野中広務の情報(のなかひろむ) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
野中 広務さんについて調べます
■名前・氏名 |
野中広務と関係のある人
森田実: 政治評論家としては珍しく、時々の政治家・政党に対する支持・不支持を明確にしており、亀井静香や野中広務、綿貫民輔、鈴木宗男といった、小泉政権時の郵政民営化法案や対米依存政策における自民党内の「抵抗勢力」、河野洋平、加藤紘一、二階俊博、福田康夫ら親中派の支持者であった。 小里貞利: その裏で、幹事長野中広務と交渉し、本会議を欠席した議員に対し除名などの処分を行わないことを約束させる。 村上正邦: メンバーは他に森喜朗幹事長、青木幹雄内閣官房長官、野中広務幹事長代理、亀井静香政務調査会会長だった。 浅田満: 野中広務 - 衆議院議員、京都府船井郡園部町長、京都府副知事、内閣官房長官、自由民主党幹事長、自由民主党行政改革推進本部長などを歴任。 小渕恵三: 小渕派会長の小渕は政権への意欲を示したものの、野中広務らの説得により、現実的判断をとって橋本支援に転換。 石田幸四郎: 直後の衆議院予算委員会質疑で、自民党の野中広務、亀井静香から、公明党の支持母体である創価学会名誉会長池田大作に対する証人喚問を要求され、国会が紛糾した。 青木幹雄: 1999年の第2次改造内閣では野中広務の後任の内閣官房長官(沖縄開発庁長官兼務)として初入閣した。 村上正邦: 1998年、参議院選挙を取り仕切り、このとき野中広務と公認問題をめぐり対立。 佐藤信二: 1992年の東京佐川急便事件で竹下派が小沢一郎・羽田孜支持グループと小渕恵三支持グループに分裂すると、佐藤は村岡兼造、中村喜四郎、西田司、野中広務らとともに小渕恵三を支持した。 村山富市: 村山は法務大臣前田勲男、国家公安委員会委員長野中広務、警察庁長官國松孝次、内閣官房長官五十嵐広三ら関係幹部に徹底捜査を指示、陣頭指揮を執る姿勢を見せ、事件捜査について「別件逮捕等あらゆる手段を用いて」と発言したが、これは刑事捜査の是非について、政治サイドの言葉としては著しく問題化した。 蜷川虎三: 前述の野中広務、京都財界のリーダー格であった京都商工会議所会頭塚本幸一(ワコール元社長、後に日本会議会長)など、政治的には鋭く対立する立場にありながらも、「魅力的な人物であった」という形で著書等で一定の評価をしている者も見られる。 北村浩一: 野中広務 野田聖子: 小渕内閣の内閣官房長官であった野中広務は野田に対し「俺は最後まで反対したんだ。 森田実: 更に総裁選の終盤で野中広務が突如引退を覚悟で小泉再選を阻止すると表明した際は、『スーパーJチャンネル』で「これで流れが変わる」と断言するが、小泉圧勝という情勢を崩すには至らず、野中の政治的影響力の弱体化を逆に印象付けた。 竹下登: 後の幹部に野中広務、綿貫民輔、村岡兼造らがいた。 山中末治: 1983年8月、前尾繁三郎、谷垣専一の両衆議院議員死去に伴う衆議院旧京都2区補欠選挙に日本社会党から立候補するが、自民党の谷垣禎一、野中広務に敗れる。 森喜朗: この時森は金沢までの着工を要求したが、野中広務に釘をさされて 富山までの開業、石川県内の白山車両基地への着工に短縮された経緯がある。 藤井孝男: 2003年9月には野中広務の支援により、現職の総裁・小泉純一郎の再選を阻止するため、橋本派(平成研究会)の候補として党総裁選に立候補する。 村上正邦: 主にやりあったのは、加藤紘一、野中広務。 村岡兼造: 2003年の自由民主党総裁選挙にて橋本派は藤井孝男を擁立したが、村岡は橋本派の会長代理であり藤井の兄貴分でありながら藤井ではなく森派の現職かつ1972年衆院初当選同期の小泉純一郎の支持に回ったために、野中広務に「毒まんじゅう(この年の流行語大賞を受賞)を食らった」と揶揄された。 大下英治: 『蠢く野中広務 政界大波瀾』徳間文庫 1999 荒巻禎一: 革新から府政を奪還した林田悠紀夫知事の下で京都府副知事(第1期時のもう一人の副知事は野中広務。 魚住昭: 『野中広務 差別と権力』(2004年6月、講談社→講談社文庫、2006年) 奥野誠亮: 2003年5月31日に麻生太郎が東大での講演会で「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と発言したことを批判した野中広務に対して、「朝鮮名のままだと商売がやりにくかった。 森喜朗: YKKの残る1人で、森派会長を務めていた小泉純一郎は率先して加藤の倒閣の動きを党内で拡散して加藤に近い若手の動きを牽制、野中広務らも猛烈な切り崩し工作を展開した。 平沢勝栄: 2000年の第42回衆議院議員総選挙に際しては、自由民主党幹事長の野中広務から、公明党批判を一切行わない旨の誓約書を提出するよう求められ、自民党の小選挙区候補者で公認が内定したのも最後であった。 井沢京子: ちなみに京都6区は中選挙区時代の旧京都2区で谷垣や後に経世会の大幹部となる野中広務が選出されていた。 小泉純一郎: 1994年(平成6年)、自民党は日本社会党委員長の村山富市を内閣総理大臣指名選挙で支持して自社さ連立政権を成立させ政権に復帰、野中広務らの平成研究会(旧竹下派)が主導的な力を持つようになった。 森喜朗: 森の首相就任は、当時の自民党有力議員5人(森喜朗本人、青木幹雄、村上正邦、野中広務、亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれ、西側諸国の報道でも旧ソ連のクレムリン並みの密室人事と揶揄された。 小泉純一郎: 2000年(平成12年)、小渕が急死し、党内実力者の青木幹雄、野中広務らの支持により幹事長だった森喜朗が総理・総裁に就任。 |
野中広務の情報まとめ
野中 広務(のなか ひろむ)さんの誕生日は1925年10月20日です。京都出身の政治家のようです。
卒業、引退、事件、解散、事故、家族、テレビ、現在、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。2018年に亡くなられているようです。
野中広務のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)野中 広務(のなか ひろむ、旧字体:野中 廣務、1925年〈大正14年〉10月20日 - 2018年〈平成30年〉1月26日 )は、日本の政治家。位階は正三位。 京都府船井郡園部町長(2期)、京都府副知事、衆議院議員(7期)、自治大臣(第48代)、国家公安委員会委員長(第56代)、内閣官房長官(第63代)、沖縄担当大臣(第3代)、沖縄開発庁長官(第38代)、自由民主党幹事長、自由民主党行政改革推進本部長などを歴任。 1943年春、旧制京都府立園部中学校(後の京都府立園部高等学校)を卒業し、日本国有鉄道大阪鉄道局の職員として採用され、大阪・梅田の大鉄局業務部審査課に配属された。ここで当時の局長だった佐藤栄作(後の首相)と出会う。 1945年1月に陸軍に召集。最終的に陸軍第155師団歩兵第452連隊に配属、高知県で終戦を迎える。 青年団活動に身を投じ、同じく各地の青年団運動を行っていた竹下登(後の首相)、浜田幸一らと活動を通じて知り合う。 衆院議員・田中好の秘書を経て、園部町議会議員(3期)、園部町長(2期)として町政に携わった。町長時代には京都府町村会の会長や政府税制調査会の委員なども務めた。その後、府政に進出し、京都府議会議員(3期)を務める。京都府議の12年間は野党議員として社会党及び共産党などを与党とする蜷川虎三革新府政と対峙した。 7期28年間の革新府政の蜷川虎三知事引退によって、1978年に革新から府政を奪還した林田悠紀夫知事の下で京都府副知事を荒巻禎一(後、林田の後任の京都府知事)との府初の二人制で務める。 副知事時代の功績の一つに第三セクターによる産業廃棄物処理施設の建設がある。近年の環境省は不法投棄や不適正処理等の対策として産業廃棄物処理への公共関与の強化を進めているが、既に野中は20余年前に行っていた。後に「地球のバランス」と称した環境問題に関する文章を著している。また、当時の京都府庁では府職員に対する福利厚生に力を入れており、課長以上の職員の自宅の電話代や部長以上の職員の昼食代まで府が肩代わりしていた。副知事就任後にその実態を知った野中は「こんなことに税金を使ってどうするんだ」 と一喝し、それらの制度を廃止させた。 1958年、京都市の重度身体障害者グループが「寝たきり障害者に愛のホームを!」と声をあげたことから、日本で最初の重度障害者療護養施設が野中の地元である園部町に設置された。施設を訪れた野中は入園者が働く場所を設ける必要性を感じ、作業所、重度障害者授産施設を備えた社会福祉法人を設立した。その後、先行して設立されていた重度障害者療護施設の運営依頼も受け、自ら設立した社会福祉法人「京都太陽の園」に統合、理事長として両施設を運営することになった。野中は当初、京都府副知事を退任後は政界を引退して、この社会福祉法人の運営に専念するつもりだった。 1983年8月7日に、前尾繁三郎、谷垣専一の両衆院議員死去に伴う衆議院旧京都2区補欠選挙において自民党公認・木曜クラブ新人として、2議席を自民党の宏池会新人谷垣禎一候補(後の自民党総裁)、日本共産党の有田光雄候補(同党京都府委員会役員、後にジャーナリスト・参議院議員になる有田芳生の父)、日本社会党の山中末治候補(元京都府八幡市長。後、衆議院議員)、前尾系無所属林長禎候補(前京都市議会議長)らと争う。開票直後は、野中リードの速報が入るものの、次第に谷垣、有田両候補にリードを許し始めた。谷垣候補が当確し、続いて有田候補が勝利宣言、野中は敗北宣言の準備を始めた。しかし、野中の地元・園部町で未開票の投票箱の存在が判明して、有田候補を逆転し初当選を果たした。野中が一度は敗北を覚悟した選挙結果に、京都府議時代から目をかけていた田中角栄元首相が自民党京都府連会長上田稔参議院議員(後の環境庁長官)に対して激怒したという。なお、当初自民党には2人区に対しては谷垣1人のみ擁立する案があったが、それに対して独占を目指して2人擁立論を自民党総務局長として強硬に主張して谷垣・野中の2人擁立を行ったのが、後に野中と対立することになる小沢一郎であった。 1987年7月、経世会が結成され、田中派が竹下派(経世会)、二階堂グループ、中立系に3分裂した際は竹下派に移った。 自治大臣・国家公安委員会委員長、自民党幹事長代理、内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任。自民党郵政事業懇話会の会長を務め、「郵政族のドン」としても知られ、特定郵便局長会に強い影響力を持ったほか、副知事などの地方行政の長い経験や自治相の経験から、自治省(後の総務省)にも影響力を持っていた。 金丸信の不祥事スキャンダルによる議員辞職に端を発した竹下派分裂の際に、反小沢一郎グループの急先鋒として名を知られるようになった。 1993年8月、細川内閣発足によって自民党は下野し、野党となる。ほとんどの自民党議員は長年与党議員だったため、野党的な追及型の国会質問などができる議員は少なかった。そんな中、野中は京都府議会議員時代の長期にわたる野党経験を生かし、東京都議会議員として美濃部革新都政に厳しく対峙した深谷隆司と共に予算委員会で細川内閣を追及し、党内で実力を認められるようになった。細川批判で名を挙げた野中は細川護熙の首相退陣の際は「細川さんはなんですぐ辞めちゃったんだろう。あんな疑惑で辞めるとは思わなかった。こっちは攻撃材料を色々と作っていたのに」とぼやいたという。特筆すべきは、昭和45年2月10日付けの国税庁長官の全国の税務署長宛て通達による「同和控除」である。この税の優遇措置がエセ同和団体に悪用されていることを衆議院予算委員会で追及した(これは後に野中が自治大臣になったときに、部落解放同盟上杉佐一郎委員長と交渉を行い、国税庁も解消の通達を行うこととなる)。 1994年に自社さ連立による村山内閣で自治大臣・国家公安委員長として初入閣。自治大臣として小選挙区の区割り法案など、政治改革を担当したほか、1995年には国家公安委員長としてオウム真理教によるテロ事件に破壊活動防止法を適用することを強硬に主張した。また、松本サリン事件で被疑者と疑われた通報者の河野義行に対し、国家公安委員長として真っ先に謝罪に訪れた。村山富市首相が公安調査庁に破防法適用申請を認めたものの、公安審査委員会の審議により否決された。 1996年の橋本内閣では、小沢一郎率いる新進党と連携を図ろうとする梶山静六官房長官ら「保保大連合」派と対立する「自社さ」派の中心メンバーとして、加藤紘一幹事長を支えた。 1996年山口県知事選挙では、二井関成の推薦を野中は認めなかった(ただし党山口県連は推薦。対立候補の自身と同年代で同じ町長経験者で同じ自治相・国家公安委員長経験者の新進党推薦候補で後に自民党復党する吹田愰に対する配慮)。 第41回衆議院議員総選挙では初の小選挙区比例代表並立制で自身は京都4区で共産党新人や新進党現職豊田潤多郎に圧勝(自身が重複立候補した比例近畿ブロックで後藤田正晴擁立を検討していた)。選挙後は幹事長代理として加藤幹事長と組んで、早くに新進党から復党した杉山憲夫らと共に、新進党からの議員を引き抜いた。その結果、1997年には自民単独過半数を回復させ、新進党解散の一因を作った。野中らは、新進党を引き抜きの「釣り堀」と呼んだ。野中は自社さ連立堅持を主張していたが、自民単独過半数回復は、社民党、新党さきがけの発言力を低下させ、連立崩壊を早めることになった。 1997年、小泉純一郎厚生大臣が厚生省幹部と参議院厚生委員会理事と食事をした際に、村上正邦参議院幹事長が、事前通告もなく参議院理事を動かし参議院スケジュール管理に支障を来たしたとして、参議院厚生委員長に対して議事権発動を促し、同委員会への厚生省幹部の出席差し止めにすることで小泉厚生相に反発した。このことについて、野中は党執行部として加藤紘一幹事長を補佐する形でこの事態を打開するために村上を参議院幹事長から更迭しようとするが、村上は参議院の独自性を盾に抵抗。最終的に党執行部が折れて小泉を村上に謝罪させる提案を行ったが、野中は村上について「あなたは実質的に参議院を支配しようとしている。天下をとるつもりか」と述べたとされる。 同年、沖縄県の米軍基地用地の確保を続けるため、橋本内閣は米軍用地特別措置法改正案を出し、野中は衆議院で改正案の特別委員長を務めた。法案の委員会通過後、4月11日に野中は衆議院本会議で委員会報告を行ったが、壇上での報告の最後に緊張で腕を大きく震わせながら と付け加え、物議を醸した。野中は、梶山官房長官らが首相官邸主導で新進党と合意・裁決にはいったこと及び社民党や共産党をのぞくすべての政党が充分な議論を経ずに賛成したことに反発・批判したかったとし、「沖縄の痛みや日本外交の今後を考えると、法案はもっと緊張感を持って通すべきだったと思い、警鐘を鳴らす意味を込めて削除覚悟であえて発言した」とのちに語っている。この発言は、小沢一郎率いる新進党側の要求により、国会会議録から消されている。なお、法案は同日の衆議院通過後、4月17日に参議院で可決成立した。 1998年第18回参議院議員通常選挙大敗で橋本首相が退陣すると、後継の小渕内閣で官房長官と沖縄担当大臣を務めた。小渕恵三総理は、官房長官を固辞する野中に土下座をしてまで就任を頼んだという。小渕内閣では一転して自自公連立を推進した。官房長官在任中は広島県内の校長が卒業式での日の丸掲揚の対立を巡り自殺したのを機に国旗及び国歌に関する法律を策定、社民党などの猛反対や党内の慎重論を押し切り成立させるなど、ハト派らしからぬ一面も見せている。 1999年8月に神奈川県足柄上郡山北町にて発生した玄倉川水難事故に際しては、事後に当時の防衛庁運用局運用課長の任に在った黒江哲郎(後に防衛省事務次官)と同じく当時の警察庁警備課長を内閣総理大臣官邸に呼び、事故遭難者救援作業などについて事情聴取を行った。その際に「(遭難者の救助のために)ヘリコプターや水陸両用車などあらゆる手段を使えなかったのか?」と問い、自衛隊や警察・消防などの事故対応について黒江らを厳しく叱責した。 また同年9月30日に茨城県那珂郡東海村で発生した東海村JCO臨界事故の際には事故対応の指揮を執った。内閣総理大臣官邸に事故状況の報告に来た科学技術庁(当時)の幹部がおろおろして事故現況の報告に詰まると、野中は「とにかく現場へ行きなさい。現場を見ないでどうやってこちら(官邸)に報告出来るのか! 現場を見て、その状況を報告しないことにはこちらも対策を講じられないではないか」と一喝し、その科学技術庁幹部に東海村の現場へ直ちに行くよう命じた。これは野中自身が後にこの臨界事故について聞かれたときに語っている。 2000年に小渕首相が倒れると、森喜朗自民党幹事長、青木幹雄官房長官、村上正邦参院議員会長、亀井静香政調会長と協議を行い、森幹事長を小渕の後継自民党総裁にすることとした。この協議は、首相を五人組によって密室で選出させたものとして、野党から厳しく追及され、国民からも大きく批判された。野中は、森の後継として自民党幹事長代理から幹事長へ昇格した。国会で小渕の死を悼む発言をした鳩山由紀夫民主党代表に対し「小渕前総理のご心労の多くがあなたにあったことを考えると、あまりにも白々しい発言」と厳しく批判した。 第42回衆議院議員総選挙では衆議院比例区に73歳定年制を導入し総務局長鈴木宗男と共に多くの高齢代議士の引退を迫って党内の反発を買い、これが3年後の政界引退の遠因となった。 同年秋の加藤の乱では、加藤派の古賀誠国会対策委員長らと連携、同派議員の多くを切り崩し総理総裁経験者で志帥会最高顧問中曽根康弘から「三木武吉を超えましたなぁ」と賞賛を受けた。その直後、野中は幹事長を辞任、後任に古賀が就任した。野中は幹事長として、加藤の乱で欠席した議員たちを処分することはしなかった。むしろこれによって総理の森には党内にも憂国の士がいることを知って総理の重みを感じ取ってほしいという趣旨の発言をしたのに対して、森が「不信任案が否決されているのに幹事長は何を言ってるんだい」と言ったのを聞いた野中が失望し、幹事長辞任に至ったという。この頃、小渕・森政権時代には官房長官・幹事長代理・幹事長として仕切ったことから「影の総理」と呼ばれたこともあった。 2001年3月10日、森喜朗首相は首相官邸に自民党五役を招集し、事実上の退陣表明をした。自民党総裁選に向け、古賀誠、公明党代表の神崎武法、保守党党首の扇千景などから待望論が挙がるも、橋本派内からは橋本龍太郎や村岡兼造らの幹部からその突出振りを疎まれていたため、鈴木宗男らを除いて有力議員の支持が集まらず、野中は「たとえ推薦されても、受けることは200パーセントない」と出馬を否定した。そして3月20日に事実上の出馬断念を表明した。橋本派は、橋本を担ぐことになり、圧勝すると見られていたが、小泉純一郎に一般党員の支持が集まり、総裁選で七日会(後の名称・木曜クラブ)結成以来初の敗北を喫した。なお、野中は総裁選中に「橋本政権樹立後は三役に留任してもらう」と主流派の取り込みを図ったが、党内外で猛烈な反発にあった。 2003年自由民主党総裁選挙で、主戦論を唱え、小泉を支持する平成研幹部の青木幹雄参院幹事長、片山虎之助総務大臣、石破茂防衛庁長官、村岡兼造元官房長官らと激しく対立し、一部の議員をポスト目当てで小泉支持に回っていると批判し、「毒まんじゅう」という言葉を残した(「毒まんじゅう」はこの年の流行語大賞に選出され、本人が授賞式に出席した)。野中は自らの引退を賭けて藤井孝男元運輸大臣を擁立して総裁選に臨んだが、藤井は小泉純一郎の再選を阻止できず大敗した。 2003年10月政界を引退したが、小泉内閣を「非情の政治」と批判した。また、自身の軍隊体験から国防に関しては「ハト派」であり、憲法の改正にも反対の姿勢であり、多くの対立点を持つ小泉内閣に対して異を唱え続けた。引退する直前の7月4日、衆議院で行われたイラク復興支援特別措置法の採決では記名投票にするよう求めるも小泉に受け入れられず、同様に記名投票を主張した古賀誠元幹事長や西田司元自治大臣と共に投票を棄権し、退席している。 2004年に、日歯連闇献金事件が発覚したが、野中は橋本らと共に1億円の小切手を受け取る現場に居合わせたことを否定。東京地検も政治資金規正法違反で捜査していたが、関与しているが積極的でないとして起訴猶予となった。これについて検察審査会は不起訴は不当であるとする議決を行った。また、その後の村岡兼造の東京高裁判決において野中のアリバイが偽証であると認定された。 2005年の第44回衆議院議員総選挙では、かつて選挙区(京都府第4区)で後継者指名をした田中英夫(前亀岡市長)が、郵政民営化法案に造反し反対票を投じたため自民党から公認を得られず無所属で出馬。刺客として自民公認で出馬した中川泰宏元船井郡八木町長に敗れた。中川は野中の議員時代の腹心で後継者と目されたこともあったが、北桑田郡・船井郡の市町村合併から意見の齟齬が見られるようになった。さらに、中川が2002年の京都府知事選に笹野貞子元民主党副代表の応援を受けて立候補・落選して以来、野中との対立が決定的なものとなった。 亀井静香、藤井孝男、野田聖子、古賀誠、小林興起らかつての反小泉の勢力も落選・非公認・離党などで権力抗争から外れていったため、彼らを支援していた野中の影響力も次第に低下していた。小泉の後継者である安倍晋三が総理大臣を辞職すると、古賀誠の要請で麻生包囲網に参加したとも、福田康夫内閣成立の立役者(新五人組)の一人とも言われている。古賀が自民党選対委員長に就任したこともあり、低下していた野中の影響力に変化が生じたといわれた。その後、対立関係にある麻生太郎が党総裁・総理に就任すると、麻生を批判する発言を行った。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、元の地盤の京都4区は田中英夫・中川泰宏がともに民主党の北神圭朗に敗れて落選し、小選挙区制導入以来続いた自民党の議席を失った。 政権交代後の2009年12月には、全国土地改良事業団体連合会の会長として、予算の半減が伝えられた土地改良費の復活を民主党の幹事長室に陳情に赴く姿が報じられた。この際、民主党側は過去に野中と確執のある小沢一郎幹事長ではなく、樋高剛副幹事長らが対応した。野中は陳情後に、2010年夏の第22回参議院議員通常選挙・比例区で連合会の政治組織である全国土地改良政治連盟からの自民党候補の出馬取り下げを要請すると発言した(ただし、同選挙の京都府選挙区に関しては民主党現職福山哲郎ではなく自民党現職二之湯智を支援)。2011年4月に自民党を離党(理由は後述)。2012年の第46回衆議院議員総選挙では徳島1区で自民党新人福山守ではなく民主党現職仙谷由人を応援。 2013年6月には、亀井静香、村上正邦の呼びかけに呼応し、石原慎太郎、桜井新、島村宜伸、仙谷由人、平野貞夫、村山富市、矢野絢也らと円卓会議の創立に参加した。 2018年1月26日午後、京都市内の病院で死去。92歳没。日本国政府は同年2月13日の閣議で正三位に叙すことを決めた。 2006年10月より平安女学院大学で文化創造センターの客員教授として政治学を中心とした教育、研究活動をおこなっている。2009年4月より立命館大学客員教授に就任。年数回程度、講義を行う。また、京都府土地改良事業団体連合会の会長 を務め、全国土地改良事業団体連合会(全土連)でも会長理事に就任するなど、いくつかの公職に就いている。 元来は自民党を支持してきた全土連は2009年の政権交代後、政治的に中立な立場を表明。2011年3月29日に野中が全土連会長職に3選されたため、「国から補助金を受けている団体の責任は政党色がない方がいい」と、同年4月に自民党を離党。ただし、この離党の背景には東北地方太平洋沖地震に対応するための布石と捉える向きもあった。自民党が2012年に政権復帰した後、2016年6月に自民党へ復党した。 1925年 - 京都府船井郡園部村で出生。 1943年 - 旧制京都府立園部中学校卒業、日本国有鉄道大阪鉄道管理局採用。 1945年 - 応召で第155師団歩兵第452連隊(通称号:護土22756部隊)に入隊(3月)し、終戦で復員。日本国有鉄道大阪鉄道管理局復職。 1951年 - 園部町町議会議員(3期)。 1955年 - 園部町議会副議長。 1957年 - 園部町議会議長。 1958年 - 園部町長(2期)。 1963年 - 京都府町村会会長。 1965年 - 全国町村会副会長、政府税制調査会委員。 1967年 - 京都府議会議員(3期)。 1977年 - 自民党京都府連政調会長。 1978年 - 京都府副知事(1期)。 1983年 - 衆議院議員当選1回(旧京都2区補選ー当選1回)。衆議院議員当選2回。逓信委員会理事。 1986年 - 衆議院議員当選3回。建設委員会理事、自民党地方局長、自民党国会対策副委員長。 1988年 - 建設政務次官。 1990年 - 衆議院議員当選4回。自民党通信部会長。 1991年 - 衆議院逓信委員長、自民党総務局長。 1993年 - 衆議院建設委員長。衆議院議員当選5回。予算委員会理事。 1994年 - 自民党京都府連会長、自治大臣・国家公安委員長。 1995年 - 自民党幹事長代理。 1996年 - 衆議院議員当選6回。 1997年 - 衆議院日米安保土地使用等特別委員長、自民党京都府連会長。 1998年 - 内閣官房長官、沖縄担当大臣。 1999年 - 沖縄開発庁長官、自民党幹事長代理。 2000年 - 自民党幹事長。衆議院議員当選7回。平成研究会副会長兼事務総長、自民党行政改革推進本部長、自民党京都府連会長代行。 2001年 - 自民党総務、自民党沖縄振興委員長、自民党公務員制度改革特別委員長。 2002年 - 自民党男女共同参画推進協議会長、自民党地方制度調査会委員、平成研究会副会長。 2003年 - 政界から引退。 2011年 - 自民党離党。 2016年 - 自民党復党。 2018年 - 死去。92歳没。 野中は回顧録の中で戦中「自分は軍国青年であった」と述べている。高知市の第155師団歩兵第452連隊(通称号:護土22756部隊)に所属していたときに終戦を迎え、坂本龍馬像の前で自決を考えたが、上官の将校に「死ぬ勇気があれば、これから日本の国を建て直す勇気に変えろ」と諭された。 京都府園部町長在任中の1962年、2,500人あまりの京都府出身者が戦死した沖縄県宜野湾市の嘉数の丘に京都府慰霊碑を建てるために訪れたときにタクシー運転手から「お客さん、あそこで、あそこで、私の妹は殺されたのです。アメリカ軍じゃないんです」と聞かされた。こうした体験から戦争反対や平和、残された戦争責任をきれいに片づけるべきという思いがあり、著書やインタビューなどで訴えている。 亀井静香は「野中は国士みたいな男で、のちの世代に苦しみを残してはいけないというようなことを考えている」と評している。実際に、野中は「戦後五十年の負のトゲを抜くんだ。この国が二十世紀にやり残したことを、禍根のないようにやり遂げる。それが自分らの責任だ」と発言したこともある。一方で、元官房長官で社民党衆議院議員だった野坂浩賢は「野中は本来、タカ派だと思う。しかし、政治家としてハトにもなりうる」とし、「あの土井たか子党首だって野中のことは嫌いじゃないんだ。おタカさんは、亀井(静香)は大嫌いだが、野中とは仲がいい」と発言していた。 2009年、永年の宿敵であった共産党の機関紙『しんぶん赤旗』のインタビューでも平和について語った。このインタビューについて朝日新聞(2009年7月31日)で問われ、「政治の最大の役割は戦争をしないこと。『戦争反対』であれば、どんなインタビューでも受けますよ」と答えている。 もっとも、こうした「平和主義者・野中」といった評価には疑問の声も少なくない。ジャーナリストの黒薮哲哉は、周辺事態法、国旗・国歌法、改正住民基本台帳法、通信傍受法といった法律を「後の軍事大国化につながる」ものであるとし、それらを小渕内閣の官房長官として主導した野中の政治姿勢や、その野中を高く評価する護憲派・左派に疑問を呈している。 松本サリン事件の被害者でありながら加害者扱いされた河野義行に対して「人間として政治家として心から申し訳なくお詫びしたい」と謝罪したことや、重度身体障害者療養施設や重度身体障害者授産施設を自ら設立・運営していることなどから野中の姿勢は、魚住昭や後述の後藤謙次などから「弱者への眼差し」と呼ばれる。松本サリン事件で重度の後遺症を持つことになった河野の妻を自ら運営する施設に受け入れる意思があることも話した。しかし、河野は仕事の関係で長野県から移動できないため、野中の施設の管理者が長野県内の施設を紹介した。このことに感謝した河野は、野中へ長野県産のリンゴを贈り続けていた。 佐高信は、魚住の著書『野中広務 差別と権力』の解説で、「ハンセン病訴訟の元患者や弁護団が最も頼りにしたのが実は野中であり、官房長官時代に原告や弁護団に会い、国の責任を事実上認めた野中に、彼らは『痛みのなかに身体をおけるひと』と賛辞を惜しまないという」と書いた。事実、野中が政界から引退を表明した直後、ハンセン病訴訟全国原告団協議の会長、会長代理、副会長及び事務局長、全国ハンセン病療養所入所者協議会長の連名で「議員引退の撤回を求める緊急要請書」が野中に届けられた。 野中の父は保護司を務め、戦災孤児の収容施設「園部寮」の運営に深く関わっていた。後藤は、野中の自著『私は闘う』の解説で、社会的弱者に注がれる野中の視線は暖かく、そして「弱者に対する眼差し」は決して同情からではなく、生まれ育った環境の中で辛さ苦しみを共有する中で芽生え体に染み付いたものと書いている。 野中は京都府議会議員、京都府副知事時代に自らが被差別部落出身であることを話したことがあったが、地方政治家時代から部落解放同盟などの同和団体とは一線を画しており、京都府議時代には蜷川府政の同和対策事業と部落解放同盟を「一般の人が理解をするものでなければ、新しい差別を呼び起こす」と厳しく批判している。また、京都府副知事時代には小森龍邦をはじめとした部落解放同盟幹部のいる席で「部落問題をダシにして利権あさりをしたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を憎みます。そういう運動を続ける限り、部落解放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返されていくのであります」と発言したこともある。 また、選択的夫婦別姓制度推進にも、2001年に党三役に申し入れを行うなど積極的であった。 時事放談の司会の御厨貴は当番組に野中が出演した際小泉純一郎の話題になった瞬間興奮して余りに過激な批判を口にしてディレクターが「そこまでは」宥めると「何が悪いんや」とさらに怒り大変だったいう。 但し、野中の想定する弱者は被部落差別・障害者・戦災者といった昭和中期までの段階で既に社会に知られていた弱者であり、野中現役時からも問題になっていたシンママ等の昭和末期以降の時代の弱者には冷淡であった事は事実である。 安倍晋三の施政方針演説について、「私が中学生のころ、昭和16年に東条英機首相が大政翼賛会の国会演説のラジオ放送を耳にしたときの感じと変わらない」、「重要な部分に触れないで、非常に勇ましい感じで発言された」と述べた。また、安倍の沖縄県・辺野古への米軍基地移転をめぐる姿勢については、「沖縄を差別しないために政治生命を懸けてきた一人として、絶対に許すことができない」「私にとっては、本当に悔しい。死んでも死にきれない」と述べ、「県民の痛みが分からない政治だと思い、強く憤慨している」と批判した。 2014年2月には参議院の調査会に参考人として出席し、議会制民主政治は機能不全となる、相当危険な事態と懸念を表明。集団的自衛権の行使容認への手法を「非常にせこいやり方で基本を間違えたもの」と厳しく批判、その他、安倍が外交や安全保障、経済政策などで相当に偏った人事でブレーンを集め政策決定をしている事態を批判した。 魚住昭・著『野中広務 差別と権力』 によると、野中は麻生太郎が過去に自身に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日の麻生も同席する自由民主党総務会において、麻生を激しく批判した。 「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会 の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」 NPO法人・多民族共生人権教育センターの第6回2005年度総会で記念講演「いま、日本を憂う」を行った野中は、麻生による差別発言を事実と語っている。また、2006年12月13日、シンポジウム『今こそ部落問題を語る—特別措置法の功罪について考える—』で、講師として招聘された野中が、麻生の差別的発言について語った。それによると、麻生が大勇会の会合で「野中のような部落出身者を日本の総理にしていいのか」と発言し、野中は大勇会会員3名からその発言内容を確認したという。 辛淑玉と共著で2009年に出版した「差別と日本人」(角川新書)では、麻生が「野中やらAやらBは部落の人間だ。だからあんなのが日本の総理になってどうするんだい」発言したと述べた。ただし、麻生の発言に対しては「ある新聞社の記者」から手紙で報告されたとしている。また河野洋平は知らなかったとしていて、過去の発言と細部に異同がある。 2005年2月22日、衆議院総務委員会で、衆議院議員中村哲治が麻生に対し発言の真偽を質したが、麻生は「大勇会の席でその種の発言をしたことはありません」と答弁し、部落差別発言を行ったことはないと主張している。また、「総務大臣に予定されていると言われましたけれども、前の日に自分が何大臣になるかということを知っていた大臣はゼロです」「下を向いて赤くなりもしませんでしたから」と答え、『野中広務 差別と権力』における野中の発言についての記述内容が事実と異なることを指摘している。なお、大勇会での麻生の一連の発言があったという、総務会における野中の発言については「その発言があったことも記憶をいたしておりますし、その種の発言があったことも、現場におりましたのでよく知っております」と麻生は答弁している。 また、麻生事務所は「地元・福岡の炭坑に絡む被差別部落問題についての発言が誤解されて伝わったものだ」と説明しており、週刊現代の取材に対し「衆議院総務委員会で説明しており、それ以上のコメントはない」と回答している。この回答を受けた週刊現代の取材に対し、野中は「事実無根だなんて。その会議(=差別的発言があったとされる大勇会の会合)におった人間が言ってますよ。河野さん(=河野洋平)も言っているし。何人も聞いていることだから、私は言うてる」と発言した。 藤本順一は、この問題には森喜朗内閣の退陣後における橋本派内の内部抗争が絡んでおり、麻生を総理に担ごうとした動きに反対する勢力が石炭六法の廃止に伴う麻生の発言を曲解して流布したことが原因で発生したとしている。 奈良県部落解放同盟支部連合会(いわゆる山下県連。部落解放同盟とは別組織)も民主党奈良県連に(小泉内閣)閣僚差別発言への事実究明を行うよう要望書を提出している。 2004年9月16日全国地域人権運動総連合は根拠を示した上での弁明ではなく、差別発言が事実である可能性がきわめて高いとして、真相究明と責任を問う申し入れを麻生太郎に対して行った。また、この申し入れでは、発言が事実でないのであれば、野中や魚住、講談社などを訴えるべきであるとしているが、麻生側から納得のいく回答は得られておらず、「2004年の段階で(麻生を)国会議員としての資格なし」と判断している。 鈴木宗男は「派閥の定例会見後にボロっと言ったことを記者が聞いてメモを流したものが、議員会館に出回り、ほかの議員もみんな知っていることだ」と発言している。 2009年、ニューヨーク・タイムズ紙のノリミツ・オオニシ記者は、麻生の発言に同席した人物として亀井久興の名前を実名で挙げたが、発言自体は英訳のこともあり抽象的になっている。--「“Are we really going to let those people take over the leadership of Japan?” Mr. Aso said, according to Hisaoki Kamei, a politician who attended the meeting.」(By NORIMITSU ONISHI Published: January 15, 2009) 朝日新聞編集委員の坪井ゆづるが同紙2009年6月20日付に掲載した「政治コラム 政態拝見」によると、坪井が約10人の「現場に居合わせた議員を取材」した結果「差別発言はあった」と認めた議員が2人。「野中さんや別の衆院議員の名前もあげて『表に出てはいけない連中が表に出て大きな顔をしている』という趣旨だった」「雑談の中で大声で話した」などと主張した。その他のほとんどの議員は否定し「麻生さんが野中さんの総裁選出馬に否定的だった話に尾ひれがついた」という解説が多かったという。 にんげん出版代表の小林健治によると、部落解放同盟中央本部はこの麻生発言に対して一切抗議せず、「秘密裡に“手打ち式”が行われた」という。 野中の地元でもある京都府中部にはマンガンを始めとする多くの鉱山 があった。そこでは、朝鮮半島出身の労働者 が働いていた。野中の実家は、鉱山から逃げてきた朝鮮人労働者をかくまっていたという。また、少年時代の野中の子守をしたのは、朝鮮人女性だった。野中は「朝鮮半島から連れて来られた人たちが虐待を受けた姿を何度も見てきた。僕には大へんひどい目にあわせたという罪悪感がある。そういうものを我々が生きとる間に払拭して、朝鮮半島との信頼関係をつくっておきたいんや」と語っている。 野中は中選挙区時代、北朝鮮からの入港隻数が国内最多であり、主要貿易相手国とする舞鶴港のある舞鶴市を含む旧京都2区を選挙区としていた。したがって、舞鶴市の経済発展に鑑みると北朝鮮との関係改善が必要であった。事実、特定船舶入港禁止法に基づく北朝鮮籍の船舶入港禁止において、舞鶴市を中心とする周辺地区に経済的影響があるのではないかと心配する声もあったため、京都府や舞鶴市、舞鶴商工会議所等によって緊急対策会議が開催された。 1999年(平成11年)3月23日に発生した北朝鮮の不審船による能登半島沖不審船事件において官邸対策室ではこれを受けて海上警備行動発令へと傾いたが、内閣官房長官だった野中が発令しないよう官邸に圧力をかけ、不審船の追跡打ち切りの方向へと向かわせた。 1990年、金丸訪朝団(自民党団長金丸信、日本社会党団長田辺誠のほか、石井一、武村正義などの議員が参加。野中自身によると「四回生議員の平社員」として参加)の一員として北朝鮮を初めて訪問。逓信委員会に所属していたため、日本と北朝鮮間の通信網の整備、IAEAの核査察を北朝鮮が受け入れることの要求を担当した。この金丸訪朝団における交渉では、北朝鮮による日本人拉致問題を全く取り上げられておらず、この時点における北朝鮮に対する見方を「まだ非常に甘かった」と認め、また、1988年当時の梶山静六自治大臣・国家公安委員会委員長が日本共産党の橋本敦参議院議員の質問に対して「北朝鮮の拉致の声が濃厚」と政府内の指摘があったにも関わらず、早期に触れることができなかったことを残念であるとしている。 1997年11月、森訪朝団(森喜朗団長のほか中山正暉、関根則之、小野清子以上自民党。伊藤茂、大脇雅子、田英夫以上社民党。新党さきがけ・堂本暁子)の一員として訪朝。北朝鮮側は「拉致などありえない」、「拉致があるとすれば南(韓国)じゃないか。金大中大統領は、まさしく日本から拉致されたんじゃないか(金大中拉致事件)。だからあなた方は同じ朝鮮半島で、南のトップが拉致されているのに、何をもって証拠にわれわれに言うんだ」と主張した。その夜、野中は盗聴をされているのをおりこみ済みで、百花園迎賓館で と話した。翌朝午前6時、朝鮮労働党アジア太平洋委員会の宋浩京が野中を訪れ、「拉致問題は、拉致では受け入れられない。行方不明者という呼び方で拉致7件10名の名簿を預かって、朝鮮赤十字会での調査」を提案してきたため、森及び外務省の槙田邦彦審議官と相談を行い、槙田審議官が「行方不明でも結構です。拉致事件についてとにかく調査しようと足がかりできたら大きな収穫です」と野中に話した。 「拉致疑惑があるから食糧は送るなとの意見は強いが、(北朝鮮とは)従軍慰安婦や植民地、強制連行があった。近くて近い国にしたい。日本はコメが余っているのに隣人を助けることができないのは恥ずかしい。壁を破ってでも食糧援助をすべきだと思って環境整備をしている。」 「隣国が困っているのに援助せず、心を通わせないで、拉致疑惑をはじめとする問題が解決するか。」 (2000年3月、日本政府の北朝鮮へのコメ10万トン支援決定に対し、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会らが家族会自由民主党本部で座り込みの抗議をしたことに対して)「日本人の拉致問題を解決しないでコメ支援はけしからんというが、日本国内で一生懸命、吠えていても、横田めぐみさんは帰ってこない。」 野中は2008年4月17日、中国共産党中央対外連絡部部長王家瑞との会談の席でチベット問題に触れて「胡錦濤総書記をはじめ、中国政府の指導者は日本との関係発展を非常に重視している。チベット問題は中国の内政であり、われわれはこの問題を利用した オリンピック大会のボイコットと破壊に反対する」と発言している。 2008年12月13日、東京都内で市民団体が開催した「南京事件71周年集会」で、野中は1971年に後援会の人々と南京を訪れた際、日本軍兵士だったという1人が「女子供を百数十人も殺した」と告白したエピソードを紹介し、「非人間的な事態があったことを知ることができた」とし「国の将来を思う時、歴史に忠実でなければならない」と主張した。 2012年9月、中国CCTVの取材に対し、尖閣諸島をめぐり日中両国間で緊張が高まっていることについて、「こんな不幸な事件が起きたのは、まったく日本の人間として恥ずかしい。中国の皆さんに大変申し訳ない」と謝罪した。また、日本側の歴史認識について、「長い間戦争で多くの犠牲を残し、今なお傷跡が癒えていないその中国に対して、歴史を知らない若い人たちはそういうことを抜きにしてひとつの対等の国としてやっているんです。それは間違っています」と述べた。 2010年9月29日、中国建国記念レセプションに出席した。 北朝鮮政府と密接な関係にある朝鮮総連と親しく、総連の外交部門を担う国際局出身で後に総連のトップになる許宗萬と社会党の田辺誠、自民党の金丸信、山崎拓、加藤紘一と共に日本の政治家の中で北朝鮮と特に親しかった 韓国人に対する関心が多いのは、幼児期に本人と妹を韓国人(朝鮮人)女性が世話をしたためであり、そのためコリアンに対する愛情が深い。 東アジアの平和と在日同胞のための努力が認められ、2014年5月9日に崇実(スンシル)大で名誉博士学位を受けた。学位の授与は日本で在日同胞高齢者を世話するボランティア団体「こころの家族」の斡旋で行われた。 国家公安委員会委員長だった1994年に、当時野党政治家だった金大中元大統領に対して韓国中央情報部が犯した金大中拉致事件のための質問などを警察の幹部を呼んで直ぐに止めさせた。その後、官房長官だった1998年に金大中-小渕の日韓共同声明の件で訪韓して金大統領に会ったところ、『あの時は本当に世話になった』と言われた。 村上誠一郎は官房長官在職時の野中を「野中官房長官は小さい魚を食べる大きな魚だ。大魚は小魚を食べる時、パクッとやって、小骨を吐き出す。それが野中さんのやり方。だが、今回の『自自』は小沢さんという大骨がひっかかって、なかなか吐き出せないでいる」と評した。 野中は国会議員としては遅咲きであったため、当選回数でみて村岡らの橋本派の他の幹部と比較して少ない。しかも、野中の初当選が補選であったことから、当選回数が同数の者(例えば古賀誠)に比べても、野中のほうが国会議員歴は短い。それだけに、原則的に年功序列であったかつての自民党において野中がいかに際だった「叩き上げ」だったかがわかる。また、古賀を含めて亀井静香、鈴木宗男など協力関係にあった人物にも「叩き上げ」が多い。 自民党幹事長代理として仕えた加藤紘一幹事長に心酔し、小渕政権で加藤が反主流化するまで「加藤を総理にする」との姿勢を示していたことから、「野中はキングメーカーまで狙っている」と評された。 「士志の会」を主宰する古賀誠とは同期当選ながら師弟関係にある。また、2度総裁選に出馬している亀井静香、鈴木宗男、茂木敏充、野田聖子、さらに麻生太郎を親しく期待していた。 1983年の衆議院旧京都2区補欠選挙の直前に京都財界の有志企業から届けられた政治献金を返上した。このとき、秘書と当時の京都府議会議員の西田吉宏(後の参議院議員)が、当時の京都商工会議所会頭であった塚本幸一が社長を務めるワコール本社まで返上に出向いたことが京都政財界の話題となった。 衆議院議員在職中に東京での自宅や個人事務所を持たず、政治資金集めのためのパーティーを一度も開催したことはない。 2010年4月30日、小渕内閣官房長官当時の官房機密費の取り扱いについて「毎月5千万から7千万円くらいは使っていた」と発言した。与党内の国会対策などだけではなく、政治評論家や当時の野党議員にも配っていたという。さらに、「前の官房長官から引継いだノートに政治評論家も含め、ここにはこれだけ持っていけと書いてあった。持っていって断られたのは田原総一朗さん一人」と続け、与野党問わず、何かにつけて機密費を無心されたこともあったと明かした。 自身が最高顧問たる自由同和会京都府本部の会長の上田藤兵衛との関係が取り沙汰され、「野中の口利きで上田や傘下の建設組合が公団や役所から工事を受注して儲けている」との記事が『噂の眞相』2001年5月号に出たことがあるが、野中はこの報道を事実無根として名誉毀損で同誌ならびに編集発行人の岡留安則を提訴し、2003年に最高裁で『噂の眞相』が敗訴、350万円の損害賠償が認められた。 阪神タイガースのファンである。2003年6月16日、大阪で行われた講演で星野仙一監督が率いるタイガースの独走について、出席者から「優勝は間違いないですな」と言われた。野中は「そう言われると不安になる。これから悪い潮目が来たらかなわん」と、優勝を期待しながらも不安にさいなまれるファン心理を吐露して会場を沸かせた。 酒は飲まず、煙草も吸わない。かつては酒を飲み煙草を吸っていたが、園部町長に就任したのをきっかけに禁酒し、友人の死をきっかけに禁煙。 歌手の松山千春と雑誌で対談なども行なっている。 フジテレビのコント番組『笑う犬の冒険』では、自民党幹事長時代の野中をモデルとしたコント「ひろむちゃん」が放送されていた事があり、ひろむちゃんは名倉潤(ネプチューン)が演じていた。後に同じフジテレビ制作の『鶴瓶と南原、新・平成日本のよふけ』に野中がゲスト出演した際には、前述のコントについて知っているとMCの南原清隆に語ったことがある。 親しい人からの愛称はノーさん 。 健康を守る秘訣として、毎晩のように足裏をハンマーで叩いている。 最高の総理大臣として村山富市を挙げている。野中は社会党の山口鶴男と会談を行うなど自社さ政権成立に尽力した一人であり、村山内閣で自治大臣・国家公安委員会委員長として初入閣し1995年のオウム真理教事件や全日空機ハイジャック事件の対応に当たった。1999年12月に村山訪朝団の副団長を務めるなど、自民党と社民党が与野党に分かれて以降もたびたび村山と政治活動を共にしている。 野中家の菩提寺である園部町の真宗大谷派玉光山本福寺の境内には野中の功績を綴った石碑が建てられている。 尖閣諸島紛争はどう解決するべきかとの質問に対し、「現日本政権は受け入れないだろうが、個人的には両政府が共同出資した特別財団を設立し、周辺の地下資源を共同で開発するのが解決策になる」 と述べた。 2002年11月3日 勲一等旭日大綬章 日朝友好議員連盟 1女。
弟・野中一二三(のなか かずみ、1931年5月8日 - 2024年3月31日)元園部町長、社会福祉法人経営(広務とは別法人) 甥・野中一秀(のなか かずひで)元南丹市議 『私は闘う』 文藝春秋 1996年5月 ISBN 4163515909 『老兵は死なず 野中広務全回顧録』 文藝春秋 2003年12月 ISBN 4163656405/文春文庫、2005年12月 野村克也・野中広務『憎まれ役』文藝春秋、 2007年10月。ISBN 4163695508。 辛淑玉・野中広務『差別と日本人』角川グループパブリッシング、2009年6月。ISBN 4047101931。 野中広務 著、御厨貴、牧原出 編『聞き書 野中広務回顧録』岩波書店、2012年6月28日。ISBN 978-4000018210。 CiNii収録論文 国立情報学研究所 ^ ただし、国政進出後からは公言したことはなかった。 ^ 角岡伸彦は著書『はじめての部落問題』で『野中広務 差別と権力』からこの事件の記述を引用し、「野中が小泉首相も出席した総務会で差別発言を指弾したにもかかわらず、不幸にも、麻生(福岡8区選出)はその直後、部落差別の担当官庁である総務省の大臣に就任した。泥棒が警察官になるようなもので、これほど不適切な大臣登用はない。麻生は後に、衆議院総務委員会でこの問題を追及されたとき、「そのような発言をしたことは全くありません」と事実を否定している。ではなぜ、野中に指弾された総務会の席上で「何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった」のか、不可解である。その後、この問題発言は、うやむやになってしまった。しかし、部落出身という理由による総理大臣就任阻止の動きがあったとすれば、未遂ではあるが、有権者の代表である国会議員による“就職差別”である。」と解説している。 ^ 『週刊ポスト』は第40巻第44号で「本誌は01年の総裁選当時、大勇会のA議員から“麻生発言”をめぐる混乱の顛末について証言を得ていた。A議員によれば、麻生発言がなされたとされる大勇会の会合の翌日、麻生氏側のB議員が自民党幹事長室に呼ばれたという。「そこには険しい表情をした野中氏が待っていて、前日の会合の議事録のようなメモを突きつけ『麻生が何をいったか全部わかっている。オレは絶対に許さない』と通告したB議員は真っ青になって派閥に戻り、経緯を報告した」という内容だった。」と報じている。 ^ 先日、多民族共生人権教育センターの総会が開かれ、その記念講演で野中広務さんに来て頂きました。野中さんは「まさか、私が大阪人権センターに呼んで頂けるとは」と言っておられました。その懇親会の席で、私は『野中広務 差別と権力』(魚住昭著)に書かれている麻生太郎の差別発言について「あれは本当なんですか」と直接聞きました。実は部落解放同盟の中央大会でも、このことについて意見が出され、「解放同盟としては現在、事実確認ができていない」と答えていたからです。野中さんは「差別発言は本当です。次の選挙では、私は麻生の地元に入る。解放同盟も行動を起こすべきだ」と言われました。彼は、自身と部落解放同盟には考え方の違いはあるとした上で、部落差別が未だ根深いという認識は一致できるとして「差別をなくしていくためにも部落解放運動の中で、もっとエセ同和の問題に取り組んで欲しい。できたら自分の問題(麻生発言)も取り組んで欲しい」と言われました。 ^ 上杉隆によると、藤本は麻生の著書『とてつもない日本』の編集にかかわり、麻生と同じ福岡・筑豊の出身、麻生選対のあった「ホテルオークラ東京」のペントハウスで連日取材をしていた政治ジャーナリストだという。 ^ 「石炭六法は終わるが、旧産炭地が置かれた状況は変わらない。同和対策や在日朝鮮人の問題など政治的な責任はなくならない」 ^ 野中は『老兵は死なず 野中広務全回顧録』等の著書では強制連行された朝鮮半島の「人びと」や「人たち」としている。 ^ 2014年5月の韓国メディアによるインタビューに答えたもの。当時は安倍晋三政権。 ^ “野中広務氏が死去 元官房長官、92歳”. 日本経済新聞 (2018年1月26日). 2020年7月28日閲覧。 ^ 野中元官房長官死去、92歳 - 時事通信社2018年1月26日 ^ 魚住昭 2004, pp. 49–51. ^ 魚住昭 2004, pp. 56–59. ^ 魚住昭 2004, pp. 65–67. ^ 野中広務「今、日本を憂う」『野中広務・元自治相 (特別参加): 全国知事リレー講座 : 大学新時代 : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)』読売新聞、2004年7月5日 ^ 魚住昭 2004, pp. 143–144. 京都新聞の元政経部長笹井慈朗によると、野中が「反蜷川の闘士」として売り出した後も、彼と蜷川との信頼関係は続いていたという ^ 世界人権問題研究センター(編集)。上田正昭(監修)『京都人権歴史紀行』人文書院,1998年,66から68頁 ^ 『国会便覧 昭和62年8月新版』(第76版)日本政経新聞社、1987年9月1日、333-336頁。 ^ 文藝春秋2018年二月号、~竹下から安倍まで~ 総理17人のベスト3 御厨貴/後藤謙次、168頁 ^ 海野 2002. ^ 『野中広務 権力の興亡 90年代の証言』 ^ 藤田直央「課長になり高揚も束の間の防衛庁18年目 野中官房長官の叱責、初の臨界事故も起き…」『論座』、朝日新聞社、2021年3月11日、2023年1月30日閲覧。 ^ 『平成政治史 2』, pp. 162–163. ^ 『平成政治史 2』, p. 169. ^ “石原氏、村山元首相、野中元官房長官…超ベテラン「円卓会議」 - MSN産経ニュース” (日本語). 石原氏、村山元首相、野中元官房長官…超ベテラン「円卓会議」. 産経デジタル (2013年6月30日). 2013年6月30日閲覧。 ^ 円卓会議:超党派政治家集結、仙谷氏が参加−−東京 /徳島 - 毎日新聞社 2013年7月1日 ^ 野中広務氏が死去、92歳 官房長官や自民党幹事長を歴任 - 産経ニュース2018年1月26日 ^ “野中広務氏に正三位”. 朝日新聞. 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(2011年4月14日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS14021_U1A410C1PE8000/ 2021年11月13日閲覧。 ^ 野中氏の自民復党を決定…民主政権下、自ら離党 - 読売新聞2016年6月13日 ^ 『私は闘う』 ^ 『老兵は死なず 野中広務全回顧録』。この体験談は、1997年4月11日の衆議院特別委員会でも前置きとして語った。 ^ 松田 2003. ^ なお、『しんぶん赤旗』は、2012年にも加藤紘一に慰安婦について、2013年にも古賀誠に憲法についてインタビューを行っている。 ^ “野中広務の消えぬ汚点-新ガイドライン関連法、国旗・国歌法、改正住民基本台帳法、そして盗聴法 | MEDIA KOKUSYO”. 2021年10月6日閲覧。 ^ 野田聖子「選択的夫婦別姓制度」2001年11月6日 ^ 文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋2018年二月号、~竹下から安倍まで~ 総理17人のベスト3 御厨貴/後藤謙次、171頁 ^ 「野中氏、首相を叱る 沖縄の痛み分からぬ政治に憤慨 戦争は絶対にやってはならない TBS番組」、しんぶん赤旗、2015年2月16日 ^ 「時事放談」、TBS、2015年2月15日放送 ^ テレ朝NEWS 野中広務氏 政権運営「相当危険な状態」と懸念(2014/02/19 19:07) ^ 魚住昭 2004, pp. 384–386, 391–393 ^ 部落解放同盟大阪府連合会書記長、北口末広近畿大学教授『大阪市人権協会mews』NO.22, 2005年6月15日 ^ 都市共生社会研究分野主催シンポジウム『今こそ部落問題を語る—特別措置法の功罪について考える— ^ 第162回国会 総務委員会 第3号平成十七年二月二十二日(火曜日) ^ 『週刊現代』49巻1号、講談社、2007年1月13日。ただし「河野さんも言っている」という主張と異なる記述を2009年出版の「差別と日本人」ではしている ^ ダイヤモンド・オンライン『週刊 上杉隆』【第46回】2008年09月25日 ^ 鈴木宗男・上杉隆と藤本の対談「総裁選『迷走』の根源」(『週刊朝日』2008年9月26日号 p.24) ^ 閣僚差別発言への要望書 ^ 麻生総務大臣の「部落差別」発言について ^ 麻生総務大臣への申し入れ全文 ^ 『週刊朝日』2008年9月26日号 p.24 ^ 連載差別表現 第156回 日の丸・君が代問題をめぐるひとつのエピソード ^ 丹波マンガン記念館 ^ ふらっと—特集 戦後60年と人権 野中広務さん ^ 民団新聞2006年12月6日、<在日から見える社会> - 在日本大韓民国民団 ^ 対北朝鮮輸入禁止等に伴う緊急対策会議 - 京都府 ^ 平成11年版海上保安白書 ^ 海上警察機関による実力行使,廣瀬肇,周辺諸国との新秩序形成に関する調査研究事業報告書 -海上保安国際紛争事例の研究 第1号- ^ 能登半島沖の不審船事案と防衛庁の対応 ^ 瀧野隆浩 『自衛隊指揮官』 講談社、2002年1月 ^ 瀧野隆浩 『自衛隊指揮官』 講談社〈講談社+α文庫〉、2005年8月 ^ 『老兵は死なず 野中広務全回顧録』 ^ 産経新聞 1998年4月7日 ^ NHK『日曜討論』 1999年12月5日 ^ 『家族』(2003)pp.21-22 ^ “中国共産党対外連絡部長 自民党の野中元幹事長らと会談”. 人民網 (2008年4月18日). 2021年11月13日閲覧。 ^ “後援会員が「殺した」と告白 南京占領71周年で野中氏”. 共同通信社. 47NEWS. 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ウェイバックマシン(2004年9月13日アーカイブ分) 社会福祉法人京都太陽の園 表 話 編 歴 柏原義則 淺利三朗 藥師神岩太郎 松本一郎 篠田弘作 西村英一 久野忠治 佐藤虎次郎 内海安吉 徳安實藏 薩摩雄次 西村直己 堀川恭平 羽田武嗣郎 大倉三郎 加藤高藏 二階堂進 福永一臣 丹羽喬四郎 森山欽司 田村元 森下國雄 加藤常太郎 始関伊平 金丸信 亀山孝一 天野光晴 服部安司 木村武雄 天野光晴 渡辺栄一 北側義一 伏木和雄 北側義一 稲村利幸 村田敬次郎 松永光 浜田幸一 保岡興治 瓦力 村岡兼造 中村喜四郎 野呂田芳成 東家嘉幸 中島衛 桜井新 古賀誠 野中広務 鳥居一雄 遠藤和良 二見伸明 市川雄一 二階俊博 遠藤乙彦 平田米男 大口善徳 井上義久 廃止 表 話 編 歴 原健三郎 辻寛一 松前重義 松井政吉 片島港 淺香忠雄 佐藤洋之助 飯塚定輔 山手滿男 佐藤虎次郎 本名武 加藤常太郎 内藤隆 砂原格 松沢雄蔵 古川丈吉 井原岸高 金子岩三 高橋清一郎 宇田国栄 久保田円次 広瀬正雄 地崎宇三郎 伊藤宗一郎 八百板正 松本七郎 石野久男 小林進 佐藤守良 水野清 左藤恵 志賀節 渡辺紘三 宮崎茂一 深谷隆司 塚原俊平 畑英次郎 田名部匡省 上草義輝 野中広務 谷垣禎一 亀井久興 高橋一郎 自見庄三郎 中川昭一 木村義雄 坂上富男 中沢健次 前田武志 小平忠正 廃止 表 話 編 歴 中村弘毅 井上毅 土方久元 田中光顯 田中光顯 小牧昌業 周布公平 平山成信 伊東巳代治 高橋健三 平山成信 鮫島武之助 武富時敏 安広伴一郎 鮫島武之助 柴田家門 石渡敏一 南弘 柴田家門 南弘 江木翼 山之内一次 児玉秀雄 高橋光威 三土忠造 宮田光雄 樺山資英 小橋一太 塚本清治 鳩山一郎 鈴木富士彌 川崎卓吉 森恪 柴田善三郎 堀切善次郎 河田烈 吉田茂 白根竹介 藤沼庄平 大橋八郎 風見章 田辺治通 太田耕造 遠藤柳作 石渡荘太郎 富田健治 星野直樹 三浦一雄 田中武雄 広瀬久忠 石渡荘太郎 迫水久常 緒方竹虎 次田大三郎 楢橋渡 林譲治 林譲治 西尾末広 苫米地義三 佐藤栄作 増田甲子七 岡崎勝男 保利茂 緒方竹虎 福永健司 根本龍太郎 石田博英 愛知揆一 赤城宗徳 椎名悦三郎 大平正芳 黒金泰美 鈴木善幸 橋本登美三郎 愛知揆一 福永健司 木村俊夫 保利茂 竹下登 二階堂進 竹下登 井出一太郎 園田直 安倍晋太郎 田中六助 伊東正義 宮澤喜一 後藤田正晴 藤波孝生 後藤田正晴 小渕恵三 塩川正十郎 山下徳夫 森山眞弓 坂本三十次 加藤紘一 河野洋平 武村正義 熊谷弘 五十嵐広三 野坂浩賢 梶山静六 村岡兼造 野中広務 青木幹雄 中川秀直 福田康夫 細田博之 安倍晋三 塩崎恭久 与謝野馨 町村信孝 河村建夫 平野博文 仙谷由人 枝野幸男 藤村修 菅義偉 加藤勝信 松野博一 林芳正 表 話 編 歴 山中貞則 本名武 坪川信三 小坂徳三郎 植木光教 西村尚治 藤田正明 稲村佐近四郎 三原朝雄 小渕恵三 中山太郎 田邊圀男 丹羽兵助 中西一郎 河本敏夫 藤本孝雄 古賀雷四郎 綿貫民輔 粕谷茂 坂元親男 井上吉夫 阿部文男 砂田重民 木部佳昭 谷洋一 伊江朝雄 北修二 上原康助 佐藤守良 小里貞利 小沢潔 高木正明 岡部三郎 稲垣実男 鈴木宗男 井上吉夫 野中広務 青木幹雄 中川秀直 福田康夫 橋本龍太郎 橋本龍太郎 尾身幸次 細田博之 茂木敏充 小池百合子 高市早苗 岸田文雄 林幹雄 佐藤勉 林幹雄 前原誠司 馬淵澄夫 枝野幸男 川端達夫 樽床伸二 山本一太 山口俊一 島尻安伊子 鶴保庸介 江﨑鐵磨 福井照 宮腰光寛 衛藤晟一 河野太郎 西銘恒三郎 岡田直樹 自見英子 伊東良孝 表 話 編 歴 小沢佐重喜 田村文吉 佐藤栄作 高瀬荘太郎 塚田十一郎 武知勇記 松田竹千代 村上勇 石橋湛山 平井太郎 田中角栄 寺尾豊 植竹春彦 鈴木善幸 小金義照 迫水久常 手島栄 小沢久太郎 古池信三 徳安実蔵 郡祐一 新谷寅三郎 小林武治 河本敏夫 井出一太郎 広瀬正雄 三池信 久野忠治 原田憲 鹿島俊雄 村上勇 福田篤泰 小宮山重四郎 服部安司 白浜仁吉 大西正男 山内一郎 箕輪登 檜垣徳太郎 奥田敬和 左藤恵 佐藤文生 唐沢俊二郎 中山正暉 片岡清一 村岡兼造 大石千八 深谷隆司 関谷勝嗣 渡辺秀央 小泉純一郎 宮澤喜一 神崎武法 日笠勝之 大出俊 井上一成 日野市朗 堀之内久男 自見庄三郎 野田聖子 八代英太 平林鴻三 片山虎之助 竹田儀一 野溝勝 岩本信行 木村小左衛門 木村小左衛門 本多市郎 岡野清豪 岡野清豪 本多市郎 塚田十一郎 西田隆男 川島正次郎 太田正孝 田中伊三次 郡祐一 青木正 愛知揆一 青木正 石原幹市郎 石原幹市郎 山崎巌 周東英雄 安井謙 篠田弘作 早川崇 赤沢正道 吉武恵市 永山忠則 塩見俊二 藤枝泉介 赤沢正道 野田武夫 秋田大助 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 石破二朗 安孫子藤吉 世耕政隆 山本幸雄 田川誠一 古屋亨 小沢一郎 葉梨信行 梶山静六 坂野重信 渡部恒三 奥田敬和 吹田愰 塩川正十郎 村田敬次郎 佐藤観樹 石井一 野中広務 深谷隆司 倉田寛之 白川勝彦 上杉光弘 西田司 野田毅 保利耕輔 西田司 片山虎之助 後藤田正晴 江﨑真澄 玉置和郎 山下徳夫 高鳥修 金丸三郎 池田行彦 水野清 塩崎潤 佐々木満 岩崎純三 鹿野道彦 石田幸四郎 山口鶴男 江藤隆美 中山正暉 中西績介 武藤嘉文 佐藤孝行 小里貞利 太田誠一 続訓弘 片山虎之助 片山虎之助 麻生太郎 竹中平蔵 菅義偉 増田寛也 鳩山邦夫 佐藤勉 原口一博 片山善博 川端達夫 樽床伸二 新藤義孝 高市早苗 野田聖子 石田真敏 高市早苗 武田良太 金子恭之 寺田稔 松本剛明 鈴木淳司 松本剛明 村上誠一郎 表 話 編 歴 辻二郎 青木均一 小坂善太郎 小原直 大麻唯男 大久保留次郎 正力松太郎 青木正 石原幹市郎 山崎巌 周東英雄 安井謙 篠田弘作 早川崇 赤沢正道 吉武恵市 永山忠則 塩見俊二 藤枝泉介 赤沢正道 荒木万寿夫 中村寅太 木村武雄 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 石破二朗 安孫子藤吉 世耕政隆 山本幸雄 田川誠一 古屋亨 小沢一郎 葉梨信行 梶山静六 坂野重信 渡部恒三 奥田敬和 吹田愰 塩川正十郎 村田敬次郎 佐藤観樹 石井一 野中広務 深谷隆司 倉田寛之 白川勝彦 上杉光弘 西田司 野田毅 保利耕輔 西田司 伊吹文明 村井仁 谷垣禎一 小野清子 村田吉隆 沓掛哲男 溝手顕正 泉信也 林幹雄 佐藤勉 林幹雄 中井洽 岡崎トミ子 中野寛成 山岡賢次 松原仁 小平忠正 古屋圭司 山谷えり子 河野太郎 松本純 小此木八郎 山本順三 武田良太 小此木八郎 棚橋泰文 二之湯智 谷公一 松村祥史 坂井学 表 話 編 歴 岸信介 三木武夫 川島正次郎 福田赳夫 川島正次郎 益谷秀次 前尾繁三郎 三木武夫 田中角栄 福田赳夫 田中角栄 保利茂 橋本登美三郎 二階堂進 中曽根康弘 内田常雄 大平正芳 斎藤邦吉 櫻内義雄 二階堂進 田中六助 金丸信 竹下登 安倍晋太郎 橋本龍太郎 小沢一郎 小渕恵三 綿貫民輔 梶山静六 森喜朗 三塚博 加藤紘一 森喜朗 野中広務 古賀誠 山崎拓 安倍晋三 武部勤 中川秀直 麻生太郎 伊吹文明 麻生太郎 細田博之 大島理森 石原伸晃 石破茂 谷垣禎一 二階俊博 甘利明 茂木敏充 森山裕 表 話 編 歴 芦田均 太田典礼 中野武雄 大石ヨシエ 奥村竹三 芦田均 大石ヨシエ 前尾繁三郎 中野武雄 河田賢治 芦田均 柳田秀一 前尾繁三郎 大石ヨシエ 中野武雄 田中好 芦田均 前尾繁三郎 柳田秀一 大石ヨシエ 芦田均 前尾繁三郎 岡本隆一 川崎末五郎 柳田秀一 前尾繁三郎 柳田秀一 芦田均 岡本隆一 川崎末五郎 前尾繁三郎 柳田秀一 岡本隆一 谷垣専一 玉置一徳 前尾繁三郎 玉置一徳 岡本隆一 柳田秀一 谷垣専一 前尾繁三郎 谷垣専一 柳田秀一 玉置一徳 岡本隆一 寺前巌 前尾繁三郎 柳田秀一 西中清 谷垣専一 山田芳治 寺前巌 谷垣専一 前尾繁三郎 玉置一徳 寺前巌 西中清 前尾繁三郎 山田芳治↓ 玉置一徳↓ 谷垣専一↑ 玉置一弥↑ 寺前巌 玉置一弥 谷垣専一 西中清 山田芳治 前尾繁三郎↓ 谷垣専一↓ 玉置一弥 寺前巌 西中清 谷垣禎一↑ 野中広務↑ 野中広務 谷垣禎一 西中清 玉置一弥 山中末治 寺前巌 野中広務 谷垣禎一 西中清 玉置一弥 山中末治 野中広務 谷垣禎一 寺前巌 西中清 寺前巌 野中広務 山名靖英 谷垣禎一 豊田潤多郎 表 話 編 歴 伊吹文明 平智之 伊吹文明 勝目康 奥田幹生 前原誠司 寺前巌 奥山茂彦 泉健太 宮崎謙介 泉健太 野中広務 田中英夫 中川泰宏 北神圭朗 田中英之 北神圭朗 谷垣禎一 本田太郎 玉置一弥 菱田嘉明 山井和則 安藤裕 山井和則 表 話 編 歴 …じゃあ〜りませんか チャーリー浜 「うれしいような、かなしいような」「はだかのおつきあい」 きんさんぎんさん Jリーグ 川淵三郎(Jリーグチェアマン) すったもんだがありました 宮沢りえ / イチロー(効果) イチロー(オリックス・ブルーウェーブ) / 同情するならカネをくれ 安達祐実 無党派 青島幸男(東京都知事) / NOMO 野茂英雄(ロサンゼルス・ドジャース) / がんばろうKOBE 仰木彬(オリックス・ブルーウェーブ監督) 自分で自分をほめたい 有森裕子(マラソン選手) / 友愛 / 排除の論理 鳩山由紀夫(民主党代表) / メークドラマ 長嶋茂雄(読売ジャイアンツ監督) 失楽園(する) 渡辺淳一、黒木瞳 ハマの大魔神 佐々木主浩(横浜ベイスターズ) / だっちゅーの パイレーツ(お笑い芸人) ブッチホン 小渕恵三(内閣総理大臣) / リベンジ 松坂大輔(西武ライオンズ) / 雑草魂 上原浩治(読売ジャイアンツ) おっはー 慎吾ママ / IT革命 木下斉(商店街ネットワーク社長・早稲田大学高等学院三年) 「小泉語録」(米百俵・聖域なき構造改革・恐れず怯まず捉われず・骨太の方針・ワイドショー内閣・改革の「痛み」) 小泉純一郎(内閣総理大臣) タマちゃん 佐々木裕司(川崎市民)、黒住祐子(フジテレビ・レポーター) / W杯(中津江村) 坂本休(中津江村・村長) 毒まんじゅう 野中広務(元衆議院議員) / なんでだろ〜 テツandトモ(お笑いグループ) / マニフェスト 北川正恭(早稲田大学教授) チョー気持ちいい 北島康介(競泳選手) 小泉劇場 武部勤(自由民主党幹事長)ほか / 想定内(外) 堀江貴文(ライブドア社長) イナバウアー 荒川静香(プロスケーター) / 品格 藤原正彦(数学者) (宮崎を)どげんかせんといかん 東国原英夫(宮崎県知事) / ハニカミ王子 石川遼(アマチュアゴルフ選手) グ〜! エド・はるみ / アラフォー 天海祐希 政権交代 鳩山由紀夫(内閣総理大臣) ゲゲゲの - 武良布枝(『ゲゲゲの女房』作者) 表 話 編 歴 麻原彰晃(松本智津夫) 井上嘉浩 遠藤誠一 土谷正実 中川智正 新実智光 早川紀代秀 岡崎一明(佐伯一明、宮前一明) 豊田亨 端本悟 林泰男(小池泰男) 広瀬健一 横山真人 北村浩一 高橋克也 外崎清隆 中村昇 林郁夫 杉本繁郎 青山吉伸 荒木浩 飯田エリ子 石井紳一郎 石井久子 石川公一 大内早苗 大内利裕 鹿島とも子 河上イチロー 菊地直子 北澤優子 岐部哲也 越川真一 上祐史浩 杉浦茂 滝澤和義 田下聖児 富田隆 富永昌宏 永岡辰哉 中田清秀 二ノ宮耕一 野田成人 長谷川茂之 平田悟 平田信 広末晃敏 藤永孝三 松下悟史 松本聡香 松本剛 松本知子 松本麗華 都沢和子 村井秀夫 村岡達子 山形明 山本まゆみ 渡部和実 在家信者死亡事件 男性信者殺害事件 坂本堤弁護士一家殺害事件 石垣島セミナー 女性信者殺害事件 国土利用計画法違反事件 オカムラ鉄工乗っ取り事件 男性信者逆さ吊り死亡事件 亀戸異臭事件 サリンプラント建設事件 池田大作サリン襲撃未遂事件 薬剤師リンチ殺人事件 自動小銃密造事件 宮崎県資産家拉致事件 滝本太郎弁護士サリン襲撃事件 薬物密造事件 松本サリン事件 男性信者リンチ殺人事件 江川紹子ホスゲン襲撃事件 駐車場経営者VX襲撃事件 ピアニスト監禁事件 会社員VX殺害事件 被害者の会会長VX襲撃事件 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件 島田裕巳宅爆弾事件 東京総本部火炎瓶事件 地下鉄サリン事件 村井秀夫刺殺事件 4月15日予言 新宿駅青酸ガス事件 都庁小包爆弾事件 宗教法人オウム真理教解散命令事件 観念崩壊セミナー TBSビデオ問題 破壊活動防止法問題 日本テレビ長官狙撃自白報道 ソフト開発業務受注問題 シガチョフ事件 警察庁長官狙撃事件 横浜駅異臭事件 全日空857便ハイジャック事件 全日空61便ハイジャック事件 農水省オウムソング事件 パソコン遠隔操作事件 モスクワ支部 真理党 サティアン 富士清流精舎 コスモクリーナー 附属医院 陸上競技部 キーレーン 長老部 Aleph ケロヨンクラブ ひかりの輪 山田らの集団 サマナ ホーリーネーム 階級制度 オウム服 プルシャ オウム食 教団の修行 PSI(ヘッドギア) 温熱療法 ダーキニー クンダリニー クンダリニー・ヨーガ ポア ヴァジラヤーナ 教団の国家転覆計画 日本シャンバラ化計画 省庁制 基本律 白い愛の戦士 教団の兵器 マハーポーシャ うまかろう安かろう亭 オウム真理教放送 オウム・ダイヤル 教団の音楽 尊師マーチ 教団のアニメ オウムシスターズ 団体規制法 オウム真理教財産特別措置法 オウム真理教債権特例法 サリン防止法 オウム被害者救済法 足立区アレフ規制条例 アンダーグラウンド 約束された場所で 黄泉の犬 カナリア A A2 青沼陽一郎 浅見定雄 阿部三郎 有田芳生 アンソニー・トゥ 池田昭 伊東乾 伊藤芳朗 宇都宮健児 江川紹子 遠藤誠 大田俊寛 紀藤正樹 木村晋介 河野義行 小林よしのり 坂本堤 島田裕巳 下里正樹 徐裕行 滝本太郎 竹内精一 田原総一朗 ダンテス・ダイジ 筑紫哲也 常石敬一 苫米地英人 永岡弘行 中沢新一 永沢哲 西田公昭 野中広務 村山富市 亀井静香 二木啓孝 降幡賢一 牧太郎 村上春樹 森達也 安田好弘 横山昭二 カル・リンポチェ 磯崎洋三 上九一色村 波野村 カナリヤの会 報道特別番組 アーレフタブー 破壊活動防止法 公安調査庁 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イスラエル アメリカ 日本 韓国 CiNii Books CiNii Research 平成時代の閣僚 日本の内閣官房長官 日本の自治大臣 日本の国家公安委員会委員長 沖縄開発庁長官 自由民主党幹事長 自由民主党の衆議院議員 京都府選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 平成時代の衆議院議員 園部町長 京都府議会議員 園部町議会議員 京都府副知事 正三位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 円卓会議の人物 日本国有鉄道の人物 郵便に関する人物 オウム真理教事件に関連する人物 日本の自然保護活動家 自由同和会 鈴木宗男 立命館大学の教員 平安女学院大学の教員 京都府立園部高等学校出身の人物 京都府出身の人物 1925年生 2018年没 外部リンクがリンク切れになっている記事/2021年11月 プロジェクト人物伝項目 2024/11/19 22:25更新
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