もしもし情報局 > 1935年 > 6月23日 > ジャーナリスト、ニュースキャスター

筑紫哲也の情報 (ちくしてつや)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

筑紫哲也の情報(ちくしてつや) ジャーナリスト、ニュースキャスター 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

筑紫 哲也さんについて調べます

■名前・氏名
筑紫 哲也
(読み:ちくし てつや)
■職業
ジャーナリスト、ニュースキャスター
■筑紫哲也の誕生日・生年月日
1935年6月23日 (年齢73歳没)
亥年(いのしし年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
大分出身

(昭和10年)1935年生まれの人の年齢早見表

筑紫哲也と同じ1935年生まれの有名人・芸能人

筑紫哲也と同じ6月23日生まれの有名人・芸能人

筑紫哲也と同じ出身地大分県生まれの有名人・芸能人


筑紫哲也と関係のある人

磯崎洋三: 筑紫哲也『ニュースキャスター』集英社新書、2002年6月。


進藤晶子: 筑紫哲也 NEWS23(TBSテレビ)スポーツキャスター


安住紳一郎: 真実の衝撃!筑紫哲也 安住紳一郎の報道2007(2007年12月15日)


きんた・ミーノ: 2007年10月30日放送の毎日放送『VOICE』と11月12日放送のTBSテレビ『筑紫哲也 NEWS23』において、おかげ様ブラザーズ復活の過程が特集された。


田中和泉: 筑紫哲也『ニュースキャスター』集英社新書、2002年6月。


福岡政行: (筑紫哲也)『「志」の開拓者たちよ!――「民」が起こす日本革命』(日本経済新聞社, 2001年)


与那原恵: 「迷惑な沖縄愛」(『別冊宝島Real056『筑紫哲也「妄言」の研究―『News23』、その印象操作&偏向報道の作られ方』、2004年1月6日、宝島社)に寄稿。与那原は「迷惑な沖縄愛 悲劇の島、癒しの島というステレオタイプー筑紫哲也のような、平和、人権を唱えるタイプの人間が興味を抱きつづける場所は『沖縄』である。


高田渡: 葬儀のミサはカトリック吉祥寺教会で執り行われ、筑紫哲也が葬儀委員長を務めた。


椎名林檎: それに先駆けて、アルバムのプロモーションのためにTBSの報道番組「筑紫哲也 NEWS23」内のコーナー「金曜深夜便」(2月21日放送)に録画で出演し、メインキャスターの筑紫哲也と対談。


安孫子真哉: 11月30日にTBSの報道番組『筑紫哲也 NEWS23』内の金曜深夜便コーナーに生出演し、『光』を生演奏。


田中和泉: NEWS23キャスターの筑紫哲也は、他の企業は批判してきたのに、これを見過ごしたら局の信用が傷つくだけでなく、番組への信頼性も崩壊すると思い、普段の流儀を捨てて、スタッフに集まってもらい、番組生命の危機であるという自分の認識を伝え、それに基づいた番組を作った。


北村浩一: 筑紫哲也


山田玲奈: 筑紫哲也 NEWS23 - お天気コーナー(TBS、2005年3月〜2006年9月22日)


河野明子: テレビ朝日 - ANN - ANNニュース - オフィス・トゥー・ワン - 金曜チェック - ニュースシャトル - ナイトライン - 600ステーション - ステーションEYE - スーパーJチャンネル - チェック・ザ・ステーション - 筑紫哲也 NEWS23(筑紫哲也


浜尾朱美: TBSの報道番組『筑紫哲也ニュース23』では、1989年10月2日の番組スタート時から1997年9月までの8年間サブキャスターを担当した。筑紫哲也が亡くなった日である2008年11月7日放送の『NEWS23』においてVTRではあるが久しぶりに出演、筑紫の死を悼んだ。


おすぎ: 筑紫哲也 NEWS23(TBS)「おすぎと哲也の映画紹介」:金曜版NEW23のコーナーとして夏休み前と年末年始前の年2回放送(2007年末まで。2008年に筑紫哲也が番組降板、死去)。


矢崎泰久: 矢崎泰久、阿佐田哲也、阿刀田高、宝官正章(テレビディレクター)、筑紫哲也、山口はるみ、川田隆(麻雀プロ)、畑正憲、石田芳夫(囲碁棋士)、井上陽水、大西信行、狩野洋一(麻雀プロ)、北野英明(劇画家)、田村光昭(麻雀プロ)、長谷川和彦、ばばこういち


