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板垣退助の情報 (いたがきたいすけ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【12月4日】今日誕生日の芸能人・有名人

板垣退助の情報(いたがきたいすけ) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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もしもしロボ

板垣 退助さんについて調べます

■名前・氏名
板垣 退助
(読み:いたがき たいすけ)
■職業
政治家
■板垣退助の誕生日・生年月日
1837年5月21日 (年齢1919年没)
酉年(とり年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
高知出身

板垣退助と同じ1837年生まれの有名人・芸能人

板垣退助と同じ5月21日生まれの有名人・芸能人

板垣退助と同じ出身地高知県生まれの有名人・芸能人


板垣退助と関係のある人

山県有朋: 結果、自由党内部から板垣退助を擁立する一派(土佐派)が政府の妥協を宣言、最初の帝国議会を円満に閉会させたい議員全体の意向もあり、予算案削減額はあまり変わらなかったものの、明治24年(1891年)3月2日に衆議院で予算が成立した。


天龍三郎: この頃、頭山満は、望月圭介、胎中楠右衛門らと、板垣退助の生家である高知市・高野寺に板垣会館を建設せんとする谷信讃らの活動に賛同し「板垣会館寄附相撲後援会」を組織。


谷干城: 幕末は、土佐藩の勤皇派として、乾退助(板垣退助)の片腕を為し、薩摩藩・小松帯刀、西郷隆盛らと「薩土討幕の密約」を締結する。


伊東巳代治: ただし、翌29年(1896年)に自由党から板垣退助が内務大臣に就任したことで内閣が分裂、伊藤の辞任により内閣書記官長を辞職している。


後藤象二郎: 墓の形状は板垣退助の墓と全く同型である。


北村久寿雄: 練習には板垣退助や坂本龍馬も泳いだという鏡川を流れに逆らって泳ぐ方法を採用した。


大隈重信: 6月22日、進歩党は板垣退助の率いる自由党と合同して憲政党を結成した。


寺尾豊: 板垣退助先生顕彰会初代会長。


岡崎誠也: 2018年(平成30年)7月16日、明治維新150年・板垣退助第百回忌法要が板垣退助の生誕地である高野寺で挙行された際、板垣退助の子孫らが臨席する中、高知県の政界人を代表して弔辞を奉読。


ハーバート=スペンサー: 1883年の4月9日にはアシニアーム・クラブにてアーネスト・サトウとスペンサーと共に森有礼が会談をしている(このあと5月5日板垣退助とスペンサーの会談が行われた)。


ハーバート=スペンサー: 板垣退助は『社会静学』(松島剛訳『社会平権論』)を「民権の教科書」と評している。


安倍晋三: 主催者の板垣退助玄孫・髙岡功太郎は「政治家として国に殉じられました安倍先生の


嶋岡晨: 『自由は死せず 小説板垣退助』久保書店(人物選書)1966


西郷隆盛: 明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、帰国した大久保らと対立、この結果の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。


河野広中: 兄・河野広胖らと共に明治政府への帰順を思案し、美正貫一郎の仲介を経て東山道総督府軍先鋒の参謀であった板垣退助に決死の覚悟で会見した。


明治天皇: 木戸は土佐藩の後藤象二郎とも版籍奉還について協議し、明治2年1月14日(1869年2月24日)に京都で大久保と長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助が会談し、版籍奉還の方針が合意された。


本山白雲: 板垣退助伯爵像(東京芝公園に建立、のちに金属供出、再建されず)


小泉策太郎: 1894(明治27)年板垣退助が社長の『自由新聞』に入社し、幸徳秋水らと思想上の相違をこえて親交をもった。


佐藤修幸: 企画演劇集団ボクラ団義 vol.14『耳があるなら蒼に聞け ~龍馬と十四人の志士~』(2014年6月25日 - 7月6日、全18回公演、中野 ザ・ポケット) - 板垣退助


塩見俊二: 1968年(昭和43年)7月、板垣退助先生顕彰会顧問に就任。同年12月8日、東京・品川で「明治維新百年・板垣退助先生五十回忌墓前祭」を挙行。


明治天皇: 西郷は7月29日から8月17日まで板垣退助に三通の書簡を送っているが、即時朝鮮出兵を主張する板垣の意見に反対している。


伊藤博文: このあと木戸とは疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保・岩倉と連携する道を選ぶ一方、盟友の井上馨とともに木戸と大久保の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎを取り明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。


山根綺: 幕末動乱美少女伝(2024年、板垣退助


近藤勇: 近藤は3月4日に花咲宿(山梨県大月市)において東山道先鋒総督参謀・板垣退助の率いる迅衝隊が甲府を制圧したことを知り、3月6日に甲州市勝沼町において勃発した甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で迅衝隊と戦うが敗れて敗走する。


五代友厚: 大阪会議は明治8年(1875年)2月に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府(立憲政治の樹立)および参議衆就任等の案件について協議した明治憲政史上特筆すべき重大会議である。会議にいたる背景は、征韓論をめぐる明治六年政変で政府首脳が分裂した結果、征韓派の西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去った。


後藤象二郎: 土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。


植木枝盛: 明治10年(1877年)、板垣退助に従って帰郷し書生となる。


中山博道: 明治時代末期、「高知県(旧土佐国)に神伝重信流という一世唯一伝授が掟の居合が伝わっていると板垣退助と言っていた」と聞いた博道は、土佐藩出身の政治家で、無双直伝英信流第15代宗家・谷村亀之丞自雄の親族でもある板垣退助を訪ね、その口利きで、神伝重信流(神伝重信流下村派)の細川義昌に入門し、細川から免許を允可された。


片岡健吉: 2月2日、現職のまま大目付に任じられ、御軍備御用を兼帯し、迅衝隊総督・板垣退助に従って戊辰戦争を戦い会津若松城攻略等数々の功を立てる。


五代友厚: このような最悪の状況下にもかかわらず、実質大久保専制政治であることに対する民衆の不満、佐賀の乱を始めとする士族の乱、板垣退助が新規で作った自由民権運動、岩倉が士族に襲撃されるなど不穏な政情が世を覆っていた。


板垣退助の情報まとめ

もしもしロボ

板垣 退助(いたがき たいすけ)さんの誕生日は1837年5月21日です。高知出身の政治家のようです。

もしもしロボ

事件、現在、解散、引退、卒業、結婚、家族、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1919年に亡くなられているようです。

板垣退助のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月16日、4月17日〈1837年5月20日もしくは5月21日〉 - 大正8年〈1919年〉7月16日)は、日本の政治家、軍人(土佐藩陸軍総督、迅衝隊総督兼大隊司令)、武士(土佐藩士)、東征大総督東山道参謀。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲として参与、参議、内務大臣(第10代・第13代)を歴任。

幕末に薩摩藩士・西郷隆盛と共に「薩土密約」締結を主導。戊辰戦争では東征大総督東山道参謀として指揮を執り、明治維新後に参与となる。征韓論政変で下野後、自由民権運動の指導者として東アジアで初となる帝国議会の樹立に向けて活動し、「国会を創った男」として知られる。また、常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。1898年(明治31年)には大隈重信とともに組閣の大命を受け、日本初の政党内閣となる隈板内閣を組織した。

戦前・戦後を通して圧倒的な国民人気を誇り、政府紙幣B号50銭、日本銀行券B号100円として紙幣の肖像として採用。また、文久3年乾退助暗殺未遂事件をはじめ、何度も命を狙われ、明治15年には板垣退助岐阜遭難事件、その後も明治17年板垣退助暗殺未遂事件、明治24年板垣退助暗殺未遂事件、明治25年板垣退助暗殺未遂事件などが起きた。

日本史上初めて議会政治を樹立するため民撰議院設立を政府に建白。帝国議会ならびに現在の自由民主党の源流となる愛国公党、自由党の創始者。そのため旧50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられ、紙幣裏面には国会議事堂が描かれた。板垣が議会設立のため欧州視察中にパリで購入したトランクは、現存する日本最古のルイ・ヴィトン製品。軍馬の育成に資するとして競馬を奨励した。晩年の著作には『日本は侵略國にあらず』、『社会主義の脅威』、『武士道論』、『神と人道』などがある。欧米の翻訳思想の流入やキリスト教思想の蔓延を批判し、日本独自の武士道精神に基づく人道思想を提唱した。清貧で古武士の品格を矜持し「維新の精神に背かぬため」と己の死するにあたって遺言して爵位を返上した。

幕末「戦争の結果によって形成された社会秩序は、戦争によってで無ければこれを到底覆すことは出来ない」と主張し、土佐藩における武力討幕派の重鎮として薩摩藩に対し薩土討幕の密約を結ぶ。これに基づき土佐藩の兵制を改革して近代式練兵を行った。独断で土佐藩邸に天狗党浪士を隠匿しその身柄を薩摩藩へ委託。この浪士らが幕府を挑発して江戸薩摩藩邸の焼討事件を惹起し、戊辰戦争の前哨戦を為す。鳥羽・伏見の戦い開戦後は、天皇陛下御親征東山道先鋒総督軍参謀・迅衝隊総督(土佐藩陸軍総督)となり戊辰戦争で活躍。特に甲州勝沼の戦い、会津攻略戦では軍功著しく、会庄両藩の蝦夷地売却計画を阻止。また日光東照宮を戦禍から守る。絶対尊皇主義者として知られ、君民一体による自由民権運動の主導者であり「君主」は「民」を本とするので「君主主義」と「民本主義」は対立せず同一不可分であると説いた。自由民権運動は、億兆安撫国威宣揚の御宸翰の意を拝し尊皇を基礎とし、その柱を五箇条の御誓文に求めるもので、特にその第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は重視され、国内へは「国会の開設」、国外へは「不平等条約の撤廃」等を求めた。さらに国民皆兵を断行するため太政官の許可を得て全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に国防の任に帰する事を宣した。これらの論旨の説明には「天賦人権説」がしばしば用いられたが、海外思想の単なる翻訳・流用ではなく、日本の国体に則して歴史的に培われたものであることが強調されている。世界の自由主義思想は、キリスト教神学の聖書解釈や個人主義などを伴って発展したものが多い中で、板垣退助の説く自由主義は武士道精神により醸熟された愛国主義(Patriotism)と密接に結びついており、単純にリベラリズム(Liberalism)と翻訳出来ない日本独自の特徴を有する 。これは板垣が生涯にわたって貫いた姿勢であり、そのため国防を重視し、天皇護衛のための軍隊・御親兵の創設に盡力。この御親兵がのちの近衛師団さらに大日本帝国陸軍の前身となる。参議のほか内務大臣を務めること2回。清貧で「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受ける。少年期に聴覚障碍を患った経験から、政界を退いてからは視覚障碍者の按摩専業や、傷痍軍人に対する福利厚生、女性受刑者が獄中出産した幼児の保護と育成などの社会改良にも取り組んだ。一君万民を説き、被差別部落解放の為の日本最初の全国組織となる帝国公道会を創設。岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。座右の銘は「死生亦大矣」。林獻堂らの招きによって渡台し台湾人の地位向上のための組織・台湾同化会を設立。生涯に亘って尊皇を貫き、勤皇に尽くした姿から「幕末明治の大楠公」とも称され大日本国粋会の結成に影響を与えた。明治維新に勲功のあった土佐藩出身の伯爵としては、板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行が著名で「土佐三伯」と称された。

天保8年4月16日もしくは4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日)、土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正成の嫡男として、高知城下中島町(現・高知県高知市本町2丁目3番18号、高野寺 北緯33.558167度分秒 東経133.537167度分秒)に生まれる。幼名は「猪之助」(いのすけ)。退助は通称。諱は初め「正躬(まさみ)」、のち「正形(まさかた)」。号は「無形(むけい)」。母は林幸子。なお、乾家の本姓は板垣氏で、武田信玄の重臣・板垣信方を祖とする家柄。徳川慶喜とは同年齢で、坂本龍馬や武市瑞山とは親戚にあたる。(退助の復姓については後述)

山内一豊が掛川藩主の時代に召抱えられた、土佐藩の上士の家柄であったが、乾家(板垣家)は、質実剛健を家風としていたため、食事も素食で退助の好物は鮎の塩焼きと半熟卵であった。のち退助は、武力討幕や自由民権運動など、私財を投じて国家のために尽瘁することになるが、貧乏を苦としない草莽崛起の精神が養われたと懐述している。

真冬に乳呑み児を抱えた貧窮した女性が乾家の門前に来て物乞に来た。門番が追い払おうとする処に、その姿を見た猪之助(=退助)は姉の箪笥にあった着物を一領あたえた。のちに姉が怒って母に告げた。猪之助は「我が家にあっては、豪奢を嗜む一領の着物に過ぎないですが、かの貧した女性にとっては、自分と乳飲み子二つの生命が救われるかもしれない、かけがえのない着物です」と悠然と答えた。すると母は、

と答えて却ってこれを褒めた。これが彼が民本主義を生涯にわたって取り組む萌芽となったと捉える識者もいる。上士と下士の身分が確立されていた徳川藩政期の中で、庶民と分け隔てなく交わった人物として知られる。(この乾家の門は、現在高知市内の龍乗院へ移築され現存する)

嘉永元年9月19日(1848年10月15日)、猪之助12歳(満11歳)の時、母・林幸子が死去。(同じ年の7月25日、保弥太(=後藤象二郎)11歳(満10歳)の時、江戸藩邸で父が病死している)その後、父・正成が近藤祐五郎秀行の姉と婚した為、継母が出来るがこの母も、3年後の嘉永3年12月19日(1851年1月20日)に歿した。その後、さらに父は高屋繁次長容の伯母を迎えて妻とした。

後藤象二郎とは竹馬の友で互いに親を亡くした境遇が似て、心を通わせ「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。二人の遊び場は鏡川や潮江天満宮、潮江村のあたりで、駆け回って遊んだ。少年期は腕白そのもので、ある時、後藤象二郎が蛇が苦手であることを知った板垣は、紐で縛った青大将を棒の先にぶら下げて、後藤を驚かせた。逃げる後藤を追いかけるが、怒った後藤は道端に落ちていた犬の糞を躊躇なく手で掴むと、板垣の顔へ目掛けて投げつけて反撃。板垣は手を洗う時に盥の水を二張り使うほどの潔癖症であったので、この糞攻撃の効果は絶大で「糞を投げるは卑怯なり」と忽ち降参した。この様に時には悪ふざけをする仲であったが、二人は毎日のように一緒に遊んだ。

少年時代「蝦蟇の油を塗ると川に潜っても呼吸ができる」との言い伝えを聞き、後藤象二郎と一緒に、潮江村の田圃から大量に蛙を捕獲。後藤宅の釜で煮こんで蝦蟇の油を作るが悪臭が立ち込めて露見。後藤家の人より散々怒られる。しかし、蝦蟇の油を秘匿して持ち出し、これを塗って鏡川に潜ってみたが呼吸ができず、油の効力が迷信であることを知る。今度は実証主義に転じて、お守りを厠に捨ててみて、神罰が本当に起こるのか試した。すると、鏡川で遊泳の際、耳に水が入った事で聴力が不自由となる。(神罰は起きた)

鏡川での遊泳時に耳に水が入って中耳炎を併発。数ヶ年にわたって聴力(突発性難聴)を失い就学に不便をきたす。そのため塾に通うことはなかった。将来のことを危ぶまれたが、のち不意の所作がきっかけで膿が破れ飛び出て聴力がやや回復した。しかし、後遺症は残り、晩年また聴力が衰えた。(後年、政界を退いてからは視覚障碍者の按摩専業や、傷痍軍人に対する福利厚生など社会改良に取り組んだ素地は少年期に聴覚障碍を患った経験に由来すると言われる)

好物は鮎の塩焼きと半熟卵で、鮎は鏡川で獲れたものを食べていた。(後年、三多摩郡の自由党有志が、板垣退助を多摩川対岸の大柳河原に招き、板垣の好物である鮎釣大会を催した。のち青梅の人々は板垣の人柄を懐かしみ銅像が建立された)

板垣は廓中(高知城下の武士居住区)で人気があり、義侠心もあって弱い者いじめをする者には敢然と喧嘩で応戦。身分の上下を問わず、常に公平な視点から評価を下したので、これを慕う小輩(子分)が多くいた。親分肌で小輩(子分)への面倒見が良く、餓鬼大将となる。不義があると正論を吐いて宣戦布告。大人に対しても物怖じせず。この性格は母の教育による影響が大きく、退助は晩年、この事を聞かれ自分の少年時代を振り返り次のように述懐している。

常に公平な視点から評価を下し、身分の上下を問わず有用の者を味方につけ、子分にするところは織田信長のようであった。のち、退助は日本初の部落解放の全国組織である『帝國公道会』を創設したが、当時からその片鱗があり、被差別部落の人々とも交わり飲食をともにし、語り会うことがあった。(当時は、被差別部落の人々と共に飲食をすることはタブーとされていた。『帝國公道会』の創設は、全国水平社より先である)この姿勢は生涯をかけて一貫して変わらず、のち伯爵になってからも、飲食をともすることがあった。「伯爵ともあろう人が」と周囲の者がとめに入ろうとすると、退助から「幼いころに蛙捕りをして遊んだ仲だ」と云われ、その者は藩政期は身分の上下の厳格であった時代と想像していたため非常に驚いた。

安政3年8月8日(1856年9月6日)、係争に加わり罪を得て、高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)の禁足を命ぜられ神田村(こうだむら)に謫居となる。廃嫡の上、追放という重い処分であったが、ここで村人の麦の収穫や脱穀の手伝いをするなど、身分の上下を問わず庶人と交わる機会を得る。この時、当時の人が食べ合わせ(「うなぎと梅干」、「てんぷらと西瓜」など)を食べると死ぬと信じていた迷信に対して、村人の前で自ら食べて無害なことを実証してみせた。またこの謫居時代、吉田東洋と岩崎弥太郎も別件で罪を得て謫居の身にあり、吉田東洋は退助の寓居を訪れて自塾への就学を奨励したが、退助はその申し出をつぎの様に断っている。

「吾死スルトモ自由ハ死セン」(岐阜県御嵩警察御用掛(政府密偵)・岡本都與吉)の上申書より)

「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキゾ」(岐阜県警部長の報告書より)

「嘆き玉ふな板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」(『大阪朝日新聞』明治15年(1882年)4月11日号)- 事件現場にいた小室信介の筆記

「板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ」(『有喜世新聞』明治15年(1882年)4月11日号)

「たとい退助は死すとも自由は死せず」 - 事件現場にいた岩田徳義の筆記

令和2年(2020年)に出された、中元崇智の研究によると、岐阜遭難事件の約1年半前の明治13年(1880年)11月、板垣が甲府瑞泉寺で政党演説を行い、主催者の峡中新報社の好意に対し、

と礼を述べ、さらに事件より半年前の明治14年(1881年)9月11日には、大阪中之島「自由亭」の懇親会で、

と発言しており、平素から自由主義に命をかける決意があったから、咄嗟の場であの発言が出来たというのが真相であろう。

板垣が咄嗟に身を交わし反撃することが出来たのは、若い頃に会得していた竹内流捕手腰廻小具足術のおかげであると語っている。相伝系図は以下のとおり。

(出典)『𠮷里呑敵齋信武門下竹内流組討術相傳系譜』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編

板垣はヨーロッパの議会制度を学ぶため、ヨーロッパへの視察計画を立てていた。明治15年3月頃、板垣は伊藤博文の元を訪れ、自らの信念を吐露した。これをうけて伊藤は「衆人ノ先覚タラント欲スル者ハ、事国家衆庶ニ関ス、必スヤ其学問衆ニ先ンスル所ナカル可カラズ」と洋行を勧めたという。費用の調達には後藤象二郎があたり、6月半ば頃にはその目処がついた。後藤は蜂須賀茂韶侯爵の出資であると板垣に説明していたものと見られる。尾佐竹猛は費用の出所は三井であり、政府が板垣を懐柔するために井上馨が出させたものであると見ている。この説はのちの高校教科書にも取り入れられた

板垣の指示により洋行計画は7月まで秘密にされていたが、7月頭頃に泥酔した中江兆民が新聞記者に漏らして発覚することとなる。7月なかばには自由党幹部の馬場辰猪・大石正巳、自由新聞社記者末広鉄腸が板垣の元を訪れ、党首不在となる自由党は「船長を失った船」となるとして洋行を思いとどまるよう求めた。9月7日に馬場・大石は後藤の元を訪れたが、資金の出資者が蜂須賀ではないことが判明した。板垣は本当の出資者について後藤から知らされていなかったが、後藤が党員からの要求で中止するのは問題であるとしたため、洋行中止には踏み切らなかった。板垣は別途豪農から借り受けることで資金問題は解決したと見たが、馬場・大石・末広らは洋行は「政府ノ策略」であるとしてなおも激しく反対した。板垣は洋行を断念することなく、かえって馬場らの処分を行うこととした。これにより馬場・大石・末広は辞職したが、板垣が10月2日に吐血するなどの問題があったため、出発は11月まで延期された。板垣洋行は立憲改進党系列の新聞でも非難されたが、立憲帝政党系列の新聞からは称賛され、三陣営の新聞が激しい論争を繰り広げた。

11月11日、後藤象二郎・今村和郎・栗原亮一らと共に横浜を出発してヨーロッパに向かった。疑念を持たれた資金が使えず、板垣が借り受けた豪農からの資金も届かなかったため、板垣は三流のホテルに泊まらざるを得ず、経済的には苦しいものであった。政治家のジョルジュ・クレマンソー、文豪ビクトル・ユーゴー、学者のハーバート・スペンサー、ソルボンヌ大学での西園寺公望の恩師にあたるエミール・アコラス(フランス語版)などと会談した。

特に1880~90年代の明治期日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、「スペンサーの時代」と呼ばれるほどであった。たとえば、1860年の『教育論』は、尺振八の訳で1880年に『斯氏教育論』と題して刊行され、「スペンサーの教育論」として広く知られた。その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた。板垣退助は『社会静学』(松島剛訳『社会平権論』)を「民権の教科書」と評している。1886年には浜野定四郎らの訳によるスペンサーの『政法哲学』が出版されるようになった。

