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田中角栄の情報 (たなかかくえい)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

田中角栄の情報(たなかかくえい) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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田中 角栄さんについて調べます

■名前・氏名
田中 角栄
(読み:たなか かくえい)
■職業
政治家
■田中角栄の誕生日・生年月日
1918年5月4日
午年(うま年)、牡牛座(おうし座)
■出身地・都道府県
新潟出身

田中角栄と同じ1918年生まれの有名人・芸能人

田中角栄と同じ5月4日生まれの有名人・芸能人

田中角栄と同じ出身地新潟県生まれの有名人・芸能人


田中角栄の情報まとめ

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田中 角栄(たなか かくえい)さんの誕生日は1918年5月4日です。新潟出身の政治家のようです。

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生涯、人物などについてまとめました。事件、兄弟、姉妹、卒業、現在、父親、結婚、解散、テレビ、引退、病気に関する情報もありますね。今年の情報もありました。亡くなられているようです。

田中角栄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

田中 角栄(たなか かくえい、1918年〈大正7年〉5月4日 - 1993年〈平成5年〉12月16日)は、日本の政治家、実業家、建築士。

衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第64・65代)を歴任した。

自民党内最大派閥の田中派を率い、日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤や影の総理など呼ばれ多大な影響力をもった政治家として知られる。

自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。次世代のリーダーの一人として自民党総裁の座を狙っていたころは、その膨大かつ明晰な知識と、徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた。大正生まれ初の内閣総理大臣であり、在任中には日中国交正常化や日中記者交換協定、金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。政権争奪時に掲げた日本列島改造論による日本列島改造ブームは一世を風靡したが、その政策はインフレーションを招いてこれを狂乱物価と批判していた政敵の福田赳夫を蔵相に抜擢して日本は安定成長期に入った。その後の田中金脈問題によって首相を辞職、さらにアメリカ合衆国の航空機製造大手ロッキード社の全日本空輸への航空機売込みに絡んだ贈収賄事件、いわゆる「ロッキード事件」で逮捕・収監され、自民党を離党した。

首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたキングメーカーだったことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取った。1972年(昭和47年)に総理大臣になると、高等教育を受けていないにもかかわらず努力一筋で首相にまで上り詰めた経歴から「今太閤」、「庶民宰相」、「豊臣秀吉」とも呼ばれた。また、天下人の太閤秀吉になぞらえ子飼いの武将の「七本槍」を彷彿とさせることから、中堅幹部は「七奉行」とマスコミに表現された。

道路法の全面改正や、道路・港湾・空港などの整備を行う各々の特別会計法など、衆議院議員として33件の議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を与えた。また、社会基盤整備を直接担当する建設省や運輸省、大臣として着任していた通商産業省や郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。

1972年8月7日の駐日アメリカ大使から本国への機密の報告書には「田中の粘り強さと決断力の源は、自らの力でのし上がってきた、その経歴にあると思われる。彼の大胆さと手段を問わないやり方は終戦直後の混乱からトップに登り詰めたことを反映している」とある。通産大臣時代に担当した戦後初の日米貿易摩擦とされる日米繊維交渉ではアメリカに対して粘り強く交渉し、貿易戦争の瀬戸際になるまで妥協しなかったこともあった。

生涯

生誕

1918年5月4日新潟県刈羽郡二田村大字坂田(後の同郡西山町、現:柏崎市)に父・田中角次(1886〜1964)、母・フメ(1891〜1978)の二男として生まれる。ただし長兄は早逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。田中家は農家だが父は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。幼少年時代に父がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ、ジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い、浪花節を練習して矯正した。

1933年(昭和8年)、二田尋常高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学に優れ、ずっと級長をしていたという。高等小学校の卒業式では答辞を読んだ。

なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒(1936年卒)と公称することが多かった。後に中央工学校の五代目校長に就任している。しかし、現在の中央工学校は専門学校として東京都から認可を受けているが、専門学校を含める「専修学校」という学校制度は1976年(昭和51年)に創設されたため、彼が在学当時の中央工学校は学校制度上の学校ではなかった。

二田尋常高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業後、田中は土木工事の現場で働くが一ヶ月で辞め、その後、柏崎の県土木派遣所に勤めた。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という。

上京

1934年(昭和9年)3月、農村工業論を唱えて新潟県柏崎に工場建設していた理化学研究所の大河内正敏が「(自身を)書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する。だが東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた群馬に本社がある土建会社井上工業の東京支店に住み込みで働きながら、東京神田の中央工学校夜間部土木科に通った。

夜間部在学中に、保険業界専門誌『保険評論』を発行する小山哲四郎の書生になったり、輸入専門の貿易商「高砂商会」の配送員といった職にも就いたりした。

この頃になって、父親の事業が波に乗ってきたことで、大学に行く金を出してもいいと言ってきた。そのため、一時は海軍兵学校入校を目指し、理数系の旧制専門学校である「研数専門学校」英語系の正則英語学校に掛け持ちしたり、商業系「錦城商業学校」には4年次に編入で入学など複数の学校に通った。しかし、母が病で倒れたの報を受けて、海軍よりも稼げる実業系に志望を変えた。当時既に設立していた共栄建築事務所では海軍大尉の5倍を稼いでいた。通っていた学籍は放校となっている。

