もしもし情報局 > 1月21日 > 軍人

板垣征四郎の情報 (いたがきせいしろう)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月15日】今日誕生日の芸能人・有名人

板垣征四郎の情報(いたがきせいしろう) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

板垣 征四郎さんについて調べます

■名前・氏名
板垣 征四郎
(読み:いたがき せいしろう)
■職業
軍人
■板垣征四郎の誕生日・生年月日
1885年1月21日 (年齢63歳没)
酉年(とり年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
岩手出身

板垣征四郎と同じ1885年生まれの有名人・芸能人

板垣征四郎と同じ1月21日生まれの有名人・芸能人

板垣征四郎と同じ出身地岩手県生まれの有名人・芸能人


板垣征四郎と関係のある人

石田太郎: 落日燃ゆ(2009年、EX) - 板垣征四郎


松井石根: 昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で松井を含め、7人(残りの6人は東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章)の死刑が執行された。


鈴木貞一: 1929年(昭和4年)5月19日、永田鉄山・東條英機・板垣征四郎・石原莞爾ら陸軍中堅将校が結成していた二葉会と木曜会が合流して結成された一夕会のメンバーにもなった。


愛新覚羅溥儀: ここで、板垣征四郎(当時は大佐)から「本庄繁司令官の命令として満洲国における領軸になって欲しい」、という依頼があったことを証言し、「自分の立場は日本の傀儡以外何ものでもない」と主張した。


山本昌平: 南京の真実 第1部・七人の死刑囚(2008年、チャンネル桜エンタテインメント) - 元陸軍大将・板垣征四郎


今村均: 中央の統帥に従わない関東軍との折衝のために渡満するものの、板垣征四郎高級参謀や石原莞爾参謀に酒席の場に呼び出された挙句に馬鹿にした態度をとられ激怒して、その場を退席する一幕があった。


藤岡重慶: 第二部 愛と悲しみの山河(1971年) - 板垣征四郎


蒋介石: 1940年、桐工作で板垣征四郎と汪兆銘との会談が検討されたが、蔣は出席せず。


板垣正: 板垣征四郎の次男。


梅宮辰夫: 辰次郎は関東軍参謀・板垣征四郎とも懇意の仲で、祖父の葬儀では板垣が弔文を読んだ。


蒋介石: 桐工作では条件を緩和させ、蔣介石、板垣征四郎、汪兆銘の三者が参加する大物会談に発展する和平工作になった。


小澤征爾: 父小澤開作は歯科医師、満洲国協和会創設者の一人で、同志で満洲事変の中心人物であった板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した。


藤岡重慶: 第一部 運命の序曲(1970年) - 板垣征四郎


米内光政: 米内と陸軍大将の板垣征四郎は政治的立場も思想も異なったが、同郷(岩手県)出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合い、お互いを「光っつぁん」「征っこさん」と呼んでいた。


近衛文麿: そこで不拡大派の支持があった板垣征四郎を迎えることを決意し、板垣への使者として民間人の古野伊之助を派遣、古野は爆弾輸送のトラックに乗り山東省の最前線に乗り込んだ。


大川周明: 満洲事変に際しては首謀者の一人板垣征四郎と親しく、笠木良明が結成した大雄峯会が柳条湖事件や自治指導部などで関わった満洲国の建国を支持し、在満邦人と満洲人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満洲を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満洲新国家の建設』)。


石原莞爾: 『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者。


阿南惟幾: 1938年(昭和13年)3月1日 陸軍中将に昇進、7月に板垣征四郎陸軍大臣から、陸軍参謀本部が発議した皇族軍人の秩父宮雍仁親王を参謀総長に就任させる案の検討を命じられた。


平沼騏一郎: そのうえ議会が近いという事情から、近衛内閣から塩野季彦法相兼逓相、荒木貞夫文相、木戸幸一内相、有田八郎外相、八田嘉明商工相兼拓務相、米内光政海相、板垣征四郎陸相の七閣僚が留任、あたかも首のすげ替えの様相を呈した。