渡辺真理: 筑紫哲也 NEWS23(1996年10月 - 1997年9月) - 第2部キャスター


趙博: TBSテレビの筑紫哲也 NEWS23で歌う塾講師として取り上げられた事によりカルトな全国区人気を博す様になる。


石川真澄: 亡くなったあと、朝日の2年後輩である筑紫哲也が私家本として追悼文集『石川真澄という人がいた』を編んだ。


長島伸子: 日本経済新聞社主催『クリスマスファンタジー』日経ホール(共演:筑紫哲也)1994年


村井守: 11月30日にTBSの報道番組『筑紫哲也 NEWS23』内の金曜深夜便コーナーに生出演し、『光』を生演奏。


池田裕行: 1989年10月から、『筑紫哲也ニュース23』の男性サブキャスターとなり、初期(1992年頃まで)は報道局アナウンサーとして登場していた(鈴木史朗、柴田秀一なども当時は同じ報道局アナウンサーとしての扱い)。


春名幹男: 筑紫哲也 NEWS23(TBSテレビ)- 2001年11月


佐古忠彦: 「NEWS23」の初代メインキャスターであった筑紫哲也が亡くなった日である2008年11月7日放送分の「NEWS23」において、初代メインキャスターの筑紫の死やこれまでの功績を伝えるVTRのナレーションを担当した。


白鳥雪之丞: 2003年2月7日、『筑紫哲也 NEWS23』の「金曜深夜便」に出演。筑紫哲也を木更津に招待し思い出の地を回った。


福岡政行: (筑紫哲也)『ここから日本はよみがえる――情報公開NPOまちづくり』(日本経済新聞社, 2000年)


中森明夫: 『朝日ジャーナル』にはフリーで駆け出しの仕事をしていた頃より関わっていたが、筑紫哲也が同誌編集長の時期に『若者たちの神々』を連載していた頃、山崎浩一や泉麻人とともに「宮武外骨の『滑稽新聞』をやってくれ」という依頼を受けた際、山崎や泉とは対照的に一人『神々製造業者御用!』という『若者たちの神々』を皮肉った記事を書いて問題になったという。


原口太平: 「情熱キャンバス 九州人列伝〜筑紫哲也編〜」


坂本頼光: 筑紫哲也 NEWS23(TBS)


筑紫哲也の情報まとめ

もしもしロボ

筑紫 哲也(ちくし てつや)さんの誕生日は1935年6月23日です。大分出身のジャーナリスト、ニュースキャスターのようです。

もしもしロボ

評価、家族・親族などについてまとめました。テレビ、現在、卒業、事件、退社、映画、結婚、父親、家族、母親に関する情報もありますね。73歳で亡くなられているようです。

筑紫哲也のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

筑紫 哲也(ちくし てつや、1935年(昭和10年)6月23日 - 2008年(平成20年)11月7日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。長年にわたって新聞・雑誌・テレビ報道の第一線に立ちつづけ、日本のテレビジャーナリズムの確立に多大な貢献をした業績により日本記者クラブ賞を受賞。朝日新聞社政治部記者、ワシントン特派員、テレビ朝日『日曜夕刊!こちらデスク』メインキャスター、朝日ジャーナル編集長などを経て、TBSテレビ『筑紫哲也NEWS23』キャスター編集長を18年あまり務めた。

1935年(昭和10年)、大分県日田郡小野村(現在:日田市)で筑紫和臣・文子夫妻の長男として生まれた。静岡県立沼津東高等学校、東京都立小山台高等学校を経て、早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業

1959年に朝日新聞社に入社。同期には本多勝一、轡田隆史、上前淳一郎、柴田鉄治、田中豊、和田俊、浅井泰範、田所竹彦、荒垣敬らがいる。同年の朝日新聞社の入社試験は英語と論文と面接だけで一般常識などの筆記試験がなく、「常識なしの(昭和)34年組」と社内で皮肉られたという。面接の身上調書では愛読書を1冊書けとあり、一世を風靡した丸山眞男『現代政治の思想と行動』にしようとしたものの、面接で論争したら負けると思い、「鉄道時刻表」と書いて出した。面接では無銭旅行の話で大ウケであったが、論説主幹であった笠信太郎に(大学でやったはずの)景気循環論の話題を振られると、まったく歯が立たなかった。

新人記者としての赴任先は宇都宮、次いで盛岡であった。支局で計4年を過ごし、政治部に異動。政治記者としてのスタートは内閣総理大臣・池田勇人番だった。

1968年5月から1970年まで、アメリカ統治下の沖縄に政治部の「特派員」として赴任し、返還前の沖縄を精力的に取材。その後も生涯にわたって沖縄に心を寄せた。

1971年7月から1974年までワシントン特派員。沖縄返還を翌年に控えた1971年、朝日新聞の130回にわたる長期大型連載企画「日本とアメリカ」において、キャップの松山幸雄から、各章のまとめと次章へのつなぎの執筆をすべて任された。1972年に起こったウォーターゲート事件について、発端から終末まで現地で取材した唯一の日本人記者であるという。

