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小澤征爾の情報 (おざわせいじ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

小澤征爾の情報(おざわせいじ) 指揮者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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小澤 征爾さんについて調べます

■名前・氏名
小澤 征爾
(読み:おざわ せいじ)
■職業
指揮者
■小澤征爾の誕生日・生年月日
1935年9月1日 (年齢88歳没)
亥年(いのしし年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
旧 中国出身

(昭和10年)1935年生まれの人の年齢早見表

小澤征爾と同じ1935年生まれの有名人・芸能人

小澤征爾と同じ9月1日生まれの有名人・芸能人

小澤征爾と同じ出身地旧 中国生まれの有名人・芸能人


小澤征爾と関係のある人

レナード=バーンスタイン: ここから小澤征爾、クラウディオ・アバド、ズデニェク・コシュラーなどの指揮者が育っていった。


井口基成: 一期生には小澤征爾(指揮者)、中村紘子(ピアニスト)、堤剛(チェリスト)らがいる。


田崎悦子: ショルティをはじめ、サヴァリッシュ、スラットキン、ブロムシュテット、小澤征爾などが率いる世界のオーケストラと共演。


武満徹: 1995年、1月23日にサントリーホールで行われた32年ぶりの小澤征爾指揮NHK交響楽団演奏会に出掛けた。


中丸美繪: 2015年、産経新聞社発行の「月刊モーストリー・クラシック」に8回にわたって、「小澤征爾異聞」を連載。


中丸三千繪: 1986年、小澤征爾指揮、「エレクトラ」で日本デビュー。


江戸京子: “指揮者の小澤征爾さん死去 「世界のオザワ」と評され活躍 88歳”. NHK. (2024年2月9日). https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240209/k10014354011000.html 2024年2月9日閲覧。


筑紫哲也: 小澤征爾は「とにかくものすごい音楽好き。


小坂一也: 中学時代には小澤征爾や松尾勝吾(松尾雄治の叔父)などと共にラグビー部に所属。


大友直人: 指揮法を齋藤秀雄、小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、岡部守弘らに学ぶ。


今井信子: 1964年、桐朋学園オーケストラのアメリカ・ツアーでコンサートミストレスを務め、そのままアメリカに残り、タングルウッド音楽祭で小澤征爾指揮ボストン響のリヒャルト・シュトラウスの『ドン・キホーテ』を聴いたことをきっかけにヴィオラに転向する。


エサ=ペッカ=サロネン: 2010年、フィルハーモニア管弦楽団来日公演、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団来日公演(キャンセル)(小澤征爾の代役)


秋山和慶: 「齋藤メソッド」(指揮法)の継承者であり、小澤征爾、山本直純らと共に齋藤秀雄の門下生。


武満徹: この「エクリプス」はアメリカで活動中の小澤征爾を通じてニューヨーク・フィル音楽監督レナード・バーンスタインに伝えられ、このことから、同団の125周年記念の作品が委嘱されることとなった。


中山知子: 作詞・訳詞の代表的な作品には、『おんまはみんな』、『はさみとぎ』、『ピエロのトランペット』、『合唱ファンタジー ほらほらコンサート』、『少年少女のための合唱ミュージカル ふしぎの国のアリス』、『マタイ受難曲』(成城合唱団の委嘱作品、1975年小澤征爾指揮、新日本フィルで初演)などがある。


石井眞木: 日本太鼓とオーケストラのための「モノプリズム」(指揮小澤征爾、和太鼓林英哲、ボストン交響楽団の演奏で1976年初演。


小室哲哉: この頃になると「売れなくてもいい」「売れるに越したことはないけど、この時代にどれだけ人の心に届くかを重視している」「小澤征爾さんの作品の大ヒットを見て、メガヒットに頼らないセレクトショップのような音楽を目指したいと思った」 と心境の変化を語った。


小澤征悦: 父は指揮者の小澤征爾、母は女優の入江美樹、姉はエッセイストの小澤征良、従兄にミュージシャンの小沢健二がいる。


フィリップ=アントルモン: レナード・バーンスタイン、ユージン・オーマンディ、ピエール・ブーレーズ、小澤征爾、シャルル・デュトワ、ミシェル・プラッソンなどの指揮者たちとの数々の名演で知られる。


