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坂本龍馬の情報 (さかもとりょうま)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

坂本龍馬の情報(さかもとりょうま) 幕末の志士 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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坂本 龍馬さんについて調べます

■名前・氏名
坂本 龍馬
(読み:さかもと りょうま)
■職業
幕末の志士
■坂本龍馬の誕生日・生年月日
1836年1月3日 (年齢31歳没)
申年(さる年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
高知出身

坂本龍馬と同じ1836年生まれの有名人・芸能人

坂本龍馬と同じ1月3日生まれの有名人・芸能人

坂本龍馬と同じ出身地高知県生まれの有名人・芸能人


坂本龍馬と関係のある人

宮地佐一郎: 先祖は坂本龍馬の父祖と関係のある宮地家の出身。


安田達矢: ^ 田代脩・監修、安田タツ夫とダイナミックプロダクション・漫画、学研まんが伝記シリーズ『坂本龍馬 幕末の風雲児』学習研究社、1986年7月30日、ISBN 4-05-102285-4。


八木麻衣子: 坂本龍馬検定 初級


ムロタニツネ象: 坂本龍馬 : 幕末の志士 : 江戸時代後期 1982年、ISBN 4-05-004064-6


滝田栄: 坂本龍馬(1989年、TBS) - 勝海舟 役


竹葉多重子: 尊敬する人物は坂本龍馬


榎木孝明: 月曜ミステリー劇場 名探偵キャサリン12・坂本龍馬殺人事件(2002年11月18日、TBS) - 柳井秀嗣 役


武田鉄矢: 卒業後は坂本龍馬の研究を志し、当時一期校だった高知大学文理学部(現:人文社会科学部)を現役、浪人時と2年に渡り挑戦した。


三宅弘城: 小河ドラマ 龍馬がくる (2018年、CS 時代劇専門チャンネル×関西テレビ共同製作作品) - (現代に来た) 坂本龍馬


下川辰平: TBS大型時代劇スペシャル / 坂本龍馬(1989年、TBS)


武市瑞山: 半平太は藩論を転換すべく各方面に運動するとともに、長州の久坂玄瑞に大石弥太郎・坂本龍馬らを使者に送り、薩長土勤王密約実現のための連絡を緊密にした。吉村はこれに納得せず、宮地宜蔵とともに脱藩して長州へ向かい、次いで沢村惣之丞と坂本龍馬も脱藩してしまった。


横井小楠: この頃、坂本龍馬・岡本健三郎と福井藩邸で会った。


森美樹: 1956年の『京洛五人男』では沖田総司、1958年の『螢火』では坂本龍馬、1959年の『巌流島前夜』では宮本武蔵を演じるなど、主に時代劇映画に出演したが、松本清張原作の『顔』(1957年)など現代劇にも出演している。


岳真也: 『幕末維新「英傑」たちの言い分 坂本龍馬から相楽総三まで』 2009 PHP文庫


板垣退助: 坂本龍馬


太田光: 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んだことが影響して、坂本龍馬を好きな歴史上の人物として挙げている。


盆子原康: レキシクロニクル(2023年、板垣退助、坂本龍馬


小野大輔: タイムボカン 逆襲の三悪人(坂本龍馬


上野彦馬: 同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。


阿部渡: 月曜ミステリー劇場 / 名探偵キャサリン 第12作「坂本龍馬殺人事件」(2002年、TBS) - レポーター


宮地佐一郎: 増補版『坂本龍馬 男の幸福論』PHP研究所、1997


中澤薫: 坂本龍馬(1985年、おとせ)


木戸孝允: 小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡辺昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつける人物)とともに、練兵館の双璧と称えられた。


高杉俊介: 幕末の暗殺者(1997年、ロストキッズ) - 坂本龍馬


ちあきなおみ: の姓を「ちあき」と読ませ、坂本龍馬の諱(本名)の「直柔」からなおみとした。


筒井巧: 坂本龍馬(1989年、TBS)


宮地佐一郎: 『随想 坂本龍馬』旺文社文庫、1986


邦光史郎: 『坂本龍馬 幕末・維新の群像第1巻』PHP研究所 1989 のち集英社文庫


姜暢雄: 偉人の来る部屋 第11話(2009年12月14日、TOKYO MX・tvk) - 坂本龍馬


加来耕三: 『いまさら入門坂本龍馬』2009 (講談社+α文庫)


坂本龍馬の情報まとめ

もしもしロボ

坂本 龍馬(さかもと りょうま)さんの誕生日は1836年1月3日です。高知出身の幕末の志士のようです。

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来歴、年譜などについてまとめました。病気、家族、事件、兄弟、現在、解散に関する情報もありますね。31歳で亡くなられているようです。

坂本龍馬のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

来歴

幼少年期

龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家に父・坂本直足(八平)、母・幸の間の二男として生まれた。22歳年上の兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益のときに長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した。土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが(坂本家は福岡家に仕えていたという)、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった。

龍馬の父・坂本直足は婿養子として坂本家を継いだ人物で、実祖父の山本家(山本信固)や、その弟・宮地信貞(宮地家を相続)は共に白札郷士であり、龍馬は血統上は上士の人物である。

幼少時は泣き虫で弱虫のひ弱な少年であった。実母の幸を10歳の時に病気で亡くす。以後、姉の乙女が母代わりに龍馬を教育する。12歳まで夜尿が直らなかったが、乙女が夜中に厠に起こして連れて行き克服させた。乙女は身長176cm、体重110kgを超える当時としては尋常ならざる体躯を持ち、剣術にも秀でていたため、龍馬の剣術師範も務めたと伝説的に語られる。龍馬は終生、乙女への感謝と恋慕を失わず、現存する龍馬直筆の乙女宛の手紙は16通残っている。

江戸遊学

武術で小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は武術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から『修業中心得大意』を授けられ、溝淵広之丞とともに土佐を出立した。4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷(または鍛冶橋の土佐藩上屋敷)に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現・東京都中央区)の門人となる。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小桶町千葉」として知られており、道場には定吉のほかに長男・重太郎と3人の娘(そのうち一人は龍馬の婚約者と言われるさな子)がいた。小千葉道場は千葉周作の「玄武館」(大千葉)と同じ場所に存在したが、身分制度が厳しかったために上級武士は玄武館の所属、下級武士は小千葉道場所属とはっきり分かれており、ともに稽古をすることもなかった。のちに小千葉道場は桶町に建てられた道場に移転するが、そこでも館名がないのはこのためである。ただし、『汗血千里駒』では坂本龍馬は千葉周作の門人としている。嘉永6年当時の桶町には千葉定吉の道場が建てられていなかったことから、二度目の遊学時に桶町千葉道場の門下になったのではという説もある。土佐ではそもそも下士は捕手術のような体術の修行が主体で刀による剣術の修行は許されなかったとも言われていて、坂本龍馬の江戸行きは別の理由で申請され、剣術修業は後に勝海舟の学習塾で塾頭を務めるまでになった実績が評価された異例の扱いであった可能性もある。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。

龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の6月3日、ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている 。

同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した。そこでは砲術、漢学、蘭学などの学問が教えられていた。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。

安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。在郷中、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」 を取得し、日根野道場の師範代を務めた。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽紀略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、のちの同志となる近藤長次郎や長岡謙吉らを紹介されている。また、この時期に徳弘孝蔵の下で砲術とオランダ語を学んでいる。

安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した。同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行している。

安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった従兄弟同士にあたり、のちに日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる山本琢磨を逃がす。安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。北辰一刀流免許皆伝と言われることもあるが、発見・現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられたものである。一般にいう剣術ではなく薙刀術であり、北辰一刀流「初目録」である。ただ、「免許皆伝を伝授された」と同時代の人物の話もある。 同年9月に土佐へ帰国した。

土佐勤王党

土佐藩では、江戸幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主の山内豊信(容堂)が吉田東洋を参政に起用して、意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣問題では一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。しかし、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行して反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を養子・山内豊範に譲り、隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。

安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった。

同年7月、龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵、久松喜代馬、島村外内らとともに土佐を出立した。龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑ったが、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前、美作、備中、備後、安芸、長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。

文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起こり、下士と上士の間で対立が深まった。『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。 

同年4月、武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持った。土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした。これにより同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた。

武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与え、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。

勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。

脱藩

挙藩勤王を目指す武市は、積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年(1861年)10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」 を授かったあとに、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れ、長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている。萩へ向かう途中で宇和島藩に立ち寄り、窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に他流試合を申し込むが、この田都味道場には土居通夫、児島惟謙がいた。

龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、このころ、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わる。土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出てきた。これは実際には島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勘違いされたものであった。これに参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞らが脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われる。脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、さらに藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。武市は藩を挙げての行動を重んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった。

龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾(のちに吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した 龍馬が脱藩を決意すると、兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀を全て取り上げてしまった。このとき、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある。

脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日に寺田屋騒動が起こり薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は明らかではない。

一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。龍馬は7月頃に大坂に潜伏している。この時期に龍馬は望月清平と連絡をとり、自らが吉田東洋暗殺の容疑者とみなされていることを知らされる。

勝海舟と神戸海軍操練所

龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した。 この期間、龍馬は土佐藩の同志のほか長州藩の久坂玄瑞や高杉晋作らと交流している。 12月5日、龍馬は間崎哲馬や近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した。12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となった。

龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時にはすでに龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会いの話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い。いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉・乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。

勝海舟は山内容堂に取りなして、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認した。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助、新宮馬之助、望月亀弥太、近藤長次郎、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである。

幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するため、海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦のあと、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春嶽から千両を借入れした。 5月17日付の姉・乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候…すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」 と近況を知らせている。

龍馬が神戸海軍操練所設立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太が藩論を主導していることに不満を持っていた山内容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。6月に勤王党の間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太が切腹させられた。平井の妹・加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は6月29日付の手紙で姉・乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」 と書き送っている。また、同じ手紙で攘夷を決行して米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢と(下関戦争)、その際、幕府が姦吏の異人と内通し外国艦船の修理をしていることについて強い危機感を抱き「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候」 と述べている。

8月18日、倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく、薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」が起きた。これにより京都の政情は一変し、佐幕派が再び実権を握った。8月に天誅組が大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎、那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている(天誅組の変)。土佐では9月に武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた(武市は1年半の入牢後の慶応元年閏5月に切腹となっている)。

10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられた。翌元治元年(1864年)2月に前年に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるために再び藩に拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶して再度の脱藩をする。2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に『海軍問答』を贈り、海軍建設に関する諸提案をした。

5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、のちに彼女を懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢に預けている。5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足した。6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(あるいは200人ほど)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中の水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている。

この時点では龍馬と海舟は知らなかったが、6月5日に池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていた。池田屋事件で肥後藩の宮部鼎蔵、長州藩の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいた。北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、望月は神戸海軍塾の塾生であった。

八月十八日の政変と池田屋事件のあと、長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃された。7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)。それから少しあとの8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けて大打撃を蒙った(下関戦争)。禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。二度の敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順した(長州征討)。

お龍の後年の回想によると、これらの動乱の最中の8月1日に龍馬はお龍と内祝言を挙げている。8月中旬頃に龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評している。

望月の件に続き、塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり、10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまった。これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けられなくなり、龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老の小松帯刀に彼らを託して、薩摩藩の庇護を依頼した。慶応元年(1865年)3月12日に神戸海軍操練所は廃止になった。

亀山社中(のちの海援隊)

龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、五代友厚らは慶応元年(1865年)5月頃に龍馬らに出資した(亀山社中)。またイギリス式銃兵隊を養成する宇和島藩の児島惟謙らとも親交を結んだ。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり、当時商人が参集していた長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置した。

長州藩では前年の元治元年(1864年)12月に高杉晋作が挙兵し、恭順派政権を倒して再び尊攘派が政権を掌握していた(功山寺挙兵)。亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることのほかに、当時、水火のごとき関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、のちの薩長同盟成立(後述)に貢献することになる。

幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士はともには天を戴かずと心中に誓い、たとえば「薩奸會賊(「さっかんかいぞく」薩摩の薩と會津(会津の旧漢字)の會)」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。このような雰囲気の中でも、土佐脱藩志士中岡慎太郎とその同志土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を望んでいた。龍馬は大村藩志士の渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。慶応元年(1865年)5月、まず土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させる。同時に中岡は薩摩に赴き、西郷に会談を応じるよう説いた。同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけであった。西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまっていた。桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。

討幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるため、両藩とも自然これに首肯した。

これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した。これは同時に薩長和解の最初の契機となった。また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。

9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という重要な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けている。11月に坂本龍馬は、五代才助を伴い下関に行き広沢真臣と、商社示談箇条書を結びました。

