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朝海浩一郎の情報まとめ
朝海 浩一郎(あさかい こういちろう)さんの誕生日は1906年3月15日です。栃木出身の外交官のようです。
事件に関する情報もありますね。1995年に亡くなられているようです。
朝海浩一郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)朝海 浩一郎(あさかい こういちろう、1906年3月15日 - 1995年9月9日)は、日本の外交官。連絡調整中央事務局長官等を経て、岸信介内閣における日米安全保障条約改定の時期を含め、駐アメリカ合衆国特命全権大使を異例の6年間務めた。退任後1963年から1982年まで外務省顧問。1976年勲一等瑞宝章。1995年正三位。 栃木県足利郡北郷村(現:足利市)田島出身。開成中学校卒、1929年東京商科大学(一橋大学の前身)卒。学生時代はボート部所属。後にボート部OB会である四神会会長も務めた。1928年外交官及領事官試験合格、1929年外務省入省。同期に山田久就(元駐ソ大使)、大野勝巳(元駐英大使)など。 イギリスエディンバラ大学留学等を経て、南京副領事、戦時経済局課長、調査部課長、亜細亜局事務官。1942年、日泰攻守同盟条約慶祝答礼のため広田弘毅元首相、矢田部保吉特命全権大使、水野伊太郎特命全権公使、東光武三書記官らとタイ王国に派遣される。第二次大戦後には、1945年経済安定本部部員、1946年終戦連絡中央事務局総務部長、1948年外務省総務局長、連絡調整中央事務局長官、叙一級、1949年外務省研修所指導官、1951年ロンドン日本政府在外事務所長、1952年在連合王国日本国大使館特命全権公使、1954年経済局長事務取扱、1955年大臣官房審議室長、1956年大臣官房外務審議官、再開初代駐フィリピン特命全権大使、1957年駐アメリカ合衆国特命全権大使、大蔵省顧問、1963年外務省顧問、1964年第1回国際連合貿易開発会議代表、国際原子力機関第9回総会代表、国際連合アジア極東経済委員会総会日本政府代表、運輸省海運造船合理化審議会委員、1966年フェルディナンド・マルコスフィリピン共和国大統領就任式典特派大使、1967年10月の吉田茂国葬儀委員、航空審議会委員、1969年ジュネーヴ軍縮委員会(現:ジュネーブ軍縮会議)日本政府代表、1971年経済審議会委員。 朝海の活躍は、第二次大戦直後に「最大の問題」として立ち現れた賠償問題に、終戦連絡中央事務局総務部長として関与したことから本格的に開始される。しかし、占領軍の外交顧問としてやってきたアチソンなど占領軍関係者との人脈等は、南京副領事時代やイギリスで作られた。ポーレー(英語版)賠償使節団が1946年11月にトルーマン大統領の特別使節団として来日した際には、日光に赴く団長のポーレーに特別列車内で単独接触。連合国の賠償方針が現金賠償や戦争被害補償という枠組ではなく、軍事産業や過剰生産設備の資本移転による戦後復興の枠組に基づくことをいち早く突き止めた。 また、経済専門家の大来佐武郎を伴い、ポーレー特使の側近であるマクスウェルやオーウェン・ラティモアと、本土から撤去されるべき苛性ソーダや工業用爆薬、製鉄産業設備の撤去を巡る実務交渉を展開、アメリカ側の賠償計画に側面から影響を与えたと考えられる。連絡調整中央事務局長官時代には、来日したダレス国務長官とも接触、第二次大戦中の阿波丸事件や占領経費問題などを含めた賠償をめぐる問題のとりまとめを行った。しかし、阿波丸事件に由来する一切の請求権の承認や、南部仏印進駐時に凍結された日本の官民の在米資産、占領軍によって持ち去られた外貨準備としての金塊の返還は、連合国との講和条約において否定された。 外交官退任後の朝海は、晩年まで様々な局面で、占領期と変わらず米国の圧力に押され続ける日本政府の姿勢を批判し続けたとされる。また、駐米大使時代、「日本にとって最大の外交的悪夢は何か」と質問され、「日本があずかり知らぬ間に、頭越しに米中両国が手を握る状態が訪れることだ」と答えたとされる。この発言が「朝海の悪夢」という名で外務省内部で話題を呼び、かつ朝海退任後のニクソン政権において現実となったことから、米中接近を予期した「朝海の悪夢」の発案者としても知られることとなった(朝海が実際に見た夢だった、とする説もある)。 妻隆子は外務次官や駐アメリカ大使を歴任した出淵勝次の娘で、菊池武夫 (法律家)の外孫。次男の朝海和夫も外交官で、欧州連合日本政府代表部大使を務めた。和夫の岳父に岡谷鋼機会長・岡谷康治。外務省顧問や衆議院議員を務めた白鳥敏夫は叔父。長男朝海俊夫(プリンストン大学卒、東銀監査役)の妻は鈴木治雄長女直子。長女の明子は新日鉄会長・永野重雄の三男・鉄三に嫁いだ。 『外交の黎明――ジュネーヴ会議に使して』(読売新聞社、1950年) 『初期対日占領政策――朝海浩一郎報告書』(外務省編、毎日新聞社(上・下)、1978年 - 1979年) 『司町閑話 : 一外交官の回想』(大林組、1987年)。同社関係者での回想談(私家版) 『花みづきの庭にて : ある外交官の回想』(大林組、1988年)。同社関係者での回想談(私家版) 『朝海浩一郎日記 付・吉田茂書翰』(千倉書房、2019年)。河野康子・村上友章・井上正也 編 ^ “外交官・朝海氏遺品を遺族が故郷・足利市に寄贈 栃木”. 