オリビエ=メシアンの情報(OliverMessiaen) 作曲家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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オリビエ=メシアンの情報まとめ
オリビエ=メシアン(Oliver Messiaen)さんの誕生日は1908年12月10日です。
経歴、作風などについてまとめました。父親、母親、家族、卒業、結婚、ドラマ、再婚、現在に関する情報もありますね。
オリビエ=メシアンのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)オリヴィエ=ウジェーヌ=プロスペール=シャルル・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen, 1908年12月10日 - 1992年4月27日)は、フランス、アヴィニョン生まれの現代音楽の作曲家、オルガン奏者、ピアニスト、音楽教育者である。 20世紀前半から後半にかけてヨーロッパの現代音楽界を牽引した作曲家のひとりであり、加えて、多くの著名な子弟を育てた音楽教師として知られる。オルガニスト、ピアニストとしても長年演奏活動を続け、録音も数多く残している。本人は作曲家としての肩書きに加えて、彼の見地から「リズムの創作家」を名乗っており、また神学者としても稀にみる博学さを持ち合わせていたとされる。そして鳥類学者としては、世界中の鳥の声を採譜した貴重な偉業を成し遂げた。音と色彩についての言及は多く、音を聴くと色彩や模様などを連想するという共感覚の持ち主であるとされ、その詳細な記述は世界の人々を驚愕させたが、その連想を楽譜に書き込むことも多かった。 経歴生い立ちフランス南部のアヴィニョンに生まれた。父親のピエール・メシアンはリセの英語教師で、シェイクスピアなどの翻訳を出版した。母親は詩人のセシル・ソヴァージュだが、メシアンが在学中の1927年に没し、大きな衝撃をメシアンに与えた。1930年の『3つの歌曲』の第2曲は母の詩を歌詞に使用している。メシアンは母親とその作品の影響を強く受けたことをしばしば語っている。 第一次世界大戦中、父は兵として動員され、残る家族は母方の叔父のいるグルノーブルに疎開、メシアンはここで5年間を過ごした。メシアンはグルノーブルから見えるフランス・アルプスの自然に強く印象づけられた。後、1936年にグルノーブルに近いイゼール県プティシェの山荘を購入して、生涯そこで主な作曲活動を行うことになる。イゼール県はまたベルリオーズの出身地でもあった。若い時のメシアンにとって重要だった別の場所は父方の叔母の住むオーブ県フュリニー (Fuligny) で、メシアンは青年時代によくここで休暇を過ごし、本人によるとここではじめて鳥の歌の記譜を行った。 父の復員後1年間ナントに住み、ここで専門的に音楽を学ぶようになった。当時の音楽教師のひとりであるジャン・ド・ジボンから贈られたドビュッシー『ペレアスとメリザンド』のスコアによって開眼したとメシアンは後に語っている。 1919年、11歳の時に一家はパリに移り、メシアンはピアノとパーカッションを学ぶためにパリ国立高等音楽院に入学した。音楽院時代には輝かしい業績を残しており、1924年、15歳の時にはまず和声科にて2位でプリを取得。1926年、フーガおよび対位法科にてプルミエプリを取得、翌1927年、伴奏科にてプルミエプリを取得している。 1928年、モーリス・エマニュエルの講義を経て、音楽史のプルミエプリを取得。この時、エマニュエルより古代ギリシャのリズムおよび民族音楽の旋法への知見を得ている。そして、マルセル・デュプレのもとで、フランスのオルガニストの伝統と遺産を引き継ぎ、オルガン科およびオルガン即興科のプルミエプリを取得。