板垣征四郎の情報(いたがきせいしろう) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


板垣 征四郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
板垣征四郎と関係のある人
東條英機: 東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという。 山本昌平: 南京の真実 第1部・七人の死刑囚(2008年、チャンネル桜エンタテインメント) - 元陸軍大将・板垣征四郎 小澤征爾: 父小澤開作は歯科医師、満洲国協和会創設者の一人で、同志で満洲事変の中心人物であった板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した。 大川周明: 満洲事変に際しては首謀者の一人板垣征四郎と親しく、笠木良明が結成した大雄峯会が柳条湖事件や自治指導部などで関わった満洲国の建国を支持し、在満邦人と満洲人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満洲を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満洲新国家の建設』)。 米内光政: その上で、満州事変・支那事変・日英米蘭開戦を推進した責任者として、土肥原賢二・板垣征四郎・武藤章、文官では松岡洋右の名前も挙げて、陸軍の戦争責任を追及している。 川島芳子: 田中の回想によれば、同年末に関東軍参謀の板垣征四郎からの依頼を受けて、第一次上海事変のきっかけとなった上海日本人僧侶襲撃事件を田中が立案しており、関東軍から提供された2万円を使って中国人を雇って日本人僧侶を襲わせたが、この際に実行役を集め、報酬と引き換えに襲撃を実行させたのが芳子だった、とされている。 石原莞爾: 『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者。 梅津美治郎: この発言は、前陸相の板垣征四郎が中心となって推進した日独防共協定強化策を嫌い、自らの意を受けてこれに反対しうる陸相が必要という天皇の判断によるものであり、二・二六事件後の粛軍をこなした梅津への信頼感を物語る。 汪兆銘: 日本側は、板垣征四郎が汪兆銘政権が青天白日満地紅旗を用いることに難色を示し、これに対しては汪兆銘側にとっても譲れないところであったので、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを書き入れた黄色の三角旗(瓢帯)を加えて和平旗とすることで折り合いがついた。 松井石根: 昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で松井を含め、7人(残りの6人は東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章)の死刑が執行された。 板垣正: 板垣征四郎の次男。 板垣正: 板垣征四郎 阿南惟幾: 1938年(昭和13年)3月1日 陸軍中将に昇進、7月に板垣征四郎陸軍大臣から、陸軍参謀本部が発議した皇族軍人の秩父宮雍仁親王を参謀総長に就任させる案の検討を命じられた。 白鳥敏夫: また板垣征四郎陸軍大臣も白鳥を次官に起用するよう求め、7月には、大川周明が白鳥の起用を求める外務省若手の連名書を宇垣一成外相に提出し、また若手官僚7人が宇垣の私邸を訪れて白鳥の次官起用を暗に求めるという一件もあった。 汪兆銘: 陸軍大臣板垣征四郎は、汪兆銘の意思を尊重しつつ安全地帯に連れ出すことを命令し、これを受けた影佐禎昭は陸軍のみならず関係各省の合意が必要であると主張して、須賀彦次郎海軍少将、外務省・興亜院からは矢野征記書記官、国会議員の犬養健らを同行させることを条件に、この工作に携わった。 近衛文麿: そこで不拡大派の支持があった板垣征四郎を迎えることを決意し、板垣への使者として民間人の古野伊之助を派遣、古野は爆弾輸送のトラックに乗り山東省の最前線に乗り込んだ。 藤岡重慶: 完結編(1973年) - 板垣征四郎 武藤章: 二・二六事件後の廣田弘毅の組閣人事に際しては、軍内部で刷新人事を期待して若手の板垣征四郎を推す動きに対して、武藤は二・二六事件の粛軍人事で引退する予定だった参議官の寺内寿一大将を陸相に担ぎ上げ、また川島義之陸相の代理として広田の組閣本部に乗り込み陸軍の意向を伝えるなど積極的な動きをした。 蒋介石: 桐工作では条件を緩和させ、蔣介石、板垣征四郎、汪兆銘の三者が参加する大物会談に発展する和平工作になった。 蒋介石: 1940年、桐工作で板垣征四郎と汪兆銘との会談が検討されたが、蔣は出席せず。 