もしもし情報局 > 7月7日 > 軍人

栗林忠道の情報 (くりばやしただみち)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

栗林忠道の情報(くりばやしただみち) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

栗林 忠道さんについて調べます

■名前・氏名
栗林 忠道
(読み:くりばやし ただみち)
■職業
軍人
■栗林忠道の誕生日・生年月日
1891年7月7日 (年齢1945年没)
卯年(うさぎ年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
長野出身

栗林忠道と同じ1891年生まれの有名人・芸能人

栗林忠道と同じ7月7日生まれの有名人・芸能人

栗林忠道と同じ出身地長野県生まれの有名人・芸能人


栗林忠道と関係のある人

西竹一: 1945年、硫黄島守備隊として小笠原兵団(栗林忠道陸軍中将は、小笠原兵団長 兼 第109師団長)直轄の戦車第26連隊の指揮を執ることとなった。


河石達吾: 第3大隊は北地区隊の主力として栗林忠道陸軍大将がいる司令部の防備に就いた。


新藤義孝: 母方の祖父は、硫黄島の戦いにおける日本軍守備隊最高指揮官の栗林忠道陸軍大将である。


渡辺謙: 2006年には、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』に、栗林忠道役で日本国外映画初主演。


西竹一: その後、硫黄島へ戻るが、映画『硫黄島からの手紙』では、同じ騎兵出身の栗林忠道陸軍中将(陸軍大将。


東條英機: 小室直樹は栗林忠道に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としているが、1941年(昭和16年)8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され、11月3日には海軍軍令部総長・永野修身と陸軍参謀総長・杉山元が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を上奏するため列立して読み上げた。


小松直之: No.1363『栗林忠道・硫黄島の戦い』“忠道の戦術戦略”


栗林忠道の情報まとめ

もしもしロボ

栗林 忠道(くりばやし ただみち)さんの誕生日は1891年7月7日です。長野出身の軍人のようです。

もしもしロボ

卒業、事件、結婚、映画、家族、父親、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1945年に亡くなられているようです。

栗林忠道のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。陸士26期・陸大35期。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。

第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」と評された。

戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年(大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。陸軍将校の主流である陸軍幼年学校出身(陸幼組)ではなく、中学校出身(中学組)であった。長野中学の4期後輩に今井武夫陸軍少将がいる。陸士同期に、のちの硫黄島の戦いで混成第二旅団長に指名して呼び寄せた“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季や、田中隆吉、影佐禎昭がおり、とくにノモンハン事件では、戦車第3連隊長吉丸清武、第23師団参謀長大内孜、第23師団捜索隊長東八百蔵の3人の同期が戦死しており、栗林が同期を代表して新聞紙面上で追悼のことばを送っている。

1914年(大正3年)5月28日、陸士卒業(第26期、兵科:騎兵、席次:742名中125番)、騎兵第15連隊附となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。1917年(大正6年)10月から1918年(大正7年)7月まで陸軍騎兵学校乙種学生となり、馬術を専修。馬術の技術は高く、気性が荒く陸軍騎兵学校の誰もが敬遠していた馬を何度も落馬しながらも乗り続け、最後には乗りこなしていたという逸話が残っている。

1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵中尉。1920年(大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校。1923年(大正12年)8月、陸軍騎兵大尉。同年11月29日に陸大を卒業(第35期)、成績優等(次席)により恩賜の軍刀を拝受。同年12月、栗林義井(よしゐ)と結婚。太郎・洋子・たか子の一男二女を儲ける。孫に衆議院議員の新藤義孝がいる(たか子の子)。

騎兵第15連隊中隊長、騎兵監部員を経て1927年(昭和2年)、アメリカに駐在武官(在米大使館附)として駐在、帰国後の1930年(昭和5年)3月に陸軍騎兵少佐に進級、4月には陸軍省軍務局課員。1931年(昭和6年)8月、再度北米のカナダに駐在武官(在加公使館附)として駐在した。栗林は2年間に渡ってアメリカ各地を回ってアメリカ軍の軍人だけではなく一般市民とも親交を深めた。栗林のアメリカ人評は「朗らかで気さくな人が多い」であり、アメリカ人との交流について、妻よしゐやまだ字が読めない長男太郎宛に、イラストや漫画を描き込んだユーモアにあふれる多くの手紙を送っている。 フォート・ビリス(英語版)では騎兵訓練を受けているが、そのときの教官であったジョージ・ヴァン・ホーン・モーズリー(英語版)准将からは、「尊敬する栗林へ、貴官との愉快な交際を忘れません」と書かれた記念写真を受け取っている。栗林はフランス・ドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」で、国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であり、妻のよしゐに「アメリカは世界の大国だ。日本はなるべくこの国との戦いは避けるべきだ。その工業力は偉大で、国民は勤勉である。アメリカの戦力を決して過小評価してはならない」と話したこともあった。

1933年(昭和8年)8月、陸軍騎兵中佐、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936年(昭和11年)8月1日には騎兵第7連隊長に就任する。1937年(昭和12年)8月2日、陸軍騎兵大佐に進級し陸軍省兵務局馬政課長。馬政課長当時の1938年(昭和13年)には軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わっている。1940年(昭和15年)3月9日、陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長、同年12月2日、騎兵第1旅団長に就任。

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦目前の1941年(昭和16年)9月、第23軍参謀長に就任。第23軍は緒戦の南方作戦においてイギリス領香港を攻略することを任務としており、12月8日の開戦後、香港の戦いにおいて18日間でイギリス軍を撃破して香港を制圧した。

1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に進級し、第23軍参謀長から留守近衛第2師団長に転じる。1944年(昭和19年)4月、留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じる。栗林が東部軍司令部附となったのは、厨房から失火を出した責によるとされる。秦郁彦は、厨房から火事を出した程度で留守師団長を更迭されるとは考えにくい、第109師団長に親補する前提での人事であろう、という旨を述べている。