並行して1927年より作曲科主任であったポール・デュカスの元で管弦楽法を学び、1929年、シャルル=マリー・ヴィドールの元で作曲の勉強を続け、11年間に渡る音楽院での研究の集大成として、翌1930年、作曲科にてプルミエプリを取得し、卒業した。 初期の音楽活動在学中より多くの作品を残し、デュカスの推薦を得て1930年にオルガン曲『二枚折絵』、ピアノ曲『前奏曲集』、『3つの歌曲』をデュラン社から出版している。翌年には最初の管弦楽曲である『忘れられた捧げもの』が初演された。1930年と翌年にはローマ賞に応募したが落選した。 1931年、22歳の若さでパリのサントトリニテ教会のオルガニストに就任、彼はこの職をその最期まで、60年以上も務めることとなった。そこでの即興演奏は世界中に評判となった。サントリニテ教会にて彼は即興演奏家としての地位を確立するとともに、多くの宗教音楽を作曲した。 1930年代にはまたエコールノルマル音楽院の教師をつとめていた。スコラ・カントルムでもオルガン即興演奏の講座を持っていた。1932年には国民音楽協会の委員に選出された。 1932年にはヴァイオリニストのクレール・デルボスと結婚した。ヴァイオリンとピアノのための『主題と変奏』が彼女に捧げられているほか、『ミのための詩』(ミはクレールの愛称)および『地と天の歌』はクレールおよび息子のパスカルとの愛を歌った自伝的歌曲集である。1936年にイゼール県ペティシェ(Pétichet)に山荘を建て、メシアンとクレールは夏の休暇をそこで過ごした。 1933年秋から翌年にかけて兵役についた。1935年には『キリストの昇天』が初演、翌年には『主の降誕』が初演され、メシアンはこの作品ではじめてインドのリズムに由来する語法を導入した。メシアンはアンドレ・ジョリヴェ、ジャン・イヴ・ダニエル=ルシュール、イヴ・ボードリエ(英語版)とともに若きフランスを結成した。 メシアンはまた電子楽器オンド・マルトノを使用したことでも知られるが、その最初の曲は1937年のパリ万国博覧会のために書いた『美しい水の祭典』だった。 第二次世界大戦がはじまると徴兵されるが、1940年6月にドイツの侵攻によって捕虜となった。『世の終わりのための四重奏曲』はゲルリッツの捕虜収容所内で作曲・初演された。1941年3月には解放されて占領下のパリ音楽院の和声教師となった。このとき彼の学生の中に、後に彼の作品演奏の最も良き理解者であり、2番目の妻となるイヴォンヌ・ロリオがいた。占領下のパリでは『世の終わりのための四重奏曲』のフランス初演のほか、2台ピアノのための『アーメンの幻影』がロリオとメシアンによって初演された。1944年はじめに自分の音楽の理論をまとめた『わが音楽語法』を出版した。 戦後の音楽活動1944年8月のパリ解放の後、ロリオによって『幼子イエスに注ぐ20の眼差し』が初演されたが批評家による激しい論争を呼んだ。『神の現存についての3つの小典礼』が初演されるとさらに激しいスキャンダルが起きた。 戦後のメシアンの曲はそれまでのキリスト教的な主題を離れ、「トリスタン三部作」と呼ばれる『ハラウィ』、『トゥランガリーラ交響曲』、『5つのルシャン』が次々に作曲されることになる。その後1949年から1952年にかけて独奏楽器による実験的な作品の時代にはいり、『カンテヨジャヤー』、『4つのリズム・エチュード』、『音色=持続』、『オルガンの書』などが作曲された。しかしこの時期は長く続かなかった。 メシアンの音楽ではそれまでも鳥の歌が重要な要素として使用されていたが、1952年に鳥類学者ジャック・ドラマン (Jacques Delamain) から指導を受けた後、鳥の歌の体系的な収集をはじめ、これを元に音楽を作るようになっていく。鳥の歌をもとにした主要な曲には『鳥たちの目覚め』(1953年)、『異国の鳥たち』(1956年)、巨大な『鳥のカタログ』(1959年)、初演が大スキャンダルになった『クロノクロミー』(1961年)がある。 