後藤象二郎の情報(ごとうしょうじろう) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
後藤 象二郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
後藤象二郎と関係のある人
ルイ=ヴィトン: この年、板垣退助が後藤象二郎と共に、国会開設の視察のために洋行し、パリ本店にてヴィトンのトランクを購入。 青木崇高: 龍馬伝(2010年) - 後藤象二郎 役 武市瑞山: このころより監察府の陣容が一新され、小笠原唯八・乾退助そして吉田東洋門下の後藤象二郎らが土佐勤王党の取り調べに当たるようになると尋問は更に厳しさを増し、同志達は厳しく拷問された。 今泉嘉一郎: 卒業論文に沿った検証試験を命ぜられ、後藤象二郎農商務大臣に結果を報告した後、政府案としてまとめられ、1895年(明治28年)に榎本武揚農商務大臣の時に製鉄所設立案が提出され衆議院を通過、翌1896年(明治29年)に製鉄所官制が発布された。 古本新乃輔: 篤姫(2008年) - 後藤象二郎 役 河野敏鎌: 同藩の後藤象二郎の手引きで大坂に上り、江藤新平の知遇を得る。 青木崇高: 『龍馬伝』のとき、演じる土佐藩士後藤象二郎との接点を持ちたいと、彼がルイ・ヴィトンの顧客名簿に載った最初の日本人であることにちなみ、ルイ・ヴィトンの財布に自分で俵屋宗達の「白象図」を模写し、愛用していた。 岩崎弥太郎: 出獄後、村を追放されるも安政5年(1858年)、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎らの知遇を得る。 ハリー=パークス: イカルス号水夫殺害事件、浦上信徒弾圧事件を知り、幕府に対してイカルス号水夫殺害事件の責任を厳しく追及、当初は土佐藩の関与が疑われたため、徳島経由で土佐に赴き、主に後藤象二郎と交渉した。 坂本龍馬: その一方で、薩摩藩黒幕説や後藤象二郎プロモーター説、フリーメイソン説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。 明治天皇: 民党による選挙干渉批判は選挙後も収まらず、政府内においても枢密院議長の伊藤博文、閣内では陸奥宗光と後藤象二郎が品川内相を非難するようになった。 滝雅也: まんが日本史(後藤象二郎) 古本新之輔: 篤姫(2008年) - 後藤象二郎 役 保志総一朗: 幕末志士物語〜土佐編〜(「後藤象二郎物語」) 岩倉具視: 西郷派の板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らの参議も辞職した。 板垣退助: (同じ年の7月25日、保弥太(=後藤象二郎)11歳(満10歳)の時、江戸藩邸で父が病死している)その後、父・正成が近藤祐五郎秀行の姉と婚した為、継母が出来るがこの母も、3年後の嘉永3年12月19日(1851年1月20日)に歿した。 板垣退助: 松平春嶽や後藤象二郎らも容堂の意見に同調したが、徳川家が幕府に代わる新政権の中で権力を保持し続けるならば「大政奉還」は、忽ちに空文化してしまう危険性があったため、岩倉具視や大久保利通らは、容堂の提案に強固に反対。 河野広中: 牢から出た河野は、後藤象二郎の自由民権派を糾合する大同団結運動に参加し、大同倶楽部結成に参画する。 三島通庸: その協議の場に左院議長・後藤象二郎、副議長・江藤新平、参事・板垣退助、陸軍少輔・西郷従道らと共に三島も参加。 犬養道子: 父・健は犬養毅の嗣子で親子2代の政治家であり、母方の曾祖父が長与専斎と後藤象二郎である。 板垣退助: しかし、後藤象二郎の献策による大政奉還論が徳川恩顧の土佐藩上士の中で主流を占めると、過激な武力討幕論は遠ざけられるようになる。 武市瑞山: 清華家からの代表者として右大臣岩倉具視、旧土佐藩主山内豊範、 旧土佐藩大監察後藤象二郎、板垣退助、佐々木高行、土方久元、田中光顕らを初め土佐勤王党の同志ら朝野の済々多士が参列。 坂本龍馬: 尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。 岩倉具視: 年少の天皇、慶喜の言いなりの朝廷首脳部、徳川家の所領を背景に引き続き実質的権力を握ることになるであろう慶喜から実権を奪うため、岩倉は薩摩の大久保利通、土佐の後藤象二郎、公卿の中御門経之・中山忠能・正親町三条実愛らとともに慶喜に辞官納地をさせる計画に参加した。 