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今井重幸の情報 (いまいしげゆき)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

今井重幸の情報(いまいしげゆき) 作曲家、演出家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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今井 重幸さんについて調べます

■名前・氏名
今井 重幸
(読み:いまい しげゆき)
■職業
作曲家、演出家
■今井重幸の誕生日・生年月日
1933年1月4日
酉年(とり年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和8年)1933年生まれの人の年齢早見表

今井重幸と同じ1933年生まれの有名人・芸能人

今井重幸と同じ1月4日生まれの有名人・芸能人

今井重幸と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


今井重幸と関係のある人

ヨネヤマママコ: 『ハンチキキ』:今井重幸 作曲:原田甫 共演:土方巽、 大野一雄


土方巽: 1957年 - 各分野の芸術家が交流することによって新しい舞台芸術を創作しようと「現代舞台芸術協会」を設立した作曲家今井重幸が建てた阿佐ヶ谷のスタジオに移り住み、2年近く居候する。


ヨネヤマママコ: 1957年 - 今井重幸の阿佐ヶ谷スタジオでモダンダンスを教える。


ヨネヤマママコ: 『埴輪の舞』企画・プロデュース(堤世王己、土方巽)、作曲:今井重幸


土方巽: 1958年 - 今井重幸 プロデュースの『埴輪の舞』、ヨネヤマママコ 振付のバレーマイム作品『ハンチキキ』に出演。


伊福部昭: 「伊福部昭百年紀実行委員会」(実行委員長・今井重幸、副委員長・永冨正之、眞鍋理一郎)は、2月1日、7月21日、11月24日と3回にわたり、メモリアルコンサート「伊福部昭百年紀」を開催。


伊福部昭: そのほかにも教育者として松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、山内正、石井眞木、三木稔、今井重幸、永瀬博彦、和田薫、石丸基司、今井聡、など多くの作曲家を育て、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わった。


今井重幸の情報まとめ

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今井 重幸(いまい しげゆき)さんの誕生日は1933年1月4日です。東京出身の作曲家、演出家のようです。

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経歴、伊福部昭との師弟関係などについてまとめました。父親、映画、テレビ、現在に関する情報もありますね。

今井重幸のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

今井 重幸(いまい しげゆき、1933年1月4日 - 2014年1月4日 )は、日本の現代音楽作曲家、舞台演出家、構成作家。別名にまんじ 敏幸(まんじ としゆき)、島 敏幸(しま としゆき)。

純音楽や歌曲の作曲活動だけでなく、映像音楽、劇音楽、舞踊音楽などにも多くの作品を残す一方、まんじ敏幸の別名で舞台・演劇の構成作家や演出を手がけ、劇団を創設した。さらに島敏幸のペンネームで歌曲の作詞をするなど、ジャンルを超えた幅広い芸術活動を精力的に展開してきた。その間、ヨネヤマ・ママコ、三条万里子、土方巽、小松原庸子らを指導し、世に送り出した。また、土方巽や“舞踏(BUTOH)”の命名者としても知られる。

経歴

伊福部昭との出会いまで

1933年(昭和8年)、東京市(現・東京都)杉並区阿佐谷にて、外交官の今井重夫、ひさの次男として生まれる。のちに父・重夫がアメリカ、サンフランシスコ総領事館の領事になったのを機に、重夫はひさとともにアメリカに渡るが、重夫・ひさ夫妻は「子供たちは日本人だから、日本で教育を受けるべきだ」との教育方針を貫き、今井を含む2人の子供を東京の親戚宅に預けた。今井の妹は両親のサンフランシスコ滞在時代に誕生した。

今井は小学3年時前後から我流で曲作りを始めた。そのきっかけは、1940年(昭和15年)の父・重夫の母(今井の祖母)の逝去にある。重夫は公務のため葬儀に臨むことができず、ひさが代理でサンフランシスコから日本に一時帰国することになった。その際、東京に送った荷物の中に重夫がアメリカで購入したアップライト・ピアノがあった。小学2年生、8歳時の今井は、物珍しさもあって自宅の応接間に据えられたそのピアノを玩具代わりに弾き戯れた。やがて音を鳴らしているうちに、即興で曲を作るようになっていったという。