外務大臣や内閣総理大臣を務めた三木武夫と睦子夫人、ブレーンであった平沢和重や國弘正雄からの信頼が篤く、たびたび助言を求められた。

1976年1月から「朝日ジャーナル」副編集長を務め、ロッキード事件を追っていた立花隆と盟友関係となる。このころ、筑紫を評価した安東仁兵衛を通じて丸山眞男の知遇を得る。1970年代後半から安東・石川真澄・岩見隆夫・松山幸雄・富森叡児・堤清二とともにしばしば丸山を囲み、丸山はこの集まりを「楽しき会」と呼んだ。「安東組」たる安東・石川・岩見の四人で、丸山を講師として福澤諭吉『文明論之概略』の勉強会も行った。筑紫は丸山の「蓮華窓(連子窓)の弟子」、石川は「武者窓の弟子」と記した。筑紫は折に触れて貴重なCDやLDを丸山に贈り、オペラやクラシックコンサートをともに鑑賞する間柄であった。

1977年6月、外報部次長。1978年4月から1982年9月までテレビ朝日「日曜夕刊!こちらデスク」にメインキャスターとして出演し、番組として第16回ギャラクシー賞を受賞(1979年)。

1983年6月、第13回参議院議員通常選挙にあたって無党派市民連合の政見放送に出演、停職3か月の処分を受ける。同年4月からキャスターを務めていたテレビ朝日系『TVスクープ』も降板。

10月からTBSラジオ『筑紫哲也のハローワールド』にレギュラー出演。翌1984年4月から1988年4月まで、『筑紫哲也のニュースジョッキー』に出演した。

1984年1月から1987年3月まで「朝日ジャーナル」編集長を務める。編集長自らインタビューを行う「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」「元気印の女たち」などの「軽チャー路線」が世間の目をひく一方で、1986年12月5日号を皮切りに、マスメディアとしてはじめて統一協会による霊感商法を徹底的に追及。編集長を伊藤正孝に譲ったあとも同誌のキャンペーンは続き、「霊感商法」という言葉が世間に定着するきっかけをつくった。

ニューヨーク駐在の編集委員を務めていた1989年(平成元年)夏、TBSからの打診を受け朝日新聞社を退社

1989年10月2日、『筑紫哲也ニュース23』放送開始。1985年10月開始のテレビ朝日系列『ニュースステーション』メインキャスターで大学の後輩でもある久米宏と並び、民放ニュースキャスターの顔として広く認知された。久米宏とは「広島東洋カープのファン」同士という共通点があったため、日刊スポーツの企画で1991年(平成3年)の西武ライオンズとの日本シリーズを仲良く観戦している。久米は「筑紫さんは戦争の歴史を刻んだ沖縄と広島に心を寄せ、地方球団、市民球団のカープを愛していました。筑紫さんは、"反中央"、"反権力"という自分の性格をカープに重ねたのではないか」と述べている。

1992年(平成4年)、第21回ベストドレッサー賞学術・文化部門を受賞。1993年(平成5年)には『筑紫哲也ニュース23』のメインキャスターとしての業績に対して第30回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞。

1993年に創刊された『週刊金曜日』の発刊を呼びかけ、朝日新聞同期入社の本多勝一らとともに手弁当で全国を行脚した。創刊前から死去するまで15年にわたって同誌の編集委員を務め、コラム「自我作古」を連載。

1994年、出身地の大分県日田市に新たな地域文化を築くべく若者を中心に設立された市民大学「自由の森大学」の学長となり、2006年の閉校まで務めた。同年、文化・郷土の振興発展の事績により日田市名誉市民の称号を贈られる。

2004年8月6日には、広島県の原爆ドームを訪れた。その際山﨑理恵子が主宰をする原爆ドーム合作絵画の会が『A子ちゃんの遺言』と題したF100号の合作の絵画の制作を行なっており、「平和」と書いてある下に筑紫は「和平」の文字を書き込んだ。

2007年5月14日放送の『NEWS23』で初期の肺癌であることを告白。治療のため、翌日から番組出演を休止した。10月にスタジオ復帰、以降は不定期出演となるが、12月に全身へのがん転移が判明。2008年(平成20年)3月28日をもって『NEWS23』を降板した。

