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杉山 元さんについて調べます
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杉山元と関係のある人
山内賢: 歌唱及びギターを得意としており、1962年には日活の俳優仲間であった和田浩治、杉山俊夫、杉山元、木下雅弘とともにヤング・アンド・フレッシュというバンドを結成し、レコードをリリース、また彼らをフィーチャーした映画も数本製作された。 近衛文麿: この状況を憂慮した石原は7月18日に杉山元に意見具申し、「このまま日中戦争に突入すれば、その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレオン同様、底無し沼にはまることになる。 沢井孝子: 共演者の石田信之、杉山元、市地洋子らとともに歌唱 市地洋子: 戦え! ミラーマン(1972年、キングレコード) - 『ミラーマン』共演者の石田信之、杉山元、沢井孝子と歌唱 西田健: テレビ朝日 開局50周年記念ドラマスペシャル / 落日燃ゆ(2009年3月15日) - 杉山元 東條英機: 東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあったため、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。 山下奉文: 組閣の大命を受けた小磯國昭も山下陸軍大臣を望んでおり、陸軍に申し入れを行ったが、陸軍内ではすでに梅津主導で後任陸相として杉山元を人選しており、小磯の申し入れを拒否している。 木戸幸一: 木戸も日米戦争の焦点となった支那駐兵問題について、撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、同じく陸軍統制派の杉山元参謀総長や東條英機陸軍大臣とは連帯関係にあった。 栗林忠道: 陸軍大臣の杉山元・元帥は、内閣総理大臣の小磯國昭に送付した文書に次のように記している。 真崎甚三郎: 事件前に磯部浅一は荒木、真崎、杉山元などを訪問し、上層部の動向を確認している。 松岡洋右: 陸軍参謀総長・杉山元は「外相独舞台ノ感アリ」と述懐している。 今村均: しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、1942年(昭和17年)3月には今村とは親しい仲である参謀総長・杉山元が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している。 宇垣一成: 宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官にも工作は成功し、陸軍大臣のポストは宙に浮いた。 杉山俊夫: 弟は元俳優の杉山元。 阿南惟幾: 鈴木は前陸相の杉山元・元帥に対し単刀直入に「阿南惟幾大将を入閣させてほしい」と申し出た。 緒方竹虎: また緒方は、蔣介石の重慶国民政府を相手とする和平工作(繆斌工作)を首相・小磯國昭とともに推進したが、外務大臣・重光葵、陸軍大臣・杉山元、海軍大臣・米内光政、さらに昭和天皇の反対に遭い失敗、内閣総辞職となった。 近衛文麿: 軍部大臣には杉山元(陸軍)と米内光政(海軍)が留任し、外務大臣は広田弘毅、さらに民政党と政友会からも大臣を迎えた。 石原莞爾: 宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官への工作も成功し、誰一人として宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者はいなかった。 杉山俊夫: 音楽活動も並行して行い、シングルをリリース(後述)したほか、1962年にはギタリストとして、日活の俳優仲間であった和田浩治(ドラムス)、木下雅弘(ベース)、山内賢(ギター)、実弟の杉山元(ギター)とともにバンド「ヤング・アンド・フレッシュ」を結成。 近衛文麿: このころに近衞は、陸軍参謀総長・閑院宮載仁親王らに根回しをすることで杉山元の更迭を成功させた。 阿南惟幾: 前政権の小磯内閣の最末期、本土決戦へ向けた第1総軍新設に際して、三長官会議が小磯國昭首相に無断で杉山元・陸相をその総司令官として閣外に転出させ、阿南を後任の陸相とすることを決定したことに対し、予備役陸軍大将の小磯首相が現役復帰による陸相兼任を要求して容れられず、内閣総辞職となった経緯がある。 