黛敏郎の情報(まゆずみとしろう) 作曲家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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黛 敏郎さんについて調べます
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黛敏郎と関係のある人
宮城千賀子: 美徳のよろめき 1957年 製作大塚和、監督中平康、助監督西村昭五郎、原作三島由紀夫、脚本新藤兼人、撮影岩佐一泉、音楽黛敏郎、主演月丘夢路、三国連太郎、葉山良二、安部徹 池野成: 特に`RapsodiaConcertante'の和声は、黛敏郎『涅槃交響曲』の梵鐘の響きの解析に基づく和声の踏襲や、‘Timpanata’にも見られる長三和音の平行進行を含む不協和音、短三和音を含む不協和音、完全5度の堆積を含む不協和音などに色分けされ、色彩の変化による表現の工夫が見られる。 天野正道: 黛敏郎 -『バッカナール』、『BUGAKU』より 芥川也寸志: それまでに合唱パート全てと六分の一ほどのオーケストレーションはできていたものの、残りの完成の遅れを気にかけた芥川は、作曲家仲間の松村禎三と黛敏郎に相談し、黛の弟子で新進作曲家であった鈴木行一に残りのオーケストレーションの完成を依頼。 伊福部昭: 1980年代後半に『題名のない音楽会』に出演した際も、司会を務める門下生の黛敏郎に、「先生は大変な毒舌家でございまして……」と紹介され、この番組の中でも、「演技者に被せる劇伴音楽のボルテージというものは、その俳優さんの演技力に反比例するもののようです」と、早速毒舌を披露していた。 芥川也寸志: 1953年に同じく若手作曲家である黛敏郎、團伊玖磨と共に「三人の会」を結成する。 芥川也寸志: 逝去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた黛敏郎の手を握り、回らぬ舌で「あとをたのむ」と言ったというエピソードが、東京新聞に掲載された黛による追悼記事に残されている。 早坂文雄: 早坂の「汎東洋主義」は、音楽の枠組みをそれまでの西洋的なものから東洋的なものへと開放するための試みと言うことも出来るが、その方法論は後の世代の作曲家(芥川也寸志、黛敏郎、武満徹、佐藤慶次郎、湯浅譲二、佐藤勝など)にも大きな影響を与え、特に武満は《弦楽のためのレクイエム》を早坂に献呈している。 安部公房: 8月23日よりミュージカル『可愛い女』を千田是也の演出、黛敏郎の音楽、ペギー葉山ほかの出演で上演。 佐橋俊彦: その後、東京都立武蔵村山高等学校を経て、東京芸術大学音楽学部作曲科に入学した後は小林秀雄、黛敏郎に師事。 芙苑晶: 作曲家・黛敏郎に才能を見出され、幼少よりクラシック音楽の英才教育を受けた。黛敏郎に師事。 千住明: 在学中、南弘明、黛敏郎らに師事した。 冨士眞奈美: 俳句を始めたきっかけは、俳人・中村汀女が『テレビ句会』という番組に出演し、ゲストの谷川俊太郎、黛敏郎と共に出演したこと。 矢代秋雄: 同学年には日本の前衛音楽の旗手、黛敏郎がいた。 宮城千賀子: 顔 1957年 製作岸本吟一、監督大曽根辰夫、原作松本清張、脚本井手雅人、瀬川昌治、撮影石本秀雄、音楽黛敏郎、主演岡田茉莉子、大木実、笠智衆、森美樹 浅利慶太: また、1958年には、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。 レナード=バーンスタイン: また、日本人作曲家では黛敏郎の『饗宴』を好んで指揮したという。 今村昌平: 同作では川島雄三との繋がりで黛敏郎が音楽を担当し、以後黛は『神々の深き欲望』まで、今村作品の音楽を担当した。 