中江兆民: 外相・井上馨の条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加し、明治20年(1887年)には長野で演説、後藤象二郎の農商務大臣辞職を求める封書を代筆するなど運動に関わったため、同年公布の保安条例で東京を追われる。 板垣退助: と記し「大政奉還」を幕府の権力を削ぐための大芝居とし、その後、武力討幕を行わねばならないが、後藤象二郎が大政奉還のみで止まり討幕挙兵を躊躇った場合は、後藤を捨て乾退助に接触すると述べている。 板垣退助: 少年時代「蝦蟇の油を塗ると川に潜っても呼吸ができる」との言い伝えを聞き、後藤象二郎と一緒に、潮江村の田圃から大量に蛙を捕獲。 大久保利通: 小松、西郷とともに公議政体派である土佐藩の後藤象二郎、寺村道成、真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟、浪人の坂本龍馬、中岡慎太郎との間で将軍職の廃止、新政府の樹立等に関する薩土盟約を三本木の料亭にて結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。 板垣退助: るに後藤象二郎 大政奉還の儀を相唱へ、 矢柴俊博: 日本の歴史「坂本龍馬」(2005年9月17日、フジテレビ) - 後藤象二郎 役 |
後藤象二郎の情報まとめ
後藤 象二郎(ごとう しょうじろう)さんの誕生日は1838年4月13日です。高知出身の政治家のようです。
事件、テレビ、ドラマ、映画、現在、病気に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1897年に亡くなられているようです。
後藤象二郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。 土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。母は大塚勝従の長女。幼名は保弥太(やすやた)。通称は良輔(りょうすけ)だったが、後に象二郎と改名。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。 板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。仲の良かった理由の一つには、互いに遠縁の親戚であったことが挙げられる。 嘉永元年(1848年)7月25日、保弥太11歳(満10歳)の時、江戸藩邸で父が病死すると、義理の叔父・吉田東洋が養育を扶助して育つ。のち東洋が開いた少林塾に学ぶ。また柳河藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学び文武の業を修めた。 安政5年(1858年)、東洋の推挙によって幡多郡奉行となる。万延元年(1860年)9月、土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行を仰せ付けられる。文久元年(1861年)に御近習目付となるが、翌2年(1862年)に東洋が暗殺されると任を解かれた。文久3年(1863年)に勉学のため江戸に出て、開成所で大鳥圭介に英語を学び、会津藩士・高橋金兵衛に航海術を学んだ。元治元年(1864年)に藩政に復帰した。前藩主で事実上藩政を執っていた山内容堂の信頼を得て大監察や参政に就き、公武合体派の急先鋒として活躍した。 慶応元年(1865年)閏5月11日、武市瑞山を獄に断じ、次いで慶応2年(1866年)、藩命を奉じて薩摩、長崎に出張、さらに上海を視察して海外貿易を研究した。坂本龍馬と深く交わるようになったのはこの頃である。 慶応3年(1867年)、土佐藩は将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。土佐藩の在京幹部である寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らの賛同を得て、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らと会談し薩土盟約を締結した(6月22日(7月23日))。しかし、イカルス号事件の処理で土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉を渡辺弥久馬(斎藤利行)と共に行うなど時間を消耗したため、倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消された。