アイザック=スターン: 小澤征爾などの日本人演奏家と親交を持っていた。


小沢幹雄: 小澤征爾の実弟であり、兄・征爾に関する仕事が多い。


吉野直子: これまで共演したのは、指揮者ではズービン・メータ、ジュゼッペ・シノーポリ、ニコラウス・アーノンクール、小澤征爾、秋山和慶、ヴォルフガング・サヴァリッシュ等。


小沢幹雄: テレビ朝日系「­モーニングセンサー」の司会に「やじうまワイド」のレポーター、ワイドショーでの生コマーシャル、FM東京「小澤幹雄のやわらかクラシック」のDJ、ニッポン放送「小澤征爾の世界」の司会者として活動。


矢部達哉: ソリストとして、これまでに朝比奈隆、小澤征爾、若杉弘、フルネ、クレー、デプリースト、インバル、ベルティーニなどの指揮者と共演している。


アンリ=デュティーユ: 2007年サイトウ・キネン・フェスティバルにおいて、小澤征爾の指揮により世界初演。


黛敏郎: MINOKO(1964年・未完)- 三島由紀夫の書き下ろし台本による(日生劇場のこけら落としのために小澤征爾指揮で初演予定だった)


蜷川幸雄: 現代演劇のフィールド外でも、小澤征爾の指揮による歌劇『さまよえるオランダ人』(リヒャルト・ワーグナー作曲)、宇崎竜童作曲によるミュージカル『魔女の宅急便』、尾上菊之助の依頼を受け菊五郎劇団と組んだ歌舞伎『NINAGAWA十二夜』などを演出、ほかにも映画、テレビドラマ、コンサート、ファッションショーなど、さまざまな媒体や舞台での演出を手掛けている。


下野竜也: その後、2008年2月の定期演奏会でNHK交響楽団を、同8月のサイトウ・キネン・フェスティバル松本でサイトウ・キネン・オーケストラを指揮するなど(2010年9月の同フェスティバル、12月のニューヨーク・カーネギーホールでのコンサートでも小澤征爾の代役として一部演目で同オーケストラを指揮)、現在では国内の主なオーケストラを多く指揮している。


木嶋真優: 指揮者小澤征爾が、小澤率いるサイトウ・キネン・オーケストラや水戸室内管弦楽団に、木嶋を招聘した事でも注目される。


広中平祐: グロタンディークの要請を受けIHESの研究員としてパリに滞在していた1959年、語学学校で指揮者の小澤征爾と出会い、親交を結ぶ。


小澤征爾の情報まとめ

もしもしロボ

小澤 征爾(おざわ せいじ)さんの誕生日は1935年9月1日です。旧 中国出身の指揮者のようです。

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受賞・栄典、親族などについてまとめました。卒業、解散、家族、結婚、離婚、再婚、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。88歳で亡くなられているようです。

小澤征爾のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

小澤 征爾(おざわ せいじ、1935年〈昭和10年〉9月1日 - 2024年〈令和6年〉2月6日)は、日本の男性指揮者。1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年間務め、2002年 - 2003年のシーズンから2009年 - 2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、ボストン交響楽団桂冠音楽監督、セイジ・オザワ 松本フェスティバル総監督、小澤征爾音楽塾塾長・音楽監督、新日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者など。

満洲国奉天省奉天市(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)で生まれる。父小澤開作は歯科医師、満洲国協和会創設者の一人で、同志で満洲事変の中心人物であった板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した。1941年3月に父を満洲に残したまま母や兄と日本へ戻り、東京府立川市の若草幼稚園に入園する。1942年4月に立川国民学校へ入学する。1945年に長兄でのち彫刻家になる小澤克己からアコーディオンとピアノの手ほどきを受ける。才能を感じた一家は、征爾に本格的にピアノを学ばせようと決意し、横浜市白楽の親類から安価で譲られたピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄の克己と次兄の俊夫が3日かけて立川市の自宅まで運搬した。

1947年に父が友人とミシン会社を始め、神奈川県足柄上郡金田村へ転居する。1948年4月に成城学園中学校へ入学し、小田急小田原線で新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学した。中学ではラグビー部に所属して3番プロップで活動しつつ、豊増昇からピアノを習う。当時はピアニスト志望だったが、ラグビーの雨の試合でスクラム時に右手人差し指を骨折してピアノを断念する。1950年秋に東京都世田谷区代田へ転居し、以後1951年から1952年は東京都世田谷区経堂、1952年から1955年は東京都渋谷区笹塚、1955年から1959年は神奈川県川崎市幸区戸手町、それぞれで育つ。