谷原章介: 女の一代記 第2夜「越路吹雪」(2005年、フジテレビ) - 黛敏郎 役 杉浦康平: 1968-69年 「諸井誠、黛敏郎、武満徹ほか=日本の電子音楽」 園田高弘: また、「実験工房」同人として、日本戦後の新音楽、たとえば黛敏郎、武満徹、湯浅譲二らのピアノ曲を積極的に演奏してきた。 宮本亜門: 2018年3月、フランス国立ラン歌劇場にて、オペラ『金閣寺』(三島由紀夫原作、黛敏郎作曲)を演出。 團伊玖磨: 1953年(昭和28年):芥川也寸志、黛敏郎と「三人の会」を結成。 栗山昌良: 以来、ヴェルディ、プッチーニ、ビゼー、モーツァルト、ロッシーニ等の名作オペラや、團伊玖磨『夕鶴』、石桁眞礼生『卒塔婆小町』、黛敏郎『金閣寺』など日本オペラの上演にも力を注ぎ、多くの人材を育成し、まさに「日本オペラの牽引者」となった。 黛ジュン: 作曲家の黛敏郎のファンだったことと、パンチのある歌唱力から「黛ジュン」と改名し、東芝音楽工業(現:ユニバーサル ミュージック合同会社)から「恋のハレルヤ」で再デビュー。 入野義朗: 1956年に柴田南雄、諸井誠、黛敏郎らと現代音楽の音楽祭開催を計画し、翌1957年20世紀音楽研究所を設立した。 清水幾太郎: 葬儀委員長は林健太郎、友人として渡辺慧、嶋中鵬二、犬養康彦、黛敏郎、西岡武夫の名が並んでいる。 武満徹: これについては武満の死後、武満の葬儀の席上で黛敏郎が思い出として披露した、未発表の短い映画音楽用の旋律を基に、もう一枚のリメイク・ヴァージョンのアルバムが出ている。 岩城宏之: また、黛敏郎の作品を精力的に指揮した。 越路吹雪: 越路の「愛の讃歌」との出会いには、作曲家の黛敏郎が一役買っていた。 |
黛敏郎の情報まとめ
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黛 敏郎(まゆずみ としろう)さんの誕生日は1929年2月20日です。神奈川出身の作曲家のようです。
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人物、代表作などについてまとめました。映画、卒業、ドラマ、テレビ、現在に関する情報もありますね。68歳で亡くなられているようです。
黛敏郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)黛 敏郎(まゆずみ としろう、1929年〈昭和4年〉2月20日 - 1997年〈平成9年〉4月10日)は、日本の作曲家。戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人。東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたった。 神奈川県横浜市生まれ。旧制横浜第一中学校(現:神奈川県立希望ヶ丘高等学校)から1945年東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学して、橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭に師事した。在学中はブルーコーツ等のジャズバンドでピアニストとして活動した他、既に映画音楽も多く手がけている。1949年卒業、《ルンバ・ラプソディ》を作曲。《ディヴェルティメント》が卒業作品として演奏された。研究科進学。1951年研究科卒業。同年最初の国産カラーフイルムによる総天然色映画『カルメン故郷に帰る』で、ブギ調での同名の主題歌作曲を担当する。同年、映画「帰郷」で毎日映画コンクール音楽賞を受賞。 同年8月、フランス政府受け入れの留学生として、音楽学校同級生の矢代秋雄、別宮貞雄と共にパリ国立高等音楽院に入学して、トニー・オーバンのクラスで学ぶが、教育内容への反発から、1年で退学し帰国した。1951年には《スフェノグラム》が国際現代音楽協会 (ISCM) 音楽祭に入選。1953年、芥川也寸志、團伊玖磨と共に「3人の会」を結成する。