1944年(昭和19年)5月27日、小笠原方面の防衛のために新たに編成された第109師団長に親補された。6月8日、栗林は硫黄島に着任し、以後、1945年(昭和20年)3月に戦死するまで硫黄島から一度も出なかった。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。周囲からは、小笠原諸島全域の作戦指導の任にある以上は、兵団司令部を設備の整った父島に置くべきとの意見もあったが、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に司令部を移した。その理由としては、サイパンの戦いにおいて、第31軍司令官小畑英良中将が、司令部のあるサイパン島から部隊視察のためパラオ諸島に行っていたときにアメリカ軍が上陸し、ついに小畑はサイパン島に帰ることができないまま守備隊が玉砕してしまったという先例があることや、父島と比較すると硫黄島の生活条件は劣悪であり、自分だけ快適な環境にいることなく部下将兵と苦難を共にしたいという想いがあったからという。栗林はその人柄から部下将兵からの人気も高かった。

栗林の着任当時、硫黄島には約1,000人の住民が居住しており、当時の格式では、閣僚クラスの社会的地位のある中将の来島に色めきたったが、栗林は島民に配慮して一般島民とは離れた場所に居住することとしている。栗林が司令部ができるまで居住していた民家は「硫黄島産業」という会社の桜井直作常務の居宅で、桜井は栗林と接した数少ない島民となったが、栗林は食事の席で桜井に「我々の力が足りなくて、皆さまに迷惑をかけてすまない」と謝罪し桜井を驚かせている。栗林の島民に対する配慮はまだ続き、アメリカ軍による空襲が激しくなると、島民も将兵と同じ防空壕に避難するようになったが、薄手の着物姿の女性が避難しているのを見た栗林は、将兵からの性被害を抑止するために女性にモンペの着用を要請し、また防空壕も可能な限り軍民を分けるよう指示した。その後も、アメリカ軍の空爆は激化する一方で、全島192戸の住宅は3月16日までの空襲で120戸が焼失、6月末には20戸にまでなっていた。栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は7月12日まで数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した。栗林の方針によって硫黄島には慰安所は設置されておらず、硫黄島は男だけの島となったが、結果的に早期に住民を疎開させるという判断が、島民の犠牲を出さなかったことにつながった。

敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。従来の「水際配置・水際撃滅主義」に固執し水際陣地構築に拘る一部の陸軍幕僚と同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機の空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。陣地の構築については軍司令官である栗林が自ら島内をくまなく巡回し、ときには大地に腹ばいになって、目盛りのついた指揮棒で自ら目視して作業する兵士たちに「この砂嚢の高さをあと25cm上げよ」「こっちに機銃陣地を作って死角をなくすようにせよ」「トーチカにもっと砂をかけて隠すようにせよ」などの具体的で詳細な指示を行うこともあったという。

生還者の1人で歩兵第145連隊第1大隊長(少佐)だった原光明は「(栗林)閣下が一番島のことをご存じだった。だから私ら、突然、閣下が予想外の場所から顔を出されるので、いつもびっくりさせられた」と回想している。このように、通常は部隊指揮官がやるような細かい指示を軍司令官が行ったことについて、栗林の率先指揮ぶりの好エピソードとして語られることもあるが、これは、軍参謀がわずか5人と少ないうえ着任して日も浅く、また部隊指揮官は急編成でろくに経験もない老兵が多かったという小笠原兵団の窮状によるものでもあった。

持久戦術は守備隊唯一の戦車戦力であった、戦車第26連隊(連隊長:西竹一中佐)に対しても徹底された。戦車第26連隊は満州で猛訓練を積んできたこともあり、連隊長の西は硫黄島でも戦車本来の機動戦を望んでいたが、これまでの島嶼防衛戦で戦車を攻撃に投入したサイパンの戦いや、ペリリューの戦いにおいては、優勢なアメリカ軍部隊に戦車突撃をして、強力な「M4中戦車」との戦車戦や、バズーカなどの対戦車兵器に一方的に撃破されることが続いており。栗林は西に対して、戦車を掘った穴に埋めるか窪みに入り込ませて、地面から砲塔だけをのぞかせ、トーチカ代わりの防衛兵器として戦うよう命じた。西はこの命令に反撥したが最終的には受入れている。栗林と西は同じ騎兵畑出身で親しかったとする証言もあるが、勤勉且つ繊細であった栗林に対し、華族(男爵)で裕福だった西は豪放で奔放と性格が全く異なっており、確執があったとする証言もある。ただし、戦車を防衛兵器として使用する判断をしたのは西であったとする説もある。

隷下兵士に対しては陣地撤退・万歳突撃・自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。過酷な戦闘を強いることになる隷下兵士には特に気を配っており、毎日、島を何周も廻る視察には、陣地構築の状況確認のほかに、兵士の士気と指揮官の兵士に対する態度を確認する目的もあった。栗林は兵士に対して、作業中や訓練中には自分も含め上官に敬礼は不要と徹底し、部下から上官に対する苦情が寄せられた場合は容赦なく上官を処罰した。食事についても栗林自らも含め、将校が兵士より豪華な食事をとることを厳禁した。栗林は、平時から階級上下での待遇差が激しい軍内で根強い“食べ物の恨み”が蔓延していることを認識しており、水不足、食料不足の硫黄島においては、さらにその“食べ物の恨み”が増幅する懸念が大きく、戦闘時の上下の信頼関係を損なって、戦力に悪影響を及ぼすという分析をしていた。そのため、自らも兵士と同じ粗食を食し、水も同じ量しか使用しなかった。この姿勢が兵士から感銘を受けて、栗林への信頼が高まっていった。

翌1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、(日本)海軍の海岸砲と擂鉢山火砲各砲台応戦砲撃を行ってしまった。栗林は慌てて全軍に全貌を暴露するような砲撃は控えるよう再徹底したが、栗林の懸念通りにアメリカ軍は応戦砲撃で海軍砲台の位置を特定すると、11時間にも及ぶ艦砲射撃で全滅させてしまった。これはアメリカ海兵隊の硫黄島の戦いの公式戦史において、「(硫黄島の戦いにおける)栗林の唯一の戦術的誤り」とも評された。

