大山のぶ代の情報(おおやまのぶよ) 声優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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大山 のぶ代さんについて調べます
■名前・氏名 |
大山のぶ代と関係のある人
冨士眞奈美: 大山のぶ代とは冨士のデビュー作「この瞳」で共演し、新人女優時代はお互い収入が少なかったことから2年ほど(別の媒体で本人は、「上京後からの4年半」とも証言)安アパートの同じ部屋で一緒に暮らすなど当時からの仲良しである。 小原乃梨子: ドラえもん役の大山のぶ代とは親友である。 小原乃梨子: 大山のぶ代からの手紙を代読したほか、ドラえもん映画の思い出について「巖金四郎に出演してもらった時は感動した」というエピソードを語った。 河井晴菜: 声優になろうと思ったきっかけはテレビ番組で大山のぶ代の来歴を見たことから。 肝付兼太: 2005年第14回日本映画批評家大賞で、『ドラえもん』(テレビ朝日版)のオリジナルレギュラー陣(大山のぶ代、小原乃梨子、野村道子、たてかべ和也の4人)とともに田山力哉賞を受賞。 小原乃梨子: 2005年、第14回日本映画批評家大賞で、『ドラえもん』(テレビ朝日版)のオリジナルレギュラー陣(大山のぶ代、野村道子、たてかべ和也、肝付兼太の4人)とともに田山力哉賞を受賞。 小原乃梨子: ドラえもん、母になる〜大山のぶ代物語〜(当初の発表では、ずっと一緒だよ 〜声優・大山のぶ代物語〜だった)(2015年12月13日放送、NHK BSプレミアム ナレーター・野比のび太) 池田鉄洋: ドラえもん、母になる〜大山のぶ代物語〜(2015年12月13日、NHK BSプレミアム) - 橋本浩二(プロデューサー) 役 日高真弓: 大山のぶ代 猫背椿: ドラえもん、母になる〜大山のぶ代物語〜(2015年) - 小原乃梨子 役 関智一: 映画『おばあちゃんの思い出』にてスネ夫の幼少時代、大山のぶ代ら声優陣による最後の映画作品『のび太のワンニャン時空伝』にて、のび太たちと対になる犬のグループのうちスネ夫の位置にあたる、ダックスフントのダクなどの声を演じた経験があり、今回の抜擢にあたっては、スネ夫役向けに新しい声を開発し、一人称に「ボクちゃん」を用いるなど、関が演じた既存のキャラクターと被らない演技を見せている。 猫背椿: “大山のぶ代、『ドラえもん』と歩んだ26年間をドラマ化 主演は鈴木砂羽”. ORICON STYLE (2015年11月13日). 2015年11月13日閲覧。 市原悦子: 同期には近藤洋介、宮部昭夫、川口敦子、大山のぶ代、阿部百合子、阿部六郎、佐伯赫哉、山本清らがいた。 水田わさび: 2005年、テレビ朝日系列のアニメ『ドラえもん(テレビ朝日版第2期)』で、大山のぶ代に代わり主人公のドラえもん役に抜擢される。 豊原功補: “大山のぶ代、『ドラえもん』と歩んだ26年間をドラマ化 主演は鈴木砂羽”. ORICON STYLE (2015年11月13日). 2015年11月13日閲覧。 成瀬宇平: 『おさかな博士の新・魚を食べる健康法:すぐれた効能、らくらくメニュー』ブックマン社、2002.11(大山のぶ代との共著) 松島みのり: ハッスルパンチの歌(大山のぶ代 / 水垣洋子 / 松島みのり / 西六郷少年合唱団) 田中美里: ドラえもん、母になる〜大山のぶ代物語〜(2015年12月13日、NHK BSプレミアム) - 野村道子 役 俵山栄子: ドラえもん(大山のぶ代) 小林きな子: ドラえもん、母になる〜大山のぶ代物語〜(2015年12月23日、NHK BSプレミアム) - 大林マネージャー 役 鈴木真仁: 最初に声優を意識したのは大山のぶ代で、それまでは「ドラえもんがいる」と思っていたが、「現実と違うんだ」というギャップに打ちのめされたという。 砂川啓介: 小林マネージャーは『文藝春秋』2017年9月号に手記「大山のぶ代は夫の棺に涙ぐんだ」を寄稿し、夫妻の闘病や介護の様子を明かしている。 砂川啓介: 1964年には孫悟空の舞台での共演が縁で大山のぶ代と結婚した。 中西しほり: パネルディスカッション「鶏肉を食べよう」(パネリスト 大山のぶ代 他)コーディネーター 清水マリ: 大山のぶ代の誘いで、高松事務所に所属。 