以後作曲家として活動を始める。 デビュー当初はドビュッシーやガーシュイン、ミヨー、ラヴェル、ストラヴィンスキーまたガムランなどの南方音楽やモダン・ジャズからの影響を受けていた。フランス留学後はミュジーク・コンクレート、電子音楽、ヴァレーズの音楽様式、ケージの偶然性の音楽やプリペアド・ピアノなど、最新の前衛音楽様式を次々と日本に紹介する存在となった。それらの西洋前衛音楽へのアプローチは、構造的な理論より音響への興味を優先させたものであった。なかでも電子音楽、ミュージック・コンクレートを、いち早く日本の音楽界に導入した。 映画音楽の一部では別名中川洋一(作詞者として)、六条隆(挿入歌の作曲者として)を使用している。 1954年、1月28日、ラジオドラマ《戦争と平和(広島)》(武田泰淳台本)ラジオ東京 (TBS) にて放送。 同年11月21日、放送劇《ボクシング》(三島由紀夫台本)文化放送にて放送。同作品で芸術祭奨励賞。 1955年、11月27日、同年創設されたばかりのNHK電子音楽スタジオで日本最初の電子音楽による習作、《素数比の系列による正弦波の音楽》、《素数比の系列による変調波の音楽》、《矩形波と鋸歯状波のインヴェンション》を製作発表。 1956年、4月、クラヴィオリンやミュージカル・ソウを大胆に使用した映画『赤線地帯』(監督溝口健二)について、映画評論家津村秀夫に『週刊朝日』誌上で「音楽の失敗がひびく」と酷評され反論し、論争になる(赤線地帯論争)。 4月23日から18日間、カンヌ映画祭に参加。4月24日に『青銅の基督』(音楽黛敏郎)が上映された。 6月3-10日、ストックホルムでISCMの第30回国際音楽祭“World Music Days"に入選した《エクトプラスム》の演奏に立会う。セッションズから賞賛される。 1957年、3月20日、音楽評論家・吉田秀和を所長に二十世紀音楽研究所を結成。 1958年2月、『気違い部落』(1957年)、『幕末太陽伝』(1957年)によって第12回毎日映画コンクール音楽賞受賞。 1958年4月2日、黛の代表作となった『涅槃交響曲』を「3人の会」にて初演した。鐘の音をNHK電子音楽スタジオで音響スペクトル解析した上、三分割して配置されたオーケストラと、男声合唱(声明を模し部分もあり)で再現した。自らが「カンパノロジー・エフェクト」と呼んだこのアイデアは、奇しくも過去フランスの現代音楽シーンの主流を占めたスペクトル楽派の一人ミュライユの管弦楽曲『ゴンドワナ』を約20年、そのスペクトル楽派の生みの親のジャチント・シェルシの管弦楽曲『Pfhat』を約16年先取りするものであった。 その後、黛はこのカンパノロジー・エフェクトをテープ音楽などでいくつか試みたが、その関心は次第に音響的なアプローチではなく、それら音響の源泉となった「東洋・日本的な」素材・歴史・伝統・思想へ拡がっていった。 現代音楽などクラシック関係以外の音楽では『赤線地帯』『豚と軍艦』『天地創造』『黒部の太陽』など、多くの映画音楽を手がけた他、日本テレビの『NNNニュース』のテーマ曲などを作曲している。また、同じく日本テレビのスポーツ番組のテーマ曲である『スポーツ行進曲』(別名『NTVスポーツのテーマ』)は、日本でも珍しいオーケストラ用行進曲の名作である。その他にも関東UHF局の『朝日フラッシュニュース』のオープニングテーマソングである『朝日ニューストップタイトルのための音楽』や仏教諸宗派のためにカンタータなどの作曲を手掛けるなど、現代の音楽の作曲家としても活動した。 1964年、同年放送開始のクラシック音楽番組『題名のない音楽会』の司会を務めた。 1965年、3月、映画『東京オリンピック』(音楽監督:黛敏郎)。映画『天地創造』の音楽作曲のためにローマ滞在。3月に依頼の電話が入り、何度か打ち合わせにローマへ。4月、5月中旬から8月。9月に10日ほど帰国。10月7日から黛作曲部分の録音が開始、11月末まで作曲と録音が続いた。 