木戸幸一: 1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて日本の陸軍皇道派が起こした二・二六事件では杉山元や東條英機をはじめとする陸軍統制派と連携して事件の処理を行い、その功績を昭和天皇に認められ、中央政治に関与するようになる。 賀川豊彦: 1922年(大正11年)、協力者の杉山元治郎とともに日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組んだ。 汪兆銘: 汪公館に務めた程西遠の記録によれば、見舞客としては、東条英機・近衛文麿・石渡荘太郎・青木一男・小倉正恒・杉山元・小磯国昭・阿部信行・柴山兼四郎・後宮淳・天羽英二・重光葵・松井太久郎らの名があり、中国人では、家族のほか方君璧・褚民誼・周仏海・蔡培・鮑文樾らが見舞った。 チャールズ=リンドバーグ: フォーブス(英語版)駐日米国大使、安保清種海軍大臣、杉山元陸軍次官、小泉又次郎逓信大臣ら日米の政府高官や海軍関係者など約1,000人が出迎え、国内外からの取材陣は200人を超えた。 阿部信行: いたく不満に思った阿部は陸軍省を訪れて不満を訴え陸相の杉山元を困らせている。 汪兆銘: 汪兆銘は、近衛文麿首相、松岡洋右外相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、東条英機陸相らと面談し、6月19日にはレセプションが開かれ、6月23日には近衛首相とで共同宣言を発表した。 近衛文麿: 第1次近衛内閣のとき、拡大する日中戦争に不安を感じた近衞が、拓務大臣の大谷尊由に「次の閣議で杉山元に、陸軍はどこで作戦をやめるつもりなのか聞いてくれないか」と依頼した。 小磯国昭: 小磯は山下奉文または阿南惟幾の起用を望んだが容れられず、結局は東條・梅津美治郎参謀総長・杉山元教育総監による三長官会議で、杉山が陸相に回ることとなった。 小磯国昭: しかし当時の陸軍の最大の実力者だった宇垣一成にその能力を買われ、小磯は陸士同期の杉山元や二宮治重らと共にその側近として重用されていった。 |
杉山元の情報まとめ
杉山 元(すぎやま はじめ)さんの誕生日は1880年1月2日です。福岡出身の軍人のようです。
卒業、現在、事件、家族に関する情報もありますね。1945年に亡くなられているようです。
杉山元のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年(明治13年)1月1日 - 1945年(昭和20年)9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将。 福岡県出身。陸軍士官学校卒業(12期)、陸軍大学校卒業(22期)。陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。 陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなったのは二人しかいない(もう一人は上原勇作)。 後の福岡県小倉市(現北九州市)に杉山貞の子として生まれる。父は天保14年(1843年)8月、豊前国企救郡横代村(現在の北九州市小倉南区横代)の農家に生まれ、慶応2年(1866年)の丙寅御変動では、農兵として従軍し、その後は教育者として活躍していた。 豊津中学(同級生には、陸士同期の秦眞次中将がいる)を経て、1900年(明治33年) 陸軍士官学校12期卒業後、日露戦争に従軍。杉山は第12師団隷下の歩兵第14連隊第3大隊副官として出征、1904年(明治37年)10月8日、沙河会戦の一部として行われた本渓湖付近の戦闘で顔面を負傷した。その傷痕は後まで残り、さらに右目が大きく開かなくなるという後遺症をもたらし、杉山の風貌に特徴を与えることとなった。陸軍大学校卒業22期卒後、参謀本部・第二部(情報)勤務。1912年(明治45年)に海軍軍令部員と共に、商社マンに扮してフィリピン・マニラに潜入。諜報活動を行った。日本海軍の練習艦隊がマニラを訪れた際には、海軍少尉になりすまして米海軍の軍港を視察している。 1915年(大正4年)にインド駐在武官任命。この時の縁で、インド独立運動家のラス・ビハリ・ボース、スバス・チャンドラ・ボースの日本招致や太平洋戦争中の対印工作に関与している。1918年(大正7年)には、中東戦線を視察し、エドムンド・アレンビー将軍率いる英軍の戦いぶりに衝撃を受けたと言われる。 その後、国際連盟空軍代表随員、1918年に陸軍飛行第2大隊長、1922年(大正11年)に初代陸軍省軍務局航空課長となり、陸軍航空隊育ての親と称される。 1924年(大正13年)から陸軍大臣をつとめた宇垣一成に重用され、1928年(昭和3年)には陸軍省軍務局長に就任。1931年(昭和6年)には宇垣を首班とする軍事政権樹立を図る三月事件に小磯國昭、二宮治重らとともに関与した。