東條英機: 東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという。


辻政信: 9月、植田謙吉大将(関東軍司令官)と板垣征四郎中将(関東軍参謀長)の名で、「満州帝国協和会の根本精神」なる声明がパンフレットとして、石原信奉者であった辻の筆により出された。


川島芳子: 田中の回想によれば、同年末に関東軍参謀の板垣征四郎からの依頼を受けて、第一次上海事変のきっかけとなった上海日本人僧侶襲撃事件を田中が立案しており、関東軍から提供された2万円を使って中国人を雇って日本人僧侶を襲わせたが、この際に実行役を集め、報酬と引き換えに襲撃を実行させたのが芳子だった、とされている。


岡村寧次: 同期には岡村を含めて三羽烏と呼ばれた永田鉄山中将・小畑敏四郎中将の他、土肥原賢二大将・板垣征四郎大将・安藤利吉大将がいる。


武藤章: 二・二六事件後の廣田弘毅の組閣人事に際しては、軍内部で刷新人事を期待して若手の板垣征四郎を推す動きに対して、武藤は二・二六事件の粛軍人事で引退する予定だった参議官の寺内寿一大将を陸相に担ぎ上げ、また川島義之陸相の代理として広田の組閣本部に乗り込み陸軍の意向を伝えるなど積極的な動きをした。


梅津美治郎: この発言は、前陸相の板垣征四郎が中心となって推進した日独防共協定強化策を嫌い、自らの意を受けてこれに反対しうる陸相が必要という天皇の判断によるものであり、二・二六事件後の粛軍をこなした梅津への信頼感を物語る。


白鳥敏夫: また板垣征四郎陸軍大臣も白鳥を次官に起用するよう求め、7月には、大川周明が白鳥の起用を求める外務省若手の連名書を宇垣一成外相に提出し、また若手官僚7人が宇垣の私邸を訪れて白鳥の次官起用を暗に求めるという一件もあった。


藤岡重慶: 完結編(1973年) - 板垣征四郎


汪兆銘: 日本側は、板垣征四郎が汪兆銘政権が青天白日満地紅旗を用いることに難色を示し、これに対しては汪兆銘側にとっても譲れないところであったので、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを書き入れた黄色の三角旗(瓢帯)を加えて和平旗とすることで折り合いがついた。


汪兆銘: 陸軍大臣板垣征四郎は、汪兆銘の意思を尊重しつつ安全地帯に連れ出すことを命令し、これを受けた影佐禎昭は陸軍のみならず関係各省の合意が必要であると主張して、須賀彦次郎海軍少将、外務省・興亜院からは矢野征記書記官、国会議員の犬養健らを同行させることを条件に、この工作に携わった。


東條英機: 1938年(昭和13年)5月、第1次近衛内閣の陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。


板垣征四郎の情報まとめ

もしもしロボ

板垣 征四郎(いたがき せいしろう)さんの誕生日は1885年1月21日です。岩手出身の軍人のようです。

もしもしロボ

人物評、年譜などについてまとめました。卒業、結婚、事件、現在、病気に関する情報もありますね。63歳で亡くなられているようです。

板垣征四郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年(明治18年)1月21日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位・勲一等・功二級。満洲国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。

関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満洲事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官を務めた。戦後の極東国際軍事裁判にてA級戦犯として死刑判決を受け処刑された。関東軍防疫部の設立提案者。板垣政参の弟、元参議院議員の板垣正は次男。

岩手県岩手郡沼宮内村(現・岩手町)出身。仁王尋常小学校、盛岡中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業

祖父・佐々木直作は盛岡藩士族で、藩校作人館の教授や藩主の侍講、郡奉行格勘定奉行を務めるなど藩の中心人物の一人であった。戊辰戦争の秋田戦争で盛岡藩が敗れると、新政府により藩の責任者として楢山佐渡、那珂通高と共に江戸の増上寺に幽閉され、後に釈放されると岩手郡沼宮内の地に隠遁し板垣桑蔭を名乗った。なお、著名な政治家である板垣退助と桑蔭や征四郎の間に血縁関係はない。征四郎は日記の中で「祖父桑蔭は聖賢に近し」「文武兼備の聖人」「儒学の蘊奥を究めた」と記しており、非常に尊敬していた様子が窺える。父・板垣政徳は気仙郡郡長や女学校校長を務めた。明治・三陸大津波の犠牲者を慰霊する慰霊塔(大海嘯記念碑)の撰文は政徳が揮毫したものである。家の宗旨は日蓮宗であった。