その後は守備隊各部隊は栗林の命令を忠実に守り、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ10時過ぎに栗林の命令によって一斉攻撃を開始する。上陸部隊指揮官のホーランド・スミス海兵隊中将は、その夜、前線部隊からの報告によって硫黄島守備隊が無謀な突撃をまったく行なわないことを知って驚き、取材の記者たちに「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」と語った。また、第4海兵師団の戦闘詳報によれば、日本軍の巧みな砲撃指揮を「かつて、いかなる軍事的天才も思いつかなかった巧妙さ」と褒めたたえている。アメリカ軍は硫黄島の指揮官が誰であるのかを正確には把握できておらず、上陸前にはサイパン島で入手した日本軍の機密資料から、父島要塞司令官大須賀應陸軍少将と考えていた。しかし、上陸以降に捕らえた日本兵の捕虜から「最高司令官はクリバヤシ中将」という情報を聞き出したアメリカ軍は、硫黄島のような小さく環境が劣悪な島に中将がいるとは考えられないという判断をしながらも、硫黄島の戦力が当初の14,000人という見積りより多いという報告から、師団クラスの戦力が配置されており、師団長クラスの中将が指揮をしてもおかしくはないという分析も行った。その場合は硫黄島の戦力は当初の見積りより遥かに多く、また「クリバヤシ」が優れた戦術家であれば苦戦は必至と危惧することとなったが、事実、この危惧通りにアメリカ軍は大苦戦させられることとなる。

その後も圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えたものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部、および栗林の陸大在校時の兵学教官であり、騎兵科の先輩でもある侍従武官長の蓮沼蕃大将に打電。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結・#訣別の電文)。

翌17日付で戦死と認定され、特旨により陸軍大将に親任された。陸軍大臣の杉山元・元帥は、内閣総理大臣の小磯國昭に送付した文書に次のように記している。

太平洋戦争(大東亜戦争)では、中将の戦死者が増加したため、中将で戦死した者のうち、親補職(軍事参議官。陸軍では、陸軍三長官、陸軍航空総監、師団長以上の団隊の長、侍従武官長など。海軍では、海軍大臣、軍令部総長、艦隊司令長官、鎮守府司令長官など。)2年半以上を経ており、武功が特に顕著な者を陸海軍協議の上で大将に親任するという内規が作られ、この内規により、陸軍で7名(栗林を含む)、海軍で5名が戦死後に大将に親任された。

昭和19年5月27日に第109師団長に親補され、昭和20年3月17日に戦死と認定された栗林は、上記の内規の年限を満たさなかったが、特旨により大将に親任された。

同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の命令を発した。

一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ

二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス

三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君テ顧ミルヲ許サズ

四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ

大本営は訣別電報で栗林は戦死したと判断していた。しかし、3月23日に硫黄島から断続的に電文が発されているのを父島の通信隊が傍受した。その電文には3月21日以降の戦闘状況が克明に記されていたが、最後の通信は23日の午後5時で、「ホシサクラ(陸海軍のこと)300ヒガシダイチニアリテリュウダンヲオクレ」という平文電報がまず流れてきたので、通信兵が返信しようとすると、「マテ、マテ」と硫黄島から遮られて、その後に続々と電文が送られてきたという。その電文の多くが栗林による部隊や個人の殊勲上申であり、栗林は戦闘開始以降、部下の殊勲を念入りに調べてこまめに上申して、昭和天皇の上聞に達するようにしてきたが、最後の瞬間まで部下のはたらきに報いようとしていたのだと電文を受信した通信兵たちは感じ、電文に記された顔見知りの守備隊兵士を思い出して涙した。しばらくすると通信は途絶えて、その後は父島からいくら呼びかけても返信はなかった。

3月17日以降、栗林は総攻撃の機会をうかがっていた。既に生存者の殆どが、守備隊の命運は尽きており、待っているのは自滅のときの訪れであって、そうであれば最後の突撃をなるべく早く行うべきと考えていたが、栗林は死を焦る参謀や指揮官らに「今、しばらく、様子を見たい」として安易な突撃を許さなかった。その指示を聞いた参謀らは、最後まで作戦を考える栗林の戦意と気力に大きな感銘を受けたという。アメリカ軍は18日から、艦砲射撃や空爆を中止し、損害の大きかった海兵隊を硫黄島から次第に撤退させており、1個連隊程度の戦力を残して、戦車と迫撃砲での攻撃を主として近接戦闘をなるべく避けるように作戦変更していた。栗林は冷静にアメリカ軍の作戦変更を見極めて、警戒が緩んできた3月24日に攻撃の機が熟したと判断すると、25日夜間の総攻撃開始を決定した。この総攻撃も、今まで栗林が徹底して禁止してきたバンザイ突撃ではなく、緻密に指揮された周到な攻撃であった。栗林は階級章を外すと、軍刀などの所持品から名前を消して白襷を着用し、25日の深夜に、今まで栗林に従ってきた師団司令部附大須賀應陸軍少将、歩兵第145連隊連隊長池田益雄陸軍大佐、参謀長高石正陸軍大佐や海軍第27航空戦隊司令官市丸利之助海軍少将と共に、攻撃隊400人の先頭に立って司令部の半地下壕を出て、元山・千鳥飛行場方向に向けて前進を開始した。

翌3月26日午前5時15分、栗林の指揮する攻撃隊は西部落南方の海岸で、アメリカ陸軍航空隊の第7戦闘機集団と第5工兵大隊が就寝している露営地に接触し攻撃を開始した。攻撃隊は日本軍の兵器のほかに、アメリカ軍から鹵獲したバズーカや自動小銃などを装備しており非常に重武装で、太平洋戦争の島嶼戦で繰り返された貧弱な装備でのバンザイ突撃とは一線を画した秩序だった攻撃であり、攻撃を受けたアメリカ軍も日本軍部隊がよく組織されているものと感じ、それは栗林の戦術的な規律によるものと評価している。 攻撃隊の周到な攻撃によってアメリカ軍は大混乱に陥り、多数の戦闘機パイロットが殺傷されたが、その後海兵隊の増援も到着し、3時間の激戦によって戦闘機パイロットら44人が戦死、88人が負傷し、海兵隊員も9人が戦死、31人が負傷するという大損害を被った。その後、栗林は部隊を元山方面に転戦しようとしたが、敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受けて負傷し、司令部付き曹長に背負われながら前線から避退したが進退窮まり、最後に「屍は敵に渡してはいけない」と言い残して、近くの洞窟で自決した。満53歳没。