1936年(昭和11年)3月、中央工学校夜間部土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。このころ、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校(1936年商業4年修了) にも籍を置き、商事実務(コーポレート・ファイナンス)を学ぶ。

1938年(昭和13年)、徴兵適齢のため受けた徴兵検査で甲種合格となり、現役兵たる騎兵として陸軍の騎兵第24連隊への入営が通知される。1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。軍隊時に早稲田大学の「建築に関する専門講義録」を入手し勉強に励む。入営当初は内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった。1940年(昭和15年)3月、入営から1年で陸軍騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。

1943年(昭和18年)12月に、「共栄建築事務所」を改組して田中土建工業を設立した。

仕事で訪れた理化学研究所のエレベーターで偶然大河内正敏と乗り合わせた。そして、彼は角栄が自分の家で1934年の上京時に門前払いをくったことを知り、柏崎とのつながりに親しみを覚えたことで、理研の仕事が角栄の会社に舞い込むようになった。理研コンツェルンとの関係も復活し、理化学興業(ピストンリング製造、現:リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった。

1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(韓国のテジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。同年8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。田中土建工業は戦災を免れる。

戦後の政界入り

1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金を行ったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補する。田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動を行ったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した。この選挙の時に、「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めたら、佐渡まで陸続きになる」という演説をした。

翌1947年4月、日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で当選する。民主党は日本社会党・国民協同党の3党連立による片山内閣与党となったが、1947年11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。

同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。民主クラブは1948年3月に、吉田茂を党首とする日本自由党と合同して民主自由党となる。この政党再編により、田中は吉田茂の知遇を得た。民主自由党で田中は「選挙部長」の役に就く。

1948年10月、芦田内閣が昭和電工事件により総辞職すると、後継首相として野党第一党党首であった吉田茂が浮上するが、連合国軍最高司令官総司令部民政局は吉田を嫌い、幹事長の山崎猛を首班とする工作を行った(山崎首班工作事件)。しかし、民主自由党内からの反対によりこの工作は潰え、第2次吉田内閣が発足する。新内閣で田中は法務政務次官に就任した。まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾請求を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。

直後の1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、1949年1月13日に保釈されたものの、わずか10日間の運動しかできない中、1月23日の選挙では2位で再選を果たした。地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡や南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした。都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した。炭鉱国管疑獄は1950年4月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった。

再選後の田中は国会で衆議院建設委員会に所属し、生活インフラ整備と国土開発を主なテーマに活動した。田中が提案者として関わった議員立法は33本にも及んだ。その主なものとして建築士法 や公営住宅法などがある。公営住宅法では、池田勇人蔵相に増額を説得し、後に日本住宅公団が設立された。また道路法の全面改正に取り組み、この改正法も自らが提案者となって1952年に成立した。二級国道の制定で国費投入の範囲を広げ、道路審議会を設置して「陳情」の民意を反映させる方式を取り入れた。1953年には、建設省官僚の意も受ける形で、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、「ガソリン税(揮発油税)相当分」を道路特定財源とすることを可能にした。

民主自由党は1950年3月に自由党となる。

政界外では、長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化を実現させる切り札として要望を受け、1950年10月に同路線を運営する長岡鉄道株式会社の社長に就任した。田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる。電化に際しての莫大な費用は国庫から捻出されたが、これは大蔵大臣だった池田勇人が一肌脱ぎ、池田が創設した日本開発銀行が巨額の融資を行った。これを契機に西村は晩年まで田中の支援者となる。また、それまで大野市郎や亘四郎の地盤であった(長岡鉄道沿線の)三島郡で支持を広げることとなった。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。

このほか、1953年4月には、母校の中央工学校の校長に就任している。1972年に退任。また、同じく1953年に『越山会』が誕生した。

田中は1954年には、吉田茂率いる自由党の副幹事長に就任。「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の一人と目されるようになった。1955年3月、衆議院商工委員長に就任する。

自由民主党結党後・幹部や閣僚歴任

1955年11月の保守合同で自由党は日本民主党と共に自由民主党を結党し、田中も参画する。

1957年(昭和32年)7月 - 第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。戦後、初めて30歳代での国務大臣に就任した。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 - キー局 - ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方テレビ局の無線局免許状交付の可否)を郵政省の影響下に置いたことは、その後の田中に飛躍の原動力になった。

1961年(昭和36年)7月 - 自由民主党政務調査会長。

1962年(昭和37年)7月 - 第2次池田勇人内閣の改造で大蔵大臣。雪は春に溶けるからと災害に認められていなかった豪雪のサンパチ豪雪に、田中角栄大蔵大臣が初めて災害救助法を適用させた。第1次佐藤栄作内閣まで留任。

1965年(昭和40年)6月 - 大蔵大臣を辞任し、自由民主党幹事長に就任。

1966年(昭和41年)

