大隈重信の情報(おおくましげのぶ) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大隈 重信さんについて調べます
■名前・氏名 |
大隈重信と関係のある人
朝倉文夫: 大隈重信像(1938年(昭和13年)) - 国会議事堂、1階中央広間 貴志元則: 劇画大隈重信(けいせい出版) 久原房之助: 三女 - 大隈重信の孫・信幸に嫁ぐ。 前島密: 1881年(明治14年) - 明治十四年の政変で辞職し、大隈重信らとともに立憲改進党を創立。 井上毅: 明治14年(1881年)3月、有栖川宮熾仁親王の求めに応じ大隈重信と矢野文雄が憲法意見書を提出した際、岩倉から意見を求められるや否や、福澤諭吉の『民情一新』を添えて大隈の意見書との類似を指摘、イギリスに範をとる憲法制度に反対した。 榎本武揚: 同日夜、大隈重信に相談し、24日に鉱毒調査委員会を設置した。 弘兼憲史: 同年には、母校・早稲田大学の創立125周年記念に制定された、熊のキャラクター(創立者の大隈重信→“クマ”にちなんで)「WASEDA BEAR(ワセダベア)」を制作した。 明治天皇: 条約改正案への批判の高まりで辞職した井上馨の後任の外務大臣大隈重信も、井上に劣らず治外法権廃止に取り組む決意を固めていた。 清水紘治: 明治の群像 海に火輪を 第2話「大隈重信〜明治14年の政変〜」(1976年、NHK総合) - 井上毅 松方幸次郎: 父・松方正義(第4代・6代内閣総理大臣)と、幕末の長崎でチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)に学んだ大隈重信(第8代・17代内閣総理大臣)は、幕末長崎時代から長い親交があり、1896年(明治29年)には第2次松方内閣(松隈内閣)を組んだ間柄であるが、後に大隈が松方幸次郎に会った際に、大隈は「君が我輩の所に来た時分は腕白小僧だったが、近頃は大分えらくなった。 島田三郎: 翌年、元老院書記官となり、1880年(明治13年)に文部省に移り文部権大書記官となるが、明治十四年の政変で大隈重信派として諭旨免官となり、『横浜毎日新聞』に再び入社(この当時名称は『東京横浜毎日新聞』に変わっている)。 矢野龍渓: また1880年(明治13年)には小幡篤次郎らと私擬憲法を起草し、憲政の樹立を説いた『三勢論』は翌年、大隈重信によって奏上された。 明治天皇: 一方外債案否決で指導力を問われていた大隈重信は、民権運動の高揚で政治的焦点となっていた憲法制定問題に熱心に取り組むようになった。 伊達宗城: 大隈重信 「極めて純良というだけで、何等卓抜な所はない。 広岡浅子: 追悼式で弔事を述べたのは、日本女子大学校の創立委員長も務めた大隈重信であった。 チャニング=ウィリアムズ: また、ウィリアムズは大隈重信、副島種臣、前島密らに英語や数学などの英学を教えた。 五代友厚: 友厚は6月4日、創立願書を大蔵卿大隈重信に提出し、同月17日許可がおりた。 平野威馬雄: 同校では国語教師から文才を認められ、『平家物語』『源平盛衰記』など日本の古典からフランス語の原書までを読みこなす早熟ぶりを示したが、鼻が巨大だったためハーフでない生徒からシラノ・ド・ベルジュラックをもじってヒラノ・ド・ベルジュラックと呼ばれ、また大隈重信の国粋主義的演説がきっかけで非国民扱いされるなどの差別待遇を受ける(在米中の父がこのことを手紙で大隈に訴えたところ、威馬雄は早稲田の大隈邸に招かれ、大隈から直々に謝罪と励ましを受けた)。 広田弘毅: また徳平は条約改正に反対し、大隈重信に爆弾を投げつけて重傷を負わせた来島恒喜のために立派な墓碑を寄贈した。 黒田清隆: 岩倉具視の秘書の覚書によると、伊藤博文と大隈重信が法に則った処罰を主張したのに対して、大久保は黒田はそのようなことをする人間でないと保証すると述べ自身の腹心である大警視の川路利良に調査を命じた。 池田成志: 八重の桜(2013年) - 大隈重信 役 田尻稲次郎: 大隈重信の妻・大隈綾子は父の妹。 河野広中: 大正4年(1915年)第2次大隈重信内閣の農商務大臣に就任した。 小村寿太郎: 1896年6月11日、小村は日本に呼び戻されて、原敬に代わって外務次官に着任し、以降、西園寺公望、大隈重信、西徳二郎3人の外相の下で外務次官を務めることになる。 明治天皇: 有栖川宮熾仁親王、北白川宮能久親王、大蔵卿大隈重信、司法卿大木喬任などが随行し、開拓使長官黒田清隆や内務卿松方正義らが先発した。 西郷隆盛: 大隈重信 「身始末は宜かった。 木戸孝允: 明治4年(1871年)、保守的な弾正台が廃止された時、開明派であった木戸を始め、伊藤博文、井上馨、大隈重信らの行動や私生活を内偵した文書が発見され、大隈らはその文書を押収することが出来た。 前島密: この学校は学問の独立を主張する大隈重信の発意で生まれものだが、密はその創立に参画してこれを助けた。 尾崎士郎: 『早稲田大学』文藝春秋新社 1953 のち角川文庫、岩波現代文庫 2015(大隈重信を描いて、佐伯清によって映画化された) 三宅雪嶺: 三宅雪嶺、大隈重信、渋沢栄一『三大家の新修養』矢野博信書房、1920年12月。 |
大隈重信の情報まとめ
大隈 重信(おおくま しげのぶ)さんの誕生日は1838年3月11日です。佐賀出身の政治家のようです。
現在、結婚、離婚、病気、事件、引退、映画、解散、テレビ、ドラマ、父親、母親、事故に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1922年に亡くなられているようです。
大隈重信のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。 参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社大学社友。 通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。 早稲田大学を創設しまたのちに早稲田大学高等学院、早稲田実業学校などもでてきた。官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設。立教大学の発展にも携わった。 幕末佐賀藩の上士の家に生まれて志士として活躍し、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府の首脳となり、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。また教育者としても活躍し、早稲田大学(1882年、東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる。 天保9年(1838年)2月16日、肥前国佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行400石(物成120石)を食み、石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。幕末の上士出身で明治後半まで活躍した元勲には井上馨、板垣退助、後藤象二郎ら総理大臣には就けなかった者が多いが、大隈は数少ない例外である。 重信は7歳で藩校弘道館に入校し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館の南北騒動をきっかけに退学となった。このころ、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らと参加した。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任したが、実際には講義は殆ど行わず、議論や藩からの命を受けて各地で交渉を行うなどの仕事をしている。 文久2年(1862年)より、副島種臣、前島密らと共に米国聖公会のアメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)の私塾で英学を学ぶ。ウィリアムズの私塾で儒学者の谷口藍田と知り合い、その後深く交遊していく。 大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するにはいたらなかった。慶応3年(1867年)、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「蕃学稽古所」(翌年、致遠館と改称)の校長で、オランダ出身の宣教師グイド・フルベッキに英学を学んだ。このころにアメリカ独立宣言などを知り、大きく影響を受けた。致遠館では、舎長・督学の副島種臣と共に教頭格となって指導にあたった。また京都と長崎を往来し、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島とともに将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛のうえ佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。謹慎後、大隈は鍋島直正の前に召され、積極行動を呼びかけたが容れられなかった。 慶応4年(1868年)、幕府役人が去った長崎の管理を行うために、藩命を受けて長崎に赴任した。長崎では有力藩士との代表とともに仮政府を構成していたが、2月14日には朝廷より長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨が赴任、引き継ぎを行った。まもなく裁判所参謀助役として、外国人との訴訟の処理にあたった。3月17日、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。大隈の回想によれば、井上馨が「天下の名士」を長崎においておくのは良くないと木戸孝允に推薦したためであるという。当時隠れキリシタンの弾圧である浦上四番崩れについて、各国政府との交渉が行われており、大隈はイギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮し、この問題を一時的に解決させ、政府内で頭角を現すこととなった。この交渉の成功は、ウィリアムズとフルベッキから学んだ英学とキリスト教の知識の恩恵であった。