長与専斎の情報(ながよせんさい) 医学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
長与 専斎さんについて調べます
■名前・氏名 |
長与専斎と関係のある人
笠原英彦: 『明治期医療・衛生行政の研究 長与専斎から後藤新平へ』ミネルヴァ書房〈MINERVA人文・社会科学叢書〉、2011年6月。 福澤諭吉: 安政4年(1857年)、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。 福澤諭吉: 明治6年(1873年)9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。 北里柴三郎: 同年11月には、伝染病研究所は大日本私立衛生会(副会頭は長与専斎、この長与と福沢は適塾では同じ塾生の間柄)の所属となり、年間3600円の財政支援を受けた。 犬養道子: 父・健は犬養毅の嗣子で親子2代の政治家であり、母方の曾祖父が長与専斎と後藤象二郎である。 緒方洪庵: 洪庵の功績として最も有名なのが、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。 酒井シヅ: 『松本順自伝・長与専斎自伝』小川鼎三共校注 平凡社東洋文庫、1980、ワイド版2008 小川鼎三: 『松本順自伝・長与専斎自伝』酒井シヅ共校注、平凡社東洋文庫、1980、ワイド版2008 |
長与専斎の情報まとめ
長与 専斎(ながよ せんさい)さんの誕生日は1838年10月16日です。長崎出身の医学者のようです。
現在、事件、卒業、兄弟に関する情報もありますね。1902年に亡くなられているようです。
長与専斎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8月28日〈1838年10月16日〉 - 明治35年〈1902年〉9月8日)は、日本の医師、医学者、官僚。本姓は藤原氏、号は松香、諱は秉継。 肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医・長与中庵の子として生まれる。 大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。 文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。明治元年(1868年)、長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任する。明治維新により1868年11月30日同館は長崎府医学校(現長崎大学医学部)となったが、マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行った。長与は学頭に任命された。 明治4年(1871年)に岩倉使節団の一員として欧米に渡るが、途中から独立して行動し、一行に先行してヨーロッパに渡り医療制度や医学の実情調査を行った。パリでは欧州留学中の長井長義、松本圭太郎、池田謙斎らと日本の医療制度のあり方について議論し、医制のもとになる76条の素案を起案したとされる。 明治6年(1873年)に岩倉使節団とともに帰国。帰国後に「医制」の制定作業に着手したが、相良知安の「医制略則」という草稿を踏襲したともいわれている。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任する。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務する。同年、東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。 明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称して、初代局長に就任する。コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し、また衛生思想の普及に尽力した。「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである。しかし明治16年(1883年)に内務卿となった山縣有朋とは肌が合わず、衛生局は業務に支障を来したため、軍医本部次長の石黒忠悳が兼務で衛生局次長に迎えられ、衛生局内では長與局長に劣らない力を持った。石黒の紹介で、愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出して明治16年(1883年)、衛生局に採用し、明治25年(1892年)、衛生行政の後継者として後藤を衛生局長に据えたが、後藤が相馬事件に連座して失脚するとこれを見捨て、以後は石黒が医学界における後藤の後ろ盾となった。 1886年(明治19年)4月27日、元老院議官、1890年(明治23年)9月29日、貴族院勅選議員に就任する。明治24年(1891年)に衛生局長を退いて後も、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任した。また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現日本公衆衛生協会)を興し会頭に就任するなど、医学界および衛生行政に重きをなした。また、種痘の普及に甚大な功績があった。 1902年9月8日死去し、12月に「松香私志」が私本として百日忌に配布され、1904年6月普及版として刊行された。墓所は青山霊園(1イ2-2-6) 1886年(明治19年)10月28日 - 従四位 1892年(明治25年)4月1日 - 正四位 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1895年(明治28年)6月21日 - 勲二等瑞宝章 5代前:長与住勉 医師(現長崎県東彼杵村) 4代前:長与住賢 藩士 曽祖父:長与知正俊民 大村藩医 祖父:長与俊達 - 大村藩の種痘医 藩内に牛痘を広める 父:長与中庵 - 藩医 江戸幕医の最高権力者 多紀元堅楽春法印に学ぶ。著作「傷寒論述義」