1951年に成城学園高校へ進学して齋藤秀雄の指揮教室に入門し、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として1952年に入学する。同門に秋山和慶、山本直純、羽仁協子、久山恵子がいる。癇癪持ちの齋藤から指揮棒で叩かれたり楽譜を投げつけられたりするなど体罰を日常的に受け、ストレスのあまり小澤は自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をした。1955年に齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学音楽学部へ進学して1957年夏に卒業する。夏期の卒業は、肺炎を患い卒業試験を受験できず、のちに追試を受けて卒業が認められた事からであるが、療養期間中は仲間がどんどん仕事をしたりマスメディアに出演したりするのを見て焦りと嫉妬に苦しんだ。このとき父から「嫉妬は人間の一番の敵だ」と言われて嫉妬心を殺す努力をしたことが後になって大変役立った、と語る。

短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団で指揮棒を振り始めて北海道演奏旅行で指揮者を担当する。1957年12月に日本フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会のラヴェル『子供と魔法』で、渡邉暁雄の下で副指揮者を務める。1958年に「フランス政府給費留学生」の試験を受けたが不合格となるも、成城学園時代の同級生の父である水野成夫らの援助で渡欧資金を調達する。

1959年2月1日から、スクーター、ギターとともに貨物船で単身フランスへ渡る。このとき、アシスタントの小澤を失うことを恐れた齋藤から渡欧に猛反対を受けたが、桐朋の父兄会や水野成夫らから支援を得て、約45万円相当の1200ドルを餞別として受けた。パリ滞在中の1959年に、第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。ヨーロッパのオーケストラに多数客演。カラヤン指揮者コンクール第1位。指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。1960年、アメリカ・ボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現:タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞。指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。指揮者のレナード・バーンスタインに師事。同年ニューヨーク・フィルの来日公演に同行。カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。

1961年にNHK交響楽団(N響)の指揮者に招かれ指揮活動を開始するが、感情的な軋轢のためN響からボイコットを受ける。小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任する。このため日本では音楽活動をしないと決めて渡米した。32年後の1995年1月にNHK交響楽団と共演した。

1964年、シカゴ交響楽団(当時の指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退。急遽、ニューヨークにいた小澤が開催数日前に招聘され音楽監督として音楽祭を成功に収め、小澤の名声は全米に知れ渡る。シカゴ交響楽団とはRCAレーベル、EMIレーベルに複数の録音を残した。日本人指揮者が海外の一流オーケストラを指揮して海外の一流レコード会社からクラシック音楽録音を海外市場向けに複数発売したことは画期的な出来事であった。

1964年からはトロント交響楽団の指揮者に就任し1968年まで務める。1966年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初指揮。

この時期は作曲家の武満徹と親交を大きく持ち、深い友情関係を築いた。武満の死後も武満作品を演奏する機会が多かった。

1970年にはタングルウッド音楽祭の音楽監督に就任。同年サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任し1976年まで務めた。

1972年には、フジサンケイグループによる突然の日本フィルハーモニー交響楽団の解散後、楽員による自主運営のオーケストラとして新日本フィルハーモニー交響楽団を創立。小澤は指揮者として中心的な役割を果たし、1991年に名誉芸術監督に就任、1999年9月から桂冠名誉指揮者となっている。1972年に日本芸術院賞を受賞している。

1973年、38歳のとき、前出のニューヨーク・フィルおよびシカゴ響と共にアメリカ五大オーケストラの一つに数えられるボストン交響楽団の音楽監督(第13代)に就任。当初はドイツグラモフォンとの契約でラヴェルのオーケストラ曲集、ベルリオーズのオーケストラ曲集など、ミュンシュの衣鉢を継ぐフランス音楽の録音を続けた。その後グスタフ・マーラーの交響曲全集(『大地の歌』を除く)など、フィリップスへの録音を行った。日本のクラシックファンにとっては、日本人指揮者の演奏をアメリカから逆輸入する形で聴くこととなり、また日本人指揮者の演奏が国際的に有名なレーベルから発売されるのは初めてであった。またボストンでの活動が進むにつれウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするヨーロッパのオーケストラへの出演も多くなる。

