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犬養毅の情報 (いぬかいつよし)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

犬養毅の情報(いぬかいつよし) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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犬養 毅さんについて調べます

■名前・氏名
犬養 毅
(読み:いぬかい つよし)
■職業
政治家
■犬養毅の誕生日・生年月日
1855年6月4日 (年齢1940年没)
卯年(うさぎ年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
岡山出身

犬養毅と同じ1855年生まれの有名人・芸能人

犬養毅と同じ6月4日生まれの有名人・芸能人

犬養毅と同じ出身地岡山県生まれの有名人・芸能人


犬養毅と関係のある人

犬養道子: 父・健は犬養毅の嗣子で親子2代の政治家であり、母方の曾祖父が長与専斎と後藤象二郎である。


中江利忠: しかし日本のビッグ・リンカーといわれる元国際文化会館理事長・同盟通信社常務理事松本重治の又従兄弟に当たることから元首相松方正義公爵一族に連なり(一族に元共同通信社専務理事松方三郎がいる)、朝日新聞社の上野社主家とも親戚で、元首相吉田茂の側近で終戦連絡中央事務局次長、東北電力会長などを歴任した白洲次郎や白洲の岳父樺山愛輔伯爵(元国際通信社社長)、元同盟通信社社長岩永裕吉(息子の岩永信吉は元共同通信社常務理事)、元東京帝国大学総長長與又郎男爵(息子の長與道夫は元共同通信社常務理事)、元首相犬養毅(孫の犬養康彦は元共同通信社社長)、元外相芳沢謙吉、元朝日新聞社副社長(第4次・第5次吉田内閣副総理・自由党総裁・自由民主党総裁代行委員)緒方竹虎らとも遠縁に当たる「華麗なる一族」ぶりなどから、本社採用同様の扱いを受け、「朝日のプリンス」として早くから社長候補に擬せられた。


犬養道子: 首相を務めた犬養毅の孫にあたる。


相馬半治: ところが1931年(昭和6年)に犬養毅内閣が誕生して政権が政友会へと移ったため、民政党への格好の攻撃材料としてこの事件は徹底的に調べられた。


安達謙蔵: 西園寺は協力内閣構想が不発に終わったことを知ると、次期首班には迷わず政友会の犬養毅総裁を奏薦、犬養内閣の成立となった。


大隈重信: 大隈は新党において中心的存在とされたものの進歩党には党首職はなく、8か月たってから設置された5人の総務委員のうち大隈派と呼べるのは尾崎行雄と犬養毅にとどまり、内訌を抱えたままの存在であった。


樺山資紀: 第2次松方内閣時に、大東義徹、犬養毅、尾崎行雄らが、宮内省の腐敗などを批判した雑誌『26世紀』の発行を停止させないように樺山に念押しをしに行った際、樺山は自分の首を叩きながら「これが飛んでも、発行停止などはしない、一度諸君に約束をした以上は、断じてそんなことはない」と言ったが、結局、政府は同誌を発行禁止にした(26世紀事件)。


坂口安吾: 新潟米穀株式会社取引所理事長、新潟新聞社(現・新潟日報社)社長なども務め、衆議院議員の政治家としては、大隈重信の下で憲政擁護に尽力し、若槻禮次郎、加藤高明、犬養毅、尾崎行雄(咢堂)らと政友であった。


栗本鋤雲: 郵便報知新聞時代の部下には原敬や犬養毅がいる。


倉成正: 犬養毅


安藤サクラ: 母方の祖父は犬養健、曾祖父は犬養毅、再従姉は緒方貞子がいる。


緒方竹虎: 中野正剛に誘われ、申酉事件を支持して東京高商退学生受け入れを表明していた早稲田大学専門部の政治経済科に編入し、政治結社玄洋社の最高実力者・頭山満、さらに頭山を介して三浦梧楼、犬養毅、古島一雄らの門に出入りした。


尾崎行雄: 昭和7年(1932年)に5・15事件で犬養毅が暗殺されると政党内閣は終焉した。


近衛篤麿: 明治31年(1898年)1月に雑誌『太陽』第4巻第1号に載せた論文「同人種同盟附支那問題の研究の必要」で「最後の運命は黄色人種と白色人種の競争にして此競争の下には支那人も日本人も共に白色人種の仇敵として認められる位地に立たむ」と日本と中国は同文同種と主張して同年に同文会を設立したが、同文会は、アジア主義の祖たる興亜会やアジア主義の巨頭犬養毅の東亜会、さらに東邦協会と善隣協会の一部などを吸収して東亜同文会となり篤麿は同会の会長に就任する。


鈴木喜三郎: 犬養毅暗殺後の立憲政友会第7代総裁(在任、昭和7 - 昭和12、1932年 - 1937年)を務めた。


犬養健: 1896年 - 東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に犬養毅の三男として生まれる。


緒方貞子: 曽祖父は五・一五事件で首相在職中に暗殺された犬養毅、祖父は外交官で犬養内閣の外相を務めた芳澤謙吉。


頭山満: 明治45年(1912年)犬養毅と辛亥革命後の中国へ渡る


河野広中: 明治42年(1909年)には、アジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加。


大隈重信: 大隈の側近となった矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅は慶應義塾出身であった。


安達謙蔵: 安達は政友会の久原房之助の合意をとりつけ、協力内閣運動の声明を発表したりして、政友会総裁の犬養毅を首班とする連立内閣の成立に向けて動いた。


前田光世: 渡米にあたって前田は後に首相になった衆議院議員犬養毅から日本刀「長船」を贈られた。


戸田城聖: その後、一時期は教職を退き職を転々とする傍ら、院外団に身を投じ、犬養毅の側近であった立憲政友会所属の衆議院議員古島一雄の知遇を得る。


財部彪: しかし海軍軍令部はこれに著しく不満で、犬養毅や鳩山一郎らが率いる政友会と協力し、同会議における浜口内閣の行為は統帥権干犯にあたると攻撃した(統帥権干犯問題)。


望月圭介: 望月は党内分裂を避けるため彼らより政治家として格上であり当時引退していた犬養毅を推した。


千波丈太郎: 巨人 大隈重信(1963年、大映) - 犬養毅


岡田忠彦: 岡田と同時に政友会に入党した犬養毅直系の政治家となった。


床次竹二郎: 昭和7年(1932年)犬養毅首相が五・一五事件で暗殺されると、既に党の主導権を握っていた鈴木喜三郎派への反感が床次支持へ集まり、党内抗争が激化した。


末次信正: 軍令部の反対にも関わらず政府が条約を結んだこと、また、軍令部長である加藤の上奏の順序が政府の上奏の後回しになったことなどが統帥権干犯であるとして、政府攻撃を行ったのが犬養毅・鳩山一郎らの政党政治家であり、後に墓穴を掘ったと評されることとなる。


芳沢謙吉: 犬養毅の娘婿。


犬養毅の情報まとめ

もしもしロボ

犬養 毅(いぬかい つよし)さんの誕生日は1855年6月4日です。岡山出身の政治家のようです。

もしもしロボ

犬養の死後、人物・挿話などについてまとめました。事件、卒業、引退、脱退に関する情報もありますね。1940年に亡くなられているようです。

犬養毅のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

犬養 毅(いぬかい つよし、旧字体:犬養󠄁 毅、1855年6月4日〈安政2年4月20日〉- 1932年〈昭和7年〉5月15日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂、子遠。

中国進歩党代表者、立憲国民党総理、革新倶楽部代表者、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。五・一五事件で暗殺される。

安政2年4月20日(1855年6月4日)、備中国賀陽郡川入村(庭瀬村、庭瀬町、吉備町を経て現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男として生まれる(のちに犬養と改姓)。父は水荘と称した備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士である。元々、犬飼家は庭瀬藩から名字帯刀を許される家格であったという。

毅が13歳のときに父が死去。生家は現存しており、隣接して犬養木堂記念館が設けられている。

同藩の経世学者楠之蔚の下で漢籍を修めた後、1876年(明治9年)に上京して慶應義塾に入学。一時、共慣義塾(渡辺洪基と浜尾新主宰の塾)に通い、また漢学塾・二松學舍では三島中洲に漢学を学んだ。慶應義塾在学中の1877年3月に、『郵便報知新聞』(のちの『報知新聞』)の記者として西南戦争に従軍し、「戦地直報」の記事が話題を呼んだ(抜刀隊が「戊辰の仇!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。1880年(明治13年)、藤田茂吉とともに、慶應義塾卒業前に栗本鋤雲(郵便報知新聞社主筆)に誘われて記者となる。

明治10年代初めごろに豊川良平と東海社を興し、『東海経済新報』の中心として保護主義経済(保護貿易)を表明している(田口卯吉らの『東京経済雑誌』は自由主義を表明しており、論戦となった)。統計院権少書記官を経て、1882年(明治15年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。また大隈のブレーンとして、東京専門学校の第1回議員にも選出されている。『日本及日本人』などで軍閥・財閥批判を展開した。

1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を打ち立てる。

のちに中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)が、進歩党・憲政本党の結成に参加、1898年(明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。

1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相・桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸を舐めながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後、革新倶楽部となる)。

犬養は政治以外にも、神戸中華同文学校や横浜山手中華学校の名誉校長を務めるなどしていた。このころ、東亜同文会に所属した犬養は真の盟友である右翼の巨頭頭山満とともに世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジー、ネルー、タゴール、孫文らと並び称される存在であった。

1907年(明治40年)から頭山満とともに中国漫遊の途に就く。1911年(明治44年)に孫文らの辛亥革命援助のため中国に渡り、亡命中の孫文を荒尾にあった宮崎滔天の生家に匿う。書や漢詩にも秀でており、書道家としても優れた作品を残している。漢詩人の井土霊山は『木堂雑誌』に掲載された記事で犬養の手紙を「先づ上手」と賞している。

犬養は第2次山本内閣で逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても逓信相を務めた。しかし高齢で小政党を率いることに限界を感じた犬養は、革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、逓信大臣や議員も辞めて引退した。しかし辞職に伴う補選に岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させた。再選された犬養は渋々承諾したものの、八ヶ岳の麓富士見高原の隠居所とするべく建てた山荘に引きこもっていた。

さらに1929年(昭和4年)9月に政友会総裁の田中義一が没した。後継をどの派閥から出しても党分裂の懸念があったことから、犬養を担ぎ出すことになった。

1931年(昭和6年)、濱口内閣が進めるロンドン海軍軍縮条約に反対して鳩山一郎とともに「統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。犬養のこの行動は、統帥権が政治的手段になる事を軍部に教えた形となり、日本の民主主義と政党政治が衰退する要因となった。当時の『東京朝日新聞』は、統帥権を政治利用した犬養らを非難しており「醜態さらした政友会は正道に還れ」という記事を書いている。なお、このときに犬養とともに統帥権問題を起こした鳩山一郎は、軍部を台頭させた人物として太平洋戦争後、GHQにより公職追放された。

民政党内閣は井上蔵相の金解禁により大恐慌を引き起こしており、同年に勃発した満洲事変をめぐって第2次若槻内閣は閣内不統一に陥り、総辞職した。元老・西園寺公望は後継に犬養を推薦した。内閣誕生直後の総選挙で、政友会は議席を大きく伸ばした。国民の期待を受け、犬養は高橋是清を蔵相に起用、高橋は金輸出再禁止や史上初の日銀の国際直接引き受けに踏み切り、デフレ脱却に成功し世界最速で大恐慌から脱出した。満洲問題でも、満洲に傀儡政権設立を求める軍部に対し、犬養は中国の宗主権を認めた上で、経済的には日中合弁の政権設立を主張した。犬養は萱野長知を上海に送り、国民政府と交渉させた。しかし、萱野からの電報は内閣書記官長であった森恪が握り潰し、交渉は行き詰まった。犬養の構想は頓挫することとなった。

犬養は、軍部主導の満洲国の承認には消極的であったが、その一方で公債による膨大な軍事費を支出していた。この軍備拡張が、満洲事変など関東軍の大陸作戦に貢献したことから、陸軍との関係はそれほど悪くなかった。

1930年、先の選挙に大敗北した犬養を総裁とする立憲政友会は、ロンドン軍縮条約を攻撃した。

政友会総裁は、「艦種の選択力量の決定は作戦計画に成りまったく専門的知識を俟つべきものである。 然して専門家の説を徴するにこれでは国防危険なりとの定論である。 果して然らば国家安危の係るところで、真に憂慮に堪えぬのである」と演説した。

この「専門家の意見」は海軍軍令部の意見であった。 このとき政友会はロンドン軍縮条約に不満の軍令部と通じて、財部彪海軍大臣を窮地に陥れて濱口内閣を倒閣しようとしていた。 政友会のこの野心を見抜いていた海軍軍令部長・加藤寛治大将、軍令部次長・末次信正らの軍令部首脳は、政友会を利用して批准を遮ろうとした。彼らは海軍軍縮会議からの脱退を目論んでいた。

これに対し浜口雄幸首相は、軍部の硬化を顧慮して正面から対決せず、手続き論で乗り切ろうとした。 しかし、議会のこの統帥権論議は「尽忠精神」に燃える海軍軍人に強い衝撃を与えた。 その下地にはワシントン軍縮条約など国内外による軍縮への反撥があった。 陸軍もまた大正十四年、宇垣一成陸軍大臣(第一次加藤高明内閣)の下で四個師団を廃し、2,000人あまりの将校が馘首された苦い経験があったため、海軍の態度に同調した(宇垣軍縮)。

上記のように第58帝国議会の論争で、政友会は軍部の主張を容認するかのような立場から、浜口内閣にゆさぶりをかけた。犬養は政友会総裁として代表質問に立ち、軍令部が反対する兵力量では国民は安心できないと政府に詰めよった。総務の鳩山一郎は、政府が軍令部長の意見に反し、またはこれを無視して回訓を決定したのは統帥権干犯のおそれがあると政府を非難・追及した。日露戦争以来、軍部は統帥権の独立を盾に、議会の統制を極力無視し、 軍の思うがままに国政を左右しようとする衝動を絶えず持っていた。

犬養は必ずしも反軍的な政治家ではなかったが、古参の政党政治家として軍縮などを主張してきた。その彼がこの軍の非立憲主義的衝動を知らないはずはなく、兵力量の決定という最も重要な国務を内閣の所管外であるかのように説いたのは、政党政治家の自殺行為に等しいものだった。この点、当初から親軍であった鳩山一郎や森恪が統帥権干犯を主張するのとは異なる重みがあった。

実際に、自らが首相になって軍縮をしようとした約2年後の1932年の五・一五事件で統帥権独立を呼号する軍部によって、その生命を絶たれたのは歴史の皮肉だった。

この事件の背景は、濱口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことにあった。その際に全権大使だったのが元総理の若槻禮次郎である。浜口内閣が崩壊すると、若槻が再び総理となり第2次若槻内閣が誕生した。そのため、本来なら若槻が暗殺対象であったが、その若槻は内閣をまとめきれず1年足らずで総理を辞任してしまい、青年将校の怒りの矛先は若槻ではなく政府そのものに向けられることになった。そもそも犬養は、軍縮条約に反対する軍部に同調して、統帥権干犯問題で浜口内閣を攻撃し、軍部に感謝されていた側の人間である。しかし、その政府の長に犬養が就任したため、政府襲撃事件を計画していた青年将校の標的になってしまった。

以下の犬養の言動は、犬養の孫である道子の随筆に従った。

1932年(昭和7年)5月15日は晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいでいた。この日、夫人は外出していた。

17時ごろ、護衛の巡査が走り込んできて暴漢侵入を告げ、逃げるよう促した。犬養が「逃げない、会おう」と応じたところに、海軍少尉服2人、陸軍士官候補生姿の3人からなる一団が乱入してきた。襲撃犯の一人は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引いた。

しかし不発に終わり、その様子を見た犬養は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう」と言い一団を日本間に案内した。日本間に着くと、彼らに煙草を勧めてから、「靴でも脱げや、話を聞こう」と促した。そこへ後続の4名が日本間に乱入、「問答無用、撃て」の叫びとともに全員が発砲した。

女中のテルらが駆けつけると、犬養は顔面に被弾して鼻から血を流しながらも意識ははっきりしており、縋りつく女中に「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と命じた。

18時40分、医師団は「体に入った弾丸は3発、背中に4発目がこすれてできた傷がある」と発表した。見舞いに来た家人に犬養は「九つのうち三つしか当らんようじゃ兵隊の訓練はダメだ」と嘆いたという。しかしその後は次第に衰弱し、23時26分に帰らぬ人となった。享年78(満76歳没)。

5月19日、犬養の葬儀が総理大臣官邸の大ホールでしめやかにとり行われた。たまたま来日中で官邸からほど近い帝国ホテルに滞在しており、事件当日には犬養の息子である健と会食していた喜劇王チャーリー・チャップリンから寄せられた「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」との弔電に驚く参列者も多かった。この葬儀の模様については、フランスから来た女性ジャーナリスト、アンドレ・ヴィオリスもその著『1932年の大日本帝国』で描写している。

墓所は港区の青山霊園と岡山市北区川入にある。

犬養の死後

犬養から端を発した統帥権干犯問題もさることながら、犬養の死と日本の対応も、日本の命運に大きな後遺症を遺し、その後「大正デモクラシー」と呼ばれることになった大正末期からの政党内閣制が続いていた昭和史の分水嶺となった。

事件の翌日に内閣は総辞職し、次の総理には軍人出身の斎藤実が就任した。総選挙で第1党となった政党の党首を総理に推すという慣行が破られ、議会では政友会が大多数を占めているにもかかわらず、民政党寄りの内閣が成立した。大正末期から続いた政党内閣制は衰えが始まり、軍人出身者が総理に就いたが、まだ議会は機能していた。しかし、これ以後は最後の存命している元老の西園寺公望(1940年没)や重臣会議の推す総理候補に大命が降下し、いわゆる「挙国一致内閣」が敗戦まで続くことになった。この時期は武官または軍部出身者が総理になることが多く、終戦まで文官の総理は広田弘毅、近衛文麿と平沼騏一郎だけである。

満洲事変は、斎藤内閣成立直後に締結された塘沽協定をもって終結を見た。

この後、日本は中国進出を進めて国際的孤立の道を進んでいった。

五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの世論の万単位の嘆願で軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、彼らは満洲や中国北部で枢要な地位についた。現職総理を殺した反逆者やそれを焚きつけたテロリストらに死刑を適用しなかったことが、さらに大がかりな二・二六事件の遠因となった。なお、五・一五事件の海軍側軍法会議の判士長であった高須四郎は「彼らを死刑にすれば彼らが殉教者扱いされるから死刑を出すのはよくないと思った」などと軽い刑に処した理由を語った。

この事件の後、浜田国松、斎藤隆夫などは反軍政治を訴えたが、大抵の政治家は反軍的な言動を差し控えるようになった。新聞社も、軍政志向への翼賛記事を書くようになり、政治家は秘密の私邸を買い求め、ついには無産政党までが「憎きブルジョワを人民と軍の統一戦線によって打倒する」などと言い始めた。後の翼賛選挙を非推薦で当選した政治家たちは、テロや暗殺にこそ遭わなかったが、軍部から選挙妨害を受け、さらに大政翼賛会に参加した諸政党からも言論弾圧を受けている。

人物・挿話

囲碁は本因坊秀栄と交友があり、後に日本棋院は三段を追贈した。1928年の呉清源の訪日の際も援助を行った。

明治末期から大正中期にかけて神奈川県二宮町に別荘を所有した。当時は国民党の総裁として名も知られていたが、極めて質素な別荘で隣人は犬養夫妻の清貧ぶりにびっくりしたと伝えられる。しかし地域との交流も積極的に行っており、1912年(大正元年)には青年会の勉強会で講演を行った記録も残る。

陸軍統制派の中心人物であった永田鉄山は、五・一五事件で銃口を向けられながらも話せばわかると説いた犬養の態度を古今の名将にもまさるゆかしさを感じると称賛し、犬養を射殺した犯人たちを批判しながら、不穏な動きを見せていた一部の軍人の行動を言語道断と評した。しかし、その後まもなく相沢事件によって永田本人も凶刃に倒れ、二・二六事件につながっていく。

満洲事変をはじめとする日本の対応について、アメリカ合衆国のニュースインタビューに応じたときの動画付き肉声が残っている。これ以外には肉声がないとされる。 (実際には、暗殺直前に政治演説を録音したものでコロムビアレコードから出された「新内閣の責務 内閣総理大臣 犬養毅閣下」という題のものが日本国内に複数現存している。)

2024/06/14 07:40更新

inukai tsuyoshi


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