石田太郎: 落日燃ゆ(2009年、EX) - 板垣征四郎 岡村寧次: 同期には岡村を含めて三羽烏と呼ばれた永田鉄山中将・小畑敏四郎中将の他、土肥原賢二大将・板垣征四郎大将・安藤利吉大将がいる。 平沼騏一郎: そのうえ議会が近いという事情から、近衛内閣から塩野季彦法相兼逓相、荒木貞夫文相、木戸幸一内相、有田八郎外相、八田嘉明商工相兼拓務相、米内光政海相、板垣征四郎陸相の七閣僚が留任、あたかも首のすげ替えの様相を呈した。 東條英機: 1938年(昭和13年)5月、第1次近衛内閣の陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。 米内光政: 米内と陸軍大将の板垣征四郎は政治的立場も思想も異なったが、同郷(岩手県)出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合い、お互いを「光っつぁん」「征っこさん」と呼んでいた。 藤岡重慶: 第一部 運命の序曲(1970年) - 板垣征四郎 愛新覚羅溥儀: ここで、板垣征四郎(当時は大佐)から「本庄繁司令官の命令として満洲国における領軸になって欲しい」、という依頼があったことを証言し、「自分の立場は日本の傀儡以外何ものでもない」と主張した。 鈴木貞一: 1929年(昭和4年)5月19日、永田鉄山・東條英機・板垣征四郎・石原莞爾ら陸軍中堅将校が結成していた二葉会と木曜会が合流して結成された一夕会のメンバーにもなった。 梅宮辰夫: 辰次郎は関東軍参謀・板垣征四郎とも懇意の仲で、祖父の葬儀では板垣が弔文を読んだ。 今村均: 中央の統帥に従わない関東軍との折衝のために渡満するものの、板垣征四郎高級参謀や石原莞爾参謀に酒席の場に呼び出された挙句に馬鹿にした態度をとられ激怒して、その場を退席する一幕があった。 |
板垣征四郎の情報まとめ

板垣 征四郎(いたがき せいしろう)さんの誕生日は1885年1月21日です。岩手出身の軍人のようです。

卒業、結婚、事件、現在、病気に関する情報もありますね。1948年に亡くなられているようです。
板垣征四郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年(明治18年)1月21日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位・勲一等・功二級。満洲国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満洲事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官を務め、関東軍防疫給水部(731部隊)の設立にも関わった。戦後の極東国際軍事裁判にてA級戦犯として死刑判決を受け処刑された。 岩手県岩手郡沼宮内村(現・岩手町)出身。仁王尋常小学校、盛岡中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。 祖父・佐々木直作は盛岡藩士族で、藩校作人館の教授や藩主の侍講、郡奉行格勘定奉行を務めるなど藩の中心人物の一人であった。戊辰戦争の秋田戦争で盛岡藩が敗れると、新政府により藩の責任者として楢山佐渡、那珂通高と共に江戸の増上寺に幽閉され、後に釈放されると岩手郡沼宮内の地に隠遁し板垣桑蔭を名乗った。なお、著名な政治家である板垣退助と征四郎の間に血縁関係はない。征四郎は日記の中で「祖父桑蔭は聖賢に近し」「文武兼備の聖人」「儒学の 盛岡中学では三級上に米内光政、一級上に金田一京助や及川古志郎、野村胡堂などが、一級下には石川啄木がいた。2年生(1898年度)当時は、全校で17人の特待生の一人で、この年度の学業成績平均は85点だった。 陸軍幼年学校時代は生徒監だった大越兼吉から厳しい訓育を受けた。大越は日露戦争の奉天会戦で戦死したが、後に征四郎は大越の遺児である喜久子と結婚した。陸軍士官学校は第16期で岡村寧次や土肥原賢二、永田鉄山、小畑敏四郎らと同期で交友も深く、板垣も二葉会、一夕会に所属していた。 1929年(昭和4年)に関東軍の高級参謀に就任。1931年(昭和6年)、石原莞爾らと謀り柳条湖事件を起こし、満洲事変を実行した。満洲事変における関東軍の行動は、宇垣一成派が追放された後に陸軍の実権を握っていた一夕会系中堅幕僚層からの支持を受け、永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、参謀本部の東条英機編成動員課長、渡久雄欧米課長などが、関東軍の活動を有利にさせる方向で動いた。 1932年(昭和7年)、軍司令部付で満洲国の執政顧問・奉天特務機関長となった。しかし同年の荒木貞夫による皇道派人事で関東軍司令官に武藤信義大将、参謀長に小磯國昭中将、参謀副長に岡村寧次少将が就任し満洲組が左遷されると、この頃の板垣にはもはや関東軍を牛耳る力はなかったとされる。