ボストン交響楽団の音楽監督は2002年まで務めたが、一人の指揮者が30年近くにわたり同じオーケストラの音楽監督を務めたのは極めて珍しいことといわれる。その30年近くに及ぶ音楽監督期間中、少なくとも1978年3月、1981年秋、1986年、1989年にはボストン響を率いて来日し、日本公演を実施したほか、1979年3月には中国でも同楽団を率いての公演を行っている。

タングルウッドには、小澤征爾の功績を記念して日本の電気メーカーNEC、ソニー元社長の大賀典雄などの援助により“SEIJI OZAWA HALL”が建設された。

なお、アメリカを本拠にしての音楽活動が長かったため、アメリカ国内及び海外のマスコミでは「小澤征爾は日系アメリカ人(Japanese-American)」と記述する例もある。

1984年9月、恩師である齋藤秀雄の没後10年を偲び、小澤と秋山和慶の呼びかけにより、世界中から齋藤の門下生100名以上が集まり、齋藤秀雄メモリアルコンサートを東京と大阪にて開催。このコンサートが後のサイトウ・キネン・オーケストラ結成のきっかけとなる。1987年に第1回ヨーロッパ楽旅を行い、ウィーン、ベルリン、ロンドン、パリ、フランクフルトにて成功を収める。1992年からはサイトウ・キネン・オーケストラの音楽監督として活動を開始。このオーケストラでもフィリップスへの録音を多く行っており、今までにベートーヴェン、ブラームスの交響曲全集などを完成させている。

1992年にベルリン・フィルから、楽団に功績のあった人物に贈られるハンス・フォン・ビューロー メダル(英語版)を授与された。

1998年に長野オリンピック音楽監督を務め、世界の国歌を新日本フィルハーモニー交響楽団と録音。長野オリンピック開会式では、小澤指揮によるベートーベン第九を演奏。開会式会場と世界5大陸の都市(北京、ニューヨーク、シドニー、ベルリン、ケープタウン)を衛星中継で結び、歓喜の歌を世界同時合唱で結ぶ。同年、フランス政府からレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受賞。

1999年、小沢征爾とサイトウ・キネン・フェスティバル松本実行委員会が、第47回菊池寛賞を受賞した。

2002年1月、日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。このコンサートは世界同時生中継され、CDの売り上げ枚数は100万枚を超えた。2002年シーズンにウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。

2005年暮れに体調を崩し、同年12月に白内障の手術を受けた。

2006年1月半ばには、東京都内の病院で帯状疱疹、慢性上顎洞炎、角膜炎と診断され、通院しながら静養していた。2006年1月27日にアン・デア・ウィーン劇場で上演される予定であったモーツァルトの歌劇『イドメネオ』の指揮はキャンセルされた。

2006年2月1日、ウィーン国立歌劇場音楽監督としての活動を一時休止。東京のオペラの森で指揮予定であったヴェルディ『オテロ』の公演もキャンセルすると発表した。

2006年6月、スイス西部モントルー近郊ブロネ(英語版)で開催された「スイス国際音楽アカデミー(英: Seiji Ozawa International Academy Switzerland)」にて指揮活動を再開。また、7月20日には「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトVII」愛知県芸術劇場コンサートホール公演にてマーラーの交響曲第2番『復活』を指揮し、日本国内での指揮活動を再開した。2006年度のサイトウ・キネン・フェスティバル松本、2007年4月にベルリン・フィルを指揮をしている。

2007年、ウィーン国立歌劇場総監督ホーレンダー(英語版)の2010年勇退に伴い、音楽監督小澤征爾の同時退任が発表された。2010年シーズンからの総監督はドミニク・マイヤー(英語版)、音楽監督は、ウェルザー=メストの就任が発表された。

2008年、世界の音楽界に多大な影響を与えたことや、若手音楽家育成に尽力した功績が認められ、文化勲章を受章した。

2010年1月、人間ドックの検査で食道癌が見つかり治療に専念するために、同年6月までの活動を全てキャンセルすることを発表した。食道全摘出手術を受け、同年8月に復帰。同年開催のサイトウ・キネン・フェスティバル松本は一部プログラムで代役を立て総監督として出演。

2010年11月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、名誉団員の称号を贈呈された。

2011年1月、悪化した腰の手術を受ける。

2012年3月7日、体力回復のため、1年間の指揮活動の中止を発表。

2012年8月31日、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(村上春樹との共著、新潮社)で小林秀雄賞受賞。