盛岡中学では三級上に米内光政、一級上に金田一京助や及川古志郎、野村胡堂などが、一級下には石川啄木がいた。2年生(1898年度)当時は、全校で17人の特待生の一人で、この年度の学業成績平均は85点だった。

陸軍幼年学校時代は生徒監だった大越兼吉から厳しい訓育を受けた。大越は日露戦争の奉天会戦で戦死したが、後に征四郎は大越の遺児である喜久子と後に結婚した。陸軍士官学校は第16期で岡村寧次や土肥原賢二、永田鉄山、小畑敏四郎らと同期で交友も深く、板垣も二葉会、一夕会に所属していた。

1929年(昭和4年)に関東軍の高級参謀に就任。1931年(昭和6年)、石原莞爾らと謀り柳条湖事件を起こし、満洲事変を実行した。満洲事変に於ける関東軍の行動は、宇垣一成派が追放された後に陸軍の実権を握っていた一夕会系中堅幕僚層からの支持を受け、永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、参謀本部の東条英機編成動員課長、渡久雄欧米課長などが、関東軍の活動を有利にさせる方向で動いた。

1932年(昭和7年)、軍司令部付で満洲国の執政顧問・奉天特務機関長となった。しかし同年の荒木貞夫による皇道派人事で関東軍司令官に武藤信義大将、参謀長に小磯国昭中将、参謀副長に岡村寧次少将が就任し満洲組が左遷されると、この頃の板垣にはもはや関東軍を牛耳る力はなかったとされる。熱河作戦では天津特務機関長となり、反蔣介石勢力によるクーデターを起こさせる「北支親日政権」樹立のための調略活動に従事したが失敗し、ヨーロッパ出張を命じられた。しかしその後永田ら統制派が陸軍内部の主導権を奪い返すと満洲組も復活し、ヨーロッパから帰国した後は満洲国軍政部最高顧問(1934年8月~12月)、関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官(1934年12月~1936年3月)、関東軍参謀長(1936年3月~1937年3月)を歴任。

満洲事変勃発の前月、大連市 のヤマトホテルにおいて開かれた有力者による会合において板垣は、「将来の世界は、大国だけが存在し、他の小国は経済的に従属の地位に落とされる。確実な資源の供給地と、製品の販路を持たない国は、経済的に独立することができない。日本が満洲を失えば、重工業の基礎は破滅だ。満洲は戦略的拠点だ。現在の情勢では、日ソ戦争は北満で起きる。大日本建国には満洲は絶対に必要な戦略拠点だ。」と語っている。また、関東軍参謀長時代には「満洲帝国は治安ますます良好で、庶政は発展している。満洲国は日、鮮、満、漢、蒙の五族協和の国だ。満洲三千余万の人口中、日本人は僅か五十万人である。これでは心細い。二十年間、百万戸、五百万人の日本移民が実現されなければならない。」と述べ、関東軍主導による満洲農業移民百万戸移住計画を推し進めた。

また満洲国独立に際し、上海公使館付陸軍武官補佐官だった田中隆吉少佐(後に少将)に「満洲独立に対する列国の目をそらすため、上海でことをおこせ」と資金2万円を供与するとともに工作を命じた。その結果起きたのが第一次上海事変のきっかけとなる上海日本人僧侶襲撃事件であった。

東京裁判において田中は、「板垣閣下は...関東軍がもっておりました内面指導権というものをいかんなく行使せられまして、巧みに満洲国をコントロールされました。」と、述べるなど満洲国における板垣の影響力の大きさを語っている。

岡田内閣は対中融和的な外相・広田弘毅の「広田三原則」を持って軍部を牽制しようとしたが、対中政策に関わる関東軍ら出先軍部の高級幕僚は「支那は統一せらるべきものに非ざること」と考え華北分離工作を進めていた。