川口敦子: 同期には近藤洋介、宮部昭夫、大山のぶ代、阿部百合子、阿部六郎、佐伯赫哉、山本清がいた。 平野文: 当時は、大山のぶ代の夫・砂川啓介が「たいそうのおにいさん」で、物凄く人気があり、主に砂川と一緒にミュージカルに出演していたという。 石立鉄男: 当初は近親者のみで執り行われる予定だったが、大映テレビ制作のドラマで多く共演した宇津井健、杉浦直樹、勝呂誉、俳優座の先輩である冨士眞奈美、大山のぶ代・砂川啓介夫妻、俳優座同期の横内正など、多くの芸能関係者、親族、友人ら約100人が弔問に訪れた。 たてかべ和也: 前ドラえもん役の大山のぶ代は当時患っていた認知症の悪化もあり参列できなかった。 松尾佳子: 『スーパーロボット大戦IMPACT』、『スーパーロボット大戦Z』では、『無敵超人ザンボット3』が出演した際に神勝平役の大山のぶ代と神江宇宙太役の森功至が出演できず、代役を使っていたのに対して、ひとりだけオリジナルキャストとしての出演となった。 |
大山のぶ代の情報まとめ
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大山 のぶ代(おおやま のぶよ)さんの誕生日は1933年10月16日です。東京出身の声優のようです。
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特色・人物像、私生活などについてまとめました。テレビ、現在、家族、卒業、ドラマ、結婚、趣味、母親に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
大山のぶ代のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大山 のぶ代(おおやま のぶよ、1933年〈昭和8年〉10月16日 - )は、日本の女優、声優、歌手、脚本家、エッセイスト、タレント。夫はタレントの砂川啓介。アクターズ・セブン所属。テレビアニメ『ドラえもん』にて、ドラえもんの声を1979年から2005年まで約26年間にわたり担当したことで知られる。 東京府東京市渋谷区伊達町(現在の東京都渋谷区恵比寿三丁目)出身。 13人家族の13番目として生まれる。江戸時代生まれの曾祖父母がいる大家族で、母は宮城県古川市(現:大崎市)の造り酒屋の娘だった。 渋谷区立臨川小学校、渋谷区立広尾小学校、渋谷区立広尾中学校、東京都立三田高等学校卒業。 幼少期から個性的な声を持っていたといい、幼稚園の入園式では名前を呼ばれ返事をしたところ、並みいる保護者らが一斉に立ち上がり視線を注いだという。しかし、当の大山はそんなことに無頓着で全然気が付かなかった上、母に「十分黙っていればおやつをあげる」と言われるほどおしゃべりな性格だったという。 小学校入学後も、最初はその声を張り上げ校庭を駆け回る活発な少女だったが、周囲から「男みたいな声」とたびたび言われ、教師からも出席確認の返事で変な顔をされるなど、次第に「私の声っておかしいんだ」と思うようになる。中学進学後、同級生に「お前の声はおかしい」と指摘されたことで初めて個性的な自分の声を自覚したといい、その声に嫌悪感を持つようになったため無口になってしまったという。 その声が原因で「大山が声を出したらみんなで笑う」という遊びが流行るなどいじめを受けたこともあったといい、引っ込み思案になっていたところに母が「声が変だからといって、その弱いところをかばってばかりいたらもっと弱くなってしまう。声を出すような部活動をしなさい」と助言したことから、放送研究部に入部してアナウンスをしたり自作したラジオドラマを披露するようになる。なお、これらの活動は周囲や担任教師に反対されたが、一ヶ月経つと何も言われなくなり、その後は勧誘を機に演劇部へ入部。『シンデレラ』の継母役を演じ、これが初舞台となった。 高校では演劇部と水泳部に入部するも母の入院ですぐに退部し、母は2年生の時に子宮癌により42歳で死去。独り身となったことで、手に職をつけるため演劇の道に進んだという。 俳優座養成所に第7期生として入所するが、反対していた父から「役者になるなら出ていけ!」という言葉を受けたことで家出し、一人暮らしを始める。以降、応援してくれた兄からの仕送りだけでは生活できず様々なアルバイトを経験した。