荒木貞夫の情報(あらきさだお) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
荒木 貞夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
荒木貞夫と関係のある人
大川周明: 学生時代には参謀本部でドイツ語の翻訳をしており、宇垣一成、荒木貞夫、杉山元、建川美次、東条英機、永田鉄山、岡村寧次らと知己があった。 平沼騏一郎: ここで斎藤実が、シーメンス汚職事件によって海軍大臣を引責辞任したという経歴を持ちながらも、総理大臣兼外務大臣に任命された主な理由は、犬養内閣の陸軍大臣でもあった荒木貞夫が元老の西園寺に、政党内閣拒絶の意を伝えていたことと、親英米派だった昭和天皇の意向があったという。 平沼騏一郎: そのうえ議会が近いという事情から、近衛内閣から塩野季彦法相兼逓相、荒木貞夫文相、木戸幸一内相、有田八郎外相、八田嘉明商工相兼拓務相、米内光政海相、板垣征四郎陸相の七閣僚が留任、あたかも首のすげ替えの様相を呈した。 近衛文麿: この大赦論は、荒木貞夫が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。 吉野作造: つまり、吉野やマスコミの誤った論調は、その批判意図とは別に逆手にとられ、二重政府が憲法からあたかも導かれると誤解させ、かえって荒木貞夫をはじめ昭和の軍人によって平時においても統帥権をもち、軍隊が政府さえも導くことができると主張するのに益したとされている。 真崎甚三郎: 葬儀は9月3日午後1時から世田谷の自宅において行われ、葬儀委員長は荒木貞夫が務めた。 床次竹二郎: 荒木貞夫陸相は、政治不介入を理由に非公開にしようとしたが、岡田内閣倒閣を狙う永田鉄山、田中清、片倉衷らによって、「皇国同志会」を名乗った怪文書として張からの献金が流布された。 藤沼庄平: この後内務省警保局長として摂政の関西行啓に井上孝哉、荒木貞夫と同道、唐沢俊樹を内務省参事官に起用する。 末次信正: 陸軍では当初、荒木貞夫、真崎甚三郎ら皇道派とつながりがあったが、のちに林銑十郎と親密な関係にあった。 松井石根: 会員には近衛文麿、広田弘毅、小畑敏四郎、本間雅晴、鈴木貞一、荒木貞夫、本庄繁など、錚々たるメンバーであった。 木戸幸一: 木戸に対する判事団のジャッジは、荒木貞夫・大島浩・嶋田繁太郎と並んで11人中5人が死刑賛成、といったわずか1票差で死刑を免れたという結果だった。 梅津美治郎: 同年12月に犬養内閣が発足、いわゆる皇道派の荒木貞夫が陸相に就任すると、荒木は真崎甚三郎を参謀次長に据え参謀本部の実権を握らせる。 渡辺錠太郎: 1930年代前半、陸軍では皇道派が実権を握っていたが、その中心人物であった荒木貞夫陸相は昭和維新の断行を求める青年将校の突き上げに応じなかったため急速にその名望を失い、1934年に病気を理由として陸相を辞任した。 真崎甚三郎: 荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人。 大角岑生: また、関東軍司令官・本庄繁と陸軍大臣・荒木貞夫が、満洲事変の戦功により男爵に叙せられた際に、事変には何も関与していなかったにもかかわらず、事変勃発時の海軍大臣という理由で大角も男爵に叙せられた。 真崎甚三郎: 1932年(昭和7年)1月、犬養内閣の陸軍大臣であった荒木貞夫の計らいで参謀次長に就任した。 真崎甚三郎: 荒木貞夫も、「判決理由は、ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。 芝生瑞和: 母方の祖父は荒木貞夫元陸軍大将、第一次近衛内閣文部大臣、男爵。 嶋田繁太郎: 11人中5人が死刑賛成といった、僅か1票差で死刑を免れたのは、他に荒木貞夫・大島浩・木戸幸一だけだった。 林銑十郎: 1934年(昭和9年)1月、荒木貞夫陸相は風邪をこじらせ、その座を同期の真崎に禅譲しようと画策するが、真崎をよく思わない参謀総長の閑院宮載仁親王元帥は、強く林の陸相就任を勧めた。 斎藤実: 元老西園寺公望も当初は政党内閣継続の為、鈴木を次期首相に推薦する意向であり、陸相の荒木貞夫も19日に鈴木と会見し「鈴木内閣発足に反対しない」と発言したと報じられた。 小磯国昭: 三月事件や十月事件などの責任問題を背景に同年11月、荒木貞夫が陸相となり、いわゆる皇道派が陸軍内の実権を握ると、彼等は宇垣閥の排除を開始。小磯は1932年(昭和7年)2月に陸軍次官に昇進するものの、大臣は皇道派の荒木貞夫で、半年で中央を追われ関東軍参謀長となる。 赤尾敏: 「建国祭」は荒木貞夫や平沼騏一郎らの賛同を受け、全国で12万人を集め成功に終わる。 杉山元: 同年11月、荒木貞夫が陸相となり、いわゆる皇道派が陸軍内の実権を握ると、宇垣側近とみられた杉山は次官を更迭され、1932年(昭和7年)2月に久留米第12師団長に親補される。 山下奉文: 永山少将が佐賀県の出身で、宇都宮太郎・真崎甚三郎・荒木貞夫へとつながる、いわゆる「佐賀の左肩党」の系譜に属したため、女婿である山下も皇道派として目されるようになった。 小山松吉: 司法大臣のときは中国との戦争に反対、このことから荒木貞夫陸軍大臣と対立した時期があった。 広田弘毅: 斉藤内閣で5回にわたり開かれた五相会議では、対ソ強硬意見を唱える陸軍大臣・荒木貞夫と海軍大臣・大角岑生を相手によく渡り合い、陸軍の提出した「皇国国策基本要綱」を骨抜きにした。 林銑十郎: このころ、長州閥の排除を目指す「一夕会」(佐官級エリートの集まり)において、今後護りたてるべき将軍として荒木貞夫中将(陸大校長、9期、東京)、真崎甚三郎中将(第8師団長、佐賀)、林銑十郎中将(教育総監部本部長、石川)を挙げている。 三木武夫: 1946年1月には徳島市から、軍需省で要職を務めた三木は軍産複合体の代理人として軍需生産の拡大を訴えており、A級戦犯の荒木貞夫から資金や支援を受けながら選挙戦を戦っており、更に米国留学中にはスパイ活動を行っていた旨の投書があった。 目黒祐樹: 落日燃ゆ(2009年、EX) - 荒木貞夫 役 |
荒木貞夫の情報まとめ
荒木 貞夫(あらき さだお)さんの誕生日は1877年5月26日です。和歌山出身の軍人のようです。
事件、卒業、病気、現在に関する情報もありますね。1966年に亡くなられているようです。
荒木貞夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)荒木 貞夫(あらき さだお、1877年〈明治10年〉5月26日 - 1966年〈昭和41年〉11月2日)は、日本の陸軍軍人、政治家。犬養内閣・齋藤内閣の陸軍大臣、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣。位階勲等功級爵位は従二位勲一等功四級男爵。最終階級は陸軍大将。 陸軍発の社会の革新を訴える派閥「一夕会」の領袖として陸軍省を掌握。一夕会の分裂後は昭和維新を掲げる急進的な青年将校に担がれるが、二・二六事件による予備役編入。文相就任時の「皇道教育」導入により、極東国際軍事裁判ではA級戦犯として起訴、終身禁固刑を言い渡された。 1877年(明治10年)5月26日、東京都狛江市(出生当時は神奈川県多摩郡和泉村)に、小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。誕生日は木戸孝允の命日でもある。日本中学を中退し、1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校卒業(第9期)。近衛歩兵第1連隊に配属され、第16代連隊旗手をつとめる。 日露戦争中は、近衛後備混成旅団の副官として、梅沢道治少将に仕えた。旅団司令部には参謀の配置がないために、事実上の参謀役を務める。梅沢少将が無類の戦上手で、その旅団も「花の梅沢旅団」と称えられたために、荒木副官の名前も陸軍部内で注目を集めるようになった。 1907年(明治40年)11月、陸軍大学校を首席で卒業(「恩賜の軍刀」拝受)。 第一次世界大戦中はロシア従軍武官。シベリア出兵では特務機関長にて参加。その後、憲兵司令官等を歴任。 昭和初期の陸軍において、荒木は陸軍建軍以来の長州藩閥(およびそれを受け継ぐ宇垣閥)からの脱却および陸軍中枢からの社会の革新化を目指す将校の集まりである「一夕会」から、領袖として頼まれる存在であった。一方で荒木は、クーデターによる急進的な社会変革(昭和維新)を標榜する青年将校にも慕われており、出張の折りには、東京駅のホームは出迎えの青年将校で溢れ、さながら凱旋将軍のようであったという。 1929年(昭和4年)、陸軍首脳は「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったが、そのときに荒木も左遷される予定であった。しかし、教育総監の武藤信義が「せめて荒木は助けてやってくれ」と詫びを入れる形で、荒木は第6師団長から教育総監部本部長に栄転し東京に残った。武藤はどちらかというと「反宇垣」で革新軍人の庇護者であったため、特に荒木を可愛がったらしい。 また荒木は、平沼騏一郎が司法官僚や陸海軍の高級軍人を集め組織化した国粋主義団体・国本社で、宇垣と共に理事をしており、平沼に心酔していた。1931年(昭和6年)7月16日の原田熊雄の『原田日記』によれば、その頃荒木は平沼を天皇の側近にするための宮中入り運動をしていたが、西園寺公望によって阻止されている。憲兵司令官時代から平沼や大川周明・北一輝・井上日召といった右翼方面の人物と交流を持っていたことから、1931年(昭和6年)、桜会がクーデターを企てた際(十月事件)は、橋本欣五郎から首相候補として担がれたが、荒木自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。 満州事変真っ只中の同年12月に荒木は教育総監部本部長から、一夕会の永田鉄山や鈴木貞一らの働きかけで犬養内閣の陸相に就任した。参謀総長には閑院宮元帥を担ぎ出した上で、参謀本部の実質トップとなる参謀次長には真崎を台湾軍司令官から呼び戻して就任させた。荒木の人事は、自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校を東京の第1師団に集めた。 しかし、その一夕会は、荒木・真崎および取り巻きの青年将校と、荒木人事の凄まじさおよび青年将校の過激な思想を野放しにすることに反対する省内の幕僚クラスとの間に分裂が発生。特にその人事は、「清盛の専横」とか「驕る平氏も久しからず」という恨みの言葉がささやかれるほどであった。1933年5月頃には完全に分裂し、前者は皇道派、後者は統制派と呼ばれるようになった。しかし、過激青年将校や下士官に自重を求める荒木の人気は下降し、次第に四面楚歌に追いやられるようになった。自分で育て、利用してきた過激青年将校たちを、制御できなくなったのである。 対立が先鋭化する最中の1934年(昭和9年)1月、荒木は病気を理由に陸相を辞任する。荒木は後任の陸相に腹心の真崎を希望したが、自らが擁立したはずの閑院宮にも反対され、挫折した(統制派の林銑十郎教育総監が後任の陸相になり、真崎は教育総監に留まる)。退任後は軍事参議官に転補されたが、病気を理由に親補式に出席することはなかった。 1936年(昭和11年)の二・二六事件では、荒木配下の青年将校が遂に暴発する。この時、皇道派の首領として青年将校達を裏で支えていたのでは、という疑惑が持ち上がったが、軍の主要人物の中では一番明確に反乱将校に原隊復帰を呼びかけていた。しかし、荒木はこの事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線からは消えていった。 1933年(昭和8年)12月、法政大学顧問に就任。1937年(昭和12年)7月には法大予科の修身科講座の講師となり、「自由と進歩」を誇る法大に軍国色の強い学風を浸透させていった。 1938年(昭和13年)5月26日に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。国民精神総動員の委員長も務め、思想面の戦時体制作りといったプロパガンダを推し進めた。この頃から、軍部の大学・学園への弾圧が始まり、人民戦線事件や平賀粛学に代表されるような思想弾圧が行われるようになった。 戦後の極東国際軍事裁判においては、文相時代の事柄にも重点が置かれることとなった。裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛は、検事の尋問に応じて宣誓口供書を提出したうえで、弁護団の反対尋問で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を「1938年、荒木貞夫文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された」「軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となった」と証言している。 上記のようなことから、極東国際軍事裁判においても、検事から「荒木は侵略思想を宣伝し、教育・鼓吹した」と指摘されたが、荒木の弁護人である菅原裕は「荒木が宣伝したのは、侵略ではなく皇道であって、侵略思想とは正反対の日本古来の精神主義である」と全面的に否定している。 1945年11月19日、連合国軍最高司令官総司令部は、日本政府に対し荒木ら11人を戦争犯罪人として逮捕し、巣鴨刑務所に拘禁するよう命令した。以後、A級戦犯として拘置されたまま極東国際軍事裁判に出廷。 裁判ではのらりくらりとしながらも、その堂々とした態度が他の被告人らを奮い立たせたとも言われ、非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウィリアム・ウェブ裁判長から注意されたこともあった。一方で、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになった。当初アメリカ人憲兵は荒木らA級戦犯に対し、非常に大らかな規律・姿勢で対応していたが、彼らの態度が日増しに尊大になっていくことを問題視し、一転して厳格な態度で接するようになったという。 極東国際軍事裁判において、判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。終身禁錮刑の判決を受け服役する。木戸幸一・大島浩・嶋田繁太郎と並んで11人中5人が死刑賛成、といったわずか1票差で死刑を免れて終身刑の判決を受ける。 1955年(昭和30年)に病気のため仮出所し、その後釈放された。間もなく健康を回復。以後日本全国を回り、講演や近現代史研究のための史料調査などを行い、積極的に活動した。 1966年(昭和41年)10月末、奈良県吉野郡十津川村の招待で同村を訪問し、同村ゆかりの天誅組・十津川郷士関係の諸史料の調査と講演を行ったが、同年11月1日、宿泊先の「十津川荘」において心臓発作を起こす。当時の佐藤栄作首相へ といった遺言を口述し、翌日死去した。享年90(満89歳没)。墓所は多磨霊園。 1967年(昭和42年)11月、一周忌に際し、十津川村は「荒木貞夫終焉之地碑」を建立。碑文は佐藤栄作の揮毫によるものである。十津川村の厚情に対し、遺族は貞夫の遺品となった「恩賜の軍刀」を村に寄贈。軍刀は現在十津川村歴史民俗資料館に展示されている。 妻の錦子は日本赤十字社篤志看護婦人会幹事、大日本国防婦人会副会長、陸海軍将校婦人会幹事長、東洋婦人教育会理事、柏葉婦人会評議員等を歴任。1909年(明治42年)、荒木は錦子との間に長男の貞發を儲けた。貞發は幼少時、父がロシア従軍武官となった際、父に連れられシベリアに同行している。その後貞發はロンドン大学を卒業し、日産自動車に勤務した。長女の薫子は陸軍中将、芝生英夫に嫁ぐ。芝生家は徳島県出身の士族、軍人の家系。 おおらかな人柄であり、上意下達な陸軍の枠にとらわれないところがあった。陸大卒のエリート幕僚が多かった一夕会の領袖に担がれながら、格下の青年将校とも親しく交わり、宴席では多くの青年将校が座を共にした。しかし、この寛大な態度が、青年将校の間に下克上の風潮を蔓延させ、二・二六事件へと至ることになる。 一方で、陸相としての実務には疎く、予算の査定では海軍に丸め込まれて減額されるなど、幕僚クラスによっては「よい上司」ではなかった。元々は「非・長州」ということで一夕会に担ぎ出された荒木であったが、実務能力の欠如、および青年将校への甘い態度が幕僚の反発を招き、一夕会は皇道派と統制派へ分裂してゆくことになる。 口癖は「非常時」「皇国精神」「皇軍」だった。それまで「国軍」という言い方が普通であった日本陸軍を、「皇軍」と称したのは荒木がはじめと言われる。そのため、荒木のあだ名は「慢性非常時男」「精神家」(精神科とのシャレ)、あまりにも長いだらだらとしたスピーチも有名なため「牛のよだれ」などであった。1933年10月には外国人記者団との記者会見において、「竹槍三百万本あれば列強恐るるに足らず」と口にして座を呆然とさせた(竹槍三百万本論)。さらに来日中のジョージ・バーナード・ショーとの会談において日本人は地震によって強靭な精神を鍛えたのだと主張した(地震論)。このような非科学的な精神論を強調するその言動もまた、青年将校を惹きつける要因の一つであった。しかしその一方で、科学技術政策にも力を入れており、文相時代の1939年には海軍の平賀譲と共に科研費制度の創設に尽力した。 1932年春、フランスから来日したタブロイド誌「ル・プチ・パリジャン」特派員で女性ジャーナリスト・ルポライターのアンドレ・ヴィオリスからインタビューを受け、その模様は『1932年の大日本帝国』で描写されている。 1933年(昭和8年)、大阪でゴーストップ事件が発生。陸相であった荒木は「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と憤慨し、内務省と対立した。 1935年(昭和10年)、荒木は男爵に列せられ華族となったが、大邸宅などは構えず、一家で東京・幡ケ谷の2階建て小家屋に住み続けた。ただ叙爵直後、宴席で芸者たちに「これからは男爵様と呼びなさい」と言うなど、新華族(成り上がり華族)特有のエピソードも残っている。実際には狛江に邸宅を建てておりここでアサヒグラフの取材に応じている。敷地は狛江弁財天池特別緑地保全地区の一部として整備されるまで遺族が保有していた。 犬養道子の著書『花々と星々と』には、五・一五事件後に総理公邸を訪れた荒木陸相に、肉親の女性が「荒木さん、あんたがやった!」と迫ると「とたんに正装の大臣が崩折れて畳廊下に両手を突き、長い間背を震わせていた」と描写されている。 石原莞爾は荒木のことを徹底的に嫌っていた。皇道派でもそれと対立する統制派でもない石原は、思想的理由で荒木を嫌っていたのではなく、荒木の無責任と無能ぶりが我慢ならなかったようである。二・二六事件の只中、陸軍省で荒木と遭遇した当時陸軍大佐だった石原は荒木に向かって「馬鹿!お前みたいな馬鹿な大将がいるからこんなことになるんだ」と罵倒した。荒木が「何を無礼な!上官に向かって馬鹿とは軍規上許せん!」と言い返すと石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ」と猛然と言い返し、両者はあやうく乱闘になりかけたが、その場にいた安井藤治東京警備参謀長(東京警備司令部)が二人をおさえて何とか事なきを得た。石原は真崎のことも嫌悪しており、真崎の差し出した握手を無視したこともあったという。 極東国際軍事裁判(東京裁判)における岡田啓介の証言によれば、陸相時代には天皇を退位させて、生後間もない皇太子を即位させる計画を持っていたという。また「熊沢天皇」こと熊沢寛道とのつながりも指摘されている。 1897年(明治30年)11月 - 陸軍士官学校卒業(9期) 1898年(明治31年)6月 - 少尉に進級。近衛歩兵第1連隊附。 1900年(明治33年)11月 - 中尉に進級。 1901年(明治34年)3月 - 陸軍中央幼年学校生徒隊附 1904年(明治37年)
5月 - 近衛後備混成旅団副官 8月 - 大尉に進級。 1905年(明治38年)12月 - 近衛歩兵第1連隊附 1907年(明治40年)11月 - 陸軍大学校卒業(19期恩賜)。参謀本部出仕(ロシア駐在)。 1908年(明治41年)4月 - 参謀本部員 1909年(明治42年)
12月 - ロシア駐在。 1912年(明治45年)5月 - ロシア公使館付武官補佐官 1913年(大正2年)4月 - 参謀本部員 1914年(大正3年)
8月 - 陸軍大学校教官。 1915年(大正4年)
6月 - ロシア軍に従軍( - 1918年(大正7年)4月) 8月 - 中佐に進級。参謀本部附仰付(ハルビン特務機関)。 1918年(大正7年)
11月1日 - ウラジオストク派遣軍参謀 1919年(大正8年)7月25日 - 歩兵第23連隊長 1921年(大正10年)4月1日 - 参謀本部欧米課長 1923年(大正12年)3月17日 - 少将に進級。歩兵第8旅団長。 1924年(大正13年)
5月 - 国本社理事 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部第一部長 1927年(昭和2年)7月26日 - 中将に進級。 1928年(昭和3年)8月10日 - 陸軍大学校校長 1929年(昭和4年)8月2日 - 第6師団長 1931年(昭和6年)
12月13日 - 犬養内閣で陸軍大臣( - 1934年(昭和9年)1月23日) 1932年(昭和7年)2月11日 - 『昭和日本の使命』発行 社會教育教會 1933年(昭和8年)10月20日 - 大将に進級。同年、法政大学顧問に就任。 1934年(昭和9年)1月23日 - 軍事参議官 1935年(昭和10年)12月26日 - 男爵 1936年(昭和11年)3月10日 - 予備役編入 1937年(昭和12年)10月15日 - 内閣参議 1938年(昭和13年)5月26日 - 1939年(昭和14年)8月30日まで第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣として国民の軍国化教育に邁進した。 1940年(昭和15年)1月20日 - 内閣参議( - 7月22日)。 1898年(明治31年)7月21日 - 正八位 1901年(明治34年)2月28日 - 従七位 1904年(明治37年)10月24日 - 正七位 1909年(明治42年)12月20日 - 従六位 1915年(大正4年)1月30日 - 正六位 1918年(大正7年)8月30日 - 従五位 1923年(大正12年)5月21日 - 正五位 1927年(昭和2年)9月1日 - 従四位 1929年(昭和4年)10月1日 - 正四位 1931年(昭和6年)12月15日 - 従三位 1933年(昭和8年)2月15日 - 正三位 1939年(昭和14年)3月15日 - 従二位 1906年(明治39年)4月1日 - 勲五等双光旭日章・功五級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章 1914年(大正3年)5月6日 - 勲四等瑞宝章 1915年(大正4年)11月10日 - 旭日小綬章・大正三四年従軍記章 1918年(大正7年)9月26日 - 勲三等瑞宝章 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日中綬章・功四級金鵄勲章 1927年(昭和2年)?月?日 - 勲二等瑞宝章 1932年(昭和7年)1月15日 - 勲一等瑞宝章 1934年(昭和9年)4月29日 - 旭日大綬章 1935年(昭和10年)12月26日 - 男爵 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1914年(大正3年)7月26日 - ロシア帝国:ロマノフ王室治世三百年記念章 1916年(大正5年)11月15日 - ロシア帝国:神聖ヴェナジュル剣付第四等勲章 1917年(大正6年)11月7日 - ロシア帝国:神聖アンナ剣付第二等勲章 1920年(大正9年)2月21日 - フランス共和国:銀色エトアル付クロアドケール 1933年(昭和8年)7月25日 - ペルー共和国:ソレイユ勲章グランクロア 『国防の基礎』国本社川越支部、1929年4月。NDLJP:1464757。 『昭和日本の使命』社会教育協会〈民衆文庫 第60篇〉、1932年2月。
『国民更生の根本義』中央教化団体聯合会〈国民更生叢書 第3編〉、1932年10月。NDLJP:1270216 NDLJP:1437049。
『皇国の軍人精神』朝風社、1933年2月。NDLJP:1464302。 桜井美・渋井二夫編 編『全日本国民に告ぐ』大道書院、1933年2月。 大阪毎日新聞社編 編『非常時日本の同胞に愬ふ』大阪毎日新聞社・東京日日新聞社、1933年6月。NDLJP:1273244。 『荒木陸軍大臣閣下御講演要旨』岐阜県青年教育研究会〈時事問題講話資料 第6輯〉、1933年9月。NDLJP:1916794。 『非常時に際し国民教育者に覚悟を促す』大日本国防教育会、1933年12月。 『非常時の認識と青年の覚悟』文明社、1934年1月。NDLJP:1033698 NDLJP:1909111。 『危機を前に吾が同胞に愬ふ』愛国労働農民同志会本部〈愛国労働農民同志会論叢 第5輯〉、1935年2月。NDLJP:1272587。 『時局に対する所感』福岡県国防会、1935年5月。NDLJP:1272697。 松崎貞次郎編 編『我か小同胞の為に 大切な今の心得に就て』無窮社、1935年9月。 『其後の荒木大将に聴く 記者と一問一答』秀光書房、1936年7月。 『世界の動向と日本(一)』日本パンフレツト協会出版部、1937年3月。NDLJP:1456106。
『軍・青年に与ふ』森田書房、1937年4月。NDLJP:1094711。 『何故戦争は不可避か?』皇文社、1937年7月。 『戦争』三笠書房、1937年8月。NDLJP:1455861。 『身を捨てゝこそ 戦争と国民の覚悟』三笠書房、1937年10月。 『戦争はどうなる =時局と国民の覚悟=』東京朝野新聞出版部、1937年11月。NDLJP:1455548。 『鎖国日本より世界日本へ』奉仕会出版部、1938年2月。 『日本青年の道』三笠書房、1938年2月。 『非常時局に対して所信を述ぶ』国策研究社〈国策研究 第1輯〉、1938年8月。NDLJP:1273167。 甲斐兼蔵 (1933). Sakura no kaori : the fragrance of cherry blossoms. Sanfrancisco: The Japanese American News(日米新聞社) - ハードカバー版内表紙題字が荒木の書になる。なお、序文は陸軍軍人兼貴族院議員菊池武夫による。 ^ 文献によっては、少尉に任官したばかりの20歳前後の者が、真夜中に「荒木はいるか!」と大声で叫びながら遊びにやってくるようなこともあり、荒木は怒るどころかニコニコしながら「若い者は元気があって良いのお」と上機嫌であったというエピソードもあるが、デフォルメされた描写である可能性も指摘されている。 ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 58頁。 ^ ノーベル書房編集部編『陸軍郷土歩兵聯隊写真集 わが聯隊』 ノーベル書房、1979年。p92 ^ 橋川文二『昭和維新試論』p180~p189 ^ 橋川文二『昭和維新試論』p202~p204 ^ 川田稔『満州事変と政党政治』 ^ 荒木陸相辞任、後任は林銑十郎『東京日日新聞』昭和9年1月23日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p246) ^ 『法政大学校友名鑑』(1941)p23、飯田泰三「図書館通史 第6章」(法政大学図書館、2006年)p127 ^ 『法政大学の100年 <1880-1980>』 法政大学、108頁 ^ 荒木・南・小磯・松岡ら十一人に逮捕命令(昭和20年11月20日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341 ^ 取れなかった原稿2 (大島浩さん) 岡崎満義 『文壇こぼれ話5』全日本漢詩連盟、2007年1月1日 ^ 岩井, pp. 139–141. ^ 岩井, pp. 142–143. ^ 岩井, p. 138. ^ アンドレ・ヴィオリス著『1932年の大日本帝国』、大橋尚泰訳、草思社、2020年、pp.43-48 ^ 『大阪日日新聞』 2008/03/29 「なにわ人物伝 -光彩を放つ-ゴーストップの人たち(2)」 ^ 保阪正康『華族たちの昭和史』(毎日新聞社) ^ “市民が残した駅前の緑地 狛江”. 朝日新聞. (2018年6月14日). http://www.asahi.com/area/tokyo/articles/MTW20180614131520001.html 2019年7月10日閲覧。 ^ 狛江の新たな顔に、狛江駅北口再開発事業 狛江市 ^ 『岡田啓介回顧録』(中公文庫、1987年)p.182 ^ 法廷証第103号: [荒木貞夫ニ關スル人事局履歴書] ^ 『官報』第4520号「叙任及辞令」1898年07月25日。 ^ 『官報』第5295号「叙任及辞令」1901年03月01日。 ^ 『官報』第6401号「叙任及辞令」1904年10月29日。 ^ 『官報』第7949号「叙任及辞令」1909年12月21日。 ^ 『官報』第748号「叙任及辞令」1915年2月1日。 ^ 『官報』第3242号「叙任及辞令」1923年5月23日。 ^ 『官報』第263号「叙任及辞令」1927年11月12日。 ^ 『官報』第1496号「叙任及辞令」1931年12月23日。 ^ 『官報』第2093号「叙任及辞令」1933年12月21日。 ^ 『官報』第3734号「叙任及辞令」1939年6月19日。 ^ 『官報』第1511号「叙任及辞令」1932年1月16日。 ^ 『官報』第2696号「叙任及辞令」1935年12月27日。 ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 ^ 『官報』第1972号「叙任及辞令」1933年7月28日。 岩井秀一郎『永田鉄山と昭和陸軍』祥伝社、東京都千代田区、2019年7月10日。ISBN 978-4-396-11575-3。 科学研究費助成事業 真崎甚三郎 小松慶也 竹槍三百万本論 フィンガーボウル 『荒木貞夫』 - コトバンク 『荒木 貞夫』 - コトバンク 荒木貞夫 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館 荒木貞夫関係文書 | 憲政資料室の所蔵資料 | 国立国会図書館 『皇道精神(一)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション 『皇道精神(二)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション 【演説】 荒木貞夫陸軍大臣 「非常時は続く」1933 General ARAKI - YouTube HD Stock Video Footage - General of the Imperial Japanese Army, Baron Sadao Araki speaks. Images of Japanese people walking 荒木貞夫 - 歴史が眠る多磨霊園 表 話 編 歴 山縣有朋 西郷従道 大山巌 大山巌 高島鞆之助 大山巌 高島鞆之助 桂太郎 児玉源太郎 寺内正毅 石本新六 上原勇作 木越安綱 楠瀬幸彦 岡市之助 大島健一 田中義一 山梨半造 田中義一 宇垣一成 白川義則 宇垣一成 南次郎 荒木貞夫 林銑十郎 川島義之 寺内寿一 中村孝太郎 杉山元 板垣征四郎 畑俊六 東條英機 杉山元 阿南惟幾 東久邇宮稔彦王 下村定 カテゴリ 表 話 編 歴 大木喬任 木戸孝允 西郷従道 寺島宗則 河野敏鎌 福岡孝弟 大木喬任 森有礼 榎本武揚 芳川顕正 大木喬任 河野敏鎌 井上毅 西園寺公望 蜂須賀茂韶 濱尾新 外山正一 尾崎行雄 犬養毅 樺山資紀 松田正久 菊池大麓 児玉源太郎 久保田譲 桂太郎 牧野伸顕 小松原英太郎 長谷場純孝 柴田家門 奥田義人 大岡育造 一木喜徳郎 高田早苗 岡田良平 中橋徳五郎 鎌田栄吉 犬養毅 岡野敬次郎 江木千之 岡田良平 三土忠造 水野錬太郎 勝田主計 小橋一太 田中隆三 鳩山一郎 斎藤実 松田源治 川崎卓吉 潮恵之輔 平生釟三郎 林銑十郎 安井英二 木戸幸一 荒木貞夫 河原田稼吉 松浦鎮次郎 橋田邦彦 東條英機 岡部長景 二宮治重 兒玉秀雄 太田耕造 松村謙三 前田多門 安倍能成 田中耕太郎 高橋誠一郎 森戸辰男 下条康麿 高瀬荘太郎 天野貞祐 岡野清豪 大達茂雄 安藤正純 松村謙三 清瀬一郎 灘尾弘吉 松永東 灘尾弘吉 橋本龍伍 松田竹千代 荒木万寿夫 愛知揆一 中村梅吉 有田喜一 剱木亨弘 灘尾弘吉 坂田道太 高見三郎 稲葉修 奥野誠亮 三原朝雄 永井道雄 海部俊樹 砂田重民 内藤誉三郎 谷垣専一 田中龍夫 小川平二 瀬戸山三男 森喜朗 松永光 藤尾正行 塩川正十郎 中島源太郎 西岡武夫 石橋一弥 保利耕輔 井上裕 鳩山邦夫 森山眞弓 赤松良子 与謝野馨 島村宜伸 奥田幹生 小杉隆 町村信孝 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 町村信孝 遠山敦子 河村建夫 中山成彬 小坂憲次 伊吹文明 渡海紀三朗 鈴木恒夫 塩谷立 川端達夫 高木義明 中川正春 平野博文 田中眞紀子 下村博文 馳浩 松野博一 林芳正 柴山昌彦 萩生田光一 末松信介 永岡桂子 盛山正仁 阿部俊子 省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。 カテゴリ 表 話 編 歴 板垣征四郎 木村兵太郎 土肥原賢二 東條英機 広田弘毅 武藤章 松井石根 荒木貞夫 梅津美治郎 大島浩 岡敬純 賀屋興宣 木戸幸一 小磯國昭 佐藤賢了 嶋田繁太郎 白鳥敏夫 鈴木貞一 橋本欣五郎 畑俊六 平沼騏一郎 星野直樹 南次郎 重光葵(7年) 東郷茂徳(20年) 松岡洋右:裁判中の1946年(昭和21年)6月27日に病死のため公訴棄却 永野修身:裁判中の1947年(昭和22年)01月5日に病死のため公訴棄却 大川周明:裁判中の1947年(昭和22年)04月9日に梅毒による精神障害が認められ訴追免除 表 話 編 歴 皇道派:荒木貞夫 - 真崎甚三郎 - 柳川平助 - 小畑敏四郎※ - 秦彦三郎 - 山下奉文 - 山岡重厚 - 土橋勇逸 - 牟田口廉也統制派:永田鉄山※ - 東條英機※ - 小磯國昭 - 建川美次 - 梅津美治郎 - 池田純久満洲派:石原莞爾 - 板垣征四郎 - 花谷正 - 片倉衷清軍派:重藤千秋 - 橋本欣五郎 - 長勇 - 小原重孝(※は「バーデン=バーデンの密約」参加者) 野中四郎 - 安藤輝三 - 栗原安秀 - 中橋基明 - 村中孝次 - 磯部浅一 - 香田清貞 - 北一輝 - 西田税 岡田啓介 - 松尾伝蔵(死亡) - 高橋是清(死亡) - 斎藤實(死亡) - 鈴木貫太郎 - 渡辺錠太郎(死亡) - 牧野伸顕 昭和天皇 - 秩父宮雍仁親王 - 伏見宮博恭王 - 西園寺公望 - 徳川義親 - 加藤寛治 - 川島義之 - 本庄繁 - 香椎浩平 - 鈴木貞一 - 馬奈木敬信 - 匂坂春平 - 小坂慶助 - 迫水久常 -斎藤瀏 - 広田弘毅 - オイゲン・オット - リヒャルト・ゾルゲ FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ 日本 韓国 オランダ CiNii Books CiNii Research ドイッチェ・ビオグラフィー SNAC 荒木貞夫 昭和時代戦前の閣僚 日本の陸軍大臣 日本の文部大臣 大日本帝国陸軍大将 大日本帝国陸軍憲兵 第一次世界大戦期の日本の軍人 19世紀の軍人 20世紀の軍人 シベリア出兵の人物 日本の男爵 原理日本社の人物 法政大学の人物 法政大学の教員 皇道派 昭和維新 二・二六事件の人物 十月事件の人物 A級戦犯 陸軍大学校の教員 陸軍大学校出身の人物 陸軍士官学校 (日本)出身の人物 東京都出身の人物 ロシア内戦の人物 従二位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 1877年生 1966年没 勲一等瑞宝章受章者 功四級金鵄勲章受章者 多磨霊園に埋葬されている人物 2024/11/20 19:39更新
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araki sadao
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