また、交渉には谷口藍田が同行している。12月18日には前任の小松清廉の推挙により、外国官副知事に就任した。 明治2年(1869年)1月10日、再び参与に任じられ、1月12日からは会計官御用掛に任ぜられた。これは当時贋金問題が外交懸案の一つとなっていたためであり、大隈は財政や会計に知識はなかったが、パークスと対等に交渉できるものは大隈の他にはなかった。2月には旧旗本三枝七四郎の娘、三枝綾子と結婚した。美登との離婚は明治4年(1874年)に成立している。 3月30日には会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務にも携わった。4月17日には外国官副知事を免ぜられたが、それ以降もパークスとの交渉には大隈があたっている。7月8日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。このころから木戸孝允に重用され、木戸派の事実上のナンバー2と見られるようになった。またこのころから「八太郎」ではなく「重信」の名が使用されるようになる。7月22日には民部大輔に転じ、8月11日の大蔵・民部両省の合併に基づき双方の大輔を兼ねた。このころ大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密や渋沢栄一といった若手官僚が集まり、寝起きするようになった。このため大隈邸は「築地梁山泊」と称された。強大な権限を持つ大蔵省の実力者として、地租改正などの改革にあたるとともに、殖産興業政策を推進した。官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設などに尽くした。しかしこれは急進的な改革を嫌う副島種臣や佐々木高行・広沢真臣といった保守派や、民力休養を考える大久保利通らの嫌うところとなった。 大隈や伊藤が鉄道計画を立てたのは1869年から1870年ごろのことと考えられる。井上馨や渋沢栄一に相談された大隈は「賛成せざりしにあらざれども、時の情勢に危ぶところあり」が「斥けかかる反動の気焔を挫かんには、かかる大事業を企成して天下の耳目を新たにするに如くはなし」と答えている。 明治2年11月5日(1869年12月7日)、右大臣三条実美の東京邸宅において岩倉具視、沢宣嘉、大隈重信、それに伊藤博文がパークスと非公式に会談しているが、大隈と伊藤が事前にパークスと協議した脚本どおりに議事は進行。「折から東北・九州は凶作に見舞われ、北陸・近鉄は反対に豊作と聞く。鉄道があれば豊作地の米を凶作地に短時間で大量に輸送することが可能になり、以降の日本は凶作への不安から解放される」というパークスの主張に三条・岩倉ともに手を打って賛同し、明治2年11月10日(1869年12月12日)には鉄道敷設が正式に廟議決定された。その内容は「幹線として東西両京(東京⇔京都)を結び、支線として東京⇔横浜線ならびに琵琶湖⇔敦賀港線を敷設するが、その第一着手線としたのは、ときの政治拠点と外交拠点を直結するという意味以外に、爾後の鉄道拡張に必要な資材を外国から輸入する港湾の確保という意味もあったようである。12月には廟議で東京と関西を結ぶ幹線と、枝線として東京-横浜間の計画が決定し、手始めに東京-横浜間が建設されることとなった。 この際に決まった東京-関西のルートは中山道沿いを通るもので、山間部の開発に繋がることと、海に近い東海道では軍艦からの攻撃を受けやすいので避けたいという陸軍の意向も働いたという。ただ大隈は『大隈重信自叙伝』にて「その計画は、鉄道敷設の起点を東京とし、横浜より折れて東海道を過ぎり、京都・大阪を経て神戸に達するを幹線と為し、京都より分かれて敦賀に至る支線を敷き、この幹線と支線とを以て第一着手の敷設線路と為し、これより漸次してついに全国に及ぼさんと図りしなり」と述べている。結局、中山道ルートは山間部の開発があまりにも困難と判断されたようで、前述の1869年12月廟議の計画は東海道ルートを通るよう変更された。 資金は外債募集に頼ることとなった。そのため「我が神洲の土地を典じて外債を募集する」という陸軍・兵部大輔の前原一誠を筆頭として反対運動が発生し、鉄道を建てる試験のための電信線を傷つけ電線を切断するなどの行為があったようである。因みに兵部の西郷隆盛の反対があり、最初の京浜鉄道は陸路を使う事ができず海を埋め立てて通したとも言われれる。また枢密院議長だった黒田清隆も当初は大反対だったものの、1871年1月から5月にかけてアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を旅行して鉄道の重要性を体感し、賛成に転じたと大隈は述べている。 明治2年11月10日(1869年12月12日)に鉄道敷設の正式決定した2日後には大隈重信と伊藤博文はレイと仮契約を交わした。レイ借款が100万ポンドの借款で、30万ポンドは鉄道敷設に使い、残りは外債償却に使用するものであった。また大隈重信が外国では鉄道の軌間基準がどうなってるかレイに訪ね、それに対し日本のような川や山が多く平地が少ないところでは、南アフリカなどに敷設されている3フィート6インチ(1067mm:ケープゲージ)が適当だと勧められたため、これを導入している。ただしこれはレイが同じケープゲージを採用していたインドの中古資材を購入して、その利ざやを稼ぐための意図があっての回答であり、欧米の通常軌道より狭いものであった。このため大隈は後年、一生一代の不覚であったと悔やむこととなった。ただ1870年5月20日にイギリスから『タイムズ』が大隈らのもとに届き、そこに4月23日にレイがロンドンにおいて公債公募による詐欺を行っていたとする記事が掲載されていたため、レイ借款を即時解除するという騒動に発展した。 1871年7月半ば、横浜港にイギリスから届いた機関車と客車が陸揚げされた(基本的にこの京浜鉄道は外国からの中古品や流れものによって構成されていたようだ)。伊藤と岩倉は11月12日より岩倉使節団として欧州に出発し日本を不在にしたため、日本初の鉄道開業は留守を司る大隈のもとで行われることになった。1872年6月12日(明治治5年5月7日)に品川-横浜間で仮営業を開始し、同年10月14日(明治5年9月12日)に開業している。 明治4年6月25日、大久保主導の制度改革で参議と少輔以上が免官となり、新参議となった木戸と西郷隆盛によって新たな人事が行われることになった。大隈はこの日参議と大蔵大輔を免ぜられ、6月29日に大蔵大輔に再任された。しかし7月14日には参議に任ぜられ、大蔵大輔は免ぜられた。11月12日に岩倉使節団が出国すると、大隈は留守政府において三条・西郷らの信任を得て、勢力を拡大し、大蔵大輔となっていた井上馨と対立するようになる。1873年(明治6年)5月に井上が辞職すると、大蔵省事務総裁を兼ねて大蔵省の実権を手にした。5月26日には大蔵卿の大久保が帰国したが、その後も実権を握り続けた。 一方でウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受け、博覧会事務局を設置。大隈が総裁、佐野常民が副総裁を務め、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となった。大隈は会場に出席するため渡欧しようとしたが、政府内の同意が得られず出国しなかった。 明治六年政変では、当初征韓論に反対の態度を示さなかったが、10月13日以降反征韓派としての活動を始めた。征韓派は失脚し、佐賀藩の先輩であった江藤新平・副島種臣と袂を分かった。政変後の10月25日には参議兼大蔵卿になった。また大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出している。 明治7年(1876年)1月26日には三条より、大久保とともに台湾問題の担当を命ぜられ、積極的に出兵方針を推し進めることになる。4月4日には台湾蕃地事務局長官となり、出兵のための船を閣議に図らず大蔵卿の職権で独断で確保した。大隈は出兵を命ぜられた西郷従道とともに長崎に向かったが、その間にイギリスとアメリカから抗議があったため、出兵を一時見合わせる方針となった。ところが西郷は独断で出兵を行い、政府も追認せざるを得なくなった。この間、大隈が西郷の出兵を止めようとしたという記録は残っていない。大隈は出兵後も駐兵を続けるべきと主張していたが、大久保らが早期撤兵の方針を取ると、それに従った。5月23日には左大臣となっていた島津久光が、大隈とその腹心である吉田清成の免職を要求した。大隈は病気を理由に辞表を提出したものの、台湾問題の最中に担当者である大隈を辞職させることもできず、久光の意見は却下された。 明治8年(1875年)1月4日には「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」という意見書を三条宛に提出し、条約改正の実現と、間接税の重視と内需の拡大、官営事業の払い下げなどを主張している。2月11日の大阪会議の開催については全く知らされておらず、大隈を嫌うようになっていた木戸の復帰は、大隈の権力基盤を脅かすこととなる。このころから大隈は体調を崩したとして出仕せず、三条・岩倉・大久保らは大隈の大蔵卿からの解任を検討しているものの、後任候補の伊藤が受けなかったことや、大隈以上の財政家がいないことを理由に大隈を慰留して続投させた。しかし復帰した木戸と板垣退助も大隈の辞任を要求し、大久保が大隈を庇護する形となった。久光と板垣が10月29日に辞職し、木戸も病気が悪化したことで大隈への攻撃は消滅することとなる。 明治11年(1878年)5月14日に大久保が紀尾井坂の変によって暗殺されると、政府の主導権は伊藤に移った。大隈は大久保暗殺を聞いた後、伊藤に「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と述べている。 大隈は、会計検査院創設のための建議を行っており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。明治14年(1881年)には、正確な統計の必要性を感じ統計院の設立を建議・設立し、自ら初代院長となった。 1879年6月27日、大蔵卿大隈は、地租再検延期・儲蓄備荒法の設定・紙幣消却の増額・外国関係の度支節減・国債紙幣償還法の改正の「財政四件ヲ挙行センコトヲ請フノ議」を建議する。 