洋行中には板垣は宿願であったスペンサーとの会見を実現したが、斡旋した森有礼はほとんど板垣による独演会であったとしている。板垣が「白色人種の語る自由とは、実質としては有色人種を奴隷の如く使役した上に成り立ってる自由であり、これは白人にとって都合の良い欺瞞に満ちた自由である」と発言したことに対して、スペンサーは、「封建制をようやく脱した程度の当時の未だ憲法をも有していない日本が、白人社会と肩を並べて語るには傲慢である」と論を退け、板垣の発言を「空理空論」となじり、尚も反論しようとする板垣の発言を制し「NO、NO、NO…」と席を立ち喧嘩別れとなったとしている。

この欧州視察旅行の時にあたる、1月9日、板垣がフランスで購入したルイ・ヴィトンの鞄は、「日本人が購入したルイ・ヴィトンの鞄で現存する最古のもの」として保管されている。

板垣は6月22日に帰国した。板垣は鎮痛な面持ちで、フランス流の革命思想および白人社会における「自由」の概念に関して鋭い批判を展開している。

板垣は帰朝後の報告で政府との対立を強調せず、「上下親睦」「共同一致」により先進国に伍していくことが必要であると述べたが、これは立憲改進党系列からは政府に懐柔されたと宣伝された。

板垣は洋行の目的の一つに同時期にヨーロッパに渡っていた伊藤博文の論を撃破する用意のためと述べていたが、成果は乏しいものであった。洋行前に伊藤博文は、板垣も後藤もヨーロッパの事情を理解することはできないであろうと見ていた。洋行中の板垣に要人面会の便宜を図った伊藤側近の西園寺公望も、板垣の勉学は理屈一辺倒であり、頑固であるため実際の運用についてはわからないであろうと評し、遠からず自由党総理の座も投げ出さざるを得なくなるであろうと述べている。

洋行問題の結果、自由党や自由新聞社の幹部は大きく入れ替わり、特に馬場の離脱は大きな問題となった。馬場に代わる大物として招聘されたのが星亨であり、自由党内に一大勢力を築き上げることとなった。この板垣なき新体制下で自由党は過激派民権運動家の「偽党撲滅」や、立憲改進党の支援者である三菱への攻撃である「海坊主退治」等に力を入れるようになっていた。しかし党財政の悪化がすすみ、改進党との対立も行き詰まりを見せていた。板垣帰国はこのような状況を打開するものと見られていたが、板垣の発言はかえって急進派の失望を買うものとなった。党の混迷は深まり、8月には板垣も「解党」をほのめかすようになっている。

現在では板垣退助は長い白髭の印象が定着しているが、維新の元勲らが新政府発足後にすぐに髭をたくわえ始めたの比べて、板垣は無髭のままであった。明治12年11月に出版された『明治英名百詠撰』の肖像画では、西郷隆盛、後藤象二郎、谷干城らが皆、立派な髭をたくわえている姿で描かれているのに対して、板垣退助は髭の無い姿で描かれている。板垣が髭を蓄え始めたのは明治16年(1883年)のパリ滞在中で、1月9日、シリアルナンバー7720番のルイ・ヴィトンの鞄を購入した頃にあたり、当然ながら岐阜遭難事件の時は、無髭であった。そのため、板垣の帰朝を迎えに行った一人は、あまりにも印象が違っていたため板垣だと気づかなかったと言われる。

明治17年(1884年)、土佐潮江新田の本邸に正室・鈴子を残し子供たちの養育を任せ、自身は東京で執務を行うため、5月13日、東京府芝区金杉川口町24番地に居を構えた(東京芝金杉邸)。明治15年(1882年)に岐阜で板垣暗殺未遂事件(岐阜遭難事件)が起きたばかりであったので、護衛のため中西幸猪と山内一正の二人を常に扈従させた。中西は赤坂喰違の変で岩倉具視の暗殺を試みた中西茂樹の実弟にあたり、武道の心得のある者であった。山内一正は板垣の遠祖・山内刑部(永原一照)の直系子孫で、江戸時代を通じて永らく親戚関係にあった最も心の許せる者であった。その為、この二人は板垣と起居を伴にし、芝金杉邸に同居した。東京邸では板垣は側室・絹子(正室・鈴子の歿後に正室となる)と同居し、廃刀令後であったが、旧藩時代からの愛刀(二尺三寸)を邸内では常に傍らに置いて離さなかった。板垣の居室は中二階で、すぐ下の部屋は盆栽が置かれた襖間となっていた。東京邸に居住してしばらく後、留守中に凶賊が邸内に侵入し、襖間に潜伏して板垣の帰宅を待ち、板垣が就寝した頃を見計らって、階下より鋭刀で凶行に及んだ。賊は目算を誤り刺した場所は、側室・絹子の寝ている部分であったため、絹子の右股を傷つけた。しかし、階下からは天井板の隙間、畳の隙間、布団を貫かねば刺すことは容易ではなかった。再び賊が刺した刀が一寸強(約4cm)ほど畳から露出したのを見て、板垣は愛刀を抜刀し、階下に降りて賊に反撃した。絹子の声に飛び起きた中西、山内はこの賊を捕えようと追いかけ一度見失うが、ほどなく警官がこの賊を逮捕している(板垣退助芝金杉邸暗殺未遂事件)。取調に対してこの賊は一週間以上も邸内に潜伏し、板垣の行動様式を観察し、また板垣と来客との密談も諜報していたことが判明している。

明治17年(1884年)9月23日、自由党員による加波山事件が発生した。星が演説問題で検挙されていたため、事態の収拾を主導したのは板垣らの首脳部であった。10月には首脳部は解党を決断し、自由新聞の論調も解党やむなしというものに変わっていった。10月29日には大阪太融寺で自由党集会が開かれ、解党を決議した。

明治20年(1887年)5月9日、戊辰戦争の武勲と明治維新の功労を賞せられ「伯爵」の位を賜り華族に列せられた。しかし、板垣は、爵位を受けて特権階級の一員となることは、かつて将軍家に大政奉還を迫り、藩侯に版籍奉還を促し、士族は自らに秩禄処分を課して断行した明治維新の精神に矛盾するとして納得せず、自分は維新以来「一君万民・四民平等」を理想とする社会の実現にため邁進してきた。華族は美名は「天皇の藩屏」と称するが、その実は天皇と国民との紐帯を懸隔する障壁に他ならず、そのような特権階級に自分がなるために討幕をし明治維新を行ったのでは無いとして、栄典を辞退することに決した。

5月25日、上京して宮内大臣・伊藤博文を訪ねたが、不在のため、宮内次官・吉井友実に面会して事情を陳じた。さらに三條実美内府を訪い、また黒田内閣顧問を訪ね、叙爵撤回に奔走したがその志を果すことが出来なかった。6月9日になり、板垣は、吉井宮内次官を通して以下の「辞爵表」を奉呈した。

伏して五月九日の勅を奉ず。

陛下特に を伯爵に叙し華族に列せしむ。天恩の優渥なる 誠に感愧激切の至りにへず、直ちに闕下にはしりて寵命を拝すべき也。しかして 退しりぞきひそかに平生を回顧するに と南海一介の士。朴忠ぼくちゅうおのずから許す。常に君につかへて身を忘れ、國にむくひて家をわする。かつて維新中興の運に会し、錦旗を奉じて東北戡定かんていの功を奏すといえども、是れ皆、

陛下威霊の致す所。而して、

陛下 を賞するに厚禄を以てし、並に物を賜ふこと若干、次て参議に任じ正四位に叙せらる。

陛下の知遇を受くるすでに極まり、人民の榮、これに過ぎず、何ぞはからん、今又此の非分の寵命をかたじけのふせんとは。、唯惶懼こうく措く所を知らず。そもそも が身は廟廊びょうろうを去り江湖こうこに在るも、其夙夜しゅくやに以て、

陛下に報ひ國家に盡すの赤心せきしんは何ぞ嚢日のうじつに異ならん。一朝事あり闕に詣り、

陛下にせきし以て が説を進むるを得ば、の願既に足れり。ほ何ぞ伯爵に叙し、華族に列するの特典を拝するをもちひんや。かつ 、平生うちに感ずる所あり、高爵を拝し貴族にはんするは、に於てみづからやすんずるあたはずたと

陛下の仁愛なる、今が舊功を録し、重ねて特典の寵命を下さるるも、にしてあえて天恩にれ一身の顯榮をみだりにする事あらば則ち た何の面目を以て天下後世の清議に對せんや。よって ここに表をたてまつつつしんで伯爵並に華族に叙列するの特典を辭す。伏して願くば、

陛下 が區區おりおりの衷情をあわれみ、其狂愚を咎めず、以て が乞ふ所をゆるされん事を。慚懼懇款ざんくこんかんの至りにへず、退助誠惶誠恐頓首頓首。

6月11日、吉井宮内次官は天命を奉じて板垣を邸に招き、「陛下(明治天皇)は貴下の『辞爵表』を奏聞されるや、御嘉納あらせられず、深く叡慮を煩わせれておられる。よって速やかに前志を翻して受爵されるように」と諭した。さらに6月14日、内閣は、三條内府、吉井次官、各大臣を参集して秘密会議を開き「板垣辞爵問題」に関して、あくまでも板垣を受爵させることを再確認した。一方、板垣は6月26日、東京在留の旧自由党員140名余を浅草の鴎遊館に招き「辞爵理由」について説明演説を行った。7月7日、板垣は『再辞爵表』を上書し「自分が今、叙爵の寵命を固辞する理由は、封建門閥の弊習を取り除き、四民平等を宣した維新の精神を守ろうとするものである」として、辞爵を再請願した。 翌7月8日、宮内省書記官・桜井能監が板垣の滞在先である芝の「金虎館」を訪ね、「陛下の叡慮は前日と変わらない」旨を告げ『再辞爵表』を差し戻される。頑固な板垣を説得することに周囲が混迷する中、伊藤博文から依頼を受けた竹内綱が「三度の拝辞は不敬にあたる」という三顧之礼の故事をひいて諭し、ようやく板垣の心を動かすことが出来た。7月15日、板垣は参内して『叙爵拝受書』を奉呈した。

岐阜事件後、板垣退助自身が相原尚褧に対する助命嘆願書を提出、相原は極刑を避けられて無期徒刑となる。明治22年(1889年)『大日本帝国憲法』発布による恩赦に関しては、当初は「相原尚褧は国事犯ではない」とされ「恩赦」の対象外であった。これは、相原が暗殺を企てた当時、板垣退助は参議(公職)を辞し民間にあったため、単なる「民間人に対する殺害未遂」として裁かれた為である。しかし、自由民権運動の逮捕者が国事犯として恩赦の対象となり、また、板垣が相原に刺された際、明治天皇自らが「板垣は国家の元勲なり」と、勅使を見舞いとして差向けられた事や、事件の要因が私怨にあらず「国会を開設すべきか否か」と言う問題にある点などを挙げ、「民間人に対する殺害未遂」ではあるが「国事犯」としての要素を勘案すべきと板垣は主張して3月13日、恩赦歎願書を明治天皇へ奉呈した。これらが認められて相原は3月29日、恩赦の対象となり釈放された。

明治22年(1889年)、相原尚褧が恩赦となった当時、板垣退助は東京市芝区愛宕町の寓居に住んでいたが、相原は河野廣中、八木原繁祉両氏の紹介状を得て、同年5月11日、八木原氏に伴われて板垣に謝罪に訪れた。板垣は相原に「この度は、つつがなく罪を償はれ出獄せられたとの由、退助に於ても恭悦に存じ奉る」と声をかけると、相原は畏まり両手をついて「明治15年(岐阜事件)の時の事は、今更、申すまでもございません」と謝し「更に、その後も小生の為に幾度も特赦のことを働きかけて下さった御厚意につきましては幾重にも感謝している次第であります」と深く礼を述べた。板垣が、

と述べると相原は恐縮し「恐入り恥じ入り申し候。僕は天下を語るような大人(たいじん)の器にあらず、浅学無才の徒でありますゆえ、先ず辺鄙(かたいなか)に往(ゆ)きて蟄居(ひきこも)り身を修めたいと思っております」と述べた。板垣は深く頷きながら、

と訊いた。相原は「僕は、先ずは無心に土壤(つち)を耕して日の光を感じ、雨の音を聞き、矩(のり)を越えず人のため、皇国(すめらみくに)の御為に陰ながら御奉公したいと思っております。これが私にとっての贖罪と申しましょうか。願はくば人知らぬ遠い北海道に身を移し、開拓に従事したいと考えております」と。それから両者は様々な話をしたが、相原が「そろそろ御暇を賜わる時間となりました」と言うと、板垣は起ち上がって「北地極寒、邊土惨烈と聞くが、御國の爲めに自愛めされよ。退助は足下(きみ)の福運を祈り奉る」と声をかけ相原の再出発を見送った。

しかし相原は殖民開拓の為、北海道へ渡る途上、遠州灘付近で船上から失踪した。 船から落とされた、自殺した、または相原の背後で板垣殺人を企てていた組織に殺されたとも言われている。享年36歳。

後藤象次郎らによる大同団結運動の分裂後、帝国議会開設を控えて高知にいた板垣は林有造らとともに愛国公党を再び組織し、第1回衆議院議員総選挙に対応した。明治23年(1890年)の帝国議会開設後には河野広中や大井憲太郎らとともに旧自由党各派(愛国公党、自由党、大同倶楽部、九州同志会)を統合して立憲自由党を再興した。翌年には自由党に改称して党総理に就任した。

武市瑞山に関しては、土佐藩政時代、罪人として処罰された経緯があったが、維新後、旧土佐藩有志らの盡力により、明治10年(1877年)に名誉回復される。さらに、明治24年(1891年)4月8日に坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎とともに正四位が追贈された。5月8日、東京・九段坂上(靖國神社)において、武市瑞山の追贈(贈正四位)奉告式が挙行された。この式典に際し、富子夫人は、実弟の島村笑児を伴って上京し参列。清華家からの代表者として右大臣・岩倉具視公、旧土佐藩主・山内豊範侯、 旧土佐藩大監察・後藤象二郎、板垣退助、佐々木高行、土方久元、田中光顕らを初め土佐勤王党の同志ら朝野の済々多士が参列。山内侯、板垣伯、後藤伯が神前に深々と頭を垂れ、懇ろに拝したのを見て、特に富子夫人は感極まって涙した。

故武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎君のみたまに告ぐ。 嗚呼ああ君等きみたちが二十餘年前、鞠躬きくきゅうくにつくし、たほれて而後のちみしまさ大丈夫ますらを忠烈ちゅうれつこころざしかずと云ふべし。 聖天子すめらみこと、其功勳いさをほめて、ここに特旨正四位をおくらる。君等きみたち死して餘榮よえいありとふべし。抑々そもそも幕末紛々ふんうんかんしょして、く國が爲めに薩長の協一をはかる坂本、中岡二君の如きあり。維新の大業、實にこれもとゐとす。それ富嶽ふがくの高きをのぞみて皆なこれあふくを知る。しかしてこれあふ所以ゆえんを知る者すくなし。今や外交多難、民力みんりょく日につかれ、國家百年の長計いまだ立たず、吾等果して先君せんくんはじるなき嗚呼ああ丈夫ますらをみたまよろし丈夫ますらを御社みやしろもって祭らむと、故友こいう くらゐまうけ、旨酒うまざけにはかぐはす。英霊えいれい髣髴ほうふつきたりけよ。

式典の後、九段坂上の富士見軒で開かれた直会の席において、武市瑞山の親族 でもある板垣は「当時の経緯は種々あったとはいえ、土佐藩が瑞山先生を殺した処断は、日本における損失であり洵に誤りで有ったと断言できる」と両者の間に立って心痛の思いを吐露し、後藤も激しく同意した。この一言は、土佐勤王党の同志らの思いを代弁するもので、当時の藩庁側、勤王側、身内側の立場を知る板垣にしか発せられない言葉であったため、一同は永年の溜飲が一時に下がり心から晴々としたと言う。瑞山への取調べが激化した時、板垣は武市を救おうとしたが、藩庁側と意見が合わず「不念の儀あり」と讒言を受けて職を解かれ、左遷されるかのように遠避けられ、江戸で軍学修行を仰せ付けられていた。

明治25年(1892年)民党と吏党の対立の高まる中、板垣は自由党の応援演説のため関西を遊説した。2月11日の紀元節、大阪市西区土佐堀2丁目にある大阪青年会館での演説では、板垣はわずか数語を発しただけで禁忌に触れて演説中止となった。これは吏党の側にたつ警官による選挙妨害で、実際に選挙演説中に弁士が暴殺される事件、また警官は傍観してその状を制止しないなどの事件が頻発していた。板垣は東京からは護衛役として中西幸猪を従えていたが、大阪の自由党壮士・中島直義、佐藤歳造らが板垣の身を案じて護衛として随行することにした。翌2月12日、板垣らは汽車で神戸に到着し諏訪山の演説会場へ向おうと、三宮(現在の三ノ宮ではなく元町附近)の駅を出て人力車で線路の踏切を渡ろうとした際、凶賊が拳銃で板垣を射殺しようとした。板垣の人力車の後方について護衛していた佐藤歳造は、咄嗟にこの異変に気づき、刀を片手に身を投げ出して人力車をかばった為、凶賊は板垣を狙い撃つことが出来なかった。佐藤歳造は旧因州鳥取藩士(馬廻格)の者で剣術に手慣れていた。凶賊は大阪の侠客・小林佐兵衛の子分で神戸の博徒を仕切っていた鷲田卯蔵で、官憲に賄賂を贈って3年間賭博を黙許されていた。それがために吏党の意を含み、自由党総理の板垣が来ることを知り、これを殺傷せんと秘かに機を窺っていた。佐藤の大喝によって事件は未遂に終わったが、これがために演説会場はことごとく謝絶され、やむなく兵庫県会副議長・吉田氏宅にて演説せざるを得なかった。板垣は同日、播州龍野での演説会を予定していたが、この龍野でも刺客らに命を狙われかけている。翌13日、板垣退助、大隈重信は「集会及政社法違反」の嫌疑で告発された(後に証拠不充分で不起訴)。同月15日、臨時総選挙が行われたが、高知県和田村では選挙の管理者である幡多郡書記の細川速水が殺害されて投票無効となり、県会議員・楠目玄は反対派に斬られ重傷を負っている。

明治29年(1896年)、議会内で孤立していた自由党は第2次伊藤内閣と協力の道を歩み、板垣は4月16日に自由党総理を辞任して内務大臣として入閣した。伊藤が辞職した後、9月18日に成立した第2次松方内閣では2日間のみ在任しており、9月20日に免官となった。総理を辞任している間も板垣は新聞等からは自由党の主導者であると観られていた。板垣は伊藤との提携を続け、松方とは提携しない考えであったため、「土佐藩閥党」などと揶揄されることもあった。一方で松方支持派や藩閥との協力自体を拒む勢力は板垣ら主流派に対して反発を強めていた。12月の党大会では板垣の総理復帰に対する議論は一切出ず、板垣派と反対派の対立はいよいよ深まった。このため板垣は「裏面的総理」を辞退すると表明し、党の分裂を恐れた幹部たちは板垣の総理復帰で一致した。明治30年(1897年)1月10日の臨時党大会で板垣は正式に自由党総理に再任された。しかし党の対立はいよいよ強まり、2月21日には股肱と頼んでいた河野広中が離党、3月末までに党所属代議士の4分の1にあたる23人が離党している。長年の同志であった河野の離党は板垣に衝撃を与え、板垣は自ら説得のために河野の自宅を訪れたが、面会は叶わなかった。さらに内務大臣時代に認可した大阪築港を党議とすることが否決されたことを受け、3月19日に総理を辞任している。総理辞任後の板垣は積極的に遊説活動を行い、松方内閣や脱党者に対する批判を行っている。その後も自由党内では混乱が続いたために板垣に対する支持は再び高まり、党内の主導権をある程度回復したが、総理への復帰は行わなかった。12月25日に松方は辞任を決意し、後継首相となった伊藤との連携がふたたび問題となった。しかし総選挙を控えている状況で板垣に内務大臣を任せることはできないと考えた伊藤との交渉は難航し、結局提携は行われないこととなった。

大隈重信の進歩党と自由党はたびたび提携と対立を繰り返していたが、明治31年(1898年)6月頃には両党合同の動きが生まれていた。6月22日、両党は正式に合同し、憲政党を組織した。6月24日、伊藤博文は首相を辞職する意向を奏上し、後継として大隈と板垣を推薦した。これをうけて大隈と板垣の両名に対して組閣の大命が降下し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。しかし内閣の構成は進歩党派の閣僚が5人、自由党系の閣僚が3人と自由党系にとっては不満が残るものであった。このため板垣は大隈が兼任していた外務大臣に非党人である伊東巳代治や、自由党系の星亨を迎えるべきであると主張したが容れられなかった。

しかし憲政会は内部対立が収まらず、板垣と大隈も党人に対する影響力に乏しかった。7月14日、明治天皇は大隈と板垣には党人に対する影響力がほとんどなく、逆にそれらの要求に苦しんでいると指摘し、大隈と板垣に政権を任せたのは間違いだったと内々の談話で語っている。9月に発生した尾崎行雄文部大臣の共和演説事件で板垣ら旧自由党派は文相のポストを狙い、一致して尾崎の罷免に向けて動くことになる。また同時期には板垣が教誨師にキリスト教の聖職者を採用する方針を示したことで、「仏敵」であるという批判が仏教界から起こっていた。

10月21日、板垣は単独で明治天皇に拝謁し、尾崎を弾劾してともに内閣にいることはできないと奏上した。尾崎は後に、板垣が尾崎を攻撃することで内閣を倒し、板垣への批判がなくなるという知恵を授けたものがいると観察している。尾崎に不快感をもっていた天皇も同意し、大隈首相に尾崎を辞任させるよう伝えた。尾崎は辞任することとなったが、後継文相のポストを巡って旧自由党系と旧進歩党系はさらに対立を深めた。大隈首相が進歩党系の犬養毅を後継とすると、板垣は親任式に先駆けて参内し、犬養を親任すれば自由党系の閣僚とともに辞任すると奏上している。