    6月 - 社団法人日本空手協会会長に就任。(1968年5月辞任)

    12月 - 幹事長を辞任。

    1968年(昭和43年)

      5月 - 自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を発表。

      11月 - 幹事長に復帰。

      1969年(昭和44年)

        4月 - 眞紀子が鈴木直人元衆議院議員の三男、直紀と結婚。直紀は田中家に婿入り、この時の条件は、

        一.直紀を父・直人の選挙区だった福島3区から衆議院選挙に立てること。 二.田中家の全財産は将来、直紀に譲ること。 三.以上の約束を披露宴で公表すること。 だった。

          8月 - 大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)成立を働きかけ、大学紛争を収束に導く。

          1970年(昭和45年)9月 - 産経新聞の購読を通じた党への支持を求める幹事長通達を、「取扱注意・親展」で全国の県支部連合会と支部(党所属衆議院議員)に出していたことが発覚。11月4日の参議院決算委員会で和田静夫に取り上げられた。

          9月10日、真紀子と直紀の間に初孫田中雄一郎が誕生する。

          1971年(昭和46年)

            7月 - 第3次佐藤栄作内閣の改造で通商産業大臣。

            10月 - 日米繊維交渉が決着。

            1972年(昭和47年)

              5月9日 - 佐藤派から81人の議員を引き連れ、派内派(田中派)を結成。

              6月 - 『日本列島改造論』を発表。

              7月5日 - 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に就任。

              7月6日 - 第1次田中内閣が成立。初の大正生まれの首相であり史上初の新潟県出身の首相である。各種機関の内閣支持率調査で70%前後の支持を集める。なお、田中の次の大正生まれの首相は5代後の中曽根康弘。

              総理大臣

              1972年(昭和47年)

                9月 - 日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。北京で周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化 が実現し、日華平和条約の終了を確認。この際、田中は周恩来から一枚の色紙を渡され喜んでいる写真が新聞に掲載された。色紙の言葉は「言必信行必果」と書かれてあった。しかし、この言葉は論語から引用したもので、この言葉のあとに「硜硜然小人哉」と続く。この記事を見て安岡正篤は、この言葉の真の意味も知らないで喜んでいる田中を見て、田中の教養のなさと中華人民共和国のしたたかさを周りの人にと指摘したといわれる。諸橋轍次『中国古典名言事典』(講談社刊)では、「その言葉は必ず真実であり、やるべきことは必ずやりとげる。それは士として持つべき資質だ。しかしながら、もしそれだけの人だとしたら、人間として小さい」と訳されている。同日、中華民国が対日国交断絶を発表。

                12月 - 第33回総選挙。自由民主党は過半数確保も議席減、日本共産党が躍進。12月22日、第2次田中内閣発足で挙党一致体制へ。

                1973年(昭和48年) - 地価や物価の急上昇が社会問題化。

                  5月 - 小選挙区制導入(小選挙区比例代表並立制)を提案。野党と世論の猛反発を浴びて撤回に追い込まれた(カクマンダーと称された)。

                  8月 - 金大中事件発生。東西冷戦下において当時の朴正煕政権を支持するとの立場から、韓国側の一方的な政治決着を受け入れた。

                  9月 - 西ヨーロッパ訪問。

                  10月 - ソビエト連邦訪問。日ソ共同宣言時の鳩山一郎以来であり、ブレジネフソ連共産党書記長との会談において、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して、平和条約を締結する」との日ソ共同声明が出された。日本政府はこの共同声明を根拠に、首脳会談でブレジネフから「北方領土問題が未解決である」ことの言質を得たと認識しているが、日ソの共同文書には「領土問題が存在している」旨の明記はなされなかった。一方、経済協力についてはシベリア開発などでの進展が見られた。

                  10月16日 - 第四次中東戦争から第一次オイルショックが発生。中東政策をイスラエル支持からアラブ諸国支持に転換するとともに中東地域以外からのエネルギーの直接確保に努めた。

                  11月 - 内閣改造。愛知揆一蔵相の急死で、福田赳夫が大蔵大臣就任。需要抑制・省エネルギー政策へ転換し、電源開発促進税法など電源三法を成立させ柏崎刈羽原子力発電所への補助金へ充てる。

                  12月 - 物価・地価上昇など経済失政への批判が高まる中、このころから翌年初に行われた各社世論調査で、内閣支持率が軒並み20%を割るようになる。

                  1974年(昭和49年)

                    1月 - 東南アジア訪問。インドネシアの首都ジャカルタで反日デモ(マラリ事件)に遭遇する。

                    7月 - 第10回参議院選挙。ヘリコプターをチャーターし、栃木県を除く46都道府県に訪れて演説などの選挙活動を行うが、議席は伸び悩み、参議院は伯仲国会になる。三木武夫や福田赳夫が閣外へ去る。

                    9月 - メキシコ訪問。日本メキシコ学院の設立のための援助資金を持ち、エチェベリア大統領(当時)との会談の結果、「両国民の相互理解のために画期的な重要性を有するものであって、早期建設を支援する」旨の共同声明を発表。

