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永田鉄山の情報 (ながたてつざん)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

永田鉄山の情報(ながたてつざん) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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永田 鉄山さんについて調べます

■名前・氏名
永田 鉄山
(読み:ながた てつざん)
■職業
軍人
■永田鉄山の誕生日・生年月日
1884年1月14日 (年齢51歳没)
申年(さる年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
長野出身

永田鉄山と同じ1884年生まれの有名人・芸能人

永田鉄山と同じ1月14日生まれの有名人・芸能人

永田鉄山と同じ出身地長野県生まれの有名人・芸能人


永田鉄山と関係のある人

武藤章: 1935年(昭和10年)8月12日、上司で軍務局長の永田鉄山が殺害される(相沢事件)。


真崎甚三郎: 陸相となった林は軍務局長の要職に統制派の永田鉄山少将を起用した。


林銑十郎: 閑院宮総長、軍事参議官渡辺錠太郎大将(8期)の後押しをうけたものであり、当時、大英断と概ね好評であったが、この更迭劇が怪文書「粛軍ニ関スル意見書」を配布した村中孝次歩兵大尉(36期)、磯辺浅一一等主計(38期)の免官処分(8月2日)、林の頭脳ともいうべき軍務局長永田鉄山少将が白昼、局長室内で斬殺された相沢事件(8月12日)、さらには翌年の二・二六事件につながっていくことになる。


床次竹二郎: 荒木貞夫陸相は、政治不介入を理由に非公開にしようとしたが、岡田内閣倒閣を狙う永田鉄山、田中清、片倉衷らによって、「皇国同志会」を名乗った怪文書として張からの献金が流布された。


東條英機: 永田鉄山死後、統制派の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任(東條内閣、在任期間は1941年〈昭和16年〉10月18日 - 1944年〈昭和19年〉7月18日)。


武藤章: 1933年(昭和8年)3月、第二部長永田鉄山より中支・南支方面の視察を命じられる。


武藤章: 武藤は反乱した青年将校の思想を否定していたこと、永田鉄山(統制派)の部下であったことなどから、二次的抹殺者名簿に挙げられていたという。


早坂隆: 松井石根、永田鉄山、中川州男といった陸軍軍人の評伝に定評がある。


板垣征四郎: 陸軍士官学校は第16期で岡村寧次や土肥原賢二、永田鉄山、小畑敏四郎らと同期で交友も深く、板垣も二葉会、一夕会に所属していた。


鈴木貞一: 1929年(昭和4年)5月19日、永田鉄山・東條英機・板垣征四郎・石原莞爾ら陸軍中堅将校が結成していた二葉会と木曜会が合流して結成された一夕会のメンバーにもなった。


小磯国昭: その後は皇道派と永田鉄山や東條英機ら統制派の確執が続くが、1936年(昭和11年)に二・二六事件が発生、翌年までの粛軍人事で皇道派は壊滅した。


川田稔: 近代日本の政治外交史、政治思想史を専門とし、原敬・濱口雄幸・山縣有朋など主に大正期の政治家・政党政治家や永田鉄山をはじめとする昭和陸軍を中心に研究を行っている。


真崎甚三郎: この文書を読んだ皇道派の相沢三郎陸軍中佐は、1934年に起きた陸軍士官学校事件の影響も受け、同年8月に永田鉄山を殺害した(相沢事件)。


渡辺錠太郎: 永田鉄山軍務局長を黒幕であると見ていた真崎は、永田が三月事件の際に執筆したクーデター計画書を持ち出した。


辻政信: 村中と磯部はこの事件が軍務局長・永田鉄山と辻らによるでっちあげであると主張し、辻、片倉、塚本を誣告罪で告訴した。


岡村寧次: 1921年(大正10年)の欧米出張の際には10月にスイス公使館付武官永田鉄山・ロシア公使館付武官の小畑敏四郎とドイツのバーデン・バーデンで合い、翌日には東條英機が合流した。


今村均: 9月、満州事変が勃発し、今村は独断で軍を動かす関東軍と、朝鮮軍師団の越境に対して、統帥の紊乱や国民の支持、また世界の世論の反応から反対論を軍事課長の永田鉄山とともに展開する。


林銑十郎: ベルリンでは、真崎甚三郎歩兵少佐(9期)や永田鉄山歩兵大尉(16期首席)とも親交をもった。


相沢三郎: 皇道派将校として真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し、統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した相沢事件の犯人。


上法快男: 「秘録・永田鉄山


梅津美治郎: しかし真崎の腹心で対ソ戦略の権威である小畑敏四郎第三部長と、陸軍きっての逸材とされる永田鉄山第二部長の間に深刻な対立が発生、対ソ準備への専心を説く小畑に対し永田は対支那一撃論を主張した。