10月29日、板垣は大蔵大臣の松田正久、逓信大臣の林有造とともに辞表を直接宮中に提出し、受理された。大隈首相は内閣の存続を図ったが、陸軍大臣桂太郎・海軍大臣西郷従道によって阻止され、内閣は崩壊した。 同日には星亨らが旧自由党系の党員のみを集めて憲政党の解散を宣言し、新たに自由党系のみの憲政党の結成を行った。これに旧進歩党系も対抗しようとしたが、板垣は内務大臣の職権で、進歩党系の「憲政党」党名使用を禁止した。これにより進歩党系は憲政本党を称せざるを得なくなった。

明治32年(1889年)11月には憲政党の総務委員辞退を申し出、翌年1月にはしばらく政治会からは引退状態であると述べている。明治33年(1900年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。

同郷の偉人・坂本龍馬を顕彰する銅像はおろか一柱の石碑も存在しないのを憂い、坂本龍馬生誕地近くに『阪本龍馬君顕彰碑』を建立。坂本家の子孫が御礼に板垣家を訪れた際「今日の板垣があるのは、坂本龍馬、中岡慎太郎両先生のお蔭でございます。世間では兎角(武市)瑞山先生の陰に隠れてしまつてをりますが、就中(なかんずく)坂本先生の事績を広く正しく世間の人に知つて貰いたいと思ふてをります」と深々と礼をした。この碑はのち柳原の忠魂碑(高知市内・山内神社隣)の場所に移り、桂浜の坂本龍馬銅像建立に際し、桂浜に移された。

政界引退後は、明治37年(1904年)に機関誌『友愛』を創刊。同40年(1907年)には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行った。大正2年(1913年)2月、肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に就く。大正3年(1914年)には林献堂の求めに応じて二度台湾を訪問し、台湾同化会の設立に携わり、これが後の台湾議会(現・台湾の国会)の起源となる。晩年の著作には『日本は侵略國家にあらず』、『社会主義の脅威』などが知られる。

大正8年(1919年)7月16日、肺炎のため薨去。享年83(満82歳)。法名は邦光院殿賢徳道圓大居士。なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・鉾太郎は自ら廃嫡し家督相続を遅らせて華族の栄典を返上した。

板垣退助は日本で初めて民撰議院設立建白書を提出し、国会を開設するための活動を行った。彼の組織した愛国公党、ならびに自由党は、現在の自民党の前身にあたる。2018年7月16日、板垣退助の百回忌(満99年目の仏式の法要)を行うにあたり、板垣の位牌を新調することになった。この為、2018年時点で、自民党の総裁であった安倍晋三は、板垣を代表する著名な言葉「板垣死すとも自由は死せず」を揮毫して板垣退助の玄孫・髙岡功太郎氏に贈った。髙岡氏は一般社団法人板垣退助先生顕彰会を通じて、この揮毫を位牌の裏に彫り、東京と高知の菩提寺に奉納した。東京の菩提寺は高源院、高知の菩提寺は高野寺である。東京の菩提寺は、板垣退助の埋葬地であり、高知の菩提寺は、板垣退助の誕生地に建つ寺院である 。

同志社大学の創立者・新島襄は「自由民権を唱えて国を良くしたい」という愛国論者の板垣退助に共鳴し、「それは新しい心に基づいた変革でなければならない」こと、そしてそれは「キリスト教的な新しい心を抱く新しい人間」でなければならず、「板垣さんがまずそうならなければ、日本の国を自由な民権の国にすることはできない。そのために『新民はすなわち新心を抱く者』を作り出すことから始めなければならない」と書簡を送り、板垣をキリスト教に改宗させようと何度も試みた。しかし、明治維新以降、神道に改宗した板垣は異なる考えを持っており、遂に板垣をキリスト教徒に改宗させることが出来なかった。板垣退助は、逆に欧米の主義思想を翻訳して何でも取り入れようとする明治政府の政策(所謂「翻訳カブレ」)に異議を唱え、またその欧米文化の根底にあるキリスト教思想に対し警鐘を鳴らした。

板垣は、キリスト教的思想においては、万物の創造主である「神」の存在のみを認めていたが『聖書』と交わる思想はその一点のみで、その他の聖書の記載に関しては空想的迷信と断じた(理神論)。尚且つ、その「神」とは人間とは全く異なる次元もので、人の行為に関して「何々をしなさい」とか「何々をするな」などと干渉するものではなく、また人が祈って、それを叶えるという類いのものでも無いと述べている。

大正デモクラシーが流行する中、ロシア革命の影響により過激な社会主義や無政府主義が、進歩的思想として世に蔓延するのを憂い、また彼らが自由主義(リベラリズム)を隠れ蓑にして思想浸透を謀ろうとしている事に激怒し社会主義、共産主義の台頭に警鐘を鳴らした。

アメリカに於ける日系人の排斥に憤慨・抗議し、大江卓らと議してアジア人の団結を呼びかけ、白人勢力と対峙するべく決起を促す。

明治元年(1868年)10月 - 戊辰戦争凱旋の記念として素焼の天盃を賜る

明治15年(1882年)4月12日 - 岐阜における板垣遭難事件に対し、『板垣は国家の元勲なり。捨て置くべきにあらず』との御辞、並びに勅使の派遣、御見舞金三百円を賜る

明治33年(1901年)5月10日 - 東宮(大正天皇)御成婚記念晩餐会において、純銀製「菊花御紋付き隅切唐櫃型鶴松文様ボンボニエール」を賜る

明治39年(1907年)- 板垣70歳の記念として「菊花御紋付き朱塗天盃」を賜る

大正元年(1912年)12月29日 - 明治天皇御遺品として掛軸『金亀島日出之圖』、『富士山雙鶴之圖』二幅対(田崎草雲画、佐野常民献上品)と置物一箇を賜る

大正4年(1915年)5月18日 - 泰宮聡子内親王御婚礼記念として「菊花御紋付き重箱型鶴丸文様ボンボニエール」を賜る

大正4年(1915年)11月10日 - 御大礼(即位礼)に際し、純銀製「菊花御紋付き柏葉筥型ボンボニエール(菊花御紋は純金製)」と純銀製「桜橘挿華」(平田宗幸製作)を賜る

大正5年(1916年)- 板垣80歳の記念として「菊花御紋付き桐唐草文縁銀天盃一揃」を賜る

大正8年(1919年)5月10日 - 皇太子(昭和天皇)成人式(満18歳)の慶賀として純銀製「菊花御紋付き八稜鏡型ボンボニエール(菊花御紋は純金製)」を賜る

明治38年(1906年)- 明治三十七八年戦役(日露戦争)凱旋記念に帝国陸軍創設の功労者として、純銀製ボンボニエールを賜る

明治20年(1887年)5月9日 - 伯爵

明治26年(1893年)6月16日 - 正三位

明治42年(1909年)7月10日 - 正二位

大正8年(1919年)7月16日 - 従一位

明治29年(1896年)9月29日 - 勲一等旭日大綬章

大正元年(1912年)8月1日 - 韓国併合記念章

大正4年(1915年)11月10日 - 大礼記念章

大正8年(1919年)7月16日 - 旭日桐花大綬章

国会議事堂 - 大日本帝国憲法施行五十周年を記念して建立。板垣像は北村西望作。

中央広間の四隅に銅像の台座があり、板垣退助像、大隈重信像、伊藤博文像、そして空の台座となっている。

芝公園 - 松田正久らの尽力によって建立された銅像。本山白雲作。戦時供出され再建されず消失。

青梅市 - 明治17年(1884年)、三多摩郡の自由党有志が、板垣退助を多摩川対岸の大柳河原に招き、板垣の好物である鮎漁大会を催して接待した事を記念し、岩浪光二郎ら有志の尽力によって、釜の淵公園内に昭和36年(1961年)5月3日を期して建立。(東京では芝公園の銅像が再建されなかったが、その代わりに青梅に場所を移して建てられたとも言える)

岐阜公園 - 岐阜県岐阜市の岐阜公園(金華山の麓)

板垣遭難(岐阜事件)の地に大正6年(1917年)に建てられた。戦時供出され、現在の像は戦後の再建像。

高知城 - 高知県高知市の高知城登城口

初代銅像は本山白雲(高村光雲の弟子)作。戦時供出され、現在の像は再建。

日光東照宮 - 栃木県日光市の日光東照宮参道へと通じる神橋入口

日光東照宮に立てこもる大鳥圭介ら旧幕臣達に対し、板垣退助は「先祖の位牌の陰に隠れて、こそこそ戦い、結果、歴代の文物もろとも灰燼に帰すれば、徳川家は末代までも失笑の種となるであろう。尋常に外に出て正々堂々と戦いなさい」と説得した。また、強硬に破壊を主張する因州鳥取藩に対しては「日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる扁額が掲げられており、これを焼き討ちすることは天皇家への不敬にあたるため回避せられよ」と両者に対して理由を使い分けて説得し、日光山を戦火から守った功績によるものである。初め昭和4年(1929年)に彫刻家の本山白雲による像が作られ、徳川宗家16代目を継いだ徳川家達が、板垣に感謝し銅像の題字を揮毫した。太平洋戦争(大東亜戦争)末期に金属供出されたため、昭和42年(1967年)、彫刻家・新関国臣の作による像が再建された。銅像の題字は、拓本をもとに徳川家達の揮毫を再刻して復元された。

国会議事堂板垣退助像除幕式(中央:板垣正貫夫妻、右:板垣守正夫妻、左:浅野泰治郎夫妻、子:浅野房子)
国会議事堂板垣退助像除幕式(中央:板垣正貫夫妻、右:板垣守正夫妻、左:浅野泰治郎夫妻、子:浅野房子)

岐阜公園にある板垣退助の銅像
岐阜公園にある板垣退助の銅像

高知城の銅像
高知城の銅像

日光東照宮の板垣退助像(写真は戦後に復元されたもの)。銅像題字の揮毫は徳川宗家第16代当主・徳川家達による
日光東照宮の板垣退助像(写真は戦後に復元されたもの)。銅像題字の揮毫は徳川宗家第16代当主・徳川家達による

板垣退助先生顕彰碑 - 昭和43年、明治百年・板垣五十回忌を期して、板垣の墓前に建てられた石碑。(佐藤栄作揮毫、板垣退助先生顕彰会建立)

板垣退助先生誕生地碑

薩土討幕之密約紀念碑

板垣退助先生銅像由来碑 - 西園寺公望撰(高知城公園)

開成館址碑 -(西郷隆盛・木戸孝允・板垣退助三傑会合之地)

憲政之祖国碑

嗚呼不朽碑

(系譜注)

実線は実子、点線(横)は養子。

系図は『板垣精神』、『御侍中先祖書系圖牒』、『土佐名家系譜』、『平成新修旧華族家系大成 上巻』および墓石に基づく。

年代別写真

1868年(31歳)
1868年(31歳)

1880年(44歳)
1880年(44歳)

1883年頃(47歳頃)
1883年頃(47歳頃)

1886年頃(50歳頃)
1886年頃(50歳頃)

1896年頃(60歳頃)
1896年頃(60歳頃)

1906年頃(70歳頃)
1906年頃(70歳頃)

備前長船盛重(初代) - 板垣は家屋敷を売り払い、私財をなげうって自由民権運動に身を投じたため晩年は金銭的に困窮していた。明治44年(1911年)頃、人を介して密かに杉山茂丸に刀を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、備前長船(大宮派)の初代「盛重」(南北朝時代の作)という名刀であった。茂丸は「これはどこで手に入れたのか?」と刀を持ち込んだ人に問うと、最初はためらったものの「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取ってもらうように』と頼まれて持参した」と打ち明けられた。驚いた茂丸は「この刀は伯が維新の際にその功により、拝領したものだと聞いているが…」と嘆息した。この後、杉山は「板垣ほどの者がこれほど困窮しているのだから」と山縣有朋に相談。山縣は板垣のかつて政敵であったが、士の一分を知る人であった為、これを密かに上奏して天皇や元老から恩賜金が出るようはからった。しかし、山縣は「私の上奏である事を板垣が知ると到底あの頑固者は恩賜金を受け取るまい」と誰の上奏であったか告げるのを秘匿するよう厳命した。

備前長船則光(脇差, 一尺八寸)- 先祖伝来の品。戊辰戦争出征時に佩刀。

左行秀 - 誂品 - 左行秀の作刀と義侠心に惚れ込み、板垣(当時は乾退助)は水戸浪士隠匿を打ち明ける。のちに行秀は退助を裏切り密告して勤王派を窮地に落とし入れるが、明治維新後、退助に会って謝罪した。退助は「君、嘗て予を裏切りて密告の事ありしも、それ皆、国の事を思ふて出でたる事なれば陳謝するに及ばず」と云ひ、更に「君の腕 一流なりし事、予 己(すで)に之を深く知る」とかつて退助が注文して誂えた左行秀の作刀の一口を本人に見せた。行秀は退助がとうの昔に自分の作刀など棄てゝしまつてゐると思ふて居た為、大事に保管されて居るのを知り、驚き滂沱した。其後、廃刀令による苦境の中で、暫時、退助の庇護を受けて高知市中島町の家に移つた。(中略)板垣は兵器製造の職を彼に斡旋したが、行秀は「最早その身に非ず」と辞退した。

関孫六兼元 - 青梅市訪問時に仕込み杖に収めていた。大日本帝国憲法施行五十周年を記念して建立された、国会議事堂にある北村西望作の板垣退助の銅像は、ステッキを手にしており、これはその時の仕込み杖であるとの説がある。

柔術は呑敵流小具足術を本山団蔵に学んだ。

板垣退助は、明治15年(1882年)に岐阜で相原尚褧に襲われた際、とっさに呑敵流の当身で反撃をした。敵の心臓を狙って肘で当身をしたが、力を入れすぎたために下にずれて腹部に当たった。のちの取り調べで相原尚褧が警察に痛みを訴えたため、調べてみると脇腹が黒いあざになっていたという。

岐阜事件のあと、板垣は命が助かったのは師のおかげと思い、本山団蔵に贈り物をしてこのことを話したところ、本山団蔵は板垣に教えた武術が実地に功を奏したことを喜び呑敵流の皆伝免状を授けたという。

居合は土佐に伝わる無双直伝英信流を、退助の大叔父にあたる谷村亀之丞自雄(第15代宗家)より習う。また、居合を学ぶために高知を訪れた中山博道に、無双神伝英信流の細川義昌を紹介した。日本刀の収集家としても有名だった。

自宅に相撲道場を築くほどの好角家としても知られており、国技館の名づけ親でもある。土佐出身の力士の多くを世話、特に初代海山が友綱部屋を設立すると絶大な支援をした。大正時代を代表する名横綱・太刀山峯右エ門は、海山に頼まれた板垣が、警察署長や当時の富山県知事である金尾稜厳を動員して、友綱部屋へ入門させた。海山の弟子で 高知県高知市出身の関脇・2代海山は引退後、5代・二所ノ関として同郷の第32代横綱玉錦三右エ門(6代二所ノ関=二枚鑑札)を育てるなど、現在の二所ノ関一門の源流を創り上げた。

帝國尚武會の野口正八郎に頼まれて顧問となっている。

明治天皇 -「(明治15年4月7日)この日閣議の定日なりしも、俄(にわか)に之(これ)を中止し、参議・山県有朋参内して状を闕下に奏す。聖上(明治天皇)甚(いた)く宸襟を悩まされ『板垣は国家の元勲なり。捨て置くべきにあらず』と宣(のたま)ひ畏くも侍従一名、侍医一名を差遣の御沙汰あり」「(明治20年6月)板垣退助は維新前に在りても、又維新後に在りても、皇室に対し、国家に対し、忠節を尽したるは、朕、常に之を記憶せり」

大正天皇 -「板垣は、戊辰の親征に際しては軍を率いて先鋒となり、知略巧に兵を動かし、さらに明治維新の大政を参し、立憲政体の確立に尽して日本を近代国家たらしめた。彼の尊皇の精誠は、生涯に亘(わた)って変わることが無かった。その功臣(板垣退助)が逝去したと聞いた。なんと悲しいことだろう。…それなので、侍臣を遣わして弔辞を述べるものである。御名御璽。大正8年7月18日」

西郷隆盛 -「戊辰の役に死したるもの少なからざれど、之(これ)が爲に生きたるものは唯一人、君(退助)のみ」

尾佐竹猛 -「板垣伯の勤王精神に付ては、改めて云ふ迄もない事であるが、土佐の藩論がやゝもすると佐幕に傾かんとするに際して、一死を賭(と)して薩長勤王の軍と行動を共にした板垣退助率ゐる勤王派の行動により土佐は薩長と並び稱せらるゝに至つたのである。次(つい)で板垣伯は官軍の重鎭として、その軍略に秀でた事は、西郷南洲をして敬服せしめた位であつた。そして會津落城の際に感じ得(え)た伯の思想が、後年の憲政思想の基礎を爲したことは餘りにも有名である」

大野勇(高知市長) -「板垣退助先生は、天分絶倫、風格崇高、思想深邃、其の韜略(軍事的才能)は西郷南洲翁も敬服する所。夙(つと)に志を勤王に效(いた)して赫々(かくかく)たる武勲を戊辰東征に樹(た)て、廟堂(べうだう)に立ちて大政(たいせい)を參畫(さんくわく)せられた」

頭山満 -「板垣死雖自由不死、精誠奉公終始不渝(板垣死すとも自由は死せずの精神を語り、誠の心をもって天下国家に尽くし、生涯変わることがなかった)」

三宅雪嶺 -「かつて陸軍中将の山地元治は、板垣退助が政治家に転身したのを悔やんだ。そして、板垣伯が軍人としての生涯を歩んだならば、必ずや元帥になっていただろうと評した。しかし、私(三宅雪嶺)は、板垣が民権運動を行ったことは、元帥になることよりも、日本の歴史の中において遥かに価値のあることであったと反論したい。即ち、彼が自由民権を叱呼して世を動かした事実は、彼が歴史の中で「偉大な一人の軍人であった」と評される生涯よりも、遥かに異彩を放ち、特筆すべき人物たらしめているのである」

岩田寛和 -「板垣退助君は実に自由社会の北斗なり。幼より器局(ききょく)あり、長ずるに及んで英捍豪相、将相の器を抱けり。幕政に慷慨悲憤の志を蓄(たくわ)へ、戊辰東征の役に出るや奥羽を征定し、帰して参与を拝し、後に進んで参議に累進す。征韓論に及び廟議と合はざるを以て終(つい)に冠を掛て退けど、杞憂愛国の志は益々厚く、天下に周遊して政党の結成に尽力し、今や已(すで)に自由党の総理に推挙せられ泰山北斗と仰がれたり」

川田瑞穂 -「(板垣退助)先生の精神は天地と共にあり。國家の隆昌ならん限(かぎ)り、先生も亦(また)、國民の心の中に生くべし」

川淵洽馬 -「(板垣退助)先生の先生たる所以(ゆえん)は固(もと)より形にあらず精神に存する事に候」

島崎猪十馬 -「板垣先生は先憂後樂の至誠達識にして、不撓不屈の雄魂の人である」

長尾敬 -「無欲恬淡を貫かれた板垣先生は政界引退後、社会改良運動に尽くされました。その『社会改良の本旨(板垣退助著)』では「家長は立憲国の君主のごとく、主婦は立憲国の宰相のごとく、子女は立憲国の人民のごとくあるようにせねばならない」と説かれました。まさにその根底にあるのは「天皇・政治・国民」という我が国の国体そのもの。今後政府が掲げる目標においても、板垣先生が説かれる論点が時代に合致した形で受け継がれるべきだと考えております」

岡崎誠也 -「今から百五十年前、徳川幕府による封建体制から脱却するための戦いが日本国内で起こり、その後、明治新政府のもとで、我が国は新しい近代国家へと生まれ変わり、アジアで初めての立憲国家となることができました。板垣先生は、この日本史上における大変革の時代に土佐藩兵の司令官として、また、その後の自由民権運動の全国的な指導者として、大きな業績を残すとともに、その思想や行動は、今を生きる私たちに、政治や国家のあるべき姿、さらには社会のあり方や人としての生き方まで、実に多くのことを教えてくれています」

山内容堂 -「(乾退助は)有意之才あり(いざという時に役に立つ才能を持っている)」-(文久2年12月)

林幸子(退助生母) -「将来、我が家の名を挙げるのは、この子(退助)であろう」- (少年時代)

吉田東洋 -「乾退助は少年(若輩)であるが、気性はよろしく追々鍛錬していけば役に立つ男なり」-「若く元気盛りで志も盛んであり、大いに将来の望みある者」

繁本護 -「板垣先生が明治15年、暴漢に襲われた際に発したとされる『吾死するとも自由は死せん』という言葉は余りにも有名ですが、その後、暴漢が板垣先生の下に謝罪に訪れたとき、先生はその暴漢に『私の行動が国家の害と思ったら、もう一度刺してもかまわぬ』と言われたとされています。先生の懐の深さを表しているのと同時に、自らの政治姿勢に対する確固たる自信、政治家として私心を捨て国家国民のために尽くしているのだという強い自負心がそこに表れています。私も、政治家の一人として、板垣先生のこの姿勢を肝に銘じて、山積する内外の諸課題に取り組んで行かねばと思っております」

昭和天皇 -「(五箇条の御誓文に基づき、民撰議院設立建白書などの要望を踏まえて)民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は(板垣退助らの自由民権運動の成果であり)決して輸入のものではないということを(アメリカを始めとする諸外国に)示す必要があった。(国内においては)日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです」