5月15日、『君も出世ができる』で第12回アジア映画祭音楽部門賞受賞。5月28日、《打楽器協奏曲》をローマにて完成。同曲は7月11日アメリカで初演。 1967年2月16日、《BUGAKU》が第15回尾高賞受賞。 4月10日、映画『天地創造』でアカデミー作曲賞(第39回)にノミネート。それに先立つ2月15日には、ゴールデングローブ賞 作曲賞(第24回)にノミネート。 1968年、『題名のない音楽会』と『NNNワイドニュース』の司会に対して、第5回ギャラクシー賞を受賞。 1970年、日本万国博覧会のテーマ館サブプロデューサーを含め、パビリオンの音楽、お祭り広場の音楽、開会、閉会式の音楽他を担当した。 1982年4月22日、オラトリオ「日蓮聖人」初演。10月18日、サントリー作曲家の個展「黛敏郎」で《涅槃交響曲》と演奏会形式でのオペラ《金閣寺》日本初演。 1983年5月4日、阿含宗委嘱による《大佛讃歌》初演。 1986年4月16日、バレエ《The KABUKI》初演。同作品はパリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、ベルリン国立歌劇場、ボリショイ劇場、マリインスキー劇場等海外の劇場でも喝采を受け、世界中で150回以上の上演回数、22万人が鑑賞している。 1991年、3月8日、舞台形式によるオペラ《金閣寺》日本初演。 1993年7月16日、オペラ《古事記》完成。7月31日、バレエ《M》初演。 1996年2月20日、武満徹の葬儀の際には、『MI・YO・TA』のメロディを何度も繰り返し歌った。この曲は、武満がかつて黛の下で映画音楽のアシスタントをしていたとき書いたものであった。しかし、映画音楽に使われることはなく、メロディは黛の記憶にしまわれていた。その後、谷川俊太郎が詞をつけ、出来上がったのが『MI・YO・TA』である。 題名のない音楽会の収録中に体調不良を起こし、即日入院。1997年4月10日、肺を原発巣とする転移性肝腫瘍による肝不全のため入院中の神奈川県川崎市内の総合新川橋病院で死去、68歳没。墓所は、神奈川県にある曹洞宗大本山總持寺の境内墓地。戒名は「威徳院優嶽叡敏居士」。5月末に「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が合同して結成された日本会議の初代会長に就任予定だった。 1997年11月27日、29日 大阪音楽大学の「ザ・カレッジ・オペラハウス」でオペラ『金閣寺』上演。黛敏郎の追悼公演となった。 1998年7月2日、「黛敏郎追悼演奏会」で『シンフォニック・ムード』『トーン・プレロマス55』『呪(しゅ)』『涅槃交響曲』を演奏。岩城宏之指揮、東京混声合唱団、東京交響楽団。同年8月31日、未完絶筆作品『パッサカリア』初演(完成部分まで、演奏時間4分、続けて2度上演)。岩城宏之指揮、オーケストラ・アンサンブル金沢第67回定期公演。 人物政治活動1958年、石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、永六輔、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成。翌年から本格化する安保改定反対運動に参加した。 1975年の東京都知事選挙では、石原慎太郎の選挙母体「新しい東京をつくる都民の会」の代表を務めた。 1970年代前後に転向。当時の楽壇では珍しく保守派文化人となり、1970年代後半に結成され論憲・改憲を提唱する「日本を守る国民会議」議長を務めた。だが、この頃から純音楽の創作は曲の歌劇(『金閣寺』と『古事記』)などを除き極端に減り、後期の作品は生活のために書いた上記の宗教音楽や実用音楽などが主となった。これを「このような保守的政治運動のために左派色が強い楽壇からは事実上排斥された」ためと説明する論考もある。 