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荒木貞夫の情報 (あらきさだお)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

荒木貞夫の情報(あらきさだお) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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荒木 貞夫さんについて調べます

■名前・氏名
荒木 貞夫
(読み:あらき さだお)
■職業
軍人
■荒木貞夫の誕生日・生年月日
1877年5月26日 (年齢89歳没)
丑年(うし年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
和歌山出身

荒木貞夫と同じ1877年生まれの有名人・芸能人

荒木貞夫と同じ5月26日生まれの有名人・芸能人

荒木貞夫と同じ出身地和歌山県生まれの有名人・芸能人


荒木貞夫と関係のある人

木戸幸一: 木戸に対する判事団のジャッジは、荒木貞夫・大島浩・嶋田繁太郎と並んで11人中5人が死刑賛成、といったわずか1票差で死刑を免れたという結果だった。


肥田舜太郎: 「小児衛生研究会」を立ち上げ、託児所の健康管理の手伝いを始めたが、2年次のとき文部大臣荒木貞夫から「自由主義的傾向あり」と解散を命じられ、以来軍人嫌いが確固としたものになった。


嶋田繁太郎: 11人中5人が死刑賛成といった、僅か1票差で死刑を免れたのは、他に荒木貞夫・大島浩・木戸幸一だけだった。


渡辺錠太郎: 1930年代前半、陸軍では皇道派が実権を握っていたが、その中心人物であった荒木貞夫陸相は昭和維新の断行を求める青年将校の突き上げに応じなかったため急速にその名望を失い、1934年に病気を理由として陸相を辞任した。


武藤信義: 昭和8年(1933年)に陸軍大将の定年である65歳に達して予備役編入となる筈であった(実際には満65歳に達することなく没している)武藤の元帥推薦に動いたのは、陸軍大臣荒木貞夫であったという。


杉山元: 同年11月、荒木貞夫が陸相となり、いわゆる皇道派が陸軍内の実権を握ると、宇垣側近とみられた杉山は次官を更迭され、1932年(昭和7年)2月に久留米第12師団長に親補される。


真崎甚三郎: 葬儀は9月3日午後1時から世田谷の自宅において行われ、葬儀委員長は荒木貞夫が務めた。


林銑十郎: このころ、長州閥の排除を目指す「一夕会」(佐官級エリートの集まり)において、今後護りたてるべき将軍として荒木貞夫中将(陸大校長、9期、東京)、真崎甚三郎中将(第8師団長、佐賀)、林銑十郎中将(教育総監部本部長、石川)を挙げている。


板垣征四郎: しかし同年の荒木貞夫による皇道派人事で関東軍司令官に武藤信義大将、参謀長に小磯国昭中将、参謀副長に岡村寧次少将が就任し満洲組が左遷されると、この頃の板垣にはもはや関東軍を牛耳る力はなかったとされる。


末次信正: 陸軍では当初、荒木貞夫、真崎甚三郎ら皇道派とつながりがあったが、のちに林銑十郎と親密な関係にあった。


真崎甚三郎: 荒木貞夫も、「判決理由は、ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。


林銑十郎: 1934年(昭和9年)1月、荒木貞夫陸相は風邪をこじらせ、その座を同期の真崎に禅譲しようと画策するが、真崎をよく思わない参謀総長の閑院宮載仁親王元帥は、強く林の陸相就任を勧めた。


三木武夫: 1946年1月には徳島市から、軍需省で要職を務めた三木は軍産複合体の代理人として軍需生産の拡大を訴えており、A級戦犯の荒木貞夫から資金や支援を受けながら選挙戦を戦っており、更に米国留学中にはスパイ活動を行っていた旨の投書があった。


床次竹二郎: 荒木貞夫陸相は、政治不介入を理由に非公開にしようとしたが、岡田内閣倒閣を狙う永田鉄山、田中清、片倉衷らによって、「皇国同志会」を名乗った怪文書として張からの献金が流布された。


真崎甚三郎: 1932年(昭和7年)1月、犬養内閣の陸軍大臣であった荒木貞夫の計らいで参謀次長に就任した。


中川小十郎: 1935年(昭和10年)には親しかった平沼騏一郎を通じて陸軍皇道派の荒木貞夫、真崎甚三郎といった将官と交際するようになり、西園寺公望の政治信条とは必ずしも相容れない立場をとるようになっていた。


上原勇作: 上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。


吉野作造: つまり、吉野やマスコミの誤った論調は、その批判意図とは別に逆手にとられ、二重政府が憲法からあたかも導かれると誤解させ、かえって荒木貞夫をはじめ昭和の軍人によって平時においても統帥権をもち、軍隊が政府さえも導くことができると主張するのに益したとされている。