再婚ヒルとシメオネによると、妻のクレールはすでに1943年かそれ以前に精神障害の兆候を示していたが、戦後になると容態が悪化した。1953年には養護施設に入所し、1959年4月19日に没した。1961年にメシアンはイヴォンヌ・ロリオと再婚した。 教育活動上記のようにメシアンはすでに戦時中にパリ音楽院で和声を教えていた。また音楽院の外でも私的な講義を行い、この講義に集まる人々は後に「レ・フレーシュ(矢)」と呼ばれるようになった。 戦後1947年に音楽院の楽曲分析科教師、1966年に作曲科の教授となった。メシアンが退官するまでの間に受け持った学生には、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ヤニス・クセナキス、トリスタン・ミュライユ、ジェラール・グリゼー、フセイン・セルメット、ジョージ・ベンジャミン、ナジ・ハキム(英語版)など、日本人では別宮貞雄、矢代秋雄、丹波明、平義久、宍戸睦郎、篠原眞、加古隆、福士則夫、仲俣申喜男、二橋潤一、藤井一興、安田正昭などがいた。 後期の音楽活動メシアンの音楽に関しては批判も大きかったが、徐々に広く認められるようになった。1959年にはレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受賞、1987年にはグラン・クロワを受賞している。1967年末にはフランス学士院芸術アカデミーの会員に選ばれた。文化相のアンドレ・マルロー、首相や大統領に就任するポンピドゥーやシラクはメシアンの支持者だった。 1962年には日本を訪問して大歓迎され、日本の鳥の歌や印象をもとに『7つの俳諧』を作曲した。『天の都市の色彩』では久しぶりにキリスト教的な主題に立ち戻り、その後の『われ死者の復活を待ち望む』と『我らの主イエス・キリストの変容』という大作がこれに続いた。またオルガン曲『聖なる三位一体の神秘への瞑想』、『鳥のカタログ』の続編にあたるピアノ曲『ニワムシクイ』も作曲されたが、この頃のメシアンの作品は巨大な作品になることが常態化し、作曲にかかる期間も長くなっていった。 1970年代にはユタ州の自然を題材にした『峡谷から星たちへ…』と、唯一のオペラ作品である『アッシジの聖フランチェスコ』の2つの大曲が書かれたが、後者の作曲には1983年までかかった。1978年、70歳になったメシアンはパリ音楽院を退官した。 1984年以降作曲の勢いは落ちて小曲が増え、過去作の回顧的な性格も増大するが、没するまでにオルガン曲集『聖体秘蹟の書』、ピアノ曲『鳥の小スケッチ』、管弦楽小曲『ステンドグラスと鳥たち』・『天より来たりし都』・『ほほえみ』を作曲・初演している。1985年には京都賞を受賞した。癌のため1992年4月27日に没し、ペティシェの別荘に近いサン・テオフレ(英語版)に埋葬された。墓石は鳥の形をしていて、『ハラウィ』の楽譜が刻まれている。1991年7月27日に完成した『彼方の閃光…』は没後に初演された。『四重奏と管弦楽のためのコンセール』は4つの楽章が未完成で残され、補作の上で1994年に初演された。 作風メシアンは幼少時から音と色の共感覚を持っていると述べており、しかもそれが音階の一音一音ごとに異なる色に対応し、それらを複雑に組み合わせることによってステンドグラスのような色のモザイクの感覚を得られると主張している。また「鳥の歌」にも早くから興味を示し、そのリズムや平均律化されていない音程に興味を持っていた。 同じく少年の頃からドビュッシーに傾倒し、クリスマスプレゼントにもらった『ペレアスとメリザンド』の楽譜をぼろぼろになるまで読みふけったという。 