1977年夏、保守派の活動を通じ親交があった中川一郎(当時自民党国民運動本部長)の要請を受けて、新たに創設された党友組織自由社会を守る国民会議(自由国民会議)の初代代表に就任し終身務めた。 1992年夏、「国民会議」議長として、宮澤内閣官房長官であった加藤紘一らが中心に進めた天皇(明仁)・皇后(美智子)の訪中反対国民運動の先頭に立ち、中川や自身の共通の親友石原慎太郎や、中川の長男中川昭一、平沼赳夫(中川の秘書でもあった)らと共闘した。 死去してから約ひと月後の1997年5月30日、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」を統合して「日本会議」が設立された。黛は同団体の初代会長に就任予定だった。 その他元女優の桂木洋子は妻。演出家の黛りんたろうは長男。長男の嫁は平淑恵。弟に朝日新聞学芸部編集委員だった黛哲郎がいる。 作曲家にありがちなことであるが、専門の教育を受けていないにもかかわらず自作の指揮をすることがしばしばあった。代表的な録音に「立山」がある。一方で、黛が指揮をする際は盟友の岩城宏之が常にハラハラしていたという。 ベルリン・ドイツ・オペラ支配人のルドルフ・ゼルナーが日本を舞台にしたオペラを制作したいと提案。これを仲介した吉田秀和が黛を紹介したことから、『金閣寺』が作曲されることとなった。 代表作管弦楽ルンバ・ラプソディ(1948年)- 恩師の伊福部昭(2006年死去)の晩年にあたる2004年に、伊福部の自宅から黛の楽譜が発見され、蘇演された。 シンフォニック・ムード(1950年)- 原題は交響的気分「スフィンクス」 饗宴(1954年) フォノロジー・サンフォニック(1957年) カンパノロジー(1957年) 涅槃交響曲(1958年・第7回尾高賞受賞作品) 曼荼羅交響曲(1960年) 交響詩「輪廻」(1962年) 音楽の誕生(1964年) 木琴小協奏曲(1965年) 交響詩「立山」(1971年) G線上のアリア(1978年) 21世紀へのラプソディ(1991年) パッサカリア(1997年/絶筆・未完) オペラ金閣寺(1976年)- 三島由紀夫の小説「金閣寺」による KOJIKI(1996年) MINOKO(1964年・未完)- 三島由紀夫の書き下ろし台本による(日生劇場のこけら落としのために小澤征爾指揮で初演予定だった) バレエ音楽思い出を売る男(1953年)加藤道夫の戯曲「思い出を売る男」によるシャンソンバレエ。 BUGAKU(1962年・第15回尾高賞受賞作品) ザ・カブキ(1986年・オーケストレーションは鈴木行一、南聡ら門下がアシスタントをした。主題は忠臣蔵に基づく) M(1993年) 吹奏楽・管楽合奏トーンプレロマス55(Tonepleromas 55, 1955年) 彫刻の音楽(Music with Sculpture, 1961年) テクスチュア(Texture, for wind orchestra, 1962年) 花火(Fireworks, 1963年) 打楽器とウィンドオーケストラの為の協奏曲(Concerto for Percussion and Wind Orchestra, 1965年) 行進曲「黎明」(1981年)- 防衛大学校のために作曲された行進曲。 行進曲「祖国」(1981年)- 陸上自衛隊中央音楽隊の創隊30周年のために書き下ろされた楽曲。 栄誉礼冠譜~祖国~ (1986年)- 政府関係者、自衛隊の高官、訪日した外国要人への儀礼用に作曲 室内楽・器楽ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(1946年) 10楽器のためのディベルティメント(1948年) スフェノグラム(1950年) プリペアド・ピアノと弦楽のための小品(1957年) 阿吽 3つ和楽器のための(1957年) BUNRAKU チェロ独奏のための(1960年) 弦楽四重奏のためのプレリュード(1961年) ROKUDAN ハープのための(1989年) ピアノ曲12の前奏曲(1945-46年) オールデウーヴル(1947年)ドラム伴奏を伴う バレエ「かぐや姫」のスケッチ(1950)石の花瓶の踊り、金の枝の踊り、鳳凰の踊り 映画「天地創造」(1965年) 声楽天台声明による始段唄・散華(1959年) カンタータ「祝婚歌」(1959年) カンタータ「悔過」(1963年) カンタータ「般若心経」(1976年) カンタータ「憲法はなぜ改正されなければならないか」(1981年) オラトリオ「日蓮聖人」(1981年) 大佛讃歌(1983年) オラトリオ「京都1200年 伝統と創生」(1994年) テープ音楽ミュージックコンクレートのための作品X・Y・Z(1953年) 3つの電子音楽作品(1955年・NHK電子音楽スタジオでの制作)
素数比の系列による変調波の音楽 矩形波と鋸歯状波のインヴェンション まんだら(1955年) 葵の上(1957年)(湯浅譲二の同名のテープ音楽とは別の作品) オリンピック・カンパノロジー(1964年東京オリンピックの開会式で上演された電子音楽) 映画音楽カルメン故郷に帰る(松竹大船、木下惠介監督、1950年)- 木下忠司と共に担当。 帰郷(松竹、中村登監督、1951年) 我が家は楽し(松竹大船、中村登監督、1951年) 純白の夜(松竹、大庭秀雄監督、1951年) 足にさわった女(東宝、市川崑監督、1952年) カルメン純情す(松竹大船、木下惠介監督、1952年) 夏子の冒険(松竹大船、中村登監督、1953年) プーサン(東宝、市川崑監督、1953年)- 出演もしている。 青色革命(東宝、市川崑監督、1953年) 天晴れ一番手柄 青春銭形平次(東宝、市川崑監督、1953年) 真実一路(松竹、川島雄三監督、1954年) 噂の女(大映、溝口健二監督)、1954年) 潮騒(東宝、谷口千吉監督、1954年) 女の一生(松竹大船、中村登監督、1955年) 青春怪談(日活、市川崑監督、1955年) 青銅の基督(松竹、渋谷実監督、1955年) 赤線地帯(大映、溝口健二監督、1956年) 顔(松竹、大曽根辰夫監督、1957年) 幕末太陽傳(日活、川島雄三監督、1957年) 美徳のよろめき(日活、中平康監督、1957年) 気違い部落(松竹大船、渋谷実監督、1957年) 張込み(松竹、野村芳太郎監督、1958年) 日日の背信(松竹、中村登監督、1958年) 盗まれた欲情(日活、今村昌平監督、1958年) 西銀座前(日活、今村昌平監督、1958年) 炎上(大映、市川崑監督、1958年) 裸の大将(東宝、堀川弘通監督、1958年) 続 夫婦百景(日活、井上梅次監督、1958年) 悪女の季節(松竹大船、渋谷実監督、1958年) 不道徳教育講座(日活、西河克己監督、1959年) 野獣死すべし(東宝、須川栄三監督、1959年) にあんちゃん(日活、今村昌平監督、1959年) お早よう(松竹大船、小津安二郎監督、1959年) 女が階段を上る時(東宝、成瀬巳喜男監督、1960年) いとはにほへと(松竹大船、中村登監督、1960年) 豚と軍艦(日活、今村昌平監督、1961年) 好人好日(松竹、渋谷実監督、1961年) あいつと私(日活、中平康監督、1961年) アラブの嵐(1961年、日活) 小早川家の秋(東宝、小津安二郎監督、1961年) 黒蜥蜴(大映、井上梅次監督、1962年) キューポラのある街(日活、浦山桐郎監督、1962年) 硝子のジョニー 野獣のように見えて(日活、蔵原惟繕監督、1962年) 金門島にかける橋(日活、1962年) 憎いあンちくしょう(日活、蔵原惟繕監督、1962年) 泥だらけの純情(日活、中平康監督、1963年) にっぽん実話時代(東宝、福田純監督、1963年) みれん(東宝、千葉泰樹監督、1963年) 武士道残酷物語(東映京都、今井正監督、1963年) 残菊物語(松竹、大庭秀雄監督、1963年) にっぽん昆虫記(日活、今村昌平監督、1963年) 猟人日記(日活、中平康監督、1964年) 君も出世ができる(東宝、須川栄三監督、1964年) 赤い殺意(日活、今村昌平監督、1964年) 悪の紋章(宝塚映画、堀川弘通監督、1964年) 月曜日のユカ(日活、中平康監督、1964年) 仇討(東映、今井正監督、1964年) 執炎(日活、蔵原惟繕監督、1964年) 大根と人参(松竹、渋谷実監督、1965年) 城取り(日活、舛田利雄監督、1965年) 東京オリンピック(東京オリンピック映画協会、市川崑監督、1965年) 天地創造(アメリカ・イタリア、ジョン・ヒューストン監督、1966年) 「エロ事師たち」より 人類学入門(日活、今村昌平監督、1966年) 愛と死の記録(日活、蔵原惟繕監督、1966年) 沈丁花(1966年、東宝) 愛の渇き(日活、蔵原惟繕監督、1967年) 禁じられた情事の森(アメリカ映画 ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツ、ジョン・ヒューストン監督、1967年) 非行少年 陽の出の叫び(日活、藤田繁矢監督、1968年) 黒部の太陽(日活、熊井啓監督、1968年) 神々の深き欲望(日活、今村昌平監督、1968年) 栄光への5000キロ(松竹、蔵原惟繕監督、1969年) 私が棄てた女(日活、浦山桐郎監督、1969年) 富士山頂(東宝、村野鐵太郎監督、1970年) 日本の首領(東映、中島貞夫監督、1977年) 徳川一族の崩壊(東映、山下耕作監督、1980年) 序の舞(東映、中島貞夫監督、1984年) 大病人(東宝、伊丹十三監督、1993年)本編BGMは本多俊之だが、劇中で「カンタータ般若心経」が全曲演奏されている メフィストの誘い(KUZUI、マノエル・ド・オリヴェイラ監督、1995年)本編BGMとして「弦楽四重奏のための前奏曲」が使われている(ストラヴィンスキーやグバイドゥーリナなどとともに使用)。 テーマ音楽「スポーツ行進曲」- 日本テレビ・スポーツのテーマ(1953年) 朝日新聞ニューストップタイトルのための音楽(1953年)- 日本テレビでの「朝日TVニュース」開始に併せてそのオープニングテーマソングとして使われたもの EXPO'70 太陽の塔内・生命の樹テーマ曲「生命の讃歌」(1970年) 「NNNニュースのテーマ」日本テレビ系列ニュース番組のために書かれた、全編3分ほどもある小曲(1973年) 阿含の星まつり・序曲 東海道新幹線車内のオルゴールチャイム(1968 - 72年に使用) 「新宿小田急百貨店の時報音楽」(1968年) 校歌・団体歌北海道苫小牧南高等学校(1978年) 新潟産業大学 福島県立富岡高等学校川内校 大阪府立金岡高等学校(1974年頃) 滋賀県立彦根南高等学校(滋賀県立彦根翔西館高等学校に統合。現在は黛敏郎の校歌は使用されていない模様) 東大阪市立上四条小学校 東大阪市立玉美小学校 埼玉県立志木高等学校 新島学園中学校・高等学校(1959年) 八千代市立村上東中学校(1976年頃) 千葉県東金市 東金市民歌(行進曲)(1984年) 聖徳学園想園歌「青春の風は胸に鳴る」 横浜隼人高等学校 横浜市立東中田小学校 神奈川県立横浜明倫高等学校(現・横浜清風高等学校) 牧之原市立相良小学校 名古屋市立上社中学校 福井工業大学附属福井中学校 滋賀県立伊吹高等学校 徳島文理大学 嘉穂町立宮野小学校(嘉麻市立嘉穂小学校に統合) 持田製薬 - 「世界企業へ躍進の歌」 ヤオハン - 「われらのヤオハン」 集英社 - 「集英社・社歌」(1972年) 北沢バルブ - 社歌「空に海に」(1979年) 総合新川橋病院(川崎市) - 「新川橋病院の歌」 臨済宗南禅寺 - 宗歌 2024/06/10 18:54更新
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