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伊福部昭の情報 (いふくべあきら)
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【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

伊福部昭の情報(いふくべあきら) 作曲家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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伊福部 昭さんについて調べます

■名前・氏名
伊福部 昭
(読み:いふくべ あきら)
■職業
作曲家
■伊福部昭の誕生日・生年月日
1914年5月31日 (年齢91歳没)
寅年(とら年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
北海道出身

伊福部昭と同じ1914年生まれの有名人・芸能人

伊福部昭と同じ5月31日生まれの有名人・芸能人

伊福部昭と同じ出身地北海道生まれの有名人・芸能人


伊福部昭と関係のある人

伊福部崇: 作曲家の伊福部昭は大叔父に当たる。


矢代秋雄: 秋雄は後任の池内友次郎、伊福部昭に就いて、新たに作曲理論の勉強を開始することとなる。


真鍋理一郎: 2013年5月2日、伊福部昭生誕99年音楽祭にて《追憶~ヴィブラフォン独奏のために~伊福部昭生誕99年に寄せて》を作曲献呈、初演(ヴィブラフォン會田瑞樹)。同年より、伊福部昭生誕百年紀実行委員会の副委員長を務める。


藍川由美: 伊福部昭全歌曲(カメラータ、2001年)


真鍋理一郎: Omaggio al maestro Ifukube(1988年)九人の門弟による伊福部昭モチーフによる讃


芥川也寸志: 1945年8月に戦争が終わって東京音楽学校に戻ったとき、戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた伊福部昭と出会い、決定的な影響を受けた。


池野成: このような厳しい作曲姿勢は、師伊福部昭の非西欧中心主義的な文化観や、傾倒していた山本常朝『葉隠』の影響下にあるとも見られ、門下には『葉隠』の「常住死に身」の精神を説いていた。


松村禎三: そのコンクールの審査員であった伊福部昭に作品を評価されたこをときっかけに伊福部門下となる。


八木保太郎: ひろしま 1953年 監督関川秀雄、音楽伊福部昭、主演月丘夢路、山田五十鈴


荒道子: CD 日本の声楽・コンポーザーシリーズ 3 芥川也寸志・伊福部昭 オムニバス


今井重幸: 師・伊福部昭とは常に深い交流を続けていたという。


木村威夫: 『女中っ子』(1955年、田坂具隆監督・脚本、須崎勝弥共同脚本、伊福部昭音楽)文部省選定


三浦淳史: 札幌第二中学校(現札幌西高等学校)で伊福部昭、佐藤忠良らと知り合う。


真鍋理一郎: 追憶 ヴィブラフォンのために(2013年)伊福部昭先生の生誕99年に捧げる(弦楽オーケストラのための追憶を編曲したもの)


木村威夫: 『お吟さま』(1978年、熊井啓監督、依田義賢脚本、今東光原作、岡崎宏三撮影、伊福部昭音楽)宝塚映画=大和新社共同作品。


小宮豊隆: 東京音楽学校の校長時代に、森田たまの紹介で伊福部昭を作曲科講師に迎えた。


沢田完: 前述のように池野成に師事していたほか、大学では伊福部昭の授業も受けていたが、大学に入るまでは映画音楽から離れていたため、両名がゴジラシリーズの音楽を担当していたことは勉強不足であったという。


本多猪四郎: 映画音楽は伊福部昭、佐藤勝。


今井重幸: 『マリムバ・打楽器とピアノのための伊福部昭・讃「狂想的変容」第2番』を作曲。


リムスキー=コルサコフ: 伊福部昭の恩師アレクサンドル・チェレプニンの父ニコライもリムスキー=コルサコフ門下である。


福田純: 軽快な演出を持ち味としており、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』と『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』と『ゴジラ対メカゴジラ』ではシリーズで恒例の伊福部昭ではなく佐藤勝に作曲を依頼しているが、「伊福部さんだとどうしても重くなっちゃうんで、佐藤さんにやってもらいました」と評している。


早坂文雄: 1934年、旧知であった伊福部昭・三浦淳史らによって「新音楽連盟」が結成されると、早坂もメンバーとなり、同年9月30日に開催された「国際現代音楽祭」では、ピアニストとしてエリック・サティ、マヌエル・デ・ファリャなどの作品を演奏した。