最初期の20歳の頃(1928年〜1929年)に書かれたピアノのための『前奏曲集』は、ドビュッシーやその時代の印象主義音楽の影響を濃厚に受けているが、後にメシアン自身が提唱した「移調の限られた旋法 (Mode de transpositions limitées, MTL)」を既に巧みに用いている。オルガンのための組曲『主の降誕』で「移調の限られた旋法」をはじめ「付点リズム」「不可逆リズム」「ギリシャ、インドのリズム」「鳥の歌」などの語法をはじめて意識的に組織化して用い、以後自身の語法として発展させた。この頃までの1930年代の作品は、和声やリズムを工夫することによって、土台となる基本的な調性ははっきりし協和音を多用しながらも、独特の個性的な響きを確立させている。 電子楽器のオンド・マルトノにも早くから興味を示し、死後出版された最初期作品の『未完のページ』というオンド・マルトノとピアノ伴奏の小品をはじめ、オンド・マルトノ6台のために書かれた組曲『美しい水の祭典』(後に一部を『世の終わりのための四重奏曲』の第5楽章、第8楽章に転用)、後には合唱と管弦楽のための『神の現存についての3つの小典礼』、『トゥランガリーラ交響曲』、オペラ『アッシジの聖フランチェスコ』(3台使用)にも用いている。 また前述のリズムを含む「時間」の感覚についても独特の個性を持っており、例えばある側面では「天国的に長い時間」と呼ぶ、従来の音楽よりもずっと遅いテンポを持つ楽章や部分が多い。最初期のオルガン曲『天上の宴』、パリ音楽院の卒業試験のために書かれた最初の管弦楽曲『忘れられた捧げもの』のコーダ部分、同じく管弦楽曲で後にオルガン曲にも編曲された『キリストの昇天』第4楽章などがそれである。これらはオルガンや弦の持続音によって成り立っており、前述の『美しい水の祭典』もオンド・マルトノの持続音によってやはりこの長大な緩徐楽章が用いられている。後にそれが転用された『世の終わりのための四重奏曲』第8楽章では、捕虜収容所という極限に限定された環境の中でたまたまあったヴァイオリンとピアノのために改作しているゆえに、ピアノという減衰音楽器を用いて和音を連打しているが、元々は持続音であり、前述の作風と合致する。この緩徐楽章の作風は、晩年の最後に完成された管弦楽曲『彼方の閃光』の最終楽章にも登場する。 1940年代になると、より複雑で調性の判別しがたい作品が多くを占めるようになる。第2次世界大戦での捕虜収容所で書かれた『世の終わりのための四重奏曲』、解放後に書かれたピアノ曲『幼子イエスに注ぐ20の眼差し』、2台ピアノのための『アーメンの幻影』、歌曲『ハラウィ』などである。作品もより長大な傾向を示し、『幼子イエス〜』に至っては全曲演奏は2時間を越える。しかしながら後の晩年に至るまで、メシアンの作品は皆長大ではあるが多楽章に分かれ、一つの楽章は長くても10分程度であることが多い。また楽章によっては従来的な意味での調性がはっきりした楽章も存在し、調性の不明瞭な楽章と対比させてコントラストが与えられている。メシアン自身はこの調性的な楽章をキリスト教的な神の顕現と捉えており、例えば『世の終わり〜』では第5楽章『主イエス・キリストの永遠性への讃歌』、第8楽章『主イエス・キリストの不滅性への讃歌』と題されている。『幼子イエス〜』では嬰ヘ長調主和音と移調の限られた旋法第2旋法を組み合わせた「神の主題」が用いられ、全20楽章中第1楽章と5の倍数の楽章(5, 10, 15, 20)では明確な嬰ヘ長調が出現し、神への賛美が語られる。メシアンはこれら自作の解説を自ら出版譜の冒頭に詳細に書き表している。また楽譜中にも「インドのリズム」「〇〇(具体的な鳥の種類)の鳥の歌」などと注意書きを入れている。そしてその集大成として、この時期までの自作を解説した著作『わが音楽語法』が1944年に出版された。(日本では1954年に平尾貴四男によって翻訳が出版された。) 1946年〜1948年、セルゲイ・クーセヴィツキーとその財団からの委嘱によって作曲した『トゥランガリーラ交響曲』によって、メシアンの作風は一つの頂点を迎える。