同年9月の満州事変勃発時には陸軍次官として「正当防衛」声明を発表している。 同年11月、荒木貞夫が陸相となり、いわゆる皇道派が陸軍内の実権を握ると、宇垣側近とみられた杉山は次官を更迭され、1932年(昭和7年)2月に久留米第12師団長に親補される。その後は皇道派、統制派の抗争が続くが、荒木の辞任、真崎甚三郎の教育総監更迭を契機に皇道派は勢いを失う。杉山は陸軍航空本部長を経て1934年(昭和7年)8月には参謀次長兼陸軍大学校校長に就任、省部中央に復帰した。1936年(昭和11年)の二・二六事件では青年将校らの要求を拒否し、反乱鎮圧を指揮した。事件後には教育総監、同年に陸軍大将となり、梅津美治郎、東條英機ら統制派中枢に担がれる形で陸軍の重鎮への道を歩む。 1937年(昭和12年)2月9日、第一師団司令部内の陸軍高等軍法会議法廷にて陸軍造兵廠疑獄の公判が始まり、杉山は裁判長として出廷していたが、当日の午後には林銑十郎内閣下の陸軍大臣への就任が決定。裁判長を退いた。林が退陣すると後継候補の一人として杉山が取り沙汰されたが、元老西園寺公望は近衛を推した。第一次近衛内閣でも陸相留任。盧溝橋事件では強硬論を主張し、拡大派を支持。1938年(昭和13年)辞任。軍事参議官となり、同年12月北支那方面軍司令官となり山西省攻撃を指揮。 1939年(昭和14年)、靖国神社臨時大祭委員長。1940年(昭和15年)から1944年(昭和19年)まで参謀総長に就任し、太平洋戦争開戦の立案・指導にあたる。しかし、1943年(昭和18年)3月に早期講和派の松谷誠大佐を参謀本部戦争指導課課長に任じると、以降は早期講和についての研究を松谷に進めさせるなどし早期講和派の支援を行っている。同年6月に元帥となる。 1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲を機とした東條英機首相兼陸相の参謀総長兼任の際には、山田乙三教育総監とともに統帥権独立を盾として抵抗するが、昭和天皇と木戸幸一内大臣に対する宮中工作をすませた東條に屈して辞任。しかし同年7月、サイパン失陥によって倒閣運動が勢いを増すと、東條は参謀総長を梅津美治郎に譲り内閣の延命を図る。杉山も山田に代り教育総監に回るが、結局東條は失脚。小磯國昭に組閣の大命が降下すると、小磯の陸軍への掣肘を抑えようとする梅津ら陸軍中枢の意向を受け、陸軍大臣に再任される。1945年(昭和20年)4月、鈴木貫太郎内閣が成立すると阿南惟幾に陸相を譲り、本土決戦に備えて設立された第1総軍司令官となったが、敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。享年66。 杉山は盧溝橋事件時の陸相、太平洋戦争開戦時の参謀総長であり、敗戦責任について痛感することが大きく、8月15日の段階で「御詫言上書」と題する遺書(言上書)をしたためていた。そして、この遺書は自決後の9月13日、昭和天皇の上聞に達した。全文は以下のとおりである。 終戦後、9月に入ってから司令官室でピストル自決した(9月12日)が、この際にも彼らしいエピソードを残した。彼は終戦後もすぐに自決せず、国防婦人会の会長を務めていた妻が終戦直後に療養先から自宅に戻ってきて、まだ彼が自決していないのを見て、「自決すべき」と迫ったとされる。いつ死ぬのかと迫る妻に、兵らの復員を果たさねばならないと答えたとされるが、そんなことはあなたでなくともできると迫られたという。既に「御詫言上書」は終戦の日に書き上げて自決の覚悟もしていたようだが、これを妻に明かしたのは8月23日になってからであった。 終戦処理を終えた後、9月12日朝、部下から拳銃を受け取った後自室に入った彼は暫くしてドアを開き、緊張してドアの外で待っていた第53軍高級参謀・田中忠勝大佐に「おい、弾が出ないよ」と言った。拳銃に安全装置がかかったままだった。田中大佐が安全装置を外してやるとそのまま部屋に再び入り、胸を4発拳銃で撃ち抜き従容と自決したという。この自決の報を自宅で聞いた夫人は「息を引き取ったのは間違いありませんか?」と確認した後、正装に着替え仏前で青酸カリを飲み、短刀で胸を突き刺し自決して夫の後を追った。 杉山の副官だった小林四男治中佐と、参謀だった田中忠勝大佐の戦後の回想によれば、杉山は敗戦直後に自決を決意し、御詫言上書という遺書も用意していたが、終戦の混乱処理と第1総軍復員処理のため、延び延びとなっていた。杉山夫人は自らも国防婦人会の役員であったことから自決を決意し、疎開先から東京に戻ってきていた。12日の朝、田中参謀は杉山に呼び出され、「自分は本日自決するが、家内も同時に家で自決することになっている。