円谷英二: 映画音楽の伊福部昭によれば、この年に月形龍之介との付き合いで、京都の小料理屋で円谷と知り合い、その後、飲み友達になった。


今井重幸: 2009年(平成21年)には、伊福部昭作曲『プロメテの火』を今井が『オーケストラの為の交響的舞踊組曲「プロメテの火」』として編曲した。


池野成: これらの経験や伊福部昭著『管弦楽法』執筆の助手などを通じて、池野は近代オーケストレーションに精通していた。


真鍋理一郎: 作曲を池内友次郎に師事した後、池野成の仲介により伊福部昭に師事。


木村威夫: 『検事と女看守』(1949年、吉村廉監督、舘岡謙之助脚本、伊福部昭音楽)


有馬礼子: 卒業後に東京音楽大学へ勤務し、学長に就任した伊福部昭に弟子入りした。


早坂文雄: 同年、清瀬保二、伊福部昭、松平頼則、渡辺浦人、塚谷晃弘、荻原利次らと「新作曲派協会」を組織し、早坂は幹事として戦後の作曲家グループの先端の一翼を担った。


藤城清治: 伊福部昭音楽による影絵劇『せむしの子馬』を制作(銀座交詢社ホールにて伊福部指揮の生演奏による上演)。


伊福部昭の情報まとめ

もしもしロボ

伊福部 昭(いふくべ あきら)さんの誕生日は1914年5月31日です。北海道出身の作曲家のようです。

もしもしロボ

人物などについてまとめました。映画、父親、現在、卒業、病気、結婚、家族に関する情報もありますね。91歳で亡くなられているようです。

伊福部昭のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

伊福部 昭いふくべ あきら1914年〈大正3年〉5月31日 - 2006年〈平成18年〉2月8日)は、日本の作曲家。

ほぼ独学で作曲家となった。日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、音楽教育者としても知られる。位階は従四位。北海道出身。

1914年(大正3年)、北海道釧路町(釧路市の前身)幣舞警察官僚の伊福部利三、キワの三男として生まれる。小学生の時、父が音更村の村長となったため、音更村に移る。同地でアイヌと接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた。代表作の一つ、『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)は、アイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという。また、このころから父親に『老子』の素読をさせられる。

1926年(大正15年)、12歳。札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)に入学。中学時代に後の音楽評論家で、生涯の親友となる三浦淳史と出会う。初めは絵画に熱中し、1年上の佐藤忠良(彫刻家)らと美術サークル「めばえ会」を結成。地元で展覧会も開いたという。その後音楽に関心を持ち、ヴァイオリンを独学で始める。さらに三浦に「音楽やるには作曲やらないと意味がない」とそそのかされ、本格的に作曲も始めた。

1932年(昭和7年)、18歳。北海道帝国大学(北海道大学の前身)農学部林学実科学校(森林科学科)に入学。文武会管絃学部のコンサートマスターとなる。さらに、同オーケストラ内で最新の音楽への関心が強い同志3名(有田学、小岩武、工藤元)とともに、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成する。工藤は当時札幌師範学校教諭で、大正期に函館で「アポロ音楽会」を主宰した工藤富次郎の長男であった。ギター曲『JIN』作曲。独唱曲『平安朝の秋に寄せる三つの歌』作曲。このころ後の作曲家早坂文雄と出会う。

1933年(昭和8年)、19歳。アマチュアギター奏者であった次兄・勲のために、ギター曲『ノクチュルヌ』作曲(現在楽譜の所在不明)。さらに、三浦が文通していたスペイン在住の米国人ピアニスト、ジョージ・コープランド(英語版)のために『ピアノ組曲』を書き上げる。これは、コープランドの「地球の反対側にいながら私の音楽を聴くのだから、作曲もやるのだろう。曲を送れ」という旨の手紙に対して、三浦が「良い作曲家がいるので曲を送る」と返事を書いたことを受けて作曲したものであるが、後年、管弦楽版、箏曲版、弦楽オーケストラ版などを編曲するなど、ライフワーク的な作品となる。なお、コープランドからは「面白いのでぜひ演奏したい」という返信があったが、スペイン内戦のため手紙が途絶えたという。