薩摩との提携解消後も大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出。10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。これらの功により、後藤は中老格700石に加増され、役料800石を合わせて計1,500石に栄進する。 慶応4年(1868年)、天皇謁見に向かうパークス一行の護衛を務め、パークス暗殺を計画して斬り込んできた浪士と抜刀して斬り合い、そのうち一人の朱雀操を討ち取る。この事件の功により、中井弘と共にイギリスのヴィクトリア女王から恩賜のサーベルが進呈された。明治維新の功により賞典禄1,000石を賜る。 新政府では大阪府知事や参与、左院議長、参議、工部大輔などの要職に就くが、明治6年(1873年)の征韓論争に敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野する(明治六年政変)。その後、板垣や江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民撰議院設立建白書署名の1人となる。 明治7年(1874年)、政治資金を調達するため商社「蓬萊社」を設立する。約55万円で政府から高島炭鉱の払い下げを受けて経営に乗り出すが、ジャーディン・マセソン商会から代金を全額借りたため、利息と手数料で利益は商会にわたるしくみになっていた。福澤諭吉の仲介で三菱の岩崎弥太郎に約97万円で売却し、三菱は後藤に毎月1千円を支払う約束をした。 明治14年(1881年)、自由党の結成に際しては、板垣退助に次ぐ副党首格で参加した。結党後、板垣との洋行計画について、馬場辰猪らにその時期の悪さと資金源を疑われ、自由党の内部対立が深刻になる(板垣洋行問題)。結局、馬場ら批判グループを追放し終止符を打つ。また1881年4月25日、岩崎弥太郎が後藤所有の高島炭鉱を譲り受け、その代償として後藤の政府宛未納金25万円を肩代わりした。 明治15年11月11日、後藤は板垣とともに横浜から欧州に渡り、仏、独、英を歴訪し、翌年6月22日帰国した。 明治16年(1883年)、朝鮮留学生を支援していた福澤の要請で朝鮮開化派の金玉均を援護するため、板垣とともにフランス公使サンクイッチを訪問し、朝鮮国内の鉱山利権譲渡の見返りに100万円を借りて、自由党壮士を組織し、朝鮮半島に送り込む計画を立てるも頓挫する。福沢と金は後藤を朝鮮政府顧問として招へいする計画だった。 明治20年(1887年)5月、伯爵を授けられる。その頃、大同団結運動が盛り上がり、後藤は指導者として活躍するが、保安条例の施行により有力民権家が多く追放され、運動は転機を迎えた。後藤も福沢諭吉とともに保安条例の対象となっていたが、最終的には二人ともリストから削除された。後藤は入閣を打診され、黒田清隆内閣で逓信大臣に就任する。民権家は批判したが、後藤は大同団結の主義を貫くことを約束した。実際に閣内で大隈の条約改正交渉を批判し、再三閣議の開催を首相に要求し、閣議では内閣として連帯して責任をとって総辞職することを主張した。結局、黒田一人の辞職で終わったが、大臣の単独責任から内閣としての連帯責任への転換、延いては政党内閣の実現を企図した行動であった。黒田内閣、第1次山県内閣、第1次松方内閣で逓信大臣、第2次伊藤内閣で農商務大臣を歴任。政党人脈を生かし、議会での多数派工作に尽力した。しかし、明治27年(1894年)1月22日、商品取引所の開設にまつわる次官の収賄事件の責任をとって大臣職を辞した。福沢は日清戦争時に再び後藤を朝鮮政府顧問として派遣することを企図し、招へいの準備が進められたが、結局、日本政府が多くの顧問を派遣する形になり、実現しなかった。 明治29年(1896年)夏頃、心臓病を患って箱根で療養につとめたが、翌明治30年(1897年)8月4日薨去。享年60。墓は東京都港区の青山霊園にある。墓の形状は板垣退助の墓と全く同型である。 後藤象二郎の薨去後、板垣退助が会長、福岡孝弟が副会長となって、浄財を集め東京市の芝公園に後藤の銅像(本山白雲作)が建立されたが、大東亜戦争の金属供出により撤去された。 通称「象二郎」の名乗りは、容堂の「吉田東洋に象(かたど)れ」との言に基づくとされる。 