熱河作戦では天津特務機関長となり、反蔣介石勢力によるクーデターを起こさせる「北支親日政権」樹立のための調略活動に従事したが失敗し、ヨーロッパ出張を命じられた。しかしその後永田ら統制派が陸軍内部の主導権を奪い返すと満洲組も復活し、ヨーロッパから帰国した後は満洲国軍政部最高顧問(1934年8月 - 12月)、関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官(1934年12月 - 1936年3月)、関東軍参謀長(1936年3月 - 1937年3月)を歴任した。 満洲事変勃発の前月、大連市のヤマトホテルで開かれた有力者による会合において板垣は、「将来の世界は、大国だけが存在し、他の小国は経済的に従属の地位に落とされる。確実な資源の供給地と、製品の販路を持たない国は、経済的に独立することができない。日本が満洲を失えば、重工業の基礎は破滅だ。満洲は戦略的拠点だ。現在の情勢では、日ソ戦争は北満で起きる。大日本建国には満洲は絶対に必要な戦略拠点だ。」と語っている。また、関東軍参謀長時代には「満洲帝国は治安ますます良好で、庶政は発展している。満洲国は日、鮮、満、漢、蒙の五族協和の国だ。満洲三千余万の人口中、日本人は僅か五十万人である。これでは心細い。二十年間、百万戸、五百万人の日本移民が実現されなければならない。」と述べ、関東軍主導による満洲農業移民百万戸移住計画を推し進めた。 また満洲国独立に際し、上海公使館付陸軍武官補佐官だった田中隆吉少佐(後に少将)に「満洲独立に対する列国の目をそらすため、上海でことをおこせ」と資金2万円を供与するとともに工作を命じた。その結果起きたのが第一次上海事変のきっかけとなる上海日本人僧侶襲撃事件であった。 東京裁判において田中は、「板垣閣下は……関東軍がもっておりました内面指導権というものをいかんなく行使せられまして、巧みに満洲国をコントロールされました。」と述べるなど、満洲国における板垣の影響力の大きさを語っている。 岡田内閣は対中融和的な外相・広田弘毅の「広田三原則」を持って軍部を牽制しようとしたが、対中政策に関わる関東軍ら出先軍部の高級幕僚は「支那は統一せらるべきものに非ざること」と考え華北分離工作を進めていた。 満洲時代の板垣は、いわゆる「分治合作」論を唱え、対中工作の指針とした。つまり、蔣介石政権は財政的基盤を英米に依存しているため日本と親善関係に入ることはなく、日ソ戦争が起きた場合も中国はソ連側に立つ公算が高いと考えた。そして、政府の対中政策を批判し、「…その要点は支那大陸を人文及び地文上の見地に基づき分立せしめ」、日本は分立した個々の地域と直接提携を結び、日本の国力によって各地域間の対立相克を防ぎ、各地域内の平和の維持と民衆の経済的繁栄をはかり、究極的には日・満・華、三国提携の実績を挙げるべきであるとした。 ソ連・中国の連帯と中国への共産主義の浸透を危惧する板垣ら関東軍の幕僚は内蒙古の工作を進め、内モンゴル独立運動の指導者、デムチュクドンロブ(徳王)を支援して、関東軍参謀長の機密費の流用や冀東防共自治政府による特殊貿易の収入を充てるなどの援助により蒙古軍政府を組織させ、綏遠事件を起こした。こうした関東軍の急進的な活動に批判的でこれを止めようとした石原莞爾参謀本部戦争指導課長は関東軍本部を訪問し、陸軍中央部の指示に反する内蒙工作を中止するよう要望したが、武藤章第二課長以下の関東軍幕僚は冷笑的な態度で接し、また工作の主導者である板垣はかつての上司であり、石原の「二度と柳の下に泥鰌はいない」という忠告も無視したため、陸軍中央による統制の試みは失敗した。 支那事変(日中戦争)では第5師団師団長として出征する。平型関と忻口鎮(きんこうちん)の戦闘では、険しい地形を生かした林彪らの八路軍に阻まれ多くの死傷者を出す。1937年11月9日、第20師団の救援により、山西省太原市を占領した。 張作霖爆殺事件・満洲事変・支那事変等の重大事件が相次いで発生すると、中国の現地事情に精通した支那通の軍人が求められるようになっていった。また、地方軍閥がなお割拠する中国の戦場では、欧州の近代的軍事技術はあまり役に立たないので、『豪傑型』が多い支那通軍人の陸軍内部でのステータスは相対的に高まっていった。 こうした中、第一次近衛改造内閣で1938年6月3日、陸相兼対満事務局総裁に就任。これには林内閣で組閣工作に失敗した十河信二の近衛への進言があった。日支和平に積極的な満洲組の総帥である板垣を牽制すべく、陸軍次官梅津美治郎(陸士15期で板垣の1期先輩)は統制派の総帥だった東条(17期)を自分の後任次官にさせた。一方陸軍省での勤務経験が無い板垣も自ら事務に堪能な東条を次官に求めた経緯があり、奇しくも両者の要求が一致した格好である。