4月「わが国のテレビジャーナリズムの確立に多大な貢献をした」として、日本記者クラブ賞を受賞。

11月7日午後、肺癌のため東京都内の病院で死去した。享年74(満73歳没)。時間帯が重なる報道番組同士のライバル関係にあった久米宏、古舘伊知郎らが自らの番組でその死を悼んだ。

2008年11月11日、追悼特別番組『筑紫さんが遺したもの - ガン闘病500日』が生放送された。エンディングでは、ニュース23の初代エンディングテーマ「最後のニュース」を井上陽水が生演奏で歌った。

2013年1月、BS-TBSにおいて、ドキュメンタリー『筑紫哲也 明日への伝言〜「残日録」をたどる旅』が放映された。

金平茂紀が講談社のPR誌『本』の2014年2月号から「筑紫哲也『NEWS23』とその時代」を18回にわたって連載。2021年11月、同名の単行本が講談社から発刊された。

評価

長年にわたって新聞・雑誌・テレビ報道の第一線に立ち、発言をつづけるとともに、当事者の話に耳を傾け、紹介した。「筋金入りのリベラリスト」(立花隆)としての一貫した姿勢は「座標軸」にもたとえられた。党派性にとらわれることなく幅広い交友関係を保ち、音楽・映画・演劇・文学・美術・スポーツなどの文化にも深い関心を寄せ、常に現場に足を運び、若者に対して常に暖かい眼を向けていた。

ジャーナリストとして

「朝日新聞記者としての30年で培ったジャーナリスト魂と豊富な取材体験を糧に、時流や大勢に流されない安定した報道スタイルで内外の動きを的確に伝え、幅広い視聴者、ニュース源の信頼を得た。鋭いニュース感覚と的確なアジェンダ・セッテングだけでなく、文化活動の発掘・紹介などテレビならではの可能性にも挑戦し、民放テレビ報道の社会的役割の向上にも資した」(2008年度日本記者クラブ賞受賞理由)

筑紫の朝日ジャーナル時代からの盟友で、NEWS23にもたびたび出演し、筑紫の最晩年にオーラルヒストリーに取り組んでいた立花隆は、筑紫の訃報に接し、NHK『クローズアップ現代+』の中で「普通の付き合いじゃないんです。だから、本当にショック」「戦後日本が生んだ最大のジャーナリストだと思う」と語り、感極まってテレビカメラの前で慟哭した。

読売新聞東京社会部のエース記者からノンフィクション作家となった本田靖春は、死去する半年前に記した筑紫宛の最後の私信で「世間(いかがわしくもあるのですが)は、貴兄を頼りにするしかない。マイクの前で絶命するくらいの気魄で、いまのお立場を死守してください」「何かあったら、及ばずながら援護射撃はします」と激励した。1976年に本田が筑紫への取材で初対面した際、自身の発言に責任を持つ筑紫の姿勢に「おお、ここに本物の新聞記者がいる!」と文字どおり「感動」した。本田は筑紫にとってもっとも敬愛するノンフィクション作家であった。

朝日新聞同期入社で、週刊金曜日創刊前から編集委員をともに務めた本多勝一は、「良識派や真のジャーナリスト」がマスメディアの場から締め出されるなか、筑紫には幅広く垣根のない交友関係を築く「武器」があるからこそ活躍できたとする。ただし、本多が「矮小ファシスト」と糾弾する石原慎太郎への態度には我慢がならず、「まるで友人関係じゃないか」と一度だけ文句を言った。

朝日新聞の同期で科学部長・社会部長・出版局長を歴任した柴田鉄治は、筑紫の本質はあくまで新聞記者であり、その筆力は「おしゃべりより数段上」だとする。柴田は筑紫が天声人語の筆者になればよいとひそかに思っていたという。

「新聞記者のお手本、目標、憧れ」「権力の横暴、行き過ぎに対して警戒する、センサー能力がジャーナリストとしてものすごく高い」「日本だけでなく世界の歴史や文化、伝統の面に常に目を向け、日本のいろいろなジャンルの文化を継承し生まれてくる人たちを励ます。そこが筑紫さんの大きなワールドのひとつ」(岸井成格)

「日本人の心や社会のありかたを常に問い続けて座標軸を発信しつづけた」「自分の立っている位置を計測できる、非常に便利なツール」「座標軸男」(鳥越俊太郎)

「本当の意味での客観報道というものはないということを示した功績は大きい」「僕よりはるかに教養が高い、いろんなことを知っている。僕は筑紫さんに対してコンプレックスの塊」「キャスターではなく、いつも筑紫哲也としての言葉をしゃべっていた」(田原総一朗)

「筑紫さんのスタンスを評価しています。筑紫さんがいなくなれば日本の報道番組はもっとダメになると確信を持って言える」(岡留安則)

「ジャーナリストではいちばんの友だち」「自分の思想を持ちながら、ある種の柔軟性を持ち、古典や世界を見渡しながら現代を論じることができる稀なジャーナリスト」(梅原猛)

「物事の本質を深く考えて、時代を真剣にとらえようとする姿勢が筑紫さんのメッセージに常にこもっていた」「エスタブリッシュメントからも認められていたし、保守の人たちとも議論する場を持っていました」「誰もが自分に近いと思うし、彼はそう思わせるカメレオン性の技を持っていた」(寺島実郎)

「知的エピキュリアン」「名伯楽」「最後まで多くの人の声に耳を傾け、自分が語るのではなく、時代に語らせることを貫き通しました」(姜尚中)

「バランスをとるというよりは、きちっとした座標軸がある」「常に羅針盤であった」(岡本行夫)

「日本のオピニオンリーダーであり、ちょっとキザ、ちょっと大衆的、このバランスが非常によかった」(堺屋太一)

「戦後日本のジャーナリストで国際的な見識のある人は少ないけれど、筑紫君は沖縄とアメリカとの関係を見すえた特異な存在」「英語が抜群にうまいわけではなかった(中略)けれども自在に使っていました」「彼は人間として熟していました。そんなジャーナリストはもういませんね」(國弘正雄)

「権力が市民を傷つけないように、より深いところから鋭く監視していくことに徹する。プロ中のプロで、骨の髄までジャーナリスト」(堀田力)

「歩くリベラル、存在そのものがリベラル」「あれだけの風圧のなかで、いろんな方向から飛んでくる批判の矢をきっちりと受けとめていた」「妙に律儀というか、偉ぶらない」「人間関係の機微を大事にし、気安い雰囲気の中で交友関係を広げていく」(佐高信)

「(訃報を目にして)思わず涙があふれた。凄い人だったな。いい人だったな。お世話になったな、と、いろんなことを思い出した」「勇気のある人だった」(鈴木邦男)

「何度も投げ出しそうになったり、圧力に屈しそうになった。そのとき、筑紫さんの書いたものが背中を支えてくれました」「ほんとうの意味での沖縄の理解者」(大田昌秀)

「心おきなく話ができる友人」「権力とは一線を画すというジャーナリストの矜持を持っていた」(福田康夫)

「新聞記者であんなに品のいい人はいないんじゃないかと思う」(三木睦子)

「日本がこれから歩んでいく道筋の危険さを身に感じながら、ほとばしるようにしゃべっておられた」「筑紫さんに影響されて、テロ特措法や自衛隊の出動等にも棄権をしたり退席をしたり、そういう行動をした。筑紫さんに導かれた」(野中広務)

「極めつきの聞き上手」「本当にこちらが安心して、胸襟を開いて話せる」(田中真紀子)

「非常に公平・公正に私の言い分をきちんと取り入れながら、また一方で、権力側、検察側はこうだと」(鈴木宗男)

「名もないけれど、新しいチャレンジをする人を応援する、それが筑紫哲也さん」(菅直人)

「いつもニコニコしていましたが、常に自分のことではなく、未来の世代に何を残せるかに心を砕いていた」(辻本清美)

「彼の軌跡全体を眺めると、動じたところがまるでない。見事に自分を保ちきっている」「しかも、潰されない。桁外れの大物ではなかったか」(中山千夏)

阿川佐和子がニュース23に出演していたころ、左翼の思想家である安東仁兵衛と右翼の論客である野村秋介を同時に番組に呼んだ。番組中は激しいやり取りが交わされたが、番組終了後のスタッフルームでは筑紫を間に挟んで二人が和やかにビールを酌み交わしていた。筑紫は野村の娘の結婚披露宴にも出席している。

『NEWS23』でサブキャスターを務めた草野満代は「テレビの世界では、ドキュメンタリー番組をコンスタントに作り続けることが難しい状況が続いています。でも『NEWS23』ではよく、20分くらいのドキュメンタリーを入れこみました。ほかのニュースをカットしてでも、ドキュメンタリーを伝える場を守り続けたのが筑紫さんです」と述べた。