2013年4月1日、前年死去した吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長に就任。

2014年8月4日 長野県松本市の音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(SKF)」が翌2015年から、小澤征爾の名を冠した「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に生まれ変わることになったことを、実行委員会が東京都内で記者会見して明らかにした。

2015年7月、ケネディ・センター名誉賞を受賞。日本人では初の受賞となる。

同年8月、セイジ・オザワ松本フェスティバル開催。腰椎棘突起および横突起骨折により、ベルリオーズ・オペラ『ベアトリスとベネディクト』を降板。長野県名誉県民栄誉賞の第1号を受賞。

2016年2月、自らが指揮する歌劇『こどもと魔法』(ラヴェル作曲)を収めるアルバムが第58回グラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞した。

2016年3月、成城大学初となる名誉博士号を贈呈された。記念式典ではサイトウ・キネン・オーケストラや水戸室内管弦楽団メンバー、成城学園にゆかりのアーティスト達が集結し、『S.オザワ祝典アンサンブル』を結成した。

2016年4月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団により、名誉団員の称号を贈呈された。

2016年10月、名誉都民に顕彰される。2016 GQ Men of the Yearを受賞。

2018年12月5日、サントリーホールで行われたドイツ・グラモフォン創立120周年 スペシャル・ガラ・コンサートにて、サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 作品28を指揮。 (ヴァイオリン:アンネ=ゾフィー・ムター)。

2019年8月18日、セイジ・オザワ 松本フェスティバルのふれあいコンサートIのアンコールでサプライズ出演し、小澤征爾スイス国際アカデミーを中心としたメンバーによるベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番ヘ長調の第三楽章(弦楽合奏版)を指揮した。同フェスティバルの有料公演での指揮はこの演奏が最後となった。

2022年11月23日、キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)においてサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を4年ぶりに指揮した。演奏ではそのとき、国際宇宙ステーション(ISS)「きぼう」でミッションにあたる宇宙飛行士の若田光一に向けて、ベートーヴェンの「エグモント序曲」のライブ配信が行われた。宇宙へのオーケストラ演奏のライブ配信は史上初であった。なお、直後の同月25日・26日に行われたセイジ・オザワ 松本フェスティバル(旧称: サイトウ・キネン・フェスティバル松本)30周年記念特別公演の指揮はアンドリス・ネルソンスが行った(25日公演のカーテンコールの際、車椅子に乗った小澤が登壇した)。

2023年9月2日、セイジ・オザワ 松本フェスティバルにおいて、親交のあるジョン・ウィリアムズ がゲスト指揮者として登壇した公演のカーテンコールに登場した。公の場に姿を現したのはこれが最後となった。

2024年1月23日、元妻である江戸京子が死去。同年2月6日、東京都内の自宅で心不全のため死去。88歳没。訃報は9日に所属事務所から報じられた。

2024年2月6日、ボストン交響楽団は小澤を追悼し

と始まる長文で哀悼の意を公式サイトのトップおよび特集ページに掲載。一部抜粋「親切で思慮深い人道主義者、指揮台でのバレエのような優雅さと天才的な記憶力を兼ね備えた音楽の天才」「セイジは世界中のファンにとって、これらすべて、そしてそれ以上の存在だった。彼の遺産は、私たちの集団的、個人的な多くの思い出と、彼の忘れがたい録音を通して生き続けています。マエストロ・オザワのご家族、ご友人、そしてクラシック音楽界に深い哀悼の意を表します」と称え、偲んだ。ほかにもベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、シカゴ交響楽団や国内のオーケストラなど、世界中のオーケストラから追悼の声明が寄せられ、世界中の音楽家がメッセージを出した。音楽以外の分野からも、谷川俊太郎、横尾忠則、安藤忠雄、黒柳徹子、村上春樹らがコメントを出した。

訃報は国内外の多くのメディアで報じられ、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポスト、ガーディアンなどは長い追悼記事を出し、「東アジアのクラシック音楽家に対する偏見を払拭することに貢献した(ニューヨーク・タイムズ)」などと、その功績を讃えた。

受賞・栄典

1960年 クーセヴィツキー賞

1972年 日本芸術院賞

1975年 モービル音楽賞

1985年 朝日賞

1987年 国際文化デザイン大賞

1989年 山ノ内町名誉町民

1996年 松本市名誉市民

1998年 仏レジオンドヌール勲章シュヴァリエ

2000年 米国ハーバード大学名誉博士号

2001年 文化功労者

2002年 オーストリア科学芸術一等名誉十字章(ドイツ語版、英語版)

2003年

    毎日芸術賞

    サントリー音楽賞

    2004年 仏ソルボンヌ大学名誉博士号

    2006年 NHK放送文化賞

    2008年

      日本国文化勲章

      仏レジオンドヌール勲章オフィシエ

      仏芸術アカデミー外国人会員

      イタリア・プレミオ・ガリレオ2000財団金百合賞

      2011年

        高松宮殿下記念世界文化賞

        渡邉暁雄音楽基金特別賞

        2012年 小林秀雄賞

        2014年 モンブラン国際文化賞

        2015年

          ケネディ・センター名誉賞

          長野県県民栄誉賞

          2016年

            グラミー賞

            東京都名誉都民

            成城大学名誉博士号

            第11回GQ Men of the Year

            2019年 市川三郷町名誉町民

            2022年 日本芸術院会員

            2024年 山ノ内町永世名誉町民

            親族

            1962年、井上靖の仲人により、三井不動産社長江戸英雄の娘でピアニストの江戸京子と結婚。京子とは桐朋女子高校の第一期生同士であり、当時から小澤は江戸家に入り浸りだったが、留学先のパリで再会し、結婚に至ったものである。ただし英雄は「娘は強い性格で個性が強烈」との理由により、この結婚に最初から反対していた。結局、二人は1966年に離婚したが、その原因について江戸京子は「ピアニストとして練習するにしても、自分が弾きたい時に弾けませんしね。主人が練習に疲れて家に帰って来て、もう音は聞きたくないという。その気持もわかりますしね。それで議論になると、結局は"オレが稼いでいるんだから、オレの意見を尊重しろ"ということで押し切られてしまう。いちばん単純な議論でやって来るんです。それなら、自分が経済力を持てば納得のいく生活が出来るんじゃないかと──」と語っている。このほか、コンクール優勝後にスターとなった小澤が銀座のバーのマダムやモデルの入江美樹(後述)と浮名を流したのも離婚の一因だったと報じられた。また、小澤は留学前に岳父の江戸英雄から約20万円(一説によると50万円)の経済的援助を受けていた。このため、京子との離婚については、桐朋学園の関係者から「デビューまでは江戸家に経済的な負担をかけておきながら、目的を達したらサヨナラ」との非難も浴びた。小澤がN響と契約したのは江戸京子との婚約中であり、若い小澤がN響の常任指揮者に抜擢された背景には、江戸英雄の政治力があったとも報じられた。江戸英雄が自民党の有力者を通じてNHKに工作を行い、前田義徳(NHK専務理事、のち会長)を通じ、小澤をN響の指揮者に雇うよう命令したとの説を、毎日新聞記者であった原田三朗は紹介している。

            1968年、白系ロシア人貴族の血を二分の一引くファッションモデル兼デザイナーで一時的に女優としても活動していた入江美樹(小澤・ベラ・イリーン)と再婚。美樹の母は料理研究家の入江麻木。美樹との間に生まれた娘の小澤征良はエッセイスト。同じく、息子の小澤征悦は俳優。NHKアナウンサーの桑子真帆は征悦の妻。またミュージシャンの小沢健二は甥にあたる。兄で健二の父・小澤俊夫は「小澤昔ばなし研究所」を主宰する口承文芸学者で筑波大学名誉教授。弟の小澤幹雄は俳優でテレビ・リポーターである。

            指揮者齋藤秀雄の母方の祖母である前島久(ひさ。旧姓大津)は、小澤の母方の曽祖父である大津義一郎の実妹であり、小澤は「僕は先生の弟子というより近かったわけです。親類だったからね」と発言している。

2024/06/15 21:55更新

ozawa seiji



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小澤征爾と近い名前の人

小澤 征良(おざわ せいら)
1971年12月29日生まれの有名人 出身

小澤 征良(おざわ せいら、1971年12月29日 - )は、アメリカ合衆国サンフランシスコ生まれのエッセイスト、作家。 父は指揮者の小澤征爾、母は元モデルで女優の入江美樹(小澤・ベラ・イリーン)…