地震がひどく嫌いで、他人が気づかない程度の微震であってもいち早く気づき、屋外に飛び出すので、その点はいつも家人に笑われたという。 ルイ・ヴィトンの顧客になった日本人としては最初期のひとりである。立憲政治視察のため板垣退助と渡欧した明治15年(1882年)から16年(1883年)の間に、ヴィトン本店で鞄を購入した顧客名簿の中に板垣退助や後藤象二郎の名が記されている。後藤が購入した鞄は存在しないが、板垣の購入したルイ・ヴィトンの鞄は、高知市立自由民権記念館に現存している。なお初めて顧客になったのが後藤であると長らく信じられてきたが、実際には後藤よりも5年前の1878年に鮫島尚信(在仏特命全権公使)と中野健明(一等書記官)が購入していたことが当時の顧客名簿から判明している。板垣退助が日本人購入者として3番目、後藤象二郎が4番目である。 板垣とは幼馴染であり、互いに「いのす」(猪之助=板垣)「やす」(保弥太=後藤)と呼び合う仲で、幼少期の2人が喧嘩をした際、後藤が蛇を苦手とすることを知っていた板垣は、決まって蛇を持ち出して後藤を退散させていたと伝えられる。 龍馬が提案したと言われている船中八策に基づき、容堂に大政奉還を進言する。この進言後、脱藩罪に問われていた龍馬が特赦されたのは後藤の働きによるとされる。 二条城での大政奉還の日、薩摩・土佐・芸州・備前・宇和島の五藩の代表が居残って、慶喜と膝詰め談判となった時、緊張のあまり大汗をかいた。そばで見ていた松平定敬は後藤の緊張した様子を「成る程、額・首筋の流汗は甚だしかりき」と述べ、後で同僚たちと「後藤の汗咄し(ばなし)」を噂し合ったという。 明治19年(1886年)に熱海、同23年(1890年)には大磯にそれぞれ別荘を所有している。また、平塚市袖ヶ浜にも別荘(二扇庵)を所有した。 江藤新平が佐賀の乱を起こした際に、大久保利通は捜査に江藤の写真を用いる事を考え、後藤が江藤の写真を持っていることがわかり、警視庁から写真の差出しを頼まれたが、「友人を縛する手掛かりに、おれの記念せる写真を差し出せとは真平御免なり。如何なる処分でも仕切るというのなら勝手にするがよい」と一喝して、写真の差出しを拒否した。江藤逮捕の後、 副島種臣・板垣らと共に、自己の功と引き換えに江藤の減刑を政府に訴え出ている。 伯、ある時賃借事件の為に訴えられて、法廷に召喚せられしことあり。その際、伯の履歴調べの事より、『参議を免ぜられしは何年何月なりしか』と尋ねられたるに、伯は簡単に、『記憶せず』と返答す。原告は『かかる一生涯の大事を記憶せざる理由なし』と詰め寄りければ、伯は忽ち威丈高になりて曰く、『象二郎、不肖なりといえども、維新前より土佐藩の家老なり。靴磨きか、草履取りの分際より成り上がりし出来星紳士ならば、参議の任免を大事件として、後生大事に記憶すべきも、象二郎はこの如き人物にはあらざるなり』と。それより雄弁を鼓して、散々に揶揄翻弄せしかば、原告は激怒のあまり、口訥して弁ずる能わざりき。 ある時、汽車に井上馨と同乗した際、互いの抱負を語り合った。井上が『我は数千萬円の財を造って見たし』と語ると、後藤は『我は数億円の借金がしてみたし』と答えたという。 数々の上演、テレビドラマ、映画で人気の高い三島由紀夫の戯曲『鹿鳴館』で、井上馨をモデルとした主人公・影山伯爵と対立する自由主義者・清原永之輔のモデルであることは三島の創作ノート等にも記されている。清原は伯爵でも大臣でもない在野の大物として描かれているが、1886年の設定なので一応現実の後藤の境遇とも一致する。 後藤の旧宅跡は現在テレビ長崎の社屋となっており、脇に後藤象二郎邸跡を示す石碑が建っている。 ヴィクトリア女王から進呈されたサーベルは静嘉堂文庫に収蔵されている。 吉田東洋 「我甥なれど後藤生は必ず藩のお役に立つべき者と存ず」 坂本龍馬
「彼は才物である。彼は我と時勢を談ずるに、一言も既往の歴史に渉らず、恩讐共に、忘るる如く、杯酒の席に於ても、談柄を常に己れに属せしむ。真に才物である。我は、彼の才を利用して、吾党の志望を達せん」 中岡慎太郎 「西郷は一日に十五里歩むといえば必ず十五里歩み、後藤は二十里歩むと大法螺を吹いて、実は十六里しか歩けない。しかし、結局において、後藤は西郷よりも一里多く歩む人間だ」 佐々木高行 「佐幕頑固党の小八木などにも大変嫌われる、また平井、小南などの勤王派にも非常に嫌われたる人である。しかしながら此人は皆人知る才子であります。後藤はとかく突飛な事をやる男であるから、御維新でもなければ身の始末が付かなかったことであろう」 福澤諭吉
「若しも此人をして総理大臣の地位に当らしめ政府の全権を任せたらんには、国家百年の長計は兎も角も、踔励風発、満前の障害物を一掃して一時天下の耳目を一新するの快断、必ず見る可きものありしならん」 後藤雪子
「後藤の体重は三十五歳の時に、二十二貫六百目ありき。晩年病気の際にも、十九貫ありき。身長は測りたること無し。著丈は四尺なりき」 陸奥宗光 「試に彼と語りて瞑目せんか、彼は明治世界の産物にあらずして、殆ど晋末の六朝か、唐末の五代に成功すべき怪傑が、偶然その形を我国に現出したるに非ざるかを思い至るべし」 勝海舟 「後藤は大名の塩辛にしたようなものだ。少しも尻のつかぬ男だ」 尾崎行雄
「ほんとの豪傑とは、こういう人かと思うような人であった。それにあれほどの豪傑であって、妙なことは、字が上手で、懐素流をよほどよく書いた。おそらく維新の豪傑で、あれほどの能書家は他にはあるまい」 六代目竹本土佐太夫
「気宇の大きいこと、太っ腹なこともちょっと他人の真似られないところでした。よく『小さな島国の日本で食えなくなれば、日本人として世界のどこへ行っても大将になってやる』といわれていたが、実際、実業家になっておられても素晴らしい人物になられたでしょう。現に商売が好きで『俺は金儲けをするんだ』と、よくいわれていました」 「日常生活においても、実に太っ腹で磊落で、小さなことが嫌いでした。私が太夫になってからお邸へ伺候致しました時『貴様の小屋の木戸銭はいくらとるか』とおたづねになった。私はそのコツを知っていますから『ハイ一圓とります』と申し上げると、『なに、一圓とるか。ウーム、貴様もとうとう日本一の太夫になったなァ・・・』と大変なご機嫌で、お喜びなのです。万事こうしたイキの愉快な人でした」 山田愛川 「その人物を形容するに一望千里天空海闊あたかも此の大磯の絶景にさも似たり。しかして君の過去を尋ね、その事跡を思い出すときは無限の感慨胸中に沸き出でて、思わず新鮮なる智識を得るに至ること、いわゆる故るきを温ねて新らしきを知るの趣きがあるからである」 山本正心 「私はあれほど逢うて心持のよい先輩は、先づ林有造先輩と好一対の英雄式大人物であったと深く深く頭脳へしみ込んでいる」 後藤新平 「およそ人はその功績により、名誉の表彰を受けしものは、皆その記念物を客間に陳列し、以てこれを誇るを常とす。後藤伯に至りては、決してかかる事なし。予かつて、かのパークス危難救助謝礼として、英女王より賜れる宝剣を一見せんと欲し、これを伯に乞いたるに、『何処かへ仕舞置きたり』と答えられたるのみなりき」 中江兆民 「われらその大胆に服するなり。よく是れ勲を負うの人なり、爵を荷うの人なり、千金を擁するの人なり、姫美を抱くの人なり」 1887年(明治20年)
12月26日 - 従三位 1889年(明治22年)12月27日 - 勲一等旭日大綬章 後藤家の先祖・後藤福基は、慶長6年(1601年)、初代土佐藩主・山内一豊が土佐から上洛する途中の大坂で、禄500石・御使母衣で召抱えられた。この時、福基の嫡子の後藤助右衛門(初代)は、200石で父と同じ時に召抱えられている。ゆえあって助右衛門の弟・後藤之基が父・後藤福基の家督を相続して後藤本家となり、兄・助右衛門が分家して一家を創立。この為、後藤之基家が次男筋であるが本家、助右衛門家が長男筋であるが分家とされている。この「助右衛門」家の10代目当主が後藤象二郎である。 また後藤象二郎の父・後藤正晴の母は、昭和17年(1942年)に出版された寺石正路撰の『土佐名家系譜』を典拠として「後藤正澄(左近右衛門)の妹」と記す書籍があるが、同時代の藩政史料である『御侍中先祖書系圖牒』に「第九養子・助右衛門正晴。前名藤次。養父外姓之従弟。實は第八・橋本宅右衛門孝直二弟也」とある事から「後藤吉正(収五郎)の妹」が正しい。 嫡男・猛太郎は、日本活動フィルム会社(日活の前身)初代社長をつとめた。猛太郎と新潟の芸妓の嗣子が実業家の保弥太である。孫の省三は襲爵手続きをなさず、後藤家は爵位を返上した。 二人の妻がいた。このうち、後妻の雪子は岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)の養妹(家督相続権のない養女のこと)、井上竹次郎(歌舞伎座社長)の姉、村井多嘉子(料理研究家で村井弦斎の妻)の叔母にあたる。 後藤象二郎と板垣退助は竹馬の友として知られ、明治維新に功績があり共に伯爵に陞せられた元勲であるが、両者は遠藤成直の代で共通祖に辿りつく。