産経ニュース. (2014年7月26日). https://www.sankei.com/article/20140726-ZTRQQLEV25JWBCIXBQJMEW4VF4/ 2015年2月4日閲覧。 ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 22頁。 ^ 「泰へ同盟慶祝答礼使節 特派大使、広田弘毅氏 補佐に矢田部全権大使 近く出発」 大阪毎日新聞 1942年6月21日付。神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」収録 ^ 『人事興信録』38版、1995年、朝海浩一郎 表 話 編 歴 鮫島尚信1870-1872 少弁務使 寺島宗則1872 大弁務使 / 1872-1873 上野景範1874-1879 森有礼1879-1884 河瀬真孝1884-1893 青木周蔵1894-1898 加藤高明1898-1900 林董1900-1905 大使館に昇格 林董1905-1906 小村壽太郎1906-1908 加藤高明1908-1913 井上勝之助1913-1916 珍田捨巳1916-1920 林権助1920-1925 松井慶四郎1925-1929 松平恆雄1929-1936 吉田茂1936-1939 重光葵1939-1941 大使交換中断1941 上村伸一1941-1942臨時代理大使 引揚1942 朝海浩一郎1951-1952 朝海浩一郎1952臨時代理大使 松本俊一1952-1955 西春彦1955-1958 大野勝巳1958-1964 島重信1964-1968 湯川盛夫1968-1972 森治樹1972-1975 加藤匡夫1977-1979 藤山楢一1979-1982 平原毅1982-1985 山崎敏夫1985-1988 千葉一夫1988-1990 北村汎1990-1994 藤井宏昭1994-1997 林貞行1997-2001 折田正樹2001-2004 野上義二2004-2008 海老原紳2008-2011 林景一2011-2016 鶴岡公二2016-2019 長嶺安政2019-2020 林肇2020- 表 話 編 歴 森有礼 1870–73(少弁務使→中弁務使→代理公使) 上野景範 1872(弁理公使) 吉田清成 1874–82 寺島宗則 1882–84 九鬼隆一 1884–88 陸奥宗光 1888–90 建野郷三 1891–94 栗野慎一郎 1894–96 星亨 1896–98 小村寿太郎 1898–1900 高平小五郎 1900–06 青木周蔵 1906–08 高平小五郎 1908–09 内田康哉 1909–11 珍田捨巳 1912–16 佐藤愛麿 1916–18 石井菊次郎 1918–19 幣原喜重郎 1919–22 埴原正直 1922–24 松平恆雄 1924–28 出淵勝次 1928–34 斎藤博 1934–39 堀内謙介 1938–40 野村吉三郎 1941 来栖三郎 1941 (閉 鎖 1941–52) 武内龍次 1951–52 武内龍次臨時代理大使 1952 新木栄吉 1952–53 井口貞夫 1954–56 谷正之 1956–57 朝海浩一郎 1957–63 武内龍次 1963–67 下田武三 1967–70 牛場信彦 1970–73 安川壮 1973–75 東郷文彦 1975–80 大河原良雄 1980–85 松永信雄 1985–89 村田良平 1989–92 栗山尚一 1992–95 斎藤邦彦 1995–99 柳井俊二 1999–2001 加藤良三 2001–08 藤崎一郎 2008–12 佐々江賢一郎 2012–18 杉山晋輔 2018–2021 冨田浩司 2021–2023 山田重夫 2023–現任 表 話 編 歴 村田省蔵1943-1945 閉鎖 中川融1952-1953 大野勝巳1953-1955 卜部敏男1955-1956所長代理 大使館再開 卜部敏男1956臨時代理大使 朝海浩一郎1956-1957 湯川盛夫1957-1961 土屋隼1961-1962 板垣修1962-1965 竹内春海1965-1967 金沢正雄1967-1968 安川壮1968-1969 卜部敏男1969-1974 沢木正男1974-1977 御巫清尚1977-1979 田中秀穂1980-1983 大川美雄1982-1985 角谷清1985-1988 田中常雄1988-1990 後藤利雄1990-1992 新井弘一1992-1994 松田慶文1994-1996 湯下博之1996-1999 荒義尚1999-2002 高野幸二郎2002-2004 山崎隆一郎2004-2007 桂誠2007-2011 卜部敏直2011-2014 石川和秀2014-2017 羽田浩二2017-2020 越川和彦2020-2024 遠藤和也2024- ISNI VIAF イスラエル 日本 戦前日本の外交官 在アメリカ合衆国日本大使 在イギリス日本大使 在フィリピン日本大使 正三位受位者 勲一等瑞宝章受章者 私の履歴書の登場人物 エディンバラ大学出身の人物 一橋大学出身の人物 開成中学校・高等学校出身の人物 栃木県出身の人物 1906年生 1995年没 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/05 21:59更新
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asakai kouichirou
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