犬養毅: 陸軍統制派の中心人物であった永田鉄山は、五・一五事件で銃口を向けられながらも話せばわかると説いた犬養の態度を古今の名将にもまさるゆかしさを感じると称賛し、犬養を射殺した犯人たちを批判しながら、不穏な動きを見せていた一部の軍人の行動を言語道断と評した。


岡村寧次: 同期には岡村を含めて三羽烏と呼ばれた永田鉄山中将・小畑敏四郎中将の他、土肥原賢二大将・板垣征四郎大将・安藤利吉大将がいる。


石坂泰三: 先輩には永田鉄山、歌人の川田順らがいた。


西園寺公望: 陸軍は政党内閣の成立に猛反発しており、政党内閣には陸軍大臣を出さないと参謀本部第二部長永田鉄山少将が言明するなど、内閣が成立すらできかねない状況であった。


藤原咲平: 高島尋常小学校・諏訪高等小学校では陸軍中将の永田鉄山と同級であり、また同じく諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄らとは生涯にわたって交友があったとされる。


相沢三郎: 翌12日朝に円タクで陸軍省に入り、山岡重厚整備局長に異動の挨拶をおこなったその足で永田鉄山軍務局長を訪れ、斬撃と刺突を加えて殺害した。


東條英機: 陸軍少壮グループによって形成されていた木曜会は24期の石原莞爾、鈴木貞一、根本博や東條のボスであった永田鉄山、岡村寧次などが揃い、すでに世界恐慌の前に満蒙領有の方針が出されていたのであり、後に二葉会と合流し、武藤章、田中新一らも加わり一夕会が結成されている。


荒木貞夫: 満州事変真っ只中の同年12月に荒木は教育総監部本部長から、荒木の盛り立てを目的とする一夕会の永田鉄山や鈴木貞一らの働きかけで犬養内閣の陸相に就任した。


林銑十郎: また、林陸軍大臣は政策最高職員である陸軍省軍務局長に永田鉄山少将を登用したことで、統制派対皇道派の抗争が激化する因を作った。派閥抗争が激しい陸軍内部において、明確な権力基盤を持たない林は佐賀閥(九州閥)の真崎と盟友であったことで出世街道を歩んできたが、このころには真崎との仲に亀裂が生じており、真崎と距離を取るためには、閑院宮載仁親王(及び親王と同じ騎兵出身の南次郎系勢力)や中堅幕僚から圧倒的支持を集める永田鉄山ら統制派勢力の力を借りる必要があった。


永田鉄山の情報まとめ

もしもしロボ

永田 鉄山(ながた てつざん)さんの誕生日は1884年1月14日です。長野出身の軍人のようです。

もしもしロボ

評価、逸話などについてまとめました。卒業、事件に関する情報もありますね。51歳で亡くなられているようです。

永田鉄山のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

永田 鉄山(ながた てつざん、1884年〈明治17年〉1月14日 - 1935年〈昭和10年〉8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。

陸軍中央幼年学校次席卒業、陸軍士官学校首席卒業、陸軍大学校次席卒業を経て参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。

軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だった。陸軍刷新(長州閥支配打破など)を進めた。

陸軍省軍務局長(階級は陸軍少将)時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に執務室で殺害された(相沢事件)。

長野県諏訪郡上諏訪町本町(現・諏訪市)出身。郡立高島病院長の永田志解理の四男として生まれた。永田家は代々高島藩の藩医を務めてきた家で、鉄山は裕福な家庭で育った。諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄とは生涯にわたって交友があった。

1890年(明治23年)に高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現・諏訪市立高島小学校)入学。「お天気博士」の愛称で知られる中央気象台長の藤原咲平と同級だった。

永田が11歳であった1895年(明治28年)8月26日に父の志解理が死去した。同年10月に東京市牛込区愛日尋常高等小学校に転校。1898年(明治31年)9月に東京陸軍地方幼年学校に入校した。

1903年(明治36年)5月に士官候補生となり兵科は歩兵に指定され、歩兵第3連隊附となる。

1904年(明治37年)10月24日に陸軍士官学校(16期)を首席卒業し、同年11月1日に陸軍歩兵少尉に任官。陸士同期の岡村寧次、小畑敏四郎共に陸士第十六期三羽烏の一人と評されることになった。

1908年(明治41年)に陸軍大学校(23期)入校。

1910年(明治43年)11月に陸大23期を2位/52名(首席は梅津美治郎〈のちに陸軍大将〉)で卒業し、恩賜の軍刀を授与される。陸大23期の同期には、梅津、蓮沼蕃、前田利為、猪狩亮介、入江仁六郎、小川恒三郎、小畑敏四郎らがいる。

その後、1920年(大正9年)に駐スイス公使館付駐在武官となった。1921年(大正10年)に永田とロシア公使館付武官(ドイツにおいて待機)の小畑敏四郎少佐と欧州出張中の岡村寧次少佐の陸士16期の三者は、同年10月27日にドイツのバーデン・バーデンで会合をおこない、翌日にはここに東條英機も合流した。会合においては、陸軍における長州閥支配(山縣有朋など)の打破、人事刷新、軍制改革、総動員体制の構築を目指すことが合意された。極東国際軍事裁判では検察側が軍部独裁に繋がる端緒であるとして取り上げている。

岡村は、「大正十年十月二十七日、ドイツのバーデンバーデンにおいて、永田鉄山、小畑敏四郎と私の三人が、陸軍革新の血盟を結んだという一件は正に事実である。まだ血の気の多かった私共は、欧州の軍事現状を視察し、母国を顧みて、陸軍が国民と離れているのを嘆き、陸軍を「国民と共に」の方向に転進させなければならないと痛感したのであった。」と述べている。当時の陸軍は山梨半造陸相、上原勇作参謀総長以下薩長閥が支配していた。永田(信濃)、岡村(幕臣)、小畑(土佐)は何れも陸士、陸大の優等生であるが藩閥に属しておらず、従来の薩長閥中心の人事では出世は望めなかった。このような現状を打破すること、さらに第一次世界大戦の欧州における総力戦体制の構築を日本においても行うことを目的としていた。これに賛同する中堅将校の勉強会として一夕会が結成された。

かねてからの「国家総動員に関する意見」などが認められて1926年(大正15年)に国家総動員機関設置準備委員会幹事となり、内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に導き、初代動員課長となる。

1928年(昭和3年)には動員課長を辞任し、後任は東条英機となった。

麻布の歩兵第3連隊長を務めた後、1930年(昭和5年)に南次郎陸軍大臣の下で陸軍省軍事課長となる。

1932年(昭和7年)に陸軍少将に昇進。

1933年(昭和8年)6月、陸軍全幕僚会議が開催され、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対し、「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」と言った。これに対し荒木貞夫陸軍大臣は「支那を叩くといってもこれは決して武力で片づくものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。

対支戦争を考えていた永田は、対ソ戦準備論の小畑敏四郎と激しく対立し、これが皇道派と統制派の争いであった。

1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長となった。

同年8月、国府津に池田純久、田中清、その他数名の腹心を集めて会議を開き、永田が従来指導していた経済国策研究会を通じ、昭和神聖会に働きかけ、上奏請願に導き、国家改造に伴って戒厳令を布き、皇族内閣を組織するという計画を練った。

エーリヒ・ルーデンドルフの政治支配と総力戦計画に心酔し、同年10月、陸軍の主張を政治・経済の分野に浸透させ、完全な国防国家の建設を提唱する『国防の本義と其強化の提唱』という陸軍パンフレットを出版した。

社会民衆党の亀井貫一郎は、「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛文麿擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方は反対クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつ」と語った。

すなわち永田、東条英機、富永恭次、武藤章、下山琢磨ら陸大閥(一夕会)の一部が、亀井、麻生久らを通じて近衛を担いで革新内閣を実現し、革新官僚と連絡をとって革新政策を実現しようとし、反対クーデターも手段として計画され、統制派の反対クーデターは『政治的非常事変勃発ニ処スル対策要綱』という具体案にまでなっていた。またそのために軍内反対派の皇道派を追放し、部内秩序を乱す青年将校を弾圧しようとした。

永田らは機密費を使って、真崎甚三郎悪玉説を流布し、岡田啓介総理大臣は真崎を軍から追放することを内閣の最高方針としたという。

1934年(昭和9年)11月に陸軍士官学校事件が起こる。村中孝次大尉、磯部浅一一等主計をはじめ青年将校らは、「これは、我々を陥れる辻政信大尉と片倉衷少佐による陰謀であり、永田が暗躍しており、真崎教育総監の失脚を目論む統制派の陰謀である」と主張した。

青年将校らの政治策動を封じるために、少なくとも真崎大将の教育総監は退いてもらわねばならないという議論が、武藤章中佐や池田純久中佐といった統制派を中心に起こり、「多少の波乱があっても、それを覚悟しても断行せねばなるまい。波乱といっても大したこともあるまい」という結論に達した。

そこで永田軍務局長は陸軍大臣の林銑十郎大将に真崎大将転補のことを相談すると、林陸軍大臣は真崎大将の転補を断行することを決意した。

1935年(昭和10年)7月15日の異動において真崎教育総監が更迭された事が、あたかも永田の暗躍ないし陰謀によるもので、統帥権の干犯であるかのように皇道派に喧伝された。

それを真に受けた歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐は、同年7月19日に有末精三中佐の紹介により永田に面会し辞職を迫った。

同年8月12日、その相沢に陸軍省の軍務局長室にて軍刀で殺害された。51歳没。

死亡時は陸軍少将であったが、後に陸軍中将に昇進。没後追贈で正四位勲一等に叙され瑞宝章を授与。墓所は東京都港区青山霊園附属立山墓地。

永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは後に二・二六事件を起こすに至る。

その後、永田が筆頭であった統制派は、東條英機が継承した。やがて日中戦争・太平洋戦争(大東亜戦争)を主導するに至る。しかし石原莞爾らとは東條は対立し、石原は大戦でその采配を全く振ること無く予備役とされた。

企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とも追想していた。

評価

統制派の頭領と目されていたこともあり、特に満洲事変以降の永田については、全く相異なる見解が存在している。

「統制派」の立場から見れば「濡れ衣で殺された犠牲者」、「皇道派」の立場から見れば「日本を戦争に追いやった昭和軍閥の元凶」といった具合に評価が分かれるのだが、近年では、永田の大陸政策や軍備政策など「戦争への道を食い止めようとした軍人」とする研究もある。

永田は1920年代中頃において、政党政治と共存していけるような陸軍組織改革を目指しており、満洲事変前から一貫して現地軍の統制に努力、永田の死が後の支那事変に至る一つのターニングポイントになった。また、青年時代より「陸軍を独走(暴走)させない」という信念と、「日本国民一人ひとりが日本の国防の責任を担うという自覚を持つ」(国防意識を高め、国民の理解を得る)という理想を持ち続けており、従来の単なる合理主義を重んじた有能な陸軍軍人という評価に留まらない、政治信念と理想に命をかけた軍人であるとも評されている。

他方、石原莞爾らが関東軍を使い起こした満洲事変を、永田を含めた一夕会は支持していた。永田が、関東軍の暴走を結果的に支持していたのは事実である。

だが、永田が満洲事変に賛同していたとするには疑問が残る。

事変の3か月前、永田は軍事課長として五課長会の幹事役を務め「満蒙問題解決方策の大綱」を作成・提出している。大綱では主に「関東軍の自制・国際世論を味方につける事」等が掲げられており、当面の紛争を回避する方針だった。

また事変時、板垣が「独立国家建設」(満洲国)案を提出した際、永田は外務省・海軍省と連携し「地方政権樹立」という対案を示し、性急な国家建設を行わない方針を荒木陸相に承諾させている。

また、永田は溥儀擁立にも反対しており、関東軍の板垣とは真っ向から対立していた事が分かる。

尤も、満洲国が建国されて以後は、永田がこれまで行ってきた「現地軍の抑制・独立国家建設阻止」等の努力も甲斐なく、腹をくくって満洲事変の現状を追認せざるを得なかった。世論が満洲国承認で一致し、建国によって満洲事変もこれ以上拡大しないだろうという観測もあり、永田は「満洲国育成」に舵を切る事となる。それでも永田は溥儀擁立については反対の立場であった。

永田は満州事変の前に関東軍に四五式二十四糎榴弾砲を送っており、石原大佐はこの砲を満洲事変の功労重砲と述べている。が、そもそもこの砲は永田が満洲を視察した際に関東軍の軍備が貧弱であったため、軍備を増強する目的で送ったものであり、満州事変用のために送ったものではない。

暗殺の直前1935年(昭和10年)8月4日、中国の非戦闘区内で日本人守備隊が攻撃され負傷する欒州事件が発生する。日中関係に緊張が走る中、永田は迅速に対応する。同月6日、関東軍に対しては軍中央との密接な連絡を指示して牽制する一方、事後処理を天津軍(支那駐屯軍)に当たらせる。更に、陸軍省は外務省と協議の上「対北支政策」を策定、「非戦闘区域から武力衝突の不安を取り除く」方針を発表する。その内容は「華北の各政権との親善」「華北地域との経済協力の推進」等を実践としてうたう。これらの対応により、永田は後の盧溝橋事件のような事件拡大を阻止し、又、関東軍独走への対処方法の道筋も付ける。この時、永田は対支那一撃論を主張した。

逸話

ある日、陸軍大学校時代の教え子が永田局長を訪ねた時、永田は五・一五事件について教え子に尋ね、その教え子が犯人達を非難すると、永田も同意し、話せば分かると犯人に説いた犬養毅首相を古今の名将にもまさる床しさを感じると称賛し、十月事件以降の軍内の一部の不穏な動きを言語道断であると話していたが、その後まもなく、永田も犬養と同じ運命を辿ることとなった。

陸軍大学校の試験の間際、優秀な永田は一人で悠々と科目外の中国語をやっており、それを見た同期の小畑が、「俺たちが惨めすぎるから、せめて勉強のマネでもしてくれないか」と永田に懇願したという。

2024/06/16 08:07更新

nagata tetsuzan


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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「永田鉄山」を素材として二次利用しています。

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