さらにその先の寺村重尚は、寺村左膳の先祖に繋がる。 (参考文献)『御侍中先祖書系圖牒』、『土佐名家系譜』、『土佐の墓』、『板垣精神』、『板垣退助君戊辰戦略』 ^ 『板垣精神』 ^ 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ 日本放送協会 (2023年5月16日). “英女王が土佐藩士 後藤象二郎に贈呈のサーベル 都内で見つかる | NHK”. NHKニュース. 2023年5月19日閲覧。 ^ 明治前期財政経済史料集成17 工部省沿革報告 大蔵省編 ^ 彭沢周「朝鮮問題をめぐる自由党とフランス」『歴史学研究』265、1962年6月、22頁。 ^ 寺崎修「保安条例と福沢諭吉」『福沢諭吉年鑑』22、1995年11月。 ^ 3月21日付伊藤博文宛渡辺昇書簡、『伊藤博文関係文書』第8巻、1980年、365―366頁。 ^ 明治22年10月28日付三条実美宛渡辺昇書簡同封別紙探聞報告、「三条実美関係文書」344―5(国立国会図書館憲政資料室蔵マイクロフィルム)。 ^ 都倉武之「明治二七年・甲午改革における日本人顧問官派遣問題――後藤象二郎渡韓計画を中心に」『武蔵野学院大学研究紀要』第3輯、2006年。 ^ 『明治大臣の夫人』 ^ “ルイ・ヴィトン、板垣退助もご愛用 曾孫、トランク寄託”. 朝日新聞. (2011年9月17日). オリジナルの2011年9月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110919065808/http://www.asahi.com/national/update/0916/OSK201109160105.html 2011年9月17日閲覧。 ^ NPO法人板垣会 会報第3号 ^ 『十人十色名物男』 ^ 『明治功臣録』 ^ 『実録維新十傑 第九巻』 ^ 『生きている歴史』 ^ 『佐佐木老公昔日談』 ^ 『時事新報 後藤伯』 ^ 『福澤諭吉全集』第16巻、69頁。 ^ 『坂本龍馬関係文書』 ^ 『海舟座談』P161 ^ 『咢堂漫談』 ^ 日本憲政史を語る 上巻 ^ 『愛川遺稿』 ^ 『書斎の屑籠:活殺自在』 ^ 『中江兆民集』 ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。 ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。 ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。 ^ 『御侍中先祖書系図牒』による ^ 『土佐名家系譜』は、後藤家の遠祖は、戦国時代の武将・後藤基次であるという俗説を載せ、また中途の世代名を欠くなど、藩政史料と照会しておらず極めて粗雑で誤記が多い。一例を挙げれば、後藤家の先祖が召抱えられたのは、1601年、一豊が上洛の途中の大坂においてであるが、『土佐名家系譜』では1600年、一豊が土佐入領の途中の大坂で召抱えられたとする。このように、藩政史料を根底にせず、聞き書きをそのまま記載されている箇所が散見されるため、引用には注意を要する。 ^ 黒岩比佐子『『食道楽』の人 村井弦斎』岩波書店、2004年6月25日、188頁。 大町桂月 『伯爵後藤象二郎』 冨山房、大正3年。 大橋昭夫 『後藤象二郎と近代日本』 三一書房、1993年。 千田稔 『明治・大正・昭和 華族事件録』 新潮社、2005年、144-150頁。 慶應義塾編 『福澤諭吉書簡集』第二巻 岩波書店、2001年。 末木孝典「政治家後藤象二郎の理念と行動-『責任内閣論』から議院内閣制へ-」『福沢手帖』第181号、2019年6月、16-23頁。 『お〜い!竜馬』(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館) 『猛き黄金の国』(本宮ひろし、集英社) 『ねこねこ日本史』(そにしけんじ、実業之日本社) 『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演:石田太郎) 『勝海舟』(1974年、NHK大河ドラマ、演:中井啓輔) 『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京、演:夏木陽介) 『田原坂』(1987年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:林彰太郎) 