小沢 通宏(小澤 通宏)
1932年12月25日生まれの有名人 栃木出身

小沢 通宏(小澤 通宏、おざわ みちひろ、1932年12月25日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元サッカー日本代表、サッカー指導者。 1962年第2回日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・…

小澤 陽子(おざわ ようこ)
1991年7月29日生まれの有名人 神奈川出身

小澤 陽子(おざわ ようこ、1991年7月29日 - )は、フジテレビのアナウンサー。 横浜市立東高等学校、慶應義塾大学環境情報学部卒業。 中学・高校時代は吹奏楽部に所属。担当楽器はクラリネット…

小澤 マリア(おざわ まりあ)
1986年1月8日生まれの有名人 北海道出身

AV女優 MARIA OZAWA 【Official】 小澤 マリア(おざわ マリア、1986年1月8日 - )は、日本の実業家。元AV女優、ストリッパー。 父はカナダ人、母が日本人という家庭に育つ…

小澤 栄里(おざわ えり)
1977年8月8日生まれの有名人 静岡出身

小澤 栄里(おざわ えり、本名:小柳栄里【こやなぎ えり、旧姓:小澤】、1977年8月8日 - )は静岡県浜松市出身の元女優・タレント・モデルである。 2000年、ケイダッシュ所属の女優・タレント…

小澤 竜己(こざわ りゅうき)
1988年2月6日生まれの有名人 愛知出身

小澤 竜己(こざわ りゅうき、1988年2月6日 - )は、愛知県名古屋市出身の元サッカー選手。ポジションは主にフォワード(FW)。 次姉は女優の小澤真利奈。 3歳からサッカーを始め、小学4年か…

小澤 啓一(おざわ けいいち)
1933年1月5日生まれの有名人 鹿児島出身

小澤 啓一(おざわ けいいち、1933年1月5日 - )は日本の映画監督。鹿児島県川辺郡川辺町平山(現・南九州市)出身。本籍は山口県萩市であった。 三歳で父の転任により台湾へ移住、大戦後に日本へ引…

小澤 麗那(おざわ れな)
1月26日生まれの有名人 愛知出身

小澤 麗那(おざわ れな、1月26日 - )は、日本の女性声優。愛知県出身。ゆーりんプロ所属。かつてはブライト イデア(旧:ビットプロモーション)に所属していた。 日本ナレーション演技研究所卒業生…

小澤 亜李(おざわ あり)
8月10日生まれの有名人 東京出身

小澤 亜李(おざわ あり、1992年8月10日 - )は、日本の女性声優。東京都西東京市出身。アイムエンタープライズ所属。夫はミュージシャンのヒゲドライバー。 中学1年生の時『魔法先生ネギま!』を…

小澤 飛鳥(おざわ あすか)
4月24日生まれの有名人 静岡出身

小澤 飛鳥(おざわ あすか、4月24日 - )は、日本の女性声優。静岡県出身。 もえがく★5(店員B、通行人A、女性B) もえがく@ポータブル(織島ゆず) 日本の女性声優 静岡県出身の人物 存命人…

小澤 奈々花(おざわ ななか)
【X21】
1999年5月27日生まれの有名人 新潟出身

小澤 奈々花(おざわ ななか、1999年5月27日 - )は、日本のファッションモデル、元アイドル。 X21の元メンバーである。新潟県阿賀野市出身。オスカープロモーション所属。堀越高校卒業。 2…

小澤 亮太(おざわ りょうた)
1988年1月25日生まれの有名人 千葉出身

小澤 亮太(おざわ りょうた、1988年1月25日 - )は、日本の俳優。千葉県館山市出身。HONEST所属。 学生時代はサーフィンやバスケットボールに打ち込んでいたため芸能界には興味がなかったが…

小澤 亜子(おざわ あこ)
1963年2月16日生まれの有名人 東京出身

2月16日生まれwiki情報なし(2024/06/13 15:04時点)

小澤 康喬(おざわ やすたか)
1980年3月10日生まれの有名人 神奈川出身

小澤 康喬(おざわ やすたか、1980年3月10日 - )は、NHKのアナウンサー。 神奈川県南足柄市出身。神奈川県立小田原高等学校、早稲田大学商学部卒業後、2003年4月NHK入局。 嗜好・…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「小澤征爾」を素材として二次利用しています。

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