目黒祐樹: 落日燃ゆ(2009年、EX) - 荒木貞夫


伊藤彦造: 絵は当時陸軍大臣だった荒木貞夫に贈られた。


真崎甚三郎: 荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人。


大川周明: 学生時代には参謀本部でドイツ語の翻訳をしており、宇垣一成、荒木貞夫、杉山元、建川美次、東条英機、永田鉄山、岡村寧次らと知己があった。


赤尾敏: 「建国祭」は荒木貞夫や平沼騏一郎らの賛同を受け、全国で12万人を集め成功に終わる。


平賀譲: 東大経済学部において土方成美筆頭の国家主義派と河合栄治郎筆頭の自由主義派の教授の対立が起こり、平賀譲は荒木貞夫文部大臣に喧嘩両成敗で両者の休職を具申した。


梅津美治郎: 同年12月に犬養内閣が発足、いわゆる皇道派の荒木貞夫が陸相に就任すると、荒木は真崎甚三郎を参謀次長に据え参謀本部の実権を握らせる。


斎藤実: 元老西園寺公望も当初は政党内閣継続の為、鈴木を次期首相に推薦する意向であり、陸相の荒木貞夫も19日に鈴木と会見し「鈴木内閣発足に反対しない」と発言したと報じられた。


近衛文麿: この大赦論は、荒木貞夫が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。


日下武史: 226(1989年) - 荒木貞夫


平沼騏一郎: ここで斎藤実が、シーメンス汚職事件によって海軍大臣を引責辞任したという経歴を持ちながらも、総理大臣兼外務大臣に任命された主な理由は、犬養内閣の陸軍大臣でもあった荒木貞夫が元老の西園寺に、政党内閣拒絶の意を伝えていたことと、親英米派だった昭和天皇の意向があったという。


小磯国昭: 1932年(昭和7年)- 2月29日 陸軍次官に昇進(陸軍大臣は皇道派の荒木貞夫)。


荒木貞夫の情報まとめ

もしもしロボ

荒木 貞夫(あらき さだお)さんの誕生日は1877年5月26日です。和歌山出身の軍人のようです。

もしもしロボ

家庭、人物像などについてまとめました。卒業、事件、病気、現在に関する情報もありますね。89歳で亡くなられているようです。

荒木貞夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

荒木 貞夫(あらき さだお、1877年〈明治10年〉5月26日 - 1966年〈昭和41年〉11月2日)は、日本の陸軍軍人、政治家。犬養内閣・齋藤内閣の陸軍大臣、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣。位階勲等功級爵位は従二位勲一等功四級男爵。最終階級は陸軍大将。

真崎甚三郎と共にソビエト連邦との対立を志向した皇道派の重鎮。侵略思想を宣伝したとして極東国際軍事裁判で終身禁固刑を言い渡されたA級戦犯。

1877年(明治10年)5月26日、東京都狛江市(出生当時は神奈川県多摩郡和泉村)に、小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。誕生日は木戸孝允の命日でもある。日本中学を中退し、1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校卒業(第9期)。近衛歩兵第1連隊に配属され、第16代連隊旗手をつとめる。日露戦争中は、近衛後備混成旅団の副官として、梅沢道治少将に仕えた。旅団司令部には参謀の配置がないために、事実上の参謀役を務める。梅沢少将が無類の戦上手で、その旅団も「花の梅沢旅団」と称えられたために、荒木副官の名前も陸軍部内で注目を集めるようになった。1907年(明治40年)11月、陸軍大学校を首席で卒業(「恩賜の軍刀」拝受)。

第一次世界大戦中はロシア従軍武官。シベリア出兵では特務機関長にて参加。その後、憲兵司令官等を歴任。

1929年(昭和4年)、陸軍首脳は「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったが、そのときに荒木も左遷される予定であった。しかし、教育総監の武藤信義が「せめて荒木は助けてやってくれ」と詫びを入れる形で、荒木は第6師団長から教育総監部本部長に栄転し東京に残った。武藤はどちらかというと「反宇垣一成」で皇道派の庇護者であったため、統制派の独裁を嫌い、特に荒木を可愛がったらしい。この頃の荒木の人気というのは大変なもので、東京駅のホームは出迎えの青年将校で溢れ、さながら凱旋将軍のようであったという。

1924年(大正13年)、平沼騏一郎が司法官僚や陸海軍の高級軍人を集め組織化した国粋主義団体・国本社で、荒木貞夫は宇垣一成と共に理事をしており、平沼に心酔していた。1931年(昭和6年)7月16日の原田熊雄の『原田日記』によれば、その頃荒木は平沼を天皇の側近にするための宮中入り運動をしていたが、西園寺公望によって阻止されている。憲兵司令官時代から大川周明や平沼騏一郎・北一輝・井上日召といった右翼方面の人物と交流を持っていたことから、1931年(昭和6年)の十月事件においては、橋本欣五郎から首相候補として担がれたが、荒木自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。