のちに戦線の拡大か不拡大かで東条と多田駿参謀次長が争い、板垣は多田と意を通じるも、「喧嘩両成敗」として両者を更迭した。平沼内閣総辞職に伴い陸相を退任する際、自らの後任に推したのは多田であったが、それは叶わず畑俊六が就任することとなった。 陸相在任中は宇垣一成外相による日華和平交渉に際しては、「蔣介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。当時の蔵相であった池田成彬は和平交渉に賛成であったはずの板垣の行動に対して、「次官以下のところに非常な強硬論者があって、それが板垣君を引きずっていたように自分は思う」と語っている。陸軍の下克上の中で、板垣は宇垣や池田の期待していたほどの役割を果たせなかった。 張鼓峰事件では板垣は昭和天皇に対し武力行使の裁可を求めた。天皇が「関係大臣との連絡はどうか」と問うと板垣は、宇垣一成外相も米内光政海相も賛成であると答えた。しかし二人とも反対であると知っていた天皇は「自分をだますのか」と怒り、更に柳条湖事件などの陸軍の独断専行に不信を抱いていた天皇は「今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」と、板垣達を叱責した。しかしこの時板垣は天皇の意を忖度した閑院宮参謀総長が奏上を取りやめていたこと、またそのことが参謀本部から陸軍省に通告されなかったこと、更に同意を取り付けたと思われていた宇垣外相が翻意していたことを聞かされていなかったとの稲田正純の証言がある。平沼内閣でも陸相に留任。ノモンハン事件では参謀本部の不拡大方針を無視した関東軍参謀の辻政信の独走を「まあいいじゃないか」と黙認した。また、「一個師団位いちいちやかましくいわないで、現地に任せたらいいではないか」と、関東軍の作戦行動を承認した。 1938年8月26日、防共協定強化問題について五相会議が開かれた。ナチス・ドイツはこの協定を強力な軍事同盟とし、同盟の対象をソ連以外の英・仏等にも拡大しようと提案してきたが、独伊に協調的な板垣と、英米仏等にまで拡大することに否定的な宇垣外相とが対立した。11月11日にも五相会議が開かれ、英仏等のみを対象するものではないと決定されたが、これを受けた大島浩駐独大使が反発。そこで12月初めに五相会議を開いたところ板垣は、5月、11月の五相会議も対象として英仏等を含むという決定をしていたと言い出した。他の大臣はこれを批判したが板垣が反発したため、結局何も決まらないままに終了した。一方その同時期の五相会議において、ナチスが排斥するユダヤ人を日本においても排斥するわけではない、との猶太人対策要綱を発議、従来方針を再確認してもいる。また、ドイツに駐在していた河辺虎四郎が「内閣の崩壊を賭しても(陸相辞任、そして不推挙による内閣総辞職)、左右いずれか明らかな態度を示してもらいたい」と具申してきたことに対し温厚な板垣には珍しく強く叱責しており、板垣には内閣を潰してもやるという意図は無かったようである。 1939年7月5日、陸軍内の人事異動案について天皇の事前承諾を得るための報告中、寺内寿一軍事参議官のドイツ派遣を「防共強化を精神的に強く結合する意味」でも必要と述べたことから、これに不快感を覚えた天皇から「お前は自分の考をよく知っているじゃあないか。この前も軍事参議官の会議で、外務大臣は軍事協定に賛成である、という虚構の事実を報告している。まことにけしからん」と叱責され、更に天津問題での板垣の返答ぶりに怒った天皇は「お前はどうも頭が悪いじゃないか」とまで述べている。 「桐工作」では板垣は「蔣介石の下野」でなく蒙疆・華北への防共駐屯を求めたり、日本側は汪精衛・蔣介石政府の合作を日本が仲介する事で蔣介石・汪精衛・板垣征四郎の会談を要求したが、実現しなかった。板垣は一度は敵対していた蔣介石と和睦を考えたのである。 独ソ不可侵条約成立による平沼内閣倒壊で陸相を退き、支那派遣軍総司令部の初代総参謀長となってからは1939年9月15日の満洲国承認記念日の演説で東亜連盟を強調し、宮崎正義の東亜連盟論と杉浦晴男の東亜連盟建設綱領に題字をおくり、第二次近衛声明(東亜新秩序声明)がこれに沿うものとするなど東亜連盟論者であった。板垣を慕った本部附きの辻政信とともに起草した 「派遣軍将兵に告ぐ」 で日満支三国による東亜連盟結成を訴え、板垣と会談した宮崎らは嘱託となり、辻の部下津野田知重は同じ派遣軍勤務の三笠宮崇仁親王とのちに東条暗殺を計画するなど支那派遣軍は和平工作の拠点となった。 1941年(昭和16年)7月に大将に昇進したと同時に朝鮮軍司令官となる。朝鮮軍司令官となってからも東亜連盟運動に関与しており朝鮮の活動家青年達とも接触を持ったが、司令官としては朝鮮総督の小磯国昭や朝鮮総督府政務総監らと共調した内鮮一体の植民政策を押し進めた。