伊藤博文 -「足下(板垣退助)は國會開設の主唱者なり。余(伊藤)は憲法の立案者なり。然して立憲政治の責任は繋(かか)りて足下(板垣)と予(伊藤)とに在り」

穂積陳重 -「『帝国憲法』の制定は素より、維新の始、五箇条の御誓文に依りて確立せられたる国是に基くものなるも、その制定・実施に至るまでの経路に付ては、板垣老伯の如きは、あるいは朝(政府)に在り、あるいは野(民間)に在りて最も深き関係ある一人にして、之がために生命の危機に遭遇せられたる事(岐阜遭難事件)さへあるは、人の(よく)知る所である。本邦(日本)に於ける憲政確立の由来を語る人、(板垣)伯をおいて他にその最適者を求むる事は出来ぬ」

野村茂久馬 -「(板垣退助は)わが国における自由民権の始祖で、又その育ての父であり、憲政の大恩人である」

オスカー・アルフレッド・アクセルソン米軍大佐 -「板垣退助氏は、アメリカのリンカーンに匹敵する大政治家である」

高橋三郎(高知県知事) -「憲政の神として偉大なる功績の栄光に包まれ、多数の師、表敬仰の的として万世不易」

尾佐竹猛 -「伯(板垣)は政黨の總理である時でも言葉が一(ひと)たび皇室の事に及ぶと俄に席を起つて羽織袴に服装を改められた事と云ひ、また途中、陛下のお手植の松の前を通られる時などには恭しく敬禮せられたる謹嚴な態度を私(尾佐竹猛)は親しく目撃した」

楠正至 -「まさに板垣退助こそ幕末明治の大楠公であったと評して過言ではない」

伊藤痴遊 -「板垣が演説するときの姿勢や、その言い回しには、何とも荘重な所があり、尊皇思想に関しては、氷漬けになった様に頑固に節義を曲げなかった」

西郷隆盛 -「今、20万の兵を率いて海外と勝負できる者は、板垣のほかにはおらぬ」

川上操六(陸軍大将) - 「若(も)し板垣伯が、軍人たる道を全(まつた)うされたなら、必ず元帥となつてをられたでせう」

海音寺潮五郎 -「卓越した軍事の才能に西郷隆盛をして『板垣さんは恐ろしいお人よ』と言わしめた稀代の軍略家」

司馬遼太郎 -「戊辰戦争の発端となった江戸の薩摩藩邸焼討ち事件は、板垣が独断で土佐藩邸に匿った勤王派水戸浪士(中村勇吉、相楽総三)たちが(薩土密約により西郷隆盛の配下へ移管され)幕府を挑発した事によるもので、板垣が戊辰戦争を誘発させる苗木を密かに育ていたと云って過言ではない。西郷はそれを評して「板垣さんは怖いお人ぢや」と述べたのである。のみならず、板垣の軍事の才能は、戊辰戦争の総ての戦いを見ても名将の器に足るもので、敵味方双方の心情を巧みに操り快勝を遂げた。実戦での采配を比較すると元帥陸軍大将となった山縣有朋より遥かに優秀で、西郷隆盛と甲乙論駁して評価せねばならない」

辻貴之 - 「武」を捨てなかった板垣退助こそ国粋主義を発展させた中核であった。

山内容堂 -「退助は暴激の擧(きょ)多けれど、毫(すこし)も邪心なく私事の爲に動かず、群下(みな)が假令(たとへ)之(これ)を争ふも余(容堂)は彼(退助)を殺すに忍びず」- 慶応3年9月9日、土佐藩お抱えの刀鍛冶・左行秀(豊永久左衛門)が、退助の失脚を狙って藩庁に密告した時の容堂の回答。

徳富蘇峰 -「板垣伯は純潔なる国士であった」

中江兆民 -「板垣は(巷間の政治家と異なり)金銭に執着せず、無欲恬淡。古武士の風格を持ち、したたかな処は毫(すこし)も無かった。板垣は政治家として以前に個人としての魅力と美徳を備え、日本の民本主義発展に大きな功績を残した近世の偉人である」

板垣晶子 -「現代の価値観と比べることは出来ませんが、政治家として切腹してまで潔白でありたいという姿勢はとても大切ではないかと思います。祖父のこのような姿勢は、一生涯変わりませんでした。裕福であった先祖の財産はすべて政治に費やし、最後は自分の家も別荘も何一つ残らず、貧乏の代名詞になった政治家でありました。『一代華族論』もそんな祖父の姿勢を象徴するものです」

板垣退太郎 -「我が祖なれど一人の人物としてみた時、終始一貫して名利を追わず、俗権に屈せず、清貧に甘んじ、飄々として洵(まこと)に古武士の風格を保った退助の生涯は高く評価されて然るべきであると思われる」

尾崎正 -「古き良き武士道精神は急激に廃れ、栄華を享受し新たな特権階級となることを憚らなかった維新の元勲たちがいた中で、清貧に甘んじ自らの信念を貫き生きた清廉潔白の人であった」

杉崎光世 -「興亜御奉公から大詔奉戴に帰結した大東亜戦争が終結し、まもなくして靖國の英霊をお奉りした大鳥居の五十銭札が廃されて、曾祖父の肖像の五十銭札に変わった時は、とても驚きました。次いで、昭和28年(1953年)12月には、曾祖父の肖像の百円札が発行されました。清貧に甘んじ、金銭に縁の無かった曾祖父が紙幣の肖像になるなんて……。私はとても不思議に思いましたが、母はとても喜んでをりました。姉もとても喜んでをりました」

小山朝和 -「板垣退助の江戸・明治・大正にわたる数多くの事績、又あまり知られていない社会政策活動に代表される社会を見る確かで豊な目、卓越した判断力と行動力、そして清貧を通した矜持高い生き方など、その人となりを少しでも知って頂ければ望外の喜びです」

市島謙吉 -「昔改進党時代に、常用で板垣伯を訪ねたことがある。当時の伯(板垣退助)の住所は芝公園内の第何号地という様な分り難い所にあった。辛うじて番号を尋ね当てたが、さてその家が如何にもみすぼらしいので、自由党総理の家とは思えぬ。そこで念の為その家に就いて問うて見ると、矢張り伯の家であった。下駄の三足も並ぶと一杯になる入口に障子が二枚ある。どうしても下等の判任官の住居としか見えぬ。下駄脱から御免というて取次を頼むと、中でお上りという声がする。戸を開けると、直ぐそこに伯が客と対談中で、今上れと言われたのが主人の伯であったのに一驚を喫した。伯は無造作に応接されて、用は立ちどころに弁じたが、一方改進党総理大隈伯の殿様振りと板垣伯の生活振りが余りに懸隔あるので案外に感じた」

小西四郎 -「板垣は(伯爵の位を)受爵することは平生の主義に反するとて辞退し、六月「辞爵表」を提出した。これが容れられないと翌月「再辞爵表」を提出したが、(天皇)陛下の御意志は変らないとの再度の却下によって、天皇尊崇の念の厚い板垣は、ついに拝受書を出して華族の列に加わった。板垣の行動は立派であった。当時の華族が持っていた特権は非常に大きいものであったが、これを受けようとしなかったのはさすがである。世人は板垣の高潔さ、己の主義を貫こうとする態度に拍手を送った。確かに板垣は名利を求めない高邁の士(さむらい)であった」

司馬遼太郎 -「板垣は思想家と言うより、真の軍人、誠のサムライであった。その高潔な精神は到底小説で書き著すことが出来ない」

磯田道史 -「死ぬまで明治維新の理想を持ち続けた人。明治維新の勲功者や自由民権運動に参加した人たちまでもが、やがて貴族となって貴族院議員の議席を独占し、また実質世襲し、結局、旧幕藩体制と同様の状態になりつつある時にも、(板垣は)『犯罪者の罪が子孫に引継がれないのと同様に、国家に対する勲功も子孫にまで引継がれるのはおかしい』と公然と主張し、(明治維新の理想を)最後まで貫き通した。板垣のような人物が、維新の元勲に一人でも存在したことに救いを感じる」

谷甚之助 -「板垣さんの偉さは小事にこだわらない点だ。平素よりよく部下の言動を見て評価し、物事を公平公正に判断し、また部下に全幅の信頼を寄せ、決してその言に疑をさしはさまぬ人だった」

新島襄 -「師(板垣)は維新の功臣にして公平を自らに処し、師(板垣)の主義とする所は毫(すこし)も世の軽藻の輩と同じからず。故(ゆゑ)に予(新島襄)は決して師(板垣)の真意を疑はず」と述べ、新島は板垣がキリスト者では無いものの「基督教の真理」である「公平無私の精神」に通じ自由民権運動を推し進めている傑物であると絶賛している。

尾崎咢堂 -「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に兼ね備えた偉人」

谷干城 - 「後藤(象二郎)も板垣(退助)も皆上士の席に居る人で、幼年の頃より子供大将で郭中で人望があつた」

谷流水 -「吉田東洋の誘いも断って塾にも通わず、子供の時から習字が嫌い、読書が嫌い、物をしんみり考えることが嫌い。好きなのは鶏の喧嘩、犬の喧嘩、武術、それに大人の喧嘩でもあろうものなら飯も食わずに見物するというのだから今日このごろだったら中学校の入学試験は落第だね。ところがどうしたことか憎めないところがあって、小輩からは非常に人気があった」

司馬遼太郎 -「史実としての板垣退助を見ると、小輩からは非常に人気のあった人物で、それは依怙贔屓をせず下士と良く交わり、弱い者いじめをする者を律した彼の幼少期からの性格を反映したものであろう」

澤田榮作 -「自由民主党の源流・自由党初代総裁であられます板垣先生の百回忌にあたる大感謝祭を挙行出来ます事は、天国の板垣先生もさぞお喜び頂いている事ではないかと思っております。日本中の誰もが知る言葉『板垣死すとも自由は死せず』は、ここ(岐阜)で先生が凶賊の難に遭って発せられた御言葉であります。この『板垣死すとも自由は死せず』の尊い言葉がこの地で発せられて、日本の自由民権運動が高まり、現在の自由民主党へと発展してゆく起点となったのであります」

岡林九敏 -「無双直伝英信流居合術が今日あるは、洵(まこと)に伯(板垣)のご盡力の賜(たまもの)であると言って決して過言ではない」

中西岩樹 -「居合が漸次全国的に普及進展し、今日の隆昌を見るに至ったが、その危機を救ふて此の基礎を固めて呉れた恩人が板垣伯であることを、吾等、居合を修める者は決して忘れてはならず」

大江正路 -「無双直伝英信流居合に関しては、板垣伯が一番よく知っているから、訪ねたらよい」

藤山竹一(栃木県知事) -「今日、世界の日光たるを得しめたるは、維新当時の官軍の主将・板垣退助氏の敬虔なる態度と周到なる措置とに由来することを、我等は追慕の念慮と感謝の誠意とを以て永久に忘れることが出来ないのである。(中略)明治維新の後に於ける政党の領袖、民権の首導者として隠れなき板垣伯は、一面武将として、精神家として、亦、特に世界の名勝たる我が日光にかうした尊き事跡を残されてゐる。(中略)郷土、人士さへこの社廟保護と日光発展の上に、斯くの如き人傑の偉力が注がれてゐることを熟知する者は比較的少数であることを思ふと洵に遺憾に堪へぬ」

「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広く知られているように、板垣は戊辰戦争ならびに自由民権運動の英雄である。その為、板垣の政治的な行動は、民衆の議論を賑わせた。内務大臣への就任については競って多くの新聞が報道した。清水勲によれば、板垣は伊藤博文・大隈重信と並んで新聞に取り上げられることの多い明治の政治家の「ベスト・スリー」であるという。

薊野山(板垣山) - 山全体が乾氏専用の大きな墓地となっており、初代・板垣正信から退助までの10代の墓石が整然とあり、退助の墓は3番目の正妻・小谷氏(鈴子)と並んで建てられている。正信から退助まですべて「榧之内十文字」の紋がつけられている。退助の墓のみ「土佐桐」の紋が台座についている(所在地:高知県高知市薊野東町15-12の北東付近)。

安楽寺 - 乾氏(板垣氏)の一族の墓がある。(所在地:高知県高知市洞ヶ島町5-3)

高源院飛び地(品川神社裏) - 江戸で客死した退助の祖父・信武の墓石以外は、退助を含め明治以降に亡くなった一族の墓石があり、退助の墓は4番目の妻・福岡氏と並んで建てられている。明治以降の墓のため「土佐桐」の紋がついている。墓石のとなりには、明治維新100年・板垣伯薨去50回忌を記念して、板垣退助先生顕彰会によって建てられた佐藤栄作の揮毫による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑がある。品川神社の社域がもと東海寺の塔頭・高源院の寺域であったため、社殿裏が墓となっている。(所在地:東京都品川区北品川3-7-15。昭和53年11月22日品川区史跡に指定されている)

五古周二編 編『板垣政法論』植木枝盛記、自由楼、1881年3月。NDLJP:782887。 

木滝清類編 編『板垣君意見要覧』木滝清類、1881年12月。NDLJP:782885。 

木滝清類編 編『板垣君演説集並ニ板垣君刺客変報詳記』木滝清類、1882年4月。NDLJP:782886。 

遊佐発編 編『板垣君口演征韓民権論勇退雪冤録』渡部虎太郎、1882年6月。NDLJP:783269。 

砂山藤三郎編 編『戎座大演説会傍聴筆記』開成社、1882年7月。 

師岡国編 編『板垣君欧米漫遊日記』松井忠兵衛、1883年6月。NDLJP:760930。 

和田稲積編 編『通俗無上政法論』植木枝盛記、絵入自由出版社、1883年12月。NDLJP:783507。 

    和田稲積編 編『通俗無上政法論』植木枝盛記、友文書屋、1884年8月。NDLJP:783508。 

    清水益次郎編 編『板垣君欧米漫遊録』清水益次郎、1883年3月。NDLJP:760931。 

    前野茂久次編 編『板垣退助君演舌』前野茂久次、1883年9月。NDLJP:782888。 

    斉藤和助編 編『東洋自由泰斗板垣退助君高談集 上編』共立支社、1885年5月。NDLJP:782889。 

    『板垣南海翁之意見』郷敏儒、1890年2月。NDLJP:782890。 

      岩本米一郎編 編『板垣南海翁之意見』岩本米一郎、1890年5月。NDLJP:782891。 

      小河義郎編 編『板垣伯の意見』小河義郎、1890年3月。NDLJP:782894。 

      出射吾三郎編 編『愛国論』吉田書房、1890年3月。NDLJP:782873。 

      『板垣伯演説筆記』馬場秀次郎記、落合貫一郎、1891年2月。NDLJP:782893。 

      『板垣伯意見書』憲政党党報局、1899年1月。NDLJP:782892。 

      宇田友猪・和田三郎共編 編『自由党史』 上巻、五車楼、1910年3月。NDLJP:991339。 

      宇田友猪・和田三郎共編 編『自由党史』 下巻、五車楼、1910年3月。NDLJP:991340。 

        『自由党史』 第1冊、板垣退助監修、後藤靖解説、青木書店〈青木文庫〉、1955年8月。 

        『自由党史』 第2冊、板垣退助監修、後藤靖解説、青木書店〈青木文庫〉、1955年9月。 

        『自由党史』 第3冊、板垣退助監修、後藤靖解説、青木書店〈青木文庫〉、1955年11月。 

          『自由党史』 (上)、板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂、岩波書店〈岩波文庫〉、1957年3月。ISBN 9784003310519。 

          『自由党史』 (中)、板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂、岩波書店〈岩波文庫〉、1958年6月。ISBN 9784003310526。 

          『自由党史』 (下)、板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂、岩波書店〈岩波文庫〉、1958年12月。ISBN 9784003310533。 

          『一代華族論』社会政策社、1912年6月。NDLJP:798399。 

            『一代華族論』社会政策社、1912年11月。NDLJP:947723。 

            『一代華族論』忠誠堂、1919年。NDLJP:957490。 

            『神と人道』忠誠堂、1919年10月。NDLJP:957491。 

            『独論七年』広文堂書店、1919年10月。NDLJP:955680。 

            『立国の大本』忠誠堂、1919年。NDLJP:957489。 

              『立国の大本』財団法人板垣会館建設後援会、1932年。NDLJP:1457761。 

              『立国の大本(復刻版)』財団法人板垣会、1969年。 

              『立国の大本(現代語訳)』髙岡功太郎訳・一般社団法人板垣退助先生顕彰会編、2020年。 

              板垣守正編 編『板垣退助全集』春秋社、1931年11月。 

              板垣会編 編『憲政と土佐』財団法人板垣会、1941年11月。 

              板垣会編 編『板垣退助先生武士道観』財団法人板垣会、1942年4月。 

              『選挙法改正意見』。NDLJP:784225。 

              明治4年(1871年)、武田信玄の300回忌法要の際に、松本楓湖の画による武田二十四将の肖像が武田氏一族の菩提寺である甲斐恵林寺に奉納される際、各武将の直系子孫が画賛を書くことになり、依頼されて退助は板垣信方の肖像画に直筆で画賛を書いた。退助は揮毫を依頼されてもほとんど断っており、確実に自筆と判明している2点(1点は「死生亦大矣」の書)のうちの一つであり、数少ない板垣退助の直筆史料として、現在は財団法人歴史博物館信玄公宝物館の所蔵となっている。

              1885年、宣教師・グイド・フルベッキが高知に宣教をするにあたって仲介し、同郷の片岡健吉・坂本直寛の受洗などに多大な影響を与えたが、退助自身はキリスト教には入信せず独自の哲学的な神学観を持っていた。高知の板垣家歴代墓所には、各々「十字」が刻まれているため、クリスチャンだったと誤解する人がいるが、これは家紋であり、板垣家の代々の宗旨は曹洞宗である。菩提寺は、東京・青松寺。埋葬墓所の菩提寺は高源院。(東京・品川神社裏)

              板垣退助が岐阜で刺客に刺され「板垣死すとも自由は死せず」と発した場所(神道中教院)は、織田信長旧邸のすぐ近くである。

              板垣退助が初めて自由民権に関する演説を行った場所・大阪道頓堀戎座は、くいだおれビルの隣である。

              板垣退助の曽孫が所蔵している板垣退助、後藤象二郎、乾正厚が写った幕末古写真が、平成24年(2012年)7月13日に記者公開され、同年8月1日から8月31日まで高知市立自由民権記念館で一般公開された。撮影時期は、明治2年1月(1869年2月)頃と見られ、後藤象二郎と乾正厚は丁髷姿、退助は断髪後の髪型。後藤象二郎と板垣退助が同時に写った写真としては本写真が唯一である。

              尊皇の志高く、同じ土佐藩の間崎哲馬や中岡慎太郎と気脈が通じ好誼を交わした書簡が残されている。また千葉さな子が開業した鍼灸院には退助自ら患者としてでなく、自由党員の小田切謙明(のちに無縁仏となったさな子の身元引受人となる)をはじめ数多くの患者を紹介するなど、龍馬の縁者には何かと面倒をみている。

              タレント、作家・酒井若菜は、歴史上の人物では板垣退助の熱烈なファンであることが知られている。

              『南の海自由旗揚』牧岡安次郎編、摂海社、1880年

              『板垣退助君功名伝』上田仙吉編、1882年

              『自由党総理板垣退助君遭難記実 第1報』細野省吾編、1882年

              『板垣君遭難実記』矢野龍渓著、1891年

              『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年

              『無形伯』児島稔著

              『勤王 即憲政の板垣退助』尾佐竹猛著

              『史伝板垣退助』絲屋寿雄著、清水書店、1974年

              『板垣退助君伝記』宇田友猪著、公文豪校訂、全4巻:明治百年史叢書 原書房、2009年

              『板垣退助 自由民権の夢と敗北』榛葉英治著、新潮社、1988年

              『板垣退助 自由民権指導者の実像』中元崇智著、中公新書、2020年

              『その時歴史が動いた -時代のリーダーたち編-「板垣死すとも、自由は死せず」-日本に国会を誕生させた不朽の名言-』NHK 2003年放送

              『見える歴史 伊藤博文・板垣退助 -憲法と国会のはじまり-』Eテレ(デジタル教育3)2013年3月15日放送

              『英雄たちの選択・板垣退助“自由民権”の光と影』NHK BSプレミアム、令和2年(2020年)10月7日放送(同年10月14日再放送)

              『先人たちの底力 知恵泉 -板垣退助- 時代を動かす発信力を持つには』NHK Eテレ、令和3年(2021年)1月5日放送

              『自由の刃』板垣退助岐阜遭難140年特集(『岐阜新聞』2022年1月9日号)

              旧会津藩・庄内藩管理地 - 板垣退助が領土割譲を阻止。

              日光東照宮 - 板垣退助の銅像がある。

              牛久シャトー - 大正2年(1913年)10月3日、板垣退助を囲んでワイン・パーティーが開催された。列席者は、板垣退助、神谷傳兵衛をはじめ、伊東祐亨伯爵、川村景明子爵、上村彦之丞男爵、日高壮之丞男爵、小牧昌業ら - 茨城県牛久市中央3-20-1

              角松旅館 - 板垣退助が演説会を行った場所。演説会の看板が現存。明治天皇も宿泊された。- 千葉県我孫子市本町3

              朝萬(あさよろず)旅館- 板垣退助が宿泊。文政2年(1819年)創業の老舗旅館で、その他にも北白川宮、伊藤博文、大久保利通、田中光顕らも宿泊。- 埼玉県幸手市中1-6-22

              国会議事堂 - 板垣退助の銅像がある。

              憲政記念館 - 板垣退助の銅像(胸像)がある。

              靖國神社 - 板垣退助の指揮下で戊辰戦争を戦い散華された迅衝隊諸士の英霊が祀られている。

              防衛省本部(尾張藩徳川家上屋敷跡) - 板垣退助ら土佐藩迅衝隊が戊辰戦争の際に宿所として駐屯。また藩邸敷地内で軍事演習を行い会津戦争に備えた場所。- 東京都新宿区市谷本村町5-1(市ヶ谷台)

              国技館 - 板垣退助が命名委員長を務め命名を最終決定した。

              有一館 - 自由党が建てた文武修行道場。- 東京築地

              青松寺 - 板垣退助薨去の時に葬儀を行った寺院。

              品川グース - 板垣退助がかつて住んでいた場所。旧薩摩藩高輪邸を後藤象二郎が購入して屋敷を建て、板垣が居候する形で同居した。- 東京都港区高輪3-13-3

              芝公園 - 板垣退助の銅像が(戦前)建立されていた場所。板垣の東京邸附近でもある。

              祇園寺 - 板垣退助手植えの松(自由の松) - 東京都調布市佐須町2-18-1(本堂 右脇の松)

              八王子広徳館 - 明治17年8月25日、板垣退助が宿泊。- 東京都八王子市寺町2(現存せず)

              可睡斎 - 日露戦役護国塔 - 可睡斎は曹洞宗の寺で、板垣退助、東郷平八郎、神谷傳兵衛らが建てた巨大な仏塔型の日露戦争の忠魂碑がある。静岡県袋井市久能2915-1

              甲府城 - 板垣退助が戊辰戦争の際に駐屯。

              勝沼 - 甲州勝沼の戦いで板垣退助率いる迅衝隊が近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(新撰組)を撃破。

              恵林寺 - 板垣退助が、明治4年に挙行された武田信玄三百回忌法要に臨席。その際、住職より懇請され固辞するも能わず板垣信方の肖像画に賛を揮毫。

              板垣信方墓 - 板垣退助自身が墓参りに訪れている。

              池鯉鮒庵(知立公園) - 板垣退助ゆかりの茶室 - 愛知県知立市西町神田12

              岐阜公園 - 板垣退助岐阜遭難事件の場所 - 神道中教院址に板垣退助の銅像がある。

              岡専旅館 - 板垣退助が宿泊- 岐阜県美濃市魚屋町2190番地1

              旧太田脇本陣林家住宅(国重要文化財) - 明治15年(1882年)、板垣退助が岐阜遭難事件の前日に宿泊。- 岐阜県美濃加茂市太田本町3-3-34

              京都霊山護国神社 - 板垣退助の指揮下で戊辰戦争を戦い散華された迅衝隊諸士の英霊が祀られている。

              京都土佐藩邸跡 - 慶応3年5月22日(1867年6月24日)、板垣退助が山内容堂へ薩土討幕の密約を締結した事を報告した場所。また、戊辰東征の途次、京都で駐屯した場所。- 京都府京都市中京区木屋町通蛸薬師角(旧立誠小学校跡地附近)

              近安楼跡 - 慶応3年5月18日(1867年6月20日)、板垣退助、中岡慎太郎、福岡孝弟、船越洋之助が会して薩土討幕の密約の締結へ向けて密談した場所。- 京都府京都市東山区清本町368-3

              和泉屋旅館 - 板垣退助が宿泊 - 京都府京都市下京区西中筋通正面下ル丸屋町122

              稲束家住宅 - 板垣退助が宿泊 - 大阪府池田市綾羽1-4-18

              横山家住宅主屋(横山医院)- 明治25年、板垣退助が宿泊 - 大阪府高槻市城北町1-88

              自由亭 - 明治14年(1881年)9月11日、板垣退助が自由民権の志士たちと懇親会を開いた場所。- 大阪府大阪市北区中之島1-1

              花外楼 - 明治8年、大阪会議で板垣らが利用。板垣らのレリーフあり。 - 大阪府大阪市中央区北浜1-1-14

              戎座(浪花座) - 板垣退助が初めて自由民権に関する演説を行った場所。- 大阪府大阪市中央区道頓堀1-8-22

              高知城 - 板垣退助の銅像がある。

              高野寺 - 板垣退助の生誕地

              龍乗院 - 板垣退助生家の門を移築した山門が現存。

              致道館 - 板垣退助が戊辰戦争で迅衝隊を率いて出陣・凱旋した場所。

              高知県護国神社 - 板垣退助の指揮下で戊辰戦争を戦い散華された迅衝隊諸士の英霊が祀られている。

              桂浜 - 板垣退助が坂本龍馬の功績を讃えて建立した石碑が現存。

              鏡川 - 板垣退助が泳いだ川

              潮江天満宮 - 板垣退助の産土神(壬申戸籍では板垣家の祭祀は神式、氏神潮江天満宮と記載)

              丸山台 - 板垣退助が欧州視察から帰国時に歓迎会が開かれた場所。

              潮江新田邸跡 - 明治以降の板垣退助邸宅跡。石碑あり。

              板垣山 - 板垣家(乾家)歴代墓所。板垣退助の分骨墓あり。

              柳原 - 板垣退助が軍事演習を行った場所。現在は忠魂碑がある。山内神社横。

              桜馬場 - 板垣退助が軍事演習を行った場所。高知城西隣。

              ひろめ市場 - 板垣退助にちなんだ「自由の広場」がある。肖像画あり。

              自由の松原 - 板垣退助と谷干城が自由闊達に口論した場所。

              板垣退助謫居の地 - 板垣退助が罪を得て4年間謫居した場所。石碑あり。

              基隆倶楽部 - 大正3年(1914年)2月17日、板垣退助が宿泊。

              台湾神社 - 大正3年(1914年)2月18日、板垣退助が参拝。

              鉄道ホテル - 大正3年(1914年)2月18日-19日、3月3日-6日、林献堂の招きによって渡台。板垣退助が宿泊、歓迎会、議会政治の必要性について大演説が行われた。のちにこれが現在の台湾議会(台湾の国会)となる。- 臺灣臺北市表町2丁目7番地

              台中公園 - 大正3年(1914年)2月25日、板垣退助が桜・榕樹を記念植樹。- 臺灣臺中市北區新興里

              台中神社 - 大正3年(1914年)2月25日、板垣退助が参拝。

              孔子廟 - 大正3年(1914年)2月22日、板垣退助が参拝。

              開山神社 - 大正3年(1914年)2月22日、板垣退助が参拝。

              ルイ・ヴィトン本社 - 板垣退助が欧州視察の際にトランク鞄を購入。日本人購入品の現存最古。

              ^ 「一君のもと萬民悉く平等にして、みな同一均等の機會を有し、その間すこしも階級特權の存在を許さゞるは、我國建國の體制なり。(中略)しかりと雖も予が茲に平等均一といふは政治上における權利の平等均一と指すものにして、決してかの社會主義者の唱ふるが如く、社會上における生活の平等均一を指せるにあらず。けだし社會の實情において權利は之を平等均一ならしむることを得べきも、生活は決して之を平等均一ならしむることを得べからず。何となれば人間の智愚、強弱、勇怯、勤惰等の差別ある以上、これより生ずる所の生活の現象は自から相異ならざるを得ざるを以て也。(中略)階級即ち華族制度の如きは、もと人爲に成れるものなるが故に、之を破壞することを得るも、(中略)人格の光よりして發する所の天爵(天賦の才能)は、自然に相異なる所ありて、何者の力を以てするも到底これを平等均一ならしめ得べきにあらず。(中略)しかるに社會主義は之に反して生活の平等均一を以て主義とする者にして、平等と共産を以てその前提と爲せり。けだし社會主義より平等主義と共産主義の二者を取り去れば、社會主義はその意義を爲さず。故にいやしくも社會主義と謂へば、同時に必ず平等主義、共産主義ならざる可らず。しかして生活上の平等主義は、即ち全然人間の個人性を沒却し、その智愚、強弱、勇怯、勤惰の別を撒せる所の絶對無差別主義にして、各個人は唯一の勞働を條件として社會に賴て生存し、すこしも世味辛酸を嘗めて其德器を成就し、もしくは切磋琢磨によりてその材能の長ずる所を發揮し、以て個人の發展を期するといふが如き競爭を必要とせざるが故に、また之を謂つて絶對無競爭主義と爲すことを得べく、共産主義とは即ち經濟の基礎を全然社會に置き、私有財産の制を廃して一切の資本を社會の有と爲し、この資本の社會化によりて、唯一の勞働を條件として社會萬民の生活を平等均一ならしむるを謂ふ。(中略)かくの如きは到底個人性ある人間の堪へ得る所にあらず。彼等は「勞働は神聖にして人間は悉く平等無差別に勞働の結果を収め、平等均一の生活を求むべきものなり」と説くも、今、試みに彼等の要求するが如く、悉く勞働の賃銀を一定し、これを平等に社會の各個人に頒つとせんか。勞働の多寡、勤惰の如何によりて之が報酬を異にする時は、各人の平等を破り、社會主義の根本思想に反するが故に、勢ひ之を差別すること無くして悉く一樣に其賃銀を支給せざるべからず。果して然りとせんか、元來安逸を貪り勞苦を厭ふは生物の自然の性情にして、特に人類に至つては最も然るものあるが故に、自ら好んで勞働に就くの愚を敢てする者無かるべく、もし萬一社會的義務の觀念よりして自から好んで勞働に從事する者ありとするも、かかる場合においてはその怠惰なる者は、自己の安逸を貪る能はざるが爲めに、却て勤勉なる者を抑制して、之をして勞働に從事せしめず、結局全社會を擧げて怠惰、貧弱、困窮に陷らしめずんばひるまず、しかもかくの如きは單に勤勉なる者と怠惰なる者との間においてのみしかるにあらず。智愚、強弱、勇怯の間、また皆なしかり。即ち茲に智者ありてその絶倫の才智を示す時は社會の智なき者、才なき者は、之を見て生活の平等を壞る者なりと爲し、相團結して之を除かずんばひるます、また、かの勇者強者に對するも、また皆なしかり。かくの如くにして彼等は生活の平等を行はんが爲めに、ただに貧富のみならず遂には智愚、強弱、勇怯をも之を平均せずんば滿足する能はざるに至るべし。これ則ち個人の競爭を杜絶し、強て生活の平等を實現せんと欲する社會主義の論理の、當然歸着すべき結論たらずんばあらず。かくの如く社會をして強て個人の競爭を杜絶し、生活上の平等を得せしめんと欲する結果は、政治上においては常に直與政體に基く所の愚論に陷り、社會上に於ては恰かも水の卑きに就くが如く、常に社會を愚、弱、怯、惰の低き平準に保つに至るが故に、到底個人の智德の向上發展を求むべからざるのみならず、かへつてその智識は日に日に退歩し、人々各々一時の安を偸み、國家を監督するの智識、經驗無く、行政官となるへき人材も之を得べからずして、隨つて官吏の私曲を矯正する能はず、文明の發展を阻み、社會の進歩を害し、遂に社會主義の桎梏の下に在て、人類の社會をしてたゞ生活の本能のみによりて動く所の禽獸の社會と相擇ふこと無からしむるに至らん。かつそれ社會主義においてはまた共産主義を前提と爲し、個人が資本を擁して自から事業を營むことを許さゞるか故に、その結果は單に機械といひ製造といふが如き生産問題にのみ偏して、財政を運用するの能力を養ふ能はず、爲めに事業に關する智識、經驗を缺き、その之を缺くの極、愚者は倍々愚となり、終に國家財政の監督を爲すの途を知らず、遂に社會主義の桎梏の下に在て、人類は社會の奴隷となり、呆然としてたゞ目前の生活に沒頭し、禽視獸息の已む無きに至る。(中略)社會主義によりて個人の競爭を絶ち、其個人性の發展を遏め、一切のものを社會化し、社會性に偏倚するの極は、遂に個人性の破壞、個人自由の撲滅となり、延て社會の壓制束縛となるは極めて覩易きの道理にして、予(板垣退助)が社會主義を以てそれ自身が既に一個の破壞主義なりと爲す所以は實に茲に在り。(中略)社會主義は無差別共産主義にして、單に勞働を以て唯一の條件と爲し、以て生活の平等均一を期するが故に、個人互に相競爭するの必要無く、隨つてまた資本運轉の智識經驗を積むの必要も無く、社會を組織する所の各個人は單に一大勞働軍の一兵卒として、多數と共に旅進旅退すれば足るのみ。然れども之と同時に各個人は自己の意志に反して勞働を強制せらるゝことを免れず。則ち社會主義の世界においては、勞働かしからずんば死か、この二者のうち一つを選擇せる可らざる場合、勞働が常に個人の上に來るべく、これが爲めに個人の自由を破壞し、その獨立自尊を傷け、その天爵(天性の才能)を認めず、人生を單に胃腑(胃袋)の問題に局限し、隨つて人智の退歩を來たし、社會の發展を阻み、人間の社會を變して禽獸の社會と爲すの虞あり。もし人間の社會にして個人の自由無からんか。かの自由衆異を生し、衆異眞理を生ずと言へるが如く、その個人敢爲の特性により、互に相反撥、競爭するが爲めに、その探求研磨の結果、遂に事物の眞理に到達する所の智識の源泉、向上の動機を失ひ、社會は遂にミイラの如きものと化さん。(中略)しいて、社會上における生活を平均せしめ、之を共有せしむるが如き社會主義は、我黨(自由党)の自由主義と相悖る(正反対である)所也」

              ^ 「徳川氏、馬上に天下を取れり。然(しか)らば馬上に於いて之(これ)を復して王廷に奉ずるにあらずんば、いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。無名の師は王者の與(くみ)せざる所なれど、今や幕府の罪悪は天下に盈(み)つ。此時に際して断乎(だんこ)たる討幕の計に出(い)でず、徒(いたづら)に言論のみを以て将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり。乾退助」

              ^ 大東亜戦争後の世界秩序や、日本の置かれている不公平な立場などが最たるものである。

              ^ 「元來、世の聵々者流(知ったかぶり)は、君主々義といひ、民本主義といふが如く、各其一方に偏し、始めより兩者を相對立せしめて議論を立つるが故に、理論上兩者相敵對するが如き形を生じ、其爭の結果、社會の秩序を紊亂するに至る也。抑も予(板垣退助)の見る所を以てすれば、君主と人民とは決して相分つべきものにあらず。何となれば君主といひ人民といふも、決して單獨に存在するものにあらずして、人民ありての君主、君主ありての人民なるを以て也。則ち既に君主といふうちには、人民の意志の綜合、換言すれば輿論の結晶體といふ意味が含まれ、人民といふうちには又た之を統治して其秩序を維持する所の、最高權を執る者の存在すといふ意味が含まる。是故に民無くして君在るの理無く、人民無きの君主は一個の空名たるに過ぎず。(中略)專制君主と雖も其理想は實に人民を撫育し、其安寧幸福を求むるに在り。是故に君主と人民とは二にあらずして一也。決して始めより相敵對すべき性質のものにあらず。兩者は始めより其目的を同うし、利害を齊うせるものにして、恰も唇齒輔車の關係に在り。(中略)君主々義の神髓は卽ち取りも直さず民本主義の神髓たる也。(中略)君主々義といひ若くは民本主義と稱して、互に相爭ふが如きは、抑も誤れるの甚だしきものにして、君民は同一の目的を以て相契合融和し、共同して經綸を行ふべきものたることを知るに難からざるべし。而かも特に我邦の體制に於ては、君民の關係は恰かも親子の關係の如く、先天的に既に定まり(中略)我邦に於ては建國の始めより、君民一體にして、君意と民心は契合して相離れず。之が爲めに我邦に在ては毫も禪讓若くは選擧の形式を躡むの必要無く、人民の總意、輿論は直ちに君主によりて象徴せられ民意は卽ち君意、君意は卽ち民意にして君民は一にして決して二致無き也」より。

              ^ 鈴木安蔵は「板垣(退助)君並に立志社先輩諸氏は武士階級の教育を受け育った人々であり、彼等の述べるところの自由主義とは『泰西大家の新説』と日本文化によって醸熟された武士道精神の融合により誕生したものである」とする。

              ^ 「自由党」の前身が「愛国公党」、「愛国社」であり、「自由主義」と「愛国主義」が同等の位置に置かれていた。

              ^ 全国水平社より設立が早い。

              ^ 王羲之筆『蘭亭序』「古人云、死生亦大矣、豈不痛哉。(古人云ふ、死生も亦た大なりと。豈に痛ましからずや) 意味「昔の人は言った。死ぬことも生きることも(人にとっては)実に重大なことである。(それならば)なんと悲痛なことだろうか」また、荘子(内篇):德充符の「仲尼曰、死生亦大矣、而不得與之變」からとも。

              ^ 「徳川家は、新田義重四男・世良田義季に出ずる世系で、義季の子・頼有が上野国新田郡得川郷(現 群馬県太田市徳川町)を領して氏をとした。吉野朝時代、世良田弥次郎満義は、同族の新田義貞に属し、子の世良田右馬助政義は、宗良親王に供奉した。斯くの如く王事を盡した尊皇の祖先を矜持として、徳川光圀は『大日本史』編纂を命じ、これにより水戸学が勃興。この水戸学が幕末維新の志士たちに与えた影響は実に大きい。この潮流に位置したのが、土佐藩の乾退助(のちの板垣)で、藩内上士の中で退助は最右翼の存在。武闘派で古今の軍事に精通し、また筋金入りの尊皇論者であった。文久二年(一八六二)、山内容堂公の御前で、武力討幕を公言して、寺村左膳(日野春章)と対論。藩内勤皇派の間崎哲馬と好誼を結び、また小野の聖人と称された勤皇派上士・平井政実(善之丞)は退助の叔父にあたる。しかし、退助自身は土佐勤王党の志士が関与した闇討ち暗殺などの行為には否定的で、その為、尊皇派でありながら武市瑞山とは一線を画していた。幕末、世上には幕府の政策に対する不満、腐敗が噴出し、多くの志士たちが王政復古を目指して討幕活動に身を投じる事となる。退助は、夙くから討幕を公言し、それを実行し、その信念を生涯にわたって貫き通した。その昔、楠木正成は尊皇討幕に忠勇無比の働きを見せ、その最期は「七度生まれ変っても国に報いる」と誓ふて湊川で散華したが、まさに板垣退助こそ幕末明治の大楠公であったと評して過言ではない。退助は大西郷と討幕の約を結び、軍事を近代化して兵を鍛え、戊辰の戦地を駆け抜けて遂に会津を鎮撫し、維新回天を成し遂げた。尊皇討幕を旗印に志を貫いた大楠公の精神は、幕末退助が継いで、維新の志は成就された。しかし、華族制度が創設され、功労者らに恩爵の沙汰が下ると、維新の志士たちは大多数の者がこれを受けて平然とした。将軍家に大政奉還を迫り、藩侯に版籍奉還を促し、自らに秩禄処分を課して断行した討幕の精神は、一体、何だったのか。美辞麗句を連ねて、その実は徳川家を将軍職から引ずり降ろす為の醜い私闘に過ぎなかったのか。維新回天から経ること僅か二十年にして、自らがそれに変わる地位に座ったのであれば、同じ轍を踏んで結局は、己こそが第二、第三の足利となるのではないか。江戸時代、紫衣事件あり、禁中並公家諸法度あり、時代が下るに連れてその尊皇精神は廃れ、次第に世の矛盾を生じた。退助は討幕挙兵の当事者であったが故に、その事を最も警戒し、常に維新の精神が廃れるのを危ぶんだ。その発露が『一代華族論』である。一代華族の制までもを否定すれば、軍人の階級制度に矛盾が生じる。しかし、特権階級は世襲はすべきではないと。さらに深彫りして言うならば、本来、軍功を立てるのは己や己の子孫の為ではなく、常に皇室、国家、そして残された人々全体の為であらねばならぬと。真に清廉潔白で一片の私心をもなき武人の尊皇精神である。これを堂々と公言し、世に問い、実行したのが板垣退助である。勿論、この生き方を萬人に求めるのは難しいだろうが、国家の中枢となる立場の人、公に立つ人らには当然求められるべき精神性である。翻って考えると実に神武肇国以来、わが国においては、必ず、皇室の窮地には、時代を越えて比類なき尊皇精神を発揮する人物を輩出してきた。和気清麻呂公しかり、児嶋高徳公しかり、わが大楠公しかり、そして板垣退助伯しかりである。かくして、萬世一系の皇統は保持せられてきた。この崇高なる尊皇精神が続く限り神州は不滅である。けれども、これが廃れた時は目を蓋うばかりの凄惨な現実が待ち構えているであろう。後の世を担う人々よ、どうか先人の行動を範として、この皇統を この国をお守り下さい」

              ^ 板垣退助、楠木正成ともに「尊皇討幕」であったこと、両者ともに時代の転換期の武将で、多くの人の精神的支柱となり、国会議事堂には板垣退助、皇居には楠木正成の銅像が建てられ、また両者とも軍人出身で紙幣の肖像になった人物として共通項が多い。

              ^ 蝦蟇の油の製法は、四六の蝦蟇の四方に鏡を立て、下に金網を敷く。蝦蟇は自分の姿が鏡に映るのを見て驚き、タラリ、タラリと脂汗を流す。これを金網の下の容器に集め、柳の小枝で、21日間煮詰める」とあり。

              ^ 帝國公道会創立式典の演説で、板垣自身が「私は耳が聴こえませんが…」と語っている。

              ^ 『吉良川老媼夜譚』桂井和雄著に、「(板垣退助は)食べ物は、卵の半熟と鮎の塩ふり焼きがお好きで、三度三度かかさずお召あがりになりました」とあり。(若いころ乾家で女中をしていた近森菊代という女性の話より)

              ^ 谷干城談

              ^ (板垣自身の言葉で)「吉田(東洋)の関係は一切ございませぬ」と回想している。(『維新前後経歴談』

              ^ 退助が神田村に蟄居中、きこりや農夫たちと身分の隔てなく親しく交わり、それが後年、庶民の立場に立った自由民権運動に目覚めるきっかけとなったことや、免奉行(税務官)時代に農夫たちが、退助に平伏して話をするのを見て、万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い。私にも遠慮なく文句があれば申し出てくださいと語った話など、下士や農民たちに対しても寛大であった(当時としては変人とみられることもあった)逸話は豊富である。そえがゆえに退助が自由民権運動に没頭し全国を遊説していた頃には庶民派として大衆の人気を博した。

              ^ 薩摩藩士・大山綱良は日記に「文久2年4月16日、長州永井雅楽ト申仁、専ら奸計ニ而候得共、周旋致候由、岩倉殿弥御正論相立候事、長州公(毛利慶親)早々御下京相成候旨、先達而被仰出候事」(『大山綱良日記』)とあるように、長井雅楽の『航海遠略策』を「奸計」と考える意見が多かった。

              ^ 中岡慎太郎が乾退助に「…貴所は役を罷められた様子であるが、私など何分、君敵のやうに言はれて用ゐられぬ。甚だ困つて居るが、一つ此処で御意見を伺ひたいが、どうでございませう」と問えば「中岡君、今日は私の言が行はれやうかと思ふ。といふのは、私が役を罷めたからといふて、貴所が訪ねて来られたといふことは、始めて私に信用を置かれた様に思ふ。一つ貴所にお尋ねせにやならぬが、貴所は私を京都で殺す積りであつたらう」と退助が云ふので、中岡は慌てて「イエさう云ふことはござりませぬ」と返したが、退助は「それはどうも怪しからぬ。中岡君に似合わぬ女々しい話であつて、大丈夫の事を談ずる。時として殺さうと思ひ、又、共にしやうと思ふ、何の遠慮が要る訳はない。どうも中岡君に似合はぬ。僕は余程失望した」と語つた。中岡は観念して「これはどうも心外のことで、如何にも其の通、殺す積りでございました」と語つた。すると退助は喜んで「さう言つて呉れてこそ後の話が出来る。さうであつたらう。しかしながらどうも貴所などの遣り方といふものは実に甚だしい(極端である)。大坂では誰々を殺し、又、容堂公の酒の伽(とぎ)に出た者を斬るの、腐つたやうな首を持つて来て脅かすのといふことは、何といふことだ(池内大学らが殺され耳を切られて晒された事件を指す)」、「それは実に悪うございました。どうぞ是から共にやつて下さい」、「宜しい。私も國に盡す上に於て、役を罷められたからからどう、役に就いたからどう、と云ふやうなことはない。素より共に遣らう」と意気投合し、互いに将来の討幕を約した。

              ^ 土佐藩の軍事職の一つ

              ^ 「勤役中、御侍中御加増取調之儀に付、不愈之儀有之。(中略)然に右等念入可取扱筈之處、件之次第依之、今廿七日慎被仰置候」

              ^ 土佐の地名

              ^ 土佐藩の力士の名

              ^ 『江戸幕臣人名事典(多聞櫓文庫目録明細短冊の部)』に「御書院番・深尾政五郎。本国近江。生国武蔵。 分限高 三百俵(内百俵御足高)。養祖父深尾與兵衛死、新御番相勤申候。養父 深尾善十郎 御納戸頭。実祖父松波平三郎死 新御番相勤申候。実父 松波平兵衛 小普請。養子総領・深尾政五郎。(申歳三十五)萬延元庚申年五月十四日、従部屋住両御番之内御番入御書院番江入」とあり。『柳営補任』によると旗本・深尾善十郎の養子総領。実父は松波平兵衛。

              ^ 薩長同盟が結ばれたのと同じ場所にあたる。

              ^ ベルギーからの直輸入ではなく、米国南北戦争で使用され、戦争終結後に余剰となった武器類が日本へ輸入されたものと言われる。

              ^ 句読点を追加し、読みにくい箇所は、原文より一部を平仮名に改めた。

              ^ (書き下し)「土佐少将(山内豊範)へ、徳川慶喜反逆妄挙を助け候条、其の罪、天地に容ちあらざるにつき、讃州高松、豫州松山、同、川之江を始め、これまでの幕領惣てを征伐し、(領地の)歿収これ有るべく仰出され候。宜しく軍威を厳にし、速やかに「追討之功」之旨を(朝廷へ)奏すべく、御沙汰候事。(慶応4年)正月十一日、但し、両國中の幕領の儀は勿論、幕吏卒の領地迄も、惣て取調べ言上これあるべく、かつ人民の鎮撫は、ひとえに王化に服すべきよう致すべく所置候事」

              ^ 香川県善通寺市碑殿町と三豊市三野町大見の間に位置する峠。現在の国道11号線上にある。

              ^ 会津藩出身で東京帝国大学総長などを歴任した山川健次郎は、会津藩を評して「兵法や武器が時代遅れで、藩主の松平容保は幕府への忠誠心は厚かったが、情報に疎く藩主として藩内の多数派だった主戦論を抑えられなかった」ことや、「京都御所警備という朝廷に近い場所で任務に就いていたにも関わらず情報を軽視し、また会津藩における身分制度が他藩より厳しく、武士や地主以外の領民の意思を軽視し、戦争準備や軍制改革も遅かった事が敗因」としている。「恭順派の意見を戊辰戦争を始まっても一層排斥し、勤王派で長州などと交渉可能な人材であった神保修理を早々に切腹に追い込み朝廷からの信用を失墜」したこと、「鳥羽・伏見の戦いでの圧倒的敗北となった後も強硬路線を主張した佐幕派こそ、藩主として説得するか処罰するかなどして、時代の変化を理解させるべきだった」と会津藩の無策ぶりを痛烈に批判している。

              ^ 土佐藩兵2個小隊:小笠原謙吉(迅衝隊三番隊)、谷重喜(迅衝隊四番隊)、北村重頼(迅衝隊砲兵隊)(7門)鳥取藩兵6個小隊:佐分利九允銃士隊、天野祐次隊、藤田束隊、宮脇縫殿隊、建部半之丞隊、山国隊(丹波の農民有志による義勇兵)、佐分利鉄次郎砲兵隊(2門)、高島藩半小隊(伍長岩本順吉郎指揮)

              ^ 天然理心流の門人・佐藤彦五郎らを中心とした部隊。

              ^ 伯、凱旋の兵に諭戒す。「戊辰之役、會津ちて庄内またその兵を解けり。伯、朝議より凱旋の令を拜し、十月四日、愈々歸還の時に臨て全軍に諭戒して曰く「不肖、退助、されて一軍の將となり、當初、剣をたづさへて諸君と共に故郷を出づるの時、生きて再び還る念慮はすこしも無かりき。しかばねを馬革につゝみ、骨を原野にさらすはもとより覺悟の上の事なり。想はせり今日征討の功をへ、凱旋の機會に接せんとは。これ何等のしあはせぞや。ひとかなしみにへざるは、吾等、戰友同志はつゆし、あめまかするのあまりつひに一死大節に殉じ、なが英魂えいこん此土こゝに留むるに至り、あたり賊徒平定の快を見てこれ禁闕きんけつ復奏ふくそうすること あたはざるの一事なり。しかして我等、此の戰死者を置き去りにすと思はゞ、低徊あてなき躊躇さまよひこゝろへざるものあり。それを何事なにごとぞや諸君らの中にとききそふてみなみさんとこひねがふは。そもそも此の殉國諸士の墓標おくつきたひこゝろづ處なき」と。しかして軍を二面に割て若松を發し二本松へ向ふにあたり諸隊に令しむるに曰く、「今時いま、凱旋奏功の時に臨み、あへて惰心を起して王師みいくさを汚す者あらば、たちまちにして軍法を以て處す。れば全軍謹んでこれいましめよ」と。依て九日、二本松を過ぐるにのぞみてはなほ一層手厚くして毫釐のあやまちもなからしめたり」

              ^ 当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都與吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されている。また岐阜県警部長の川俣正名が岐阜県令に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている。

              ^ 原文「大野宰次郎氏が馳せ来たつてただちに板垣君にひしと抱きつき、「嗚呼残念なるかな」と一声叫びて落涙雨の如く右の袖を(板垣)君の身体より滴る血潮にひたして泣きしたうさま、熱心哀情が面に溢れて殆ど名状すべからざる有様なり。板垣君はこの哀声を聞かるゝに頭を廻らして静かに曰く「嘆き玉ふな板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と。嗚呼、この一言は我々自由家の記念として、以て後世に傳ふべきものなり」

              ^ 原文「尚褧、再び突かんとして君(板垣)と共に倒れしが、君はとくはね起きて、兇徒を睨みつけ『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ』と言はるゝ言葉の果てざるに、またもや面部へ切り掛りたり」

              ^ 原文「君神色自若、毫も平生に異ならず、顧みて諸氏を労りかつ謂て曰く「たとい退助は死すとも自由は死せず。誰がわが党を指して「過激なり」といふ。彼、かえつてこの過激のことを成す」と」

              ^ 後藤から小島竜太郎に伝わり、さらに中江に伝わった。中江が新聞記者に漏らしたのは随員となる今村和郎・栗原亮一の洋行であるが、板垣・後藤の洋行も噂として広まっていたものと見られる

              ^ 今村は直前まで内務省書記官であり、洋行の随行者として井上馨に選ばれた。洋行中、今村の家には毎月100円の給与が政府から支払われていた。

              ^ 顧客名簿によると、日本人最古のルイ・ヴィトン購入者は1878年に鮫島尚信(在仏特命全権公使)、中野健明(一等書記官)であるが、いずれの鞄も現存しない。

              ^ 華族となった板垣は衆議院議員の被選挙権を喪失した為、衆議院議員となることはなく、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。

              ^ 「(岐阜遭難)當時、板垣氏は官憲に向つて、敢(あえ)て相原を逮捕するなきを望みたるが、其の後、(明治)二十二年(大日本帝國)憲法發布の大典に當つて、國事犯の罪人は大赦令により、悉(ことごと)く放免せられたるに、板垣氏は『相原は罪名國事犯に非(あ)らざるも、均(ひと)しく國事に關する者なれば、大赦の恩命に浴せぬは洵(まこと)に残念の事なり』とて、同年三月十三日附を以て『赦免哀願書』を (明治天皇)陛下に奉呈し、次で相原は同月二十九日、北海道空知集治監より釋放された。相原は五月十一日、東京にて板垣氏に面會を乞ひ、先年の己の行爲に對し大に悔悟陳謝せり。板垣氏は素(もと)より一片の含む所もなく寧(むし)ろ公敵と認めての彼が擧動を『壮(おとこ)なり』とし、『尚(な)ほ將來に於ても余の行動を不臣不逞と認むる事あらば、何時にても再び刃を加ふべし』と説かれ、相原は深く其の宏量に感激し涙を垂れて辭去したり」

              ^ 「是れより先き、板垣伯の事を以て出京せられ芝愛宕町の寓居に住せり。依て君(相原)は河野廣中、八木原繁祉両氏の紹介を得て、同(5月)11日伯に面謁せられぬ。其坐に列なりしものは、只八木原氏一人のみ。其時伯は君(相原)に向て「今回、恙なく出獄せられ、退助に於ても恐悦に存じ参らす」との挨拶をしませり。君(相原)一拝して「(明治)15年の事は、今日、更に何とも申す必要なし。只、其後生な爲めに幾度も特赦のことなど御心にかけられたる御厚意の段は幾重にも感謝し参らする」旨を述べられたり。其れより君(相原)は罪人となりて後ち、岐阜にて寫されたる寫眞一葉を取出し「是れ御覧候へ、此れこそ小生が伯を怨み参らせたる後、岐阜にて寫したる撮影にて候よ」と伯の前に差出されたれば、伯は「左様なるか。其時よりは如何にも今は年、老られて見ゆ。退助が知人にて北海道(の監獄)に行きたる者は誰も意外に年老て帰らるゝ事よ。久しき間の御苦労を察し参らする」と云はれたり。君(相原)は又一葉の寫眞を出し是は此頃特赦の後に寫したるものなるが、永き記念の徴までに呈し参らせたし。伯にも御持合せも候はゞ、其思召にも一葉賜はらずや」と申されば、伯は「如何にも予も一葉進じたけれども、兼て寫眞をとらする事の少なくして此處には、一葉だも持合さず。國許にはありたりと覺ゆれば、歸郷の上は必ず贈り参らすべし。都合によりては此地にて寫させ進ずべければ必ず待せ玉へ」と申され重ねて「又退助は今も昔も相異らず常に國家を以て念と成し、自ら國家の忠臣ぞと信じ居りしに、當時、足下は退助を以て社會の公敵と見做し刃を退助が腹に差挾まれたるに、今は相互無事に出會すること人事の變遷も亦奇ならずや」と。古より刺客の事は歴史上に屡々見ゆれども一旦手を下して刃を振ひたる其人と刃を受けたる其人が舊時の事を忘れて再び一堂の上に相會し手を把て談笑するなど、足下と退助との如きは千古多く其比ひを見ず。今日の會話は史家が筆して其中に入るゝとも更に差支へなきことよ。併しながら若(も)し此後退助が行事にして如何にも國家に不忠なりと思はるゝことあらば其時こう斬らるゝとも刺さるゝとも思ふが儘に振舞ひめされよ」と改めて申されたり。此時、八木原氏にも亦言葉をはさみて「小生も當時、岐阜の事ありし報を得しときは相原なる者こそ悪き奴なれと思ひしに、今日、其人をば小生が紹介して伯に見えしむること、小生に取りても亦榮あることなり」と云はれぬ。引續き種々の話ありたりしが、君(相原)がもはや暇玉はるべしといはれしとき、伯は起ちて「北地極寒、邊土惨烈(たれど)國の爲めに自愛めされよ。退助は足下(きみ)の福運を祈り奉る」と申されたりと。嗚呼、積年の舊怨一朝にして氷解せり。英雄胸中の磊落なる實に斯くこそあるべけれ」

              ^ 相原曰く「恐(おそれ)入恥入り申し候。僕(あ)は大人(たいじん)の器(うつわ)たらず、殊更に天下(くに)を語るに足りず。淺學無才の徒ならば、先づ邊鄙(かたいなか)に往(ゆ)きて蟄居(ひきこも)り身を修めんと欲す」と。伯は「予かつて土佐の城下(まちなか)より放逐されたる時、神田と云ふ郷(さと)に在りて民庶(みんしよ)に交り身を修(をさ)めんこと有之(これあり)。君は如何(いか)にせむとすや」と訊くに、相原は「僕(あ)は、先づは無心に土壤(つち)を耕して日の光を感じ、雨の音を聞き、矩(のり)を越へず人(ひと)の爲(ため)、皇國(すめらみくに)の御爲(おんため)に陰乍(かげなが)ら奉公せんと欲す。之(これ)が僕(あ)の贖罪ならんか。願はくば人知らぬ遠き北海道に身を移し、開拓の業(わざ)を以て働かんと欲す」と。

              ^ 佐々木高行『保古飛呂比』7月14日条

              ^ 当時は「坂」が俗字、「阪」が正字と考えられており、あえて「阪本龍馬」と書かれたもので誤字では無い。

              ^ 板垣家の家督は孫の守正が相続した。

              ^ 明治43年(1910年)8月29日施行された『日韓併合条約』を記念し征韓論における功労者として、明治45年(1912年)に制定された『韓国併合記念章制定ノ件』により大正元年(1912年)8月1日賜る

              ^ 板垣が命名委員を務め、板垣自身は「尚武館」の名を発案していたが、最終的には「国技館」の名に決し、板垣自身が土俵に立って「国技館」命名を宣言した。

              ^ 板垣退助が薨去したとき、大正天皇が下賜した誄詞(るいし)による。原文は「軍(いくさ)ニ東征(とうせい)ニ從(したが)ヒ謀(はかりごと)ニ戎幕(じゆうばく)ニ參(さん)シ大政(たいせい)ノ維新(ゐしん)ニ際會(さいくわい)シテ立憲(りつけん)ノ鴻謨(こうぼ)ニ賛襄(さんじやう)シ運籌(うんちゆう)機(き)ニ合(がふ)シ獻猷(けんいう)時(とき)ニ應(おう)ズ精誠(せいせい)公(こう)ニ奉(ほう)シ出處(しゆつしよ)渝(かは)ルコト無(な)シ奄長(えむちやう)逝(ゆく)ヲ聞(き)ク曷(なん)ゾ軫痛(しんつう)ニ勝(た)ヘム茲(ここ)ニ侍臣(じしん)ヲ遣(つか)ハシ賻(ふ)ヲ齎(もた)ラシテ以(もつ)テ弔(てう)セシム。御名御璽(ぎよめいぎよじ)。大正八年七月十八日」

              ^ 戊辰戦争で失脚した人は多いが、これによって名声を表したのは板垣退助が随一である。ここで言う「死」は字義通りの「戦死」者の事ばかりでは無く、この戦争によって地位を失い、失脚した人をも含む暗喩的な義と解されている。

              ^ オスカー・アルフレッド・アクセルソン米軍大佐(Oscar Alfred Axelson Commanding Officer)1893年11月12日、グスタフ・E・アクセルソン(1859-1917)の子として米国ミネソタ州ラムジー郡セントポールに生まれる。母はオーガスタ・マチルダ・ピーターソン・アクセルソン(1866-1950)。1918年6月、米陸軍士官学校を卒業。1919年、ニューヨーク州ブルックリンで、ノーマクララ・ローザ・アクセルソン(1899-19991)と結婚。大東亜戦争に従軍。進駐軍として来高し高知民事部長を務めた。当時は中佐。退役時は大佐。1979年9月26日、米国カリフォルニア州モントレー郡フォートオードにて死去。85歳。墓は米陸軍士官学校墓地(West Point, Orange County, New York, USA)にあり、後嗣はルドルフ・アルフレッド・アクセルソン(Rudolph Alfred Axelson, 1920-1984)である。ルドルフの墓はアーリントン国立墓地にある。

              ^ アクセルソン中佐は、高知民事部長を務め1946年12月21日に起きた南海大震災に際しては「高知縣民諸君へ」と題して、次の様に述べている「高知縣民が、昭和二十一年十二月二十一日の南海大震災の恐るべき惨禍に、打ち勝つのに示した努力と精神とは賞讃に値する。この災害はかつて本縣を襲つたもののうちで、最も激しいものであつたであろう。そして、たとえ、それによつて縣民が將來に對する希望を失い、意氣阻喪し落膽したとて、誰も不思議だとは思わなかつたであろう。しかし實際は、かゝることは起らなかつた。震災の廃墟からは、新しい建物、道路、その他公共の進歩改良が始まり、それらはすべて高知をもつと住みよい所にするに役立っであろう。高知民事部は、この再建の過程を深い關心と、賞讃の念を以て見まもつて來た。我々は我々自身の目で廃墟から新らしい復興がなされて行くのを見た。かゝる偉大な結果は唯、先見の明ある指導者達ご、縣民の元氣な協力との賜物に外ならない。全縣のこの再建は、縣民の明るい樂天的な氣質を表わしており、又その氣質はすべての人々と共に働く事を幸福に思い、又將來の成功を心から祈るものである。高知民事部長 アクセルソン中佐」

              ^ 高知市内にあった板垣の旧宅が移築保存されていたが、1945年7月4日の高知大空襲の結果、高知市内大半を焼失し、板垣の旧宅も被災者の収容住宅に転用され、見るも無残に傷んでしまった。戦後、進駐軍のアクセルソン(Axelsson)中佐が市内視察に訪れた際、板垣会館を空襲で焼いてしまったことに加え、板垣旧宅の惨状を見て「板垣退助氏は、アメリカのリンカーンにも匹敵する大政治家である。わが国(米国)の人は、何という事をしてしまったのか……」と深く反省を述べた。

              ^ 「(有馬藤太が)西郷先生に『今の時に於て、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねた所、先生は即座に『それは板垣じゃ』と答えられた」

              ^ 原田助が日記に記した新島襄の講話による

              ^ 約80m

              ^ 現在地は「道頓堀ZERO GATE(浪花座跡)」で、元は「浪花座」と呼ばれた芝居小屋で1876年から1887年にかけての11年間だけ「戎座」と呼ばれ、後「浪花座」の名前に戻された。くいだおれビルの隣である。

              ^ 「高知市出身の政治家で自由民権運動の指導者・板垣退助(1837年-1919年)の30歳代半ば頃の姿を撮影した写真が見つかり、高知市立自由民権記念館が、平成24年(2012年)7月13日、その画像を報道陣に公開した。大阪府池田市に居住する板垣退助の曽孫が保管していたもので公開は初めて。高知近代史研究会の公文豪会長(63歳)によると、写真は明治2年(1869年)1月頃に撮影されたとみられ、板垣退助の壮年期の古写真としては「大変貴重」という。写真では中央に板垣退助、向かって右側に後藤象二郎、左側に退助の次男・正士を養子に迎えた乾正厚が写っている。退助以外はいずれも髷を結っている姿。(画像)30歳代半ば頃の板垣退助(中央)の写真を手に記者会見する高知近代史研究会・公文豪会長=平成24年(2012年)7月13日午後、高知市立自由民権記念館にて。平成24年(2012年)8月1日から、同館で開催する「新出史料展」で一般公開する」

              ^ 明治7年(1874年)、陸軍士官学校が創設された場所にあたり「市ヶ谷記念館」が残されている。

              ^ 明治41年(1908年)9月12日、祇園寺住職・中西悟玄が、秩父事件を初めとする自由民権運動の犠牲者を追悼するための慰霊法要を催した。自由党総裁・板垣退助を初め三多摩の自由党幹部ら1000人が参列。法要後、板垣は大演説を行い、さらに後世に残す記念として赤松の苗木2本を植樹した。中西悟玄自身も自由党党員で、明治40年(1907年)、祇園寺の住職となって以降も『週間多摩新聞』の発刊、青年会の組織指導、三多摩地区農家へ養豚の推奨など多岐に渡って地域のために活動をした人物として知られる。

              ^ 岡専旅館は、創業200年を誇る老舗旅館。400坪の敷地内に板垣退助が会談に使用した部屋が現存。

              ^ 京都土佐藩邸は、土佐藩主山内家の藩邸で、平時は留守居役が詰め、土佐藩における京都の諸務を掌ったが、幕末には朝廷との関係からその重要性が増した。水運の関係から高瀬川に面して門が作られ、また高瀬川には土佐橋が架けられていた。明治4年(1871年)の廃藩置県まで使用された。

              ^ この密談の3日後、中岡慎太郎の周旋で薩摩の小松帯刀、西郷隆盛と板垣退助、谷干城らが小松帯刀の寓居(薩長同盟が結ばれたのと同じ場所)で会談し薩土討幕の密約が結ばれた。令和元年(2019年)9月22日、明治維新151年・板垣百周忌を記念して「薩土密約」に関する石碑が建立されることになったが、密約が結ばれた場所には既に「薩長同盟」を記念する石碑が建立されていた為、その石碑に敬意を表し遠慮して締結された場所ではなくその準備段階の相談をした場所に建立されることとなった。そのため石碑には「跡地」ではなく「紀念碑」と刻まれている。

              ^ “「安倍元首相『自由は死せず』刻む高知の寺、板垣退助の位牌に揮毫」”. 岐阜新聞 (2022年7月16日). 2022年8月15日閲覧。

              ^ “「『自由は死せず』安倍氏記す 板垣退助の位牌に―銃撃事件1カ月」”. 時事通信社 (2022年8月5日). 2022年8月15日閲覧。

              ^ 「安倍元首相、板垣退助の位牌に「自由は死せず」の揮毫」『中日新聞』2022年7月16日号朝刊

              ^ 第146回勝兵塾月例会『板垣退助の勤皇精神』髙岡功太郎論述、公益財団法人アパ日本再興財団(公式)、令和5年(2023年)8月17日

              ^ 明治10年10月31日以降の戸籍(本籍地・高知 潮江新田1番地、および東京転籍後の戸籍謄本)による。(『板垣精神』)

              ^ 明治5年編成〜明治10年10月31日迄の戸籍(本籍地・高知市中島町44番屋敷、および同中島町69番屋敷)による。板垣退助は明治5年から同10年迄の5年間のみ戸籍謄本に「4月17日生」と記されていた。(髙岡功太郎『板垣家の戸籍謄本に見る生年月日の変遷』(所収『板垣退助の家族』一般社団法人板垣退助先生顕彰会)

              ^ 『板垣退助105回忌に寄せて』衆議院議員・中谷元著(『NPO法人板垣会』会報第11号1頁より)

              ^ 「三藩(薩・長・土)の兵を朝廷に献じたる時、歩兵・騎兵・砲兵・工兵の四種兵を悉く具備せるはたゞ土佐藩のみなりき。是を以て始めて観兵式に参列せるは土佐の歩兵。始めて天長節の祝砲を放てるは土佐の砲兵。始めて陛下行幸の供奉を爲せしは土佐の騎兵なりき」『我國憲政ノ由來』板垣退助著(所収『國家學會創立満三十年記念・明治憲政經濟史論』國家學會代表・高野岩三郎編、東京帝國大學内 國家學會、大正8年(1918)4月15日、182頁より)

              ^ “明治宰相列伝 : 大隈重信 | 国立公文書館”. 2024年7月9日閲覧。

              ^ “2-18 隈板内閣の成立へ | 史料にみる日本の近代”. 2024年7月9日閲覧。

              ^ 松岡八郎 1966, p. 26.

              ^ 徳富猪一郎『蘇翁夢物語』中央公論社、1990年11月、148頁。ISBN 9784122017030。 

              ^ 『板垣退助君傳記』宇田友猪著、原書房、2009年

              ^ 『明治維新百年・板垣退助先生薨去五十年祭趣意書』より。

              ^ 『現存日本最古のルイ・ヴィトンは板垣退助が購入』

              ^ 『日本は侵略国にあらず』板垣退助

              ^ 『神と人道』板垣退助著。板垣退助の『聖書』批判に関しては後述(板垣退助の思想の項目を見よ)。

              ^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月5日閲覧。

              ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)

              ^ 『立国の大本』板垣退助著、第三章・君民二致なし

              ^ 坂野潤治・田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,190頁

              ^ 板垣退助暗殺未遂事件 ~「板垣死すとも自由は死せず」~ アジア資料歴史センター

              ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、113頁。 

              ^ 板垣退助の婿の伯父と、武市瑞山の叔母の娘が婚姻

              ^ 桂井和雄著『聞き書き土佐私史・採訪の譜(2)-板垣退助』朝日新聞社、1981年10月10日

              ^ 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年

              ^ 板垣山・墓所の墓石による。

              ^ 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵

              ^ 『伯爵後藤象二郎』大町桂月著

              ^ 『大多摩新報』

              ^ 高知歴史散歩『武田信玄と板垣退助(2)』広谷喜十郎著。-高知市広報「あかるいまち」2007年2月号より-

              ^ 谷干城談

              ^ 『帝國公道会』式辞(大正8年2月23日)

              ^ 『佐藤一斎と其の門人』第九章

              ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』十一章

              ^ 風間健「武士道教育総論」(壮神社)

              ^ 『土佐維新史料』書簡篇3

              ^ 『板垣退助 -板垣死すとも自由は死せず-』高知市立自由民権記念館、1994年

              ^ 文久2年6月6日付片岡健吉宛板垣退助書簡(国立国会図書館蔵)

              ^ 『寺村左膳道成日記(1)』文久2年(1862)10月17日條

              ^ 『板垣退助』中元崇智著

              ^ 『維新前夜経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』127頁

              ^ NPO法人『板垣会会報』第1号

              ^ 『武市瑞山関係文書(1)』

              ^ 『御侍中先祖書系圖牒(「乾退助」項)』土佐藩編纂

              ^ 『日本歴史を散歩する』海音寺潮五郎著

              ^ 『迅衝隊出陣展』39頁

              ^ 『無形伯旧夢談』板垣退助談、田岡髪山筆録

              ^ 『幕末維新(第5編)』山内家史料刊行委員会編纂、672頁

              ^ 『日光東照宮と板垣退助』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂

              ^ 『維新前後経歴談』

              ^ 『行行筆記』中岡慎太郎筆

              ^ 『中岡慎太郎先生』尾崎卓爾著

              ^ “『板垣精神』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年9月10日閲覧。

              ^ 「石川清之助」は中岡慎太郎の変名。

              ^ 西郷隆盛のこと。

              ^ 板垣退助『維新前後経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』159頁、『板垣退助君戊辰戦略』他より。

              ^ 「後、奥羽戦争が終わり、私は東京にて西郷に面会した。その席に三条(実美)公もお居合わせで、其他の諸人も居た。平素沈黙の西郷は私を見ると忽ち口を開いた。『板垣さんは恐ろしき人よ。浪人を薩摩屋敷へ担ぎ込んで、屋敷の焼討ちに遭はした』と。私は直ぐに之に応じた。『それはむごい事よ。浪人の統御者(西郷)こそ如何にやと思ふに。然し好き幕明きではないか』西郷はそれを聞いて呵々笑ふた」(『無形伯旧夢談』板垣退助談、田岡髪山筆録より)

              ^ 中岡慎太郎『行々筆記』慶応3年5月25日條「福(福岡孝弟)・乾(退助)・毛(毛利吉盛)・谷(干城)と喰々堂に集る」より。

              ^ 中岡慎太郎『行々筆記』慶応3年5月26日條「今朝、西郷に至り、乾・ 毛・谷決意のことを論じ帰る」より。

              ^ 『保古飛呂比』佐々木高行筆、『維新土佐勤王史』瑞山會、『中岡慎太郎』尾崎卓爾著より。

              ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)

              ^ 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)

              ^ 「龍馬宛て、桂の手紙原本公開 討幕の決意促す」日本経済新聞ニュースサイトで2018年4月12日掲載の共同通信記事(2022年1月1日閲覧)

              ^ ちなみに、左行秀の鍛冶場は近藤長次郎の家の近くにあり、退助以外にも坂本龍馬の兄・坂本直方の佩刀も作成している。

              ^ 『土佐維新史料』書翰篇(1)

              ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)

              ^ 『京都養正社所蔵 坂本龍馬書状について』池田敬正著、大阪府立大学、1972年

              ^ 8月20日(太陽暦9月17日)の時点で、藩論の大勢は大政奉還論に固められていた

              ^ 「この言葉は、現在に置き換えると大東亜戦争敗戦後の北方領土未返還問題、韓国による竹島占領問題、日本国憲法成立時の憲法学上の疑義問題なども総て予見し得るものである」(『板垣退助の伝えたい言葉』板垣退助先生顕彰会、解説編より)

              ^ 「詔。源慶喜、籍累世之威、恃闔族之強、妄賊害忠良、数棄絶 王命遂矯 先帝之詔而不懼、擠万民於溝壑而不顧、罪悪所至 神州将傾覆焉 朕、今、為民之父母、是賊而不討、何以、上謝 先帝之霊、下報萬民之深讐哉。此、朕之憂憤所在、諒闇而不顧者、萬不可已也。汝、宜体 朕之心、殄戮賊臣慶喜、以速奏回天之偉勲、而、措生霊于山嶽之安。此 朕之願、無敢或懈」

              ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4、第三十一章 「鳥羽伏見の変」竜門社、1918(大正7)年、244頁。 国立国会図書館デジタルコレクション

              ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4、第三十一章 「鳥羽伏見の変」竜門社、1918(大正7)年、244-245頁。 国立国会図書館デジタルコレクション

              ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4、第三十一章 「鳥羽伏見の変」竜門社、1918(大正7)年、245頁。 国立国会図書館デジタルコレクション

              ^ 『陸援隊始末記』平尾道雄著

              ^ 『板垣退助君伝記』宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年

              ^ 龍馬自筆本が2枚残っており、国立国会図書館と下関市立長府博物館に所蔵

              ^ 従来は慶応3年6月に起草された『船中八策』を基礎に『新政府綱領八義』が書かれたとされていたが、現在は『船中八策』は、『五箇条の御誓文』と『新政府綱領八義』を混ぜて作られた後世の歴史小説のフィクションであることが確定している。

              ^ 百科事典 王政復古 (日本) (コトバンク)、2021年10月8日閲覧。

              ^ 徳川内府大政返上将軍辞職ノ請ヲ允シ摂関幕府ヲ廃シ仮ニ総裁議定参与ノ三職ヲ置ク(宮堂上ニ諭告)、『法令全書』慶応3年、慶応3年12月9日、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。

              ^ 家近, p. 2495/2967.

              ^ 『徳川慶喜公傳(4)』渋沢栄一著、267-268頁

              ^ 『板垣退助君戊辰戦略』一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻

              ^ 『高松に進軍してきた板垣退助』村井眞明著

              ^ 『板垣退助愛蔵品展』(2011年10月26日-12月18日)型録、高知市立自由民権記念館

              ^ 『無形板垣退助』平尾道雄著

              ^ 『迅衝隊 出陣展』中岡慎太郎記念館

              ^ 『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰』早稲田大学所蔵(所収『億兆安撫國威宣揚御宸翰謹解』髙岡功太郎解説、一般社団法人板垣退助先生顕彰会)

              ^ 『奥州改元大政元年資料(東武皇帝の閣僚名簿)』による。

              ^ 『無形板垣退助』平尾道雄著

              ^ “会津藩士埋葬の史料発見『戦死屍取仕末金銭入用帳』の写し”. 福島民報. 2017年9月25日閲覧。

              ^ 『板垣精神』より

              ^ 「戊辰戦争と廃藩置県」『岩波講座日本歴史 第15巻 近現代1』.

              ^ “明治2年(1869年)6月|薩長土肥の4藩主が版籍奉還を願い出る:日本のあゆみ”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 2018年2月1日閲覧。

              ^ 『立国の大本』板垣退助著(現代語訳版)より

              ^ 中村定吉 編、「廢藩置縣ノ詔」『明治詔勅輯』、p18、1893年、中村定吉。[1]

              ^ 「私(板垣)が明治初年に参議になって駿河台に居りました其時に、駿河台の屋敷に居りますと、家に置くところの下女下男が私(板垣)を「殿様」と云ふので御座ります。(中略)私は隣歩きを致して見たり、朋友の家へ行って見たりしますると皆、「殿様殿様」と云はれて…」(『板垣退助君傳記(第4巻)』宇田友猪著、原書房、1798頁

              ^ 『滅却心頭火自涼・甲斐の名刹・恵林寺の至宝』花園大学歴史博物館編、平成26年(2014年)、38頁、103頁、135頁

              ^ 高橋秀直 1993, p. 46.

              ^ 笠原英彦 2007, p. 107.

              ^ 高橋秀直 1993, p. 48.

              ^ 高橋秀直 1993, p. 50.

              ^ 吉野誠 2000, p. 2.

              ^ 吉野誠 2000, p. 2-3.

              ^ 真辺美佐 2023, p. 45.

              ^ 吉野誠 2000, p. 3.

              ^ 高橋秀直 1993, p. 51.

              ^ 吉野誠 2000, p. 8-9.

              ^ 高橋秀直 1993, p. 57.

              ^ 高橋秀直 1993, p. 59-60.

              ^ 高橋秀直 1993, p. 70.

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              ^ 真辺美佐 2023, p. 47.

              ^ 高松宮家『幟仁親王行実』1933年、184頁、NDLJP:1212495/158。

              ^ 「そもそも維新改革の精神は、つとに五条の御誓文によって定まり、内には立憲政体の完制を創(はじ)めて民権を伸べ、外には国民統一の基礎に立ちて万里の波濤を開拓して以て国権を張り、永く東洋の平和を楽しむにあることは、まさしく万世に炳乎(へいこ)たる所である」(『板垣退助君傳記(第2巻)』宇田友猪著、原書房、934頁

              ^ 岩倉右大臣を喰違外に刺す - 新聞集成明治編年史第二卷、林泉社、1936 - 1940

              ^ 『頭山精神』

              ^ 知っていましたか? 近代日本のこんな歴史|板垣退助暗殺未遂事件~「板垣死すとも自由は死せず」~

              ^ 『日本の有名一族』小谷野敦、幻冬舎新書、2007

              ^ 芝居では刺された瞬間に叫んだように演出されているが、刺された瞬間や格闘中に発したものではなく、犯人を捕縛直後に板垣が犯人に対して言った言葉であることは『岡本都與吉(岐阜県御嵩警察署御用掛)報告書』等により確定しており異論はない。かつて『報知新聞』の記者であった某氏によると、この「『板垣死すとも自由は死せず』の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉であり、内藤が板垣が叫んだ事にした」という事を聞き真相を探るべく取材を重ねたが、それを裏付ける証拠が無く都市伝説の類であることが判明している。一般社団法人板垣退助先生顕彰会は、板垣退助百回忌にあたり報道機関各社に対して今なおYouTubeなどで閲覧数を稼ぐ目的で根拠なき誹謗中傷をしているチャンネルを見かけるが、報道機関もそれらの影響を受け「叫んだらしい」や「叫んだとされる」などと語尾を濁して報道することは「歴史の真実性を遠ざけ、陰謀論のような根拠なき都市伝説に同調することになり、また故人を冒瀆することにあたるため絶対にやめて欲しい」と声明を発表している。

              ^ 所収『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学、238頁

              ^ 『大阪朝日新聞』明治15年(1882年)4月11日号

              ^ 『有喜世新聞』明治15年(1882年)4月11日号

              ^ 『自由黨史』五車楼版

              ^ 『板垣君岐阜遭難記録』岩田徳義著、明治26年(1893年)

              ^ 『板垣退助』中元崇智著、中公新書、2020年、95頁より

              ^ 「『イタイガーヤキー』と言った」という誤解。この話は「痛いから」を高知弁で言うと「イタイガーヤキー(=板垣)」となるオチの小噺で、ある歴史家(具体名は避ける)が思いつきで講演の際に披露したところ会場で少々笑いを得た。ところが会場に洒落を解さない人がいて「実際は言わなかったらしい」と言う部分のインパクトが強すぎたのかその部分だけを引用する形で世間に広まってしまった。以来その人物は「歴史上の人物の名誉を害するような冗談は言ってはならない」と深く反省をし、事あるごとに否定をしてきたが、否定する言説は掻き消され一度だけ言った小噺は誤解されたままクチコミで広がり、インターネットが普及すると「実際は…らしい」と出典もないままブログなどに引用され、都市伝説のように広まってしまった。その為、その人物は平成30年(2018年)に板垣退助百回忌が挙行されるに当たり、贖罪のため全面的に協力をし、名誉回復の活動を行っている。加えて実際に『痛いから…』などと言った記録や文献史料は一切存在せず、むしろ板垣自身は「痛みを感じなかった」と壊述している。『板垣精神(補捉)』

              ^ 田中由貴乃 2012, p. 2.

              ^ 田中由貴乃 2012, p. 3.

              ^ 田中由貴乃 2012, p. 1-3.

              ^ 田中由貴乃 2012, p. 4.

              ^ 田中由貴乃 2012, p. 5.

              ^ 川崎勝 2016, p. 179.

              ^ 田中由貴乃 2012, p. 6.

              ^ 田中由貴乃 2012, p. 7-12.

              ^ 田中由貴乃 2012, p. 1.

              ^ 田中由貴乃 2012, p. 6-7.

              ^ 『ハーバート・スペンサー コレクション』p.445

              ^ 川崎勝 2016, p. 192.

              ^ 高知市立自由民権記念館寄託

              ^ “ルイ・ヴィトン、板垣退助もご愛用 ひ孫、トランク寄託”. 朝日新聞 (2011年9月17日). 2011年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年9月17日閲覧。

              ^ 『自由党史』

              ^ 松岡八郎 1962, p. 21.

              ^ 川崎勝 2016, p. 191.

              ^ 寺崎修 1986, p. 75-79.

              ^ 寺崎修 1986, p. 81-83.

              ^ 松岡八郎 1962, p. 18-19.

              ^ 『明治英名百詠撰』明治12年11月より

              ^ 「君(板垣)は従来無髯(むぜん)であったが、仏京巴里(パリ)に滞在中に鼻下と顋下(さいか、顎の下)に蓄髯(ちくぜん)して初めて帰朝した。是より以後(板垣は)薨去するまで剃らなかった」(『板垣退助君傳記(第2巻)』宇田友猪著、原書房、2009年、901頁より)

              ^ 『自由新聞』明治17年5月14日附

              ^ 『板垣退助君傳記(第2巻)』宇田友猪著、原書房、2009年、914-917頁

              ^ 松岡八郎 1962, p. 23.

              ^ 松岡八郎 1962, p. 24-25.

              ^ 松岡八郎 1962, p. 25.

              ^ 『自由黨史』

              ^ 『自叙伝』竹内綱著

              ^ 『明治文化全集(22)』、429頁

              ^ 『(自由民権)舊各社事蹟』島崎猪十馬編、昭和6年(1931年)、53-54頁

              ^ 『板垣退助君伝記』第4巻、宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年

              ^ 『元勲板垣退助伯爵傳』より。

              ^ 『元勲板垣退助伯爵傳』

              ^ 『獄裡の夢 : 一名、相原尚褧君実伝』池田豊志智編、金港堂、明治22年(1889年)7月より

              ^ 『詔勅類纂祝辞演説一千題』内山正如編、東京博文館、明治25年(1892年)4月25日

              ^ 『千賀覚書』

              ^ 『板垣退助君傳記』

              ^ 『板垣退助君傳記(第3巻)』宇田友猪著、原書房、289-290頁

              ^ 『時事新報』明治25年2月14日号

              ^ 明治7年(1874年)に開通し、のちの東海道本線となる官営の鉄道。

              ^ 『朝野新聞』明治25年2月13日号

              ^ 『明治25年高知県臨時総撰挙暴動彙報』

              ^ 『東京朝日新聞』明治25年2月17日号

              ^ 真辺美佐 2021, p. 100.

              ^ 真辺美佐 2021, p. 98.

              ^ 真辺美佐 2021, p. 102-103.

              ^ 真辺美佐 2021, p. 98、101-102.

              ^ 真辺美佐 2021, p. 101.

              ^ 真辺美佐 2021, p. 103.

              ^ 真辺美佐 2021, p. 104.

              ^ 真辺美佐 2021, p. 109-110.

              ^ 真辺美佐 2021, p. 110.

              ^ 小股憲明 1994, p. 215.

              ^ 小股憲明 1994, p. 217-218.

              ^ 小股憲明 1994, p. 225-226.

              ^ 小股憲明 1994, p. 226.

              ^ 小股憲明 1994, p. 227.

              ^ 小股憲明 1994, p. 227-228.

              ^ 小股憲明 1994, p. 233.

              ^ 小股憲明 1994, p. 233-237.

              ^ 神田智紀「憲政党の党内構造について」『大正大学大学院研究論集 = Journal of the Graduate School, Taisho University』第37巻、大正大学、2013年、ISSN 03857816、NAID 120005536268。 

              ^ 『坂本龍馬記念碑文写』

              ^ 『林献堂著作集』

              ^ 『官報』第2350号、大正9年6月3日

              ^ Locipo 7月16日は板垣退助の命日「板垣死すとも自由は死せず」の地で式典 。銃撃で死亡した安倍元総理の死を追悼。板垣退助の玄孫・髙岡功太郎さんらが参列『東海テレビ』2022年7月17日放送

              ^ 安倍元総理が銃撃されてから1週間余り。明治の自由民権運動のリーダー板垣退助が襲撃される事件があった岐阜でも、市民らが元総理の死を悼みました。7月16日が板垣退助の命日。暴漢に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を残した岐阜事件から2022年が140年目となるため、ゆかりの地・現在の岐阜公園の板垣退助銅像前で7月17日記念式典が開かれました。7月8日に演説中に銃撃された安倍元総理は2018年高知市にある板垣退助の菩提寺と東京の菩提寺の位牌に揮毫を寄せていて、17日はその写しも飾られ、板垣退助の玄孫・髙岡功太郎さんや地元の県・市会議員らが出席し死を悼みました。『東海テレビ』2022年7月17日放送

              ^ 安倍元首相、板垣退助の位牌に「自由は死せず」と揮毫『中日新聞』2022年7月16日付(朝刊)

              ^ 安倍元首相「自由は死せず」刻む高知の寺、板垣退助の位牌に揮毫『岐阜新聞』2022年7月16日付(朝刊)

              ^ 「岐阜事件」から140年・岐阜銅像前で行われた板垣退助を偲ぶ会で板垣退助の玄孫・髙岡功太郎さんらが出席し安倍元総理を追悼『中部日本放送(CBCテレビ)』2022年7月17日放送

              ^ 『近代哲学におけるプロテスタンティズムの影響』宮庄哲夫著

              ^ 「本官(板垣退助)も素は仏教の家系に属すれども、維新後は神道に変じましたが、併し何の宗教が宜しいやら是非を究めた訳でもないから分りませんが、本年は亡妣の五十回忌に相当して居りますから仏教を以て其の法要を営みたいと思います。(中略)荊妻(板垣絹子)は仏教を信ずる者で、本官(板垣退助)の遊猟を常に気にして廃止せんと勧告して止みませぬのと、又愚息(板垣六一)は脳病に罹りて居りますから何となく彼を憐れむの情念が起りまして、政務の煩を忘れる処でなく、却て精神に不愉快を感じましたから、其の儘帰宅致しましたが人間と云ふ者は一種妙な感情を持つて居るものであります」(『板垣伯対舎身居士・政教問答』田中弘之(舎身居士)著、舎身庵、明治36年(1903年)、62-63頁)

              ^ 『神と人道』板垣退助著

              ^ 『社会主義の脅威』板垣退助著(所収『立國の大本』)

              ^ 『板垣が大江卓と話せる言葉』(所収『板垣精神』)より。

              ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。

              ^ 『官報』第2989号「叙任及辞令」1893年6月17日。

              ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。

              ^ 『官報』第2085号「叙任及辞令」1919年7月17日。

              ^ 『官報』第3978号「叙任及辞令」1896年9月30日。

              ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。

              ^ 永原一照次男

              ^ 『遠碧軒記』黒川道祐著による。一名「板垣正演」とも。

              ^ 板垣退助次男、乾正厚の養子となり乾姓を継ぐ。

              ^ 兄守正の養子

              ^ 「直麿」と書かれることもあるが、戸籍名は「直磨」。※人名漢字に「麿」が登録されていない時代であったため。

              ^ 秋山有世夫人

              ^ 乾正厚の養子となり乾姓を継ぐ。

              ^ 乾源五郎友正家を絶家再興し、乾姓を継ぐ。のち廃家して板垣姓に戻る。

              ^ 福岡孝弟後妻・板垣退助養女。福岡家墓所の墓石による。

              ^ 寺石正路 1976, p. 613.

              ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 136.

              ^ 『杉山茂丸伝』、野田美鴻著、島津書房、1992年

              ^ 『板垣精神』

              ^ 『板垣退助君戊辰戦略』(附編『左行秀の裏切り』)

              ^ 中央新聞社 編『名士の嗜好』,文武堂,明33.3. 国立国会図書館デジタルコレクション

              ^ 石井代蔵『土俵の修羅』時事通信社「友綱再興に燃えた喧嘩玉錦」

              ^ 『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学、大正8年(1919年)4月15日、239頁

              ^ 『板垣退助君傳記(第2巻)』宇田友猪著、原書房、1000頁

              ^ 『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編、冒頭より

              ^ 『板垣精神』(2019年)註より

              ^ 『勤王 即憲政の板垣退助』尾佐竹猛著

              ^ 『板垣退助先生銅像供出録』財團法人板垣會編纂

              ^ 昭和12年4月6日、板垣会館竣工の時、板垣退助の功績を讃えて揮毫したもの。(『頭山精神』藤本尚則著)

              ^ 陸軍大将の川上操六も同様の意見を述べている。

              ^ 三宅雪嶺『世の中』

              ^ 『板垣君兇変・岐阜の夜嵐』岩田寛和著、1882年(明治15年)

              ^ 『舊各社事蹟』島崎猪十馬著

              ^ 『寺村左膳道成日記(1)』

              ^ 山内容堂宛書簡(文久元年3月29日付)『吉田東洋遺稿』より。

              ^ 後藤象二郎宛書簡(万延元年10月10日付)『伯爵後藤象二郎』より。

              ^ 昭和天皇、昭和52年(1977年)8月23日の会見

              ^ 『昭和天皇発言録―大正9年~昭和64年の真実』高橋紘編、小学館、1989年、241頁

              ^ 『人物畫傳』有楽社、明治40年7月20日

              ^ 『明治憲政経済史論』国家学会編、大正8年(1919年)4月15日、序文より

              ^ 『板垣先生記念事業復興計画趣意書』財団法人板垣会、昭和29年(1958年)

              ^ 『THE HALL OF VALOR』より

              ^ 『南海大震災誌』より

              ^ 昭和18年(1943年)9月2日、高知城公園・板垣退助先生銅像供出の壮行の辞にて

              ^ 『尊皇精神と一代華族論』楠正至(所収『日光東照宮と板垣退助』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編)

              ^ 『伊藤痴遊全集 第7巻』

              ^ 『維新史の片鱗』有馬藤太著、1921年

              ^ 『敬天愛人西郷隆盛』海音寺潮五郎著、学研M文庫、第4巻103-104頁

              ^ 『近代日本偽りの歴史』辻貴之著、扶桑社新書、平成29年(2017年)

              ^ 『蘇翁感銘録』徳富猪一郎著、昭和19年

              ^ 『清廉潔白にして信念の人』板垣晶子著、1984年(昭和59年)より。

              ^ 『日本人の百年(4)-自由民権運動-』世界文化社

              ^ 『東京府立一中(旧制中学校五年制・現 都立日比谷高校)昭和十四年入学同期会・傘壽記念号』

              ^ 『自由のともしび』第71号(平成23年(2011)10月1日発行)

              ^ 市島謙吉『随筆春城六種』

              ^ 『明治政府を担った人々(3)板垣退助』小西四郎著(所収『明治政府 -その政権を担った人々-』大久保利謙編、新人物往来社、1971年

              ^ 『英雄たちの選択・板垣退助“自由民権”の光と影』NHKBSプレミアム、2020年10月7日放送

              ^ 『生きている歴史』P177

              ^ 『新島襄の福島伝道 : 会津若松教会の設立を巡って』山下智子、同志社大学同志社社史資料センター、2017-02-28

              ^ 『咢堂漫談』

              ^ 『坂本中岡暗殺事件』谷干城著、1906年

              ^ 『生きている歴史』P179

              ^ 郷土史家・乾常美との対談より。

              ^ 『英信流居合術と板垣伯』岡林九敏著(所収『土佐史談』第15号)

              ^ 『無雙直傳英信流居合に就いて』中西岩樹著、土佐史談、1933年(昭和8年)による。

              ^ 『板垣退助伯爵彰徳会設立趣意書』より

              ^ 清水勲編『近代日本漫画百選』(岩波書店(岩波文庫)、1997年)、p.81,92。

              ^ 『神と人道』板垣退助著

              ^ 板垣退助の壮年期の古写真 初公開。後藤象二郎、乾正厚と共に撮影

              ^ 『千葉日報』平成24年(2012年)7月13日号

              ^ 『スポニチ』(2009年7月25日号)

              ^ 会津戦争末期、会津藩主と庄内藩主は、軍費欠乏を補うため、代理人のシュネルを通じて、蝦夷地をプロイセンに売却(契約文書では99年間の租借)しようとした。大村益次郎は「枝葉を切って幹を枯らす(会津藩の同盟藩を先に攻略して、救援を途絶えさせ、最後に会津藩を攻めろ)」と作戦を指示したが、板垣退助は『ナポレオン軍記』を教訓に「佛国(フランス)の兵は強しと雖も、しばしば冬山に負けをとると訊く。我等、土佐・薩摩の兵は南国育ちであるから今は優勢なりと雖も、冬となれば苦戦するであろう」と理由を述べ「幹を切って枝を枯らす(最初から会津藩を攻め、会津藩が陥落すれば、他藩も戦意を失い瓦解する)」と作戦を述べて、会津城下に一気に攻め込み、これを落城させた。プロイセンのビスマルクは、蝦夷地の売却を一旦は許否したが、3週間後に思い直し、承諾文書を日本へ送った。この時、「百平方ドイツマイル(5.625平方km)あたり30万メキシコドル」でどうかと、具体的な金額も示された。この書簡が到着する7日前、板垣らの活躍により会津藩は降伏。これにより、蝦夷地売却策は阻止された。(『駐日公使発、本国(ドイツ)向け外交書簡』ベルリン連邦文書館に契約文書が現存)

              ^ 「大正二年十月三日於牛久葡萄園神谷氏の為、伯爵板垣退助」(『芳名録』牛久シャトー蔵)

              ^ 築100年の家を訪ねる旅・明治の要人が集った歴史的広間・茨城県「牛久シャトー」続編(2022年8月17日 BS朝日放送より)

              ^ 『朝萬(あさよろず)旅館の宿泊者』

              ^ テレビ東京『所さんのそこんトコロ』2021年8月13日放送より。

              ^ 『横山家住宅主屋(横山医院)』文化庁(大阪府文化財ナビ)、国登録有形文化財・第1回高槻市景観賞(建造物部門)受賞

              ^ 『植民地在住者の政治参加をめぐる相剋「台湾同化会」事件を中心として』岡本真希子著

              『板垣退助君演舌』前野茂久次編、明治16年(1883年)

              『東洋自由泰斗板垣退助君高談集 上編』斉藤和助編、共立支社、明治18年(1885年)

              『板垣君遭難実記』矢野龍渓著、明治24年(1891年)

              『巨人頭山満翁』藤本尚則著、政教社、大正11年(1922年)

              『板垣退助君略伝』池田永馬編、板垣伯銅像記念碑建設同志会、大正13年(1924年)9月

              『復古記』東京帝国大学、昭和5年(1930年)

              『板垣退助先生武士道觀』岐阜遭難第16回記念、池田永馬編、財團法人板垣會、昭和17年(1942年)4月

              『板垣退助先生銅像供出録』池田永馬編、財團法人板垣會、、昭和18年(1943年)11月

              『蘇翁感銘録』徳富猪一郎著、昭和19年(1944年)

              『板垣退助 -板垣死すとも自由は死せず-』高知市立自由民権記念館、平成6年(1994年)

              『迅衝隊出陣展』中岡慎太郎館編、平成15年(2003年)

              『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂、平成31年(2019年)2月11日、ISBN 978-4-86522-183-1 C0023

              『億兆安撫國威宣揚御宸翰謹解』安倍晋三元総理追悼一年祭(板垣退助第百五回忌)特別版、髙岡功太郎現代語訳、一般社団法人板垣退助先生顕彰会、令和5年(2023年)7月8日

              『板垣退助の大楠公精神』髙岡功太郎著(所収『あゝ楠公さん』湊川神社社報 第16号、10-16頁)

              『若き日の板垣退助 -私の好きな維新の人物-』福湯豊著、(所収『弘道』853号、昭和49年(1974年)12月)

              田中由貴乃「板垣洋行問題と新聞論争」『佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 = The Bukkyo University Graduate School review. Compiled by the Graduate School of Literature / 佛教大学学術委員会, 文学部編集委員会 編』第40巻、佛教大学大学院、2012年、ISSN 18833985、NAID 110008920913。 

              川崎勝「「馬場辰猪日記」から見た板垣退助洋行問題」『近代日本研究』第33巻、慶應義塾福沢研究センター、2016年、ISSN 09114181、NAID 120005983634。 

              寺崎修「板垣退助の外遊と自由党(2)」『政治学論集』第23巻、駒澤大学法学部、1986年、ISSN 02869888、NAID 110000189796。 

              松岡八郎「自由党の解党」『東洋法学』第6巻第1号、東洋大学法学会、1962年、ISSN 05640245、NAID 120005751335。 

              小股憲明「尾崎行雄文相の共和演説事件--明治期不敬事件の一事例として」『人文学報』第73巻、京都大学人文科学研究所、1994年1月、201-241頁、NAID 120000901694。 

              松岡八郎「日本における政党内閣の端初--隈板内閣の成立」『東洋法学』第9巻第4号、東洋大学法学会、1966年、ISSN 05640245、NAID 120005751369。 

              真辺美佐「自由党総理辞任をめぐる板垣退助の政党活動と政党論 : 第二次松方内閣・第三次伊藤内閣期を中心に」『跡見学園女子大学人文学フォーラム』第19巻、新座 : 跡見学園女子大学文学部人文学科、2021年、ISSN 13481436、NAID 120007052370。 

              笠原英彦「廃藩政権と留守政府 : 明治四年の政治動向」『法學研究 : 法律・政治・社会』第80巻第4号、慶應義塾大学法学研究会、2007年、ISSN 03890538、NAID 120005819832。 

              高橋秀直「<論説>征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1993年、doi:10.14989/shirin_76_673、ISSN 03869369、NAID 110000235395。 

              吉野誠「<論文>明治六年の征韓論争」『東海大学紀要. 文学部』第73巻、東海大学出版会、2000年、ISSN 05636760、NAID 110000195520。 

              真辺美佐「板垣退助における明治維新の理念と自由民権運動の論理」『立正大学文学部論叢』第146巻、立正大学文学部、2023年、ISSN 0485215X。 

                自由民権運動

                高知市立自由民権記念館

                日本銀行券

                百円紙幣

                卵めん(板垣が命名したもの)

                板垣退助 | 近代日本人の肖像(国立国会図書館)

                板垣退助家系図

                著者=“板垣退助”で検索(近代デジタルライブラリー)

                第1章 幕末・維新の人々(1) | あの人の直筆 - 国立国会図書館

                『板垣退助』一般社団法人板垣退助先生顕彰会

                『板垣退助』 - コトバンク

                ∴板垣兼信?-1190

                板垣頼重1190-?

                板垣頼兼

                板垣行頼

                板垣長頼

                板垣頼房

                板垣信房

                板垣兼光

                板垣信将

                板垣信国

                板垣信鑑

                板垣信能?-1490

                板垣信為1490-1515

                板垣信泰1515-1530

                板垣信方1530-1548

                板垣信憲1548-1557

                板垣信安1558-1579

                板垣修理亮1579-1600

                板垣半右衛門1605-?

                板垣平右衛門

                板垣知貞1651-1704

                板垣信精1704

                板垣久五左衛門1704-?

                板垣知素

                板垣信房

                板垣致知

                分家・支流

                板垣信憲1557-1557

                板垣正信1557-1608

                乾正行1608-1649

                乾正祐1649-1672

                乾正方1673-1715

                乾正清1715-1736

                乾直建1736-1760

                乾正聰1760-1805

                乾信武1805-1810

                乾正成1810-1860

                板垣退助1860-1919

                板垣守正1919-1926

                板垣正貫1926-1942

                板垣退太郎1942-

                (正貫兄)板垣守正1926-1951

                板垣正明1951-2023

                (正祐弟)板垣正直1644-1688

                乾正房1689-1721

                乾吉勝1722-1747

                乾正英1747-1786

                乾正壽1786-1829

                乾正春1829-1830

                乾正厚1831-1869

                乾正士1869-1941

                乾一郎1941-2000

                高岡真理子2000-

                (正祐弟)乾友正1648-1689

                (208年間断絶した家を絶家再興)

                乾六一1898-1903

                (乾姓を絶家して板垣に復姓)無嗣断絶

                板垣喜右衛門1602-1631

                板垣喜右衛門1631-1674

                板垣喜右衛門1674-1738

                板垣只平1738-1741

                板垣宇助1741-1773

                板垣喜助1773-1815

                板垣惇平1815-1857

                板垣堅助1857-1859

                (弟)板垣高幸1859-1885

                板垣四十六郎1885-1945

                板垣伴内

                板垣伴内

                板垣甚内

                板垣政次

                佐々木政清

                (弟)佐々木権右衛門

                佐々木権右衛門

                (養子)佐々木権右衛門

                (養子)佐々木登政

                板垣政純

                板垣政徳

                板垣政一

                板垣賛造

                板垣進吾

                女子

                (政一弟)板垣征四郎

                板垣正

                大久保利通

                木戸孝允

                大久保利通

                伊藤博文

                大久保利通

                伊藤博文

                松方正義

                山田顕義

                山県有朋

                山県有朋

                西郷従道

                品川弥二郎

                副島種臣

                松方正義

                河野敏鎌

                井上馨

                野村靖

                芳川顕正

                板垣退助

                樺山資紀

                芳川顕正

                板垣退助

                西郷従道

                末松謙澄

                大隈重信

                内海忠勝

                児玉源太郎

                桂太郎

                芳川顕正

                清浦奎吾

                原敬

                平田東助

                原敬

                大浦兼武

                原敬

                大隈重信

                大浦兼武

                大隈重信

                一木喜徳郎

                後藤新平

                水野錬太郎

                床次竹二郎

                水野錬太郎

                後藤新平

                水野錬太郎

                若槻礼次郎

                浜口雄幸

                鈴木喜三郎

                田中義一

                望月圭介

                安達謙蔵

                中橋徳五郎

                犬養毅

                鈴木喜三郎

                山本達雄

                後藤文夫

                潮恵之輔

                河原田稼吉

                馬場鍈一

                末次信正

                木戸幸一

                小原直

                児玉秀雄

                安井英二

                平沼騏一郎

                田辺治通

                東條英機

                湯沢三千男

                安藤紀三郎

                大達茂雄

                安倍源基

                山崎巌

                堀切善次郎

                三土忠造

                大村清一

                植原悦二郎

                片山哲 (臨代)

                木村小左衛門

                廃止

                内事局長官・(内事局官房自治課長・官房職制課長) - 国務大臣地方財政委員会委員長・全国選挙管理委員会委員長・(総理庁官房自治課長) - 国務大臣地方自治庁長官 - 国務大臣自治庁長官 - 自治大臣 - 総務大臣

                内事局長官・(内事局第一局長) - 国家公安委員会委員長・(国家地方警察本部長官) - 国務大臣国家公安委員会委員長・(警察庁長官)

                建設院総裁 - 建設大臣 - 国土交通大臣

                厚生大臣 - 厚生大臣・労働大臣 - 厚生労働大臣

                内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁特別審査局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府特別審査局長) - 法務大臣・(公安調査庁長官)

                文部大臣・(文部省社会教育局文化課長) - 文部大臣・(文部省社会教育局著作権課長)- 文部大臣・(文部省文化局長) - 文部大臣・(文化庁長官)- 文部科学大臣・(文化庁長官)

                神社本庁総長(宗教法人化)

                内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁民事局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府民事局長) - 法務大臣・(法務省民事局長)

                外務大臣・(入国管理部長) - 外務大臣・(出入国管理庁長官) - 外務大臣・(入国管理庁長官) - 法務大臣・(法務省入国管理局長)- 法務大臣・(出入国在留管理庁長官)

                内閣総理大臣・(終戦連絡中央事務局長官) - 内閣総理大臣・(連絡調整中央事務局長官) - 外務大臣・(外務省連絡局長) - 外務大臣・(外務省国際協力局長)

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                人物伝ポータル

                板垣退助

                居合

                幕末土佐藩の人物

                上士階層出身の明治期の著名人

                戊辰戦争の人物

                迅衝隊

                維新の元勲

                自由民権運動の人物

                日本の伯爵

                勲一等旭日桐花大綬章受章者

                勲一等旭日大綬章受章者

                明治時代の閣僚

                日本の内務大臣

                19世紀の軍人

                日本の紙幣の人物

                東邦協会の人物

                廃嫡された人物

                反キリスト主義

                日本の保守思想家

                日本の反共主義者

                戦前日本のアジア主義の人物

                日本の神 (人物神 幕末維新)

                板垣退助家

                乾氏

                突発性難聴に罹患した人物

                1837年生

                1919年没

                言葉を濁した記述のある記事 (誰)/2022年

                プロジェクト人物伝項目

2024/12/02 19:12更新

itagaki taisuke



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板垣 真由子(いたがき まゆこ、1979年7月19日 - )は、日本の女性声優。ゆーりんプロ所属。北海道出身。よこざわけい子 声優・ナレータースクール12期生。 ドラえもん(子供) 房総STYLE …

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板垣 まみ(いたがき まみ、1985年7月4日 - )は、岡山県出身のお笑い芸人。身長158cm、体重50kg。B85・W65・H87。血液型はO型。以前、浅井企画に所属していたお笑いコンビ「Mサイズ…

板垣 征四郎(いたがき せいしろう)
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板垣 雄三(いたがき ゆうぞう、1931年2月5日 - )は、日本のイスラム学者。東京大学名誉教授、東京経済大学名誉教授。文化功労者。 東京市本郷生まれ、1953年東京大学文学部西洋史学科卒業、19…

板垣 武四(いたがき たけし)
1916年2月13日生まれの有名人 北海道出身

板垣 武四(いたがき たけし、1916年〈大正5年〉2月13日 - 1993年〈平成5年〉8月12日)は、1971年初当選の第7代札幌市長。北海道上川郡和寒村(現:和寒町)出身。 1916年2月13…

板垣 あずさ(いたがき あずさ)
1988年11月23日生まれの有名人 新潟出身

板垣 あずさ(いたがき あずさ、1988年11月23日 - )は、日本のタレント、元AV女優、元グラビアアイドル。 新潟県から単身東京へ。10-POINTにスカウトされ、グラビアの道へ進んだ。200…

板垣 真理子(いたがき まりこ)
1952年3月6日生まれの有名人 宮崎出身

板垣 真理子(いたがき まりこ)は、日本の写真家。日本写真芸術専門学校、文京学院大学講師。 文京短期大学英文科(現 文京学院大学)卒業。東京海上火災保険株式会社に勤めた後、音楽修業と渡米を果たし、1…

板垣 恵介(いたがき けいすけ)
1957年4月4日生まれの有名人 北海道出身

板垣 恵介(いたがき けいすけ、1957年4月4日 - )は、日本の漫画家、元陸上自衛隊第一空挺団所属。北海道釧路市出身。本名は板垣 博之(いたがき ひろゆき)。刃牙や餓狼伝に代表される格闘技を題材と…


板垣 英憲(いたがき えいけん)
1946年8月7日生まれの有名人 広島出身

板垣 英憲(いたがき えいけん、本名「ひでのり」、1946年〈昭和21年〉8月7日 - )は、日本の政治評論家、ジャーナリスト。 広島県呉市に生まれる(旧本籍地は鳥取県東伯郡大栄町(現北栄町)、現在…

板垣 宏(いたがき ひろし)
1930年8月16日生まれの有名人 愛媛出身

板垣 宏(いたがき ひろし、1930年8月16日 - 2015年12月2日)は、日本の経営者。帝人社長、会長を務めた。 愛媛県出身。1953年に京都大学工学部工業化学科を卒業し、同年に帝国人造絹絲(…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「板垣退助」を素材として二次利用しています。

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