長与又郎の情報 (ながよまたお) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
長与 又郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
TOPニュース
長与又郎
長与 又郎(ながよ またお)さんの誕生日は1878年4月6日です。東京出身の医学者(病理学)のようです。
逸話、日記などについてまとめました。現在、卒業に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
長與 又郎(新字体:長与 又郎、ながよ またお、1878年(明治11年)4月6日 - 1941年(昭和16年)8月16日)は、日本の病理学者、男爵。癌研究の世界的権威。号は雷山。長與專齋の子。 医学界の重鎮長與專齋の三男として東京神田に生まれる。慶應義塾幼稚舎、正則学校、第一高等学校を経て、1904年(明治37年)12月に東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業する。ドイツのフライブルク大学に留学、1910年(明治43年)に帰国して助教授となり、翌年に東京帝国大学の病理学教授となる。夏目漱石の主治医でもあり、1916年(大正5年)、漱石が病死した際には、未亡人夏目鏡子の希望で、漱石の遺体を解剖した。 伝染病研究所長や医学部長を経て、1934年(昭和9年)、東京帝国大学第12代総長に就任する。1936年(昭和11年)帝国学士院会員。 1937年(昭和12年)、林内閣発足時に文部大臣への就任要請を受けたが辞退した。 1938年(昭和13年)、文部大臣荒木貞夫から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任する。同年12月28日、東京帝国大学名誉教授の称号を授与された。 昭和初期には、満州へ渡航し関東軍司令部や731部隊を訪問している。731部隊では研究を視察している。細菌学会などを通じ、石井四郎軍医と交流があった。 またがん研究会会頭在任時にがん研究所やその附属病院(現がん研究会有明病院)の開設に尽力し、1941年には日本癌学会を設立するなど、癌の解明に努力する。父の遺志を継いで、公衆衛生院や結核予防会をも設立した。自ら予言していた通りに肺癌となり、1941年(昭和16年)8月15日、死の前日に、医学への貢献により男爵となる。 翌8月16日、東京都麻布区の自宅にて死去。享年64。墓所は青山霊園(13-1イ-2-2-6) 逸話東京帝国大学野球部長も務め、部の寮である「一誠寮」の看板は長與の揮毫による。この時、「誠」の字の右側の「ノ」の画を入れ損なったが、これを指摘した選手たちに「最後のノは君たちが優勝したときに入れよう」と語ったという。東大の六大学野球最高位は1946年春季の2位であるため、以後も「ノ」の部分が欠けたままとなっている。 ボート競技にも取り組んでいたことがあり、晩年の1940年(昭和15年)、戸田漕艇場オープン時に行われたデモンストレーションに出漕している。漕ぎ終わった後のインタビューでは「ラジオ体操をやっているから、まだまだ若い者には負けない」と語っている。 1996年、日本癌学会は長與を記念して長與又郎賞(長與賞)を設立した。 日記『長與又郎日記 近代化を推進した医学者の記録』全2巻、小高健編、学会出版センター、2001年2月 2024/05/17 02:50更新
|
nagayo matao
長与又郎と同じ誕生日4月6日生まれ、同じ東京出身の人
長与又郎と近い名前の人
話題のアホネイター
話題の芸能人・有名人
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「長与又郎」を素材として二次利用しています。