                    10月 - 月刊誌『文藝春秋』(1974年11月号)が、立花隆「田中角栄研究」、児玉隆也「淋しき越山会の女王」を掲載し田中金脈問題を追及、首相退陣の引き金となる。

                    11月 - 日本外国特派員協会における外国人記者との会見や国会で金脈問題の追及を受け、第2次内閣改造後に総辞職を表明。フォード米大統領(当時)が来日して会談。現職アメリカ合衆国大統領の訪日は初めて。

                    12月9日 - 田中内閣総辞職。椎名裁定により三木内閣発足。通算在職日数は886日。

                    総理退陣後

                    1976年(昭和51年)

                      2月 - ロッキード事件発生。アメリカ合衆国の上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。

                      7月27日 - ロッキード社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。また全日本空輸とロッキードの販売代理店の丸紅の社長以下数人の社員も逮捕された。なお、総理経験者の政治家が逮捕されるのは昭和電工事件の芦田均以来。逮捕時に自民党を離党し、以後無所属に。

                      8月 - 保釈。

                      12月 - 第34回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、三木内閣は総辞職、福田赳夫内閣発足。

                      1978年(昭和53年)12月 - 第1次大平内閣発足。田中が強く支持。

                      1979年(昭和54年)10月 - 第35回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、その後の「四十日抗争」で田中は大平正芳を支持。党分裂の危機へ。

                      1980年(昭和55年)6月 - 第36回総選挙。参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の鈴木善幸内閣発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元越山会青年部長の桜井新が自民党公認で初当選。

                      1982年(昭和57年)11月 - 第1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。

                      1983年(昭和58年)

                        10月 - ロッキード事件の一審判決。東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。

                        12月 - 第37回総選挙。11月28日に衆議院解散(田中判決解散)。22万票の圧倒的支持を集めて当選。田中批判を唱えて新潟3区から立候補した前参議院議員の野坂昭如は落選。直紀も福島3区から初当選。ただし、自民党は大敗し、中曽根康弘総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を発表。

                        1984年(昭和59年)

                          10月30日 - 自民党総裁選。田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。

                          12月 - 田中派内の中堅・若手により、「創政会」の設立準備が進められる。

                          1985年(昭和60年)

                            2月7日 - 創政会が発足。出席者は40名。

                            2月27日 - 脳梗塞で倒れ入院。言語症や行動障害が残り、以降政治活動は不可能に。

                            6月 - 田中事務所が閉鎖。

                            9月 - ロッキード事件控訴審開始、田中は欠席。

                            10月 - 関越自動車道全通。

                            1986年(昭和61年)7月 - 第38回総選挙。トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。

                            1987年(昭和62年)

                              7月4日 - 竹下が経世会を旗揚げ。田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。

                              7月29日 - ロッキード事件の控訴審判決。東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告。

                              10月 - 竹下が田中邸を訪問。眞紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化。

                              11月 - 竹下内閣が発足。

                              1989年(平成元年)10月 - 次期総選挙へ田中角栄が出馬しないことを直紀が発表。

                              1990年(平成2年)

                                1月24日 - 衆議院解散により政界を引退。衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散

                                2月 - 第39回総選挙。元越山会員で前小千谷市長の星野行男が自民党公認で当選。

                                1992年(平成4年)

                                  8月 - 中国訪問。中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。

                                  12月 - 経世会が分裂。

                                  1993年(平成5年)

                                    7月 - 第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の日本新党細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。

                                    12月16日 - 午後2時4分に慶應義塾大学病院にて痰が喉につかえたことからくる肺炎のため75歳で死去。戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物には正二位・大勲位菊花大綬章以上に叙されることが慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため、位階勲章は与えられなかった。なお、葬儀は自民党・田中家合同葬で執り行われた。田中の死去に伴い、福田赳夫が最古参の首相経験者となった(最高齢も福田のまま)。

                                    没後

                                    1995年(平成7年)2月 - 榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、最高裁判所が田中の5億円収受を認定する(首相の犯罪)。

                                    1998年(平成10年)4月 - 新潟県刈羽郡西山町(現・柏崎市)に「田中角榮記念館」が開館。

                                    2007年(平成19年)7月16日 - 新潟県中越沖地震で墓石が倒壊する。

                                    2009年(平成21年)3月 - 朝日新聞の『「昭和」といえば何を思い浮かべますか… 全国世論調査』において、人物の分野で回答の21%を占め3位以下を引き離し2位となった(1位は31%の昭和天皇であった)。

                                    2012年(平成24年)12月16日 - 第46回衆議院議員総選挙にて角栄の地盤を受け継いだ娘の田中眞紀子が落選する(この日は角栄の命日)。

                                    2016年(平成28年)7月10日 - 第24回参議院議員通常選挙にて娘婿の田中直紀が落選し、角栄の当選から70年近く国会に存在していた田中家の議席が消滅した。

                                    人物

                                    生活

                                    2,575坪(約8,500m)の敷地を誇る東京都文京区目白台一丁目の自邸は「目白御殿」と呼ばれた。政財界の要人が常時ここを訪れたことから「目白詣で」といわれた。この当時、政界で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。