明治13年(1880年)2月28日、参議の各省卿兼任が解かれ、大隈も会計担当参議となった。大隈は佐賀の後輩である佐野常民を大蔵卿とし、財政に対する影響力を保とうとしたが、大隈が提案した外債募集案に佐野も反対したことで、大隈による財政掌握は終焉を迎えた。またこのころから伊藤・井上らから冷眼視されるようになり、井上は駐露公使に大隈を据えるなどの左遷案を提案している。 そのころ自由民権運動の盛り上がりにより、各参議も立憲政体についての意見書を提出する動きがあったが、大隈はこれになかなか応じなかった。明治14年(1881年)1月には伊藤・井上・黒田清隆とともに熱海の温泉宿で立憲政体について語り合ったが結論は出なかった。3月、大隈は意見書を提出するが、それは2年後に国会を開き、イギリス流の政党内閣とするという急進的なものであり、しかも伊藤ら他の内閣閣員には内密にしてほしいという条件が付けられていた。7月にこの意見書の内容を知った伊藤は驚愕し、大隈は「実現できるような見込みのものではない」と弁明したが、伊藤は抗議のため出勤しなくなり、大隈は7月4日に謝罪することとなる。 7月26日、自由民権派の『東京横浜毎日新聞』が北海道開拓使による五代友厚への格安での払い下げを報道し、世論が沸騰した。参議の間ではこの件をリークしたのが大隈であるという観測が広がり、孤立を深めることとなった。大隈が自らを排除する動きが進んでいたのを知ったのは10月3日のことであり、10月11日には払い下げの中止と、明治23年(1890年)の国会開設、そして大隈の罷免が奏上され、裁可された。これは同日中に伊藤と西郷従道によって伝えられ、大隈も受諾した。10月12日に大隈の辞任が公表されると、小野梓ら大隈系の官僚や農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密らは辞職した。また大隈派官僚とつながりがあるものも罷免された。 野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)4月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている。 明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている。同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が「官吏は日本国籍保持者に限る」とした大日本帝国憲法に違反するという指摘が陸奥宗光駐米公使より行われた。大隈は裁判所構成法の附則から違憲ではないと主張するが、井上毅法制局長官からも同様の指摘が行われた。山田顕義法務大臣は外国人裁判官に日本国籍を取らせる帰化法を提案し、伊藤枢密院議長、井上馨農商務大臣もこれに同意して条約改正交渉の施行を遅らせるよう求めた。大隈は帰化法の採用には応じたものの、条約改正交渉の継続を主張した。大隈を支持するのは黒田首相と榎本武揚文部大臣のみであり、また世論も大隈の条約改正に批判の声を上げた。 明治22年(1889年)10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった。(大隈の右足の義足は佐賀県佐賀市大隈記念館に保存されている)大隈の治療は、池田謙斎を主治医とし、手術は佐藤進・高木兼寛・橋本綱常・エルヴィン・フォン・ベルツの執刀で行われた。翌10月19日、東京に在留していた薩長出身の閣僚すべてが条約改正延期を合意し、黒田首相も条約改正延期を上奏、10月23日に大隈以外の閣僚と黒田の辞表を取りまとめて提出した。大隈は病状が回復した12月14日付で辞表を提出し、12月24日に裁可、大臣の前官礼遇を受けるとともに同日に枢密顧問官に任ぜられた。 その後大きな活動は見せなかったが、裏面で改進党系運動に関与しており、明治24年(1891年)11月12日には政党に関わったとして枢密顧問官を辞職することとなっている。12月28日には立憲改進党に再入党し、代議総会の会長という事実上の党首職についた。これ以降大隈は新聞紙上に意見を発表したり、実業家らの前で演説をすることも増えていく。明治26年(1893年)3月25日には進歩党系新聞の『郵便報知新聞』紙上で「大隈伯昔日譚」の連載が開始されている。 明治29年(1896年)3月1日には立憲改進党は対外硬派の諸政党と合同し、旧進歩党を結成した。大隈は新党において中心的存在とされたものの進歩党には党首職はなく、8か月たってから設置された5人の総務委員のうち大隈派と呼べるのは尾崎行雄と犬養毅にとどまり、内訌を抱えたままの存在であった。4月22日から5月17日には、長崎赴任以来28年間帰省していなかった佐賀に戻り、大規模な演説会などを催している。 6月、伊藤博文首相は大隈と松方を入閣させて、実業家層の支持を得るとともに、内務大臣となっていた板垣の自由党勢力を抑えることを考慮するようになった。板垣は反対したが、松方は入閣に際し大隈の入閣を条件とした。8月31日に伊藤は辞任し、元老会議では山縣が推薦されたが病気を理由に辞退した。元老会議は松方を推薦し、9月18日、第2次松方内閣(「松隈内閣」と呼ばれる)が発足した。9月22日、松方との協議で大隈は外相に就任したが、尾崎行雄の回想によれば、一時大隈が怒って入閣が流れそうになったこともあったという。進歩党員からの入閣はなかったが、内閣書記官長として進歩党の高橋健三が、また内閣法制局長官に進歩党に近い神鞭知常が就任している。 10月25日、小雑誌『二十六世紀』に伊藤と土方久元宮内大臣を批判する記事が掲載された。『二十六世紀』には高橋内閣書記官長が関与している雑誌であり、閣議ではこの雑誌の発行禁止措置を巡って議論が起きた。大隈は発禁に反対したが、閣議の大勢は発禁を主張する声が高く、結局『二十六世紀』は発禁となった。 明治30年(1897年)3月29日には足尾銅山鉱毒事件で批判を受けていた榎本武揚農商務大臣が辞職し、大隈は農商務相を兼ねることとなった。大隈は次官に大石正巳を就任させるなど進歩党員を農商務省に送り込み、また古河鉱業に対して鉱害対策の徹底を求める一方で、操業は継続させた。10月、松方首相が地租の増徴を図る方針をとると、大隈と進歩党はこれに反対し、10月31日に大隈は辞表を提出した。松方内閣は12月25日に倒れ、後継首相は伊藤博文となった。伊藤は大隈に農商務大臣、板垣に司法大臣の地位を提示して入閣を求めたが、進歩党は大隈を内務大臣とし、更に重要大臣のポストを三つ要求するなど強気の対応を行った。板垣の入閣も行われず、第3次伊藤内閣は政党の支援を得られない形となった。 明治31年(1898年)3月の第5回衆議院議員総選挙で進歩党は第一党となったが、過半数を抑えることはできなかった。6月22日、進歩党は板垣退助の率いる自由党と合同して憲政党を結成した。6月24日、伊藤首相は大隈と板垣に政権を委ねるよう上奏するが、明治天皇は伊藤内閣が存続し、大隈と板垣が入閣するものと勘違いして裁可を行った。明治天皇は勘違いに気がついたが、6月27日に大隈と板垣二人に対して組閣の大命が降下した。板垣が内務大臣の地位を望んだため、大隈が内閣総理大臣兼外相となり、6月30日に大隈内閣が発足した。佐賀県出身の総理大臣は大隈が初めてで、現在まで他に例がない。陸海軍大臣を除く大臣はすべて憲政党員であり、進歩党系からは大隈の他に松田正久大蔵大臣、大東義徹司法大臣、尾崎行雄文部大臣、大石正巳農商務大臣が入閣し、旧自由党系からは板垣を含む3人の大臣が入閣する、日本初の政党内閣であった。大隈と板垣が主導する体制であったため、「隈板内閣」と呼ばれる。しかし、明治天皇も過去の経緯から大隈に対して不信感を持っていたほか、外務大臣職をはじめとするポストの配分を巡って旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じているなど前途は多難であった。特に旧自由党の星亨は駐米公使を辞任して帰国し、野合に過ぎない憲政党内閣では本格的な政党内閣とならないとみており、倒閣にむけて動き出すことになる。 このような不安定な情勢であったため、内閣は成果をほとんど挙げられなかった。 星は文相・尾崎行雄の共和演説事件を執拗に攻撃し、板垣内相も明治天皇に上奏して尾崎の罷免を求めた。10月22日、大隈と尾崎に不信感を持っていた天皇は、辞任の是非を問うこともなく大隈に勅使を派遣し、尾崎に辞表を提出させるよう命じた。後任の文部大臣を巡っては進歩党系と自由党系の協議がまとまらず、大隈は首相の職権を使って犬養毅を後継に選んだ。自由党系は大隈に反発し、星を中心として自由党系の三閣僚を辞任させることで倒閣に追い込む工作を開始した。10月29日、自由党系は一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成し、進歩党系の三閣僚は辞表を提出した。大隈は進歩党系で閣僚を補充しようとしたが、天皇は大隈と板垣に対して大命を下していたことからこれを認めなかった。すでに各新聞からも内閣は見放されており、10月31日に大隈らは辞表を提出した。 11月3日、旧進歩党は憲政本党を結成した。大隈は党の中心的人物であったが、内紛のため党首を置くことはできなかった。明治32年(1899年)8月、伊藤は旧自由党派とともに立憲政友会を結成した。このとき、大隈の側近であった尾崎行雄は脱党し、政友会に参加している。明治33年(1900年)12月18日、大隈は憲政本党の党首である総理に就任した。しかし憲政本党は政友会に押されて振るわず、翌年3月までに33名の議員が離脱した。また桂園時代には裏面で桂太郎首相と連携しようと動いたが、与党にもなりきれなかった。 明治35年(1902年)には伊藤と大隈が会談し、憲政本党と立憲政友会の合同、大隈の蔵相就任も噂されたが幻に終わった。 議員の中からは党体制の改革を求める声が高まった。明治39年(1906年)3月には東北地方選出の議員が執行部の公選制を要求し、裏面で大隈の引退ないし元老化を求める動きが活発となった。この動きには大隈の側近であった大石正巳も加わっていた。11月には大隈側近の犬養毅が院内総務に選出されず、大石のみが選ばれ、改革派の伸長が示された。改革派は児玉源太郎、清浦奎吾、大浦兼武ら外部から党首を迎え、桂太郎首相に接近しようとする動きも見せていた。