直接戦局と関わらない朝鮮軍司令官となったことについて辻政信は東亜連盟に熱心な板垣を東条が嫌ったためではないかと考えている。後半の1945年(昭和20年)4月、第7方面軍司令官に就任。ただし、上官である南方軍総司令官寺内寿一元帥陸軍大将が病気により執務ができない状態にあったため、実質的に板垣が総司令官代理の任を務めた。1945年9月12日、シンガポールでイギリス軍に対し、降伏文書に調印した。 第7方面軍司令官としてシンガポールで終戦を迎え、イギリス軍に身柄を拘束された。その後連合国によりA級戦犯に指定され、極東国際軍事裁判開廷初日の1946年(昭和21年)5月3日に、空路東京へ移送された。裁判においては確定訴因10項目の内8項目を挙げられ、訴因1では「1928~1945に於ける戦争に対する共通の計画謀議」を、訴因29、31、32では米・英・蘭に対する太平洋戦争の遂行を、他に中国、ソ連、シンガポールにおける罪を問われ、死刑判決を受けた。 板垣本人は獄中に記した日記の中で「満洲事変記念日。噫、十七年前ノ今月今日、満洲事変ハ成功セリ。其後支那ニ手ヲ出シタノガ誤リ。万死ニ値ス」と記している。 死刑が宣告された後、板垣は教誨師の花山信勝に対して以下のように語った。 今次の世界大戦が起きる前、世界最終戦ということを一部で唱え、私たちもそれを支持してきた。今から二十年以内に世界最終戦がある。日本はその時に備えて準備しなければならない。世界最終戦後に最後の平和が来る。それに日本は備えなければならない。私どもはそれに全力を尽くした。意に反して支那事変が起きた。たいへんと思って早く収拾しようとした。私は陸軍省にいた時だから、全力を尽くしたができなかった。それが今度の第二次世界大戦となり、日本は最終戦の戦力を失うということになった。 辞世の歌は、 「ポツダムの 宣のまにまに とこしえの 平和のために 命捧ぐる」 「とこしえの 平和のために 身を捨てて 糞土を黄金に かえる嬉しさ」 「大神の 御魂の前に ひれふして ひたすら深き 罪を乞うなり」 「今はただ 妙法蓮華と 唱えつつ 鷲の峰へと いさみたつなり」 「さすらいの 身の浮き雲も 散りはてて 真如の月を 仰ぐうれしさ」 「懐かしき 唐国人よ 今もなほ 東亜のほかに 東亜あるべき」 1948年(昭和23年)12月23日、死刑執行。享年64(満63歳没)。1960年に殉国七士廟、1978年に靖国神社に合祀された。 関東軍時代に板垣の直属の部下となり、最期まで親交のあった片倉衷は、「知将タイプではなかったが、人心を把握する才能のある大人であり、政略家であった」「小言に拘泥せず大器量の持ち主で、性格的にあらゆるものに淡白で、包容力のある気さくな人物であった。私の最も尊敬する将軍の一人である」と評している。 第五師団司令部参謀であった美山要蔵は、板垣が太原作戦において北支那方面軍に具申せず、不拡大派であるかつての部下である参謀本部の石原・多田に対して圧力をかけて作戦を強行しようとしたことが、方面軍司令官の寺内寿一の心証を害し円滑な連携を欠いた原因ではないかとしている。また編成班長として兵力削減の研究をしていた際、支那派遣軍総参謀長だった板垣に「こんなに戦線を、支那事変を拡大されるとどうにもなりませんね」と述べたところ、「兵は勢だ」と一喝されたという。 支那派遣軍参謀であった岡田芳政は、酒井隆が「板垣という人は払われても払われても直突する。直突居士だ。」と評していたのを紹介し、桐工作で「満洲国承認は天皇陛下の御決定になったことで絶対に譲れない。『満洲国承認』とたった五文字ではないか」と条件を貫いた板垣の姿勢は、まさに直突居士であったと評している。 支那派遣軍参謀副長で桐工作を担当した今井武夫は、桐工作については板垣が満洲国承認に固執したために失敗したと語っている。また板垣を『帷幄の謀将』と評し、満洲事変、上海事変、綏遠事件や内蒙工作などは全て板垣が発動したものであるが、土肥原賢二ばかりで板垣が謀略家であることに関心を寄せないのは不思議であるとしている。また国際社会への重大な影響が予想されるにもかかわらず、満洲事変や上海事変、天津租界の封鎖を実行した決断力と胆力は尋常ではないと評している。 企画院総裁であった鈴木貞一は、知者から見れば愚物と思われるが、軍人には珍しい包容力と度量があり、人間味溢れる肝の人であり西郷隆盛のような人物であったと評している。人徳があり部下にもよく慕われたが、部下を絶対に信頼してその責任を自らが全てとるため、板垣個人の考えと行動が矛盾して受けとられることがあると指摘している。 何かと人を糾弾することの多い辻政信は板垣によく可愛がられていたが、辻の方でも板垣に大変なついており、第七方面軍司令に着任した際司令部に「不世出の名将を司令官に得てお目出度う」と書信を寄せている。岡田芳政は「全軍広しと云えども、辻が本当に頭を下げた人は板垣だけだったと思う」と述べている。 医学者の板垣政参は兄。元参議院議員の板垣正は次男。 明治18年(1885年)岩手県岩手町沼宮内に生まれる。 明治24年(1891年)沼宮内尋常小学校に入学。 明治26年(1893年)盛岡市仁王高等小学校に転校。 明治30年(1897年)岩手尋常中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。 明治32年(1899年)仙台陸軍幼年学校に入校。 明治34年(1901年)陸軍中央幼年学校に入校。 明治36年(1903年)陸軍士官学校に入校。 明治37年(1904年)