ただし、栗林の最期については、直接見た者は生存していないことから諸説ある。最後の総攻撃の数少ない生還者である通信兵小田静夫曹長の証言によれば、栗林は千鳥飛行場に天皇陛下万歳三唱して斬りこんだが、参謀長の高石か参謀の中根に自分を射殺するよう命じ、高石か中根は栗林を射殺したのちに自分も拳銃で自決したという。しかし、小田は実際には栗林の最期を見てはおらずこれは推測である。他の生還者である歩兵第145連隊の大山純軍曹によれば、前進途中の千鳥部落付近で敵の砲火を浴び、部隊は散開状態となったが、大山はそのとき栗林の近くにおり、栗林が「狙撃を出して攻撃せんか」と命令したのを聞いている。大山はその場で機関銃弾を受けて負傷し栗林とはぐれてしまったが、戦闘後に戦闘指揮所に戻ると、栗林が負傷し、出血多量で絶命したため、遺体を参謀長の高石が近くの木の根元の弾痕に埋葬したという話を聞いている。他にも、攻撃中にアメリカ軍の155㎜砲の直撃を受けて爆死し遺体が四散したとの推察もある。

最後の総攻撃後に、日本兵の遺体262人が残され、18人が捕虜となった。海兵隊は栗林に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、結局見つけることはできなかった。アメリカ海兵隊は公式報告書で栗林による最後の攻撃を以下の様に記録している。

栗林の最期に関する異説としては、大野芳が、第109師団父島派遣司令部の参謀であった堀江芳孝少佐の手記から、栗林が戦闘中にノイローゼとなり、アメリカ軍に降伏しようとして参謀に斬殺されたという説を唱えたことがあった。しかし梯久美子の調査により、堀江が硫黄島で栗林の下で勤務したのは数日に過ぎず、栗林の最期についても伝聞であり、その情報源とされた小元久米治少佐が否定していたことが判明、戦史叢書の編集者も堀江の手記の栗林の最期の記述については信ぴょう性が薄いと判断し、戦史叢書の記述に採用していない。

死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと軍参謀長や騎兵旅団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかったが、2005年(平成17年)に上梓された梯久美子『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』、翌2006年(平成18年)に公開されたハリウッド映画『硫黄島からの手紙』により、一躍その名が知られるようになった。

秦郁彦は下記のように述べている。

栗林は幼少の頃、一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。

墓所は長野市松代の明徳寺に所在するがその遺骨はない。栗林の長兄が継いだ長野市松代の生家では、仏壇に硫黄島の石、および、栗林が陣頭指揮・戦死した3月26日未明の最後の総攻撃に参加し、生還を果たした陸軍下士官が、復員から間もない1946年(昭和21年)に栗林の妻の義井に送った手紙(最後の総攻撃の様子を詳細に記す)を供えていた。

1967年(昭和42年)、勲一等に叙せられ旭日大綬章を没後受勲した。

戦闘は敗北となったが、僅か22平方キロメートル(東京都北区程度の面積)に過ぎない硫黄島を、海兵隊に加えて、陸上任務に就く陸軍などの将兵を含めると総兵力は111,308人、また海軍などの支援要員を含めた作戦に従事する将兵250,000人と、単純な兵力では5倍から10倍以上、さらに絶対的な制海権・制空権を持ち、予備兵力・物量・兵站・装備全てにおいて、圧倒的に優勢であったアメリカ軍を敵に回して、最後まで将兵の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1か月半も硫黄島を防衛した指揮力は、内外で高く評価されている。硫黄島の戦いで栗林に苦しめられた、アメリカ海軍と海兵隊の軍公式報告や司令官級の高級将官からの評価を列挙する。

特に、硫黄島で陸上戦を指揮し栗林と対決した第56任務部隊司令官ホーランド・スミス海兵中将は自分の著書などで多くの栗林評を残しておりその一部を抜粋する。

栗林の手強さはこういった軍組織や軍司令官だけではなく、末端の海兵隊員までに知れ渡っており、以下のような発言も海兵隊公式報告書に記されている。

イギリスの歴史作家で第二次世界大戦での多くの著作があるアントニー・ビーヴァーも栗林を評価している。

  然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ   尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ 終リニ左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ

国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ

醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思う

戦局遂に最後の関頭に直面せり  十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち、皇国の必勝と安泰とを祈念しつ、全員壮烈なる総攻撃を敢行す

 敵来攻以来想像に余る物量的優勢を以て陸海空よりする敵の攻撃に対し克く健闘を続けた事は小職の聊か自ら悦びとする所にして部下将兵の勇戦は真に鬼神をも哭かしむるものあり

 然れども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで斃れ為に御期待に反し、この要地を敵手に委ねるのやむなきに至れるは誠に恐懼に堪へず、幾重にも御詫び申し上ぐ  特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思ひ、たとひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す、今や弾尽き水涸れ戦い残れる者全員いよく最後の敢闘を行はんとするに方り熟々皇恩の忝さを思ひ粉骨砕身亦悔ゆる所にあらず  茲に将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ永へ御別れ申上ぐ

 終りに左記駄作、御笑覧に供す。

国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ口惜し

仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ

醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ

陸大次席の秀才であり、「太平洋戦争屈指の名将」と讃えられる優れた軍人であったが、同時に良き家庭人でもあり、北米駐在時代や硫黄島着任以降には、まめに家族に手紙を書き送っている。アメリカから書かれたものは、最初の子どもである長男・太郎が幼かったため、栗林直筆のイラストを入れた絵手紙になっている。硫黄島から次女たか子(「たこちゃん」と呼んでいた)に送った手紙では、軍人らしさが薄く一人の父親としての面が強く出た内容になっている。硫黄島着任直後に送った手紙には次のようなものがある。実際の手紙は、防衛省に保管されている。

妻宛てには、留守宅の心配や生活の注意などが事細かに記され、几帳面で情愛深い人柄が偲ばれる。これらの手紙はのちにまとめられて、アメリカ時代のものは『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(小学館文庫、2002年)、硫黄島からのものは『栗林忠道 硫黄島からの手紙』(文藝春秋、2006年)として刊行されている。なお、留守宅は東京大空襲(アメリカ軍による日本本土空襲)で焼失したが、家族は長野県に疎開しており難を免れている。