しかし、若い娘(杉山夫妻には子供は無かったが養女がいた)のために家内には生き残ってもらいたいので、小林副官とも相談してなんとか家内の自決を思いとどまらせてほしい。自分はその翻意を聞いてから自決する」と言われ、田中参謀は小林副官と相談の上、杉山夫妻と家族ぐるみの親交があった小林副官が車を飛ばして杉山邸に駆けつけ、杉山夫人の翻意を促したが、夫人の意思は固く、小林副官は杉山に翻意させることが失敗したこと、しかし軽挙はしないと思う旨の報告せざるを得なかった。その後杉山は自決したが、結局夫人も後を追うことになった。 参謀総長時代に会議(御前会議・大本営政府連絡会議)の内容などを記したメモランダムの写しが戦後『杉山メモ』として公刊され、当時の軍・政府上層部の動向を知る貴重な資料となっている。 参謀本部 編『杉山メモ 大本営政府連絡会議等筆記』上、下(原書房、1967年) 『昭和天皇実録』によると、1941年9月5日、帝国国策遂行要領決定に際して首相の近衛文麿、海軍軍令部総長の永野修身とともに参内して昭和天皇に説明した際、南方作戦の成算について問われたのに対して、「陸海軍において研究の結果、南方作戦は約五箇月にて終了の見込み」と返答した。これに対して天皇は納得せず、「従来杉山の発言はしばしば反対の結果を招来した」と、支那事変勃発当時陸相として速戦即決と述べながら未だ継続している点を挙げた。杉山が「支那の奥地が広大」という説明をしたところ天皇は「太平洋はさらに広し、作戦終了の見込みを約五箇月とする根拠如何」と「強き言葉を以て」杉山を叱責したとされる。 終戦直前に元帥として天皇に意見を求められた杉山は、同じく元帥の永野修身とともに「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」と奏上したという。ただ、同時に諮問された同じく元帥の畑俊六は「これ以上の戦争遂行は難しい」という主旨の返答をしている。 綽名は「便所の扉」。理由は「どちらでも、押した方向に動く」、「日和見主義者」であったことから。「グズ元」とも。太平肥満な容貌とスローモーな感じからきたあだ名とされる。実際、杉山は運動が苦手であった。 第一次近衛内閣の陸相時代、閣議で拓務大臣の大谷尊由から「陸軍は一体どの線まで進出しようとするのか」と尋ねられた。これは弱気の近衛が拡大する一方の支那事変における陸軍の真意に不安を感じつつ、さりとて今更自分では訊けないので大谷に質問させたものであった。しかし、杉山は質問を無視して答えなかったため、海軍大臣の米内光政が見かねて「だいたい永定河と保定との線で停止することになっているようである」と答えた。すると杉山は米内に向かって「君はなんだ、こんな場所でそんなことを言っていいのか!」と怒鳴った。おとなしい米内はこの杉山の理不尽な激昂に対し「そうかなあ」とだけ答え、閣議の場はすっかり白けてしまった。いかに戦前でも閣議を公然と「こんな場所」呼ばわりした軍人はそうはいなかった。なお、杉山が「こんな場所」と言ったのは「政党出身者のいるところ」という意味だったという。 日中戦争から太平洋戦争へと拡大するなかで、陸相や参謀総長を歴任した杉山は、主戦派の中心と目されてきたが、1943年3月には参謀本部戦争指導課長(後に「戦争指導班」と改称)に中国戦線での兵力削減を主張し、陸軍内で異端視されていた松谷誠大佐を就任させ、終戦へ向けた研究に従事させた。これはドイツのスターリングラード敗戦により、戦争の先行きを心配した昭和天皇や宮中の意向を受け、天皇の意向に忠実に従う「承詔必謹」主義に徹していた杉山が、万が一に備えるため行った人事とされる。後に杉山は小磯内閣で陸相に再任された際、東条英機参謀総長(首相・陸相兼任)に早期終戦の意見具申を行って左遷されていた松谷を大臣秘書官として中央に復帰させ、海軍の高木惣吉や外務省の加瀬俊一らと、終戦に向けた裏工作にあたらせている。松谷は戦後「(1943年)3月以来の天皇の終戦ご意図と杉山参謀総長の承詔必謹による、その具現の努力と焦慮が、期せずして私の新たな終戦方策発意の動機となったともいえる」と回想している。(参考文献:山本智之著書) 降伏文書調印が行われた1945年9月2日、杉山は横浜のアメリカ陸軍第8軍司令部に呼び出され、司令官ロバート・アイケルバーガー中将より、旧帝国陸軍第1総軍の復員を全うするよう指示を受けた。東日本の占領を担当する第8軍としては、約40個師団の兵力を以て東日本に展開する第1総軍の復員を早急に行わせ、占領の安定化を急ぐ必要があったためである。