養成所での同期には、水野久美、露口茂、井川比佐志、山本學、藤岡重慶、田中邦衛がいる。 1956年、NHKドラマ『この瞳』でデビュー。養成所時代から女優としての活動を始め、卒業後の1957年には劇団新人会に入団した。 活動をはじめると「面白い子」「新劇出身の喜劇役者」という評価を受け、多くのドラマやお笑い番組に出演。また、知人の関係者から「あなたの声は少年の役に向いている」と独特のハスキーボイスを買われ、声優としての活動も始めるようになる。デビュー作は、1957年9月に放送した『名犬ラッシー』の吹き替え。その後、1960年に人形劇『ブーフーウー』のブー役を演じたのがきっかけになり、声の仕事が増えてくるようになった。 1965年、テレビアニメ『ハッスルパンチ』にて初主演。その後、『ハリスの旋風』や『無敵超人ザンボット3』など複数の作品で主演を務めた。 東京プロ、劇団でく、高松里友子事務所、青二プロダクションに所属していた。 1979年、テレビアニメ『ドラえもん』(テレビ朝日系)にて、主人公のドラえもんの声を担当。約26年という長期間にわたり演じ続け、自他ともに認める代表作となった。また、タレント活動や料理研究家として本を出版するなど、声優業以外にも幅広い分野で活躍するようになった。 1980年には、EP『ドラえもん音頭』など大山が歌ったドラえもん関連のレコード売り上げが100万枚を突破し、日本コロムビアのゴールドディスクを受賞した。 2001年、直腸癌が判明し長期入院となったことで、『ドラえもん』以外の仕事をすべて降板し休養。『ドラえもん』の収録のみは、大山の体調を考慮した上で続投した。だが、この入院を機に大山はドラえもん役の降板を決意する。最初はスタッフの説得で続投したが、長期的に話し合いの結果、2005年3月に他のキャスト全員と共に『ドラえもん』を降板した。 『ドラえもん』降板後は、講演やタレントとしてのテレビ・ラジオ出演を中心に活動。『元祖!でぶや』などのナレーション活動にて、声優としての活動も続けた。 2005年3月、放送ウーマン賞を受賞。 2006年5月、ドラえもんの声優としての26年間を中心に記した自伝エッセイ『ぼく、ドラえもんでした。涙と笑いの26年うちあけ話』(小学館)を上梓した。 2006年11月、第11回アニメーション神戸にて『ドラえもん』での功績が称えられ、レギュラー陣(小原乃梨子、野村道子、たてかべ和也、肝付兼太)と共に特別賞を受賞。翌2007年3月にも、東京国際アニメフェア2007で第3回功労賞を4人と共に受賞した。 2007年4月、音響芸術専門学校(東京都港区西新橋)の校長に就任。カリキュラム編成のほか、声優・アナウンス専門課程で昼間・夜間部の授業を数多く担当するなど、直接学生の指導に当たった。 2008年4月24日、音響芸術専門学校の校長室で授業準備中に脳梗塞を発症して緊急入院したが、投薬治療を行い、同年8月17日に退院。自宅療養とリハビリにより、日常生活の不安はないまでに回復し、活動を再開した。 2010年、PSP用ゲームソフト『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』にモノクマ役で出演。同シリーズでは以降もモノクマ役で出演し、2013年にテレビアニメ化された『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生 The Animation』は『ドラえもん』以来のテレビアニメへの出演であると同時に、初の深夜アニメ出演となった。 2011年4月、音響芸術専門学校の校長を退任し名誉学長となる。多くの実務から離れる一方、2013年までは数か月に一度の特別講義を行っていた。この前後を境として、多忙・激務が続いたことによる体調不良を理由に、徐々にではあるが仕事をセーブするようになった。 2012年秋、アルツハイマー型認知症との診断を受ける。当初は夫の砂川啓介が「ドラえもんや彼女のイメージを崩す」と心配したことで内密にされたが、知人である毒蝮三太夫のアドバイスを機に砂川は「このまま隠すことが辛い」「周囲にもこのままでは心配をかけるし、誤った情報が流れかねない」と考え直し、大山とも相談。