満洲時代の板垣は、いわゆる「分治合作」論を唱え、対中工作の指針とした。つまり、蔣介石政権は財政的基盤を英米に依存しているため日本と親善関係に入ることはなく、日ソ戦争が起きた場合も中国はソ連側に立つ公算が高いと考えた。そして、政府の対中政策を批判し、「…その要点は支那大陸を人文及び地文上の見地に基づき分立せしめ」、日本は分立した個々の地域と直接提携を結び、日本の国力によって各地域間の対立相克を防ぎ、各地域内の平和の維持と民衆の経済的繁栄をはかり、究極的には日・満・華、三国提携の実績を挙げるべきであるとした。。

ソ連・中国の連帯と中国への共産主義の浸透を危惧する板垣ら関東軍の幕僚は内蒙古の工作を進め、内モンゴル独立運動の指導者、デムチュクドンロブ(徳王)を支援して、関東軍参謀長の機密費の流用や冀東防共自治政府による特殊貿易の収入を充てるなどの援助により蒙古軍政府を組織させ、綏遠事件を起こした。こうした関東軍の急進的な活動に批判的でこれを止めようとした石原莞爾参謀本部戦争指導課長は関東軍本部を訪問し、陸軍中央部の指示に反する内蒙工作を中止するよう要望したが、武藤章第二課長以下の関東軍幕僚は冷笑的な態度で接し、また工作の主導者である板垣はかつての上司であり、石原の「二度と柳の下に泥鰌はいない」という忠告も無視したため、陸軍中央による統制の試みは失敗した。

支那事変(日中戦争)では第5師団師団長として出征する。平型関と忻口鎮(きんこうちん)の戦闘では、険しい地形を生かした林彪らの八路軍に阻まれ多くの死傷者を出す。1937年11月9日、第20師団の救援により、山西省太原市を占領した。

張作霖爆殺事件・満洲事変・支那事変等の重大事件が相次いで発生すると、中国の現地事情に精通した支那通の軍人が求められるようになっていった。また、地方軍閥がなお割拠する中国の戦場では、欧州の近代的軍事技術はあまり役に立たないので、『豪傑型』が多い支那通軍人の陸軍内部でのステータスは相対的に高まっていった。

こうした中、第一次近衛内閣改造で1938年6月3日、陸相兼対満事務局総裁に就任。これには林内閣で組閣工作に失敗した十河信二の近衛への進言があった。日支和平に積極的な満洲組の総帥である板垣を牽制すべく、陸軍次官梅津美治郎(陸士15期で板垣の1期先輩)は統制派の総帥だった東条(17期)を自分の後任次官にさせた。一方陸軍省での勤務経験が無い板垣も自ら事務に堪能な東条を次官に求めた経緯があり、奇しくも両者の要求が一致した格好である。のちに戦線の拡大か不拡大かで東条と多田駿参謀次長が争い、板垣は多田と意を通じるも、「喧嘩両成敗」として両者を更迭した。平沼内閣総辞職に伴い陸相を退任する際、自らの後任に推したのは多田であったが、それは叶わず畑俊六が就任することとなった。

陸相在任中は宇垣一成外相による日華和平交渉に際しては、「蔣介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。当時の蔵相であった池田成彬は和平交渉に賛成であったはずの板垣の行動に対して、「次官以下のところに非常な強硬論者があって、それが板垣君を引きずっていたように自分は思う」と語っている。陸軍の下克上の中で、板垣は宇垣や池田の期待していたほどの役割を果たせなかった。

張鼓峰事件では板垣は昭和天皇に対し武力行使の裁可を求めた。天皇が「関係大臣との連絡はどうか」と問うと板垣は、宇垣一成外相も米内光政海相も賛成であると答えた。しかし二人とも反対であると知っていた天皇は「自分をだますのか」と怒り、更に柳条湖事件などの陸軍の独断専行に不信を抱いていた天皇は「今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」と、板垣達を叱責した。しかしこの時板垣は天皇の意を忖度した閑院宮参謀総長が奏上を取りやめていたこと、またそのことが参謀本部から陸軍省に通告されなかったこと、更に同意を取り付けたと思われていた宇垣外相が翻意していたことを聞かされていなかったとの稲田正純の証言がある。平沼内閣でも陸相に留任。ノモンハン事件では参謀本部の不拡大方針を無視した関東軍参謀の辻政信の独走を「まあいいじゃないか」と黙認した。また、「一個師団位いちいちやかましくいわないで、現地に任せたらいいではないか」と、関東軍の作戦行動を承認した。