                                      2024年1月8日、旧自宅であった建物から出火し、2階建ての住宅1棟が全焼したほか、敷地内にある平屋建ての住宅の一部など、合わせておよそ800平方メートルを焼失している。出火当時、敷地内に田中直紀・眞紀子夫妻が滞在していた(夫妻は普段は敷地内の平屋で居住)が無事で、眞紀子によれば「(火元の)建物内で仏壇に線香をあげた」「窓ガラスが割れるような音がしたので外を見たら、煙が上がっていた」と消防に説明している。

                                      長野県軽井沢の洋館別荘は、徳川圀順公爵から購入したあめりか屋設計の建物(1920年築)で、国の登録有形文化財に登録されている。現在は財団法人「田中角榮記念館」が所有、管理している。

                                      交流

                                      福田赳夫とは「角福戦争」に代表されるように対立した関係ではあったが、田中は「福田君への怨念はない。ゴルフを1日3ラウンドやる人間に怨念なんかあるものか」と怨念については否定している。実際、愛知揆一大蔵大臣が急死した際、田中は福田に蔵相就任を依頼している。その際福田は、「日本列島改造論で、国際収支が大混乱に陥っている」「日本列島改造論を撤回するならば蔵相に就いても良い」と答え、田中は福田の意見を受け入れ、経済問題については全て福田に任せている。一方福田も、田中を「昭和の藤吉郎だ。いずれは太閤になる器」と常々評していた。田中を「今太閤」と名付けたのも福田である。対中政策をめぐっても両者はよく比較されたが、田中も福田も日中友好団体である日中協会の役員を務めた。

                                      1962年7月第2次池田内閣における、尋常高等小学校卒、44歳での大蔵大臣就任は、1890年日本の帝国議会開設以来、後にも先にも例がないといわれる。田中蔵相と書かれた閣僚名簿を見た池田勇人総理は「アレは車夫馬丁のたぐいだ。どこの馬の骨かわからん」と一蹴した。田中は池田が大蔵事務次官のころから、池田を未来の宰相と見込んで10年近く、何があっても離れず池田に近づこうと腐心した。同じ吉田門下で異例の出世を遂げる池田を見て、池田につながって出世したいと策を巡らせ、遂に田中の妻はなの連れ子・静子と池田の甥との結婚を仕組み、池田と縁戚まで結んでいた。ただし、1956年末の旧吉田派(丙申会)の分裂では、政権を取るのは佐藤栄作が池田より先と読み、池田派(宏池会)ではなく佐藤派(周山会)に寝返っている。親戚関係とはいえ「高度経済政策」を推進していくにあたり、最も重要なポストである蔵相に国家財政に一度も携わったことのない素人を充てることはできない。ところが大平正芳が「あの男ならやれます」と池田を熱心に説得、党内の反発を押し切って池田はこれを了承した。慎重居士の大平が、なぜ意外なほどの強行策をとり、田中の売り込みに奔走したのかは謎とされる。田中の蔵相抜擢は、時として反旗を翻すことのある大蔵省へ池田が打ち込んだ"楔"という見方や、金融や財政に素人の田中を据えて、事実上の実権を裏で池田自身が掌握する、総理と蔵相を自身で兼ねて自ら陣頭指揮を執り、田中を傀儡蔵相に仕立てた池田の策略という説もある。当時の大蔵省は池田の直轄地ともいわれ、実際には池田が蔵相を兼任している状態ともいわれた。野田卯一は「池田に対して田中を強引に蔵相に推薦したのは佐藤栄作」と述べている。田中は池田内閣で2年4ヶ月大蔵大臣を務めるが「国民所得倍増計画」に代表される池田の経済主義路線は、開発政治の旗手である田中に絶好の機会を与えた。一介の中堅議員に過ぎなかった田中が、池田によって政調会長(1961年)、大蔵大臣(1962年)という要職に抜擢されたからこそ、後の天下取りへの道が開かれたのである。田中にとって池田は足を向けては寝られない恩人であった。

                                      当時の大蔵省は別格の存在で、大蔵大臣就任にあたり、大蔵省の役人から「大蔵大臣はたいへんな仕事ですから、しっかりやって下さい」と言われて、「俺だって一生懸命勉強してるのに」と悔しくて涙を流し必死に勉強した。田中はこの大蔵大臣就任期間の間に、池田の勢威が行き渡る大蔵省内で、得意の人心収攬術と政治力を操り、誇り高い大蔵官僚を押さえ込んだといわれる。当時大蔵省銀行局検査部長だった庭山慶一郎は「池田さんも部下にカネを渡してました。田中さんは池田さんに可愛がられていましたから、その真似をしたんじゃないですかね。ただ池田さんは大蔵官僚出身だから節度というものをわきまえていました。田中さんの方は、出身のせいかドロ臭い。金額も配る範囲も派手だったです。他人の経歴をじつによく知っていて、入省年次はおろか、成績順位や係累までご存知でした。そのへんはものすごく気持ちの働く人でした。高級、下級官僚の別け隔てなく名前で呼びかける。最初は『田中なんて』と馬鹿にしていた連中も、次第になびくようになるんですね」と述べている。田中は池田が進めた利益誘導政治の形成・展開に便乗したばらまき財政により政治基盤を固めていった。岸、池田時代にまさか田中が将来総理になると思う人は党内にいなかった。