2015年5月13日、TBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』にゲスト出演した砂川の口から初めて公表された。なお、発表時の大山本人は話し合ったことを忘れていたという。 発表後も活動は継続した一方、公の場に姿を現すことはなくなり、仕事はメッセージの収録など限られたものになった。2014年から2016年にかけて、全国農業協同組合連合会のWebアニメ「おにくだいすき! ゼウシくん」(計17話)にみの太役で出演しているが、現時点ではこれが最後に出演したアニメ作品となっている。 2015年6月12日、砂川は大山と数多く共演してきた黒柳徹子の番組『徹子の部屋』に出演。大山は黒柳に対してボイスメッセージを送った。この放送で、大山は自身の病が公表されたことを自覚したといい、感想は「なんで、こんな大げさに…」だったという。その後、砂川から「ちっとも大げさじゃないんだよ」「元気になるためにも、本当のことを知ってもらって頑張らないとな」と声をかけられると大山は「うん、あたし、頑張るわ」と答えたという。 発症からしばらくは大山の意向もあり、砂川や夫妻のマネージャーである小林明子、家政婦による在宅介護を受けていたが、砂川の尿管癌治療に伴い、2016年4月より老人ホームに入所。同時期には、持ち役である『ダンガンロンパ』シリーズのモノクマ役も降板。同年内で芸能活動を事実上終了した。 2017年7月11日、夫の砂川が死去。早朝のため、大山は臨終には立ち会えなかった。数日後、大山は葬儀所で棺の中の砂川と対面。葬儀は大山が喪主となったが出席はしなかった。 砂川の没後、大山は引き続き老人ホームで過ごしており、後事を託されたマネージャーの小林が通って面倒を見ている。認知症は進行しているが健康状態は良く、合唱などの活動に取り組みリーダー的存在となるなど、他の入所者との交流を楽しんでいるという。 特色・人物像声種はアルト。 声優としては、アニメ黎明期より活躍。「ウヒヒ」とも「ウフフ」ともつかない独特の節回しの笑い声が印象的と評された。 『ドラえもん』以外の作品では少年役が多く、ハスキーな声でやんちゃな喋り方が特徴的でべらんめえ口調も多用した。 座右の銘は「私はパイプになりたい」。これは、言い伝えや諺など、先人たちから受け継いだ良いものたちを次の世代に渡していく役割になりたいという思いからである。 料理研究家としても活動し、多くの著書を発表。中でも『大山のぶ代のおもしろ酒肴』(1981年、主婦の友社)は、136万部のミリオンセラーを記録した。 2022年2月、フジテレビ系で放送されたバラエティ番組『これが定番!世代別ベストアニメ エンタメジェネレーション』では、世代別で「好きな声優」がアンケート集計され、大山が「昭和世代(46歳以上)」の部で1位となった。 私生活夫の砂川啓介とは、1963年(昭和38年)8月に舞台『孫悟空』での共演で知り合い、翌年2月に結婚した。二人は知り合った当時、NHKの『おかあさんといっしょ』にレギュラー出演していたが、出演していたコーナーが違うことから面識はなく、楽屋に挨拶に来た砂川を出前のそば屋だと勘違いしたというエピソードがある。その後一緒にドライブに行った際、不良に絡まれている少年を見かけ、お互い相談もしていないにもかかわらず、とっさに田舎から出てきた夫婦を演じ、その不良に道を尋ねるふりをして、その隙に少年を逃がしてあげたという。それから結婚を考えるようになった。 32歳の時に第1子(男児)を妊娠したが、7か月目に死産、38歳の時生まれた第2子(女児)も妊娠7か月の未熟児で生まれ、先天性の心臓と肺の疾患のため生後3か月で死去しており、それ以降は子をもうけていない。自伝などでは「子供に自分のガラガラ声が遺伝していじめられたらかわいそうだ」という葛藤があったとする一方で、夫の砂川の著書では「(大山が)2度の不幸から、『また同じことが繰り返されるのではないか』という葛藤やトラウマからセックスレスとなってしまった」と明かされた。 同じ作品でデビューした同期の冨士眞奈美とは、デビュー後4年半ほど同居していた。 趣味・嗜好ブロックくずしゲームの『アルカノイド』(タイトー)が大のお気に入りで、自身の別荘にアルカノイドの筐体を置いていたほどである。自己記録の「およそ120万点」は、公式 2位の記録に匹敵する。1988年、空港や駅の待ち時間で暇潰しとして始めたのがきっかけで、それ以降、仕事で地方へ行くとゲームセンターを巡り回った。その腕前は『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)のコーナー「ムダベストテン」や『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』(フジテレビ系)、『ゲームセンターCX』の「たまに行くならこんなゲームセンター」などのバラエティ番組でも紹介し披露された。 2005年に新宿にあるセガのアミューズメント施設で一日店長を務めた際には、多くの来客の前で実力を披露し、2007年には『アルカノイドDS』発売記念イベントに招かれ、マスコミ達を前にその腕前を披露した。しかし本人によると、実はアルカノイド以外のゲームは一切できないとのことである。 別荘を売却したタイミングでアルカノイドの筐体も手放され、ゲーセンミカドが譲り受けた。一般の利用客もプレイできるよう、2022年現在も稼働・メンテナンスされている。 料理関連声優界の中でも著書が多く、自伝『ぼく、ドラえもんでした』(小学館)以外は、ほぼ全てが料理・栄養といった食関連の本で、夫らとの共著も入れると20数冊ある。料理の腕前もプロ級であり、かつては主婦向けのテレビ番組で、料理コーナーを持っていた。母親から受け継いだ糠床を今でも大切にしていると語っている。 優れた味覚・嗅覚を持っており、水を一口飲めばそれがどこの水かを言い当てることが出来るという。そのため、水の研究家としても名の通った存在であり、旧厚生省「おいしい水研究会」、旧国土庁「水を語る女性の会」の委員も務めている。健康・カルチャー番組にもよく出演している。特に『ためしてガッテン』での出演頻度は高く、1クールに1度は出演していた。 芸能界の中でも無類の麻雀好きとしても知られ、美空ひばりとも麻雀友達だった。きっかけは、子を失って苦しんでいることを気遣った仲間たちが毎日執拗に麻雀に誘っていたことである。親交が深く実弟のように可愛がっていた水谷豊やおりも政夫とは毎日のように麻雀をしていたと大山本人がTV番組で語った。 愛煙家で、かつては一日2箱を吸うほどであった。しかし、脳梗塞で倒れた後は認知症の前兆もあってか、関心を示さなくなった。 ゴルフも趣味として挙げている。 その他のエピソード
『おかあさんといっしょ』の人形劇では『ブーフーウー』から『とんでけブッチー』まで4作連続で声優を務め、後に『ミューミューニャーニャー』でも声優を担当。 俳優座養成所時代に脚本家に話を書かせて欲しいと頼み、実際に執筆したものが面白かったため、『太陽にほえろ!』の脚本に採用され、5本共同執筆した。 『サザエさん』では初代・磯野カツオ役を演じたが、1969年10月5日の開始から2か月半後の1969年12月21日放送回をもって自主降板。『サザエさん』の制作会社エイケンの鷺巣政安によれば、大山の妊娠のために降板したと発言しているが、大山は2004年3月放送のラジオ番組TOKYO FM『恵俊彰のディア・フレンズ』に出演した際、自ら降板を申し出た事を証言。放送開始時より使用されている『サザエさん』のエンディングテーマ『サザエさん一家』のフルバージョンの音源には、大山がカツオとして演じたセリフが収録されている。 役者志望の後進には「とにかく挑戦してみることですね。やってみる前に「ダメだ」と決めつけないこと。役を演じるときも同じです」と述べている。また好奇心や探求心の必要性も語り「役者は一生の仕事ですから。私も一生勉強を続けて、死ぬまで役者でありたいと思っています」と発言していた。 プロ意識が非常に高いことでも知られた。認知症発症後も、人前に出ることや台本を読むことなど仕事で問題はなかったといい、音響芸術専門学校でドラえもんの声でのメッセージ収録を求められた際は1発でOKを出し「ドラえもんが乗り移ると凄い力を発揮する」と周囲の関係者は驚いたという。 2024/06/17 11:09更新
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大山のぶ代と同じ誕生日10月16日生まれ、同じ東京出身の人
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