弟の栗林熊尾が兄の後を追って、長野中学から陸軍士官学校へ進学したいと言い出したとき、栗林は陸軍では陸軍幼年学校出身者が優遇され、中学出身者は陸軍大学校を出ても主流にはなれないからと、幼年学校が存在しない海軍兵学校へ行くように薦めている。熊尾は海軍兵学校受験に失敗し、陸軍士官学校に入校したが(第30期)、卒業後に肺結核で夭折、栗林は弟の死を嘆いた。

もともと新聞記者志望ということもあり、文才のある軍人としても知られていた。陸軍省兵務局馬政課長として軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わった際は、歌詞の一節に手を入れたという。

時間に厳格であり、近衛師団長時から栗林が硫黄島で戦死するまで副官を務めた藤田正善中尉が、毎朝出勤する栗林を官舎まで自動車で迎えに来たが、それが予定時間から少しでもずれていると「今日は30秒早い」や「今日は30秒遅い」と叱責したという。藤田は門の前に停車してぴたりとした時間に栗林を呼ぶようにしたが、ある時、藤田が栗林にこの意図を確認したところ「勝敗は最後の5分間というのはナポレオン時代の話であり、その何十倍もスピード化した現代では、最後の勝敗を決するのは30秒だ。30秒間に機銃弾が何百人の部下を倒すか計算したことがあるか?」と言われ、藤田は栗林の意図を理解して粛然としたという。

部下たちに対してよく口にしたことばが「作戦のために身体をこわして死んだ参謀はひとりもいない」であり、前線で戦う兵士に対して自分たち司令官や参謀は恵まれていると自戒しながら作戦指揮にあたっていた。

清潔好きであり、軍務でも家庭でも整理整頓や清掃にはきびしかった。しかし、硫黄島の住環境は清潔さとは程遠く、また大量に生息する「油虫と云うグロテスクの不潔虫」や蝿やアリに苦しめられており、たびたび家族に宛てた手紙でそのいとわしさを書いている。

車好きであり、アメリカ勤務時にはシボレーのセダンを現地で購入したことを手紙で家族に報告している。運転技術も高く、第23軍参謀長時には軍属で裁縫師の貞岡信喜を連れてよくドライブをしていた。貞岡は栗林を慕って「うちの閣下」と呼んでおり、硫黄島にも一緒に行きたいと転属願いまで出したが、栗林は貞岡を叱り飛ばしその申し出を却下している。

自由民主党の衆議院議員・新藤義孝は、栗林の孫(次女・たか子の子供)に当たる。2015年(平成27年)4月30日、安倍晋三首相のアメリカ合衆国議会合同会議の演説の場で、硫黄島の戦いに米海兵隊大尉として参加したローレンス・スノーデン海兵隊中将と握手した。

2012年(平成24年)4月、栗林の墓がある長野市松代町豊栄の明徳寺に、長野の市民団体が中心となり、長野中学出身の栗林忠道陸軍大将と今井武夫陸軍少将の顕彰碑が建立された。

1911年(明治44年)

    3月 - 長野県立長野中学校卒業(第11期)

    1914年(大正3年) - 陸軍士官学校卒業(第26期)、見習士官

      12月 - 陸軍騎兵少尉任官

      1918年(大正7年)

        7月 - 陸軍騎兵学校乙種学生卒業、陸軍騎兵中尉

        1923年(大正12年)

          8月 - 陸軍騎兵大尉

          11月 - 陸軍大学校卒業(第35期、次席)恩賜の軍刀を拝受

          12月 - 騎兵第15連隊中隊長

          1925年(大正14年)

            5月 - 騎兵監部員

            1927年(昭和2年) - 在米大使館駐在武官補佐官。軍事研究のためハーバード大学に学ぶ

            1930年(昭和5年)

              3月 - 陸軍騎兵少佐

              4月 - 陸軍省軍務局課員

              1931年(昭和6年)

                8月 - 在カナダ公使館付武官

                1933年(昭和8年)

                  8月 - 陸軍騎兵中佐

                  12月 - 陸軍省軍務局馬政課高級課員

                  1936年(昭和11年)

                    8月 - 騎兵第7連隊長

                    1937年(昭和12年)

                    8月 - 陸軍騎兵大佐、陸軍省兵務局馬政課長

                    1938年(昭和13年) - 軍歌『愛馬進軍歌』、映画『征戦愛馬譜 暁に祈る』及びその主題歌の選定に携わる

                    1940年(昭和15年)

                      3月 - 陸軍少将、騎兵第2旅団長

                      12月 - 騎兵第1旅団長

                      1941年(昭和16年)

                        12月 - 第23軍参謀長として香港の戦いに従軍

                        1943年(昭和18年)

                          6月 - 陸軍中将、留守近衛第2師団長

                          1944年(昭和19年)

                            4月 - 東部軍司令部附

                            5月27日 - 第109師団長に親補される

                            7月1日 - 小笠原兵団長兼任

                            1945年(昭和20年)

                              2月16日 - 硫黄島の戦い開戦
                                19日 - アメリカ軍上陸開始

                                23日 - アメリカ軍、摺鉢山を占領

                                3月16日 - 大本営に訣別電報打電

                                  17日 - 戦死と認定される。特旨をもって陸軍大将に親任される

                                  26日 - 日本軍守備隊最後の組織的総攻撃を指揮して戦死したとされる

                                  1945年(昭和20年)3月17日 - 正四位・従三位

                                  1934年(昭和9年)4月29日 - 勲四等旭日小綬章・昭和六年乃至九年事変従軍記章

                                  1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章

                                  1967年(昭和42年)12月23日 - 勲一等旭日大綬章

                                  『栗林忠道 硫黄島からの手紙』文藝春秋、2006年8月、ISBN 4163683704、文春文庫、2009年8月

                                  『「玉砕総指揮官」の絵手紙』吉田津由子編、小学館文庫、2002年4月、ISBN 4094026762

                                  渡辺謙 『硫黄島からの手紙』(2006年公開の映画

                                  家弓家正 『アニメンタリー 決断』 第23話「硫黄島作戦」

                                  ^ 栗林は金鵄勲章を受章していない。半藤一利は「功一級でもおかしくないのにね」と評している。

                                  ^ 栗林忠道の妻である栗林義井は、旧姓も栗林であるが、二人の間に特に血縁関係はない。義井は川中島付近(現・長野市氷鉋)の地主の娘。

                                  ^ 留守師団とは、内地及び朝鮮を衛戍地とする師団が戦地に動員された際に、動員された師団の衛戍地に、陸軍動員計画令によって設置され、留守・補充業務などを行う師団。近衛第2師団はスマトラ島方面に動員されていた。師団長は親補職であるが、留守師団長は親補職ではない。