このため大隈は明治40年(1907年)1月20日の党大会で、憲政本党の総理を辞任することを発表した。ただし完全に憲政本党との関係を絶ったわけではなく、明治42年(1906年)には大石派と犬養派の仲裁を求められている。 憲政本党総理を辞して後の大隈は、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。 明治41年(1908年)米国バプテスト教会の宣教師であったH・B・ベニンホフ博士に依頼し、キリスト教主義の学生寮「友愛学舎」(現在の早稲田奉仕園)を開く。 明治41年(1908年)11月22日に戸塚球場で開催された米大リーグ選抜チーム:リーチ・オール・アメリカンチーム 対 早稲田大学野球部の国際親善試合における大隈重信の始球式は日本野球史上、記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者にして総長であり、かつ内閣総理大臣を務めた大政治家である大隈の投球をボール球にしては失礼になってしまうと考え、早稲田大学の1番打者で当時の主将だった山脇正治がわざと空振りをしてストライクにした。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった。 このころ大隈自身が製作に関わった、明治45年(1912年)6月公開の記録映画『日本南極探検』には、探検隊を自邸に招いた際に撮影されたと見られる、カメラに向かって帽子を取って挨拶する大隈の姿が映像として記録されている。 また新聞などで政治評論を行うことも継続した。明治43年(1910年)2月には憲政本党議員に招待され、事実上の党復帰を果たした。この年以降、大隈は大規模な遊説旅行を行い、政治活動再開への動きを見せていた。明治45年(1912年)、橋本徹馬、加藤勘十の結成した立憲青年党の発会式に大隈は、松村介石、山田三七郎と共に招かれる。 大正3年(1914年)にはシーメンス事件で山本権兵衛首相が辞職すると、大隈が首相候補として大きくクローズアップされることとなる。元老山縣有朋が最初に推した徳川家達が辞退すると、元老井上馨の秘書望月小太郎は大隈と接触し、立憲同志会の加藤高明を協力させたうえで、大隈に組閣する気がないかと打診した。大隈は井上の意見と全く同意見であると答えている。山縣が次いで推薦した清浦奎吾が辞退に追い込まれた後(鰻香内閣)、元老会議は大隈しかいないという空気になった。4月10日の元老会議で山縣は大隈を推薦し、井上、大山巌、松方正義も同意した。この日、井上から組閣の打診を受けた大隈は、加藤高明を首相としてはどうかと返答したが断られ、結局自らが首相となることを承諾している。 4月16日、76歳で2度目の内閣を組織した。再び首相に就任するまでの16年というブランクは歴代最長記録である。大隈は首相と内務大臣を兼ねた。与党は立憲同志会、中正会であった。同志会からは加藤高明が外務大臣、若槻礼次郎が大蔵大臣、大浦兼武が農商務大臣、武富時敏が逓信大臣として入閣し、中正会からはかつての側近尾崎行雄が司法大臣として入閣した。立憲国民党はかつての側近であった犬養毅が党首を務めていたが、党を分裂させた加藤を嫌っており、参加しなかった。海軍大臣には非薩摩閥の八代六郎、陸軍大臣は山縣系の岡市之助が就任した。大隈内閣は成立後まもなく、従来薩摩閥が握っていた警視総監に非薩摩閥の伊沢多喜男を就け、また19人の知事と29人の道府県部長を移動させるなど地方人事も大幅な変更を行った。更に海軍でも薩摩閥の有力者を閑職においやり、山本権兵衛・斎藤実といった大物を予備役に編入するなどの粛軍を行った。また文政一元化の名のもとに内務省の所管であった伝染病研究所の文部省移管を強行、北里柴三郎所長以下部長・研究員は抗議し、全員辞職した(伝染病研究所移管事件)。大正5年(1916年)には、伝染病研究所は東京帝国大学医学部附置研究所となり、野に下った北里の北里研究所としのぎを削ることになった。 7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保のためにも連合国側に立っての参戦を求める声が高まった。加藤高明外務大臣は元老の介入を嫌い、元老との協議なしに閣議のみで参戦決定を行い、山縣を激怒させた。ただし、参戦自体は元老も支持していたため決定は覆ることはなく8月23日に対独宣戦布告を行った。大隈は加藤をイギリス流の政治を行う後継者として考えていたが、加藤は独善的であり、大隈も外交に関してはほとんど口出しができなかった。しかし強硬一辺倒の外交方針は山縣など元老の不興も買い、大隈は辞任を求める声から加藤を守る役目を果たさなくてはならなくなる。12月までに日本軍はドイツの拠点である青島要塞や南洋諸島を攻略し、日本は戦勝ムードに湧いた。 12月には二個師団増設問題に反対する政友会と国民党が法案を否決し、大隈は12月25日に衆議院解散に踏み切った。当時、日露戦争以来の不況に国民が苦しんでおり、政友会や藩閥、軍に対する不信も高まっていた。大隈は組閣まもなくから選挙を意識して元老と協議し、また資金集めも重ねてきた。更に大きな武器となったのが大隈個人の人気だった。大隈は全国を鉄道で大規模な遊説旅行を行い、駅ごとに演説を行った。さらに大隈は同志会と中正会に続く第三の与党として、組閣以来全国に成立していた大隈伯後援会を利用した。特に選挙直前に大浦兼武を内務大臣に転任させ、政権の力を利用した激しい選挙干渉は、大隈内閣を支持していた吉野作造をも失望させるほどのものであった。こうして大正4年(1915年)3月25日に行われた第12回衆議院議員総選挙は大隈与党が65%を占める大勝利となった。 1月18日、中華民国政府に対し、権益の継続や譲渡などを求める対華21カ条要求を行う。大隈や井上馨は膠州湾租借地の返還の代償として満州に権益を得ることは考えていたものの、列強にも利権を提供して軋轢を防ぐことを考えていた。しかし加藤外相は陸軍などの強硬な意見をすべて要求に盛り込み、元老との最終的な協議もしないまま中華民国側に提示した。日本人を中華民国政府の官吏として登用させる第5号は、他の要求とは異なり希望条項とされたものの、中国の内政を支配しかねないものであり、加藤外相は同盟国イギリスにも秘匿していた上に、中華民国側にもこれを公表しないように求めていた。しかし中華民国からのリークで英米が知ることとなり、第5号は削除されることとなる。 5月9日、中華民国政府は主要な要求を受諾したものの、列強の不信を買い、中国の反植民地運動を高める結果となった。大隈は加藤を後継者として考えており、また外交からも離れて久しかったため、加藤の行動を黙認することになった。大隈は後に雑誌で「要求は侵略的なものではなく当然の権利」「日本は永遠の平和を築こうと誠意を持って交渉したのに、中華民国は外国を介入させて有利に運ぼうとした」と説明している。この後、衆議院では加藤外相弾劾案が提出されるも、大隈系の与党が多数を占めていたため否決された。交渉の詳しい状況や列強の介入については国民に知られていなかったため、大きな政治問題とはならなかった。 7月下旬、大浦兼武内相が二個師団増設問題の決議の際、野党議員を買収したという疑惑が明らかになった(大浦事件)。大隈は、大浦による買収工作を知らなかったと平沼騏一郎検事総長に告げているが、その様子を平沼は「狡い」と表現している。7月30日に大浦は辞任し、大隈も監督責任を取るとして辞表を提出したが、これは天皇から留任の沙汰が下ると計算してのものであった。大隈の想像通り、大隈に好意を持っていた大正天皇は元老に諮ることなく辞表を却下した。内閣基盤が弱いと感じていた加藤外相を始めとするほとんどの閣僚が辞任するべきと訴えていた。しかし元老らは大正天皇の即位大礼を目前として政変は望ましくないと強く慰留し、また大隈も政権継続の強い意志を持っていたため、8月10日には自身が外務大臣を兼任した改造内閣を発足させた。11月10日には即位大礼が行われたが、義足の身でありながら猛練習を積んだ大隈は、階段上り下りを伴う儀式を遂行した。 大正5年(1916年)1月12日、大隈が乗車していた馬車に福田和五郎らの一味8人が爆弾を投げる事件が発生しているが、不発だったために事なきを得ている。このころ井上馨が没し、山縣有朋は元老の強化を図るため、大隈を元老に加えることを考慮し始める。大隈も高齢であり、いつまでも首相を続けるつもりはなかったが、後継に加藤高明を就けようとしたため、山縣との交渉が続くこととなる。6月24日、大隈は大正天皇に辞意を示し、後継に加藤と寺内正毅大将を推薦し、隈板内閣のような両者共同の内閣を作ろうとした。しかしこれは寺内に拒否され、山縣も西園寺公望や政友会とともに単独の寺内内閣を作るために運動を開始する。7月14日に侯爵に陞爵し、貴族院侯爵議員となる。 9月26日、大隈は辞意を内奏し、後継者として加藤を指名した。大隈は大山巌内大臣に、元老会議を開かずに加藤に組閣の大命が下るよう要請したが、大山はこれを拒否し、大山から話を聞いた山縣も激怒した。山縣は「大隈には一年半も欺かれた」と吐き捨てている。10月4日、大隈は辞表を提出したが、辞表の中でも加藤を後継者として指名する異様な形式であった。しかし山縣の運動により、大正天皇は元老への諮問を行い、山縣・松方・大山の三元老と西園寺は寺内を一致して推薦し、寺内内閣が成立した。 退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。 首相を退任した大隈は、同志会・中正会・大隈伯後援会を合同させた政党の総裁就任を依頼されたが断っている。以降は演説などは行わず、新聞上での評論活動を主な活動としている。大正7年(1918年)9月19日には、寺内首相の後継首相について天皇から下問があり、大隈は西園寺公望を推薦した。しかし西園寺が辞退したため、加藤高明を推薦した。しかし山縣有朋、松方正義、西園寺公望が原敬を奏薦したため、原が首相となった。山縣は大隈を元老に加えることを模索していたが、大隈自身が元老集団に入りたがらなかったことと、松方と西園寺が反対したため正式な元老とならなかった。しかしこのころの新聞報道では大隈を元老視したり、「準元老」として扱った報道も見られる。 大隈は大正10年(1921年)9月4日から風邪気味となって静養を始めたが、腎臓炎と膀胱カタルを併発して衰弱していった。