11月 - 歩兵として陸軍歩兵少尉に任官。歩兵第4連隊附。 12月 - 日露戦争に従軍(~1906年1月)。 明治40年(1907年(明治40年)12月 - 陸軍歩兵中尉に昇進。 大正2年(1913年)8月 - 陸軍歩兵大尉に昇進。 大正5年(1916年)11月 - 陸軍大学校卒業(28期)。歩兵第4連隊中隊長。 大正6年(1917年)8月6日 - 参謀本部附仰附(昆明駐在)。 大正8年(1919年)
7月 - 中支那派遣隊参謀。 大正9年(1920年)4月 - 陸軍歩兵少佐に昇進。 大正10年(1921年)4月 - 歩兵第47連隊大隊長。 大正11年(1922年)4月 - 参謀本部部員(支那課)。 大正12年(1923年)8月 - 陸軍歩兵中佐に昇進。 大正13年(1924年)6月 - 中国公使館附武官補佐官(北平駐在)。 昭和2年(1927年)
7月 - 第10師団司令部附。 9月 - 支那出張。 昭和3年(1928年)3月8日 - 陸軍歩兵大佐に昇進。歩兵第33連隊長。 昭和4年(1929年)5月14日 - 関東軍高級参謀。 昭和6年(1931年)10月5日 - 関東軍第2課長。 昭和7年(1932年)8月8日 - 陸軍少将に昇進。関東軍司令部附(満洲国執政顧問)。 昭和8年(1933年)2月8日 - ヨーロッパ出張。 昭和9年(1934年)
12月10日 - 関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官。 昭和11年(1936年)
4月28日 - 陸軍中将に昇進。 昭和12年(1937年)3月1日 - 第5師団長。5月8日 - 勲一等瑞宝章 叙勲 昭和13年(1938年)6月3日 - 第46代陸軍大臣兼対満事務局総裁 昭和14年(1939年)1月5日 - 第47代陸軍大臣。9月4日 - 支那派遣軍総参謀長。 昭和16年(1941年)7月7日 - 陸軍大将に昇進。朝鮮軍司令官。 昭和20年(1945年)
4月7日 - 第7方面軍司令官。 昭和21年(1946年)
5月 - 予備役編入。 昭和23年(1948年)
12月23日 - 巣鴨プリズンにて絞首刑。 板垣氏(佐々木氏) 本姓清和源氏と称する。 1904年(明治37年)12月8日 - 正八位 1908年(明治41年)3月20日 - 従七位 1913年(大正2年)5月20日 - 正七位 1918年(大正7年)7月10日 - 従六位 1923年(大正12年)8月6日 - 正六位 1928年(昭和3年)4月16日 - 従五位 1932年(昭和7年)9月1日 - 正五位 1936年(昭和11年)6月1日 - 従四位 1938年(昭和13年)6月15日 - 従三位 1941年(昭和16年)8月1日 - 正三位 1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等単光旭日章・明治三十七八年従軍記章 1914年(大正3年)5月16日 - 勲五等瑞宝章 1920年(大正9年)
11月1日 - 大正三年乃至九年戦役従軍記章 1927年(昭和2年)6月30日 - 勲三等瑞宝章 1934年(昭和9年)2月7日 - 勲二等瑞宝章 1934年(昭和9年)4月29日 - 功三級金鵄勲章・旭日重光章・昭和六年乃至九年事変従軍記章 1937年(昭和12年)
7月7日 - 旭日大綬章・昭和六年乃至九年事変従軍記章 1940年(昭和15年)
8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1934年(昭和9年)5月9日 - 満州帝国:勲一位景雲章
1943年(昭和18年)