1934年(昭和9年)、20歳。次兄の勲、三浦、早坂、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーらとともに、「新音楽連盟」を結成。代表は伊福部の長兄の宗夫がつとめた。同年9月、「国際現代音楽祭」を開催。イーゴリ・ストラヴィンスキー、ダリウス・ミヨー、マヌエル・デ・ファリャ、エルヴィン・シュルホフ、エリック・サティなど、時代の最先端をいく作品を演奏・紹介した。また、この演奏会で伊福部はソリストとして、シュルホフの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』を日本初演している。楽譜の入手は伊福部と、当時アメリカの音楽家と文通するなど、最新の音楽事情に精通していた三浦が中心に行っており、主に丸善を通してフランスのデュラン社・イギリスのチェスター社から購入していた。なお、伊福部は上記の他にもヤナーチェクの『六重奏曲』の楽譜を入手していたが、当時はその価値がわからず演奏会で発表することはなかった。伊福部はこのことを後年まで悔やんでいたという。また、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーとしても、札幌・旭川など道内各地で演奏旅行も行った。

「新音楽連盟」の演奏会は上記の一度きりであったが、20年後の1954年に当時北大生であった谷本一之(のち北海道教育大学学長)らのグループ「ノイエ・ムジーク」が、同大学の中央講堂で「新音楽連盟」の演奏会を継承するとして「現代音楽の夕」を開催している。谷本は事前に先輩の伊福部らに許可を求める手紙を送ったが、伊福部からは「御役に立つなら第二回でも第三回でもご使用ください。 〜(中略)〜 選曲や、演奏の上で多少、不適当なものがあったとしても、その支障を超える気力が重要です」と激励の返信があったという。

1935年(昭和10年)、21歳。大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務。アメリカの指揮者ファビエン・セヴィツキー(セルゲイ・クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る。

同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、ラヴェルに見てもらいたいという一心で、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールやアルベール・ルーセルといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった。このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった。

パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、

平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと

当時としては極端な大編成である編入楽器多数の(打楽器奏者だけで9人を要する)三管編成オーケストラが要求されていたこと

北海道の厚岸町から応募してきたこと

との理由から、相当の驚きと困惑があったという。とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう」という意見も出たが、大木正夫の「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という意見が通り、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた。

結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった。賞金は300円であった。この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平と伊福部はともに新作曲派協会を結成することになる。同曲は翌1936年(昭和11年)、セヴィツキー指揮、ボストン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演された。なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏され、そのカットした部分の楽譜は現存しないため、永遠に幻となった。なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本狂詩曲のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた『交響譚詩』の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている。

これを機に初演の年来日したチェレプニンに短期間師事する。日本狂詩曲は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて書くべきというチェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員ソロの小管弦楽曲『土俗的三連画』を書いた。チェレプニンは伊福部にニコライ・リムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』のスコアを渡し、筆写して学ぶことを勧めた。

なお、『日本狂詩曲』は、1936年に龍吟社からチェレプニン・コレクションとして楽譜が出版されている。表紙のデザインは、美術にも関心が深かった伊福部自身が手がけた。この楽譜は、日本国内では僅か9冊しか売れなかったが、海外での購入者の中には、モーリス・ラヴェルやジャン・フランチェスコ・マリピエロらの名前もあったという。

1937年(昭和12年)、23歳、室内管弦楽曲『土俗的三連画』を作曲し、チェレプニンに献呈する。

1938年(昭和13年)、24歳。以前書いた『ピアノ組曲』がヴェネツィア国際現代音楽祭入選。

この時期は日本の民族音楽の他、アイヌやギリヤーク(ニヴフ)といった、北海道や樺太の少数民族の文化に発想を求めた作品が多い。

1940年(昭和15年)、26歳。林務官を辞め、北海道帝国大学の演習林事務所に嘱託として勤務。紀元二千六百年記念祭にて『交響舞曲 越天楽』初演。

1941年(昭和16年)、27歳。札幌出身の舞踊家・勇崎アイと結婚。これが後に舞踊作品の音楽を手掛けるきっかけとなる。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』作曲。

1942年(昭和17年)、28歳。兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去。

1943年(昭和18年)、29歳。勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲。同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し、伊福部の作品として初めてレコード化されることとなった。吹奏楽曲『古典風軍楽「吉志舞」』を作曲。

1944年(昭和19年)、30歳。管弦楽曲『兵士の序楽』を作曲。『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』を作曲。『管絃楽のための音詩「寒帯林」』を作曲。

1945年(昭和20年)、31歳。宮内省帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務。放射線による航空機用木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続けた。研究成果を得ないまま終戦となったある日、突然血を吐いて倒れたが、医者には結核や過度の電波実験による毛細管の異状などと言われ、「何せ生命が最も軽んぜられた時代なので、医師も無責任なものであった」と述懐している。また、この時病臥した経験が、後に音楽に専念するきっかけとなったという。航空機に伴う一切の仕事はマッカーサー上陸後、数日後に禁止となった。

1946年(昭和21年)、32歳。自宅で静養中、知人から映画音楽の仕事の誘いがあり、栃木県の日光・久次良町に転居。その後間もなく、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘し、これを受けて就任。独唱曲『ギリヤーク族の古き吟誦歌』作曲。

この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志、黛敏郎などから大変慕われた。特に芥川は2回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、数日逗留したという逸話を持つ。そのほかにも教育者として松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、山内正、石井眞木、三木稔、今井重幸、永瀬博彦、和田薫、石丸基司、今井聡、など多くの作曲家を育て、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わった。

またこのころ、『管弦楽法』の執筆に取り掛かっていたが、トランクに入れていた原稿やメモを、乗っていた電車からトランクごと落としてしまった。翌日探しに行ったが、原稿はほとんど散逸してしまっており、このために『管弦楽法』をまとめるのに5年はロスしたという。

1947年(昭和22年)、33歳。東京都世田谷区玉川等々力町に転居。東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、『山小屋の三悪人』(公開題名は『銀嶺の果て』)で初めて映画音楽を担当。伊福部はこの作曲依頼について、「おそらく私が山林官で、山奥の生活を知っているだろうということであったのだろうと思っています」と語っている。

この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。その日の録音を取りやめ、演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたという。このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明であった。黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されたが、断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての主人公の心情を表した音楽を意図したことが認められ、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。

バレエ曲『エゴザイダー』作曲。

同年、『交響譚詩』などの業績により、第1回北海道新聞文化賞を受賞。

1948年(昭和23年)、34歳。世田谷区玉川奥沢町に転居。『ヴァイオリン協奏曲』。バレエ音楽『さ迷える群像』を作曲。バレエ音楽『サロメ』を作曲。

1949年(昭和24年)、35歳。父・利三死去。独唱曲『サハリン島土蛮の三つの揺籃歌』を作曲。バレエ音楽『子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品』を作曲。バレエ音楽『憑かれたる城(バスカーナ)』を作曲。

1950年(昭和25年)、36歳。バレエ音楽『プロメテの火』を作曲。

1951年(昭和26年)、37歳。世田谷区玉川尾山町(現尾山台)に転居。『音楽入門』(要書房)を刊行。バレエ音楽『日本の太鼓「鹿踊り」』を作曲。

1952年(昭和27年)、38歳。『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』がジェノヴァ国際作曲コンクール入選。

1953年(昭和28年)、39歳。東京音楽学校の音楽科講師を退任。バレエ音楽『人間釈迦』を作曲。『管絃楽法』(音楽之友社)を刊行。ラジオ放送による音楽劇『ヌタックカムシュペ』が文部省芸術祭賞受賞。

1954年(昭和29年)、40歳。『ゴジラ』の音楽を担当。以後、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛けた。

管弦楽曲『シンフォニア・タプカーラ』を作曲、三浦淳史に献呈。

1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っている。この時の教え子に宝田明や岡田真澄などがおり、宝田はその後も伊福部を慕っていることを、映画の打ち上げ会や書籍などで語っている。

1956年(昭和31年)、42歳。『ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲』を作曲。毎日映画コンクール音楽賞受賞。仮面舞踏劇『ファーシャン・ジャルボー』作曲。独奏曲『アイヌの叙事詩による対話体牧歌』を作曲。

1958年(昭和33年)、44歳。合唱頌詩『オホーツクの海』を作曲。

1960年(昭和35年)、46歳。北海道大学合唱団委託作品、独唱曲『シレトコ半島漁夫の歌』を作曲。バレエ音楽『日本の太鼓「狐剱舞」』を作曲。

1961年(昭和36年)、47歳。合唱曲『北海道賛歌』を作曲。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための「リトミカ・オスティナータ」』を作曲。

1965年(昭和40年)、51歳。母・キワ死去。

1967年(昭和42年)、53歳。ギター独奏曲『古代日本旋法による蹈歌』を作曲(1990年に二十絃箏用に編曲)。

1968年(昭和43年)、54歳。『管絃楽法』(音楽之友社)の上巻増補改訂版と下巻を刊行。

1969年(昭和44年)、55歳。ギター独奏曲『箜篌歌』を作曲。

1970年(昭和45年)、56歳。大阪万博のパビリオン「三菱未来館・日本の自然と日本人の夢」の音楽を手がける。ギター独奏曲『ギターのためのトッカータ』を作曲。

1972年(昭和47年)、58歳。吹奏楽曲『ブーレスク風ロンド』を作曲。バレエ音楽『日本二十六聖人』を作曲。

1973年(昭和48年)、59歳。邦楽器合奏曲『郢曲「鬢多々良」』を作曲。

1974年(昭和49年)、60歳。東京音楽大学作曲科教授就任。

1976年(昭和51年)、62歳。同大学長就任。マリンバ協奏曲『オーケストラとマリンバのための「ラウダ・コンチェルタータ」』を作曲。

1979年(昭和54年)、65歳。『ヴァイオリン協奏曲第二番』を作曲。二十絃箏曲『物伝舞』を作曲。

1980年(昭和55年)、66歳。リュート独奏曲『バロック・リュートのためのファンタジア』を作曲。紫綬褒章受章。芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展4 伊福部昭」が開催される。

1982年(昭和57年)、68歳。二十絃箏協奏曲『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』を作曲。

1983年(昭和58年)、69歳。管弦楽曲『SF交響ファンタジー』を作曲。ゴジラ30周年記念「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」が開催される。また、音楽グループ「ヒカシュー」のメンバー(当時)の井上誠によって、トリビュートアルバム『ゴジラ伝説』全3作がリリースされ、若い世代にも伊福部の名前が知られるきっかけとなった。

1985年(昭和60年)、71歳。『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』を作曲。東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任。

1987年(昭和62年)、73歳。勲三等瑞宝章受章。

1989年(平成元年)、75歳。

1990年(平成2年)、76歳。管絃司判『鞆の音』を作曲。

1991年(平成3年)、77歳。『ゴジラVSキングギドラ』で13年ぶりに映画音楽を担当。

1992年(平成4年)、78歳。独唱曲『摩周湖』を作曲。

1993年(平成5年)、79歳。交響的音画『釧路湿原』を作曲。

1994年(平成6年)、80歳。独唱曲『因幡万葉の歌五首』を作曲。

1996年(平成8年)、82歳。日本文化デザイン賞大賞受賞。

1997年(平成9年)、83歳。二十五絃箏曲『胡哦』を作曲。「伊福部昭音楽祭」(札幌交響楽団、札幌コンサートホールKitara。北海道文化放送・北海道新聞社主催)開催。『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』が55年ぶりに再演される。

1999年(平成11年)、85歳。二十五絃箏曲『琵琶行』を作曲。

2000年(平成12年)、86歳。独唱曲『蒼鷺』を作曲。独唱曲『聖なる泉』を作曲。妻・アイ死去。

2002年(平成14年)、88歳。「伊福部昭米寿記念演奏会」(新交響楽団、紀尾井ホール)。

2003年(平成15年)、89歳。チェンバロ独奏曲『小ロマンス』を作曲。文化功労者顕彰。

2004年(平成16年)、90歳。「文化功労者顕彰お祝いコンサート」開催(第一生命ホール)。「伊福部昭 『卆寿』を祝うバースディ・コンサート」開催(日本フィルハーモニー交響楽団、サントリーホール)。

2005年(平成17年)、91歳。11月、幼少期を過ごした北海道音更町で、「伊福部昭音楽祭 in 音更」(札幌交響楽団、高関健指揮)開催。『管弦楽のための日本組曲』、『リトミカ・オスティナータ』(ピアノ:川上敦子)、『シンフォニア・タプカーラ』などが演奏される。

晩年は旧作の改版も多く手がけ、デビュー作の『ピアノ組曲』に77歳になってオーケストレーションを施した『日本組曲』をはじめ、年を重ねてからも大作を書く筆は衰えなかった。この時期の改作としては、野坂惠子が開発した二十絃箏や二十五絃箏など箏の改良楽器およびその合奏のための作品が多い。1997年(平成9年)にそれまで戦時中に失われたとされていた『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』の楽譜がNHKの資料倉庫から発見されるなど、晩年になってから多数の初期作品が蘇演される幸運にも恵まれた。

2006年(平成18年)、前年ごろから体調を崩し始め、1月19日に腸閉塞のため東京都目黒区の病院に入院するも、2月8日夜に多臓器不全のため死去。91歳没。葬儀委員長は松村禎三(東京芸術大名誉教授)。従四位に叙された。

遺作は結果として、2004年(平成16年)初演の二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ — バレエ・サロメに依る』である。しかし、川上敦子に献呈する予定だった『土俗的三連画』のピアノリダクション版、ならびに野坂恵子に献呈する予定だった二十五絃箏曲『ラプソディア・シャアンルルー』(「シャアンルルー」はアイヌ語で十勝平野の意)は、病床において構想の段階を過ぎて、書き始める直前であったという。

伊福部の死去に対して、「日本の作曲界を牽引した功績はとても大きい」(作曲家・池辺晋一郎)、「映画音楽の大山脈をなした方でした」(映画監督・熊井啓)など、各界から追悼のコメントが寄せられた。

墓所は鳥取市国府町の宇倍神社にある。

2007年(平成19年)、サントリーホールにて「第1回伊福部昭音楽祭」が開かれた。

2008年(平成20年)、『完本 管絃楽法』(音楽之友社)を刊行。杉並公会堂にて「第2回伊福部昭音楽祭」開催。コンサートの他、シンポジウム「伊福部昭が残したもの - 未公開映像に見る伊福部昭の素顔」が開かれた。

2013年(平成25年)、5月2日、杉並公会堂にて「伊福部昭生誕99年 白寿コンサート」(伊福部昭生誕99・100年音楽祭実行委員会〈現・伊福部昭百年紀実行委員会〉主催)が開かれた。6月1日、ミューザ川崎シンフォニーホールにて「伊福部昭 生誕100年記念プレコンサート」が開催。舞踊音楽『プロメテの火』が50年ぶりに再演された。

2014年(平成26年)。生誕100周年を迎えるこの年は、数多くの記念コンサート・イベントが行われた。またメモリアルイヤーを記念し、多くのCDがリリースされた。コンサート・イベントについて、主要なものを以下に述べる。

演奏会

    新交響楽団は、1月19日に東京芸術劇場コンサートホールにて、「第224回演奏会〜伊福部昭生誕100年〜」(指揮・湯浅卓雄、マリンバ・安倍圭子)を開催した。

    「伊福部昭百年紀実行委員会」(実行委員長・今井重幸、副委員長・永冨正之、眞鍋理一郎)は、2月1日、7月21日、11月24日と3回にわたり、メモリアルコンサート「伊福部昭百年紀」を開催。

    日本フィルハーモニー交響楽団は、2月27日に横浜みなとみらいホールで、「グレート・アーティスト・シリーズVol.2〜楽壇を育てた日本の巨匠たち〜伊福部昭 生誕100年メモリアル・コンサート」(指揮・井上道義、マリンバ・安倍圭子)を開催した。

    伊福部の母校である北海道大学では、北大合唱団の創立100周年記念も併せ、5月11日に札幌コンサートホールKitaraでの北大合唱団OB会第10回演奏会において、石川健次の指揮により、バリトン独唱用の歌曲《シレトコ半島の漁夫の歌》(合唱版、堀井友徳編曲)が上演された。

    札幌交響楽団は、5月30日と伊福部の生誕日である5月31日の2日間にわたって、札幌コンサートホールKitaraで、「第569回定期演奏会〜伊福部昭生誕100年記念〜」(指揮・高関健、ヴァイオリン・加藤知子)を開催した。

    伊福部の出身地の北海道釧路市の「まなぼっと幣舞」大ホールでも、5月31日に「伊福部昭 幣舞生誕百年記念コンサート」が開催された。同市在住で伊福部の教え子である石丸基司の企画によるもので、東京や道内の音楽家の他、釧路市民吹奏楽団など地域の音楽団体を中心に約100人の市民が出演した。なお、会場となる「まなぼっと幣舞」周辺は、釧路警察署近くにあった伊福部の生家に程近い場所であるという。

    東京交響楽団は、5月31日にミューザ川崎シンフォニーホールで、「伊福部昭 生誕100年記念コンサート」(指揮・大植英次)を開催した。

    イベント

      7月19日から9月28日にかけて、伊福部の郷里・北海道で開催された『札幌国際芸術祭』(ゲストディレクター・坂本龍一)では、メインイベントの一つとして、北海道庁赤れんが庁舎において、「伊福部昭展」が開催された。また、9月23日には、伊福部の長女で陶芸家の伊福部玲を招いたトークショーと、貴重な音源を集めたレコードコンサートで構成された「トーク&レクチャー 伊福部昭レコードナイト」が開催された。

      9月19日から29日にかけて、パルコギャラリーXにおいて、「ゴジラ伝説と伊福部昭の世界展?GODZILLA GENERATION?」が開催された。

      2019年(令和元年)、アメリカ映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』において、伊福部の作曲した「ゴジラのテーマ」が海を越えてアレンジ版となって使用された。

      2021年(令和3年)、伊福部昭の作品資料1,243点&愛用ピアノが、遺族から東京音楽大学に寄贈された。

      1980年(昭和55年) - 紫綬褒章

      1987年(昭和62年) - 勲三等瑞宝章

      1996年(平成8年) - 日本文化デザイン大賞

      2003年(平成15年) - 文化功労者

      2006年(平成18年) - 第48回日本レコード大賞特別功労賞

      2006年(平成18年) - 叙従四位、授銀杯一組

      2007年(平成19年) - 第30回日本アカデミー賞会長特別賞

      人物

      幼少期に西洋音楽に触れず、アジアの田舎の感性で育ったと述べている。動物とも近い距離感で生活していたことから動物を愛好しており、幼少期にはヘビや鳥などを多く飼っていた。『ゴジラ』の映像を最初に観たときも、怖さよりも魅力的に感じたという。

      終戦時にGHQによる戦時科学研究の検査で、使用した資材の量をトン単位で聞かれたことで桁が違うことを痛感し、日本の敗戦はテクノロジーの差であったという印象が強くなったという。そのため『ゴジラ』では、現実的な人間のテクノロジーがゴジラに通用しない様が痛快であったといい、アンチ文明の思想に人並み以上の共感を覚えたと述べている。

      「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」を信条とし、「大楽必易 大礼必簡」(「すぐれた音楽は平易なもので、すぐれた礼節は簡略なものである」という意の司馬遷の言葉)を座右の銘としていた。また、伊福部家の家学は老子であり、これをはじめとして多くの中国古典に精通していた。自宅の書斎には「無為」という諸橋轍次の書があり、いつもこの書を見てから仕事を始めた。

      政治的スタンスについては自ら明言することはなかった。2005年(平成17年)には、音楽家有志によって結成された「音楽・九条の会」の呼びかけ人として参加している。

      自身は神道を信仰していたが、神道やそれ以外も含め宗教映画も多く手がけた(『日本誕生』、『釈迦』、『人間革命』など)。『続・人間革命』は降板させられたが、これは天理教の映画『扉はひらかれた』に参加したためだといわれている。自身は「八百万の神ということで誰をやってもいいんです」と語っている。

      タバコをこよなく愛するヘビースモーカーで、インタビューの写真・映像では、大体片手にタバコを持っている。また若いころはかなりの酒豪だったが、それでも北海道の森林官のレベルで見ると強いとは言えないそうである。チョコレートなどの甘いものが好物で、仕事の際には机の引き出しに入れ、よく食べていたという。

      「怪獣に被せる音楽は抑え気味にしたほうがよい場合があるんですが、女優さんなんかで演技力がないと、それをカバーするために音楽の量を上げないといけないから大変です」と語っていた。1980年代後半に『題名のない音楽会』に出演した際も、司会を務める門下生の黛敏郎に、「先生は大変な毒舌家でございまして……」と紹介され、この番組の中でも、「演技者に被せる劇伴音楽のボルテージというものは、その俳優さんの演技力に反比例するもののようです」と、早速毒舌を披露していた。平成ゴジラシリーズの監督を務めた大河原孝夫は、伊福部の作品に対する評価は手厳しいものであったと述懐している。

      門下生である広上淳一が日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して録音した4枚組みCD『伊福部昭の芸術』は、日本の現代音楽作品としては異例の売り上げを記録した。伊福部はこのことについて、「戦後日本は憧れであちこちから音楽を集めてきたが、全て切り花、根無し草で終わった。それで前から根の生えていたものを探したら、我々がいたということではないか」と述べている。また、1935年に発表した『日本狂詩曲』が、45年経った1980年にようやく日本で初演され、以後度々演奏されるようになったことについては、「それだけ長い期間、演奏機会に恵まれなかったのは、やはり私の音楽が、あまり日本のクラシック音楽界から好まれていなかったことの証明だろうと思っています。近年の傾向は、ロック・ミュージックの影響で、私のリズムを強調する音楽に違和感を覚えぬ方が増えたとか、日本人の耳が私の音楽を受け入れる方向に変わってきたせいではないでしょうか?」とコメントしている。

      音楽評論家の片山杜秀は、「伊福部先生の音楽は、日本的なイメージにとどまらない大陸的でスケールの大きなものだった。北海道で生まれ育ったことも大きく影響している。北方的な自然の感性をうまく音楽にしていた」と評している。

      同じ北海道出身の作曲家・佐藤勝は、直接の師弟関係はなかったものの、北方的な力強さを持った伊福部作品に大きな憧憬を寄せ、影響を受けた。1993年11月には、伊丹市立文化会館で佐藤の企画・指揮により、伊福部の特撮映画音楽を演奏する「ゴジラ生誕四十周年記念コンサート」が開催されている。

      前述の通り、音楽評論家の三浦淳史は旧制札幌二中時代からの親友で、伊福部が作曲家になるきっかけを作った人物でもある。1997年に三浦が死去した時、伊福部は「兄の勲も若いころの音楽仲間も既に亡く、自分だけが残って寂しい限りです」とその死を嘆いた。

      伊福部は同じ道東出身で、北海道の自然と風土を力強く詠った詩人・更科源蔵の作品に魅せられ、彼の第二詩集『凍原の歌』に収録された作品を基に、「オホーツクの海」(1958年)、「知床半島の漁夫の歌」(1960年)、「摩周湖」(1993年)、「蒼鷺(あおさぎ)」(2000年)の4作の歌曲を発表している。林務官時代に道東を回ることが多かった伊福部にとって、知床半島は特に印象の深い地であったという。「摩周湖」と「蒼鷺」は、伊福部の作品に取り組んでいるソプラノ歌手・藍川由美のために書き下ろされた。

      平成ゴジラシリーズの音楽プロデューサーを務めた岩瀬政雄によれば、伊福部は徹夜で編集作業や打ち合わせを行うこともあり、スタッフが疲れてくるとジョークを言って和ませるなどしていた。

      語録

      「作曲家は氏・素性を音楽で語らねば駄目だ」

      「真にグローバルたらんとすれば真にローカルであることだ」

      「17歳から22歳までに得たものは一生離れない」

      「楽譜をきれいに書けない者は良い音楽が書けない」

      「自然無為が大切だ」

      「香水は物凄く臭いものから作られる」

      家族・親族

      伊福部家は因幡国の古代豪族・伊福部氏を先祖とする。本籍地は鳥取県岩美郡国府町(現在は鳥取市に編入)。明治前期まで代々宇倍神社の神職を務めたとされ、昭の代で67代目。祖父・信世の代に明治維新となり、神官の世襲が廃止されたことにより父・利三は北海道に転居し、警察署長や音更村(音更町の前身)村長を務めた。

      長兄の伊福部宗夫は北海学園大学建設工学科教授、次兄の伊福部勲は技術者として日本夜光塗料研究所に勤務していたが30歳で早世した(昭の「交響譚詩」第2楽章は亡き勲への追悼曲)。工学博士で北海道大学電子研究所教授や東京大学先端科学技術研究センター教授を歴任した伊福部達は甥(長兄・宗夫の次男)、放送作家の伊福部崇は従孫である。なお、伊福部家の人物としては宗教家・文芸評論家・詩人の伊福部隆彦も知られている。

2024/06/12 10:05更新

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