このころから早稲田大学や憲政会など関係の深い者らにより大隈の顕彰運動が盛んとなり、「国葬」実現や公爵への陞爵、位階・勲等の陞叙を目指して、当時の高橋内閣や元老など政府関係者への工作や、大隈系新聞紙上での顕彰が展開されたが、すでに大勲位菊花章頸飾の授与が決定されていたため、元老である山縣、西園寺、松方、そして宮内大臣の一木喜徳郎も公爵陞爵は過分であると判断した。また、公爵陞爵より重大事であると見られていた国葬については協議も行われなかった。結果的に大隈への栄典は従一位への昇階と菊花章頸飾という形で決着し、大隈関係者が望んだ国葬の開催や陞爵は実現しなかった。大正11年(1922年)1月10日4時38分、大隈は早稲田の私邸で死去した。死因は腹部の癌と萎縮腎と発表された。満83歳で亡くなった。 しかし死去当日、大隈の側近で前衆議院議員であった市島謙吉が、「世界的デモクラシーの政治家である大隈」は、「国民葬」の礼を持って送ることがふさわしいと発表した。大隈家は同日、東京市に対して日比谷公園を告別式場として貸与することを申請し、認められている。前宮内大臣の波多野敬直を委員長とした葬儀委員会が、一定の儀式が定められており、一般人の参列ができない国葬ではなく、面識のないものでも参加できる「国民葬」の演出とその成功をねらった準備活動を進めた。1月17日に私邸で神式の告別祭が執り行われたのち、日比谷公園で「国民葬」が挙行された。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列し、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。大隈・憲政会系の新聞である『報知新聞』は100万人が沿道に並んだと報じている。その後、6時50分より東京都文京区の護国寺にある大隈家墓所で埋葬式が行われ、7時30分に墓標が建てられ、埋葬された。また大阪市・札幌市・京城・北京などの各都市でも告別式が行われている。佐賀市の龍泰寺にも大隈の墓所はある。
大隈の死を報じる『東京朝日新聞』
大隈の出棺
外濠通りを日比谷へ向かう葬列
護国寺内、大隈重信の墓
大隈は民間投資を重視する、いわゆる「小さな政府」論の支持者であった。 庶民に近い明るいイメージで「大平民」などと形容された。実際には土地転売などで巨利を上げ、多くの使用人を雇うなどの生活をしていたが、早稲田出身のジャーナリストも多く、良好な関係を築いていたため、このイメージが崩れることはなかった。 「あるんである」、もしくは「あるんであるんである」という言い回しを好んで用いた。 現在残されている大隈の関連文書はすべて口述筆記によるものであり、大隈自身の直筆のものは存在しない。これは弘道館在学中に字の上手な学友がいて、大隈は字の上手さでその学友に敵わなかったため、書かなければ負けることはないと負けず嫌いで字を書くことをやめ、以降は勉強はひたすら暗記で克服し、本を出版するときも口述筆記ですませ、死ぬときまで文字を書かなくなったためと言われている。しかし、大日本帝国憲法発布の際には内閣総理大臣以下国務大臣の副署は自署でなければならず、当時、外務大臣であった大隈の貴重な直筆が残っている。御署名原本の中の内閣総理大臣以下国務大臣の副署にある「大隈重信」の文字だけがあまり達筆ではないことがみられる。大隈は漢字とカナが混在しタイプライターが使用困難な日本語について「(ヨーロッパに比べ)三倍以上損をしている」と評している。 外交官として実績を持つ大隈は、英語文を読むことはできず、訳文を読んで判断を行った。蘭学寮時代には「勘」でオランダ語解読を行っており、優秀な成績を上げていたという。また700ページほどのオランダ語で書かれたナポレオン伝記を、1年半かけて読破したという。 高田早苗は大隈との初対面時(1882年4月)の印象として「一大人物」に見えたが「親みがたい峻烈の感じ」もしたと述べており、大隈の豪放磊落なイメージは時間をかけて徐々に形成されていったものとみられる。 友人であった五代友厚は、明治11年(1878年)ごろに大隈への忠告の手紙を書いている。そこには自信家で、他人の意見をあなどり、怒気を荒げることをやめるようにとある。明治14年(1881年)の政変以降はそのような言動を慎むようになった。 尾崎行雄は「一度聞いたことは決して忘れなかった」「大蔵省時代は、予算書をすべて暗記していた」と記憶力が優れていたとしたほか、理知・大度量においても伊藤や山縣を遥かに凌駕していたとしている。しかし政治的にはほとんど失敗続きであったとしており、その原因は大隈の性格にあったと見ている。尾崎は伊藤と大隈が碁を打った際のことを例に出し、こう例えている。伊藤は大隈より碁が下手であったが、「伊藤公は最初から余程慎重に考えて打つのに、大隈侯の方は、何も考えずに大まかにポンポン打つ。そうしている内に、だんだん局面が不利になってくると、侯はそこで初めて考える。もとより頭脳の良い人であるから、妙な窮手を考え出して、どうかこうか血路を拓くことはあるが、侯が考えるときには、既に局面が収拾すべからざる状態にまで立ち至っているのだから、結局負け碁になることが多かった。伊藤公は、初めから定石通りに、十分慎重に考えて打つから、破綻が少なく、大隈侯は難局に向わなければ、智慧を出さないのだから、天才的な閃きはあっても、結局は敗けることになる。これが両君の性格における著しい相違であった」。 伊藤博文との関係は複雑であった。時には政敵となり、時には連携しているが、基本的に大隈は伊藤を高く評価している。明治30年(1897年)、大隈は大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には当時、伊藤が本邸を構えていた。さまざまな政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、明治40年(1907年)には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で引き払われた。大隈と同郷で、彼に目をかけられた行政法学者・織田萬のエッセイ集によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈は流石にえらかった、永世不朽の育英の大事業に眼を着けたことには、この伊藤はたゞ頭を下げる外はない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と羨みつつも悲しみ、大泣きに泣いたとのことである。 伊藤と同様、井上馨ともに複雑な関係を持った。もともと中央に大隈を推挙したのは井上であり、留守政府時代に井上は大隈に、「あなたの他に信じて従っていく人はいない、真の友人と思う」と書簡を出すほど親しかった。明治6年4月の政変では井上を見捨てる形となったが、以後も交流は続いている。第二次大隈内閣では元老中で最も大隈を支持したが、任期途中に病没した。大隈は井上のことを「兎角憤りっぽく気難しいため首相に向かない」としながらも、なかなかの粋人であると評している。 大久保利通とは、木戸派時代には対立し、それ以降もむしろ伊藤に近かかった大隈だが、後年の回想では「大苦労を重ね」「建略を用い」「偉人となった」政治家として絶賛している。 西郷隆盛は大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治4年(1871年)の西郷上京の際に書かれた『西郷吉之助意見書』では、名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやることではない」と切り捨てた。さらに同年、西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。大隈は西郷について、尊敬はしていたが、政治家的な能力に欠けるとし、「人情には極めて篤かった」が、政治に関しては任せきりであったと、人格面での評価はしても政治家としては評価していない。 大隈重信は、第一の政治家として木戸孝允を挙げている。最も感心したことを「長州出身なるに拘わらず、薩長の専横を憤ってこれを抑えられた一事」だといい、木戸はつねに「もし二藩の人をして跋扈せしめたならば、幕府の執政と異なったことは無い、既に三百藩を廃して四民平等となしたる以上は、教育を進めて人文を開き、以て立憲国になさなければならぬ」と口にしていたと『大隈伯百話』で述べている。 大隈は、岩倉具視と伊藤博文とで朝の8時から夜の11時ごろまでそれぞれ4~5升ほど酒を呑んで語り明かしたという談話を残している。『明治の初年に、或る時、朝の八時から岩倉公と伊藤と我輩と三人が飲み始めた、山尾庸三は酒が飲めないから、燗番で酒の燗をして居る、三人で飲み且つ語って、夜の十一時頃迄に、各々四五升も平らげたが、我輩は未だ中々酔わなかった、然るに岩倉も伊藤も弱い者だから酔って喧嘩を始めた、岩倉が「貴様が足軽の癖に生意気なことを言う」と伊藤を叱咤すると、伊藤が「何だ、青公卿に天下の形勢が分かる者か」と罵り返した、双方共に酔っておるものだから、言葉が荒くなったのだ、スルと岩倉が大いに立腹して「参議の一人たる伊藤から、青公卿なるが故に天下の形勢は分からぬと言われては、上御一人に対し奉りて相済まぬから、止むを得ず右大臣を辞する」と言い出した。二人は酔っておるから、こんな事になったのだ、そこで我輩は岩倉に向かい「それは面白い、早速辞表をお書きなさい、不肖ながらこの大隈が、陛下へお取次ぎを致そう」と切り出すと、燗番をしていた山尾が、驚いて飛んで来て、マアマアと双方をなだめたことが有る、其の頃から酒も気力も我輩が一番強かった』 大隈の回想によれば、当初福澤諭吉は大隈のことを「生意気な政治家」と嫌っており、大隈のもとに挨拶に行こうとしなかった。このため大隈は福沢を「傲慢な奴」と言って互いに会うことを避けていた。ある日、大隈はある会合に出向くと、そこに福沢がおり、話してみると2人は意気投合したという。福沢は明治11年(1878年)、慶應義塾の経営打開のため政府から25万円の無利子融資を受ける交渉を行っているが、この仲介役となったのが大隈であった。また福沢は仲介を行っていた炭鉱売却事業に、大隈の介入を要請して成功させている。大隈の側近となった矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅は慶應義塾出身であった。 