7月14日 - 中華民国:特級同光勲章 ^ これには当時参謀本部情報部長だった永田鉄山が関与していた。 ^ 訴因27 満洲事変以後の対中華民国戦争遂行 ^ 訴因35 ソビエトに対する張鼓峰事件の遂行 訴因36 ソビエト及び蒙古に対するノモンハン事件の遂行 ^ 『尊卑分脈』によると、板垣兼信の子は、長男頼時と次男頼重だけで、三男「四郎義之」の名を見ない。長男頼時は「四郎」と称し、父兼信の罪に連座し、常陸に配流されている。この子孫がのちに陸奥に移り住んだのであろうか。 ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、113頁。 ^ 岩城之徳『石川啄木伝』筑摩書房、1985年、58頁。doi:10.11501/12462253。 ^ 川田 2014, p. 14. ^ 川田 2014, p. 270. ^ 松本 1963, p. 115. ^ 児島襄 『東京裁判(上)』p201 ^ 戸部良一 『日本陸軍と中国』p189 ^ 阪谷芳直『三代の系譜』みすず書房、1979年、275頁。doi:10.11501/12253978。 ^ 森 2009, p. 196. ^ 森 2009, p. 30. ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 109. ^ 額田 1999, p. 79. ^ 井上寿一『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』講談社〈講談社現代新書 2453〉、2017年、187-188頁。ISBN 978-4-06-288453-2。 ^ 古川 2011, p. 233. ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 225. ^ 松本 1963, p. 220. ^ 戸部良一 ほか『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』中央公論社〈中公文庫〉、1991年、50頁。ISBN 4-12-201833-1。 ^ 筒井清忠『近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2009年、206頁。ISBN 978-4-00-600218-3。 ^ 古川 2011, p. 246. ^ 「板垣征四郎、多田駿が大将に」『東京日日新聞』1941年(昭和16年)7月8日(昭和ニュース編纂委員会『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p785 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 白土菊枝『将軍石原莞爾―その人と信仰に触れて』まこと会、1995年、329頁。ISBN 4-89514-104-7。 ^ 板垣征四郎刊行会 1972, pp. 162–163. ^ 読売新聞 2023年1月9日朝刊 1面 ^ 日置英剛『年表 太平洋戦争全史』国書刊行会、2005年10月31日、759頁。ISBN 978-4-336-04719-9。 ^ 極東国際軍事裁判所 『東京裁判判決:極東国際軍事裁判所判決文』 毎日新聞社 昭和24年 ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 466. ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 356. ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 362. ^ 片倉 1981, p. 60. ^ 片倉 1981, p. 65. ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 137. ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 142. ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 154. ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 260. ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 125. ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 264. ^ 板垣征四郎刊行会 1972, p. 193. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。 ^ 法廷証第110号: [板垣征四郎關スル人事局履歴書] ^ 『官報』1904年12月17日 叙任及辞令 ^ 『官報』1908年03月23日 叙任及辞令 ^ 『官報』1913年05月21日 叙任及辞令 ^ 『官報』1918年07月11日 叙任及辞令 ^ 『官報』1923年08月08日 叙任及辞令 ^ 『官報』第432号「叙任及辞令」1928年6月7日。 ^ 『官報』1932年09月08日 叙任及辞令 ^ 『官報』1936年06月02日 叙任及辞令 ^ 『官報』第3439号「叙任及辞令」1938年6月22日。