                                      田中と大平の関係が密になるのはここからで、その後も大平とは長く盟友関係にあり、頭角を現す切っ掛けとなった。これは「大角連合」と呼ばれ、田中の首相就任の際には大平の協力が、大平の首相就任の際には田中の支援があった。田中の成長は佐藤派の参謀でありながら池田の側近でもあったからといわれる。田中政権の成立にあたっては「内政は田中、外交は大平」との方針でいくことが2人の間で交わされており、大平は自派(宏池会)からの三役就任の声を押し切って外相を引き受けた。日中国交正常化交渉の実務を取り仕切り、日中航空協定では党内の批判の矢面に立ち交渉を取りまとめた。両者の関係は田中と大平の個人的関係にとどまらず、田中派と大平派は兄弟派閥として議員の交流も盛んであった。

                                      "自民党の黒幕"といわれた福本邦雄は「角栄は非常に無原則。思想がない。むちゃくちゃの典型。日中国交正常化をやったのは大平と木川田一隆です」と述べている。

                                      党人派で副総裁を務めた川島正次郎と田中は佐藤内閣で近い関係にあり、佐藤長期政権を作ることで川島は田中の総理への道を切り開いた。一方、官僚出身政治家として対極にあった福田赳夫や、「クリーン政治」を訴え自らの逮捕を容認した三木武夫とは激しく対立した。特に福田との「角福戦争」は第2次大平内閣時に首班指名選挙での党分裂状態 や不信任案の福田派欠席による可決までエスカレートした(四十日戦争・ハプニング解散)。

                                      中華人民共和国からは「日中国交正常化を決断した偉大な政治家」として尊敬され、鄧小平が1978年に来日した際に田中邸を訪問するなど、田中がロッキード事件により訴追された後も江沢民など多くの中国共産党政府の要人が田中邸を訪問した。

                                      経済界での人脈も広く培っていた。その中で、田中の「刎頸の友」と呼ばれた国際興業の小佐野賢治は、田中を資金面でバックアップしたとされ、後に共にロッキード事件で刑事責任を問われた。この事件では小佐野を介して右翼団体の大物活動家である児玉誉士夫との接点が指摘された。この方面の人脈については現在でも不透明な部分が多い。

                                        金融関係では、日本興業銀行頭取などを歴任した中山素平、元富士銀行頭取の金子鋭、元第一勧業銀行頭取の横田郁などと交友があった。横田の死去後に発行された追悼文集では、田中自ら「一生を通じて私的交友を持ち続けたのは、金子・中山・横田の3人だけ」と記している。

                                        国土強靭化論などから分かるように、公共工事に特に力をいれていた。自身の有力後援者だった福田正の福田組がゼネコンとして急成長を遂げる原動力となったのが、新潟県に地盤を持っていた角栄とのパイプで受注出来た数々の公共事業だった。小沢一郎の元妻・和子は福田の長女であり、二階堂進を仲人にして衆議院議員2期目の1973年に結婚した。なお、福田の次女も、竹下登の弟である竹下亘と結婚している。

                                        血液型はB型。

                                        語録

                                        ウィキクォートには、田中角栄に関する引用句があります。

                                        「三国峠をダイナマイトで吹っ飛ばせば越後に雪は降らない。そしてその土を日本海に運べば佐渡と陸続きになる」(初出馬時の演説)

                                        「ナニ言ってんだ、ジイさん。あんたたちはもう子供が全部でき上がっているから、そんな極楽トンボでいられるんだ。学生を子に持つ日本中の親たちは、一体どうするんだ。自分たちの食うものも削って、倅や娘に仕送りしているんだ。ところが、学校はゲバ棒で埋まっている。先生は教壇に立てない。勉強する気の学生は試験も受けられん。こんなことで卒業できるのか。就職できるのか。みんな、真っ青になっているんだ。気の弱い学生は大学にも行けず、下宿でヒザを抱えているんだ。だから、いいからジイさん、早くベルを鳴らせ。やらなきゃ、このオレが許さんぞ」(大学管理法成立に際して参議院法会議開会を渋る重宗雄三議長に対して)

                                        「政治は数であり、数は力、力は金だ」(=数の論理)

                                        「政治とは何か。生活である」(秘書・早坂茂三の著書「オヤジの知恵」に記述あり)

                                        「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る」

                                        「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」

                                        「中国国民全員が手ぬぐいを買えば8億本売れる」(日中国交正常化の際の発言)

                                        「いままで政府が統一見解で述べておりますものは、自衛の正当な目的を達成する限度内の核兵器であれば、これを保有することが憲法に反するものではないというのが、従来政府がとってきたものでございます」(1973年3月17日参議院予算委員会での答弁)