妻:後藤多仲の長女・園子 - 長與家が侍医として仕えていた旧大村藩の名族・後藤家の長女。
長男の妻:後藤象二郎の娘・延子。
次女:犬養毅三男の犬養健妻・仲子
曾孫:犬養康彦 - 元共同通信社社長 長女:松方正義長男で十五銀行頭取松方巌の妻・保子
次男:長與程三(1875年 - 1934年) - 実業界に進み、横浜の大手生糸商社・茂木合名理事、日本輸出絹連合会組長。学習院卒業後、横浜製糸合名会社に入社、のち渡米してペンシルベニア大学に学び、帰国後に横浜の野沢屋茂木輸出店(のち茂木合名)の総支配人として、先代急逝により年若くして社長となった3代目茂木惣兵衛を支えた。系列の横須賀鉄工場、日本火薬製造の重役も務める。 次男の妻:沢子は2代目茂木保平(初代茂木惣兵衛の娘婿で名古屋の豪商瀧定の次男)の娘。 次女:長与藤子 - 1894年に15歳で鎌倉由比ガ浜沖にて溺死。 三男:長與又郎(1878年 - 1941年) - 病理学者で東京帝国大学総長、男爵。 三男の妻:森村財閥森村組創業者・森村豊の娘・玉
四男:岩永裕吉(1883年 - 1939年) - 幼少期に実母の弟夫婦の養子となる。同盟通信社の初代社長。日本の通信自主権の確立に尽力した 四男の妻:獣医学者で東京帝国大学教授・田中宏の娘の鈴。兄に田中良 (美術家)。 三女:医師・平山金蔵の妻・道子。平山は義兄・稱吉の死後、長与胃腸病院院長を引き継ぐ。日本消化器医学会会長、日本医科大学理事なども務め胃腸病学の大家となる。 五男:長與善郎(1888年 - 1961年)- 白樺派の小説家、劇作家。 実業家の岩崎弥太郎、弥之助兄弟、幕末の志士・松方正義、後藤象二郎、首相経験者の山本権兵衛、加藤高明、幣原喜重郎、そして師にあたる緒方洪庵や福沢諭吉とも親戚関係である。 ^ 長崎医学百年史 長崎大学医学部編 ^ 西井易穂. “長与専斎と二見海水浴場(第109回日本医史学会総会一般演題)”. 一般社団法人 日本医史学会. 2022年7月30日閲覧。 ^ 駄場裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』(南窓社、2007年)73-79頁。 ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。 ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。 ^ 『官報』第2625号「叙任及辞令」1892年4月2日。 ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。 ^ 『官報』第5393号「叙任及辞令」1895年6月22日。 ^ 長与程三君『大正人名事典』東洋新報社、1917年、p36 ^ 茂木合名会社長茂木惣兵衛君『進境の人物』世界公論社、1917年 ^ 岩永裕吉『日本大百科全書』 『松本順自伝・長与専斎自伝』小川鼎三・酒井シヅ校注、平凡社〈東洋文庫386〉、1980年9月。ISBN 978-4-582-80386-0。 ワイド版2008年 外山幹夫『医療福祉の祖 長与専斎』思文閣出版、2002年6月。ISBN 4-7842-1107-1。 長与健夫「医学教育制度の変革・漢方から洋学へ―浅井国幹と長与専斎の相剋を中心にして」『日本医史学雑誌』第43巻第4号、日本医史学会、1997年、pp. 93-94。 駄場裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』南窓社、2007年。ISBN 978-4-8165-0354-2 本馬貞夫「長与専斎―公衆衛生行政の創始者」ヴォルフガング・ミヒェル・鳥井裕美子・川嶌眞人共編 編『九州の蘭学―越境と交流』思文閣出版、2009年6月、pp. 329-332頁。ISBN 978-4-7842-1410-5。 越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』ちくま新書、2011年。ISBN 978-4-480-06639-8 明六社・明六雑誌 アントニウス・ボードウィン 後藤新平 萩原三圭 国立病院機構長崎医療センター - センター敷地内には、專齋の旧家が史跡として残っている。 相良知安 石黒忠悳 北里柴三郎 ウィリアム・K・バートン 長与専斎(Yahoo!百科事典) 長与専斎とは(コトバンク) 「協会概要-I 経緯-1.