※従四位からの陞叙 ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。 ^ 『官報』第2370号「叙任及辞令」1920年6月26日。 ^ 『官報』第151号「叙任及辞令」1927年7月1日。 ^ 『官報』第2129号「叙任及辞令」1934年2月8日。 ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1937年7月7日。 ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 ^ 『官報』第3037号・付録「辞令二」1937年2月19日。 ^ 『官報』第3946号、昭和15年3月4日 ^ 『官報』第4915号・付録「辞令二」1943年6月3日。 ^ 『官報』第4954号「叙任及辞令」1943年7月19日。 ^ 「畑俊六外七十二名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113475800 板垣征四郎刊行会 編『秘録 板垣征四郎』芙蓉書房、1972年。doi:10.11501/13307286。 片倉衷『片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧』芙蓉書房、1981年2月。doi:10.11501/12397183。 川田稔『昭和陸軍全史』 1 満州事変、講談社〈講談社現代新書 2272〉、2014年。ISBN 978-4062882729。 額田坦『最後の陸軍省人事局長 額田坦回想録』芙蓉書房、1999年。ISBN 978-4829502334。 古川隆久『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』中央公論新社〈中公新書〉、2011年。ISBN 978-4121021052。 松本政治『郷土兵団物語』岩手日報社、1963年。doi:10.11501/1671724。 森久男『日本陸軍と内蒙工作 関東軍はなぜ独走したか』講談社〈講談社選書メチエ〉、2009年。ISBN 978-4062584401。 『官報』1938年06月03日 叙任及辞令 「従四位 勲一等 功三級 板垣征四郎 任陸軍大臣兼対満事務局総裁」 猶太人対策要綱 『人民中国』 - 中国からみた板垣征四郎像 タピオカで飢えしのぎ…終戦直後、南方軍の苦境伝える陸軍大将・板垣征四郎の書簡確認 (読売新聞2023年1月9日掲載記事) 『板垣征四郎』 - コトバンク 表 話 編 歴 山縣有朋 西郷従道 大山巌 大山巌 高島鞆之助 大山巌 高島鞆之助 桂太郎 児玉源太郎 寺内正毅 石本新六 上原勇作 木越安綱 楠瀬幸彦 岡市之助 大島健一 田中義一 山梨半造 田中義一 宇垣一成 白川義則 宇垣一成 南次郎 荒木貞夫 林銑十郎 川島義之 寺内寿一 中村孝太郎 杉山元 板垣征四郎 畑俊六 東條英機 杉山元 阿南惟幾 東久邇宮稔彦王 下村定 カテゴリ 表 話 編 歴 板垣征四郎 木村兵太郎 土肥原賢二 東條英機 広田弘毅 武藤章 松井石根 荒木貞夫 梅津美治郎 大島浩 岡敬純 賀屋興宣 木戸幸一 小磯國昭 佐藤賢了 嶋田繁太郎 白鳥敏夫 鈴木貞一 橋本欣五郎 畑俊六 平沼騏一郎 星野直樹 南次郎 重光葵(7年) 東郷茂徳(20年) 松岡洋右:裁判中の1946年(昭和21年)6月27日に病死のため公訴棄却 永野修身:裁判中の1947年(昭和22年)01月5日に病死のため公訴棄却 大川周明:裁判中の1947年(昭和22年)04月9日に梅毒による精神障害が認められ訴追免除 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 板垣征四郎 大日本帝国陸軍大将 太平洋戦争における日本の軍人 20世紀の軍人 殉国七士 満洲事変の人物 A級戦犯 関東軍の人物 日中戦争の人物 公職追放者 昭和時代戦前の閣僚 日本の陸軍大臣 正三位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 功二級金鵄勲章受章者 勲一等瑞宝章受章者 ドイツ鷲勲章受章者 捕虜となった人物 刑死した日本の人物 陸軍大学校出身の人物 陸軍士官学校 (日本)出身の人物 岩手県立盛岡第一高等学校出身の人物 岩手県出身の人物 板垣氏 1885年生 1948年没 プロジェクト人物伝項目 2025/04/03 16:46更新
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itagaki seishirou
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