この曲は中世の「トリスタンとイゾルデ」物語、またインドの時間と愛に基づいた作品で、歌曲『ハラウィ』、合唱曲『5つのルシャン』と共に3部作を成す。この作品は委嘱条件に恵まれて大規模な編成(ピアノ・ソロ、オンド・マルトノおよび大管弦楽)を持ち、メシアンの最も有名な作品として、クラシック音楽のレパートリーとして世界中で度々演奏されている。 しかしながらこの後、メシアンの作風は大きな転換を迎える。1949年〜1950年に書かれたピアノのための『4つのリズムの練習曲』の第3曲『音価と強度のモード』は、付点を含む32分音符単位の音価と、クアジ・ピアノ(やや弱く)などの微細な指示を加えた強度が細分化されて用いており、新ウィーン楽派の十二音技法を強く意識させる音高のセリー(音列)と共に、厳密な管理のもとでそれらが組み合わされて作曲されている。これは戦後の現代音楽の出発点となったトータル・セリエリズム(総音列技法)の理論を最初に提示した曲として重要である。後にパリ音楽院でのメシアンの生徒だったピエール・ブーレーズがこの曲と同じセリーを用いて「構造I, II」を作曲した。その後、メシアンはトータル・セリエリズムによる作曲を実践せず、「鳥の歌」などの従来の自己の語法を推し進めた。その集大成と言えるのが、1959年〜1960年に作曲された管弦楽曲『クロノクロミー』である。「エポード(叙情短詩形)」と名付けられた第6楽章では、多くの弦楽器がソリストとして扱われながら「鳥の歌」だけで構成されるという特異な響きを持つ。初演こそ前衛音楽に無理解な聴衆から多くの批判を浴びたものの(演奏終了後の挨拶で舞台に歩み寄った際に聴衆の一人から危うく殴られかかったと言う)、メシアンの主要レパートリーとして現在では特に高い評価を得ており、パリ音楽院分析科をはじめとする作曲の分析の授業では定番として用いられる作品である。 他にも1960年以降の中期・後期作品では大規模な管弦楽作品が多い。キリスト教に基づくものとしては4管編成の巨大管弦楽と合唱で2時間を要する『我らの主イエス・キリストの変容』、カトリックのミサで唱えられる信仰宣言(ニカイア・コンスタンティノポリス信条)の終端部分に基づく『われ死者の復活を待ち望む』、『天の都市の色彩』などが挙げられる。長年の協力者であり、先妻の死去後に再婚したピアニストのイヴォンヌ・ロリオのためにピアノ・ソロを配した管弦楽曲も多く、前述の『神の現存について3つの小典礼』や『トゥランガリーラ交響曲』をはじめとして、日本旅行の印象に基づくピアノと小管弦楽のための『七つの俳諧』、「鳥の歌」に着想を得たピアノ協奏曲『異国の鳥たち』『鳥たちの目覚め』、全曲演奏で3時間を越えるピアノ曲集『鳥のカタログ』といった作品が挙げられる。オルガン曲も大規模な曲集を多く生み出し、『オルガンの書』『聖霊降臨祭のミサ』『聖なる三位一体の神秘への瞑想』『聖体秘蹟の書』などを作曲した。 晩年も精力的に創作活動を続け、また1960年代には影を潜めていた調性的志向も復活した。アメリカ合衆国ユタ州の大自然に印象を得た90分の大作『峡谷から星たちへ…』、フランスの国家プロジェクトとして小澤征爾の指揮で初演された上演に6時間を要するオペラ『アッシジの聖フランチェスコ』、最後に完成した作品でやはり80分の大作『彼方の閃光』がある。最晩年には『四重協奏曲』の作曲を試みたが、こちらは未完に終わり、イヴォンヌ・ロリオがジョージ・ベンジャミンの協力の下で補筆完成させた。 2024/06/08 01:22更新
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オリビエ=メシアンと同じ誕生日12月10日生まれの人
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