1938年8月26日、日独伊防共協定強化問題について五相会議が開かれた。ナチス・ドイツはこの協定を強力な軍事同盟とし、同盟の対象をソ連以外の英・仏等にも拡大しようと提案してきたが、独伊に協調的な板垣と、英米仏等にまで拡大することに否定的な宇垣外相とが対立した。11月11日にも五相会議が開かれ、英仏等のみを対象するものではないと決定されたが、これを受けた大島浩駐独大使が反発。そこで12月初めに五相会議を開いたところ板垣は、5月、11月の五相会議も対象として英仏等を含むという決定をしていたと言い出した。他の大臣はこれを批判したが板垣が反発したため、結局何も決まらないままに終了した。一方その同時期の五相会議において、ナチスが排斥するユダヤ人を日本においても排斥するわけではない、との猶太人対策要綱を発議、従来方針を再確認してもいる。また、ドイツに駐在していた河辺虎四郎が「内閣の崩壊を賭しても(陸相辞任、そして不推挙による内閣総辞職)、左右いずれか明らかな態度を示してもらいたい」と具申してきたことに対し温厚な板垣には珍しく強く叱責しており、板垣には内閣を潰してもやるという意図は無かったようである。

1939年7月5日、陸軍内の人事異動案について天皇の事前承諾を得るための報告中、寺内寿一軍事参議官のドイツ派遣を「防共強化を精神的に強く結合する意味」でも必要と述べたことから、これに不快感を覚えた天皇から「お前は自分の考をよく知っているじゃあないか。この前も軍事参議官の会議で、外務大臣は軍事協定に賛成である、という虚構の事実を報告している。まことにけしからん」と叱責され、更に天津問題での板垣の返答ぶりに怒った天皇は「お前はどうも頭が悪いじゃないか」とまで述べている。

「桐工作」では板垣は「蔣介石の下野」でなく蒙疆・華北への防共駐屯を求めたり、日本側は汪精衛・蔣介石政府の合作を日本が仲介する事で蔣介石・汪精衛・板垣征四郎の会談を要求したが、実現しなかった。板垣は一度は敵対していた蔣介石と和睦を考えたのである。

独ソ不可侵条約成立による平沼内閣倒壊で陸相を退き、支那派遣軍総司令部の初代総参謀長となってからは1939年9月15日の満洲国承認記念日の演説で東亜連盟を強調し、宮崎正義の東亜連盟論と杉浦晴男の東亜連盟建設綱領に題字をおくり、第二次近衛声明(東亜新秩序声明)がこれに沿うものとするなど東亜連盟論者であった。板垣を慕った本部附きの辻政信とともに起草した 「派遣軍将兵に告ぐ」 で日満支三国による東亜連盟結成を訴え、板垣と会談した宮崎らは嘱託となり、辻の部下津野田知重は同じ派遣軍勤務の三笠宮崇仁親王とのちに東条暗殺を計画するなど支那派遣軍は和平工作の拠点となった。

1941年(昭和16年)7月に大将に昇進したと同時に朝鮮軍司令官となる。朝鮮軍司令官となってからも東亜連盟運動に関与しており朝鮮の活動家青年達とも接触を持ったが、司令官としては朝鮮総督の小磯国昭や朝鮮総督府政務総監らと共調した内鮮一体の植民政策を押し進めた。直接戦局と関わらない朝鮮軍司令官となったことについて辻政信は東亜連盟に熱心な板垣を東条が嫌ったためではないかと考えている。後半の1945年(昭和20年)4月、第7方面軍司令官に就任。ただし、上官である南方軍総司令官寺内寿一元帥陸軍大将が病気により執務ができない状態にあったため、実質的に板垣が総司令官代理の任を務めた。