満州事変真っ只中の同年12月に荒木は教育総監部本部長から、荒木の盛り立てを目的とする一夕会の永田鉄山や鈴木貞一らの働きかけで犬養内閣の陸相に就任した。参謀総長には閑院宮元帥を担ぎ出してロボット化を謀り、参謀本部の実質トップとなる参謀次長には真崎を台湾軍司令官から呼び戻して就任させた。荒木の人事は、自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校を東京の第1師団に集めた。

1932年春、フランスから来日したタブロイド誌「ル・プチ・パリジャン」特派員で女性ジャーナリスト・ルポライターのアンドレ・ヴィオリスからインタビューを受け、その模様は『1932年の大日本帝国』で描写されている。

この後、荒木・真崎の取り巻き連を皇道派と呼び、それに対抗する勢力を統制派と呼ぶようになった。荒木人事の凄まじさに、「清盛の専横」とか「驕る平氏も久しからず」という恨みの言葉がささやかれるほどであった。しかし、過激青年将校や下士官に自重を求める荒木の人気は下降し、次第に四面楚歌に追いやられるようになった。自分で育て、利用してきた過激青年将校たちを、制御できなくなったのである。1934年(昭和9年)1月、ついに荒木は病気を理由に陸相を辞任する。荒木は後任の陸相に腹心の真崎を希望したが、自らが擁立したはずの閑院宮にも反対され、挫折した。

極東国際軍事裁判(東京裁判)における岡田啓介の証言によれば、陸相時代には天皇を退位させて、生後間もない皇太子を即位させる計画を持っていたという。また「熊沢天皇」こと熊沢寛道とのつながりも指摘されている。

1933年(昭和8年)、大阪でゴーストップ事件が発生。陸相であった荒木は「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と憤慨し、内務省と対立した。1933年10月には外国人記者団との記者会見において、「竹槍三百万本あれば列強恐るるに足らず」と口にして座を呆然とさせた(竹槍三百万本論)。さらに来日中のジョージ・バーナード・ショーとの会談において日本人は地震によって強靭な精神を鍛えたのだと主張した(地震論)。

1934年(昭和9年)1月、肺炎のため議会の答弁に立つことが出来ないとして陸軍大臣を辞任した。退任後は軍事参議官に転補されたが、病気を理由に親補式に出席することはなかった。

1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、皇道派の首領として青年将校達を裏で支えていたのでは、という疑惑が持ち上がったが、軍の主要人物の中では一番明確に反乱将校に原隊復帰を呼びかけていた。しかし、荒木はこの事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線からは消えていった。

1933年(昭和8年)12月、法政大学顧問に就任。1937年(昭和12年)7月には法大予科の修身科講座の講師となり、「自由と進歩」を誇る法大に軍国色の強い学風を浸透させていった。

1938年(昭和13年)5月26日に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。国民精神総動員の委員長も務め、思想面の戦時体制作りといったプロパガンダを推し進めた。この頃から、軍部の大学・学園への弾圧が始まり、人民戦線事件や平賀粛学に代表されるような思想弾圧が行われるようになった。

筋金入りの精神論者として知られる一方で、科学技術政策に力を入れ、文相時代の1939年には海軍の平賀譲と共に科研費制度の創設に尽力した。

戦後の極東国際軍事裁判においては、文相時代の事柄にも重点が置かれることとなった。裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛は、検事の尋問に応じて宣誓口供書を提出したうえで、弁護団の反対尋問で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を「1938年、荒木貞夫文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された」「軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となった」と証言している。

上記のようなことから、極東国際軍事裁判においても、検事から「荒木は侵略思想を宣伝し、教育・鼓吹した」と指摘されたが、荒木の弁護人である菅原裕は「荒木が宣伝したのは、侵略ではなく皇道であって、侵略思想とは正反対の日本古来の精神主義である」と全面的に否定している。

1945年11月19日、連合国軍最高司令官総司令部は、日本政府に対し荒木ら11人を戦争犯罪人として逮捕し、巣鴨刑務所に拘禁するよう命令した。以後、A級戦犯として拘置されたまま極東国際軍事裁判に出廷。

裁判ではのらりくらりとしながらも、その堂々とした態度が他の被告人らを奮い立たせたとも言われ、非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウィリアム・ウェブ裁判長から注意されたこともあった。一方で、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになった。当初アメリカ人憲兵は荒木らA級戦犯に対し、非常に大らかな規律・姿勢で対応していたが、彼らの態度が日増しに尊大になっていくことを問題視し、一転して厳格な態度で接するようになったという。