1945年(昭和20年)、12歳。戦争が激しくなり、父親の実家がある新潟県高田市(現・上越市)西城町に疎開する。新潟県立高田中学校(現・新潟県立高田高等学校)に入学し、柔道部に入部する(この時期の同校には、政府による軍事教育の指針に従って柔道部、剣道部、銃剣術部の3つしかなかったという)。芸術とは無関係な部活動だったが、当時の今井は実年齢よりも大人びた風貌と体躯を持っていたため、「柔道そのものが苦になることはなかった」と述懐している。

1946年(昭和21年)、13歳。独学で本格的に作曲を始める。同年、イーゴリ・ストラヴィンスキーの『春の祭典』をラジオの進駐軍放送で聴いて衝撃を受ける。同年、旧制東京都立青山中学校(現・東京都立青山高等学校)に転校。週1、2回、同校に非常勤講師として来ていた声楽家の畑中良輔の授業を受け、さらに畑中に個人レッスンを受けるために彼の自宅に通う。2年生のとき、青山中学でクラブ活動が解禁されたのを機に、自ら音楽部を創設する。同部では編曲・指揮のほか、合唱団を組織し、他校の音楽部との合同演奏会を企画するなどの活動を行なう。今井のプロデューサーとしての才能の萌芽がここに見出せる。

その頃、1年先輩でラグビー部に所属していた池野成をピアノ伴奏役に抜擢した。今井と池野との交友はその後58年にも及んだ。また、5年上の小杉太一郎(のちの作曲家)や、同校で演劇部を創設した1年上の小池朝雄(のちの文学座俳優)とも友好を深めた。小池とは青山中学時代にすでに演劇作品の劇音楽で組んでいる。

1947年(昭和22年)、14歳。エドガー・ヴァレーズの『イオニザシオン』(1931年作)を進駐軍放送で聴いたのをきっかけに、さらに創作意欲が高まり、作曲家を志すことを決意する。父・重夫は今井の作曲家志望を黙認したが、母・ひさは「河原乞食の真似事などして」と大反対だったという。

1948年(昭和23年)、15歳。青山中学の恩師・畑中良輔の奨めを受け、東京音楽学校(現東京藝術大学)選科に入学する。青山高校に通いながらの登校だった。同校では石桁眞禮生の指導のもと、和声や対位法など作曲の基礎を学ぶ。また、この頃から総合芸術としての演劇・舞踊に興味を掻き立てられ、ソシエテ・デ・ザール(劇作家の内村直也を中心とし、フランス文学者や劇作家・小説家の顔も持っていた梅田晴夫ほか、鎌倉アカデミアからの流れを持つ若者たちが集まった演劇研究会)に出入りするようになり、演劇と演出の勉強にも励んだ。

1949年(昭和24年)、16歳。『チェロ・ソナタ』を書き上げて、毎日音楽コンクールに応募するが、落選する。これが今井の楽壇デビュー作品にあたる。

1950年(昭和25年)、17歳。『交響詩「狂人の幻影」』をNHK管弦楽コンクールに応募する。またもや落選の憂き目に遭ったが、同作品のスコアを見た伊福部昭が今井に興味を抱いたことから、伊福部の謦咳に接する機会を得た。同年暮れに上演された江口隆哉・宮操子舞踊団の『プロメテの火』を観覧して大きな衝撃と感動を受けた。その舞踊音楽を作曲した伊福部昭はすでに憧れの作曲家であった。その際、2人を引き合わせたのが、今井の終生の友である池野成だった。伊福部の音楽論、創作理念、その人間味、スケールの大きさに心酔した今井は、鋭意決断して伊福部の一門弟となり、池野成、小杉太一郎、松村禎三、三木稔、原田甫らとともに伊福部の映画音楽制作を手伝うようになった。この伊福部と今井の師弟関係は終生変わることなく、2006年(平成18年)の伊福部の逝去まで続き、2月14日、東京・桐ヶ谷斎場で執り行なわれた伊福部の告別式では、松村禎三とともに葬儀委員長を務めた。

音楽家としての基礎を身につけた後、1950年代から本格的な創作活動を開始し、以来1990年代中期に至るまで、数々のテレビ向け音楽作品、演劇・舞踊向け音楽作品、純音楽作品、歌曲作品を送り出す一方、演劇(「まんじ敏幸」名での構成作家、演出家)やフラメンコ など、幅広い分野で創作活動を展開、数多くの業績を残した。今井重幸(まんじ敏幸)の名は、旧来の楽壇主流派から見れば一種アヴァンギャルドな存在に映ったものと推察されるが、新たな芸術表現を求めるアーティストの間で広く知れ渡っていった。こうした既存のセオリーやジャンルにとらわれない自由闊達な今井の芸術活動を支えた根幹は、まさに以上のようなデビュー前(ピアノと戯れながら自然に作曲し始めた幼少期、自らの興味におもむくままにさまざまな芸術表現との関わりを持った学生時代など)に培われたと考えられる。

テレビ作品での仕事

NHKのテレビジョン放送開始と同時に影絵劇・人形劇の制作スタッフとして加わり、劇音楽を担当した。NHKのテレビ本放送開始以前、今井はすでに演劇・影絵劇・人形劇の劇音楽を書いており、同局が教育番組で今井の活動を取り上げたことが縁となった。学生時代から純音楽を中心に自己の音楽性に磨きをかける一方で、演劇や映像に対しても総合芸術という観点から大いに興味を抱いていた今井だっただけに、テレビ放送という、当時最先端の表現メディアに創作の場を求めたのは自然な流れだったのかもしれない。

1953年(昭和28年)、20歳。『蜘蛛の糸』(NHK / 芥川龍之介原作)、『杜子春』(NHK / 芥川龍之介原作)の劇音楽を担当する。

1954年(昭和29年)、21歳。『山寺の和尚さん』(日本テレビ / 江上フジ原作)などの劇音楽を作曲する。

1955年(昭和30年)、22歳。『ビルマの竪琴』(NHK / 竹山道雄原作 / 芸術祭参加作品)、『宝島』(NHK / ロバート・ルイス・スティーヴンソン原作)などの劇音楽を書く。

1956年(昭和31年)、23歳。『アラジンと不思議なランプ』(NHK / アラビアン・ナイトより)、『走れメロス』(NHK / 太宰治原作 / 芸術祭参加作品)などの劇音楽を手がける。

1963年(昭和39年)、30歳。『世界の裏窓(裏から見た世界旅行)』(TBS)のプロデューサー兼ディレクターを務める。前述のソシエテ・デ・ザール時代の人脈により、テレビ番組を制作するプロダクションから依頼されてのことだった。これは、「名所旧跡や観光地ではない、素顔のヨーロッパ、アメリカを紹介する」というコンセプトで作られたドキュメンタリー番組。日本人の海外渡航が解禁され、パッケージツアーが本格化するのが1965年(昭和31年)であることを考慮すると、当時としてはかなり画期的内容だったのではないかと推察される。今井は、約半年間、ヨーロッパ各国(オランダ、オーストリア、ドイツ、スペインなど)で旺盛な撮影取材を行なった。その間、余暇をみはからって演奏会やバレエ公演などに足繁く通い、芸術家としての見聞を広めていった。アメリカで同番組の取材を終えたのちも独り同国に残り、そのまま単身ニューヨークにおもむいてエドガー・ヴァレーズの門を叩き、師事することになった。中学時代に出会って深い感動を覚えた『イオニザシオン』の作曲家ヴァレーズのもとで今井はさらに多くのことを吸収していった。「とりわけ、創造に対する既成概念からの脱却と、技法における実験精神を学んだ」と語る。このニューヨークでの修行は約1年近く続いた。

演劇、舞踏作品での仕事

早くから演劇や踊りという表現形態に強い創造意欲を掻き立てられていた今井は、純音楽の作曲と並行して舞台演出や演劇音楽の作曲活動にも進出していった。すべての芸術の要素を結集して新しい総合芸術運動を舞台で表現したい、という欲望からだった。その際、舞台演出家・構成作家として名乗ったのが、「まんじ敏幸」という別名だった。当時は芸術のジャンルが綿密に分けられていたことから、作曲家が舞台演出等に関わると無用な誤解を受ける事例があった。それを避けるため、また日本の芸術界のセクショナリズム主義者に説明するのが億劫となって、1963年(昭和38年)、フランツ・カフカ原作の『Der Prozess(審判)』の演出からこの別名を用いた。このような活動を通じて今井はパントマイムのヨネヤマ・ママコ、モダン・ダンスの三条万里子、舞踏家(暗黒舞踏家)・振付師の土方巽を指導し、世に紹介した。石井漠、ノイエタンツ、江口隆哉・宮操子の流れを汲み、舞踏界の発展に寄与し100歳を超えても第一線で活躍を続けた大野一雄(江口隆哉・宮操子舞踊団で助教師をし、舞踊団の若手と創作活動に従事していた頃、今井と出会い、たがいに共感して舞台作品を共作した)や、本場スペインでのフラメンコ修行からスタートし、全く新しい独自の境地を切り拓いた創作舞踊家・長嶺ヤス子などとも今井は企画・演出・プロデューサーとして舞台の創作活動を共にした。

1952年(昭和27年)、19歳。『Dance Tripique Bactèries(「細菌」三章)』(二瓶博子舞踊団)の舞踊音楽を作曲。

1954年(昭和29年)、21歳。『独楽』(佐藤祐子舞踊団)の舞踊音楽を作曲。『Ballet “Pinocchio”(ピノキオ)』(横山はるひバレエ団)の舞踊音楽を作曲。『蜘蛛の糸』(江口隆哉・宮操子舞踊団)の舞踊音楽を作曲。

1955年(昭和30年)、22歳。『Dance Suite“Oedipus”(オイディプス)』(伏屋順二舞踊団)の舞踊音楽を作曲。この年、今井は舞台・舞踊界で尖端的な活動を精力的に行なっている新進芸術家たちと組んで「現代舞台芸術協会」を設立した。舞踊・音楽・演劇という境界を超越する総合的芸術運動を起こし、流派や系統に縛られずに大同団結を目指すことを理念とし、新進舞踊家の育成と発表の場も眼下に据えたグループである。そこを拠点とし、従来の枠組みにとらわれない、前衛的で新趣向に富んだ舞台芸術の創作に没頭していく。

実は今井は1950年(昭和25年)頃から、豊川稲荷(豊川稲荷東京別院)の近くにあった赤坂芸術村(通称“赤坂村”)へ、江田和雄(劇団人間座の創立者で茗荷谷の林泉寺・住職)と一緒によく通っていた。敗戦直後の赤坂界隈には、進駐軍相手の娼婦宿があった。その名残が色濃い地に、さまざまな若い芸術家たちが集まっていた。その中には、河原温、荒川修作、黒木不具人、藤原有司男、池田龍雄、金森馨ら、前衛意識の強い若い画家たちや、フランス文学の栗田勇、美術評論家のヨシダ・ヨシエ、奈良原一高などもいた。今井は彼らと交流することにより、前衛的な新分野の創造に惹かれていったようだ。現代舞台芸術協会の設立は、その時から培ってきた意欲を具体的に表した行動だった。

1956年(昭和31年)、23歳。『シジフォスの神話』(坂口智恵舞踊団)の舞踊音楽を作曲。

1957年(昭和32年)、24歳。『Unicorn(一角獣)』(大野一雄、花柳照奈)の舞踊音楽を作曲。『雪の夜に猫を捨てる』(ヨネヤマ・ママコ)の舞踊音楽を作曲。

1958年(昭和33年)、25歳。『埴輪の舞』(堤世王己、土方巽)の企画・プロデュース、舞踊音楽を作曲。アイヌ神話から構想した『ハンチキキ』(現代舞台芸術協会)の企画・構成・演出・プロデュース。(作曲:原田甫、出演:ヨネヤマママコ、土方巽、大野一雄)

1959年(昭和34年)、26歳。『Topeng(仮面)』(現代舞台芸術協会)の舞踊音楽を作曲。

1960年(昭和35年)、27歳。『Nepenthes(ネペンテス)』(三条万里子&青年バレエ団)の企画・構成・演出。『Quatre Chistoux(結晶体)』(現代舞台芸術協会)の舞踊音楽を作曲。『式典舞楽』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽を作曲。

1962年(昭和37年)、29歳。『Three Phases from ZEN(禅に基く三章)』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽を作曲。『二十世紀哀歌(5部作)』(簱野恵美舞踊団)の舞踊音楽を作曲。

1963年(昭和38年)、30歳。『第五次元(4部作)』(旗野恵美舞踊団)の舞踊音楽を作曲。

1964年(昭和39年)、31歳。約1年間にわたるニューヨーク修行を終え帰国。さっそく劇団アルス・ノーヴァを立ち上げて座長に就任し、同劇団のみならず、東京芸術座、劇団青俳、劇団人間座、ソシエテ・デ・ザール、劇団薔薇座、文学座などが公演する演劇の劇音楽を精力的に書いていく。同年、演出家・まんじ敏幸として『Der Prozess(審判)』(劇団アルス・ノーヴァ / フランツ・カフカ原作)、『授業』(劇団アルス・ノーヴァ / ウジェーヌ・イヨネスコ原作)の日本初演を手がける。

1964年(昭和39年)、31歳。『三つの断章』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽を作曲。『La Carenture(ラ・カランチュール)』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽を作曲。『Les Negres(レ・ネグル)』(三条万里子バレエ団)の舞踊音楽を作曲。

1965年(昭和40年)、32歳。『新アラビアン・ナイト』(劇団こまどり・バレエ部)の舞踊音楽を作曲。『挽歌』(バレエグループ「フェニックス」)の舞踊音楽を作曲。

1968年(昭和43年)、35歳。『恋は魔術師』(ラファエル・デ・コルドパ舞踊団)の舞踊音楽を編曲・指揮、構成・演出。

1969年(昭和44年)、36歳。さまざまな分野の前衛アングラ芸術の発信地として、その後伝説となった「渋谷ジァン・ジァン」の創設に関わる。のちに「渋谷ジァン・ジァン」の社長となる高嶋進が劇団アルス・ノーヴァの演劇公演を観に来た際、今井は彼にさまざまなアドバイスをした。それに大いに共鳴した高嶋は、アングラ活動の拠点としての「渋谷ジァン・ジァン」を作ったとされる。

1970年(昭和45年)、37歳。『狐化弧狐』(江川明とバレエ・バロン)の舞踊音楽を作曲。

1974年(昭和49年)、41歳。『ピノッキアーナの変容』(辻美紀バレエ団)の舞踊音楽を作曲。

1980年(昭和55年)、47歳。『娘道成寺』(長嶺ヤス子 / 芸術祭大賞受賞)を企画・プロデュース。

1981年(昭和56年)、48歳。『サロメ』(長嶺ヤス子、ホセ・ミゲル)を企画・プロデュース。

1982年(昭和57年)、49歳。『“Carmen”二幕』(長嶺ヤス子、ホセ・ミゲル)の演出、音楽を作曲。

1983年(昭和58年)、50歳。『曼陀羅』(長嶺ヤス子 / 芸術祭優秀賞受賞)を企画・プロデュース。

フラメンコ、スペイン舞踊作品での仕事

今井はフラメンコやスペイン舞踊の分野でも大きな足跡を残した。ソシエテ・デ・ザール人脈により、今井と面識があった女優の小松原庸子が本格的にスペイン舞踊への道を踏み出した際、彼女の公演の演出と音楽を引き受けたのがその第一歩となった。今井は小松原の活動の拠点としてスタジオ・アルス・ノーヴァを無償で提供するなど「小松原庸子スペイン舞踊団」創設に助力した。さらに小松原のソル・デ・エスパーニャによる『真夏の夜のフラメンコ』シリーズの企画、スペイン人アーティストの招聘、定期公演の開催などについても全面的に支援した。

1965年(昭和40年)、32歳。『Tota de Taca』(小松原庸子舞踊団 / 第1回リサイタル)の企画・演出・作曲・音楽監督をする。

1966年(昭和41年)、33歳。『第2回小松原庸子スペイン舞踊リサイタル』の構成・演出と作曲をする。

1967年(昭和42年)、34歳。『Alma de Gitana』(小松原庸子&ソル・デ・エスパーニャ舞踊団)の音楽を作曲。『Recital de Flamenco』(小松原庸子スペイン舞踊団)の構成・演出と作曲をする。

1969年(昭和44年)、36歳。『Boda de Sangre(血の婚礼)』(小松原庸子とE・モンテロ&ソル・デ・エスパーニャスペイン舞踊団)の作曲をする。

1970年(昭和45年)、37歳。『Siguiriya Simfonica(シギリヤ・シンフォニカ)』(小松原庸子とE・モンテロ&ソル・デ・エスパーニャスペイン舞踊団)の作曲をする。

1971年(昭和46年)、38歳。『Introduction(序章)』(パトロ・ソト&小松原庸子スペイン舞踊団)の作曲をする。『Noche Verano de Flamenco(真夏の夜のフラメンコ)』(エンリケ・エレディア&小松原庸子スペイン舞踊団の)の作曲をする。

1972年(昭和47年)、39歳。『Duende(F.G.ロルカによる「ドェエンデ」)』(小松原庸子スペイン舞踊団)の作曲をする。

1981年(昭和56年)、48歳。『広島―無の哀しみから』(島みち子スペイン舞踊団)の構成・演出と作曲をする。

1993年(平成5年)、60歳。『Metamorphose Flamenco(メタモルフォーゼ・フラメンコ)』(ルイス・モンテロ&山田惠子スペイン舞踊団 / 河上鈴子賞受賞作)の構成・演出と作曲をする。

1997年(平成9年)、64歳。『Salome de Bruja en Granada(グラナダの妖女サロメ)』(花岡陽子スペイン舞踊リサイタル / 新星日本交響楽団)の音楽を作曲。

2003年(平成15年)、70歳。『ソロンゴ・ヒターノの変容』(山田惠子スペイン舞踊団 / オーケストラ・ニッポニカ)の音楽を作曲。

2005年(平成18年)、73歳。日本フラメンコ協会設立15周年記念では、『Fiesta de Rosa y Cereza(バラと桜と祝祭)』の公演で、構成・台本・音楽・総合演出を担当。「ソレアによる前奏曲」、「モーロ風舞曲」、「古代的舞曲」(Villa di Musica室内管弦楽団)の3曲を作曲。

映画作品での仕事

今井が映画音楽の分野で健筆を振るったのは、いわゆる劇映画ではなく、主にドキュメンタリー映画の分野である。特に1984年(昭和59年)、劇団アルス・ノーヴァの演技部出身のドキュメンタリー映画作家・前田憲二が監督した『沖縄戦の図・命(ぬち)どう宝(丸木位里・俊の記録)』(前田プロモーション)、さらにビルバオ映画祭特別賞を受賞した『土佐の泥絵師「繪金」』(1984/前田プロモーション)の音楽を担当して以来、前田作品に今井の音楽は欠かせないものとなる。なぜ劇映画ではなくドキュメンタリー映画に惹かれたか、については、後年「特に劇映画を避けていたわけでなく、演劇や舞台の仕事で忙しかったので時間がなかった。その点ドキュメンタリー映画は1年に1本ぐらいだし、また、知り合いからのたっての依頼だったので断れなかった」と語っている。

今井の映画音楽の初期作品としては『肌が知っている』、『佐久間』、『愛は惜しみなく』、『生き抜く』、『東京消失』などがある。以下は、映画音楽分野の代表的な作品群である。

1984年(昭和59年)、51歳。『沖縄戦の図・命(ぬち)どう宝(丸木位里・俊の記録)』(前田憲二監督 / 前田プロモーション)、『土佐の泥絵師「繪金」』(前田憲二監督 / 前田プロモーション)

1986年(昭和61年)、53歳。『トリ・ムシ・サカナの子守歌』(亀井文夫監督 / 亀井文夫プロダクション)

1988年(昭和63年)、55歳。『神々の履歴書』(前田憲二監督 / 「神々の履歴書製作委員会)

1991年(平成3年)、58歳。『人間よ傲るなかれ〜映画監督亀井文夫の世界〜』(手塚陽監督 / 手塚プロ=日本ドキュメントフィルム)

1995年(平成7年)、62歳。『恨(ハン)・芸能曼荼羅』(前田憲二監督 / 映像ハヌル)

2001年(平成13年)、68歳。『百萬人の身世打(しんせたり)鈴(よん)-朝鮮人強制連行・強制労働の恨-』(前田憲二監督 / 映像ハヌル)

2008年(平成20年)、75歳。『原色に白を求める画家・呉炳学の宇宙』(前田憲二監督 / NPOハヌル・ハウス)

純音楽作品での仕事

以上のような多様なジャンルでの創作活動と並行して、今井は純音楽の作曲も行なっていた。しかし、それらを旺盛に発表するのは、1990年代以降となる。「純音楽の作曲に際しては『その時々の現代音楽の流行に左右されずに創作する』という姿勢で臨んでいた」とは今井の弁である。今井の曲想、主題にはさまざまな特徴が見出されるが、通奏低音のように一貫しているのは、冒頭に記したように、自らの思想あるいは信念に基づいた、独自の音楽的美学の追求という点である。特に1990年代に入ってからは、いわゆる“シギリヤ”(フラメンコのリズム形態の一つ。古代インドの舞踊様式がヨーロッパに伝播し、フラメンコの音型に発展していったとされている)の多用が顕著となる。今井は“シギリヤ”のリズムをこよなく愛し、こだわり続けている。その魅力について、「フラメンコの歴史や民族性を強く表すリズム形態であり、また東洋と西洋の混血性に惹かれたから」と述べている。

1992年(平成4年)、59歳。『ギターとオーケストラの為の協奏的変容「シギリヤ・ヒターナ」』を作曲。

1993年(平成5年)、60歳。『横笛と箏合奏の為の「仮面舞」第2番』、『メタモルフォーゼ・フラメンコ』を作曲。

1994年(平成6年)、61歳。『ギター合奏の為の「シギリヤの変容」』、『ギター合奏の為の「長楽寺幻想」』、『箏合奏の為の青峰悠映』を作曲。

1995年(平成7年)、62歳。『打楽器群と吹奏楽の為の協奏的変容「沖縄」』、『恨(ハン)・芸能曼荼羅』を作曲。

1996年(平成8年)、63歳。『邦楽器群の為の協奏的変容「傀儡曼荼羅」』を作曲。

1997年(平成9年)、64歳。『チェンバロ〈又はピアノ〉と弦楽四重奏の為の「仮面の舞」』を作曲。

1998年(平成10年)、65歳。『日本古謡に基づく三つの協奏的変容』、『箏合奏の為の「南部・2つの詩的断章」』を作曲。

1999年(平成11年)、66歳。『邦楽合奏の為の「斜箭提陽・悠久の舞」』を作曲。

2002年(平成14年)、69歳。『オーケストラの為の「悠久の舞」』を作曲。

2003年(平成15年)、70歳。『二十絃箏とオーケストラの為の協奏的変容「シギリヤ・ヒターナ」』、『「百萬人の身世打(しんせたり)鈴(よん)」より三つの情景』、『マリンバとパーカッションとオーケストラの為の協奏的変容「沖縄」』を作曲。この年(2003年)の春、今井自身の企画・構成・演出、並びに音楽構成による回顧展コンサート『大響演・春の祭典—今井重幸音楽作品(まんじ敏幸舞台作品)回顧展』が東京文化会館大ホールで盛大に開催された。会場にはさまざまな芸術分野からの旧友・盟友・関係者が多数集まり、今井はつめかけた満員の聴衆からの万雷の拍手を浴びた。

2009年(平成21年)、76歳。『La Nouvelle Chanson de IMAI SHIGUEYUKI I』、『フルート、ファゴット、エレクトーンの為の「青峰悠映」-序奏と田園舞-』(1989年版の改訂初演)、『La Nouvelle Chanson de IMAI SHIGUEYUKI II』を作曲。

2010年(平成22年)、77歳。『室内楽の為の組曲「神々の履歴書」』(1988年版の改訂初演)、『ギター独奏、ピアノ、打楽器の為の協奏的変容「シギリヤ・ヒターナ」』(1992年版の改訂初演)を作曲。

2013年(平成25年)、80歳。『マリムバ・打楽器とピアノのための伊福部昭・讃「狂想的変容」第2番』を作曲。

デザイン・設計作品

今井は、そのジャンルを超えた芸術表現と豊富な人脈から空間デザイン、ホール設計の仕事もしている。

1968年(35歳) - Flamenco Hall( 福岡県大牟田 三井グリーンランド)

1971年(38歳) - レストランIberia( 東京都渋谷区 西村ビル地下)

1973年(40歳) - ad-hoc7(東京都新宿区 後楽園ad-hocビル)

晩年の活動

器楽作品を中心に創作活動を続け、心を寄せる“シギリヤ”を主題に採った室内楽曲やギター曲の作曲・改訂に積極的に取り組んだ。2009年(平成21年)には、伊福部昭作曲『プロメテの火』を今井が『オーケストラの為の交響的舞踊組曲「プロメテの火」』として編曲した。同作品は、伊福部が1950年(昭和25年)に江口隆哉・宮操子舞踊団のために書き下ろした舞踊音楽で、若き日の今井は『プロメテの火』を公演初日に観覧し、そのあまりの衝撃と感動に翌日も劇場に足を運んだ。「『春の祭典』、『イオニゼーション』、『プロメテの火』。これらとの出会いがなかったら今の自分はいない」と今井は語る。『プロメテの火』のスコアは長らく所在不明となっていて、現在では“幻の伊福部バレエ曲”といわれている。それが最近になって、全国巡演用のピアノ四手版のスコアとデッサンのみが発見され、このわずかな手がかりを基に今井が二管編成の管弦楽作品に仕立てたという。今井の師への、また『プロメテの火』へ馳せる想いが充溢する仕上がりとなった。また、2011年の3月と8月に日本カスタネット協会創立10周年記念事業としてイベントが開催されるが、そこで日本カスタネット協会会長・真貝裕司(札幌交響楽団・第一打楽器奏者。2011年に定年退職)からの委嘱による『カスタネット・コンチェルト「Fandangosの変容」』が初演された。

2014年1月4日に食道がんのため他界。この日は81歳の誕生日であった。

伊福部昭との師弟関係

師・伊福部昭とは常に深い交流を続けていたという。単に音楽に関わる理論や精神だけでなく、 老子の哲学まで、全人間的な幅広い示唆を受けた、と本人は語る。盟友・池野成を始め、芥川也寸志、黛敏郎、矢代秋雄、小杉太一郎、山内正、松村禎三、眞鍋理一郎、三木稔、原田甫、永富正之、石井眞木ら伊福部の愛弟子たちとともに、師の創作活動への献身的サポートも行なったようだ。講義や机上ではなく、実際に師の創作過程、作曲行為に直接関わることで、「音楽とは何か」、「音楽を創る意味とは何か」、「己の志向に則った響きをどう導き出すのか」、といった、音楽家としての創作姿勢のすべてを伊福部から学んだ、と述べる。

このような伊福部昭の教えを最初期に受けた者たちの集まりを、通称“伊福部昭・古弟子会(ふるでしかい)”と称する。一方、彼らより20年以上後に弟子となった、永瀬博彦、甲田潤、和田薫、石丸基司、今井聡らは、“伊福部昭・新弟子会(しんでしかい)”と呼ばれている。新弟子会の面々は、晩年の伊福部が東京音楽大学時代に師弟関係を結んだ音楽家が中心となっている。ただし、これらはいずれも正式に組織化されているわけではなく、あくまで関係者の間での通称である。伊福部自身も、特にそうした枠組みは意識していなかったようだ。

前出の純音楽での活動の項でも記したが、2002年(平成14年)、伊福部昭の米寿を祝う演奏会で、師に献呈する『オーケストラの為の「悠久の舞」』を作曲し、自身の指揮、新交響楽団の演奏によって発表した。同作品は、偉大なる師に対する弟子・今井の敬意が込められた、新たな代表作となった。

“古弟子会”のまとめ役(幹事長的な役割)を担ってきたという関係から、伊福部昭に関連する種々の企画に監修役的立場として参加した。世界的名著として評価の高い伊福部昭著『管絃楽法』上下巻の改定復刻版(『定本 管絃楽法』 / 2008年、音楽之友社)の刊行に際しては、編集・制作委員長を務めた。

2024/06/16 19:15更新

imai shigeyuki


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