第7方面軍司令官としてシンガポールで終戦を迎え、イギリス軍に身柄を拘束された。その後連合国によりA級戦犯に指定され、極東国際軍事裁判開廷初日の1946年(昭和21年)5月3日に、空路東京へ移送された。裁判においては確定訴因10項目の内8項目を挙げられ、訴因1では「1928~1945に於ける戦争に対する共通の計画謀議」を、訴因29、31、32では米・英・蘭に対する太平洋戦争の遂行を、他に中国、ソ連、シンガポールにおける罪を問われ、死刑判決を受けた。

板垣本人は獄中に記した日記の中で「満洲事変記念日。噫、十七年前ノ今月今日、満洲事変ハ成功セリ。其後支那ニ手ヲ出シタノガ誤リ。万死ニ値ス」と記している。

死刑が宣告された後、板垣は教誨師の花山信勝に対して以下のように語った。

今次の世界大戦が起きる前、世界最終戦ということを一部で唱え、私たちもそれを支持してきた。今から二十年以内に世界最終戦がある。日本はその時に備えて準備しなければならない。世界最終戦後に最後の平和が来る。それに日本は備えなければならない。私どもはそれに全力を尽くした。意に反して支那事変が起きた。たいへんと思って早く収拾しようとした。私は陸軍省にいた時だから、全力を尽くしたができなかった。それが今度の第二次世界大戦となり、日本は最終戦の戦力を失うということになった。

辞世の歌は、

ポツダムの 宣のまにまに とこしえの 平和のために 命捧ぐる

とこしえの 平和のために 身を捨てて 糞土を黄金に かえる嬉しさ

大神の 御魂の前に ひれふして ひたすら深き 罪を乞うなり

今はただ 妙法蓮華と 唱えつつ 鷲の峰へと いさみたつなり

さすらいの 身の浮き雲も 散りはてて 真如の月を 仰ぐうれしさ

懐かしき 唐国人よ 今もなほ 東亜のほかに 東亜あるべき

1948年(昭和23年)12月23日、死刑執行。享年64(満63歳没)。

人物評

関東軍時代に板垣の直属の部下となり、最期まで親交のあった片倉衷は、「知将タイプではなかったが、人心を把握する才能のある大人であり、政略家であった」「小言に拘泥せず大器量の持ち主で、性格的にあらゆるものに淡白で、包容力のある気さくな人物であった。私の最も尊敬する将軍の一人である」と評している。

第五師団司令部参謀であった美山要蔵は、板垣が太原作戦において北支那方面軍に具申せず、不拡大派であるかつての部下である参謀本部の石原・多田に対して圧力をかけて作戦を強行しようとしたことが、方面軍司令官の寺内寿一の心証を害し円滑な連携を欠いた原因ではないかとしている。また編成班長として兵力削減の研究をしていた際、支那派遣軍総参謀長だった板垣に「こんなに戦線を、支那事変を拡大されるとどうにもなりませんね」と述べたところ、「兵は勢だ」と一喝されたという。

支那派遣軍参謀であった岡田芳政は、酒井隆が「板垣という人は払われても払われても直突する。直突居士だ。」と評していたのを紹介し、桐工作で「満洲国承認は天皇陛下の御決定になったことで絶対に譲れない。『満洲国承認』とたった五文字ではないか」と条件を貫いた板垣の姿勢は、まさに直突居士であったと評している。

支那派遣軍参謀副長で桐工作を担当した今井武夫は、桐工作については板垣が満洲国承認に固執したために失敗したと語っている。また板垣を『帷幄の謀将』と評し、満洲事変、上海事変、綏遠事件や内蒙工作などは全て板垣が発動したものであるが、土肥原賢二ばかりで板垣が謀略家であることに関心を寄せないのは不思議であるとしている。また国際社会への重大な影響が予想されるにもかかわらず、満洲事変や上海事変、天津租界の封鎖を実行した決断力と胆力は尋常ではないと評している。

企画院総裁であった鈴木貞一は、知者から見れば愚物と思われるが、軍人には珍しい包容力と度量があり、人間味溢れる肝の人であり西郷隆盛のような人物であったと評している。人徳があり部下にもよく慕われたが、部下を絶対に信頼してその責任を自らが全てとるため、板垣個人の考えと行動が矛盾して受けとられることがあると指摘している。