文化人として

小澤征爾は「とにかくものすごい音楽好き。怖い聴衆の一人でしたが、毎回演奏を聴いて長い目で見てくれるから、とてもありがたかった」「音楽についての報道でも、彼はメッセージを持っていたし、それを支えるだけのニュースとプロ並みの見識、愛着と愛情がありました」とする。小澤は「こういう職業で、音楽とか文学とかをとことんお好きで、研究していて、自分の意見がある、こういう人は外国にもいない」「若い音楽家を大事にする姿勢ははっきりしていた」とも述べている。筑紫は齋藤秀雄没後30周年の2004年にサイトウ・キネン・オーケストラによるメモリアルコンサートの司会・進行役を務めた。

「年間で200日くらい(中略)コンサートに通ったんじゃないですか。どの会場にも彼がいました」「政治や経済よりもむしろ文化に興味があった」「芸術的なメディアすべてに興味のある稀有な人」「左翼なんかではないです。軸足がずれなかっただけ」(三枝成彰)

「言ってみりゃサムライだね」「粋だし、悟りもひらいているし、動じないでしょ。しかも文化、歌舞伎みたいなものにも造詣が深くて、それでいて政治のことは譲らない。かっこいい男だったよね」「あったかい感じがしましたね。人の話を逸らさないからね。真剣に聴いてくれる」(十八代目中村勘三郎)

「亡くなるまで23年間、僕の芝居をすべて見てくれています」「演劇だけではなく、筑紫さんの興味は映画も音楽も古典も文学も網羅し、じつに多彩でした」「文化と教養のある大人」(鴻上尚史)

「ハッキリ言って英語は流暢ではなく、とつとつとお喋りになるのね。でもそれが相手にはとても誠意があると感じられるようで、筑紫さんのインタビューが終わった後は皆、「あの人は良かった」とおっしゃいました」「映画に対する真摯さとか、質問の内容が違った」(戸田奈津子)

「現実的に、映画評論家として確立させてくれたのは筑紫さん」(おすぎ)

「敬愛し、信頼していた」「上の立場にいる人は、気取って、実物以上に見せようとしてしまう。それが筑紫さんにはなかった。本当に自然で、それが気持ちよかった」(瀬戸内寂聴)

「あんなに若者に対してルサンチマンがなく、優しかった人はいませんでした」「最も影響を受けたのは、違う立場の人ともコミュニケーションをとろうとする姿勢」(平野啓一郎)

「きっと、筑紫さんにとって僕は、坂本龍一というよりは、「坂本一亀の息子」だったんでしょう。ある意味で、僕にとって父親のような存在でした」(坂本龍一)

「(2007年末の「クリスマスの約束」の感想を寄せた手紙に対して)人生の中でこんなふうに心が浮き上がるような嬉しい瞬間というのは滅多に訪れません」(小田和正)

「稀代の名ジャーナリストは「稀代の紳士」でいらっしゃいました」(中島みゆき)

「すごく丁寧に人と会い、必ず自分の目で確かめてお話をされる稀有な方」「無名の人を引っ張りあげる力、先導する力があった」(加藤登紀子)

「温かくて、頼りがいのある方でした。でもそれを決してひけらかさない」(石川さゆり)

「ものを斜めに見ることもなく、居丈高にもならず、いろんな人と同じ目線を持つ。誰にでもできることじゃないですよ」(樹木希林)

「自分がかかわった人の死で涙を流したのは、芸能界で引き立ててくれた山岡久乃さんと、てっちゃんだけ」「てっちゃんは、まさに「強いものには強く、弱い者には弱い」人でした」(和田アキ子)

「哲也は、ひたすら私の話を聞いてくれた」「70歳近い人で、他人の話を聞く人に初めて会った」「沖縄の人たちが哲也を好きなわけがわかった気がした」(Cocco)

「あの安心感は何なんでしょうね。とても温かい人だし、あの器の大きさは男としてすごく憧れる」(草彅剛)

「いろんなジャンルのかたから信頼されていて、自分と違う意見を持っている人にもきちんと耳を傾けて、その上で自分がどう思うかがあったと思う」(菅野美穂)

「とにかく物知りで、私が何を質問しても、すごく分かりやすくいろいろ教えてくださいました」「優しくてたたずまいが素敵で、芯があって決してブレない。いつも表情は穏やかでニコニコしていました」(綾瀬はるか)

「ロマンというか夢というか、そういうものを持たれているのが非常に伝わってきましたね」(松井秀喜)

「自分をさらけ出してしまいたくなるような人間的度量というか、心の深さから生まれる柔らかさがありましたね」(松坂大輔)

井上陽水は「日曜夕刊!こちらデスク」で自身の楽曲「傘がない」の歌詞の「テレビではわが国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる」を取り上げた回を視聴し「ジャーナリズムに身を置きながら、ジャーナリズムを突き放して見ることができる。ある意味で、ユーモアがわかる人なんだ」と感じたことを話している。それもあって同番組の最終回に出演し、「傘がない」を含んだ3曲を歌唱した。その後も井上は「NEWS23」に楽曲提供をしたり、筑紫と麻雀をするなど、親交を深めていった。なお、筑紫と井上には政治や家庭などの立ち入った話はしないという暗黙の了解があった。井上は「筑紫さんの功績のひとつは、ユーモアの大切さを意識されていたことだと思います。この真面目な国では、深刻そうに語ることが求められて、ちょっとした笑いや諧謔も『不真面目だ』とか言って、許されないところがありますから。ユーモアを口にしたり受け止めたりするには、余裕がないとできません。番組では、『なかなか面白い冗談を言うな』という感じではかならずしもなかったのですが、ユーモアがもつ可能性に注目していた、という意味で特別だったと思います」「政治家なんかにしてもね、筑紫さんならということで出演した方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。鷹揚で優しいからなのか、どんなものでもまずは肯定しようとするスタンスがあったようにも思います」「筑紫さんは『観察者』だったと思います。へたに才能があると『演者』になろうとして、観察者にはなれない。自分が演じるのではなく、演じている誰かを見たり、世の中に紹介したりするという意味で、観察者のプロだったといえるのかもしれません」と評している。

否定的評価

吉本隆明は、テレビキャスターの筑紫や久米宏は、自分を棚上げにして、キレイごとやカッコいいことをいって、そのうえ他人にはキツイことばかり要求しているとし、「民衆の味方です」みたいな顔して発言をしているが、果たして筑紫や久米が普通の民衆なのかあるいは民主主義が身についているかといえば、そうではないと批判している。

上杉隆は、筑紫の打ち立てた功績は揺るぎないものであるとしながらも、ジャーナリストの頂点まで上り詰めた晩年の筑紫に関しては、議論で追い詰められても反論しようとしなかったり、思想信条による議論よりも友情を優先するようになっていたことに対して批判的にとらえている。

田中康夫とは『朝日ジャーナル』時代に「若者たちの神々」最終回で対談し、これがきっかけとなり「ファディッシュ考現学」の連載を依頼した。筑紫の「現場主義」に田中は影響を受けたものの、その後は距離が開くようになり特に田中が厳しい評価を下していた細川護熙内閣に対して、筑紫が無批判であったことに関して「筑紫哲也朽ちたり」と評した。その後筑紫からの取材に関しての直接の返答はなく、「どう曲がって伝わったのか、私が当人の制止をふり切って撮影を強行したと非難するコラムを書いた作家がいた。おそらく放送は観ていなかったのだろうが、粘着気質なことで知られるこの作家は以来、未だにそのことにこだわっていろいろ書き続けているらしい(私は読んでいないが)。」と著書内で記すのみであった。その後田中は何度か筑紫と対面する機会があったことが日記から分かるものの、筑紫が亡くなった前後の「ペログリ日記」にも筑紫死去に関しての言及はなかった。一方で筑紫が『NEWS23』内などでその後も田中を応援し続けていたことや、2人に引き続き親交が存在したことを記す人物もいる。

元首相の森喜朗は、月刊誌『Will』にて自らの内閣がマスコミに叩かれた背景として、自身の所属していた福田派の敵対派閥と懇意にしている官邸記者達が多かったことを一因に挙げ、続けて筑紫がある結婚式で「今日は、森前総理も見えていますが、森政権時代、我々も『森を潰せ』という戦略で少しやりすぎだったと思っています。一国の総理とメディアの間には、ある程度の緊張感が必要で、ある程度の批判はする。しかし、森さんについてはやりすぎたという反省がある」と述べ、森は「何をいまさら」という気分だったと述べている。

筑紫の「沖縄=戦争と基地の悲劇の島」という沖縄観はステレオタイプという批判がある。日本経済新聞社元那覇支局長大久保潤と篠原章の共著『沖縄の不都合な真実』(新潮新書、2015年、142-143p)「第6章本土がつくったオキナワイメージ」では、琉球史研究の第一人者で副知事だった高良倉吉が、「いつのまにか、沖縄人は大江健三郎と筑紫哲也が言う被害者沖縄のイメージ通りに振る舞うクセが付いてしまった」と発言して、筑紫の沖縄観が沖縄県内で定着した結果、戦争も基地も被害者の視点だけで語り、自立に向けた議論を阻み、「日本はなんとかしろ」という依存体質や陳情文化が一般人にも蔓延したことを解説したこと、「沖縄が自立できないのは筑紫哲也のせいだ」という言葉を、戦後60年の取材中に地元の複数人から聞いたことが触れられている。沖縄に家系を持つ与那原恵は、『迷惑な沖縄愛』という小論を別冊宝島Real『筑紫哲也「妄言」の研究』に寄稿し、News23でも何度も特集された95年の米兵による少女暴行事件の抗議集会は自発的に集まった人が多数を占めたが、沖縄人に強く訴えかけた大きな理由は、被害者が「少女」』だったこと、沖縄のこの種の集会は、中学生や高校生の少女が作文や詩を読み上げるが、この集会でも普天間高校の女子高生が作文を読み、彼女は数年間にわたってNews23に取材されることになったが、筑紫に仮託された「沖縄の少女」というイメージに縛られるのはいやだろうな、と述べている。また、筑紫が沖縄を愛するのは、自分は無知な少年だったから軍国少年に染め上げられてしまったのだという戦争を止められなかった大人への恨みを重ねることができるのは、沖縄を象徴する「少女」であり、無垢で清らかな自分と日本と米国の大国の論理で振り回されてしまう被害者としての沖縄という感覚を共有できると思っているからだが、沖縄戦の実相は複雑であり、また沖縄は複雑な感情や打算がうずまく島でもあり、人間の暮らしとはそういうものであり、沖縄ではかつての左翼的言説に人々がなびかなくなっており、左翼が沖縄に仮託して、自分たちの言いたいことを言っているに過ぎないことに気づいてしまったこと、そして、この先も沖縄に関心を持ち報道していくなら、沖縄の現実や複雑な思いや変化を正確に見て、筑紫が沖縄人に好かれていないという事実も直視すべき、と述べている。

家族・親族

筑紫家は江戸時代より続く医師の家系だった。哲也の叔父が跡を継いだものの軍医となり戦死したため、小野村唯一の医家としては断絶した。

父・和臣は東京電力の前身会社に勤務していた。哲也はその長子であり、弟妹が4人いる。父方の祖母は田中小実昌の母親の姉であった。

瀧廉太郎との縁

瀧廉太郎は大伯父(滝の妹・トミが筑紫の母方の祖母)。筑紫自身はかつて「私には音楽の才能がないので、私が『瀧廉太郎の親戚』であるということを非常に戸惑っていた」と述懐している。筑紫は1993年から、竹田市にある瀧廉太郎記念館の名誉館長を務めていた。

2024/06/25 15:45更新

chikushi tetsuya


筑紫哲也と同じ誕生日6月23日生まれ、同じ大分出身の人

児玉 卓也(こだま たくや)
1990年6月23日生まれの有名人 大分出身

児玉 卓也(こだま たくや、1990年6月23日 - )は、日本の男性声優。大分県出身。リマックス所属。 2011年、アミューズメントメディア総合学院を卒業後、尾木プロ THE NEXTに所属。 …

鈴木 一郎(すずき いちろう)
1934年6月23日生まれの有名人 大分出身

6月23日生まれwiki情報なし(2024/06/20 21:46時点)

玉田 豊夢(たまだ とむ)
1975年6月23日生まれの有名人 大分出身

玉田 豊夢(たまだ とむ、1975年6月23日 - )は、日本のドラマー。本名同じ。大分県臼杵市出身。 膨大な数のレコーディング/ライヴをこなす日本のトップ・ドラマー。これまでに、aiko、あいみ…

筧 文夫(かけい ふみお)
1952年6月23日生まれの有名人 大分出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 筧 文夫(かけい ふみお、1952年6月23日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(外野手)。 中津工業高から福岡工業大学に進学…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


筑紫哲也と近い名前の人

筑紫 美主子(ちくし みすこ)
1921年2月8日生まれの有名人 佐賀出身

筑紫 美主子(ちくし みすこ、1921年(大正10年)2月8日 – 2013年(平成25年)10月10日)は、佐賀県を中心に九州地方で長年に渡り活躍した佐賀にわか役者である。本名は古賀 梅子(こが う…

筑紫 あけみ(つくし あけみ)
1933年10月22日生まれの有名人 福岡出身

筑紫 あけみ(つくし あけみ、1933年10月22日 - 2014年4月1日)は、日本の女優。福岡県出身。 九州女子学園卒業。俳優座養成所、新東宝、松竹を経て、エヌ・エー・シーに所属していた。 …

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
筑紫哲也
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

放課後プリンセス GALETTe さんみゅ~ Da-iCE GEM E-girls palet 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「筑紫哲也」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました