藤田まことの情報(ふじたまこと) 俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
藤田 まことさんについて調べます
■名前・氏名 |
藤田まことと関係のある人
荒木とよひさ: 藤田まこと「月が笑ってらぁ」 井上昭: 剣客商売(藤田まこと版)(1999年 - 2004年、フジテレビ・松竹) - 後にスペシャル版数本の演出も担当。 浜田晃: ※藤田まこと版 ディック・ミネ: 1955年(昭和30年)以降もフランク永井、ミネが名づけ親となったジェームス三木(歌手としてデビューし、のちに脚本家へ転向)など後輩の面倒見もよく、のちに俳優として活躍した藤田まことや植木等らを育てている。 島田順司: 1988年から『はぐれ刑事純情派』 (テレビ朝日)で、藤田まこと演じる安浦刑事が所属する警視庁山手中央警察署の刑事課長・川辺精一役で、シリーズ18年間の全作品にレギュラー出演。 菅貫太郎: 藤田まことの丹下左膳 第1作「痛快!美女に弱いはぐれ剣士 将軍吉宗の江戸で巨悪を斬る!」(1990年、ANB / 東映) トニー谷: また、1968年には藤田まこと主演の時代劇コメディ『てなもんや三度笠』(朝日放送)に出演。 大倉忠義: 『必殺仕事人』シリーズ(朝日放送・テレビ朝日)で共演した藤田まことのことをとても尊敬しており、大倉がクランクインの時に、藤田がモニターで大倉の演技を見て「大したもんや」「君の良いところはカメラの向こうに客の顔が見えているところだ」と褒められたという。 松岡由美: 藤田まことの丹下左膳(テレビ朝日) 山内としお: 父親は必殺シリーズのプロデューサー・山内久司(故人)と知り合いだった縁から紹介されて同シリーズへの出演に至り、朝日放送テレビ制作の時代劇シリーズ『必殺仕事人シリーズ』で藤田まこと(故人)が演じる主人公・中村主水の上司「おかまの田中様」こと筆頭同心 田中(田中熊五郎)役で人気を博した。 大橋壮多: ※藤田まこと版 白木みのる: 1962年より、『てなもんや三度笠』(朝日放送)に珍念役でレギュラー出演し、藤田まこと・財津一郎らと絶妙な掛け合いを展開して人気を集めた。 三沢あけみ: 3月-明治座「藤田まことオンステージ」ゲスト出演。 原哲男: 以降、『部長刑事』や『てなもんや三度笠』時代から親交があった藤田まことの作品などのドラマに出演し、幅広い活躍をした。 伊東四朗: 特にベンジャミンとしてのスタイルは、藤田まことら古くからのコメディアン仲間から「あいつはバカになったのか!?」と驚嘆されるほどのインパクトがあり、小林信彦からは大いに絶賛された。 澤田隆治: 香川登志緒脚本、藤田まこと主演で澤田が演出した『てなもんや三度笠』は最高視聴率64.8%を獲得する「お化け番組」となり、社会現象となった。 藤間林太郎: 俳優の藤田まことは次男である。 香川登志緒: 藤田まことが歌った『てなもんや三度笠』の主題歌(林伊佐緒 曲)の作詞を手掛けたことでも知られている。 佳那晃子: 藤田まこと特別公演 必殺仕事人 嘉島典俊: 藤田まこと公演(必殺仕事人)、サクラ大戦 第九回スーパー歌謡ショウ「新・青い鳥」(2005年8月) 鈴木則文: 1965年 - 『大阪ど根性物語 どえらい奴』(主演:藤田まこと)にて監督デビュー。 五木寛之: 夜のララバイ(作曲:弦哲也/歌:藤田まこと、2006年) 白川勝彦: 白川曰く、渋谷署で“これからの警察は、規定の手順通りにしか出来ないマニュアル警官ではなく、臨機応変な対応が出来る『はぐれ刑事純情派』の安浦吉之助(藤田まこと)のような警察官を育て大事にしなければならないし、私自身がそういう制度も作らせたはずなのに何事か”と関係者に厳しく説諭したという。 洞口依子: はぐれ刑事純情派第4シリーズ 第5話「出所した女・赤い糸の犯罪」(藤田まこと主演) 吉松安弘: 1970年 - 『日本一のヤクザ男』(監督:古澤憲吾、出演:植木等、司葉子、沢田研二、藤田まこと、配給:東宝・渡辺プロ) 一柳みる: 1988年から2009年までテレビ朝日系列で放送された藤田まこと主演の刑事ドラマ『はぐれ刑事純情派』のゲスト出演者の中でゲスト出演最多である。 三沢あけみ: 9月-明治座 藤田まこと公演「人生まわり舞台“浮草”」にゲスト出演、「こころ花」を歌唱して大好評を博す。 渋谷哲平: 1998.8.12月:藤田まこと特別公演『必殺仕事人』中村主水、大奥に参上!(劇場飛天) 楠トシエ: 『スチョチョン節』(1963年、藤田まこと & 楠トシエ、キングレコード EB-915) 能村庸一: 剣客商売(加藤剛・山形勲版、藤田まこと版) - 企画(藤田まこと版)はプロデューサー |
藤田まことの情報まとめ
藤田 まこと(ふじた まこと)さんの誕生日は1933年4月13日です。東京出身の俳優のようです。
俳優としての特徴・エピソード、ファン・評価などについてまとめました。父親、映画、母親、再婚、家族、離婚、病気、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。76歳で亡くなられているようです。
藤田まことのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)藤田 まこと(ふじた まこと、1933年〈昭和8年〉4月13日 - 2010年〈平成22年〉2月17日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン。 東京府東京市(現:東京都)豊島区池袋生まれ、京都府京都市育ち。京都市立堀川高等学校中退。血液型はAB型。身長173cm。 父は俳優の藤間林太郎。次女は『必殺仕事人V』『必殺橋掛人』の主題歌「さよならさざんか」を歌った藤田絵美子(現:EMIKO)。孫(長女・敬子の娘)は歌手の花リーナ。大正三美人の一人林きむ子は父の異父姉で伯母にあたる。曾我廼家喜劇の女形だった曾我廼家弁天は父の異父兄で伯父にあたる。いとこに、兵庫県副知事から姫路市長に転じた戸谷松司がいる。 オフィス斉藤所属。過去には渡辺プロダクション、ごく一時期には吉本興業、その後は新演技座(個人事務所)に所属していた。2002年に紫綬褒章を受章。 1933年4月13日(木曜日)、東京府東京市(現:東京都)豊島区池袋に生まれる。父親は無声映画時代のスター俳優だった藤間林太郎で、母親は林太郎が大阪の帝国キネマに在籍していたときに身請けした芸妓であった。藤田は芸能人となった後、林太郎にしばしば「お前が生まれるのには金がかかっている。芸人ならばお前の代で元を取れ」と言われたという。姉と兄が生まれた後、帝国キネマは撮影所の火災が原因で倒産したため林太郎は大都映画に移籍。そのため藤田は東京で生まれた。母親は藤田を産んだあと伏せりがちとなりまもなく他界したため、藤田は実母の記憶がほとんどないという。 小学校時代に林太郎が再婚したが継母とそりが合わず(藤田によると再婚した当初は特に反感は抱いておらず兄が反抗していたが、兄に影響されて反抗するようになった。やがて兄は反抗をやめるようになり、藤田だけが反抗するようになった)、藤田は継母を決して「お母さん」とは呼ばず、兄と姉から「『お母さん』と言え」と殴られたこともあった。 1943年、一家は関西(近畿)へ移った。はじめは大阪府枚方市光善寺へ引っ越したが、近くに兵器工場があったため空襲に遭う危険のあることがわかり、すぐに京都府京都市の四条堀川へ再度引っ越した。終戦後の1946年、かつて住んでいた光善寺の長屋の大家との養子縁組の話が持ち上がると、継母を嫌っていた藤田は承諾した。藤田は養父母に馴染んだが、まもなく志願兵として兵役についていた兄の戦死が判明(搭乗していた輸送船江龍丸が沖縄の久米島沖で十・十空襲に遭い、沈没)し、家族のもとへ戻った。 兄が家を出た後、藤田は姉から「お前がお母さんの言うことを聞かないので、家の中がめちゃめちゃになってしまった。だから、お兄ちゃんは居づらくなって戦争に行ったんだ」と言われた。そのため藤田は兄からの最期の音信であるはがきを見ては「新しいお母さんと僕が上手くやれていたら、兄貴は戦争に行かなかったかもしれない」、「僕はどうして『お母さん』と素直に呼べなかったんやろう」と後悔するようになった。のちに藤田は兄からのはがきをコピーし、常に携帯するようになった。藤田は後年、継母について「いい人でした」、「大金持ちのところ(藤田は継母の前夫について、「とある著名な文化人」と述べている)から、惚れて貧乏役者のところに来たのに、子供が全くなつかなかったというのは辛いことだったでしょう。彼女にも悪かった」と述べている。継母は4、5年で林太郎と離婚した。 家族の元へ戻ったとき、姉は肺を患い伏せっていた(まもなく死去)。加えて、林太郎は家庭を顧みない性格の人間だったため、藤田は「頼れるのは自分の才覚だけ」という心境に至り、学校をさぼって闇市を徘徊、夜は京都市内のキャバレーや将校クラブの近くで進駐軍兵士の靴磨きや連絡係をして金を稼いだ。稼いだ金で買ったどぶろくが藤田が飲んだ最初の酒で、ヒロポンやエフェドリンにも手を出した。19歳のときに九州から大阪へ向かう夜行列車の中でヒロポンを使用していたところを警察官に見つかり、逮捕されたことがある。後年、藤田は『はぐれ刑事純情派』で刑事役を演じたことがきっかけである警察幹部と親しくなったが、あるときヒロポン使用での逮捕歴を持ち出され、「藤田さん、若いころはやんちゃだったんですね」とからかわれ後に2006年に発売された著書「最期」では違法薬物を使用したことを告白した。それから7年後の2013年に長男が覚せい剤使用容疑で逮捕されたことにより、親子揃って逮捕されたことになった。 1940年代後半、林太郎が所属していた一座に雑用係として参加するようになり、ほかの一座の巡業にも参加するようになった。17歳のときに歌謡ショーの一座の公演で「旅笠道中」を歌ったのが藤田の初舞台で、やがて舞台俳優としても活動するようになった。「藤田まこと」の芸名を名乗るようになったのはこの時期である。舞台俳優からキャリアをスタートさせたことから、藤田は「映画俳優を含め、舞台に上がっていない芸人は芸人ではない」という考えを持っていた。 10代の終わりに歌手を志して上京し、ディック・ミネのカバン持ちをしながら前座の歌手として活動した。1年ほどで大阪へ戻り、日本マーキュリーレコードでアルバイトとして働きながら歌手としての修業を積んだ。藤田は日本マーキュリーレコード所属の歌手の地方巡業に前座歌手として参加したが、あるとき病気になった司会者の代役を務めたのをきっかけに、巡業の司会者としても活動するようになった。司会者時代に最も印象に残っている歌手は東海林太郎で、癌の手術を受けた直後で体調が悪かったにもかかわらず、客の入り悪い冬の公演を一切手を抜かずにこなした姿に感銘を受けた。のちに東海林の生涯を芝居にしたいと考えた藤田は、1981年10月から1982年3月にかけて東京・大阪・名古屋で『東海林太郎物語・歌こそ我が命』を上演し、1984年に文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。 藤田は中田ダイマル・ラケットの助言を受けて司会の仕事をやめ、俳優として中田ダイマル率いる「ダイマル・ラケット劇団」に入団。藤田曰く当時の大阪では俳優とコメディアンの区別がなく、「役者志望の見習いコメディアン」として活動した。1957年、コメディー時代劇『ダイラケのびっくり捕物帖』で初めてテレビ番組に出演。藤田が演じたのは縁側に座っているだけの与力の役で、藤田によると「なにがなんやらわからんうちにはじまって、終わってしもた」。1961年、『笑いの王国』で生放送のCM(亜細亜製薬「強力ベルベ」)に出演。水戸黄門、西郷隆盛、丹下左膳など知名度の高い人物に扮したことが人気を博した。藤田曰く、このころに初めて街で視聴者から声をかけられるようになった。 1962年、時代劇コメディー『てなもんや三度笠』に出演。それまで脇役しか演じたことのなかった藤田が初めて主役(あんかけの時次郎)に抜擢された。出演依頼が来た時点で藤田は脇役として、テレビで6本、ラジオで5本の番組にレギュラー出演していたがディレクターの澤田隆治に「主役の役者が他の番組で脇役を演じては恰好が付かない」という理由から、それらの番組を全て降板するように要求された。藤田は「三軍から一軍に上がるチャンスかもしれん」と思い、条件を受け入れた。澤田によると突然のレギュラー降板に激怒して、藤田を長い間 起用しなかったテレビ局があったという。 『てなもんや三度笠』は4クール 52回の予定で放映を開始した。藤田は当初、番組が予定通り1年間存続することさえ危ぶんでいたが、予想外の人気を博し、同番組の提供スポンサー 前田製菓のCMフレーズ「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!」や白木みのる、財津一郎ら個性的なレギュラー陣のギャグが大当たりとなり、1968年まで放映された。藤田は渡辺プロダクションに在籍して、クレージーキャッツの主演映画などへの助演の他、自らの主演映画、谷啓とのコンビ主演映画など、『三度笠』と並行して数多くの映画・テレビ番組等に出演した。『三度笠』は最高視聴率 64.8%を記録(1965年)したが続編の『てなもんや一本槍』『てなもんや二刀流』は裏番組の『ヤングおー!おー!』(毎日放送)に視聴率で後塵を拝し、低視聴率となり、『 - 二刀流』の終盤は一桁に下降した。てなもんやシリーズは1971年2月末で終了。藤田自身の人気も同時に凋落の一途を辿った。周囲からの扱いが高視聴率を記録していた時期から一変して悪くなるのを目の当たりにした藤田は「視聴率という、実体のないものの怖さ」を実感したという。 てなもんやシリーズの終了後、藤田の下には「コメディのどうでもいい仕事の話」が来たが、「コメディそのものにも、いまひとつ乗りきれないものを感じていた」ことから全て断り、地方のキャバレーを回る巡業に出た。このとき藤田は「僕はもともと旅芸人、元に戻るだけや」という心境だったという。キャバレーでの興業は「意外に楽しく」、そのことが伝わったせいかキャバレー側から「また来てほしい」と要望されることが多かった。収入は『てなもんや三度笠』に出演していた頃よりもよかったが、巡業先でテレビを付けて見知った顔が出てくると焦りを感じたという。 1973年、広島のキャバレー出演中に朝日放送(ABC)プロデューサーの山内久司から電話連絡で時代劇『必殺仕置人』の中村主水役の出演オファーを受ける。山内は「殺し屋グループ『必殺仕置人』といっても家庭で楽しむホームドラマであるし、現代サラリーマンを映した役」として奉行所の同心を考え、家庭に馴染む役者として藤田を思いついた。藤田は『てなもんや三度笠』での「意地にゃ強いが情けに弱い、...腕と度胸じゃ負けないけれど、なぜか女にゃチョイと弱い」イメージが強すぎ、「それが闇の殺し屋? 無理じゃないの」という反対意見が朝日放送内で起こったが、その反対を押し切り、山内は藤田の起用を決めた。藤田は山内から「主役は山﨑努やけど、あんたは人間の善と悪の二面性を出してくれ」といわれた。「一見 情けない男だが、実は腕利きの殺し屋」という設定が「自分にぴったりの役」と感じた藤田は出演を承諾した。交渉の際に山内は「監督の深作欣二が『どうしても藤田まことでやりたい』と言っている」と藤田に話したが、後になって有名な役者4人、5人に依頼を打診したものの「安物の同心で、家に帰ったら養子で肩身が狭い」という設定を嫌われたという話を知った。藤田はその時、出演承諾から撮影開始まで1週間しかなかったことに合点がいったという。藤田は『必殺仕置人』の放映開始時はまだ「コメディアン」で、コメディのみならずシリアスな演技もできる「役者」になったのは2年ほどが経ってからだったと回顧している。 『必殺仕置人』は当初、山﨑努が演じる念仏の鉄を中心に描かれていたが、次第に藤田の中村主水を中心に物語が展開するようになった。硬軟合わせた意外性と二面性を演じ分けた藤田主水の人気は爆発した。「あんたはもう死んでいるぜ」は流行語になり、テレビ時代劇から初のオリジナル・ヒーローが誕生した。『必殺仕置人』で複数回監督を担当した三隅研次は、はじめ「おっさん! あんた芝居下手やなぁ」「こんなんで飯食えると思てんのか!」と藤田の演技を酷評したが、次第に「だいぶ芝居が落ち着いてきた」「これあと3回くらいやったら、一生もんのシリーズになるかもしれへん」と評するようになり、シリーズ終盤には「おっさん、これ必ず続きものになるで。あと半年やったら、中村主水があんたの体ん中入って、これは一生もんやで」と発言した。三隅の予想は的中して、藤田主演の『必殺シリーズ』は中断を挟みながら、1992年3月まで続いた。『必殺シリーズ』に出演していた間、藤田はテレビへの出演を同シリーズ一本に絞り、他は舞台に出演するというスタンスをとった。 この間、1977年11月には渡辺プロから独立。1978年1月、「藤田が座長で座員は藤田一人の劇団」との体裁で個人事務所「新演技座」を設立。客演ゲスト扱いで野川由美子、芦屋雁之助、芦屋小雁の3名が名を連ね、結成に関わっている。7月1日 - 7月25日には大阪・中座で旗揚げ公演「ちりれんげ/必殺仕置人 - 私 中村主水です」を行っている。 藤田によると末期の『必殺シリーズ』は荒唐無稽なストーリーが続出して、若い視聴者に向けて、まるで「饅頭の上に苺のっけたり、生クリームかけたり、ちょっとチェリーをのせたり、そんな雰囲気のデコレーション」を施すようになった。これを契機に藤田は制作サイドにシリーズ終了を訴えた。藤田はこのことについて「『必殺シリーズ』で時代劇は終焉をみたのであり、それ以降の番組は我々の失敗したことをまた懲りずにやってる状態だった」と当時の状況を客観的に述べている。 1988年、『はぐれ刑事純情派』シリーズの放映が開始。派手な演出がない作品だったことから藤田は当初ヒットしないという予感を抱いていたが、「なんや知らんうちに長続き」して、18年間に渡って放映した。藤田は『必殺シリーズ』と『はぐれ刑事純情派』シリーズとを比較して、「『コメディアン』として起用された前者と『役者』として起用された後者とでは重みが違った」と述べている。 1998年から放映された『剣客商売』シリーズは藤田の晩年を代表する作品の一つとなった。藤田は『東海林太郎物語』『その男ゾルバ』を上演した50代を自らの人生の中で最も充実した時期であったと振り返っているが、50代のうちに60代で行うことを考えなかったため、この先に何をすべきか迷い、頭の中が真っ白な状態になったという。藤田は「そんな中で『剣客商売』に出会い、迷いが消えた」と述べている。 2006年11月4日にはフジテレビの『仕掛人・藤枝梅安』で音羽の半右衛門を演じ、翌2007年7月7日にはABCテレビ・テレビ朝日の『必殺仕事人2007』で中村主水を再び演じた。 2008年4月に体調不良を訴えて検査を受けた所、食道がんであることが判明。6月の明治座『剣客商売』の舞台公演を降板して入院加療を行い、10月下旬より復帰。ABCテレビ・テレビ朝日の『必殺仕事人2009』に中村主水役でレギュラー出演した。 2009年10月期の『JIN-仁-』(TBS)にも新門辰五郎役で出演予定であったが、慢性閉塞性肺疾患により降板している。 俳優の藤田まこと氏が急逝 その後はリハビリを続けていたが2010年2月16日、箕面市の自宅で夕食後の家族団欒中に突然吐血。大阪大学医学部附属病院に搬送されたが翌17日7時25分、大動脈瘤破裂のため死去、76歳没。1月には体調の回復もあって、ナレーションの仕事を務め、3月の完全復帰を予定していた矢先のことであった。 藤田死去の報にテレビ創成期から共に活躍してきた戦友だった大村崑は「まこちゃんとの思い出はつきない。彼は大阪人の宝です」。『てなもんや三度笠』で共演した白木みのるは「僕の大きな友達を亡くした」と追悼の辞を発表(白木は『情報ライブ ミヤネ屋』で宮根誠司から聞かれるまで藤田まことの死を知らなかったという)。『てなもんや三度笠』の提供スポンサー 前田製菓は公式サイトのトップページにおいて追悼文を掲載した。戒名は、「寿量院修芸日真居士(じゅりょういんしゅうげいにっしんこじ)」。遺作は『京都殺人案内』の第32作目(2010年2月27日放送)。死去の5か月後に放送されたスペシャルドラマ「必殺仕事人2010」(2010年7月10日放送)では過去の映像と声のみ出演した(そのため、エンディングのキャストロールで藤田の名前が表示されていた)。 通夜・葬儀は長男が喪主を務め、近親者のみで執り行ったため(しかし密葬にもかかわらず約100名の弔問客が訪れ、後述の「しのぶ会」では約600名が参列した)、政財界や芸能関係者から「藤田さんにお別れを言いたい」と望む声が寄せられたことから遺族側は2011年4月13日(藤田の78回目の誕生日にあたる)にお別れの会を計画した。しかし、東日本大震災が発生したことによりこれを取り止め、日を改めて同年11月24日に森光子、野中広務、石原慎太郎、森喜朗らを発起人に東京国際フォーラムで『藤田まことさんをしのぶ会』が「藤田まこと 役者人生最後の花道」と銘打って行われ、当日は塩川正十郎、黒柳徹子、東山紀之、京本政樹など、藤田にゆかりのある関係者が出席し、藤田を偲んだ。 俳優としての特徴・エピソード陰がある役柄や必ずしも恰好がよく人生で成功を収めたわけではない人物を演じるのを好んだ。逆に成功譚は嫌いで、「出世していく男」「偉くなっていく男」を演じるのは「願い下げである」と述べている。その理由について藤田は、「成功者は成功する過程で他人を追い落とすなど人間らしいとはとても言えないような生き方をするものだが、芝居にするとそのような人間らしくない生き方が省略されたり強引に美化されるからだ」と述べている。藤田は「一種のスーパーマンなのだが、だからといって…別に出世するわけでもないし、偉くなっていくわけでもない」中村主水は「納得しながら演じられた役」だと述べている。 尊敬する俳優として、新国劇のスター、辰巳柳太郎の名を挙げている。藤田は幼いころ、ファンだった父親に連れられてしばしば新国劇を観に行き、辰巳の楽屋を訪れた。藤田は『てなもんや三度笠』の放映終了後キャバレー回りをしていた時期に、「役者の顔」でなくなる(藤田曰く、俳優が食い繋ぐために俳優以外の仕事を長くすると、次第に「役者の匂い」が抜けていき、その仕事をする者の顔になっていくという)ことを恐れ、当時所属していた渡辺プロに頼んで芝居を上演したことがあるが、そのとき辰巳との共演を果たし、以降辰巳の「勝手弟子」を自称した。 藤田は自身を「ひとつの役を何十回とやらないとモノにできない」タイプの俳優だと分析している。ただし「人のセリフまで通して本を全部を覚えてしまう」というほどセリフ覚えがよく、セリフが出てこなくなった失敗はなかったという。 俳優はある程度ミステリアスで、「何を考えているんやろ」「どんな奴なんやろう」と想像されるほうがいいという考えの持ち主であった。手の内を明かしたくないという理由からバラエティ番組にはあまり出演しなかった。藤田は「テレビでチャラチャラしてる人は芸人じゃない。芸を売ってる人じゃない。…呼び名はタレントでええ」とも述べている。 撮影において「こんなもんでええかな」と妥協してしまった際にはその作品をビデオに録画し、後で観賞する習慣があった。そうして録画された作品はビデオテープ100本分以上にのぼった。逆に「上手く行った」と思える作品は1本も録画しなかった。それらのビデオテープについて藤田は「この失敗作こそ僕の"財産"かもしれませんな。でも、ふつうの財産と違うのは、増やしてはならない財産であるところ」と述べている。 藤田はハイビジョンについて、「技術革新が進むことについては賛成」としつつ、ハイビジョン撮影された映像は「光と影の交わった部分の微妙な部分の味わい」が消えてしまい、人々の微妙な機微を表現できないという理由からハイビジョンでの撮影に否定的だった。藤田は「いずれ元のフィルムに戻そうという時代が来るのではないか」と述べている。 時間に厳しく、俳優生活の中で遅刻したのは2度だけだという。藤田にとって時間を守ることは「最低限の約束事」で、遅刻する人間のことは無視した。 「まわりに人をいっぱい置いておくのは嫌い」という理由から弟子をとらなかった。西川きよしは藤田に弟子入りを志願して断られたことがあり、西川によると漫才師として成功を収めた後、しばしば藤田に「弟子にしてたら今の“やすきよ”はないぞ」と言われたという。 芝居と俳優との関係について、台本を書く演出家は芝居という子供を「産みっぱなしですぐどっかに行ってしまう」ため、俳優の力でアレンジし、育てなければならないと述べている。俳優には芝居を育てるための感性が必要だと述べている。 「余分なところがないと、いいものはできない」という考えから、作品を作るにあたって「大きな絵を描いて、そこから余分なものを削っていって、無駄をそぎ落としていく」ことをよしとした。藤田は舞台では3分、40分長めの脚本を書くよう、ドラマでは長めに撮影するようスタッフに要求した。 NHKの大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』に柳生石舟斎役で出演した際、台本にある台詞を役柄に合ったものに変えたいと数回要望したが、そのたびに現場のディレクターからは「プロデューサーとの相談なしに現場で処理することはできない」と返答され、撮影を後回しにされた。このことに対するストレスから藤田はNHKのスタジオに近づくだけで熱っぽさ、息苦しさ、頭痛などを覚えるようになった。藤田はこの症状をNHK病と呼び、『武蔵』以降NHKのドラマには一切出演しなくなった(ただし、テレビドラマ以外の番組にはその後も出演しており、藤田の死亡時には追悼番組が放送されている)。なお、『武蔵』の総集編からは藤田の登場シーンがカットされたが、このときのトラブルが原因かどうかは定かでない。 舞台『浪花恋しぐれ・桂春団治』を演じたのをきっかけに落語を演じるようになり、1999年5月には独演会を催した。この独演会には春風亭小朝が観にきており、そのことを後で知った藤田は「もう二度とやらへんぞ」と思ったという。 「耳の穴から指つっこんで奥歯ガタガタいわせたろうか」とのフレーズは藤田が作ったものとされる。 ファン・評価黒澤明はテレビ時代劇は、あまり見ない方であるが、当時の助監督小泉堯史(藤田の映画主演としての遺作、「明日への遺言」の監督)によれば、黒澤の自宅を訪ねた際に藤田主演の必殺シリーズ作を見ており、小泉は驚いたが「これ(必殺)面白いんだよ」と高評価し、主演の藤田の芝居も絶賛した(その必殺作が何かは不明)、ただ小泉は藤田は必殺というよりは「日本の青春」のイメージが強いと語る(その必殺作が何かは不明)。 2024/06/18 22:36更新
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fujita makoto
藤田まことと同じ誕生日4月13日生まれ、同じ東京出身の人
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