明治十四年の政変では、大隈は福沢と連携したと見られて失脚し、矢野、尾崎、犬養らも下野することになった。しかしこの事件によって、かえって福澤との絆は堅固なものとなり、政変後に設立された東京専門学校の開校式には福澤の姿があった。また、福澤の葬儀では福澤家は献花を断っていたが、大隈からの献花に対しては黙って受け取った。 明治39年(1906年)ごろ、当時園芸家を目指していたのちの衆議院議員・山本宣治を住み込みで雇っていた。さらに山本のカナダへの園芸留学を支援した。 同志社大学の創立者である新島襄とは、東京専門学校の設立時から深い交流があった。新島は同志社の設立資金を集めるべく奔走していたが、大隈がこれに賛同したことで両者の親交は深まった。大隈は、新島亡きあとも同志社綱領改定に端を発した紛争の調停に尽力したほか、京都に行ったときは必ず同志社に立ち寄り、演説していたという。現在、早稲田大学と同志社大学との間には国内交換留学協定が締結されている。 日本女子大学の創始者である成瀬仁蔵とも親交があった。1896年5月、大隈は女子大学設立に奔走する成瀬の訪問を受け、協力を要請される。その後、大隈は大学創立委員会委員長となった。1901年に日本女子大学は設立され、大隈は終身評議員となり、1919年の成瀬の告別式には弔辞を寄せている。また大隈の寄付によって大学の校庭に花園が作られている。坪内逍遙ら早稲田大学の教員が日本女子大学での講義を担当したほか、1999年7月に早稲田大学と日本女子大学の間で学生交流協定が締結され、双方の大学の講義を履修することが可能となっている。 早稲田の大隈邸には、早稲田大学総長任期中も含め、イェール大学教授のG・Tラッド(1899年、1906年)、ハーバード大学総長のC・W・エリオット(1912年、1921年)、オックスフォード大学教授(1912年)のA・H・セースのほか、スタンフォード大学総長やブラウン大学総長、シカゴ大学総長夫妻など世界各国から多数の著名人が来邸したため、「私設外務省」と呼ばれたりもした。 ヴィクトリア女王の女官を務め、のちオックスフォード大学に入学し、比較宗教学を学んだE・A・ゴルドンは、日ごろから大隈候を敬慕し、名誉講師として講演を行うなど縁の深かったことから、帰国の際、早稲田大学に「石羊」と「ゴルドン文庫」を寄贈された。羊の石像は、早稲田大学の高田早苗記念研究図書館を見守っている。 鳳が横綱に昇進した際に土俵入りで太刀持ちが使う太刀を贈った。 明治41年(1908年)、コロンビアから来日したアントニオ・イスキエルド(1866 ‐ 1922)に庭師の川口友広を紹介し、川口ら3名(2名は氏名不詳)の日本人が初めてコロンビアに渡った。イスキエルドは当時のコロンビア大統領・ラファエル・レジェスから極東との交易の可能性について調査を命じられており、大隈は川口を推挙することでコロンビアとの外交関係を友好的に拡大したいと考えていた。川口は首都ボゴタにあるイスキエルド所有の森林を整備し、1910年に開催された独立100周年記念の博覧会場として利用された。川口らのその後の消息は不明だが、ボゴタに川口の墓碑があるとの未確認情報もある。 浦上四番崩れの際、イギリス公使ハリー・パークスは「日本の行っていることは野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議してきた。交渉が始まるとパークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ」と激怒したという。しかし大隈はパークスのいつもの手段であろうと相手にしなかった。大隈の上官が、「大隈は日本政府の承認を経て交渉に臨んだのでその言葉は責任を有する」と述べたことで、パークスは交渉の席についた。大隈は「ある歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。またある宗教家は言う、欧州の歴史はすなわちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史はすなわち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と続け、今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、パークスに抗弁した。大隈はパークスが感情を高ぶらせても、そのために外交関係を損なうことはしないと見ていたため、信徒の処分についてはそのままにしておいてよいと判断し、キリスト教禁令は当分そのまま存続することになる。 あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。これは大隈が政治家であるためさまざまな方面に応援を求めなければならなかったという事情も存在する。早稲田大学非常勤講師の佐藤能丸は、このことが今日にいたるまで大隈の全集が発行されていない遠因となっていると指摘している。 大隈は自らに爆弾を投げつけた来島恒喜について「爆裂弾を放りつけた奴を、決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わず。」「華厳の滝に飛び込む弱虫よりは、よっぽどエライ者と思うておる」「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている。小久保喜七は毎年来島のために年忌を行っていたが、大隈は毎年法要に代理人を送ってきたという。大隈の没後も、養嗣子の大隈信常によって代理人の派遣は続けられた。 日本初の地方遊説を行った首相でもある。 日露戦争開戦の前年にあたる明治36年(1903年)、対印貿易の重要性を認識していた渋沢栄一、長岡護美の後押しを得て、日印協会を設立している。 大正8年(1919年)、病床にあった成瀬仁蔵を励ますために、トマトやメロンをもって見舞った。 大隈は日本人で初めてマスクメロンを食べたと言われ、この味が気に入り大好物となり、外国から持ち帰り、当時は珍しかったガラスの温室を作り、日本で初めてマスクメロンを栽培したと言われている。 人間は25年を5回生きる能力を有している、いわゆる人生125歳説を唱えた。大隈自身は83歳で死去したが、創立した早稲田大学にとって125という数字は特別なものとなり、大隈講堂の時計台の高さは125尺(約37.9メートル)であるほか、創立125周年にあたる平成19年(2007年)には記念式典を行っている。 お金を表す指のサインを考えた人物である。彼は通貨を設定するときにお金(硬貨)は円だから、誰でもお金のことだと分かるようにこのサインを使って説明した。 身長は「五尺八寸余」だという。 早大野球部員の久慈次郎(身長5尺9寸)との背比べに敗れたが、腹の大きさでは我輩の勝ちであるといい、久慈に自らの腹を触らせて「これが明治維新をつくった腹だ」と高笑した。 天気予報の177番は、もともと大隈重信の自宅の電話番号であった。 大隈は下野後、苦しい生活をしているとしばしば語っているが、明治25年ごろには、現職の大臣に匹敵する毎月1500円の生活費を使っていたという。大隈は土地の投機などにより莫大な収益を得ていた。 軽井沢に大規模な洋館・和館別荘(洋館はあめりか屋建築。1917年竣工。野球場も完備していた)があり、その別荘跡に面する通りは現在「大隈通り」と呼ばれている。1923年には摂政宮(のちの昭和天皇)がこの別荘に避暑滞在している。なお、大磯や国府津にも別荘があったことは前述した通りである。 明治35年(1902年)から大正8年(1919年)にかけて三省堂書店で大隈重信を総裁、齋藤精輔を編集長として、日本最初の本格的な百科事典である『日本百科大辞典』の編纂が行われた。この辞典の編纂により三省堂は一時破産したが、この事業の挫折は大日本帝国の文化的な威信にかかわるという声が上がり、再建が計画され、大正8年(1919年)に全10巻となって完成した。 昭和44年(1969年)から同45年(1970年)にかけて、早稲田大学出版部で『大隈伯昔日譚』などが入った木村毅監修『大隈重信叢書』全5巻が出された。 大正4年(1915年)に蝋管(蓄音機の初期型)に録音された総選挙応援演説の肉声が、平成19年(2007年)に東大先端科学技術センターにより公開された。 マスクメロン協会の設立や帝国愛蘭会初代会長、日本園芸会会長、日本自動車協会の設立・名誉会長、帝国航空協会初代会長、帝国鉄道協会会長、経済調査会官制会長、大日本皇道立教会会頭、同仁会会長(現明和病院)、恩賜財団済生会顧問、東洋文化学会(大東文化学院の礎)初代会長、大日本教育会(帝国教育会)名誉会員など、政治や教育以外の多方面で活躍し要職に就いた。 伊藤之雄は公式伝記である『大隈侯八十五年史』が大隈を「薩長などの藩閥と戦った」「民の政治家」として描き、馬場恒吾の『大隈重信伝』(1932年)などでも踏襲されたとしている。この見方は戦後の中村尚美『大隈重信』(1961年)や木村時夫『知られざる大隈重信』(2001年)でも踏襲された。真辺将之『大隈重信』(2017年)はこれに対し、大隈は前半生において必ずしも「民衆政治家」ではなかったとし、その後半生における変化を描いている。 ジョイス・リブラ(英語版)は『大隈重信―その生涯と人間像』 (1980年) において「民主主義を推進した」「型破り」で「変幻自在な」行動をした「日本最初の民衆政治家」と評している。 東京日日新聞1922年1月21日記事「噫大隈侯」「(大隈の)政治家的生涯が果たして成功と目すべきものであったか否か、おそらく後世の歴史家も、是れ論定に苦しむであろう如く、吾輩も亦た同じく論定に苦しむものである」 江藤新平 「大隈の事を成さんとするや、直往邁進、縦令、途上に川あり山あるも、之を顧みず、彼岸に達せずんば止まず。故にその事業は必ず遂行するも、その経過の跡を顧みれば、その危険名状すべからず。人をして漂然として肝胆を寒うせしむるものあり」 尾崎咢堂 「予は四十有余年の久しき間、親しく教えを受けたが、大隈候の怒った顔を見たことがない」 渋沢栄一
「大隈重信候は他人の言葉を聞くよりも、他人に自分の説を聞かせるのを主とする御仁である。大隈候のところで出かけた人は、自分ではいかに申し上げてきたつもりになっていても、たいていは申し上げずに申し聞かされて帰るのが通例である。ややもすればこちらの話が終わるのを待っていられず、途中から横道に話を引き込んで、自分の話を聞かせようとするクセがある。ただ大隈候について感心するところは、あの通り他人に聞かせるばかりで、容易に他人の話を聞こうとしないわりに、他人からちょっと話したことを案外よく記憶されていることである」 関直彦
「伊藤公は官僚の巨頭 大隈伯は政党の首領」 伊藤痴遊 「一番の長所は弁舌であったが、実をいうと、冗舌の多い割に、聞く人をしてそういう風に感ぜしめなかった所がある。演説でも、講演でも、広げるだけ広げて、どういう風につぼめて行くかと思っているうちに、いつの間にかその締めくくりをつけてしまう、といった調子のあの呼吸は、学ばんと欲して及び得ざる所である。快活であり、かつ豪放であり、どうかすると何を言っているのか論点の判らぬ事はあるが、それでも聞いている者には少しも倦怠を与えず、まことによい感じを与えるのが、大隈の弁舌であった」 堀江秀雄 「豪宕の相貌ありて多言、とてもかくても他人に下らざる属気があった」 松井広吉 「何といっても気持ちの良い、しかして政界の人気役者の随一は大隈候だ」 池辺三山 「私が大隈さんに一番感心しているのは、弁舌の面白いことだ。頭の中で議論を組み立てることの敏捷く手早いこと、何でも取り込んできて堂々たる大議論を咄嗟に纏め上げる手際。そういう点で私はあの人を感心している。畢竟それは記憶がよいためであろうが、実際あの人の記憶の機関というものはよほどよろしい。弁舌の上からいったならば、あのくらいの年になった政治家の中でちょっと敵手はありますまい。死んだ伊藤公でも匹わない。もっとも伊藤公も座談はなかなかうまかった。けれども演説にかけてはとても大隈さんに匹わない。ともかくも大隈さんの演説には、何もかも言いまくってしまうという勢いがある。それがあの人の長所なんだが、つまるところそれがまたあの人の短所であるかもしれない」 憲政本党党員だが、反大隈の改革派に属していた木下謙次郎は、第二次大隈内閣成立の際に逓信次官となった。この際大隈は「をを、木下来たか、よう来た、大分肥って大きくなった」と言って48歳の木下の頭をなでたという。木下は大隈を「生活向きは派手で、非常に負けん気の強い野心家であり、かつ度量の大きい人」と評している。 明治元年5月6日 - 従五位下 明治2年2月 - 従四位下 明治4年12月9日 - 正四位 1871年(明治14年)7月22日 - 従三位 1887年(明治20年)12月26日 - 正三位 1888年(明治21年)2月17日 - 従二位 1898年(明治31年)6月20日 - 正二位 1922年(大正11年)1月10日 - 従一位 明治5年10月25日 - 御剱一口 1877年(明治10年)11月2日 - 勲一等旭日大綬章 1887年(明治20年)5月9日 - 伯爵 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1907年(明治40年)2月2日 - 御紋付御杯 1910年(明治43年)4月29日 - 旭日桐花大綬章 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章 1916年(大正5年)7月14日 - 大勲位菊花大綬章・侯爵 1922年(大正11年)1月10日 - 菊花章頸飾 1882年(明治15年)2月22日 - ロシア帝国:聖アンナ勲章(英語版、ロシア語版)一等 1889年(明治22年)5月7日 - ロシア帝国:白鷲勲章(英語版、ロシア語版) 1897年(明治30年)
5月20日 - ドイツ帝国:赤鷲勲章 1898年(明治31年)
7月4日
オランダ王国:オランダ獅子勲章大十字騎士章 7月27日 - シャム王国:白象第一等勲章 9月20日 - ポルトガル王国:ヴィラ・ヴィソーザ無原罪の聖母騎士団勲章グランクルース 1899年(明治32年)3月3日 - オーストリア=ハンガリー帝国:オーストリア帝室レオポルト勲章(ドイツ語版)グランクロワー 1910年(明治43年)2月14日 - 大清帝国:頭等第三双竜宝星(中国語版) 1916年(大正5年)
6月12日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グランクロワ 最初の妻・美登との長女・熊子:幼名は犬千代。南部利剛の次男・英麿を婿養子に迎えるが、英麿の破産問題により、明治35年(1902年)9月15日に離婚し、熊子も相続人から外れている。 2番目の妻・綾子は旗本・三枝七四郎の次女で、小栗忠順の親戚。 綾子の兄の三枝守富(小倉鉄道取締役)の三女・光子(1884年1月20日生)を1884年3月7日に養女としているが、実際には大隈が女中に産ませた子である。この関係が明らかになったのは1989年、大隈の生誕150年を記念し、早稲田大学出版部から発刊された『エピソード大隈重信』の佐藤能丸の記述によるものである。これは真辺将之の『大隈重信―民意と統治の相克』(中央公論新社)において、市川謙吉(大隈の腹心、早稲田大学図書館長の回想を根拠に、生母の名が千代で、重信の三井子付きであったことを含め、再確認されている。 養嗣子・信常は伯爵・松浦詮の五男で、英麿の離縁の1月後の1902年10月15日に光子の婿となった。大隈の死後に侯爵。貴族院議員、衆議院議員を務めた。 衆議院議員で医師の大隈和英は、自身のFacebookにて【「大隈重信公の玄孫」ではありません。】(2014年12月20日付)と否定している(実際には重信以前に分家した大隈家の別の家系)。 大隈重信は政治家と教育者という2つの顔を持っていたため、おもに大礼服姿のものとガウン姿のものに分けられる。 『古銭及古金銀価格表』1874年8月。 『国議院設立意見』伊藤博文、1881年。NDLJP:1170238。 - 伊藤博文写の複製。 『大隈伯昔日譚』円城寺清執筆、立憲改進党々報局、1895年6月15日。NDLJP:781144。
『大隈侯昔日譚』円城寺清執筆、新潮社、1922年1月17日。NDLJP:1908934。 『大隈伯昔日譚』円城寺清執筆、京口元吉校訂、冨山房〈冨山房百科文庫 51〉、1938年11月10日。NDLJP:1222744。 『大隈伯昔日譚』円城寺清執筆(復刻版)、明治文献、1972年3月30日。 『大隈伯昔日譚』円城寺清執筆(復刻版)、東京大学出版会〈続日本史籍協会叢書 第4期第7〉、1980年9月。 『大隈伯昔日譚』円城寺清執筆(復刻版)、東京大学出版会〈続日本史籍協会叢書 第4期第8〉、1981年4月。 内貴甚三郎 編『菅公談』北野会、1900年10月5日。NDLJP:781575。
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2016年、日本、NHK連続テレビ小説、役者:高橋英樹) 西郷どん(2018年、NHK大河ドラマ、役者:尾上寛之) いだてん〜東京オリムピック噺〜(2019年、NHK大河ドラマ、役者:平泉成) 青天を衝け(2021年、NHK大河ドラマ、役者:大倉孝二) ^ 父親は婿養子だが、母親は重信の娘 ^ 佐賀藩では、藩士の禄高は「石高」ではなく「物成(実収入。石高の4割程度)」で表された。 ^ 大隈はウィリアムズ、並びにフルベッキなどの元で、講義の聴講や英書の質問をするなど英学を学んだ。その側らで、キリスト教の事も研究しようと思い、当時の日本ではキリスト教は厳禁であったが、学問上の理論や原理として、研究するのはいささかも問題がないと信じて、副島種臣とともに約1年半の間、研究を行った。 ^ 9月8日、明治元年へ1月1日にさかのぼって改元 ^ 意見書を書いたものは福沢諭吉であるという観測が行われており、伊藤も「福沢と同一なり」と見ていたが、実際には統計院大書記官を勤めていた矢野文雄であったとみられる(伊藤之雄 & 2019上, p. 278-281) ^ 伊藤之雄は払下げのリークは大隈派官僚の矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄、小野梓のいずれかではないかと推測している(伊藤之雄 & 2019上, p. 284) ^ 「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」大日本帝国憲法第19条 ^ 事件直後、現場を通りかかった高木兼寛により最初の処置が行われ、その後に駆け付けたドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツ、佐藤進、伊東方成、岩佐純、池田謙斎らと高木による協議で右足の切断が決定された。その右脚切断手術は佐藤やベルツにより行われ、その後の大隈は義足を着用した。この際に大隈が失った右脚は、アルコール漬けにされ大隈邸にて一時保管後、消費されるアルコール代が高額で手間がかかるため赤十字中央病院に寄付された。更にその後日本赤十字看護大学にて由来不明となったままでホルマリン漬けで保存(経年のため変色が認められるものの生きているかのようであったという)されていたが、1988年(昭和63年)由来判明後に早稲田大学で保管され、1999年(平成11年)に故郷である佐賀市の大隈家菩提寺の龍泰寺にて安置(保存のための樹脂加工済)されている。 ^ 大隈は「留任の大命を受けた以上は自分の意志で進退を決めるわけにいかない。とやかく言うのはほとんど君主権を犯すもの」と当時述べた。 ^ 「大隈が口舌の徒であるという評価は、明治・大正の人には常識だったようである。大隈は、しばしば、その演説を『我が輩は』で始めて、『あるんである』、時としては『あるんであるんである』で結んだ。ただの口癖と言えばそれまでであるが、少なくとも、言葉を節して、一言半句無駄なことを言うのを忌む人には、とうていできないことである」とある。 ^ 大隈自身の回想では明治7年(1874年)ごろとなっているが、大隈はこの際に伊藤と井上馨に福沢を紹介してふたりとも意気投合したと記述しており、伊藤之雄は内容から見て明治3年(1870年)ごろではないかとみている(伊藤之雄 & 2019上, p. 254) ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「大隈重信」 ^ 早稲田大学古典籍総合データベース ^ 2020年9月4日付スポーツ報知~菅義偉官房長官、大隈重信、原敬、犬養毅に続く報知新聞発4人目の総理誕生へ…法大時代にアルバイト ^ 藤本大士「医療宣教師トイスラーの文化外交 : 1911‐1917年の聖路加病院国際病院化計画における日米政財界の協力」『アメリカ太平洋研究』第20号、東京大学大学院総合文化研究科附属グローバル地域研究機構アメリカ太平洋地域研究センター、2020年3月、75-91頁、ISSN 1346-2989。 ^ 大隈重信100年アカデミア『同志社の新島襄を情熱的にサポートする』 ^ “早稲田大学・ニュース『大隈重信の出身地・佐賀県にて「早稲田の聖地さが」記念プレート設置式開催(7/30』”. 2022年8月20日閲覧。 ^ 明治のイノベーター 大隈重信 - 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大隈重信関係文書(MF:早稲田大学蔵) | 憲政資料室の所蔵資料 | 国立国会図書館 第2次大隈重信内閣成立|史料にみる近代日本 歴代総理の写真と経歴 第8・17代 - 首相官邸 大隈重信関係資料 - 古典籍総合データベース - 早稲田大学 佐賀県「大隈重信」|日本全国の慶應義塾|慶應義塾大学 通信教育課程 大隈重信 :: 東文研アーカイブデータベース - 東京文化財研究所 大隈 重信:作家別作品リスト - 青空文庫 大隈重信記念館 “早稲田大学サイト 「創設者 大隈重信」”. 早稲田大学. 2013年5月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月9日閲覧。 早稲田人名データベース 大隈重信 大隈重信邸ガーデンパーティのアルバム 1898年、ハーバード大学図書館 大隈重信 - NHK for School 『大隈重信』 - コトバンク 表 話 編 歴 大隈英麿 1882-1887 前島密 1887-1890 鳩山和夫 1890-1902 校長 鳩山和夫 1902-1907 (総長 大隈重信 1907-1920) 高田早苗 1907-1915 天野為之 1915-1917 坂本三郎 1917 代表者理事/学長 平沼淑郎 1917-1918/1918-1920 (総長 大隈重信 1920-1922) 平沼淑郎 1920-1921 塩沢昌貞 1921-1923 高田早苗 1923-1931 田中穂積 1931-1944 中野登美雄 1944-1946 代行 林癸未夫 1946 島田孝一 1946-1954 大濱信泉 1954-1966 代行/総長 阿部賢一 1966/1966-1968 時子山常三郎 1968-1970 村井資長 1970-1978 清水司 1978-1982 西原春夫 1982-1990 小山宙丸 1990-1994 奥島孝康 1994-2002 白井克彦 2002-2010 鎌田薫 2010-2018 田中愛治 2018- カテゴリ メディア 早稲田大学 学校法人早稲田大学 学校法人 人物 表 話 編 歴 初代 長岡護美 (1903年就任) 第2代 大隈重信 第3代 渋沢栄一 第4代 大隈信常 第5代 一万田尚登 (1952年-1955年) 第6代 櫻内義雄 (1955年-2003年) 第7代 森喜朗 (2003年12月-2022年6月) 第8代 安倍晋三 (2022年6月-2022年7月) 初代 平林博 (2007年6月-2022年6月) 第2代 齋木昭隆 (2022年6月-現在) 谷野作太郎 鈴木修 佐々木幹夫 張富士夫 岡素之 坂根正弘 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 大久保利通 木戸孝允 大久保利通 伊藤博文 大久保利通 伊藤博文 松方正義 山田顕義 山県有朋 山県有朋 西郷従道 品川弥二郎 副島種臣 松方正義 河野敏鎌 井上馨 野村靖 芳川顕正 板垣退助 樺山資紀 芳川顕正 板垣退助 西郷従道 末松謙澄 大隈重信 内海忠勝 児玉源太郎 桂太郎 芳川顕正 清浦奎吾 原敬 平田東助 原敬 大浦兼武 原敬 大隈重信 大浦兼武 大隈重信 一木喜徳郎 後藤新平 水野錬太郎 床次竹二郎 水野錬太郎 後藤新平 水野錬太郎 若槻礼次郎 浜口雄幸 鈴木喜三郎 田中義一 望月圭介 安達謙蔵 中橋徳五郎 犬養毅 鈴木喜三郎 山本達雄 後藤文夫 潮恵之輔 河原田稼吉 馬場鍈一 末次信正 木戸幸一 小原直 児玉秀雄 安井英二 平沼騏一郎 田辺治通 東條英機 湯沢三千男 安藤紀三郎 大達茂雄 安倍源基 山崎巌 堀切善次郎 三土忠造 大村清一 植原悦二郎 片山哲 (臨代) 木村小左衛門 廃止 内事局長官・(内事局官房自治課長・官房職制課長) - 国務大臣地方財政委員会委員長・全国選挙管理委員会委員長・(総理庁官房自治課長) - 国務大臣地方自治庁長官 - 国務大臣自治庁長官 - 自治大臣 - 総務大臣 内事局長官・(内事局第一局長) - 国家公安委員会委員長・(国家地方警察本部長官) - 国務大臣国家公安委員会委員長・(警察庁長官) 建設院総裁 - 建設大臣 - 国土交通大臣 厚生大臣 - 厚生大臣・労働大臣 - 厚生労働大臣 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁特別審査局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府特別審査局長) - 法務大臣・(公安調査庁長官) 文部大臣・(文部省社会教育局文化課長) - 文部大臣・(文部省社会教育局著作権課長)- 文部大臣・(文部省文化局長) - 文部大臣・(文化庁長官)- 文部科学大臣・(文化庁長官) 神社本庁総長(宗教法人化) 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁民事局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府民事局長) - 法務大臣・(法務省民事局長) 外務大臣・(入国管理部長) - 外務大臣・(出入国管理庁長官) - 外務大臣・(入国管理庁長官) - 法務大臣・(法務省入国管理局長)- 法務大臣・(出入国在留管理庁長官) 内閣総理大臣・(終戦連絡中央事務局長官) - 内閣総理大臣・(連絡調整中央事務局長官) - 外務大臣・(外務省連絡局長) - 外務大臣・(外務省国際協力局長) 表 話 編 歴 河野敏鎌 西郷従道 谷干城 西郷従道 山縣有朋 土方久元 黒田清隆 榎本武揚 井上馨 岩村通俊 陸奥宗光 河野敏鎌 佐野常民 後藤象二郎 榎本武揚 大隈重信 山田信道 伊東巳代治 金子堅太郎 大石正巳 曾禰荒助 林有造 平田東助 清浦奎吾 松岡康毅 大浦兼武 小松原英太郎 牧野伸顕 仲小路廉 山本達雄 大浦兼武 河野広中 仲小路廉 山本達雄 荒井賢太郎 田健治郎 岡野敬次郎 前田利定 高橋是清 山崎達之輔 内田信也 島田俊雄 石黒忠篤 千石興太郎 表 話 編 歴 松平慶永 伊達宗城 大久保利通 大隈重信 佐野常民 松方正義 松方正義 渡辺国武 井上馨 松田正久 西園寺公望 曾禰荒助 阪谷芳郎 桂太郎 山本達雄 若槻禮次郎 高橋是清 武富時敏 寺内正毅 勝田主計 市来乙彦 井上準之助 勝田主計 濱口雄幸 早速整爾 片岡直温 三土忠造 藤井真信 町田忠治 馬場鍈一 結城豊太郎 賀屋興宣 池田成彬 石渡荘太郎 青木一男 櫻内幸雄 河田烈 小倉正恒 賀屋興宣 津島壽一 広瀬豊作 渋沢敬三 石橋湛山 矢野庄太郎 栗栖赳夫 北村徳太郎 泉山三六 大屋晋三 臨時代理 池田勇人 向井忠晴 小笠原三九郎 一万田尚登 佐藤栄作 水田三喜男 田中角栄 福田赳夫 植木庚子郎 愛知揆一 大平正芳 坊秀男 村山達雄 金子一平 竹下登 渡辺美智雄 宮澤喜一 橋本龍太郎 海部俊樹 羽田孜 林義郎 藤井裕久 武村正義 久保亘 三塚博 松永光 宮澤喜一 宮澤喜一 塩川正十郎 谷垣禎一 尾身幸次 額賀福志郎 伊吹文明 中川昭一 与謝野馨 藤井裕久 菅直人 野田佳彦 安住淳 城島光力 麻生太郎 鈴木俊一 加藤勝信 表 話 編 歴 政治経済学部 政治学研究科 経済学研究科 公共経営研究科 現代政治経済研究所 法学部 法学研究科 比較法研究所 法務研究科 法務教育研究センター 文化構想学部 文学部 第一文学部 第二文学部 文学研究科 総合人文科学研究センター 教育学部 教育学研究科(旧教職研究科) 教育総合研究所 商学部 商学研究科 商学学術院総合研究所 経営管理研究科 ファイナンス研究センター 会計研究科 産業経営研究所 創造理工学部 基幹理工学部 先進理工学部 創造理工学研究科 基幹理工学研究科 先進理工学研究科 理工学術院総合研究所 国際情報通信研究センター 情報生産システム研究科 環境・エネルギー研究科 環境総合研究センター 次世代ロボット研究機構 社会科学部 社会科学研究科 先端社会科学研究所 人間科学部 人間科学研究科 人間総合研究センター スポーツ科学部 スポーツ科学研究科(センター) 国際教養学部 国際コミュニケーション研究科 アジア太平洋研究科(センター) 日本語教育研究科 大隈講堂 大隈庭園 大隈重信像 早稲田大学図書館 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 早稲田大学會津八一記念博物館 早稲田大学国際文学館 双柿舎 中野国際コミュニティプラザ 本庄早稲田の杜ミュージアム 野球部 ア式蹴球部(サッカー部) ラグビー蹴球部 米式蹴球部(アメリカンフットボール部) 競走部 バスケットボール部 ア式蹴球部女子(女子サッカー部) 男子ハンドボール部 応援部 雄弁会 短歌会 交響楽団 グリークラブ 混声合唱団 合唱団 早稲田文芸会・児童文学研究会 ワセダミステリクラブ 早稲田スポーツ新聞会 早稲田大学仏教青年会 早稲田大学囲碁会 早稲田 戸山 西早稲田 所沢 喜久井町 東伏見 上石神井 本庄 北九州 日本橋 早稲田大学高等学院・中学部 早稲田大学本庄高等学院 早稲田高校・中学 早稲田実業高等部・中等部 早稲田摂陵高等学校
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2024/12/01 05:03更新
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ookuma shigenobu
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