ただし、杉山が横浜から市ヶ谷に帰着して、副官の小林四男治中佐に語ったところによれば、アイケルバーガーは普段日本側に使用させていない司令部の正面玄関に自らの副官を差し向けて出迎えたこと、司令官室には日の丸と星条旗が並べて立てかけられていたこと、元帥である杉山に上座を勧めたこと、遠慮して着席しない彼に着席をすすめ、杉山が着席してからようやく着席したこと、両者は通訳なしで英語で会談したこと、アイケルバーガーは杉山に一礼したのち「武勲赫々たる杉山元帥に、命令伝達という要務でお会いすることは誠に残念。私は軍の任務が終わり次第、帰国して一市民となるが、元帥とは今後個人的な交誼を結んでいただきたい」と述べ、杉山を感激させた。第1総軍の復員は9月11日に完了したが、杉山はその翌日に自決した。自決に立ち会った田中忠勝大佐は、自決の日を12日に選定した理由について、総軍の復員完了を見届けてから自決する覚悟だったからではないかと推測している。また、葬儀は第1総軍の部隊葬として執行され、アイケルバーガーが出席するという話が一時米軍側より伝えられたが、後に取りやめとなっている。 日米開戦の焦点となった支那駐兵問題については、撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、東条英機や木戸幸一と連帯関係にあった。 1901年(明治34年)10月10日 - 正八位 1904年(明治37年)2月19日 - 従七位 1905年(明治38年)8月11日 - 正七位 1910年(明治43年)9月30日 - 従六位 1915年(大正4年)10月30日 - 正六位 1920年(大正9年)11月30日 - 従五位 1932年(昭和7年)6月15日 - 正四位 1936年(昭和11年)9月15日 - 従三位 1939年(昭和14年)10月2日 - 正三位 1943年(昭和18年)7月15日 - 従二位 1934年(昭和9年)4月29日 - 勲一等旭日大綬章・昭和六年乃至九年事変従軍記章 1943年(昭和18年)6月21日 - 元帥 1937年(昭和12年)12月1日 - 満州帝国:勲一位龍光大綬章 1942年(昭和17年)4月23日 - タイ王国:王冠特等章 九重京司 - 『重臣と青年将校 陸海軍流血史』(1958年) 松下猛夫 - 『大東亜戦争と国際裁判』(1959年) 岬洋二 - 『皇室と戦争とわが民族』(1960年) 外野村晋 - 『銃殺』(1964年) 岩谷壮 - 『日本のいちばん長い日』(1967年) 石山健二郎 - 『激動の昭和史 軍閥』(1970年) 仲代達矢 - 『226』(1989年) 麿赤児 - 『スパイ・ゾルゲ』(2003年)、『日輪の遺産』(2011年) 川中健次郎 - 『日本のいちばん長い日』(2015年) 山本麟一 - 『燃えよ!ダルマ大臣 高橋是清伝』(1976年) 福原秀雄 - 『山河燃ゆ』(1984年) 金田龍之介 - 『そして戦争が終った』(1985年) 坂口芳貞 - 『命なりけり 悲劇の外相東郷茂徳』(1994年) 平野忠彦 - 『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東條英機』(2008年) 西田健 - 『落日燃ゆ』(2009年) ^ 『昭和天皇実録』刊行前は近衛の手記『最後の御前会議』などにより知られていた。『杉山メモ』では「(日中開戦時)大臣として蔣介石は直ぐ参ると申したがそうなっていないようだが」と下問されたとのみ記載されている。 ^ 『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機』において同じ体型の平野忠彦が演じている ^ 『歴代陸軍大将全覧 昭和編』(中公新書ラクレ)より。インド駐在時代の名刺には「Major Gen Sugiyama」と刷っていたという。 ^ “杉山元関係文書|憲政資料(憲政資料室)|リサーチ・ナビ|国立国会図書館”. 憲政資料(憲政資料室). 国立国会図書館. 2022年11月20日閲覧。 ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和10年9月1日調 17.国立国会図書館 ^ 杉山元帥伝記刊行会 編『杉山元帥伝』(原書房明治百年叢書87、1969年)より ^ 『太平洋戦争秘録 勇壮!日本陸軍指揮官列伝』 別冊宝島編集部編 P13 ^ 『太平洋戦争秘録 勇壮!日本陸軍指揮官列伝』 別冊宝島編集部編 P14 ^ 杉山元を裁判長に植村中将の公判開く『大阪毎日新聞』1937年(昭和12年)2月10日夕刊,『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p761 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 『主戦か講和か: 帝国陸軍の秘密終戦工作』19-20頁。 ^ 『主戦か講和か: 帝国陸軍の秘密終戦工作』103頁。 ^ 宮内庁書陵部編修課(編)『昭和天皇実録 第八』東京書籍、2016年、pp.468 - 469 ^ 『破綻-陸軍省軍務局と日米開戦』保阪正康(講談社) ^ 『太平洋戦争秘録 勇壮!日本陸軍指揮官列伝』 別冊宝島編集部編 P12 ^ 渡邊行男『宇垣一成』 中公新書、P168 ^ 『官報』第5484号「叙任及辞令」1901年10月11日。 ^ 『官報』第6188号「叙任及辞令」1904年2月20日。 ^ 『官報』第6640号「叙任及辞令」1905年8月17日。 ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。 ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。 ^ 『官報』第2500号「叙任及辞令」1920年12月1日。 ^ 『官報』第1646号「叙任及辞令」1932年6月27日。 ^ 『官報』第2919号「叙任及辞令」1936年9月22日。 ^ 『官報』第3922号「叙任及辞令」1940年2月5日。 ^ 『官報』第2602号附録、昭和10年9月3日。 ^ 『官報』第4931号「叙任及辞令」1943年6月22日。 ^ 『官報』第3395号「叙任及辞令」1938年5月2日。 ^ 『官報』第4586号「叙任及辞令」1942年4月27日。 『杉山元帥と夫人の自害』田々宮英太郎 『検索!二・二六事件 - 現代史の虚実に挑む』 雄山閣出版 1993年 『杉山元帥伝』杉山元帥伝記刊行会編、原書房明治百年叢書、1969年発行 山本智之『「聖断」の終戦史』、NHK出版(2015年) 山本智之『主戦か講和か: 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮選書、2013年。 ISBN 9784106037313 福岡県出身の人物一覧 自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧 国立国会図書館 憲政資料室 杉山元関係文書 ウィキメディア・コモンズには、杉山元に関するカテゴリがあります。 『杉山元』 - コトバンク 表 話 編 歴 有栖川宮熾仁親王1889.3.9-1895.1.15 小松宮彰仁親王1895.1.26-1898.1.20 川上操六1898.1.20-1899.5.11 大山巌1899.5.16-1904.6.20 山縣有朋1904.6.20-1905.12.20 大山巌1905.12.20-1906.4.10 児玉源太郎1906.4.11-1906.7.30 奥保鞏1906.7.30-1912.1.20 長谷川好道1912.1.20-1915.12.16 上原勇作1915.12.17-1923.3.17 河合操1923.3.17-1926.3.2 鈴木荘六1926.3.2-1930.2.19 金谷範三1930.2.19-1931.12.23 閑院宮載仁親王1931.12.23-1940.10.3 杉山元1940.10.3-1944.2.21 東條英機1944.2.21-1944.7.14 梅津美治郎1944.7.18-1945.11.30 表 話 編 歴 山縣有朋 西郷従道 大山巌 大山巌 高島鞆之助 大山巌 高島鞆之助 桂太郎 児玉源太郎 寺内正毅 石本新六 上原勇作 木越安綱 楠瀬幸彦 岡市之助 大島健一 田中義一 山梨半造 田中義一 宇垣一成 白川義則 宇垣一成 南次郎 荒木貞夫 林銑十郎 川島義之 寺内寿一 中村孝太郎 杉山元 板垣征四郎 畑俊六 東條英機 杉山元 阿南惟幾 東久邇宮稔彦王 下村定 カテゴリ FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data アメリカ 日本 IdRef 杉山元 自殺した日本の人物 日本の元帥陸軍大将 昭和時代戦前の閣僚 日本の陸軍大臣 勲一等旭日大綬章受章者 従二位受位者 日露戦争の人物 日中戦争の人物 盧溝橋事件の人物 三月事件の人物 十月事件の人物 二・二六事件の人物 太平洋戦争の人物 陸軍大学校出身の人物 陸軍士官学校 (日本)出身の人物 北九州市出身の人物 1880年生 1945年没 多磨霊園に埋葬されている人物 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 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2024/11/19 11:51更新
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