                                        (日の丸・君が代が国旗・国歌として定着しているという認識を示した上で)「私はやはりある時期に、もうこの時期にでもいいと思いますが、国歌や国旗というものを明確にやっぱり国権の最高機関としての院の議決を得て法律として制定をすべきときが来ておると思います。そして制定をしたら、これは少なくとも、小中学校とか、国公立の学校においてこれを歌うということは当然でございます」(1974年3月14日参議院予算委員会での答弁)

                                        「私が田中角栄であります。皆さんもご存じの通り、高等小学校卒業であります。皆さんは全国から集まった天下の秀才で、金融、財政の専門家ばかりだ。かく申す小生は素人ではありますが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきており、いささか仕事のコツは知っているつもりであります。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになりますが、お互いが信頼し合うことが大切だと思います。従って、今日ただ今から、大臣室の扉はいつでも開けておく。我と思わん者は、今年入省した若手諸君も遠慮なく大臣室に来てください。そして、何でも言ってほしい。上司の許可を取る必要はありません。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上」(1962年、第2次池田内閣の大蔵大臣に就任後、官僚の前で最初に行った挨拶)

                                        「よっしゃよっしゃよっしゃ」(ロッキード事件の賄賂を受領した際に述べたとされる発言)

                                        「跳ねた鯉が地面に落ちたら干物になるだけだ。魚の干物なら食うが、熊の干物は誰も見向きもしない」(中川一郎に『鯉は跳ねちゃいけませんか?』と、小派閥ながら自民党総裁選に出馬を決めたという報告を受けた際の返答)

                                        「私は、かつて日本と朝鮮半島が合邦時代が長くございましたが、その後韓国その他の人々の意見を伺うときに、長い合邦の歴史の中で、いまでも民族の心の中に植えつけられておるものは、日本からノリの栽培を持ってきてわれわれに教えた、それから日本の教育制度、特に義務教育制度は今日でも守っていけるすばらしいものであるというように、今度のASEAN五が国訪問で、しみじみたる思いでございました。これはかっての台湾統治の中でも、そのようなほんとうに民族的に相結ばれる心の触れ合いというものが、いまでも高く評価をされておるという一事をもってしても言えるものでございます。」(1974年1月24日衆議院本会議答弁で。この発言が日韓併合を正当化するものだと南北朝鮮から批判を受けた)

                                        「政治家は発言に、言っていい事/悪い事、言っていい人/悪い人、言っていい時/悪い時、に普段から気を配らなければならない」(伊藤惇夫が2013年6月19日TBS『ひるおび!』で政治家のブログ炎上に関して語った田中のエピソード)

                                        「人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ」

                                        「このトンネルについて、60戸の集落に12億円かけるのはおかしいとの批判があるが、そんなことはない。親、子、孫が故郷を捨てず、住むことができるようにするのが政治の基本なんだ。だから私はこのトンネルを造ったんだ。トンネルがなかったら、子供が病気になっても満足に病院にかかれない。冬場に病人が出たら、戸板一枚で雪道を運んで行かなきゃならん。同じ日本人で、同じ保険料を払っているのに、こんな不平等があるか」

                                        「田中はなぜ倒れないか。人間、はだかになったことがないからびくびくするんだ。おれははだかになっているんだもの。」(1983年10月13日、ロッキード裁判で有罪判決を受けた翌日の言葉)

                                        「中曽根は象に乗っているのに、どうしてきつねやたぬきに乗り換えるのか」(1983年ごろ、ロッキード裁判の判決直後に中曽根康弘首相が福田や三木に接触していることを聞いて)

                                        「物価とかね公害なんていうのは、大したこっちゃありませんよ。こりゃね、まぁ、雨漏りがするとか、雨戸が飛んだとか、下水が溢れるとかいう程度のもんだ。」(1974年7月7日の参議院選挙へ向けた街頭演説)

                                        「田中の列島改造論はありゃダメだという人がいる。ダメだというのならほかにいい案を出しなさい。」(首相在任中の演説の常套句)

2024/06/13 00:31更新

tanaka kakuei


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高頭 時夫(たかとう ときお)
1933年5月4日生まれの有名人 新潟出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 高頭 時夫(たかとう ときお、1933年5月4日 - )は、新潟県出身の元プロ野球選手。 長岡商業高校から1952年に阪急ブレーブ…


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田中角栄と近い名前の人

田中 和夫_(実業家)(たなか かずお)
1946年7月2日生まれの有名人 東京出身

7月2日生まれwiki情報なし(2024/06/15 02:48時点)

田中 和夫_(堺市長)(たなか かずお)
1927年1月2日生まれの有名人 大阪出身

田中 和夫(たなか かずお、1927年〈昭和2年〉1月2日 - 1989年〈平成元年〉8月21日)は、日本の政治家、自治官僚。大阪府堺市長(第15代)。助役の時に、堺市の政令指定都市移行を目指す我堂武…