薩長同盟

慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。龍馬が1月20日に下関から 京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問いただしたところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた。龍馬はそれ以上桂を責めることはしなかった。しかし薩摩側が桂の帰藩を止め、1月22日、薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、桂はこれを了承した。これにより薩長両藩は後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。盟約成立後、木戸は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという返書を受け取っている。

龍馬は薩長同盟成立にあたって両者を周旋し、交渉をまとめた立役者とする意見がある。これらのものでは、桂が難色を示したあとに、龍馬が西郷に働きかけ、妥協を引き出したとされる。逆に近年の研究者の主張で西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説を唱える者(青山忠正など)もおり、薩長連合に果たした役割は小さかったと考える研究者もいる。

盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見の寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄・権平に報告している。

龍馬不在の長崎の亀山社中では、1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し、自刃させられる事件が起きていた。事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」 と書き残しているが、後年のお龍の回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという。

寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、以後、それが理由で写真撮影などでは左手を隠していることが多いのではないかと指摘する研究者もいる。西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は、2月29日に薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養のかたわら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡った。温泉で休養をとるとともに左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。

5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだユニオン号が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。

6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日にユニオン号に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。龍馬はこの戦いについて、戦況図つきの長文の手紙を兄・権平に送っている。

長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)。

海援隊

先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。慶応2年(1866年)7月28日付の三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。このため、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。

将軍・家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。8月末頃、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春嶽に伝えるよう頼んだ。龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣・大久保一翁がかねてから論じていたことで、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春嶽当人が慶喜に提案して拒否されていた。

尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月頃から溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年)1月13日に龍馬と後藤が会談した(清風亭会談)。この結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。

海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。隊士は土佐藩士(千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、石田英吉、中島作太郎)および他藩出身者(紀州藩の陸奥陽之助、越後長岡藩の白峰駿馬)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。

龍馬は海運通商活動以外に蝦夷地の開拓も構想しており、後年、妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)は度々金の無心にくる海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している。

亀山社中創設後に薩摩藩小松帯刀の支援で洋帆船「ワイルウェフ号」を購入したが、1866年(慶応2年)5月2日に暴風雨により沈没し、社中のメンバー12人も遭難死してしまう。また、同年に薩摩藩の保証でウォルシュ商会から購入した洋型帆船「大極丸」は、支払いの問題から運航不能となった。

海援隊結成からほどなく「いろは丸沈没事件」も発生した。龍馬は大洲藩籍の蒸気船いろは丸を1航海500両で契約して運用していたが、1867年(慶応3年)4月23日の晩、瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖ではるかに大型の紀州藩船「明光丸」と衝突し、大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法をもとに紀州藩側の過失を厳しく追及。さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を流行らせるなどして紀州藩を批判した。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。

1867年(慶応3年)11月10日、死の直前の林謙三宛ての手紙は大極丸のことが述べられていた。

薩土討幕の密約

当時の土佐藩上士は公議政体論が主流であったが、乾退助(のちの板垣退助)は、土佐藩の上士としては珍しく武力討幕を一貫して主張し、江戸の土佐藩邸に水戸勤皇浪士・中村勇吉、相楽総三らを隠匿していた(この浪士たちが、のちに薩摩藩へ移管され、庄内藩などを挑発して戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する)。

慶応3年5月(1867年6月)、乾退助は中岡慎太郎の手紙を受けて上洛し、5月18日(太陽暦6月20日)、京都東山の料亭「近安楼」で、福岡藤次や、広島藩の船越洋之助らとともに中岡と会見して武力討幕を議した。さらに5月21日(太陽暦6月23日)、中岡慎太郎が仲介して退助を薩摩の西郷隆盛に会わせることとなり、中岡は以下の手紙を書いた。

(慶応三年)五月廿一日 清之助 再拝

これにより、同日、京都(御花畑)の薩摩藩家老小松清廉寓居で、土佐藩の谷干城や毛利恭助らとともに、薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)、吉井幸輔らと武力討幕を議し、