大日本私立衛生会の設立」財団法人日本公衆衛生協会公式webページ 表 話 編 歴 法理文三学部綜理 加藤弘之 1877-1881 医学部綜理 池田謙斎 1877-1881 加藤弘之 1881-1886 事務取扱 外山正一 1886 事務取扱 外山正一 1886 初代 渡辺洪基 1886-1890 第2代 加藤弘之 1890-1893 第3代 浜尾新 1893-1897 第3代 浜尾新 1897 第4代 外山正一 1897-1898 第5代 菊池大麓 1898-1901 第6代 山川健次郎 1901-1905 第7代 松井直吉 1905 第8代 浜尾新 1905-1912 事務取扱 桜井錠二 1912 第9代 山川健次郎 1913-1920 第10代 古在由直 1920-1928 第11代 小野塚喜平次 1928-1934 第12代 長与又郎 1934-1938 事務取扱 佐藤寛次 1938 第13代 平賀譲 1938-1943 事務取扱 寺沢寛一 1943 第14代 内田祥三 1943-1945 第15代 南原繁 1945-1947 第15代 南原繁 1947-1951 第16代 矢内原忠雄 1951-1957 第17代 茅誠司 1957-1963 第18代 大河内一男 1963-1968 事務取扱/第19代 加藤一郎 1968-1969/1969-1973 第20代 林健太郎 1973-1977 第21代 向坊隆 1977-1981 第22代 平野龍一 1981-1985 第23代 森亘 1985-1989 第24代 有馬朗人 1989-1993 第25代 吉川弘之 1993-1997 第26代 蓮實重彦 1997-2001 第27代 佐々木毅 2001-2005 第28代 小宮山宏 2005-2009 第29代 濱田純一 2009-2015 第30代 五神真 2015-2021 第31代 藤井輝夫 2021- 辻新次 1872 辻新次 1872 柳本直太郎 1872 副長 伴正順 1872-1873 学長/校長 伴正順 1873/1873 畠山義成 1873-1874 畠山義成 1874-1876 校長補 浜尾新 1875-1877 綜理 加藤弘之 1877 学長 長谷川泰 1872 学長/校長 相良知安 1872-1873/1873-1874 相良知安 1874 長与専斎 1874-1877 池田謙斎 1877 権頭/頭 楠田英世 1871-1873/1873-1875 第二局法学課長 杉山孝敏 1875-1877 学校課長 青山貞 1877-1879 学校課長/生徒課長 植村長 1879-1880/1880 生徒課長/第七局長 黒川誠一郎 1880-1881/1881-1884 書記局学務課長 加太邦憲 1884-1886 心得 加太邦憲 1884-1885 山尾庸三 1871-1872 権頭/頭 大鳥圭介 1875/1875-1877 大鳥圭介 1877-1882 大鳥圭介 1882 副長 竹田春風 1882-1886 関沢明清 1877-1882 関沢明清 1882-1885 岩山敬義 1885-1886 前田献吉 1886 松野礀 1881-1886 前田献吉 1886-1889 高橋是清 1889 前田正名 1889-1890 肥田昭作 1874-1876 服部一三 1876-1877 主幹 服部一三 1877-1879 主幹 浜尾新 1877-1880 主幹/予備門長 服部一三 1880-1881/1881-1882 杉浦重剛 1882-1885 事務取扱 小林小太郎 1885 心得/予備門長 野村彦四郎 1885-1886/1886 野村彦四郎 1886-1887 古荘嘉門 1887-1889 木下広次 1889-1893 嘉納治五郎 1893 心得 久原躬弦 1893-1894 心得/校長 久原躬弦 1894/1894-1898 澤柳政太郎 1898 狩野亨吉 1898-1906 事務取扱/校長 今村有隣 1906/1906 新渡戸稲造 1906-1913 瀬戸虎記 1913-1919 事務取扱/校長 菊池寿人 1919/1919-1924 杉敏介 1924-1929 森巻吉 1929-1937 橋田邦彦 1937-1940 事務取扱 佐久節 1940 安倍能成 1940-1946 事務取扱 日高第四郎 1946 天野貞祐 1946-1948 麻生磯次 1948-1949 矢内原忠雄 1949-1950 湯原元一 1921-1927 塚原政次 1927-1934 近沢道元 1934-1940 藤原正 1940-1945 峰尾都治 1945-1949 矢内原忠雄 1949-1950 高木貞二 1950-1951 塩谷不二雄 1939-1943 事務取扱/主事 颯田琴次 1943/1943-1944 部長/事務取扱 颯田琴次 1944-1947/1947 事務取扱 颯田琴次 1947-1952 カテゴリ メディア 東京大学 東京大学 源流・前身諸機関 人物 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 日本の医学者 日本の公衆衛生学者 戦前日本の学者 日本の医師 貴族院勅選議員 明治時代の貴族院議員 在職中に死去した日本の貴族院議員 日本の宮中顧問官 日本の元老院議官 日本の内務官僚 戦前日本の文部官僚 国立医薬品食品衛生研究所の人物 東京大学の人物 長崎大学の人物 岩倉使節団の人物 長崎海軍伝習所・関連学校の人物 適塾の人物 勲二等瑞宝章受章者 長與家 長崎県出身の人物 幕末大村藩の人物 1838年生 1902年没 日本の医史 日本の医療教育の歴史 長崎大学の歴史 公衆衛生 青山霊園に埋葬されている人物 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/20 16:30更新
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nagayo sensai
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