極東国際軍事裁判において、判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。終身禁錮刑の判決を受け服役する。木戸幸一・大島浩・嶋田繁太郎と並んで11人中5人が死刑賛成、といったわずか1票差で死刑を免れて終身刑の判決を受ける。

1955年(昭和30年)に病気のため仮出所し、その後釈放された。間もなく健康を回復。以後日本全国を回り、講演や近現代史研究のための史料調査などを行い、積極的に活動した。

1966年(昭和41年)10月末、奈良県吉野郡十津川村の招待で同村を訪問し、同村ゆかりの天誅組・十津川郷士関係の諸史料の調査と講演を行ったが、同年11月1日、宿泊先の「十津川荘」において心臓発作を起こす。当時の佐藤栄作首相へ

といった遺言を口述し、翌日死去した。享年90(満89歳没)。墓所は多磨霊園。

1967年(昭和42年)11月、一周忌に際し、十津川村は「荒木貞夫終焉之地碑」を建立。碑文は佐藤栄作の揮毫によるものである。十津川村の厚情に対し、遺族は貞夫の遺品となった「恩賜の軍刀」を村に寄贈。軍刀は現在十津川村歴史民俗資料館に展示されている。

家庭

妻の錦子は日本赤十字社篤志看護婦人会幹事、大日本国防婦人会副会長、陸海軍将校婦人会幹事長、東洋婦人教育会理事、柏葉婦人会評議員等を歴任。1909年(明治42年)、荒木は錦子との間に長男の貞發を儲けた。貞發は幼少時、父がロシア従軍武官となった際、父に連れられシベリアに同行している。その後貞發はロンドン大学を卒業し、日産自動車に勤務した。長女の薫子は陸軍中将、芝生英夫に嫁ぐ。芝生家は徳島県出身の士族、軍人の家系。

人物像

青年将校たちとは友達感覚で接し、自宅に彼らを年中たむろさせ、明け方まで痛飲することも多かったことで知られていた。少尉に任官したばかりの20歳前後の者が、真夜中に「荒木はいるか!」と大声で叫びながら遊びにやってくるようなこともあり、青年将校たちは、面と向かって大将である荒木を呼び捨てにし、荒木も怒るどころかニコニコしながら「若い者は元気があって良いのお」と上機嫌であったという。そのため、他の将校たちから顰蹙を買うことも多く、陸軍内で問題視された「下克上」の風潮も、荒木による一連の言動が最も大きい要因の一つだったと言われている。

口癖は「非常時」「皇国精神」「皇軍」だった。それまで「国軍」という言い方が普通であった日本陸軍を、「皇軍」と称したのは荒木がはじめと言われる。そのため、荒木のあだ名は「慢性非常時男」「精神家」(精神科とのシャレ)、あまりにも長いだらだらとしたスピーチも有名なため「牛のよだれ」などであった。

1935年(昭和10年)、荒木は男爵に列せられ華族となったが、大邸宅などは構えず、一家で東京・幡ケ谷の2階建て小家屋に住み続けた。ただ叙爵直後、宴席で芸者たちに「これからは男爵様と呼びなさい」と言うなど、新華族(成り上がり華族)特有のエピソードも残っている。実際には狛江に邸宅を建てておりここでアサヒグラフの取材に応じている。敷地は狛江弁財天池特別緑地保全地区の一部として整備されるまで遺族が保有していた。

犬養道子の著書『花々と星々と』には、五・一五事件後に総理公邸を訪れた荒木陸相に、肉親の女性が「荒木さん、あんたがやった!」と迫ると「とたんに正装の大臣が崩折れて畳廊下に両手を突き、長い間背を震わせていた」と描写されている。

石原莞爾は荒木のことを徹底的に嫌っていた。皇道派でもそれと対立する統制派でもない石原は、思想的理由で荒木を嫌っていたのではなく、荒木の無責任と無能ぶりが我慢ならなかったようである。二・二六事件の只中、陸軍省で荒木と遭遇した当時陸軍大佐だった石原は荒木に向かって「馬鹿!お前みたいな馬鹿な大将がいるからこんなことになるんだ」と罵倒した。荒木が「何を無礼な!上官に向かって馬鹿とは軍規上許せん!」と言い返すと石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ」と猛然と言い返し、両者はあやうく乱闘になりかけたが、その場にいた安井藤治東京警備参謀長(東京警備司令部)が二人をおさえて何とか事なきを得た。石原は真崎のことも嫌悪しており、真崎の差し出した握手を無視したこともあったという。

2024/06/15 19:45更新

araki sadao


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