                                  ^ 1944年(昭和19年)6月に栗林が留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じた後、同年7月には留守近衛第2師団を母体として近衛第3師団が編成されている。

                                  ^ 昭和20年3月17日付で栗林の戦死が認定されたことにより、父島にいた混成第1旅団長の立花芳夫陸軍少将が、3月23日付で陸軍中将に進級し、栗林の後任として第109師団長に補されている。

                                  ^ 小元は栗林の高級副官であったが、アメリカ軍上陸直前にに大本営に出張していたため、硫黄島に帰ることができず戦死を免れた。

                                  ^ 新聞発表では、「悲しき」の部分を「口惜し」と改竄の上、発表された。

                                  ^ 長野中学からのもう一人の同期生は今井武夫陸軍少将である。

                                  ^ 半藤 2013b, 位置No. 3720-4133, 陸軍大将略歴〔昭和期(昭和十六年から二十年までに親任)

                                  ^ 半藤 2013a, 位置No. 85/119, 第一章 大将の誕生-ほとんどが金鵄勲章佩用者

                                  ^ 秦 2005, pp. 370–382, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-III 陸軍-9.部隊/師団-A 師団

                                  ^ “Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年12月24日閲覧。

                                  ^ 小林 2009, p. 110.

                                  ^ 秦 2005, p. 61, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-栗林忠道

                                  ^ 半藤 2013b, 位置No. 2860-3049, 第四章 戦没した将軍たち-栗林忠道 太平洋戦争屈指の名将

                                  ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.355

                                  ^ 秦 2005, pp. 545–611, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業

                                  ^ 梯 2013, 位置No. 407/423, ドキュメント1 栗林忠道 その死の真相-栗林家に保存された一通の手紙

                                  ^ “生い立ち~現在 | 新藤義孝公式ウェブサイト”. www.shindo.gr.jp. 新藤義孝. 2018年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月9日閲覧。

                                  ^ ニューカム 1966, p. 5

                                  ^ 小谷秀二郎 1978, p. 48

                                  ^ 秦 2005, p. 777, 第5部 陸海軍用語の解説-る-留守師団

                                  ^ 秦 2005, p. 744, 第5部 陸海軍用語の解説-し-親補職

                                  ^ “『留守師団長上奏に関する件』 レファレンスコード C01001578700”. アジア歴史資料センター. 2018年8月20日閲覧。

                                  ^ 小谷秀二郎 1978, p. 50

                                  ^ 児島襄 1970, p. 14

                                  ^ 梯久美子 2015, p. 60

                                  ^ 児島襄 1970, p. 17

                                  ^ 児島襄 1970, p. 31.

                                  ^ 梯久美子 2015, p. 59

                                  ^ 児島襄 1974, 電子版, 位置No.1043

                                  ^ 児島襄 1970, p. 59

                                  ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.393

                                  ^ "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"

                                  ^ 下田四郎 2014, p. 59

                                  ^ 佐藤和正 2004, p. 148

                                  ^ 岡村青 2018, p. 129

                                  ^ 佐藤和正 2014, p. 147

                                  ^ 岡村青 2018, p. 130

                                  ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.376

                                  ^ 小谷秀二郎 1978, p. 156

                                  ^ 児島襄 1974, 電子版, 位置No.1050

                                  ^ 戦史叢書・13 1968, p. 361

                                  ^ “Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年11月26日閲覧。

                                  ^ Derrick Wright, The Battle for Iwo Jima, Sutton Publishing, 2006. Page 80.

                                  ^ 児島襄 1970, p. 156

                                  ^ 児島襄 1970, p. 161

                                  ^ 山口 2005, p. 744, 第一節 「陸軍大将」誕生の条件

                                  ^ 秦 2005, p. 749, 第5部 陸海軍用語の解説-た-大将

                                  ^ {注:3語不明}

                                  ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.1740

                                  ^ 児島襄 1970, p. 272

                                  ^ 戦史叢書・13 1968, p. 411

                                  ^ 小谷秀二郎 1978, p. 198

                                  ^ “Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年11月28日閲覧。

                                  ^ “Operation Detachment: The Battle for Iwo Jima February - March 1945”. 2021年11月29日閲覧。

                                  ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.159

                                  ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.444

                                  ^ 伊藤正徳・4 1960, p. 109

                                  ^ “Operation Detachment: The Battle for Iwo Jima February - March 1945”. 2021年11月28日閲覧。

                                  ^ “Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年11月28日閲覧。

                                  ^ 『SAPIO』2006年10月25日号、小学館。

                                  ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.128

                                  ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.211

                                  ^ "明徳寺にある陸軍中将 栗林忠道之墓". 観光スポット. 信州松代観光協会. 2023年8月26日閲覧。

                                  ^ ニューカム 1966, p. 19

                                  ^ “Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年12月17日閲覧。

                                  ^ “Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年11月28日閲覧。

                                  ^ ニミッツ 1962, p. 425

                                  ^ 戦史叢書・13 1968, p. 306

                                  ^ 戦史叢書・13 1968, p. 396

                                  ^ 戦史叢書・13 1968, p. 412

                                  ^ “Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年11月28日閲覧。

                                  ^ ビーヴァー 2015, p. 337

                                  ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.487

                                  ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.603

                                  ^ 児島襄 1970, p. 29

                                  ^ 梯久美子 2015, p. 巻頭写真

                                  ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.442

                                  ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.460

                                  ^ “新藤前総務相:硫黄島戦参加の元米中将と握手 米議場で”. 毎日新聞. 毎日新聞社. (2015年4月30日). オリジナルの2015年5月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150502220120/http://mainichi.jp/select/news/20150430k0000e010140000c.html 2017年2月26日閲覧。 

