ^ 大山茂が「大山倍達は当時『崔倍達』と名乗っていたがいつの間にか『大山倍達』と名乗るようになった」と某格闘技雑誌の中で述べている。

                              ^ 早稲田大学高等師範部国民体錬科は、第二次世界大戦終戦後の1946年(昭和21年)に「体育科」と改称され、1951年(昭和26年)に高等師範部は「教育学部」に改組された。

                              ^ 京都座における京都文化協会主催の体育大会を指すとして、はっきりとしたルールのある「大会」では無いとする説がある。なお、元極真会館本部直轄大阪道場責任者の岩村博文は、その大会の優勝後大阪に立ち寄った大山と出会ったとしている[1]。

                              ^ 対戦相手と自分の距離のこと。間合いを見極めることで自分の技を相手にヒットさせることができる。間合いには以下の3通りがある。

                                限度間合い - 一撃では攻められず、かといって追撃をかけても逃げられる間合いで、相手の攻撃パターンを読むまでの一時的なものとして用いられる。

                                誘導間合い - どちらか一方が誘いを入れる間合いで、待ち拳として用いる。

                                相応間合い - 両者が互角の力量で戦う場合の、共に攻撃範囲内にある間合いのこと。

                                ^ 手首を掌底とは逆にそらし、曲がった関節部分のこと。

                                ^ 後屈立ちよりも歩幅が狭く、体重は100%後足にかけ、前足はつま先が床に触れている程度にする。

                                後屈立ち - 前足はつま先を床につけ、前足と後足は30対70の割合で体重をかける立ち方である。

                                ^ 構えた手を相手の顎や身体の肝臓などに下から突き上げる。ボクシングのアッパーカットに類似した技である。

                                ^ 「龍尾の構え」とも呼ばれ、前足側の手で手刀受けから上体をひねり後ろ足の手を上から落としてくる構えのこと。

                                ^ 両手刀を前に出し、前足側の手をやや上にした防御力のある構えで後屈立ちか、猫足立ちで構える。

                                ^ 複数の技を組み合わせ、連続で繰り出し攻撃すること。

                                ^ 「上下の構え」とも呼ばれ、手刀受けから相手の突きを落としたり、蹴りへ移行する時などに使われる。両腕を地面に平行にして交互に円を描き、間合いをつめる。

                                ^ 日本拳法の選手が握手をしてもらった後に、選手の手の平には手形の跡が残るほど強烈な握手だったとの伝聞が存在する。

                                ^ 大山道場で師範代を務めた強豪。日本大学剛柔流空手道部出身で石橋雅史の後輩である。大学在学中に浅草の剛柔流本部で大山倍達と知り合い、大山が池袋の立教大学裏で道場を開設した時に南本は道場での指導を頼まれ、大山道場初期の門下生を指導した。相手を羽目板まで追い込んでも攻め続けたという厳しい姿勢を持ち、大山道場に「負けてはいけないんだ」という闘争心を持ち込む指導をした。その後、仕事の都合で道場へ通えなくなったことから、指導の引継ぎを先輩の石橋に頼み、大山道場を去った。

                                ^ 第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会から第6回まで連続出場し、第6回全日本選手権で4位に入賞した。現在は国際武道連盟・極真空手 清武会の師範である。

                                ^ 故人。極真会館秋田支部所属で、第3回全日本空手道選手権に初出場。第4・5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回全世界選手権5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた。正拳突き・前蹴り・回し蹴りを得意とし、その戦いぶりから闘将と呼ばれた。第2回全世界選手権に推薦枠で出場。5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦し、延長戦でウィリーの正拳突きと下突きの連打で一本負けをし、引退。晩年は新極真会の秋田本庄道場の師範を務めていた。

                                ^ 浜井識安の石川支部出身。第13回全日本選手権初出場し、4回戦で竹山晴友に敗退。しかし、第14回全日本選手権では中村誠を破ったブラジルのアデミール・ダ・コスタ、松井章圭に勝ち、決勝進出。三瓶啓二に惜敗したものの準優勝した。第3回全世界選手権にも出場し、第16回全日本選手権では竹山と再戦したが、判定負けで3位入賞。これを最後に選手権大会から退く。岡山県支部長に就任して、現在では極真会館 松井派から離れて、極真会館 極眞會の代表である。

                                ^ 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也)のインタビューで、本書に関しては真樹日佐夫が「俺がゴーストライターをやった」と証言している。逆に後述の『大山カラテもし戦わば』は「違うと思う」と否定している。

                                ^ 官報「昭和43年5月16日第12423号」

                                ^ “大山倍達総裁 紹介”. 極真会館. 2022年11月30日閲覧。

                                ^ 小島一志, 塚本佳子 (2006). 大山倍達正伝. 新潮社 

                                ^ “大山 倍達とは”. コトバンク. 2022年7月31日閲覧。

                                ^ “崔永宜”. world.kbs.co.kr (2013年6月27日). 2022年7月31日閲覧。

                                ^ 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』458~459頁。同書では女性の名は実名。この引用はムック本『最強最後の大山倍達読本』からだが、著者の増田はこの本を、大山を盲目的に持ち上げる類のものではなく、かなり抑制の効いた検証本だと評している。

                                ^ 増田俊也〈木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか〉460~461頁。著者の増田は「混乱した時代に生きた修行中の若い格闘家にとって、この悪評は勲章である。」と肯定的に評している。

                                ^ 在米期間は公称1年であるが、実際には6ヶ月弱で帰国し『東亜日報』『週刊サンケイ』等の取材を受けている

                                ^ https://www.youtube.com/watch?v=Y9tdov_8r_Q

                                ^ 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』457頁

                                ^ 斎藤貴男 『梶原一騎伝』 新潮社、2001年(平成13年)4月1日発行、311頁、337頁、348頁、357-359頁、372頁。

                                ^ 斎藤貴男 『梶原一騎伝』 新潮社、2001年(平成13年)4月1日発行、466頁。なお梶原もそのハガキが大山の物からであることに気付いており、妻に「これは大山館長からだよ。俺にはわかるんだ」と涙ぐみ語っていたという。

                                ^ “「[改訂版]今度、某TVに出ますよ!!”. 小島一志-公式BLOG (2014年9月25日). 2015年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月23日閲覧。

                                ^ 小島一志 『芦原英幸正伝』283頁

                                ^ 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』480頁

                                ^ 『拳聖 大山倍達 地上最強の空手』 福昌堂、1998年(平成10年)4月1日発行、3-19頁、23-46頁、117頁。

                                ^ 山崎照朝 『無心の心』 スポーツライフ社、1980年(昭和55年)、156頁。

                                ^ 増田俊也 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 新潮社、2011年(平成23年)477頁。

                                ^ 同書471~473頁。空手専門誌『ワールド空手』における基佐江里のインタビュー引用だが、著者増田が基に直接聞いたという。

                                ^ 『蘇る伝説「大山道場」読本』 日本スポーツ出版社、2000年(平成12年)1月4日発行、42-49頁。

                                ^ 『吉行淳之介 対談 浮世草子』 三笠書房・集英社、1971年(昭和46年)。

                                ^ 『おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!』(100回記念の回のゲスト)

                                ^ 消費税が日本を救う(日経プレミアシリーズ)p297

                                ^ 渡邊一久 著「梶原一騎氏に伝えた実戦談」、フル・コム 編『幻の大山道場の組手 かつて地上最強の空手は実在した』(初版第1刷)東邦出版〈BUDO-RA BOOKS〉(原著2013-5-6)、54 - 55頁。ISBN 978-4-8094-1118-2。OCLC 841143377。C0075。 

                                ^ 「空手バカ一代」では『サンダクレス』

                                ^ 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年(平成9年)、49頁、60頁、114頁、116-117頁、150-151頁。

                                ^ 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』456~457頁

                                空手家一覧

                                湯河原町 - 修練場を設けていた

                                柳川次郎 - 柳川がヤクザになる前から友人で、柳川が堅気に戻った後は極真会館の相談役になっていた

                                町井久之 - 大山が用心棒をしていた

                                藤巻潤 - 義弟

                                虹を呼ぶ拳

                                韓武舘

                                全羅北道

                                大山倍達極真会館 | Mas Oyama Kyokushin Site

                                「朝鮮人」としての『空手バカ一代』崔永宜はなぜ、大山倍達と名乗ったか?

                                『空手バカ一代 空手の聖地・池袋・極真会館総本部道場』

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                                IdRef

                                全州崔氏

                                極真会館の人物

                                剛柔流

                                武道家

                                日本の男子空手家

                                空手道指導者

                                20世紀日本の著作家

                                空手道の歴史

                                格闘技の関係者

                                プロレスの関係者

                                韓国・朝鮮系日本人のスポーツ選手

                                帰化日本人のスポーツ選手

                                日本航空高等学校出身の人物

                                日本へ密入国した人物

                                金堤市出身の人物

                                肺癌で亡くなった人物

                                梶原一騎

                                登録商標

                                全州崔氏

                                1923年生

                                1994年没

                                検証が求められている記事/2021年

                                独自研究の除去が必要な記事/2021年9月

                                2024/11/23 05:13更新

            ooyama masutatsu


            大山倍達と同じ誕生日6月4日生まれ、同じ東京出身の人

            中村 愛_(アナウンサー)(なかむら あい)
            1981年6月4日生まれの有名人 東京出身

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            小幡 真裕(おばた まゆ)
            1992年6月4日生まれの有名人 東京出身

            小幡 真裕(おばた まゆ、1992年6月4日 - )は、日本の元タレント、声優、ナレーター。東京都出身。 劇団日本児童、マウスプロモーション付属養成所に所属していた。 幼いころから目立ちたがり屋で…

            降矢 由美子(ふるや ゆみこ)
            1958年6月4日生まれの有名人 東京出身

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            日色 ともゑ(ひいろ ともえ)
            1941年6月4日生まれの有名人 東京出身

            日色 ともゑ(ひいろ ともえ、1941年〈昭和16年〉6月4日 - )は、日本の女優。劇団民藝所属。 本名は中園ともゑ。東京都出身。父親は東京新聞社社員で将棋観戦記者・演芸評論家の日色恵。夫は建築家…

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            1977年6月4日生まれの有名人 東京出身

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            1929年6月4日生まれの有名人 東京出身

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