田中 佳奈(たなか かな)
1978年10月21日生まれの有名人 出身

田中 佳奈(たなか かな、1978年10月21日 - )は、日本の女優、タレント。シュルー所属。 身長164cm、B78-W57-H84 靴のサイズ23cm。特技:幼稚園教員 二種、保母資格。 …

田中 かほり(たなか かほり)
1976年7月25日生まれの有名人 長野出身

田中 かほり(たなか かほり、1976年7月25日 - )は、日本の女性声優。 長野県出身。血液型はAB型。元TABプロダクション所属。現在はフリー。 太字はメインキャラクター。 まほろまてぃ…

田中 誠人_(子役)(たなか まこと)
2011年12月3日生まれの有名人 出身

田中 誠人(たなか まこと、2010年〈平成22年〉8月25日- )は、日本のミュージカル俳優、声優、歌手、子役俳優である。劇団ひまわり所属。 趣味はピアノ、将棋、音読、ルービックキューブ5×5。…

田中 雅彦_(バドミントン選手)(たなか まさひこ)
1966年12月10日生まれの有名人 神奈川出身

田中 雅彦(たなか まさひこ、1966年12月10日 - )は、オーストリアのバドミントン選手。身長170 cm。右利き。神奈川県横浜市神奈川区出身。横浜市立松本中学校、神奈川県立鶴見高等学校、京都外…

田中 裕二_(ミュージシャン)(たなか ゆうじ)
1957年5月29日生まれの有名人 北海道出身

田中 裕二(たなか ゆうじ、1957年5月29日 - 2022年12月17日)は、日本のドラマー、ミュージシャンである。血液型はO型。 北海道旭川市出身。1977年からロックバンド『安全地帯』のメン…

田中 裕二_(お笑い芸人)(たなか ゆうじ)
【爆笑問題】
1965年1月10日生まれの有名人 東京出身

田中 裕二(たなか ゆうじ、1965年〈昭和40年〉1月10日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、随筆家、俳優、声優、歌手、アイドル。芸能事務所「タイタン」所属。お笑いコンビ・爆笑問題のツッコミ…

田中 直樹_(お笑い芸人)(たなか なおき)
【ココリコ】
1971年4月26日生まれの有名人 大阪出身

田中 直樹(たなか なおき、1971年〈昭和46年〉4月26日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、俳優。お笑いコンビ・ココリコのリーダーでボケ担当。相方は遠藤章造。大阪府豊中市庄内出身。吉本興業…

田中 直樹_(バレーボール)(たなか なおき)
1962年4月2日生まれの有名人 福岡出身

田中 直樹(たなか なおき、1962年4月2日 - )は、日本の男子元バレーボール選手。バレーボール全日本の選手。 福岡県北九州市出身。福岡県立直方高等学校、日本体育大学を経て、住友金属(本拠地:…

田中 理恵_(体操選手)(たなか りえ)
1987年6月11日生まれの有名人 和歌山出身

田中 理恵(たなか りえ、1987年6月11日 - )は、日本の元体操選手。元2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事。マネジメント所属は株式会社フィルブロード。 和歌山県…

田中 理恵_(声優)(たなか りえ)
1979年1月3日生まれの有名人 北海道出身

田中 理恵(たなか りえ、1979年1月3日 - )は、日本の女性声優、歌手。北海道札幌市南区出身。オフィスアネモネ所属。 小学校時代、学校から帰ってくると玄関にランドセルをそのままポイと置いて外…

田中 昭二_(物理学者)(たなか しょうじ)
1927年9月19日生まれの有名人 神奈川出身

田中 昭二(たなか しょうじ、1927年9月19日 - 2011年11月11日)は、日本の応用物理学者。東京大学名誉教授。国際超電導産業技術研究センター顧問。妻は「わいふ」編集長を務めた田中喜美子。 …

田中 さなえ(たなか さなえ)
1972年12月6日生まれの有名人 大阪出身

田中 さなえ(たなか さなえ、1972年12月6日 - )は、日本のタレント。旧芸名は田中 早苗(読み同じ)。 大阪府四條畷市出身。松竹芸能所属。 関西外国語大学短期大学部英米語学科在学中、学園…

田中 早苗_(アナウンサー)(たなか さなえ)
1970年10月5日生まれの有名人 鹿児島出身

田中 早苗(たなか さなえ、1970年10月5日 - )は、鹿児島放送 (KKB) のアナウンサー。鹿児島県鹿児島市出身。 鹿児島女子大学(現・志學館大学)を卒業後、1993年4月にKKBに入社。…

田中 幸雄_(内野手)(たなか ゆきお)
1967年12月14日生まれの有名人 宮崎出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 田中 幸雄(たなか ゆきお、1967年12月14日 - )は、宮崎県都城市出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)・二軍監督・…

田中 幸雄_(投手)(たなか ゆきお)
1959年2月27日生まれの有名人 千葉出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 田中 幸雄(たなか ゆきお、1959年2月27日 - )は、千葉県流山市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 1986年から1…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「田中角栄」を素材として二次利用しています。

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