『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ、演:高橋幸兵) 『竜馬がゆく』(1997年、TBS大型時代劇スペシャル、演:尾美としのり) 『徳川慶喜』(1998年、NHK大河ドラマ、演:小木茂光) 『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇、演:吹越満) 『篤姫』(2008年、NHK大河ドラマ、演:古本新乃輔) 『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ、演:青木崇高) 『JIN-仁-』(2011年、TBS日曜劇場、演:宮川一朗太) 『八重の桜』(2013年、NHK大河ドラマ、演:京極圭) 『西郷どん』(2018年、NHK大河ドラマ、演:瀬川亮) 『幕末』(1970年、演:三船敏郎) 『ゴルフ夜明け前』(1987年、演:岸部一徳) 『サムライせんせい』(2017年、演:西村雄正) 『お~い!竜馬』(1992年-1993年、NHK総合テレビ、声:荒川太郎) 『ねこねこ日本史』(2016年-、Eテレ) 『猛き黄金の国 -士魂商才!岩崎彌太郎の青春-』(2001年、演:湖月わたる/蒼海拓) 自由民権運動 高知市立自由民権記念館 自由党 (日本 1890-1898) 国民自由党 (日本) 本山白雲(戦前、東京品川の芝公園に建てられていた後藤象二郎の銅像の作者) 木村荘平 後藤の別宅だった屋敷を旅館「芝浜館」に改装し経営した 後藤象二郎家 『後藤象二郎』 - コトバンク 表 話 編 歴 河野敏鎌 西郷従道 谷干城 西郷従道 山縣有朋 土方久元 黒田清隆 榎本武揚 井上馨 岩村通俊 陸奥宗光 河野敏鎌 佐野常民 後藤象二郎 榎本武揚 大隈重信 山田信道 伊東巳代治 金子堅太郎 大石正巳 曾禰荒助 林有造 平田東助 清浦奎吾 松岡康毅 大浦兼武 小松原英太郎 牧野伸顕 仲小路廉 山本達雄 大浦兼武 河野広中 仲小路廉 山本達雄 荒井賢太郎 田健治郎 岡野敬次郎 前田利定 高橋是清 山崎達之輔 内田信也 島田俊雄 石黒忠篤 千石興太郎 表 話 編 歴 榎本武揚 後藤象二郎 黒田清隆 渡辺国武 白根専一 野村靖 末松謙澄 林有造 芳川顕正 星亨 原敬 芳川顕正 曾禰荒助 大浦兼武 山縣伊三郎 原敬 堀田正養 後藤新平 林董 後藤新平 元田肇 武富時敏 箕浦勝人 田健治郎 野田卯太郎 前田利定 犬養毅 藤村義朗 犬養毅 安達謙蔵 望月圭介 久原房之助 小泉又次郎 三土忠造 南弘 床次竹二郎 岡田啓介 望月圭介 頼母木桂吉 山崎達之輔 兒玉秀雄 永井柳太郎 塩野季彦 田辺治通 永井柳太郎 勝正憲 村田省蔵 寺島健 八田嘉明 小松茂 塩原時三郎 塩原時三郎 松前重義 (心得)新谷寅三郎 一松定吉 三木武夫 冨吉榮二 降旗徳弥 小沢佐重喜 表 話 編 歴 醍醐忠順 後藤象二郎 由利公正御用取扱 西四辻公業 渡邊昇権知事→知事 建野郷三 西村捨三 山田信道 内海忠勝 時任為基 沖守固 吉原三郎代理 菊池侃二 高崎親章 犬塚勝太郎 大久保利武 林市蔵 池松時和 井上孝哉 土岐嘉平 中川望 田辺治通 力石雄一郎 柴田善三郎 斎藤宗宜 縣忍 安井英二 池田清 半井清 三辺長治 河原田稼吉 池田清 安井英二 新居善太郎 松井春生 田中廣太郎 大塚兼紀代理 高辻武邦 赤間文三 左藤義詮 黒田了一 岸昌 中川和雄 山田勇(横山ノック) 齊藤房江(太田房江) 橋下徹 松井一郎 吉村洋文 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本
後藤象二郎 明治時代の閣僚 日本の農商務大臣 逓信大臣 日本の元老院議官 大阪府知事 東邦協会の人物 自由民権運動の人物 維新の元勲 日本の伯爵 正二位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 土佐後藤家 高知県出身の人物 幕末土佐藩の人物 上士階層出身の明治期の著名人 1838年生 1897年没 青山霊園に埋葬されている人物 2024/11/20 19:02更新
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gotou syoujirou
後藤象二郎と同じ誕生日4月13日生まれ、同じ高知出身の人
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