何かと人を糾弾することの多い辻政信は板垣によく可愛がられていたが、辻の方でも板垣に大変なついており、第七方面軍司令に着任した際司令部に「不世出の名将を司令官に得てお目出度う」と書信を寄せている。岡田芳政は「全軍広しと云えども、辻が本当に頭を下げた人は板垣だけだったと思う」と述べている。

年譜

明治18年(1885年)岩手県岩手町沼宮内に生まれる。

明治24年(1891年)沼宮内尋常小学校に入学。

明治26年(1893年)盛岡市仁王高等小学校に転校。

明治30年(1897年)岩手尋常中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。

明治32年(1899年)仙台陸軍幼年学校に入校。

明治34年(1901年)陸軍中央幼年学校に入校。

明治36年(1903年)陸軍士官学校に入校。

明治37年(1904年)

    10月 - 陸軍士官学校卒業(16期)。

    11月 - 歩兵として陸軍歩兵少尉に任官。歩兵第4連隊附。

    12月 - 日露戦争に従軍(~1906年1月)。

    明治40年(1907年(明治40年)12月 - 陸軍歩兵中尉に昇進。

    大正2年(1913年)8月 - 陸軍歩兵大尉に昇進。

    大正5年(1916年)11月 - 陸軍大学校卒業(28期)。歩兵第4連隊中隊長。

    大正6年(1917年)8月6日 - 参謀本部附仰附(昆明駐在)。

    大正8年(1919年)

      4月 - 中支那派遣隊司令部附。

      7月 - 中支那派遣隊参謀。

      大正9年(1920年)4月 - 陸軍歩兵少佐に昇進。

      大正10年(1921年)4月 - 歩兵第47連隊大隊長。

      大正11年(1922年)4月 - 参謀本部部員(支那課)。

      大正12年(1923年)8月 - 陸軍歩兵中佐に昇進。

      大正13年(1924年)6月 - 中国公使館附武官補佐官(北平駐在)。

      昭和2年(1927年)

        5月28日 - 歩兵第33旅団参謀。

        7月 - 第10師団司令部附。

        9月 - 支那出張。

        昭和3年(1928年)3月8日 - 陸軍歩兵大佐に昇進。歩兵第33連隊長。

        昭和4年(1929年)5月14日 - 関東軍高級参謀。

        昭和6年(1931年)10月5日 - 関東軍第2課長。

        昭和7年(1932年)8月8日 - 陸軍少将に昇進。関東軍司令部附(満洲国執政顧問)。

        昭和8年(1933年)2月8日 - ヨーロッパ出張。

        昭和9年(1934年)

          8月1日 - 関東軍司令部附(満洲国軍政部最高顧問)。

          12月10日 - 関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官。

          昭和11年(1936年)

            3月23日 - 関東軍参謀長。

            4月28日 - 陸軍中将に昇進。

            昭和12年(1937年)3月1日 - 第5師団長。5月8日 - 勲一等瑞宝章 叙勲

            昭和13年(1938年)6月3日 - 第46代陸軍大臣兼対満事務局総裁

            昭和14年(1939年)1月5日 - 第47代陸軍大臣。9月4日 - 支那派遣軍総参謀長。

            昭和16年(1941年)7月7日 - 陸軍大将に昇進。朝鮮軍司令官。

            昭和20年(1945年)

              2月1日 - 第17方面軍司令官(兼任)。

              4月7日 - 第7方面軍司令官。

              昭和21年(1946年)

                4月 - 逮捕令。

                5月 - 予備役編入。

                昭和23年(1948年)12月23日 - 巣鴨プリズンにて絞首刑。

2024/06/15 04:32更新

itagaki seishirou



TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


板垣征四郎と近い名前の人

板垣 龍佑(いたがき りゅうすけ)
1982年7月26日生まれの有名人 神奈川出身

板垣 龍佑(いたがき りゅうすけ、1982年7月26日 - )は、テレビ東京のアナウンサー。 神奈川県出身。慶應義塾志木高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。姉がいる。 2006年仙台放送入社、2…

板垣 真衣(いたがき まい)
1988年8月2日生まれの有名人 高知出身

板垣 真衣(いたがき まい、本名:板垣劉 真衣、1988年8月2日 - )は、高知県出身のモデル。所属事務所はなく、フリーモデルとして活動。2013年7月ミス・ワールド2013審査員特別賞を受賞。 …

板垣 真由子(いたがき まゆこ)
1979年7月19日生まれの有名人 北海道出身

板垣 真由子(いたがき まゆこ、1979年7月19日 - )は、日本の女性声優。ゆーりんプロ所属。北海道出身。よこざわけい子 声優・ナレータースクール12期生。 ドラえもん(子供) 房総STYLE…

板垣 まみ(いたがき まみ)
1985年7月4日生まれの有名人 岡山出身

板垣 まみ(いたがき まみ、1985年7月4日 - )は、岡山県出身のお笑い芸人。身長158cm、体重50kg。B85・W65・H87。血液型はO型。以前、浅井企画に所属していたお笑いコンビ「Mサイズ…

板垣 雄三(いたがき ゆうぞう)
1931年2月5日生まれの有名人 東京出身

板垣 雄三(いたがき ゆうぞう、1931年2月5日 - )は、日本のイスラム学者。東京大学名誉教授、東京経済大学名誉教授。文化功労者。 東京市本郷生まれ、1953年東京大学文学部西洋史学科卒業、1…

板垣 武四(いたがき たけし)
1916年2月13日生まれの有名人 北海道出身

板垣 武四(いたがき たけし、1916年2月13日 - 1993年8月12日)は、1971年初当選の第7代札幌市長。北海道上川郡和寒町出身。 呉服屋を営む家庭の13人兄弟の11番目として生まれ、小…

板垣 あずさ(いたがき あずさ)
1988年11月23日生まれの有名人 新潟出身

板垣 あずさ(いたがき あずさ、1988年11月23日 - )は、日本のタレント、元AV女優、元グラビアアイドル。 新潟県から単身東京へ。10-POINTにスカウトされ、グラビアの道へ進んだ。20…

板垣 真理子(いたがき まりこ)
1952年3月6日生まれの有名人 宮崎出身

板垣 真理子(いたがき まりこ)は、日本の写真家。日本写真芸術専門学校、文京学院大学講師。 文京短期大学英文科(現 文京学院大学)卒業。東京海上火災保険株式会社に勤めた後、音楽修業と渡米を果たし、…

板垣 恵介(いたがき けいすけ)
1957年4月4日生まれの有名人 北海道出身

板垣 恵介(いたがき けいすけ、1957年4月4日 - )は、日本の漫画家、元陸上自衛隊第一空挺団所属。北海道釧路市出身。本名は板垣 博之(いたがき ひろゆき)。刃牙や餓狼伝に代表される格闘技を題材と…

板垣 退助(いたがき たいすけ)
1837年5月21日生まれの有名人 高知出身

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月16日、4月17日〈1837年5月20日もしくは5月21日〉 - 大正8年〈1919年〉7月16日)は、日本の政治家、軍人(土佐藩陸軍総督)、武士(土佐藩士…

板垣 英憲(いたがき えいけん)
1946年8月7日生まれの有名人 広島出身

板垣 英憲(いたがき えいけん、本名「ひでのり」、1946年〈昭和21年〉8月7日 - )は、日本の政治評論家、ジャーナリスト。 広島県呉市に生まれる(旧本籍地は鳥取県東伯郡大栄町(現北栄町)、現…

板垣 宏(いたがき ひろし)
1930年8月16日生まれの有名人 愛媛出身

板垣 宏(いたがき ひろし、1930年8月16日 - 2015年12月2日)は、日本の経営者。帝人社長、会長を務めた。 愛媛県出身。1953年に京都大学工学部工業化学科を卒業し、同年に帝国人造絹絲…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
板垣征四郎
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手) 石山順征

グループ

ライムベリー 乙女新党 Prizmmy☆ 愛乙女★DOLL CoverGirls Silent Siren でんぱ組.inc LinQ 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「板垣征四郎」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました