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白鳥敏夫の情報 (しらとりとしお)
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【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

白鳥敏夫の情報(しらとりとしお) 外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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白鳥 敏夫さんについて調べます

■名前・氏名
白鳥 敏夫
(読み:しらとり としお)
■職業
外交官
■白鳥敏夫の誕生日・生年月日
1887年6月8日 (年齢1949年没)
亥年(いのしし年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
千葉出身

白鳥敏夫と同じ1887年生まれの有名人・芸能人

白鳥敏夫と同じ6月8日生まれの有名人・芸能人

白鳥敏夫と同じ出身地千葉県生まれの有名人・芸能人


白鳥敏夫と関係のある人

松岡洋右: しかし松岡の方針はなかなか定まらず、推進派の白鳥敏夫は「松岡の三国条約に対する態度はちっともはっきりしない」といらだちをみせ、辞職をちらつかせて松岡の決断を迫った。


白鳥庫吉: 外交官、政治家の白鳥敏夫は甥。


鈴木貞一: その際、外務省の白鳥敏夫や衆議院議員の森恪と連携して国際連盟脱退論を主張し、軍部における連盟脱退推進派としてその名が知れ渡るようになる。


松岡洋右: 20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。


朝海浩一郎: 外務省顧問や衆議院議員を務めた白鳥敏夫は叔父。


宇垣一成: 在任中には牛場信彦らいわゆる革新派とされる若手外交官が宇垣宅を訪問して対中強硬論や革新派のリーダー白鳥敏夫の次官就任といった外交刷新を訴えるといった「事件」も発生しているが、省内のこうした路線対立も宇垣の指導力発揮を困難なものにしていた。


橋本欣五郎: 極東国際軍事裁判の公判中においても、ごく些細な事から激昂し、法廷控室において白鳥敏夫の顔面を眼鏡が飛ぶ程殴打した事がある(ただ白鳥も、極めて敵を作りやすい性格のトラブルメーカーだった)。


白鳥敏夫の情報まとめ

もしもしロボ

白鳥 敏夫(しらとり としお)さんの誕生日は1887年6月8日です。千葉出身の外交官のようです。

もしもしロボ

現在、事件、脱退、病気に関する情報もありますね。1949年に亡くなられているようです。

白鳥敏夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8日 - 1949年(昭和24年)6月3日)は、大正、昭和期の日本の外交官・政治家。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた。

東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。外務大臣を務めた外交畑の長老石井菊次郎も叔父にあたる。また外務官僚の出淵勝次は義兄(妻の姉の夫)にあたる。息子に白鳥正人元北陸財務局長。

千葉県の長生郡茂原町(現在の茂原市)に生まれた。東京・日本中学、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒。

1913年(大正2年)10月に高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格。翌1914年(大正3年)外務省に入省した。同期には岩手嘉雄、加藤外松、栗山茂、谷正之がいる。白鳥はその後奉天・香港で領事官補として勤務し、1916年(大正5年)から1920年(大正9年)まではワシントンD.C.の駐米大使館において勤務した。1920年(大正9年)に外務省内に情報部が設置されると、白鳥は情報部員となり、松岡洋右・広田弘毅の歴代部長の下で勤務した。またワシントン会議においても随員を務めている。当時外務省で用いられていた「候文」が廃止されたのは、1925年の文書課長時代の白鳥の働きによるものである。1926年からはベルリンで勤務し、1929年には情報部第二課長となった。白鳥は外務省きっての英語使いと評される他、実務能力に長けた官僚であり、幣原喜重郎や吉田茂も賞賛していた。しかし白鳥は官僚的なだけではなく、多分に政治的な働きをする人物としても見られていた。またこの頃までは外務省主流派を形成する幣原外交の寵児であると見られていた。

1930年(昭和5年)に情報部長となったが、1931年(昭和6年)には満洲事変が勃発した。白鳥は事変擁護の姿勢をいち早く打ち出し、森恪や鈴木貞一陸軍中佐(当時)と提携し、国際連盟の批判に対抗するための外交政策の代表的役割を果たした。事務総長のエリック・ドラモンドから内密に調停の私案が日本側に提示された際、白鳥は独断でこれを公表し、いかなる国際連盟の調停も拒否する姿勢を表明した。ドラモンドは不快感を示し、国際連盟日本代表部は困惑することになった。1933年には幣原外相が錦州に進撃しないとアメリカ合衆国国務長官ヘンリー・スティムソンに伝え、アメリカ側がこれを「日本が錦州を攻撃しないという誓約を行った」という発表を行って問題になった「幣原外相軍機漏洩事件」が発生したが、白鳥はアメリカ側の発言を非難し、「血迷えり(see red)」という極めて強い言葉でスティムソンを非難した。このため出淵駐米大使がスティムソンに遺憾の意を表明することとなった。

白鳥は事変の発生を佐官級の十数名が陸軍首脳を引っ張って発生させたものであると見ており、当初は満洲独立を列国の同意が得られないとして否定的に考えていた。しかし事変後には「法華経や四書五経など古いものばかりを見ている」ようになり、今の日本のスローガンは「アジアに帰れ」であると主張するようになった。この白鳥の変化を山本勝之助は、白鳥は職務上軍と接触することが多く、小心な彼は反英米・反国際協調的な思想を持つ彼らと同調することで歓心を得ようとしていたが、いつしかそれを自分の本質と考えるようになったと指摘している。

12月には事変後の混乱により第2次若槻内閣が倒れ、犬養内閣が成立した。内閣書記官長には白鳥と親しく、「アジアに帰れ」という言葉を用いる森が就任した。森の主導によって、対満蒙実効策案審議会が設立され、白鳥はその外務省代表メンバーとなった。また白鳥は外務省内部に陸軍の参謀本部のような外交政策を検討する「考査部」の設立を主張し、一部の若手官僚の支持を集めた。また政治家との接触を頻繁に行い、森や鈴木とは連日料亭で会談をおこなった。特に森との関係は濃密であり、「白鳥はどうでも自分のいふ通りになります」と森が語るほどであったという。

1932年に成立した満洲国承認問題については「別に急ぐこともないさ、運河を掘る訳じゃないからね」と海外記者に伝えるなど、白鳥のアメリカに対する態度は極めて挑発的であった。ウィリアム・キャメロン・フォーブス(英語版)駐日大使は白鳥を「悪玉(evil genius)」と評し、後任となったジョセフ・グルーも「自分の独断か、外務省外部からの人間の指示に基づいて行動している」「外国の特派員に対してセンセーショナルな(そしてしばしば誤解を招きやすい)談話を公表することを喜びとしている」「極秘裏に行った外交会談の内容を独断で公表し、しかも誤った要約を行う」などと評している。さらに国際連盟脱退など軍部と連携して英米に対する強硬外交を推進し、そのための世論誘導に努めた。そのため、元々は連盟脱退反対派だった松岡洋右が国際連盟脱退の英雄として扱われるようになったことには、「最後まで脱退の決意ができず、なんとか辻褄を合わせて残ろうとした者」と露骨に不快感を表していた。

白鳥は意見を異にする同僚・上司、政治家に対しても極めて攻撃的であり、犬養内閣での上司芳澤謙吉外相とは犬猿の仲であった。義兄の出淵勝次にも批判的で、省内で出淵に対する反感を醸成する黒幕ともなっていた。特に谷正之亜細亜局長とは考査部設立問題で激しく対立し、1932年に就任した有田八郎外務次官とも対立するようになった。有田は白鳥と谷を海外赴任させて調停する案を考えたが、白鳥は省内の革新派の影響力を背景に、有田にも海外赴任させるよう内田康哉外相に迫った。内田は白鳥の圧力に負け、有田にも海外赴任を求めたが、喧嘩両成敗の形となることに憤った有田は次官を辞任した。

1933年(昭和8年)6月、谷は満洲国大使館参事官に、白鳥はスウェーデン公使(デンマーク・フィンランド・ノルウェー兼摂)としてストックホルムに赴任することになった。しかし白鳥はこれに抵抗し、赴任を渋ったために重光葵外務次官が免職すると威嚇する事態となった。結局白鳥がストックホルムに向けて出港したのは9月21日になってからであった。その後考査部問題も重光の裁定によって純然たる調査機関としての調査部の設立ということで落ち着いた。白鳥の海外出国の後、国内にあって革新派の主導的立場にあったのは栗原正調査部長らであり、重光らに対して激しい批判を行っていた。

白鳥は大島浩駐ドイツ陸軍武官と提携して、1936年(昭和11年)の防共協定の成立に主導的に関与したという説もあるが、必ずしもその確証は挙がっていない。ただ、英米を牽制するという見地から防共協定自体には賛成していた。また白鳥は英米との対立はそれほど強調していなかったが、ソビエト連邦に対して激しく警戒しており、対ソ関係を「清算」する、即ち対ソ戦争をも行う覚悟で交渉を行うよう主張していた。外務省中央やヨーロッパ政局からも外れたストックホルムでの駐在に嫌気が差した白鳥はたびたび帰国を要請したが、外務省からは旅費がないとして拒絶され、ならば自費で帰国するなどと押し問答を続けていた。

1936年11月、ようやく正式な帰朝命令が下り、12月下旬に日本に帰国してからの約2年間は閑職に置かれる状態だった。この時期白鳥は活発な言論活動を展開し、様々な論説を発表している。日中戦争については日本と西洋に依存することを考えた中国との間で思想的対立があったためであると主張し、日本側もその真意を中国側に伝える義務を怠ったとしている。日独伊連携強化を主張する若手外務官僚の間では「白鳥を外務次官にせよ」との声が挙がった。しかし外務省内で対立することが多く、元駐独大使小幡酉吉は、外相就任を求められた際に、若手から白鳥を次官にする声が上がると、外相就任を辞退するほどであった。小幡は白鳥が森と赤坂で飲み歩き、外務省の公金を使って芸者に子供を産ませたと常日頃から公言してた。1937年3月30日には宴席の場で、白鳥が脇息を小幡に投げつけ、ケガをさせるという事件が起きている。

また白鳥はこの時期の論説で日本が、人民戦線諸国(共産主義・資本主義諸国)と敵対する、イタリアやドイツ、ポルトガル、ブラジルといった、「ファッショ・グループ」と共通しており、むしろ日本がその本家本元であるという主張も行っている。また日本の神道は「天皇教」ともいえる「宇宙宗教」であるとも唱え、人民戦線諸国と全体主義諸国の大争闘が起きるとも語っていた。白鳥の過激化に、信を置いていた近衛文麿も「誇大妄想狂じみてる」と懸念を示すようになった。西園寺公望の秘書原田熊雄も白鳥を責任ある地位に就けることでかえって穏健化させることを考慮していた。1938年には広田外相が新設予定の対中国政策機関の長官として白鳥を据える計画を立てたが、広田が更迭されたことによって立ち消えとなった。広田更迭後にはまたしても外務省内の若手たちから白鳥を次官に擁立する声が高まり、東亜局長石射猪太郎は「省内ナチス党」と呼んでいる。また板垣征四郎陸軍大臣も白鳥を次官に起用するよう求め、7月には、大川周明が白鳥の起用を求める外務省若手の連名書を宇垣一成外相に提出し、また若手官僚7人が宇垣の私邸を訪れて白鳥の次官起用を暗に求めるという一件もあった。しかし堀内謙介次官を更迭するつもりの無かった宇垣は応じなかった。宇垣はかわりに駐イタリア大使のポストを提示した。白鳥はこれをすぐには承諾せずに、推薦者と思われる近衛の元に赴いた。近衛は大臣となる資格をつけるために大使となった方がいいと助言し、9月22日にイタリア大使に親補された。

ところが9月29日、宇垣外相が興亜院設置問題で辞職すると、再び白鳥擁立の声が若手官僚の間で高まった。外務事務官牛場信彦は兄の牛場友彦首相秘書官を通じて、白鳥を大臣に推す50名の外務官僚の署名が入った連判状を近衛首相の下に提出した。内閣秘書官長の風見章は白鳥を大臣にすることに同意していたが、海軍大臣の米内光政はこれに強く反対した。近衛は白鳥を呼び、「内外の事情から今は君を大臣にすることはできない」と告げた。白鳥は外相として「有田(八郎)が一番私心が無くてよい」とし、自らの同調者である栗原正を次官に推薦した。しかしこれも官邸や外務省内からの反発を受け、栗原は東亜局長となるにとどまった。白鳥はこの動きが定まるまでの間日本に滞在していたが、11月に日本を離れイタリアに赴任した。

白鳥は大島と連携して防共協定強化、つまり日独伊三国同盟の推進を図った。イタリア赴任前には同盟に反対する叔父の石井菊次郎に対して、「叔父の外交は古い」といいはなっている。しかし三国同盟には反対派も多く、「薄墨色の外交」を基本理念としていた有田八郎外相も積極的に推進するつもりはなかった。また日本政府としては同盟はあくまでソ連に対抗するためのものであり、英米に対してはイタリアとの連携によって牽制する程度の意味しかなかった。しかしドイツは対象を限定しない一般的同盟を求め、白鳥と大島はその代弁者となった。白鳥は「自分たちに都合のいい虚偽」を独伊に押しつければ、「帝国の道義的外交」の瑕疵となると主張し、日本側の目的達成よりも独伊の要求に沿うことで、同盟締結を優先するよう主張していた。また交渉が停滞すると、たびたび自分を本国に召還するよう要請し、本国政府に対して圧力をかけた。

本国の指示に従わない白鳥らに対し、若干譲歩するものの、同盟は基本的にソ連を対象としたものであることを説明するよう訓令したが、白鳥らはこれも無視した。米内海相は「政府の威信いずこにありや、政府の命に従わぬような大使は宜しく辞めさすのが至当なるべし」としたものの、政治状況は両大使を罷免できる状況ではないと嘆いた。3月22日には五相会議が「すぐに有効な軍事援助はできない」という意図を伝えるよう決定し、もし両大使が従わない場合は召還するという方針を決めた。これを昭和天皇に上奏すると、天皇は「その旨を文書にするべし」と指示し、五相会議のメンバーによる念書が天皇に提出されている。しかし白鳥らは訓令を拡大解釈し、独伊が英仏に対して宣戦する場合は、日本も宣戦すると明言した。

この行為に天皇は、白鳥らの行為が天皇大権を侵すものであると激怒した。米内海相は両大使を召還するべきだと主張したが、平沼騏一郎首相は召還しても無駄だと言うばかりであった。有田外相も日本の外交を運営しているのは白鳥と大島だと、グルー米大使にこぼしている。以降、五相会議は白鳥と大島に訓令を送らないことを決め、同盟交渉は停滞することになった。

交渉の遅延にいらだったリッベントロップ外相は、1939年4月20日に「日本との同盟締結があまり難航するなら、ソ連との不可侵条約を結ばざるを得まい」と恫喝まがいの発言をした。大島は単なるブラフと受け取ったが、白鳥はこれを本格的な警告と受け取った。有田外相は白鳥の意見を聞き入れなかったが、8月に独ソ不可侵条約が締結された。これにより三国同盟交渉は一旦白紙となったが、白鳥はこの頃から日独伊にソ連を加えた同盟関係を志向するようになり、「日独伊ソ四国によるユーラシアブロック構想」を考えるようになった。日本では平沼内閣が総辞職した。元老西園寺公望は次の内閣の課題として「一切の掃除を断行」し、「大島・白鳥の輩を召還せしむるを可とす」と語っており、新任の野村吉三郎外相は白鳥、次いで大島を召還し、革新派の栗原をスイス大使に転出させた。

白鳥は9月2日に帰国を命じられ、同月中旬にナポリから出発し、10月13日に帰国した。白鳥は「独ソ不可侵条約で我が国ではドイツが裏切ったと非常に憤慨しているらしいが、ドイツをとがめるのは酷だ。詳しい事情を知れば同情すべき点もある」「日本にも責むべきところがある」とドイツを擁護した。日本では白鳥が交渉を誤ったことが非難されたが、独ソの接近を事前に警告していたことを主張し、活発な講演・執筆活動を行った。またボルシェヴィキも同盟可能な相手に変質していると主張し、以前からの反共主義者としての立場を翻した。この言動には白鳥と近い主張をしていた者達の間からも批判が出た。また第二次世界大戦に関しては当初からドイツ有利との見方をしており、講演ではこうした希望的観測をこめた発言を行っていた。

第二次世界大戦の緒戦でドイツが快進撃を見せると、白鳥は「新秩序」が到来すると主張し、ドイツと同盟を組むべきと強く主張し、「我国上層部」を批判するようになった。1940年(昭和15年)7月には米内内閣が倒れ、第2次近衛内閣が発足した。米内内閣末期に近衛が首相となり、白鳥が外相となるという噂を米内が聞いていたように、白鳥外相を待望する声は多かった。しかし天皇が白鳥の外相就任に反対したため、外相となったのはかつて白鳥の上司だったこともある松岡だった。松岡は白鳥の後見人だった森とも親しかったが、森が松岡の恩人山本条太郎との関係を絶ったため、白鳥との関係も悪化していた。近衛や陸軍は白鳥を次官にするよう要望したが、松岡は大橋忠一を次官とし、白鳥には外務省顧問の地位を与えた。白鳥の言論は次第にユダヤ陰謀論的となり、イギリスが参戦したのはユダヤ資本家のせいであると唱え、やがてユダヤ人に支配されているアメリカとも戦わねばならず、日独伊三国同盟はアメリカを戦争に引き入れるためのものだと主張するようになった。またこの頃文化親善団体「イタリア友の会」が外務省の外郭団体となり、白鳥が会長となった。

1941年4月、白鳥は躁病の治療のために顧問を辞任、以降一年間は入院と療養の生活を送ることになった。

その後、1942年(昭和17年)4月の総選挙で、郷里の千葉県第3区から翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補した。定員4人中第3位で当選し、衆議院議員となった。「右翼陣営の首領の一人」と評された、5月には翼賛政治会の総務に推薦された。イタリアの降伏後、「イタリア友の会」は盟邦同志会と改称され、白鳥はこの会を通じて活発に言論活動を行った。しかし彼の言説は清沢洌が「精神病的人物」と評するように、「神懸かり」「誇大妄想狂」「まだ病気が治らない」などと揶揄されていた。

また東条内閣への批判を強め、1943年には鳩山一郎や中野正剛に続いて翼賛政治会から脱会した。1944年にはこの戦争が「邪神エホバの天照大神に対する反逆」「エホバをいただくユダヤ及びフリーメイソン」の反逆行為であると発表している。またムー大陸が実在していたと説き、世界の人類はすべて日本民族から別れたものであり、世界最古の文明や各宗教は皆日本から出ているとも語っている。また同年には若手外務省官僚の重光外相・大東亜相に対する反対運動が発生したが、本間雅晴中将の小磯国昭首相に対する報告によると、この運動を煽動した者の中に白鳥がいたとされる。

太平洋戦争終結後、1945年(昭和20年)11月19日、連合国軍最高司令官総司令部は、日本政府に対し白鳥らを戦争犯罪人として逮捕し、巣鴨刑務所に拘禁するよう命令。後日A級戦犯の指定を受けた。同年12月5日に衆議院議員を辞職。巣鴨拘置所に出頭する途中で白鳥は、外務省に吉田茂外相を訪ね、憲法改正に関する持論を書き残した。それは天皇がキリスト教に改宗して日本国民をキリスト教化し、国政及び国民の民主化に努めるべきであるというものであった。またいかなる形でも外征を禁止すること、良心的兵役拒否、国民の資源を軍事に使わないという一種の戦争放棄的な条項も含まれている。白鳥の弁護人を務めた廣田洋二は、この意見が日本国憲法第9条に影響を与えたという主張を行っているが、確証はなく、戸部良一は「いささか無理がある」としている。

極東国際軍事裁判に出廷したものの、喉頭癌によりかなり衰弱していた。裁判では白鳥の活発な言論活動が戦争をあおったものであると指摘され、弁護側は「日本のゲッベルスに仕立てようとしている」と批判した。裁判の後半ではほとんど欠席しており、終身禁固刑の判決が下ったが、半年後の1949年6月に死去した。享年63(満61歳没)。

1978年(昭和53年)10月17日、靖国神社の合祀祭にて昭和殉難者として合祀された。その際、昭和天皇が富田朝彦宮内庁長官に対し「A級が合祀されその上 松岡、白取(原文ママ)までもが」、「私はあれ以来参拝していない、それが私の心だ」と述べ、白鳥の合祀に不快感を示した旨が記された「富田メモ」が2006年に発表され、話題となった。

戦前、昭和天皇に対して「天皇がパシフィスト(平和主義者)であるのは、元老(西園寺公望)や内大臣(牧野伸顕)の影響のせいだ」などと批判的な意見を述べているが、戦後になって出頭前に書き残した書簡では「先天的に平和を愛好せられ」と好意的な記述をしている。

イタリア赴任前には北進論者であり、「南方なんて大きなペンペン草が生えているだけ」と主張していたが、帰国後は「北方なんてツンドラだ。それよりも南方だ。海の資源、山の資源、帝国の生命線は南方に置き換えるべきだね」と南進論者に鞍替えしている。

極めて敵を作りやすい性格であり、様々な人物と軋轢をおこしたエピソードがある。

    イタリア赴任前に同盟通信社社長岩永裕吉と会議で揉めて、「イタリア大使となる人物」と「国家代表通信社のボス」が背広を脱いで喧嘩をはじめようとする事態になり、有田外相が止めに回っている。

    東京裁判の最中、法廷控室で橋本欣五郎が癇癪を起こし、白鳥は眼鏡が飛ぶ程顔面を殴打されたことがあった。ただ橋本も些細なことで激昂するトラブルメーカーであった。

    死亡する直前にキリスト教へ改宗した。また、夫人には晩年「色々な宗教を勉強したけど、キリスト教を始め、どの宗教も言わんとする事は同じだ」と語っていたという。

    一時は金光教などの新宗教に凝り、自宅に神棚を祀っていたこともあった。

    半藤一利と白鳥の三男洋三は旧制浦和高等学校時代の同級生であり、誘われて裁判の傍聴に行ったものの「正直言ってまったく面白くなかった」と回想している。

    1914年(大正3年)9月21日 - 従七位

    1917年(大正6年)7月20日 - 正七位

    1920年(大正9年)1月30日 - 従六位

    1922年(大正11年)6月20日 - 正六位

    1925年(大正14年)4月15日 - 従五位

    1930年(昭和5年)5月1日 - 正五位

    1934年(昭和9年)11月1日 - 従四位

    1938年(昭和13年)10月15日 - 正四位

    1940年(昭和15年)9月19日 - 従三位

    1920年(大正9年)11月1日 - 勲五等瑞宝章

    1924年(大正13年)5月20日 - 勲四等瑞宝章

    1926年(大正15年)2月10日 - 旭日小綬章

    1931年(昭和6年)

      ?月?日 - 勲三等瑞宝章

      10月21日 - 銀杯一組

      1934年(昭和9年)?月?日 - 勲二等瑞宝章

      1940年(昭和15年)

        4月29日 - 旭日重光章

        8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章

        ^ これはパナマ運河建設のため、アメリカがパナマをコロンビアから独立させたことを暗に示している。

        ^ 戸部良一 2010, p. 105.

        ^ 戸部良一 2010, p. 33.

        ^ 戸部良一 2010, p. 34.

        ^ 戸部良一 2010, p. 19.

        ^ 戸部良一 2010, p. 35.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 39–40.

        ^ 戸部良一 2010, p. 36.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 37–38.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 44–45.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 49–50.

        ^ 戸部良一 2010, p. 54.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 43–44.

        ^ 戸部良一 2010, p. 51.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 59–60.

        ^ 戸部良一 2010, p. 59.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 40–41.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 41–42.

        ^ 戸部良一 2010, p. 234.

        ^ 戸部良一 2010, p. 60.

        ^ 戸部良一 2010, p. 71.

        ^ 戸部良一 2010, p. 75.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 71–72.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 138–139.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 109–112.

        ^ 戸部良一 2010, p. 114.

        ^ 戸部良一 2010, p. 121.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 121–128.

        ^ 戸部良一 2010, p. 106.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 107–108.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 143–144.

        ^ 戸部良一 2010, p. 157.

        ^ 戸部良一 2010, p. 147.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 147–148.

        ^ 戸部良一 2010, p. 148.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 148–150.

        ^ 戸部良一 2010, p. 151.

        ^ 戸部良一 2010, p. 152.

        ^ 戸部良一 2010, p. 160.

        ^ ワシーリー・モロジャコフ 2010, p. 131.

        ^ 戸部良一 2010, p. 158.

        ^ 戸部良一 2010, p. 161.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 163–164.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 165–167.

        ^ 戸部良一 2010, p. 162.

        ^ 戸部良一 2010, p. 163.

        ^ 戸部良一 2010, p. 168.

        ^ ワシーリー・モロジャコフ 2010, pp. 133–134.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 170–173.

        ^ 戸部良一 2010, p. 188.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 190–191.

        ^ 戸部良一 2010, p. 181.

        ^ ワシーリー・モロジャコフ 2010, pp. 132–133.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 183–184.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 181–184.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 185–186.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 186–187.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 203–204.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 227–230.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 234–235.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 266–267.

        ^ 戸部良一 2010, p. 268.

        ^ 戸部良一 2010, p. 278.

        ^ 戸部良一 2010, p. 279.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 280–281.

        ^ 戸部良一 2010, p. 285.

        ^ 戸部良一 2010, p. 280.

        ^ 戸部良一 2010, p. 281.

        ^ 戸部良一 2010, p. 282.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 285–287.

        ^ 荒木・南・小磯・松岡ら十一人に逮捕命令(昭和20年11月20日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p340

        ^ 『官報』第5675号、昭和20年12月11日。

        ^ 戸部良一 2010, p. 289.

        ^ 戸部良一 2010, p. 290.

        ^ 戸部良一 2010, pp. 290–291.

        ^ 戸部良一 2010, p. 292.

        ^ 戸部良一 2010, p. 224.

        ^ 半藤,保坂,井上,「東京裁判」を読む 2009, p. 26.

        ^ 法廷証第125号: [白鳥敏夫關スル人事局履歴書]

        ^ 『官報』第4038号「叙任及辞令」1926年2月12日。

        ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

        ワシーリー・モロジャコフ (2010). “ソ連と三国軍事同盟――再検討の試み” (PDF). 平成22年度戦争史研究国際フォーラム報告書. http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2010/09.pdf. 

        戸部良一『外務省革新派―世界新秩序の幻影』中公新書、2010年。ISBN 978-4121020598。 

        日独伊三国同盟

        A級戦犯

        革新官僚

        板垣征四郎

        木村兵太郎

        土肥原賢二

        東條英機

        広田弘毅

        武藤章

        松井石根

        荒木貞夫

        梅津美治郎

        大島浩

        岡敬純

        賀屋興宣

        木戸幸一

        小磯國昭

        佐藤賢了

        嶋田繁太郎

        白鳥敏夫

        鈴木貞一

        橋本欣五郎

        畑俊六

        平沼騏一郎

        星野直樹

        南次郎

        重光葵(7年)

        東郷茂徳(20年)

        松岡洋右:裁判中の1946年(昭和21年)6月27日に病死のため公訴棄却

        永野修身:裁判中の1947年(昭和22年)01月5日に病死のため公訴棄却

        大川周明:裁判中の1947年(昭和22年)04月9日に梅毒による精神障害が認められ訴追免除

        在オーストリア=ハンガリー弁理公使が兼轄

        佐野常民1873

        河瀬真孝1873

        昇格

        河瀬真孝1873-1877

        西郷従道1878 (未赴任)

        鍋島直大1880-1882

        浅野長勲1882-1883

        田中不二麿1884-1887

        徳川篤敬1887-1890

        中島信行1893

        高平小五郎1894-1896

        栗野慎一郎1896-1897

        牧野伸顕1897-1899

        大山綱介1899-1906

        昇格

        高平小五郎1907-1908

        林権助1908-1916

        伊集院彦吉1916-1919

        落合謙太郎1920-1926

        松田道一1926-1929

        吉田茂1931-1932

        松島肇1932-1934

        杉村陽太郎1934-1936

        堀田正昭1936-1937

        白鳥敏夫1938-1939

        天羽英二1939-1940

        佐藤尚武1940

        堀切善兵衛1940-1942

        日高信六郎1942-1943

        イタリア王国と国交断絶、イタリア社会共和国が国交継承

        日高信六郎1943-1945

        イタリア社会共和国が崩壊

        イタリア共和国と国交再開を合意1951

        井上孝治郎1951-1952

        イタリア共和国と国交再開1952

        井上孝治郎1952全権公使

        原田健(英語版)1952-1955

        太田一郎1956-1959

        鈴木九萬1959-1961

        門脇季光1961-1963

        中川融1964-1965

        与謝野秀1965-1967

        田付景一1967-1969

        高野藤吉1969-1972

        竹内春海1972-1975

        藤山楢一1975-1979

        影井梅夫1979-1982

        堀新助1982-1984

        西田誠哉1984-1987

        手島冷志1987-1990

        浅尾新一郎1990-1992

        渡辺幸治1992-1993

        英正道1993-1997

        瀬木博基1997-2000

        林暘2000-2002

        松原亘子2002-2005

        中村雄二2005-2008

        安藤裕康2008-2011

        河野雅治2011-2014

        梅本和義2014-2017

        片上慶一2017-2020

        大江博2019-2022

        鈴木哲2022-

        在ロシア帝国公使が兼轄

        柳原前光1880-1883

        花房義質1883-1887

        西徳二郎1886-1897

        林董1897-1900

        小村壽太郎1900

        珍田捨巳1900-1901

        栗野慎一郎1901-1904

        秋月左都夫1904-1907

        杉村虎一1907-1911

        内田定槌1912-1920

        日置益1918-1920

        畑良太郎1920-1924

        永井松三1925-1928

        武者小路公共1930-1933

        白鳥敏夫1933-1936

        栗山茂1937-1939

        岡本季正1942-1946

        引揚1946

        結城司郎次1950-1952

        結城司郎次1952-1954

        大江晃1954-1957

        島重信1957

        島重信1957-1959

        松井明1959-1962

        鶴岡千仭1962-1966

        高橋通敏1966-1968

        三宅喜二郎1968-1971

        日向精蔵1971-1973

        上田常光1973-1975

        都倉栄二1975-1978

        滝川正久1978-1981

        大和田渉1981-1983

        越智啓介1983-1986

        野村豊1987-1990

        村角泰1989-1991

        熊谷直博1991-1994

        股野景親1994-1997

        藤井威1997-2000

        内田富夫2000-2004

        大塚清一郎2004-2007

        中島明2007-2010

        渡邉芳樹2010-2013

        森元誠二2013-2015

        山崎純2015-2018

        廣木重之2018-2021

        能化正樹2021-2024

        水越英明2024-

        在オランダ弁理公使/公使が兼轄

        長岡護美1880-1882

        桜田親義1881-1885 臨時代理公使

        青木周蔵1885

        中村博愛1885-1889 弁理公使

        棚橋軍次 臨時代理公使

        高平小五郎1892-1894 弁理公使

        赤羽四郎1894-1898 弁理公使

        珍田捨巳1899-1900 弁理公使 / 1900

        三橋信方1901-1906

        佐藤愛麿1907-1914

        幣原喜重郎1914-1915

        落合謙太郎1916-1917

        在スウェーデン公使が兼轄

        内田定槌1917-1920

        日置益1918-1920

        畑良太郎1920-1924

        永井松三1924-1928

        武者小路公共1929-1933

        白鳥敏夫1933-1936

        栗山茂1937-1939

        岡本季正1942-1945

        断交

        結城司郎次1952-1954

        大江晃1954-1957

        黄田多喜夫1957-1958

        昇格

        黄田多喜夫1958

        田付景一1958-1961

        近藤晋一1961-1964

        高木広一1964-1965

        小田部謙一1966-1968

        小川平四郎1968-1972

        人見宏1972-1975

        大和田渉1975-1977

        橘正忠1977-1980

        高橋展子1980-1983

        賀陽治憲1983-1986

        溝口道郎1986-1989

        松田慶文1989-1993

        苅田吉夫1993-1995

        須藤隆也1995-1997

        折田正樹1997-2001

        内藤昌平2001-2003

        小川郷太郎2003-2006

        岡田眞樹2006-2008

        近藤誠一2008-2010

        佐野利男2010-2013

        末井誠史2013-2016

        鈴木敏郎2016-2019

        宮川学2019-2022

        宇山秀樹2022-

        在スウェーデン公使が兼轄

        杉村虎一1907-1911

        内田定槌1912-1920

        日置益1918-1920

        畑良太郎1920-1924

        永井松三1925-1928

        武者小路公共1930-1933

        白鳥敏夫1933-1936

        栗山茂1937-1939

        岡本季正1942-1945

        公使交換中断

        結城司郎次1952-1954

        大江晃1954-1957

        島重信1957-1958

        昇格1958

        在スウェーデン大使が兼轄

        島重信1958-1959

        開設

        板垣修1959-1962

        勝野康助1962-1966

        須山達夫1966-1969

        島内敏郎1969-1970

        藤田久治郎1970-1973

        山中俊夫1973-1975

        兼松武1976-1978

        吉岡章1978-1980

        有本富三1981-1984

        山戸徹1984-1987

        浅尾新一郎1987-1989

        沢井昭之1989-1992

        妹尾正毅1992-1995

        野々山忠致1995-1997

        野村忠清1997-2000

        田辺敏明2000-2001

        河合正男2001-2003

        齋賀富美子2003-2007

        山口寿男2007-2010

        城田安紀夫2010-2014

        國方俊男2014-2017

        田内正宏2017-2020

        川村裕2020-2024

        杉山明2024-

        在スウェーデン大使が兼轄

        畑良太郎1921-1924

        永井松三1925-1928

        武者小路公共1930-1933

        白鳥敏夫1933-1936

        公使館開設1936

        酒匂秀一1936-1937

        杉下裕次郎1938-1940

        昌谷忠1940-1944

        中村豊一未赴任

        閉鎖1944

        総領事館開設1952

        油橋重遠1952-1956

        本多隆平1956-1957

        公使館昇格1957

        都村新次郎1959-1961

        小島太作1961-1962

        大使館昇格1962

        小島太作1962-1965

        大郷正夫1965-1968

        山中俊夫(英語版)1968-1972

        山本良雄1972-1974

        上川洋1974-1977

        人見鉄三郎1977-1980

        山口孝一郎1980-1984

        高橋正太郎1984-1987

        宮川渉1987-1989

        黒河内久美1989-1992

        大鷹市郎1992-1995

        高原須美子1995-1998

        石垣泰司1998-2000

        長谷川憲正2000-2003

        近藤茂夫2003-2006

        本田均2006-2009

        丸山博2009-2012

        篠田研次2012-2016

        山本条太2016-2019

        村田隆2019-2022

        藤村和広2022-2024

        岡田隆2023-

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        千葉県選出の衆議院議員 (帝国議会)

        昭和時代戦前の衆議院議員

        戦前日本の大使

        昭和日本の公使

        在イタリア日本大使

        A級戦犯

        獄死した人物

        従三位受位者

        旭日重光章受章者

        東京大学出身の人物

        旧制第一高等学校出身の人物

        千葉県出身の人物

        1887年生

        1949年没

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白鳥 百合子(しらとり ゆりこ)
1983年4月29日生まれの有名人 宮城出身

白鳥 百合子(しらとり ゆりこ、本名同じ、1983年4月29日 - )は、日本の元女優、グラビアアイドル、ファッションモデル、タレント、ブロガー。宮城県仙台市出身。 2004年4月17日、女優を目指…


白鳥 ユリカ(しらとり ゆりか)
1993年7月12日生まれの有名人 東京出身

白鳥 ユリカ(しらとり ユリカ、1993年7月12日 - )は、日本で活動していたアイドル、女優。東京都出身。活動当時はスターフィールドに所属していた。 女性アイドルグループ『ゆとり組』の元メンバー…

白鳥 哲(しらとり てつ)
1972年3月21日生まれの有名人 東京出身

白鳥 哲(しらとり てつ、1972年3月21日 - )は、日本の声優、俳優、映画監督。東京都台東区浅草橋出身。大沢事務所所属。 東京都台東区浅草橋で育つ。祖父の代から3代続く江戸っ子。 趣味はプラ…

白鳥 由里(しらとり ゆり)
8月20日生まれの有名人 神奈川出身

白鳥 由里(しらとり ゆり、1968年8月20日 - )は、日本の女性声優、歌手。神奈川県出身。81プロデュース所属。 小さい頃、テレビは8時までと決められていて、必然的にテレビアニメを見ることが多…

白鳥羽純(しらとり はすみ)
【X21】
1999年3月10日生まれの有名人 神奈川出身

白鳥 羽純(しらとり はすみ、1999年3月10日 - )は、日本の女優、タレント、歌手であり、アイドルグループX21の元メンバーである。 神奈川県出身。オスカープロモーション所属。 2012年8…

白鳥 庫吉(しらとり くらきち)
1865年3月1日生まれの有名人 千葉出身

白鳥 庫吉(しらとり くらきち、1865年3月1日(慶応元年2月4日) - 1942年(昭和17年)3月30日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学(現:東京大学)教授、東洋文庫理事長を歴任した。専門は東…


正宗 白鳥(まさむね はくちょう)
1879年3月3日生まれの有名人 岡山出身

正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3月3日 - 1962年(昭和37年)10月28日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗 忠夫(まさむ…

白鳥 沙南(しらとり さな)
2005年6月20日生まれの有名人 熊本出身

白鳥 沙南(しらとり さな、2005年6月20日 - )は、日本の女性アイドルでLIT MOONのメンバー。女性アイドルグループさくら学院の元メンバー。熊本県出身。元アミューズ所属。 2018年5月…

白取 春彦(しらとり はるひこ)
1954年4月11日生まれの有名人 青森出身

白取 春彦(しらとり はるひこ、1954年4月11日 - )は、日本の文筆家、翻訳家、マンガ原作者。 青森県青森市生まれ。 小さい頃から本が好きで、高校まで遠藤周作、北杜夫、ゲーテ、トーマス・マン…

三遊亭 白鳥(さんゆうてい はくちょう)
1963年5月21日生まれの有名人 新潟出身

三遊亭 白鳥(さんゆうてい はくちょう、1963年5月21日 - )は、落語協会所属の落語家。出囃子は『白鳥の湖』。主に新作落語を中心に活動している。 新潟県高田市(現:上越市)出身で、自転車店(後…

白鳥 雪之丞(しらとり ゆきのじょう)
1976年5月24日生まれの有名人 千葉出身

氣志團(きしだん)は、日本のロックバンド。所属レコードレーベルは影別苦須 虎津苦須 (avex trax)。所属事務所はソニー・ミュージックアーティスツ。 自らのロックをパンク・ロックとヤンキーの融…


白鳥 伸雄(しらとり のぶお)
1928年6月12日生まれの有名人 千葉出身

白鳥 伸雄(しらとり のぶお、1928年(昭和3年)6月12日 - 2016年(平成28年)2月26日)は、元競輪選手。千葉県習志野市出身。旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)卒業。日…

白鳥 三郎(しらとり さぶろう)
1917年6月26日生まれの有名人 千葉出身

白鳥 三郎(しらとり さぶろう、1917年(大正6年)6月26日 - 1988年(昭和63年)9月23日)は、昭和時代の政治家。埼玉県与野市長(第2代 - 第7代) 。さいたま市名誉市民。号・高丘独松…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「白鳥敏夫」を素材として二次利用しています。

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