一、勤王一途に存入、朝命を遵奉する。 一、薩摩、土佐の両藩は互いに討幕に向けて藩論を統一させる。 一、両藩は、幕府との決戦に備えて軍備を調達し、練兵を行う。 一、薩摩藩が幕府と決戦となれば、土佐藩はその時の藩論の如何にかかわらず(藩論を討幕に統一出来ていなかったとしても)、30日以内に必ず土佐藩兵を率いて薩藩に合流する。(その為には、集団での脱藩もあり得る) 一、上記は乾退助が切腹の覚悟を以って誓約し、その証として、中岡慎太郎が人質となって薩摩藩邸に籠る。 (中岡が人質となる事に関しては「それには及ばない。全面的に乾の去就を信頼する」との西郷の言を以て除外) 附則として、現在、土佐藩邸に隠匿している水戸藩の勤王派浪士は、薩摩藩が責任を持って預かる。

との大意を確認し薩土討幕の密約を結ぶ。翌日5月22日(太陽暦6月24日)、退助は山内容堂へ拝謁して、時勢が武力討幕へ向かっていることを説き、江戸の土佐藩邸に水戸浪士を秘かに匿っている事実を告げた。また、薩摩藩側も討幕を目指す薩土密約締結の翌日にあたる5月22日(太陽暦6月24日)、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。

中岡慎太郎は、ただちに書簡をしたため薩摩藩と土佐藩の間で武力討幕の密約が締結されたことを知らせ、土佐勤王党の同志に、

と「檄文」を飛ばした。

入れ違いに大政奉還論を意図した後藤象二郎と坂本龍馬が上洛し、6月22日(太陽暦7月23日)に薩摩藩と薩土盟約を結ぶことになる。

龍馬の進言と大政奉還

いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年6月9日(1867年7月10日)に藩船「夕顔」に乗船して長崎を発ち、兵庫へ向かった。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光、伊達宗城、松平春嶽、山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。それは以下の八項目であった。

天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)

上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)

有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)

外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)

古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)

海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)

御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)

金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)

以上の八項目は、長岡謙吉が筆記したとされ、歴史小説などでは「船中八策」と呼ばれ、のちに成立した維新政府の綱領の実質的な原本となったとされてきた。しかし、江戸時代のものとは思えない文体で書かれており、内容も引用されたものによって食い違いがあり、かつ龍馬によって書かれた船中八策の原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とされる。同年11月に書かれた新政府綱領八策(後述)の自筆本は実在しており、思想や主張の内容はこれをと基に遡及して作られたものとされる。

薩土盟約

慶応3年6月(1867年7月)、龍馬の提示を受けた後藤はただちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、これより1ヶ月前の5月21日の時点で既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩藩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認したうえで、乾らとともに大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。

そのため、一歩出遅れた後藤象二郎らは大坂で藩重臣らと協議し大政奉還論を藩論とするよう求める他なかった。次いで後藤は6月22日(太陽暦7月23日)に薩摩藩と会合を持ち、薩摩側は西郷隆盛と小松帯刀および大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、福岡孝弟、寺村左膳、真辺正心(栄三郎)が代表となり、龍馬の進言に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これからほどない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。

7月6日、龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。龍馬と後藤はこの対応のために長崎へ戻り、龍馬は9月まで英国公使パークスとの談判にあたっていた。結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている(犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた)。

薩土盟約の解消

後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。その後、薩摩、土佐両藩は薩土討幕の密約に基づき討幕の準備を進めることになる。

9月2日付けの、桂小五郎(当時は既に木戸姓を名乗っていた)から龍馬宛に送られた手紙が残されている。龍馬はこの手紙をもらった後、独断で土佐藩に買い取らせるためのライフル銃を千丁以上購入し、藩の重役に討幕への覚悟を求めた。

土佐勤王党員の釈放

慶応3年9月6日(1867年10月3日)、大監察に復職した退助は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。これにより、土佐七郡(全土)の勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。武市瑞山の土佐勤王党を乾退助が事実上引き継ぐこととなる。

9月20日(太陽暦10月17日)、坂本龍馬が、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)へ送った書簡には、

(慶應三年)九月廿日、(坂本)龍馬。

大政奉還が受け容れられなかった場合は後藤を国へ返し乾退助を出すと述べている。

9月22日(太陽暦10月19日)、中岡慎太郎が『兵談』を著して、国許の勤王党同志・大石円に送り、軍隊編成方法の詳細を説く。

これらの動きに呼応し、イカロス号事件の処理を終えた龍馬は、新式小銃1,000挺あまりを船に積んで長崎から土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。浦戸入港の時、龍馬が土佐藩参政・渡辺弥久馬(斎藤利行)に宛てた書簡には、

(慶應三年)九月廿四日 坂本龍馬

と書き送っている。

9月25日(太陽暦10月22日)、坂本龍馬が、土佐勤王党の同志らと再会し、討幕挙兵の方策と時期を議す。

9月29日(太陽暦10月26日)、乾退助は土佐藩仕置役(参政)兼歩兵大隊司令に任ぜられるが、10月8日(太陽暦11月3日)には大政奉還に真っ向から反対して土佐藩歩兵大隊司令役を解任され、失脚する。

再び大政奉還論へ

土佐藩は乾退助の説く過激な武力討幕か、後藤象二郎の説く穏健な大政奉還かで藩論が揺れ動く中、10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。しかし乾退助は武力討幕の意見を曲げず、大政奉還論を「空名無実」と批判し「徳川300年の幕藩体制は、戦争によって作られた秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことは出来ない。話し合いで将軍職を退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう」と真っ向から反対する意見を言上したことで全役職を解任されて失脚した。

徳川慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなた(後藤象二郎)はその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なきときは、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」 と激しい内容の手紙を送っている。一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。

討幕の密勅

この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下された。

しかし、大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕の実行延期を命じられる。

新政府綱領八義

展望が見えた龍馬は、10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の『新官制擬定書』を策定した。龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあったが龍馬の名が欠けており、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話があるが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典の創作の可能性がある。ただし龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったという話もあり(『千里駒後日譚』)、11月の陸奥への手紙には「世界の話もできるようになる」ともあって 尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性なども考えられる。尾崎の手控とされる資料は数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いが指摘されている。

また、11月上旬には船中八策をもとにしたとされる『新政府綱領八策』を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた。龍馬が誰を意図していたのかはさまざまな説がある。

暗殺

後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に山内容堂の書状を持って越前福井藩へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談したあと、11月5日に帰京した。帰京直後に三岡の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙「越行の記」を記し、さらに11月10日には福井藩士・中根雪江宛てに三岡を出仕させるよう懇願する手紙を記している。

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪し、面会を求めてきた。従僕の藤吉が取り次いだところ、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られ、ほとんど即死に近い形で殺害された。享年33(満31歳没)。奇しくも、自身の誕生日に暗殺された。

当初は新選組の関与が強く疑われた。また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人の三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛にあたっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭して捕縛された新選組局長の近藤勇は、部隊の小監察であった土佐藩士谷干城の強い主張によって斬首に処された。ただし、谷自身は近藤が「有志の徒」を殺害したとは言及しているが、龍馬の名は全く出しておらず、斬首の理由としても言及していない。また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、のちに撤回している。

明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏して捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥伴蔵、桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、現在では見廻組犯人説が定説になっている。その一方で、薩摩藩黒幕説や後藤象二郎プロモーター説、フリーメイソン説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。

墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。なお、高知県護国神社と靖国神社にも祀られている。

年譜

年齢は数え年。

和暦 (西暦) 年齢 坂本龍馬関連事項 参考事項
天保6年(1835年) 01 (11月15日)龍馬出生。
弘化3年(1846年) 12 (この年)母・幸死去。(この年)小高坂の楠山塾で学ぶが、退塾。
弘化5年/嘉永元年(1848年) 14 (この年)日根野弁治の道場へ入門し小栗流和兵法を学ぶ。 (12月)山内豊信が土佐藩襲封。
嘉永5年(1852年) 18 (7月)中浜万次郎、アメリカ合衆国から土佐へ帰国。
嘉永6年(1853年) 19 (4月)剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場(小千葉道場)に入門。(6月頃〜9月頃)臨時御用として品川藩邸警衛にあたる。(12月)佐久間象山の私塾に入門。 (6月3日)黒船来航(6月22日)将軍徳川家慶死去。(11月23日)徳川家定将軍宣下。
嘉永7年/安政元年(1854年) 20 (6月23日)土佐に帰郷。(この年)画家河田小龍から西洋事情を学ぶ。 (3月3日)日米和親条約締結。
安政2年(1855年) 21 (12月4日)父・八平死去。
安政3年(1856年) 22 (9月)再び江戸小千葉道場に遊学。
安政4年(1857年) 23 (8月4日)盗みを働き切腹沙汰となった仲間(山本琢磨)を逃がす。
安政5年(1858年) 24 (1月)千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」伝授。(9月)剣術修行を終えて帰国。 (4月23日)井伊直弼が幕府大老に就任。(6月19日)日米修好通商条約調印。(7月6日)将軍・家定死去。(9月)安政の大獄始まる。(10月25日)徳川家茂に将軍宣下。
安政6年 (1859年) 25 (2月26日)土佐藩主・山内豊信隠居。以後、山内「容堂」と号す。10月に幕府より蟄居謹慎を命じられる。
安政7年/万延元年(1860年) 26 (1月〜11月)勝海舟を含む遣米使節を派遣。(3月3日)桜田門外の変
万延2年/文久元年(1861年) 27 (3月)土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる。(8月頃)土佐勤王党に加盟。(10月)武市の密使として長州へ向かう。 (8月)武市半平太が江戸で土佐勤王党を結成。
文久2年(1862年) 28 (1月)萩で久坂玄瑞と面談。(3月24日)沢村惣之丞とともに脱藩。(8月)九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。(12月5日)幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。(12月)勝海舟に面会して弟子となる。 (4月8日)土佐藩参政吉田東洋暗殺。(4月23日)寺田屋騒動
文久3年(1863年) 29 (2月25日)勝の尽力により脱藩を赦免される。(4月23日)将軍家茂が神戸海軍操練所と神戸海軍塾の設立を許可。(5月)越前に出向し、春獄から千両を借り受ける。(10月)海軍塾塾頭をつとめる。 (5月10日)長州藩が攘夷を決行し外国船を砲撃。(6月)土佐藩で土佐勤王党弾圧が始まる。(7月)薩英戦争(8月18日)八月十八日の政変(8月〜9月)天誅組の変(9月21日)武市半平太投獄。
文久4年/元治元年(1864年) 30 (2月)帰国命令を無視して再脱藩。(5月14日)神戸海軍操練所創設。(6月17日)尊攘過激派浪士を蝦夷地へ移住させる開拓構想を勝に説く。(11月10日)勝が軍艦奉行を罷免。龍馬ら塾生は薩摩藩邸に保護される。 (6月5日)池田屋事件(7月19日)禁門の変(7月23日)幕府が長州征討を発令。(8月5日〜7日)四国連合艦隊が下関を砲撃。(11月)長州藩が降伏恭順する(第一次長州征伐)。(12月)長州で高杉晋作が挙兵 (功山寺挙兵)。
元治2年/慶応元年(1865年) 31 (3月18日)神戸海軍操練所廃止。(5月)薩摩藩の援助により、長崎で社中(亀山社中)を結成。(閏5月21日)中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。(8月)長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。(9月)大久保一蔵の書簡を長州藩重役に届ける。 (閏5月11日)武市半平太切腹。
慶応2年(1866年) 32 (1月22日)龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる。(1月23日)伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷(寺田屋遭難)。(2月5日)桂に求められて盟約書の裏書を行う。(3月〜4月)負傷治療のために妻のお龍と共に鹿児島を旅行する。(6月)第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。 (6月〜9月)第二次長州征伐。(7月20日)将軍・家茂死去。(12月5日)徳川慶喜に将軍宣下。(12月25日)孝明天皇崩御。
慶応3年(1867年) 33 (1月13日)土佐藩参政後藤象二郎と会談。(4月上旬)亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称。(4月23日)海援隊運用船いろは丸が紀州藩船と衝突して沈没(5月)御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。(6月9日)後藤象二郎とともに船中八策を策定。(6月22日)薩土盟約成立。(10月16日)戸田雅楽と「新官制擬定書」を策定。(11月上旬)「新政府綱領八策」を起草。(11月15日)京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される(近江屋事件)。 (1月9日)睦仁親王践祚(明治天皇)。(10月14日)大政奉還(12月9日)王政復古の大号令
慶応4年/明治元年(1868年) (1月3日)鳥羽・伏見の戦い(4月)江戸開城(閏4月)海援隊解散
明治4年(1871年) (8月20日)綸旨を受け、姉・千鶴の長男・高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継ぐ。
明治16年(1883年) (この年)板垣退助の要望により『土陽新聞』が坂崎紫瀾作『汗血千里駒』を掲載。
明治24年(1891年) (4月8日)贈正四位。

2024/06/17 01:37更新

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