                                  ^ 『官報』第2602号附録、昭和10年9月3日。

                                  ^ 『官報』・付録 1941年11月14日 辞令二

                                  梯久美子『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』新潮社、2005年。ISBN 4104774014。 

                                    『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』新潮文庫(柳田邦男解説)、2008年。ISBN 410135281X

                                    梯久美子『硫黄島 栗林中将の最期』文藝春秋〈文春文庫〉、2015年。ASIN B01CG69OUW。 文庫再刊で「文人将軍 市丸利之助小伝」を増補

                                      元版『硫黄島 栗林中将の最期』文春新書、2010年

                                      秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。 

                                      半藤一利 他『歴代陸軍大将全覧 明治編』(Amazon Kindle)中央公論新社、2013a。 

                                      半藤一利 他『歴代陸軍大将全覧 昭和編/太平洋戦争期』(Amazon Kindle)中央公論新社、2013b。 

                                      山口宗之『陸軍と海軍-陸海軍将校史の研究』(増補)清文堂、2005年。 

                                      防衛庁防衛研修所戦史室『中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』 第13巻、朝雲新聞社〈CITEREF戦史叢書・131968〉、1968年。 

                                      防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土防空作戦』 第19巻、朝雲新聞社、1968年10月。 

                                      防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<6> 昭和十八年六月まで』 第66巻、朝雲新聞社、1973年6月。 

                                      伊藤正徳『帝国陸軍の最後〈第3〉死闘篇』文藝春秋新社、1960年。ASIN B000JBM31E。 

                                      伊藤正徳『帝国陸軍の最後〈第4〉特攻篇』文藝春秋新社、1960年。ASIN B01A090ICK。 

                                      伊藤正徳『帝国陸軍の最後〈第5〉終末篇』文藝春秋新社、1961年。ASIN B000JBM30U。 

                                      佐藤和正『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』光人社、2004年。ISBN 978-4769822721。 

                                      小谷秀二郎『硫黄島の死闘―恐怖の洞窟戦』産経新聞社、1978年。ASIN B000J8NFIC。 

                                      児島襄『将軍突撃せり―硫黄島戦記』文藝春秋、1970年2月。ASIN B000J9HWMG。 

                                      児島襄『指揮官』文藝春秋、1974年12月。ISBN 978-4167141011。 

                                      小林英夫『ノモンハン事件-機密文書「検閲月報」が明かす虚実』平凡社、2009年。ISBN 4582854834。 

                                      佐藤和正『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』光人社、2004年。ISBN 978-4769822721。 

                                      下田四郎『サイパン戦車戦』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年。ISBN 4769821050。 

                                      岡村青『サクラ サクラ サクラ 玉砕ペリリュー島 生還兵が伝える日本兵の渾身の戦い』光人社〈光人社NF文庫〉、2018年。ISBN 978-4-7698-3071-9。 

                                      山岡荘八『小説 太平洋戦争』 第7巻、講談社文庫、1987年。ISBN 978-4061950986。 新装版(2015年)は第5巻

                                      アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦1939-45(下)』平賀秀明 訳、白水社、2015年。ISBN 978-4560084373。 

                                      C.W.ニミッツ、E.B.ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾÷ 共訳、恒文社、1962年。ASIN B000JAJ39A。 

                                      トーマス・B・ブュエル『提督スプルーアンス』小城正 訳、学習研究社〈WW selection〉、2000年。ISBN 4-05-401144-6。 

                                      リチャード・F.ニューカム『硫黄島』田中至 訳、弘文堂、1966年。ASIN B000JAB852。 原著1965年刊行

                                        R.F.ニューカム 『硫黄島――太平洋戦争死闘記』新装改訂版、田中至訳、光人社文庫、2006年11月、ISBN 4769821131

                                        舩坂弘 『硫黄島――ああ!栗林兵団』 講談社、1968年8月

                                        陸戦史研究普及会編 『陸戦史集15 硫黄島作戦』 原書房、1970年

                                        鳥居民 『昭和二十年 第3巻 小磯内閣の倒壊――3月20日〜4月4日』 草思社、1987年9月、ISBN 4794202865。草思社文庫、2015年

                                        現代タクティクス研究会 『第二次世界大戦将軍ガイド』 新紀元社、1994年8月、ISBN 4883172341

                                        岡田益吉 『日本陸軍英傑伝――将軍暁に死す』 光人社文庫、1994年8月、ISBN 4769820577、初版1972年刊

                                        橋本衛ほか 『硫黄島決戦』新装版、光人社文庫、2015年、ISBN 4769828942

                                        堀江芳孝 『闘魂 硫黄島――小笠原兵団参謀の回想』 光人社文庫、2005年3月、ISBN 4769824491、初版1965年刊

                                        田中恒夫・葛原和三ほか編著 『戦場の名言――指揮官たちの決断』 草思社、2006年6月。草思社文庫、2019年

                                        留守晴夫 『常に諸子の先頭に在り――陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』 慧文社、2006年7月、ISBN 4905849489

                                        柘植久慶 『栗林忠道――硫黄島の死闘を指揮した名将』 PHP文庫、2006年12月、ISBN 4569667430

                                        川相昌一 『硫黄島戦記――玉砕の島から生還した一兵士の回想』 光人社、2007年1月、ISBN 4769813287。光人社文庫、2012年11月

                                        小室直樹 『硫黄島 栗林忠道大将の教訓』 ワック、2007年1月、ISBN 4898311024

                                          『野辺には朽ちじ 硫黄島栗林中将の戦い』 ワック・新書判、2023年12月、ISBN 4898318916

                                          別冊宝島編集部 『栗林忠道 硫黄島の戦い』 宝島社、2006年11月。宝島社文庫、2007年8月

                                          今井貞夫、高橋久志監修 『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』 中央公論事業出版、2007年11月、ISBN 9784895142946

                                          西竹一

                                          市丸利之助

                                          大須賀応

                                          小畑英良

                                          FAST

                                          ISNI

                                          VIAF

                                          WorldCat

                                          フランス

                                          BnF data

                                          ドイツ

                                          イスラエル

                                          アメリカ

                                          日本

                                          チェコ

                                          CiNii Books

                                          CiNii Research

                                          IdRef

                                          栗林忠道

                                          大日本帝国陸軍大将

                                          20世紀の軍人

                                          太平洋戦争で戦死した人物

                                          硫黄島の戦い

                                          勲一等旭日大綬章受章者

                                          勲四等旭日小綬章受章者

                                          陸軍大学校出身の人物

                                          陸軍士官学校 (日本)出身の人物

                                          長野県長野高等学校出身の人物

                                          長野県出身の人物

                                          1891年生

                                          1945年没

2024/11/11 15:41更新

kuribayashi tadamichi


栗林忠道と同じ誕生日7月7日生まれ、同じ長野出身の人

滝沢 沙織(たきざわ さおり)
1981年7月7日生まれの有名人 長野出身

滝沢 沙織(たきざわ さおり、1981年7月7日 - )は、日本の女優。長野県中野市生まれ、松本市育ち。武蔵工業大学付属信州工業高等学校(現・東京都市大学塩尻高等学校)卒業。 所属事務所はアデッソ …

片岡鶴八(かたおか つるはち)
1917年7月7日生まれの有名人 長野出身

片岡 鶴八(かたおか つるはち、1917年7月7日 - 1988年7月13日)は、日本の声帯模写芸人。 音楽家の片岡慎介は実息。 実家はハンコ職人。素人時代にNHKのど自慢、ラジオ東京の「しろうと…

なかし(なかし)
1993年7月7日生まれの有名人 長野出身

なかし(1993年7月7日 - )は、日本の女性タレント、お笑いコンビ「スペードの3」の元メンバー。太田プロダクション名古屋事務所所属。 長野県木曽郡南木曽町出身。 南木曽町立読書小学校(現南木曽小…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


栗林忠道と近い名前の人

栗林 三枝(くりばやし みえ)
1981年10月21日生まれの有名人 大阪出身

栗林 三枝(くりばやし みえ、1981年10月21日 - )は、日本の元アイドル、元歌手。 1996年3月20日に東京厚生年金会館でゲーム制作会社であるコナミが開催した、『ときめきメモリアル』のイメ…

栗林 慧(くりばやし さとし)
1939年5月2日生まれの有名人 旧 満州出身

栗林 慧(くりばやし さとし、1939年5月2日 - )は日本の写真家、映像作家。 満洲国奉天市(現在の中華人民共和国瀋陽)生まれ、長崎県北松浦郡田平町(現:平戸市)出身。東京綜合写真専門学校中退。…


栗林 みな実(くりばやし みなみ)
1976年6月11日生まれの有名人 静岡出身

栗林 みな実(くりばやし みなみ、1976年6月11日 - )は、日本の女性シンガーソングライター、声優。 静岡県静岡市葵区出身。所属レーベルはランティス。血液型はAB型。旧名義はMinami(みな…

栗林 さみ(くりばやし さみ)
1987年1月4日生まれの有名人 新潟出身

ホリプロオフィシャルサイト 栗林 さみ(くりばやし さみ、1987年(昭和62年)1月4日 - )は、フリーアナウンサー、元テレビ新潟放送網アナウンサーである。本名は栗林 紗美(読み同じ)。身長16…

栗林 紗美(くりばやし さみ)
1987年1月4日生まれの有名人 新潟出身

ホリプロオフィシャルサイト 栗林 さみ(くりばやし さみ、1987年(昭和62年)1月4日 - )は、フリーアナウンサー、元テレビ新潟放送網アナウンサーである。本名は栗林 紗美(読み同じ)。身長16…

栗林 知美(くりばやし ともみ)
1972年1月11日生まれの有名人 東京出身

栗林 知美(くりばやし ともみ、本名:松尾 知美(旧姓:栗林)1972年1月11日 - )は、日本の元女優。東京都出身、新潟県新潟市育ち。主にセクシー系の映画やオリジナルビデオに出演。身長161cm、…

栗林 綾子(くりばやし あやこ)
1968年1月29日生まれの有名人 東京出身

1月29日生まれwiki情報なし(2024/11/17 22:02時点)


栗林 誠一郎(くりばやし せいいちろう)
1965年2月11日生まれの有名人 東京出身

栗林 誠一郎(くりばやし せいいちろう、1965年2月11日 - )は、日本の作曲家、シンガーソングライター、ベーシスト、ギタリスト、キーボーディスト。東京都出身。血液型はA型。 高校中退後、ロサン…

栗林 栗子(くりばやし くりこ)
1972年6月24日生まれの有名人 石川出身

6月24日生まれwiki情報なし(2024/11/19 21:37時点)

栗林 義信(くりばやし よしのぶ)
1933年8月15日生まれの有名人 佐賀出身

栗林 義信(くりばやし よしのぶ、1933年8月15日 - )は、クラシック音楽の声楽家(バリトン)。日本藝術院会員。公益社団法人日本演奏連盟常任理事、特定非営利活動法人世界芸術文化振興協会副会長。二…

栗林 みえ(くりばやし みえ)
1981年10月21日生まれの有名人 大阪出身

栗林 三枝(くりばやし みえ、1981年10月21日 - )は、日本の元アイドル、元歌手。 1996年3月20日に東京厚生年金会館でゲーム制作会社であるコナミが開催した、『ときめきメモリアル』のイメ…

栗林 里奈(くりばやし りな)
1993年6月13日生まれの有名人 山梨出身

栗林 里奈(くりばやし りな、1993年6月13日 - )は、日本の女性ファッションモデル、女優である。 現在、ファッション雑誌『Hana*chu→』(主婦の友社)の専属モデルとして活動中(20…


栗林 良吏(くりばやし りょうじ)
1996年7月9日生まれの有名人 愛知出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 栗林 良吏(くりばやし りょうじ、1996年7月9日 - )は、愛知県海部郡佐織町(現:愛西市)出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
栗林忠道
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

Especia asfi ALLOVER アイドルカレッジ 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「栗林忠道」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました