安倍晋三の情報(あべしんぞう) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
安倍 晋三さんについて調べます
■名前・氏名 |
安倍晋三と関係のある人
江田憲司: 更に渡辺代表は自民党時代に閣僚として仕えた安倍晋三首相に近く、安倍政権支持率が高いことが続く中、右派路線で党勢を拡大しようとした一方、幹事長だった江田は民主の細野豪志や維新の松野頼久代表らと会合を重ねるなど野党再編路線を取っていた。 高鳥修一: 前総務大臣の高市早苗(安倍晋三前首相が支持)の推薦人名簿に名前を連ねた。 佐藤浩市: いわゆる体制側の立場を演じることに対する抵抗感が、まだ僕らの世代の役者には残ってるんですね」などと発言していたことが波紋を呼び、潰瘍性大腸炎を患っている安倍晋三を揶揄したとして批判の声もある一方、演出上の発言であるとして擁護する意見もあった。 谷村新司: 2007年には、当時中国国務院総理の温家宝の訪日に伴い、安倍晋三(当時内閣総理大臣)主催の歓迎会にて「昴」を披露した。 山内昌之: 『嫉妬の世界史』は安倍晋三が総理就任前に読んだ本として紹介されている。 村上誠一郎: 財政規律派の急先鋒として知られ、2016年に安倍晋三首相が翌年の消費増税延期を決断した際には、「首相が言ったら全て従うのか。 河井克行: 2012年9月の自由民主党総裁選挙では安倍晋三を支持し、安倍の推薦人に名を連ねた。 古屋圭司: 第2次安倍内閣の改造により拉致問題担当大臣を退任後も、拉致問題に関する超党派の議員連盟に所属し、2018年6月22日には会長として安倍晋三首相に全ての拉致被害者の即時一括帰国に向けた取り組みの申入書を手渡した。 ニコラ=サルコジ: 2019年10月21日に迎賓館赤坂離宮で安倍晋三内閣総理大臣と会談を行い翌22日の即位礼正殿の儀に参列した。 佐喜眞淳: 2016年1月29日、首相官邸で安倍晋三首相に面会し、改めて普天間飛行場の早期閉鎖を要請した。 木村次郎右衛門: 市の輝く宝であり続けます」と弔辞を述べた後、安倍晋三首相(当時)の弔電も読み上げられた。 野田毅: 2007年9月、安倍晋三総裁の辞任に伴って実施された自民党総裁選挙では福田康夫を支持する。 玉木雄一郎: 第2代大臣の金子一義から「政治家にならないか」と誘われ、自民党幹事長(当時)の安倍晋三と面談した。 村田信之: 2017年3月6日、国会で「森友学園への国有地の払い下げ、なぜこんなに関心が高いとお考えでしょうか」などと質問し、安倍晋三首相から「具体的に批判して頂きたい」と返答され、「笑って答えて見苦しい」と発言すると、安倍に「質問があまりに分かっていないから笑ったんです」と返答された。 スシロ=バンバン=ユドヨノ: 12月23日には安倍晋三内閣総理大臣と会談し、経済・安全保障面での協力拡大に合意した。 萩生田光一: 安倍晋三首相や私が責任を持って答えている」と述べ、萩生田が言及した日銀の企業短期経済観測調査(短観)次第で増税を延期する可能性を否定し、連立を組む公明党幹部も増税延期に否定的見解を示した。 杉原誠四郎: 令和四年七月八日凶弾に斃れた安倍晋三元首相は、生前しきりに「戦後レジームからの脱却」と叫んでいたが、その「戦後レジーム」とは、結局は、吉田茂が占領政策を継承してつくった戦後の日本の病、つまり「吉田茂という病」のことだったと主張している。 小林節: かつて、自民党のブレーンであった小林であるが、安倍晋三内閣総理大臣の主導する憲法改正や安全保障法案に対する批判を強めて以降は、安倍政権に批判的な野党共闘への支持を明確にしており、「1人区では野党がバラバラでは絶対に勝てない」として、共産党を含む共闘の必要性を訴えている。 奥寺健: FNN特報 安倍晋三元首相「国葬」第2部メーンキャスター(2022年9月27日) 松下新平: 安倍晋三首相は2月15日の衆議院予算委員会で野党の批判に反論し、高市の発言を擁護した。 福岡資麿: 安倍晋三首相は2月15日の衆議院予算委員会で野党の批判に反論し、高市の発言を擁護した。 三木谷浩史: 東谷は三木谷が安倍晋三が亡くなった際にツイッターで「金曜日に米国から東京への帰国フライト中、安倍元総理が銃撃にあい、最終的に残念ながら亡くなられたという知らせを受けました。 野呂田芳成: 2006年、2007年の首班指名選挙はいずれも欠席した(選出されたのはそれぞれ安倍晋三、福田康夫)。 野田聖子: 2006年(平成18年)、首相・安倍晋三の意向により郵政造反組の復党が検討され、同年12月に復党した。 菅義偉: 憲政史上(前身の内閣書記官長含め)、内閣官房長官経験者で首相に就任したのは、鳩山一郎、佐藤栄作、大平正芳、鈴木善幸、竹下登、宮澤喜一、小渕恵三、福田康夫、安倍晋三に続いて10人目となった。 角川慶子: 自由民主党と安倍晋三を支持している。 荒井広幸: 安倍晋三首相と近い新党改革の荒井が窓口となり、水面下での交渉が進展した。 吉村洋文: 旧大日本帝国陸軍の戦死者らを慰霊し、日本で最初かつ最大の陸軍墓地「真田山陸軍墓地」の荒廃が深刻化している問題について、2018年8月29日、「国が改修も含めてしっかりと管理すべき」と述べ、11月に安倍晋三首相宛てに「旧真田山陸軍墓地の管理・維持保全に関する要望について」と題して、「建築基準法上の耐震基準を満たさないものがあり、財産所有者である国による抜本的な対策が必要」であり、特に、南海トラフ地震などの巨大地震に備えて「納骨堂の耐震対策をはじめ、墓石の破損・風化対策が喫緊の課題」と要望書を提出した。 釜本邦茂: 2000年7月4日、第2次森内閣の労働政務次官に就任する(政務担当の内閣官房副長官は同じ派閥の安倍晋三・上野公成)、同年12月6日、内閣改造に伴い労働政務次官を退任。 中西健治: 2016年7月、第24回参議院議員通常選挙に神奈川県選挙区(改選数4)から立候補し、無所属(自民党推薦)ながら安倍晋三首相や麻生派所属の国会議員の支援を受け得票数4位で再選された。 |
安倍晋三の情報まとめ
安倍 晋三(あべ しんぞう)さんの誕生日は1954年9月21日です。山口出身の政治家のようです。
死後、政見・政策などについてまとめました。テレビ、卒業、結婚、家族、解散、病気、現在、事故、事件、脱退、離婚に関する情報もありますね。今年の情報もありました。67歳で亡くなられているようです。
安倍晋三のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)安倍 晋三(あべ しんぞう、1954年〈昭和29年〉9月21日 - 2022年〈令和4年〉7月8日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。 内閣総理大臣(第90・96・97・98代)、内閣官房長官(第72代)、内閣官房副長官(政務担当)、衆議院議員(10期)、自由民主党総裁(第21・25代)、自由民主党幹事長(第41代)、自由民主党幹事長代理、清和政策研究会会長(第10代)を歴任した。 東京都新宿区出身。1954年9月21日、毎日新聞の記者であった安倍晋太郎と妻洋子の次男として生まれる。弟の信夫は養子に出されたため末子として育つ。本籍地は山口県大津郡油谷町(現長門市)。父方の祖父は衆議院議員の安倍寛、母方の祖父は後の首相岸信介で、大叔父には元首相の佐藤栄作、叔父には日本興業銀行の頭取を務めた西村正雄がいる。一家は渋谷区南平台町の岸の自宅で、岸と同居した。 1958年5月、父の安倍晋太郎が第28回衆議院議員総選挙に立候補し初当選した。幼いころは野球選手や、テレビを見て刑事になることに憧れていた。 成蹊小学校3年生の1963年11月、父の晋太郎が落選。このため両親は東京を離れ、選挙区の山口県にいることが多くなった。安倍家は寛信と晋三に家庭教師をつけることとした。翌1964年に東京大学駒場キャンパスで「子ども2人を週3回教えて9千円、食事つき」とのアルバイトの募集を見つけたのが、当時東大駒場寮に住んでいた平沢勝栄だった。平沢は「駒場東大前駅からひと駅で、しかも食事つき。駒場寮の食事はマズかったから、これはいいぞ」と思い、面接を受け、採用された。小学5年生まで2年間、晋三を教えた。 成蹊中学校・高等学校卒業。高校では地理研究部に所属した。成蹊大学法学部政治学科に進み、佐藤竺教授のゼミに所属して行政学を学ぶ。アーチェリー部に所属し、準レギュラーだった。大学へは中古のアルファロメオで通った。 1977年3月、成蹊大学卒業。同年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人ばかりで勉強に障害があると判断して通学を止め、イタリア系米国人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。1978年1月から春季・夏季・秋季と1年間、南カリフォルニア大学に留学しており、政治学の専攻ではなく講座に通学していた。ただし在籍はしたものの学士の資格は得ていない。首相として訪米中に同大学を訪問している。 1979年4月に帰国し、神戸製鋼所に入社。本社輸出部に配属される。1980年5月から1981年1月まで加古川製鉄所の工程部工程課に配属された。営業担当が受けた注文の工程管理を担った。そのほか、ニューヨーク事務所、東京本社などで勤務した。 1982年11月27日、第1次中曽根内閣が成立し、父晋太郎が外務大臣に就任。晋太郎は安倍に自身の秘書官になることを命じた。しかし安倍が拒否したため、晋太郎は神戸製鋼所首脳部に連日電話を入れ、退職させるよう迫った。安倍はほどなくして同社を退職し、大臣秘書官に就任した。 1986年7月22日、晋太郎が外務大臣を退任。それとともに秘書官を退職。同年10月、森永製菓社長の松崎昭雄の長女で電通社員の昭恵と婚約。 1987年5月25日、参議院議員の江島淳が死去。江島の死去に伴う山口県選挙区の補欠選挙に立候補する意思を示したが、宇部市長二木秀夫が出馬を表明したことから父に断念するよう説得され、立候補を見送った。同年6月9日、新高輪プリンスホテルで松崎昭恵と結婚式を挙げた。媒酌人は福田赳夫夫妻が務めた。 1991年5月15日、父晋太郎が急死。同年7月8日、安倍は地元後援会拡大会長会議で、晋太郎の跡を継ぎ次期衆院選に立候補することを表明した。 1993年6月の第40回衆議院議員総選挙に旧山口1区(定数4)から立候補し初当選。当選後はかつて父が会長を務めた清和政策研究会に所属する(当時の会長は三塚博)。 1994年、羽田内閣施政下、社会党の連立離脱を期に野党自民党が社会党との連立政権樹立を目指して作った超党派グループ「リベラル政権を創る会」に参加。同年6月29日に行われた首班指名選挙では村山富市に投票し自社さ連立政権・村山内閣樹立に貢献。 同年8月11日、衆議院議員選挙区画定審議会は、政治改革四法における「小選挙区300・比例代表200」の具体的な区割り案を村山富市首相に勧告。旧山口1区は山口3区と山口4区に分けられ、3区は河村建夫、4区は安倍が公認候補となり、林義郎は比例中国ブロックへの転出を余儀なくされた。これを受けて1995年7月の参院選・山口県選挙区には林の長男の林芳正が自民党公認で立候補することとなり、初当選した。 1995年9月22日に行われた自民党総裁選では小泉純一郎の推薦人の一人になった。 1996年10月の衆院選・山口4区で新進党現職の古賀敬章らを破り再選。 1999年、衆議院厚生委員会理事に就任。 2000年4月5日、派閥領袖の森喜朗が首相に就任。同年7月4日に組閣された第2次森内閣で小泉純一郎の推薦を受け、内閣官房副長官に就任した。2001年、第1次小泉内閣でも再任した。 2002年、水野賢一が外務大臣政務官在任中に台湾訪問を拒否され辞任した際も理解を示し擁護、小泉首相の北朝鮮訪問に随行し、小泉首相と金正日総書記との首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と主張したとされる。拉致被害者5人の帰国は実現したものの、この日本人拉致問題は日本側の納得する形では決着せずに難航した。内閣官房参与の中山恭子と共に北朝鮮に対する経済制裁を主張し、一時帰国とされていた拉致被害者をいったんは北朝鮮に戻す方針にも中山と共に頑強に反対したという。西岡力は、対話路線などの慎重論を唱える議員が多かった中で、安倍の姿勢は多くの支持を得たと述べている。ただし、拉致被害者の家族でもある「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)の当時副代表の蓮池透は、北朝鮮にいったん返送することに安倍らが反対していたことを否定、安倍と中山が拉致被害者らの北朝鮮帰国に反対したことはないとする。自民党の札幌市議のブログにも、2003年1月の段階では安倍自身が札幌での「安倍晋三先生を囲む会」の席上で当時の逸話として、蓮池透の主張とほぼ同趣旨の話を語っていたことが記載されていたが、内容が注目を受けるとこのブログは削除された。 2003年9月、衆議院解散を控える中で自民党の選挙の顔となる幹事長である山崎拓の性的なスキャンダルが持ち上がったため、小泉は後任幹事長として安倍を抜擢した。閣僚も党の要職も未経験であった安倍の幹事長就任は異例であり、事前には筆頭副幹事長もしくは外務大臣への就任が有力視されていたため、小泉の「サプライズ人事」として注目を集めた。また、自民党は総幹分離の原則が長く続いており、総裁派閥幹事長は1979年の大平正芳総裁時代の斎藤邦吉幹事長以来24年ぶりであった。11月投票の第43回総選挙で与党は安定多数の確保に成功したが、自民党単独では選挙前の過半数から半数割れとなった。ただし前回選挙からは当選者増でもあり、幹事長に留まる。幹事長時代には自民党内で恒常化していた「餅代」「氷代」(派閥の長が配下の者に配る活動資金)の廃止、自民党候補者の公募制の一部導入など党内の各種制度の改正を行った。 2004年4月の埼玉8区補欠選挙では、自民党史上初の全国的な候補者公募を実施した(公募に合格した柴山昌彦が当選)。 同年7月の参議院選挙では、目標の51議席を下回れば「一番重い責任の取り方をする」と引責辞任を示唆。結果は49議席で、しばらく現職に留まった後で辞任した。同年9月から後任の幹事長の武部勤の強い要請を受ける形で党幹事長代理に就任した。幹事長経験者の幹事長代理就任も異例の事であった。 同年、党改革推進本部長に就任。 2005年4月、自民党は「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を設立。座長に安倍、事務局長に山谷えり子が就いた。同年6月28日、安倍らが発起人となり、議員連盟「平和を願い真の国益を考え靖国神社参拝を支持する若手国会議員の会」が発足。会長に松下忠洋、幹事長に山谷が就いた。 2005年10月31日、第3次小泉改造内閣が発足。内閣官房長官として初入閣した。 2006年3月末、小泉内閣は「多様な機会のある社会推進会議(通称:再チャレンジ推進会議)」を設置。安倍は同会議の議長に就任。同年7月21日、国土交通省が作成した「美しい国づくり政策大綱」の構想を受け継いだ『美しい国へ』を文藝春秋から上梓した。 同年9月1日、自民党総裁選挙への出馬を正式に表明した。また同時に、「美しい国、日本。」と題した政権構想のパンフレットを発表し、同党所属の国会議員に配布した。憲法改正や教育改革、庶民増税を極力控えた財政健全化、小泉政権の聖域なき構造改革に引き続き取り組む方針を示す。 2006年9月20日、小泉の任期満了に伴う総裁選で麻生太郎と谷垣禎一を大差で破って自由民主党総裁に選出された。9月26日の臨時国会において内閣総理大臣に指名される。戦後最年少(当時52歳)で、戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣であった。同日に開いた記者会見で、自身の内閣を「美しい国創り内閣」と呼んだ。 同年9月29日、所信表明演説で、冒頭に小泉構造改革を引継ぎ加速させる方針を示した。また、「日本を、世界の人々が憧れと尊敬を抱き、子どもたちの世代が自信と誇りを持てる『美しい国、日本』とする」と述べた 安倍は小泉前首相の靖国参拝問題のために途絶えていた中国、韓国への訪問を表明。2006年10月に就任後の初外遊先となった北京で胡錦濤国家主席と会談し、翌日には、盧武鉉大統領と会談すべくソウルに入り、小泉政権下で冷却化していた日中・日韓関係の改善を目指した。 北朝鮮が核実験を実施したことに対しては「日本の安全保障に対する重大な挑戦である」として非難声明を発するとともに、対北強硬派のジョン・ボルトンらと連携して国連の対北制裁決議である国際連合安全保障理事会決議1718を可決させ、個別でより厳しい経済制裁措置も実施した。 同年9月から11月にかけ、郵政造反組復党問題が政治問題化する。12月には、懸案だった教育基本法改正と防衛庁の省昇格を実現した。一方で、同月、安倍が任命した本間正明税制会長が公務員宿舎への入居と愛人問題で、佐田玄一郎内閣府特命担当大臣(規制改革担当)兼行政改革担当大臣が架空事務所費計上問題でそれぞれ辞任。この後、閣内でスキャンダルが続いた。 2007年3月、安倍の北朝鮮による日本人拉致問題に対する非難と従軍慰安婦問題への謝罪に消極的であることが「二枚舌」とワシントンポストに批判された が、4月下旬には米国を初訪問し、小泉政権に引き続き日米関係が強固なものであることをアピールした。参議院沖縄県選挙区補欠選挙に絡み、日米関係や基地移設問題が複雑に絡む沖縄県特有の問題があったため、多くの側近の反対を退け2回にわたり沖縄県を訪れて自民系無所属候補の島尻安伊子の応援演説を行うなどのバックアップを行った。 同年4月3日、第1回「『美しい国づくり』企画会議」が開催され、安倍の理想を実現化するための「『美しい国づくり』プロジェクト」がスタートした。 5月28日、以前から様々な疑惑のあった松岡利勝農水大臣が議員宿舎内で、首を吊って自殺。6月1日、後任の農林大臣に赤城徳彦が就任。 6月当初の内閣支持率は小泉政権以来最低になったことがメディアで大きく報じられた。同月6日 - 8日には首相就任後初の主要国首脳会議であるハイリゲンダム・サミットに参加、地球温暖化への対策を諸外国に示した。また、議長総括に北朝鮮による日本人拉致問題の解決を盛り込ませた。 7月3日、久間章生防衛大臣の原爆投下を巡る「しょうがない」発言が問題化。安倍は久間に厳重注意に処し、久間は直後に辞任、後任には小池百合子が就任した。 2007年7月12日、第21回参議院議員通常選挙が公示。与野党の舌戦開始早々、自殺した松岡の後任である赤城徳彦農林水産大臣にもいくつかの事務所費問題が発覚。7月16日に発生した新潟県中越沖地震では発生当日に遊説を打ち切り現地入りした。選挙期間中、「年金問題」の早期解決を約束し、「野党に改革はできない、責任政党である自民党にこそ改革の実行力がある」とこれまでの実績を訴えた。選挙前、安倍は「そんなに負けるはずがない」と楽観視していたと言われる。7月29日、投開票。結果は37議席と連立を組む公明党の9議席を合わせても過半数を下回る大敗であった。小沢一郎の地盤の東北地方や保守王国の四国地方で自民党が全滅、勝敗を左右する参議院一人区も、軒並み民主党候補や野党系無所属に議席を奪われた。 参院選直後の7月31日の自民党総務会において「決断されたほうがいい」などと党内からも退陣を促す声が出た(安倍おろし)。 同日、米国下院では慰安婦非難決議が議決されていた。翌8月1日には赤城農相を更迭したが「遅すぎる」と自民党内からも批判された。 広島平和記念式典に行く前日の8月5日から、胃と腸に痛みを感じ、食欲の衰えを感じるようになる。そして、8月19日から8月25日のインドネシア・インド・マレーシア3か国訪問後は下痢が止まらなくなり、症状は次第に悪化し始めた。しかし、当時の慶應義塾大学病院の主治医によると、(17歳のときに発症したという)潰瘍性大腸炎の血液反応はなく、機能性胃腸障害という検査結果であったという。 同年8月27日、内閣改造、党役員人事に着手した(第1次安倍改造内閣)。ところが組閣直後から再び閣僚の不祥事が続き、求心力を失う。 同年9月9日、オーストラリア・シドニーで開催された APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の終了にあたって開かれた記者会見において、テロ特措法の延長問題に関し9月10日からの臨時国会で自衛隊へ給油が継続ができなくなった場合は、内閣総辞職することを公約した。この間も安倍の健康状態は好転せず、体調不良により APEC の諸行事に出席できない状況となり、晩餐会前の演奏会を欠席した。 同年9月10日、第168回国会が開会。安倍は所信表明演説の中で「職責を全うする」という趣旨の決意を表明した。この表明で自身の内閣を「政策実行内閣」と名づけ、スローガン「美しい国」は結びに一度使ったのみであった。 同年9月12日午後2時、「内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞する」と退陣を表明する記者会見を急遽行った。また、理由についてはテロとの戦いを継続する上では自ら辞任するべきと判断したとした。これにより同日予定されていた衆議院本会議の代表質問は中止となった。 翌9月13日、慶應義塾大学病院に緊急入院。検査の結果、胃腸機能異常の所見が見られ、かなりの衰弱状態にあると医師団が発表した。9月20日付の安倍内閣メールマガジンは「国家・国民のためには、今身を引くことが最善と判断した」とメッセージを配信し、終了した。 病院側は、安倍首相の容体は回復してきているものの退院できる状態ではないとした。9月21日は安倍の53歳となる誕生日だが、病院で誕生日を迎えることになった。このように安倍首相は退陣まで公務復帰できなかった状況だが、与謝野官房長官は「首相の判断力に支障はない」と内閣総理大臣臨時代理は置く予定はないという方針をとっていた。20日の官房長官会見では「首相は辞任と病気の関係を説明するべき」としていた。 9月24日17時、慶應義塾大学病院にて記者会見を行い、自身の健康状態及び退陣に至る経緯について「意志を貫くための基礎体力に限界を感じた」と釈明し、政府・与党、国会関係者並びに日本国民に対して「所信表明演説後の辞意表明という最悪のタイミングで国会を停滞させ、多大な迷惑を掛けたことを深くお詫び申し上げたい」と現在の心境を開陳、謝罪した。さらに、首相としての公務に支障があったにもかかわらず臨時代理を置かなかったことについては「法律にのっとって判断した」としたが、これについては、毎日新聞により、政府内でも批判の声があると報じられた。 9月25日、第1次安倍改造内閣最後の閣議に出席し、その後国会へ登院して、衆議院本会議での首班指名選挙にも出席した。第1次安倍改造内閣最後の閣議で、閣僚全員の辞表を取りまとめて内閣総辞職した。安倍は最後の閣議の席上、全閣僚に対して一連の事態に対する謝罪及び閣僚在任に対する謝意を述べた。26日には皇居で行われた福田康夫の首相親任式に出席し、正式に内閣総理大臣を退任し再び病院へと戻った。 安倍は辞任の理由として「テロ特措法の再延長について議論するため民主党の小沢代表との党首会談を打診したが、事実上断られ、このまま自身が首相を続けるより新たな首相のもとで進めた方が良い局面になると判断した」「私が総理であることが障害になっている」などとした(小沢は記者会見で「打診を受けたことは1回もない」と否定し、以降も「意見を変える気はない」と明言)。一方、自身の健康への不安のためとする理由も、与謝野馨(当時、内閣官房長官)が同日中会見で述べている。24日の記者会見では本人も健康問題が辞任の理由の一つであることを認めた。 もともと胃腸に持病を抱えており、辞意表明当日の読売新聞・特別号外でも持病に触れられていた。また、辞意表明前日には記者団から体調不良について聞かれ、風邪をひいた旨を返答している。この「胃腸の持病」について、安倍は辞任後の2011年に掲載された『週刊現代』へのインタビューで、特定疾患である「潰瘍性大腸炎」であったことを明かしている。 臨時国会が開幕し内政・外交共に重要課題が山積している中で、かつ所信表明演説を行って僅か2日後での退陣表明について、野党側は「無責任の極み」であるなどと批判した。与党側でも驚き や批判 の声が上がったほか、地方の自民党幹部からも批判が出た。 9月13日に朝日新聞社が行った緊急世論調査では、70%の国民が「所信表明すぐ後の辞任は無責任」と回答している。 安倍の突然の辞意表明は、日本国外のメディアもトップニュースで「日本の安倍首相がサプライズ辞職」、「プレッシャーに耐えきれなかった」(CNN)などと報じた。欧米諸国の報道でも批判的な意見が多かった。 2007年当時の医師の診断ではカルテ上は「腸炎、または急性腸炎」で、一般に言う「腹痛」であったが、実際には「潰瘍性大腸炎」を患っていた。潰瘍性大腸炎は1973年に特定疾患(2015年からは指定難病)に指定されている。 2007年9月27日、慶應義塾大学病院から仮退院し、東京・富ヶ谷の私邸で自宅療養に入った。 11月13日、新テロ特措法案の採決を行う衆議院本会議に出席し、賛成票を投じた後、福田康夫首相や公明党の太田昭宏代表へ体調が回復したことを伝えた。 2007年末、『産経新聞』のインタビューにて「『美しい国』づくりはまだ始まったばかり」 と述べ、2008年からは活動を本格的に再開し「ジワジワと固まりつつある良質な保守基盤をさらに広げていく」 と答えている。 2008年1月、『文藝春秋』に手記を寄稿。2007年9月の退陣に関し、体調悪化のため所信表明演説で原稿3行分を読み飛ばすミスを犯したことが「このままでは首相の職責を果たすことは不可能と認めざるを得なかった。決定的な要因のひとつだった」と告白するなど、辞任の主な理由は健康問題だったとしている。 2008年3月5日、安倍は勉強会「クールアース50懇話会」を立ち上げ、塩崎恭久や世耕弘成らが入会した。設立総会において、安倍は「北海道洞爺湖サミットを成功させるのは私の責任」 と語り、同懇話会の座長に就任した。3月6日、清和政策研究会(町村派)の総会に出席し、「首相として1年間、美しい国づくりに全力を傾注してきたが、残念ながら力が及ばなかった。私の辞任に伴い、みなさんに風当たりも強かったのではないか。心からおわびを申し上げたい」 と述べて所属議員に謝罪した。 第45回衆議院議員総選挙直後に行われた2009年自由民主党総裁選挙では、麻生太郎とともに、平沼赳夫の自民党への復党と総裁選挙への立候補を画策したが、平沼が難色を示したため実現せず、西村康稔を支援した。 2011年11月27日に行われた大阪府知事選挙・大阪市長選挙のダブル選挙で、大阪維新の会幹事長の松井一郎が大阪府知事に、党代表の橋下徹が大阪市長に、それぞれ初当選した。以後、安倍は維新幹部と頻繁に接触。2012年2月26日に大阪市で開かれた日本教育再生機構主催の集会に松井とともに登壇し、同年4月24日には都内のホテルで橋下、松井と会談した。9月の自民党総裁選に意欲を示す安倍はこのときすでに、次期衆院選における維新の躍進を見越していた。維新とのパイプを強調し、党内の求心力を高める狙いがあった。「保守勢力の結集」を掲げる松井ら幹部も、安倍の接近は維新の党勢拡大にプラスにつながると考えていた。 2012年8月15日、橋下が安倍に新党参加を要請したことがメディアで報じられた。同日、安倍は靖国神社で記者団の取材に応じ、「維新の会の力を生かして行く道を考えたい」と述べた。 同年8月28日、安倍は清和会の前会長の森喜朗の国会内の事務所を訪ね、谷垣禎一総裁の任期満了に伴って行われる自民党総裁選への出馬の意向を伝えた。自らが所属する清和会の会長である町村信孝の出馬が既に取り沙汰されていたこともあり、森からは出馬について慎重な対応を求められていたものの、これを押し切る形での出馬となった。8月31日、石破茂と町村が出馬の意向を固めたことがメディアで報じられた。9月5日、三宅久之、長谷川三千子、金美齢、すぎやまこういちなど保守系の著名人28人が発起人に名を連ねる「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」が発足。同日、同団体は安倍の事務所に赴き、出馬要請をした。9月12日、安倍は党本部で記者会見し、正式に出馬を表明した。 当初は、清和会が分裂選挙を余儀なくされたことや5年前の首相辞任の経緯に対するマイナスイメージから党員人気が高かった石破茂、党内重鎮からの支援を受けての出馬となった石原伸晃の後塵を拝していると見られていた。しかし、麻生派・高村派が早々と安倍支持を表明した事などが追い風となった。9月19日、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」主催による総裁選決起集会が永田町の星陵会館で開かれた。決起集会には12人の国会議員が登壇し、激励の挨拶をした。 9月26日に行われた総裁選挙の1回目の投票で2位に食い込むと、決選投票では、1回目の投票で1位となっていた石破を逆転。石破の89票に対し108票を得て、総裁に選出された。一度辞任した総裁が間を挟んで再選されるのは自民党史上初、決選投票での逆転は1956年12月自由民主党総裁選挙以来となった。 2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、公明党と共に政権与党に復帰。同年12月26日、自民党総裁の安倍が国会での首班指名選挙にて第96代内閣総理大臣に選出され、皇居での親任式にて天皇明仁による任命を受けて、第2次安倍内閣が発足した。1度辞任した内閣総理大臣の再就任は、戦後では吉田茂以来2人目である。ただし、吉田は初任時は大日本帝国憲法下での任命であるため、日本国憲法下では安倍が初となる。 首相再登板後は、デフレ経済を克服するためにインフレターゲットを設定した上で、日本銀行法改正も視野に入れた大胆な金融緩和措置を講じ、多年に渡って続くデフレからの脱却に強い意欲を示した。大胆な金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略を三本の矢と称した一連の経済対策は、アベノミクスと称される。「アベノミクス」は2013年新語・流行語大賞のトップテンに入賞し、安倍が受賞した。 また自身の第98代首相在任中(第4次安倍第1次改造内閣)の2019年(平成31年)4月30日から同年(令和元年)5月1日にかけて、天皇明仁の退位(譲位)による皇位継承(天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行による明仁から徳仁への皇位継承)が行われ、徳仁(今上天皇)の新天皇即位に合わせて「平成」から新元号「令和」への改元が行われた(退位後の明仁は、上皇となる)。そして、平成の天皇の退位の礼および今上天皇の即位の礼といった皇位継承による一連の皇室の儀式に携わった。 これにより安倍は、明治から大正への改元時の西園寺公望(第2次西園寺内閣)、大正から昭和への改元時の若槻禮次郎(第1次若槻内閣)、昭和から平成への改元時の竹下登(竹下改造内閣)に続く憲政史上4人目の皇位継承に伴う改元時の首相となった。 第1次安倍政権時に大敗を喫した2007年の第21回参議院議員通常選挙以降、参議院では政権与党が過半数を下回るねじれ国会が続いていた(民主党への政権交代となった2009年の第45回衆議院議員総選挙から2010年の第22回参議院議員通常選挙までの期間を除く)。2013年7月21日の第23回参議院議員通常選挙で、政権与党の自民・公明両党が合わせて過半数の議席を獲得し、「ねじれ」は解消した。 安倍は2012年12月の2度目の首相就任後、2020年夏季オリンピックの東京招致委員会の最高顧問に就任した。 2013年9月7日、総会で安倍は東京のプレゼンターの1人として演説を行い、「フクシマ(福島第一原子力発電所事故)について、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」と発言。演説後の質疑応答では総会直前に明らかとなった福島第一原子力発電所の汚染水漏れ に関する質問が出た。これに対し安倍は「結論から言うと、まったく問題ない。(ニュースの)ヘッドラインではなく事実をみてほしい。汚染水による影響は福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされている」、「健康問題については、今までも現在も将来も、まったく問題ない。完全に問題のないものにするために、抜本解決に向けたプログラムを私が責任をもって決定し、すでに着手している」と答え、「子供たちの将来や日本にやってくるアスリートに対する責任を完全に果たしていく」と述べた。しかし、安倍の発言が東電の公表している状況とは異なっていることなどが指摘され、国会でも追及を受けると、安倍はこれに対して「事態は掌握しているし、対応はしている、という意味でコントロールと発言した」と反論している。 自身の2度目の首相就任から約2年後に行われた2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙では、自民党は公示前より4議席減らしたものの単独で絶対安定多数の266を超える291議席を獲得した。連立与党の公明党(35議席)と合わせて326議席(公示前と増減なし)を獲得し、自公与党で議席数の3分の2以上を維持するという結果となった。 これを受けて2014年12月24日、安倍は第97代首相に再任して第3次安倍内閣(自公連立政権)が成立した。 任期満了に伴う2016年7月10日の第24回参議院議員通常選挙では、北海道・東北地方・信越地方・沖縄県で苦戦したものの、前回を上回る議席を獲得した。安倍はこの結果を受けて、「アベノミクスが信任を得たもの」と主張した。 2017年7月2日の東京都議会選挙では、自民党の衆議院議員を退職して前年の東京都知事選挙で当選・就任した小池百合子東京都知事が設立した地域政党「都民ファーストの会」の勢いに押される形で57議席から23議席に減らし、2009年の都議選時の38議席にも満たない過去最低の議席数に留まった。 これについて、安倍は「大変厳しい都民の審判が下された。自民党に対する厳しい叱咤と深刻に受け止め、深く反省しなければいけない」と述べた。敗因について、「政権発足して5年近く経過し、安倍政権に緩みがあるのではないかという厳しい批判があったのだろう。真摯に受け止めなければいけない。政権を奪還したときの初心に立ち返って全力を傾ける決意だ」と説明した。 平成時代最後の国政選挙かつ自身の首相在任下で最後の衆院選となった2017年(平成29年)10月22日の第48回衆議院議員総選挙では、選挙前と同じ284議席を獲得して安倍総裁率いる自民党が大勝した。小選挙区で218議席、比例代表で66議席を獲得した。小選挙区の候補者は、北関東ブロック、東京ブロック、南関東ブロック、近畿ブロック、中国ブロックで比例復活も含めて全員当選した。小選挙区の候補者3名が無所属で当選後、公示日に遡って自民党公認となった。 これを受けて2017年11月1日、安倍は第98代首相に再任して第4次安倍内閣(自公連立政権)が成立した。 1968年、明治維新100年・板垣退助50回忌(満49年目の仏式の法要)に際し、現在の自由民主党の前身にあたる自由党の創始者・板垣退助を顕彰するため、当時の自民党総裁・佐藤栄作が名誉総裁となり、板垣退助先生顕彰会が組織され、佐藤栄作が板垣の言葉「板垣死すとも自由は死せず」を揮毫し板垣退助の曾孫・板垣退太郎に贈った。板垣家は、この揮毫を板垣退助先生顕彰会を通して高知県産の石に刻み、東京都品川区の板垣墓前に石碑として建立した。それから50年を経た2018年は、明治維新150年・板垣退助百回忌(満99年目の仏式の法要)を迎える年となるため、板垣退助先生顕彰会は、板垣の位牌を新調して東京・高知の両菩提寺に奉納することを決議した。そのため、2018年時点で、自民党の総裁であった安倍晋三は、50年前の佐藤栄作の前例に倣い「板垣死すとも自由は死せず」を揮毫して板垣退助の玄孫・髙岡功太郎に贈った。髙岡功太郎は一般社団法人板垣退助先生顕彰会を通じて、この揮毫を位牌の裏に彫り、東京都と高知県の菩提寺に奉納した。(東京都の菩提寺は高源院、高知県の菩提寺は高野寺である。東京都世田谷区の菩提寺は、板垣退助の埋葬地であり、高知県高知市の菩提寺は、板垣退助の誕生地に建立された寺院である)このことがきっかけとなり、安倍晋三元首相の国葬の日には、高知県の板垣退助菩提寺(板垣退助生誕地)高野寺は、「安倍元総理ゆかりの寺」として「安倍晋三元首相国葬遙拝所」と献花台を設置、250名の弔問客が訪れた。 2015年自民党総裁選で無投票当選を果たした安倍は、自民党総裁の任期満了となった3年後の2018年9月20日に行われた自民党総裁選において、次期首相を目指して2008年と2012年に続く3回目の出馬となった石破茂と再選をかけて争った。結果は石破(254票)に大差をつけて、安倍(553票)が当選して首相続投となった。 2018年11月23日、フランスの首都パリで行われたBIE総会において大阪府が2025年日本国際博覧会の開催地に選ばれた。安倍はビデオで、「大阪、関西、日本中の人たちが皆さんをお迎えし、一緒に活動することを楽しみにしている。成功は約束されている」と大阪招致をアピールした。 開催決定後、世耕弘成を「国際博覧会担当大臣」に任命した。 令和時代最初の国政選挙かつ自身の首相在任下で最後の国政選挙となった2019年(令和元年)7月21日の第25回参議院議員通常選挙では、自民党は57議席を獲得した。改選前から9議席減となり、非改選の議席を含めた単独過半数は維持できなかった。 2018年(平成30年)10月2日に内閣改造を行い、第4次安倍第1次改造内閣が発足(平成最後の内閣改造)。これにより通算組閣回数は10回となり、それまで最多だった大叔父の佐藤栄作(9回)を抜き歴代最多となった。さらに2019年(令和元年)9月11日にも内閣改造を行い、第4次安倍第2次改造内閣が発足(令和最初の内閣改造)。これにより、通算組閣回数は11回(歴代最多)となった。 2019年11月20日、首相通算在職日数が2887日となり、それまで最長だった桂太郎(2886日)を抜き歴代最長となり、さらに2020年8月24日、連続在職日数が2799日となり、それまで最長だった大叔父の佐藤栄作(2798日)を抜き歴代最長となった。 2020年8月28日、「安倍首相が辞任する意向を固めた」と複数のメディアが報じ、その後に首相官邸で行われた臨時閣議において、辞任する意向であることを表明した。 その後、首相官邸で行われた会見で「持病の潰瘍性大腸炎が再発し、病気と治療を抱え、体力が万全でない苦痛の中で大切な政治判断を誤ることがあってはならない。国民の皆様の負託に自信を持って応えられる状態でなくなった以上、総理大臣の地位にあり続けるべきではない」として正式に辞意を表明し、「様々な政策が実現途上にあり、コロナ禍の中、職を辞することについて、国民の皆様に、心より、心より、お詫び申し上げる」と謝罪した。一方で、次の首相が任命されるまでの間、引き続き職務にあたる考えを示した。 この辞意表明を受けて、自民党は急遽総裁選を行うこととなったが、総裁選の時期や形式に関する対応は二階俊博幹事長に一任された。二階は、両院議員総会で総裁選を行い党員投票は省略する方向で調整する考えを示した。安倍の後継首相を決める2020年自民党総裁選には、石破茂(2008年・2012年・2018年に続く4回目)、菅義偉内閣官房長官(初)、岸田文雄政務調査会長(初)の3名が立候補した。2020年9月14日の自民党総裁選挙において、石破(68票)と岸田(89票)に圧倒的大差をつけて菅(377票)が当選を果たし、第26代総裁に選出された。 2020年9月16日午前の閣議において、第4次安倍第2次改造内閣は総辞職した。その後、第26代自由民主党総裁に就任した菅義偉内閣官房長官が国会の内閣総理大臣指名選挙、皇居での天皇徳仁による親任式を経て第99代内閣総理大臣に就任し菅義偉内閣が成立したことを受けて、安倍は首相を退任し約7年8カ月に及んだ長期政権は幕を閉じた。連続在職日数2822日・通算在職日数3188日と、いずれも日本の憲政史上において歴代最長を記録した。 二度目の首相辞任から3日後の2020年9月19日、首相在任中は1回限りであった靖国神社への参拝を7年ぶりに行う。翌月19日にも参拝した。 11月16日、来日中のトーマス・バッハIOC会長が安倍に対して、国際オリンピック委員会(IOC)の功労章であるオリンピック・オーダー(英語版)の金章を贈った。 2021年1月25日、インド政府より「パドマ・ビブシャン」(Padma Vibhushan)を授与された。 3月22日、世界の民族の平和的共存などに貢献した政治家を表彰する米国の財団「Appeal of Conscience Foundation」から「世界の政治家」に選出された。 4月12日、「脱炭素社会実現と国力維持・向上のための最新型原子力リプレース推進議員連盟」の顧問に就任。20日、党憲法改正推進本部の最高顧問に就任する(高村正彦は留任)。 6月25日発売の『月刊Hanada』2021年8月号において桜井よしこと対談。桜井が東京オリンピックのコロナ対策について「野党が五輪を政治利用している」と批判すると、それを受けて「反日的な人が五輪に反対している」と述べ、オリンピック開催の意義を強調した。 7月21日、2日後に開催される東京オリンピックの開会式に大会組織委員会の名誉最高顧問として出席予定だったが、無観客となったことなどを受け、出席を見送った。 9月9日、菅義偉の後任である第100代首相を決める自民党総裁選(9月29日投開票)では河野太郎規制改革担当大臣、岸田文雄前政務調査会長、高市早苗前総務大臣、野田聖子幹事長代行の4名が立候補する中、「安倍は高市早苗支持」と報じられ、自身のTwitterなどでも初の女性首相誕生を目指して高市支持を表明していた。しかし結果は岸田が当選し、高市は政務調査会長に抜擢された。 10月19日、自らの公式YouTubeチャンネル「あべ晋三チャンネル」を開設。 10月31日、自身の二度目の首相辞任後で初となる衆院選となった第49回衆議院議員総選挙で10選。 11月11日、所属する細田派会長の細田博之が第78代衆議院議長に就任したため派閥に復帰し、後任会長に就任した。「安倍派」となった自民党内最大派閥の会長就任後、活発に活動・発信を行い、憲法改正、積極財政、防衛力強化などを訴えた。 2022年(令和4年)7月8日午前11時31分ごろ、第26回参議院議員通常選挙のための街頭演説を奈良県奈良市の近畿日本鉄道大和西大寺駅前付近にて行っていた際に、手製銃で背後から2発撃たれ、その内2発目が命中し心肺停止状態になる。銃撃した当時41歳の奈良市在住の男はその場で奈良県奈良西警察署(当時の所管警察署。事件現場の管轄は2024年3月28日より奈良警察署に移管)の署員や警察官によって取り押さえられ、11時32分に殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。その後、安倍は奈良県橿原市の奈良県立医科大学附属病院に搬送され蘇生措置を受けたが、17時3分、銃撃による失血死のため死亡が確認された。67歳没。 参院選投開票から一夜が明けた7月11日、政府(第2次岸田内閣)は安倍を従一位に叙し、大勲位菊花章頸飾と大勲位菊花大綬章を授与することを決定。授与は、死亡日の同月8日付で行われた。 葬儀は妻・昭恵を喪主とし、関係者による通夜が同月11日、告別式は同月12日に東京都港区の増上寺で執り行われ、その後桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。戒名は「紫雲院殿政譽清浄晋寿大居士」。 逮捕された男が銃撃の動機について「特定宗教団体に対する恨み」と話し、それが世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)であることが報じられると、安倍と教団の関係性に注目が集まった。 死後慰霊祭・追悼行事7月8日〜7月18日、奈良県大和西大寺駅前の事件現場近くに遺影と献花台を設置。10日間で10万人以上が献花に訪れた。世界各国のメディアの取材に対し、板垣退助の玄孫・髙岡功太郎は、「歴代最長政権とは、客観的な尺度で申し上げると、日本の憲政史上、最も長く国民から支持され、国民から愛された首相と言える」と語り「憲法改正に真剣に取り組まれたお姿は、我々国民の希望の光であった」と評価した。さらに明治維新以降連綿と培われた日本の議会政治の歴史を述べ「安倍先生の国を思う精神がこの様な、言論を封殺する暴力によって失われることがあってはならない」と述べた。 7月14日、岸田文雄首相は記者会見で、同年の秋に安倍の国葬を行う考えを明らかにした。 7月17日、岐阜公園の板垣退助銅像前で、板垣退助岐阜遭難140年と安倍晋三元総理銃撃事件を悼み、祝詞奏上、玉串拝礼を斎行。板垣退助の玄孫・髙岡功太郎らも参列し献花と黙祷が行われた。髙岡はメディアの取材に対し「国葬云々の議論が出ているが、今、日本は国難の渦中にある。特に国防と安定的皇位継承に関しては、日本の根幹に関わる最重要課題。安倍先生は、歴代のいかなる首相よりも積極的に憲法改正に取り組んでこられた。その功績を広く知って貰えば、答えは言わずとも明らかではないか」と語った。 7月22日、政府は、日本武道館で9月27日に国葬を行うことを閣議決定した。岸田の国葬実施の表明を受け、山口県知事の村岡嗣政は7月15日、記者団の取材に応じ、安倍の県民葬を実施する考えを示した。8月3日、妻の昭恵は山口県庁を訪れ、村岡と面会。昭恵の了承が得られたため、村岡は同日、下関市にある県国際総合センター「海峡メッセ下関」で県民葬を10月15日に行う方針を改めて述べた。 7月23日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)においては、創始者の文鮮明の没後10周年の特別な供養期間中にあたるこの日、教団は「安倍元首相のご冥福と日本が一つになることを祈る」ことを特別供養に加えるよう信者に指示した。8月12日、教団はソウルで国際会議「サミット2022&リーダーシップカンファレンス」を開催。同会議の開会式で、教団の実権を握る世界宣教本部長の尹鍈鎬は「故人を追慕する時間をもちたい」と述べ、追悼献花式を行った。ドナルド・トランプ前米国大統領は10分にわたるビデオメッセージを送り、「安倍元首相は良き友人であり、偉大な人物であった。人々は彼を懐かしむだろう。深い哀悼の意を表する」と述べた。また、教団は9月7日、韓国の新聞13紙に「声明文」と題した全面広告を掲載。「不意の逝去を迎えた安倍晋三元首相に対して深い哀悼の意を表します」「安倍元首相の崇高なる犠牲を家庭連合は絶対に忘れません」と述べ、改めて安倍の死を悼んだ。 8月29日、自民党の2つの議員連盟、「保守団結の会」と「産業や伝統文化等への麻の活用に関する勉強会」は党本部でそれぞれ会合を開き、安倍を「永久顧問」に選任した。 9月15日、山口県の赤間神宮で、母の洋子が会長を務める同神宮崇敬会の会員などによって追悼祭が斎行される。 9月27日、日本武道館にて故安倍晋三国葬儀が実施される。戦後の日本における国葬の実施は、天皇・皇后を除いて吉田茂以来2人目で、戦前を含む内閣総理大臣経験者としては6人目となった。 10月25日、第2次安倍政権の前任者であった野田佳彦元首相(立憲民主党・衆議院議員)が第210回国会において追悼演説を行った。当初は同年8月3日の第209回国会で自民党前幹事長の甘利明により行われる予定で調整されていたが、野党側からの「(故人が首相経験者の場合は野党党首クラスの議員が演説を行う)慣例に反する」ことなどを理由に反発の声が出ていたことから一旦白紙となり、国葬を終えて同年10月7日に自民党の高木毅、立憲民主党の安住淳両国会対策委員長の会談で、野田の演説に合意した経緯がある。 11月15日、トランプ前大統領はフロリダ州パームビーチの邸宅で演説し、2024年大統領選に立候補することを表明。その際、安倍に言及し「私の親友で、日本をこよなく愛した偉大な人物だった」と述べた。 3月26日、大阪護國神社において、一般社団法人板垣退助先生顕彰会(代表理事・髙岡功太郎)を施主として、『桜の季節に安倍晋三元総理を偲ぶ慰霊祭』ならびに『安倍晋三元総理を偲び桜を観る会』が斎行され、大楠公の末裔・楠正浩をはじめ、全国犯罪被害者家族代表として草刈健太郎、紺綬褒章受勲者、自民党現職議員、予備自衛官、舞台女優、テレビ局関係者ら各界名士が参列し玉串を捧げた。同法人は昭和43年(1968年)、自民党の起源となる板垣退助を顕彰する目的で、佐藤栄作が名誉総裁となり創立された組織。 4月23日投開票の衆議院山口4区補欠選挙においては妻・昭恵が擁立を主導した元下関市議会議員の吉田真次が当選した。 6月12日、「桜の会」の前夜祭の行われた縁のある東京都千代田区のホテルニューオータニにおいて、神道政治連盟主催による慰霊祭が斎行され、中曽根弘文、打田文博らが参列し玉串を捧げた。 7月1日、奈良県吉野の世界遺産「吉水神社」の名誉宮司・佐藤素心によって「安倍神像神社」が、長野県下伊那郡阿南町東條に建立された。佐藤は山口県出身で、大阪府警に奉職し、退官後に神職として吉水神社に奉職した人物。同氏の著書『わが祖国日本への戀文』を出版の際、安倍が巻頭言を寄せている。 同日、奈良県奈良市の三笠靈苑において、安倍晋三元総理を偲ぶ「不動心」と書かれた慰霊碑が、「安倍晋三元内閣総理大臣感謝と継承の会奈良」会長・佐藤啓参議院議員らによって建立された。除幕式には、同会顧問・高市早苗経済安全保障担当相ら関係者約40人が参列し献花を行った。慰霊碑は、吉田松陰著の『留魂録』にあやかり「 7月8日、東京芝の増上寺において一周忌法要が営まれた。 同日、明治記念館において『世界に咲き誇れ日本ー安倍元総理の志を継承する集い』が開催された。 同日、大阪護國神社において『安倍晋三元総理追悼一年祭』が斎行され、前衆議院議員・中山泰秀、大西宏幸らが参列し玉串を奉奠した。主催者の板垣退助玄孫・髙岡功太郎は「政治家として国に殉じられました安倍先生の 7月23日午前、山口県長門市で納骨式が行われ妻の昭恵や支援者ら約120人が参列した。午後には油谷文化会館「ラポールゆや」で、市民らにも参加を呼び掛けた偲ぶ会があり、約300人が献花などをして追悼した。偲ぶ会では発起人を代表し、安倍の地盤を継いだ吉田真次が「今日からこの長門の地で、私たちや日本のことを末永く見守ってくださると思う」と挨拶した。 10月3日、コソボの首都プリシュティナで、安倍の名前を付けた「安倍晋三公園」の開園式があった。水内龍太駐コソボ大使が出席、「公園で育まれる温かな交流により両国の絆がより一層深く結ばれていくことを夫も期待していると思います」とした昭恵によるメッセージを代読した。 献歌2023年3月26日、大阪護國神社『桜の季節に安倍晋三元総理を偲ぶ慰霊祭』にて神前に奏上。 2023年7月8日、大阪護國神社『安倍晋三元総理追悼一年祭』にて神前に奏上。 また同日、日本青年協議会も歌を詠み、安倍元総理を偲んだ。 安倍晋三記念公園2023年10月3日、安倍晋三元総理の功績を讃え、コソボの首都・プリシュティナに「安倍晋三記念公園」が作られた。 その他日本在住の中国人フリージャーナリスト曾穎氏が、出演していた番組の生放送中安倍晋三氏の死を悼んだ事を理由に中国人視聴者から批判を受け、自殺を図っている。“China reporter cyberbullied over Abe tears in reported suicide attempt”. South China Morning Post (2022年7月22日). 2023年11月13日閲覧。 政見・政策皇室国家観地方自治「岩盤規制」改革の突破口として、産業の国際競争力を強化するとともに、国際的な経済活動の拠点の形成を促進する観点から、国が定めた国家戦略特別区域において、規制改革などの施策を総合的かつ集中的に推進する特区と位置付けている。 実情に合わなくなった国の規制が、民間企業の経済活動や地方公共団体の事業を妨げている場合がある。この弊害を地域を限定して改革することで構造改革を進め、地域を活性化させることを目的とした特区として平成14年度に構造改革特区が創設された。地域の自然的、経済的、社会的諸条件などを活かした地域活性化を実現するための妨げとなる規制を取り除くツールとして、構造改革特区制度の活用を推奨している。 外国人政策2005年に都内の専修大学講演の中で「中国からの公費留学生の数がまだまだ少ない。思い切って増やして、反日にならずに日本を知ってもらうよう、我々も努力をしていかねばならない」との見解を示し、以後、アジア・ゲートウェイ構想において、公費留学生受け入れの大幅拡充、在留資格制度見直し、留学生の就職を促進している。 第2次安倍内閣時代には、アベノミクスの中に「30万人計画」を盛り込み、留学生の受け入れを促進した。本来、一定の経済力が求められる留学ビザ発給の審査を緩和することで、ベトナムなどアジア新興国から受け入れ、12年末には18万919人だった留学は、7年後の19年末までに34万5791人へと2倍近くにもなった。 2014年3月11日に、安倍内閣は、高度人材と認定された外国人が永住権を取得するために必要な在留期間を3年に短縮、親や家事使用人の帯同も認められるようにする出入国管理及び難民認定法改正案を閣議決定する。安倍は、女性の社会進出推進の観点から、家事や介護の分野での移民受け入れ促進を指示している。 少子化問題第2次政権時代の2016年には、人口1億人を維持するための「ニッポン一億総活躍プラン」を策定し、2025年に出生率を1.8にする目標を発表した。2019年からは「全世代型社会保障」を掲げ、少子高齢化対策に取り組んだ。「保育園落ちた日本死ね!!!」に代表されるように問題となっていた待機児童問題を解消するため保育所を増加させ、2019年10月からは幼児教育無償化が始まり、2020年4月からは低所得世帯の学生を中心に大学や高校の授業料などを実質的に無償化する新制度が始まった。 しかしながら、2005年から緩やかな上昇傾向にあった合計特殊出生率は、2016年に再び低下に転じ、出生数は統計開始以降初の100万人割れを起こした。出生数減は加速し、2019年の出生数が初めて90万人を割った。これを受け、「大変な事態であり、国難とも言える状況だ」と指摘し、少子化対策担当大臣の衛藤晟一に対し、政府が掲げる「希望出生率1.8」の達成に向けて、あらゆる施策を動員して対策を進めるよう指示した。 捕鯨問題2018年12月26日に30年ぶりの本格的な商業捕鯨の解禁や、日本の異例の国際機関脱退である国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退も決定した際は「近代捕鯨発祥の地」山口県下関市を地盤に持つ安倍と「古式捕鯨発祥の地」和歌山県太地町を地盤に持つ二階俊博幹事長の意向が働いたとされる。 憲法改正総裁選では施行60周年を迎えた日本国憲法を改正すると宣言し、総理就任後の国会で、「現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、60年近くを経て現実にそぐわないものとなっているので、21世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を憲法として書き上げていくことが必要と考えている」と述べた。また「私は、国会議員になった当初から改憲論者だが、3つの点で憲法を改正すべきだと主張してきた。第一の理由だが、現行憲法は占領軍の手によって、憲法の専門家ではない人たちによって2週間そこそこで書き上げられた、と言われており、やはり国の基本法である限り、制定過程にもこだわらざるを得ない」と述べた。現行憲法の前文については「敗戦国のいじましい詫び証文」「みっともない」と主張している。2013年3月29日の参院予算委員会、民主・小西洋之参院議員の「芦部信喜さんという憲法学者ご存じですか」という質問に対して「私は存じ上げておりません」と回答した。 2017年5月3日、民間団体のシンポジウムへのビデオメッセージで、新憲法施行年を2020年としたいと表明した。改憲案の具体的内容として、現憲法の9条1項及び2項を堅持した上で自衛隊の根拠規定の追加や、高等教育を含む教育無償化への意向を表明した。改憲への期限を明言した安倍の発言は海外でも報道された。2017年9月の衆議院選挙において、安倍の憲法に自衛隊を明記する公約は、選挙協力する公明党が困惑し、憲法学者らの集会では集団的自衛権の行使を可能としたことに触れ「憲法を改正する資格はない」「総理大臣が最も憲法を順守していない」と述べられた。2020年5月3日、ビデオメッセージで新型コロナウィルスの感染拡大を受け、憲法改正で緊急事態条項の創設の必要性を訴えた。 外交第1次安倍内閣においては、「価値観外交」と「主張する外交」を外交の基本路線とした。このうち、「価値観外交」は、自由、民主主義、基本的人権、法の支配という普遍的な価値観を共有する国の輪を世界、アジアに拡大して行くことを目指す外交戦略である が、第1次安倍内閣で外務大臣を務めた麻生太郎が、「自由と繁栄の弧」として初めて提唱したものである。自由と繁栄の弧は、民主主義や法の支配などの価値について、日本が非欧米圏における先駆者としての地位にあることに着目した上、北東アジアから、東南アジアを経て、インド、中東、中央アジア、中・東欧にかけての「弧」上にある国との間で、日本がリーダーシップをとってこれら価値を共有し、「弧」地域全体の繁栄に貢献する、その結果として経済や安全保障などで日本も国益を享受するという構想とされる。 第1次安倍内閣当時、「自由と繁栄の弧」には、民主主義や法の支配などの価値を共有しているとはいえない中国の反発を招くとの批判もあったが、就任後初の外遊先に中国を選ぶなど安倍は原則論と現実的対応のバランスを保つことに努めてきており、日本の国際的存在感の低下、尖閣諸島問題に象徴される日中間の力関係の変化という新たな国際情勢のもと、中国との正面衝突を回避しつつ、アジアにおけるパワーバランスを適正に保つ外交政策であるという評価もされている。 2012年12月26日に発足した第2次安倍内閣も、麻生太郎を副総理兼財務相・金融担当相としたほか、谷内正太郎を内閣官房参与としており、改めて自由と繁栄の弧を基本とした外交政策を打ち出すと指摘されている、安倍が、平成24年12月28日にベトナム、インドネシア、オーストラリア、インドなどの首脳と相次いで電話会談を行ったのもその表れと指摘されている。またプラハに本拠を置く国際NPO団体「PROJECT SYNDICATE」のウェブサイトに12月27日付けで掲載された安倍の英語論文では、「アジアの民主主義セキュリティダイアモンド構想」を世界に向けて主張している。 第2次安倍内閣最初の閣僚外遊は、民政移管を進めていたミャンマーへの麻生太郎副総理兼財務相・金融相の訪問で、麻生は「閣僚の最初の訪問先がミャンマーとなったこと自体、政権としてのメッセージである。」と述べている。安倍も、就任後最初の外遊先として、2013年1月16日から18日にかけ、まずベトナムを訪れ、次にタイ、インドネシアを訪問。アジア太平洋地域の戦略環境が変化する中で、地域の平和と繁栄を確保していくため、自由、民主主義、基本的人権、法の支配など普遍的価値の実現と経済連携ネットワークを通じた繁栄を目指し、日本はASEANの対等なパートナーとして共に歩んでいく旨のメッセージを各国首脳に伝達した上、対ASEAN外交5原則を発表した。隣国である中韓露とも融和的な外交を築き、経済面では中国が主導する地域的な包括的経済連携協定(RCEP)の締約国になり、ロシアとは経済・民生協力プランに合意した。日中韓自由貿易協定の交渉も進めた。また、米国やEUとも経済協定を結んだ。 道傳愛子は、第2次安倍内閣における「価値観外交」の特色は、中国やインドの間という地政学的優位性が高いインドシナ半島を抱え、経済や安全保障での重要性も高まる東南アジアを重視する点であると述べている。また、日本の価値観外交においては、港や道路などハードのインフラの整備だけでなく、投資環境整備にもつながる法整備支援や、人材育成といったソフトのインフラ整備への協力を、日本の役割として位置付けることが重要と主張している。 第二次安倍政権以降、北朝鮮から未認定の者を含む拉致被害者2名の生存や近況などに関する情報が幾度か伝えられ、マスコミで北朝鮮から情報連絡があったことが報じられることもあったが、国会質問に対し安倍首相(当時)は、今後の捜査・調査に支障を及ぼす虞れや関係者のプライバシー侵害の虞れがあるとして、内容だけでなく北朝鮮から情報連絡があったかどうかも含めて、一切の回答を拒否していた。結局、菅政権となった2021年8月に当時の古屋圭司拉致担当大臣が両名の生存情報と当時の日本政府がそれを受け取らなかったことを認めるまで、安倍政権下ではこのことが明らかにされることはなかった。 安全保障日本版「国家安全保障会議」(NSC)構想を推進した。総理就任以前から憲法改正に関しては集団的自衛権行使の是認を打ち出してきた。2007年には安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会を開催、集団的自衛権の行使は日本国憲法第9条に反しないとの報告書を得て、宮崎礼壹内閣法制局長官に対し、解釈変更の指示を行ったが、抵抗を受け頓挫した。第2次安倍内閣では、集団的自衛権行使是認派の小松一郎フランス大使を2013年8月8日に内閣法制局長官に任命した。しかし、体調不良のため小松は退任し、代わって内閣法制局次長であった横畠裕介を2014年5月16日に内閣法制局長官に任命した。横畠は、2016年3月18日の参議院予算委員会において、「我が国を防衛するための必要最小限度に限られる」としながらも「憲法上全てのあらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されていると考えていない」と答弁している。 2006年11月14日、安倍内閣は閣議で、核保有についての鈴木宗男の質問主意書 に対して、「政府としては、非核三原則の見直しを議論することは考えていない」と強調しながらも、「核兵器であっても、自衛のための必要最小限度にとどまれば、保有は必ずしも憲法の禁止するところではない」との答弁書 を出した。 自衛隊について、「政府の立場で言えば合憲であるという立場」と述べつつ、「憲法学者の7、8割が違憲である」「違憲であることが教科書にも記述があるのは事実」と説明し、憲法9条「3項に自衛隊を明記」することで、憲法上の自衛隊の位置付けの議論を促す答弁している。「新規隊員募集に対し、都道府県の6割以上が協力を拒否している」と述べ、憲法への自衛隊明記の必要性を述べた。 2012年12月から積極的平和主義を標榜しており、その政策内容は消極的平和であるとの批判もあるが、自身は積極的平和の考え方と重なる部分が多いと述べている。 第2次安倍内閣においては武器輸出三原則の撤廃を含めた根本的な見直しに着手。2013年10月9日、政府の有識者会議「安全保障と防衛力に関する懇談会」において、装備品の輸出を事実上全面禁止してきた武器輸出三原則の抜本見直しを盛り込む方針を固めた。 2014年3月、武器輸出三原則に代わる「防衛装備移転三原則」の原案が与党のプロジェクトチームに示され、同年4月1日に武器輸出三原則に代わる「防衛装備移転三原則」が閣議決定された。 2015年11月1日、長崎で開催された第61回パグウォッシュ会議世界大会へ「非核三原則を堅持しつつ、「核兵器のない世界」の実現に向けて、国際社会における核軍縮の取組を主導していく決意」を表明するメッセージを寄せた。 2016年11月15日、安全保障関連法で新たに認められた「駆け付け警護」を、南スーダンで国連平和維持活動(PKO)を行っている陸上自衛隊の任務に加える実施計画を閣議決定した。安倍は、「自衛隊の安全を確保し、意義のある活動が困難であると判断する場合は撤収を躊躇しない」と述べた。一方で「危険の伴う活動だが、自衛隊にしかできない責務をしっかりと果たすことができる」と述べた。 2017年3月17日、情報収集衛星「レーダー5号機」の打ち上げ成功について「情報収集衛星を最大限活用し、今後とも日本の安全保障と危機管理に万全を期す」とのコメントを発表した。 2017年8月9日、長崎平和祈念式典において、真に「核兵器のない世界」を実現するためには核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要であり、日本は非核三原則を堅持し、双方に働き掛けを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意を表明した。 2013年12月25日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設に向け、沖縄県知事の仲井真弘多と会談し、日米地位協定に関し環境面を補足する協定を締結するための日米協議開始などの基地負担軽減策を示した。仲井真は「驚くべき立派な内容だ」と評価して移設先である名護市辺野古沖の埋め立て申請を承認する方針を固め、同年12月27日午前にこの申請を承認した。2018年10月1日、共産党、社民党や労組などでつくる「オール沖縄」が推す玉城デニーが沖縄県知事に当選したことについて「結果は政府として真摯に受け止め、沖縄の振興、基地負担軽減に努めていく」と述べた。2019年2月25日、米軍普天間飛行場の辺野古移設を問う県民投票において、「反対」が有効投票の7割超となったことに対し「結果を真摯に受け止め、基地負担軽減に全力で取り組む」と述べた。 なお、この件に関連して安倍は元参院議員・平野貞夫らにより2019年1月28日、「内乱罪を既遂した首謀者」として刑事告発されている。 尖閣諸島問題「歴史と国際法によって、尖閣諸島(中国名:釣魚島)が日本の領土であり、中国と交渉の余地はない」と明言しており、「日本と中国の間が異なる見解を有している」ことを認めている。 2013年4月に台湾との間で尖閣諸島沖の漁業範囲に関する取り決めを行った。この協定は官邸の独断で成立が決定されたとして、水産庁や外務省などと事前協議を行っていた地元の漁協は強く反発し、「いずれこの漁業範囲から日本船が締め出され中国船や台湾船しかいなくなる」、と強い懸念を出している。実際に台湾漁船は当協定の成立が決定すると、協定の発行前から認められる予定の漁業範囲さえ超えた範囲で操業を開始した。 教育2006年12月に教育基本法を改正し、教育の目標の一つとして愛国心という言葉を盛り込んだ他、義務教育9年の規定や男女共学の項を削除した。内閣府直属の「教育再生会議」を立ち上げ、2007年6月には教員免許更新制を導入した。その他、学校週五日制の見直しや大学進学の条件として社会奉仕活動の義務化を提唱した。その他の政策としては、教育バウチャー制度の導入を検討、「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト」の座長を務める。2005年5月26日に開催された「過激な性教育・ジェンダーフリー教育を考えるシンポジウム」で自民党プロジェクトチーム座長を務めた安倍は、「男女の性別による差別は決して許されるものではない」としながらも、ジェンダーフリーは、家族の破壊をもたらす概念であり、明らかに間違いと主張した。ジェンダーフリーの言葉の間違いについては、党内や政府内でも見解の一致が見られるとし、男女共同参画社会基本法の検討の必要性を述べた。 改正後の教育基本法については、「一見、立派なことが書いてあるが、家族・郷土・歴史・伝統・文化・国など、私たちが大切にしなければいけないものが抜け落ちている。日本人として生まれたことに誇りを持つためには、そうしたことを子どもたちに教えていくことが大切ではないか」「“世界から尊敬されている”ということも、誇りが持てるということにとって大切だ。世界に貢献していく際に“日本はこういう理想を持っており、こういう世界を実現していきたい”と述べていく必要がある」と述べている。これと関連して、教科書検定においてパン屋さんを使った題材について伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度(愛国心)に照らして不適切という検定意見がついた。これに対して識者は薄っぺらな愛国心だと指摘した。しかし、政府は「『パン屋』の記述に特定して検定意見を付した事実はない」とし、具体的には「まちやくにのすきなところは」との設問を追加するなど、国や郷土を具体的に盛り込む修正を行い合格した。その過程で、散歩道にあったパン屋さんは消え、自分の住む町や季節ごとの和菓子を作る日本のお菓子屋さんをもっと知りたくなるストーリーとなった。 また、親学を推進する。親学推進議員連盟の会長をつとめ、2012年の「山口県親学推進セミナー」では「戦後の教育の問題点は家庭教育がスポッと落ちてしまい、その存在が希薄化されてきたことにある。家庭教育支援の思索を推進していくように政府は勤めていかなければならない」と述べている。 第二次政権時においては、教育再生実行会議の第一次提言や2013年3月の施政方針演説より、 6・3・3・4制の見直しによる「平成の学制大改革」を始める 道徳の教科化 いじめ対策の法制化 などが主たる教育政策である。 第一次政権時の教育政策については教育再生会議、第二次政権時については教育再生実行会議も参考のこと。 2014年11月21日、2年間で20万人、5年間で40万人分の保育の受け皿を整備し待機児童を無くすと述べている。 2017年5月24日、教育再生実行会議において、大人と子供と向き合う時間を確保することが家庭などでの教育力向上に資するとの見解のもと、地域ごとの学校休業日の分散化を図る「キッズウィーク」と称する施策に取り組むことを表明した。 2017年8月3日、第3次安倍第3次改造内閣での記者会見において、「人づくり革命担当大臣」を新設した。子どもへのユニバーサルな教育機会の提供みならず、社会人の学び直しを推進することを企図している。 2017年9月25日、衆議院解散演説において「所得が低い家庭の子供たち、真に必要な子供たちに限って高等教育の無償化を必ず実現する決意です。授業料の減免措置の拡充と合わせ、必要な生活費を全てまかなえるよう、今月から始まった給付型奨学金の支給額を大幅に増やします」、「3歳から5歳児の幼稚園、保育所について全面無償化します。所得の低い世帯について保育所無償化を行うことを考えています」「どんなに貧しい家庭に育っても意欲さえあれば専修学校や高等教育、大学にも進学できる社会に変革をしなければならない。真に必要な子供に限って、高等教育の無償化を必ず実現していく」と述べた。しかし、安倍は2017年11月27日の衆議院予算委員会で選挙公約で掲げた3歳から5歳児の幼児教育・保育の全面無償化について、補助対象とする認可外保育施設の種類などに関し専門家の意見聴取を求め、与党連携で2018年夏までに結論を出すと述べ、制度設計の詳細については先送りすることを表明した。 民法論議・家族制度現行の民法規定で定められている夫婦同姓を支持しており、選択的夫婦別姓について「夫婦別姓は家族の解体を意味する。家族の解体が最終目標であって、家族から解放されなければ人間として自由になれないという左翼的かつ共産主義のドグマだ。これは日教組が教育現場で実行していることです」と述べている。2016年2月29日に衆議院予算委員会で、岡田克也から、この発言の真意について説明を求められ、「(選択的夫婦別姓を認めない民法の規定を合憲とした)最高裁判決における指摘や国民的議論の動向を踏まえながら慎重に対応する必要がある」と答弁している。野田聖子(自民党)や菊田真紀子(民主党)は、安倍が「夫婦別姓反対の急先鋒」であるとしている。 女性が離婚後300日以内に出産した場合、子供は戸籍上、離婚前の夫の子供になるという民法の規定に関しては、2007年2月15日の参院厚生労働委員会の少子化問題に関する集中審議において「見直しの要否を含めて、慎重に検討する」と回答し、2月23日の衆院予算委員会において「時代が変わってきて親子関係はDNA鑑定ですぐにわかる」と答弁している。 婚外子の遺産相続分を嫡出子の半分とする規定を削除する民法改正に関しては、2013年10月18日の参院本会議において「不合理な差別は、解消に向けて真摯に取り組む必要がある」と答弁している。 2016年1月26日、衆議院本会議において「偏見や不合理な差別があることは残念。今後の国民的な議論も踏まえ、慎重に検討する必要がある。」旨、答弁した。第3次安倍第1次改造内閣において、自民党は性的少数者への理解を促す「性的指向・性同一性の多様性に関する理解増進法案」を取り纏めた。2018年8月2日、杉田水脈衆院議員の性的少数者(LGBT)への行政支援に関する寄稿に対し、「人権が尊重され、多様性が尊重される社会をつくっていく、目指していくことは当然だ。これは政府・与党の方針でもある」と述べた。 公務員改革内閣府特命担当大臣(規制改革担当)兼行政改革担当大臣兼公務員制度改革担当大臣のポストに渡辺喜美を置き、官僚主導の政治体制、公務員の給料制度、天下り、業界の談合体質など官僚にまつわる諸悪を摘出し、政官業の関係を健全化しようと国家公務員法改正を打ち出した。同改正法に基づいて (1) 官民人材交流センター(人材バンク)の制度設計 (2) キャリア制度の見直し、という2つの作業が開始され、それぞれについて有識者懇談会が設けられた。安倍も成田空港社長に官僚OBがなることを却下したり、東京証券取引所への天下り人事にも横槍を入れるなどの行動を見せていたが、官僚や自民党内から激しい抵抗が起きるようになる。渡辺喜美行政改革担当相が、自民党行政改革推進本部の会合に出席し、各省庁による天下り支援を禁止する案を説明すると、党側に『各省にあっせん機能を残すべきだ』と猛反発されたり、天下り規制の懇談会にて天下りをしている元事務次官7人のヒアリング調査をしようとしたところ、担当官僚が元事務次官に懇談会出席の要請すらしないなどの抵抗が見られた。 この公務員改革で安倍は、特に社会保険庁改革(社保庁民営化)に力を入れていた。年金行政への信頼回復とともに、社保庁の民営化によって公務員削減の突破口にしたいとの狙いからだった が、ここでも激しい抵抗にあった。田原総一朗は、安倍が社保庁民営化を目指していたことで、社保庁がクーデターを起こし、社保庁の年金が酷い状態であるということを社保庁自らが民主党やマスコミに選挙前に広め、「いかに安倍が危機管理ができないか」と国民に思わせて退陣を狙う「自爆テロ」を行い、そしてマスコミもそれに乗った、と主張した。 第2次政権では融和的になり、民主党政権が大幅に削減した公務員給与を回復させ、公務員制度改革の司令塔だった「国家公務員制度改革推進本部」を2013年に廃止した。また、日本政策投資銀行や商工組合中央金庫といった政府系金融機関の完全民営化を先送りした。ただし、2014年に、各省の幹部人事を首相官邸が一元的に掌握し、政治主導の行政運営を行う内閣人事局を設置し、行政への影響力を高めた。これは、"省益"を優先する官僚政治を打破したという評価と、森友学園問題と加計学園問題に象徴される忖度を生んだという批判がある。 労働政策第1次安倍内閣では労働ビッグバン、再チャレンジ政策を提唱したが、後に年金記録問題に追われることとなったため、提出された法案は第1次安倍内閣においては成立させることはできなかった。第4次安倍内閣では、働き方改革の実現を目的として内閣総理大臣決裁により働き方改革実現会議という私的諮問機関が設置された。これを経て働き方改革関連法が成立し、かつての政策のいくつかは実現されている。 治安政策組織犯罪処罰法(いわゆる「共謀罪法案」)について、「国際社会で組織犯罪に対応していく役割を果たす上で早期に「国際組織犯罪防止法条約」を批准をする必要がある」として2007年1月25日召集の通常国会で成立を図るよう指示したが、世論や自民党内からの反発が強く、継続審議となった。2017年5月19日、共謀罪の構成要件を改め「テロ等準備罪」を創設することを柱とする組織犯罪処罰法改正案が衆議院法務委員会で自民、公明の与党と日本維新の会の賛成多数で可決、23日に衆議院本会議で可決された。6月15日、参議院では会期延長によらず法案成立を目指した与党は法務委員会の採決を省略する「中間報告」を行う動議を提出し、同日未明の衆議院本会議で「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案」(共謀罪の構成要件を改め「テロ等準備罪」を創設する改正組織犯罪処罰法)が自民・公明両党と日本維新の会などの賛成多数で可決、成立した。安倍は同法成立について「本法を適切に、そして効果的に運用」する旨、また東京オリンピック開催に触れ「一日も早く国際組織犯罪防止条約を締結し、テロを未然に防ぐために国際社会としっかりと連携していきたいと思います。そのための法が成立したと考えております。」と述べた。2017年7月11日、同法が施行された。また、改正組織犯罪処罰法施行により、同年8月10日国連本部に於いて、国際組織犯罪防止条約(TOC条約)とTOC条約締結が前提条件となる人身取引議定書と密入国議定書、さらに国連腐敗防止条約が締結された。 2013年中旬から安全保障などの情報のうち「特に秘匿するが必要あるもの」を「特定秘密」と指定し、情報にアクセス出来る者の適正評価の実施や漏洩した場合の罰則などを定めた特定秘密保護法の検討を開始した。当法案には国内外で議論を呼び、報道各社が行った世論調査では廃案・見送りが多数を占めるものが大勢を占めたが、一部賛成が反対を上回るものもあった。法案は、2013年11月に衆議院で、12月に参議院で採決された。衆議院では与党に加えみんなの党も賛成したが、参院では直前の与党議員の発言などを受け 全ての野党が賛成しなかった。その後、安倍政権の支持率は急落した。この法案に対しては国連が重大な懸念を表明し、海外メディアからは「報道の自由及び民主主義の根本を脅かす悪法」、「日本で内部告発者を弾圧する立法が成立した」、「日本が報道の自由を制限」 などと報じられた。元米国国防次官補のモートン・ハルペリンは「知る権利と秘密保護のバランスを定めた国際基準を逸脱している」と法案を批判した。一方で、アメリカ合衆国国務省副報道官のハーフは記者会見で、日本で特定秘密保護法案が成立したことについて「情報の保護は同盟における協力関係で重要な役割があり、機密情報の保護に関する政策などの強化が前進することを歓迎する」と述べ、AP通信は「中国の軍事力増強に対抗するために強い日本を望む米国は、法案可決を歓迎している」と報じた。 社会保障第2次安倍内閣において、内閣に社会保障制度改革推進会議を設置し諮問機関とした。 年金記録問題では民主党の小沢一郎との党首討論で「消えた年金はどうするのか」という野党からの追及に対し「年金は消えたわけではない」として年金時効撤廃特例法案など具体的な救済案を提示した。該当者不明の年金記録5000万件の照合作業については「三千万人の方々とこの二千八百八十万件を一年間のうちに突合いたします」「一年間で私たちはすべて突合を行うということをお約束をする」 と断言、当初2年程度を想定していた調査期間を前倒しすると表明し、自民党の公式HPでも宣伝した。第166回国会本会議においても、「長年まじめに保険料を納めてきたにもかかわらず年金がきちんと給付されないという理不尽なことは、絶対にあってはなりません。このため、国民の視点に立って、できる限り速やかに、かつ、行うべきことはすべて行い、国民の不安の解消に最善を尽くしてまいります。」 と答弁した。 社会保険庁は年金記録の照合作業を進めたものの、2008年3月末までに持ち主が判明するのは1000万人程度に留まり、名寄せ困難な記録が1975万件に達すると発表された(人数や件数は2007年12月時点での推計値)。安倍の公約実現は絶望的となり、後任の首相である福田康夫が謝罪する事態となった。内閣官房長官の町村信孝は「亡くなった方もいる。『最後の一人まで』ということはありえない。もとより無理」 と述べ、安倍の公約の問題点を指摘した。 2008年3月、社会保険庁の照合結果が公表され、1172万件分の持ち主が特定できたが、名寄せ困難な未解明記録は2025万件に達したことが明らかになった。2019年の参議院選挙演説において、「この6年間、雇用が大きく改善し、380万人が新たに仕事につき始めた。新たな働き手、支え手が増えたことによって、年金の保険料収入は増え」、株式市場での運用で「運用益は民主党政権時代の10倍」になったと述べた。 2017年9月25日、衆議院解散演説において、自公政権で介護人材に対し月額47000円の処遇改善を実現したことに触れ、更に他の産業との賃金格差を無くすべく更なる処遇改善を推進することを表明した。 民主党の子ども手当は「国家から直接子供たちに養育費がいくことによって、自分たちは両親に対し何の義務を感じる必要がないという議論もあった」と指摘した上で、「子育てを家族から奪い去り、国家や社会が行う子育ての国家化、社会化だ。これは実際にポルポトやスターリンが行おうとしたことだ」と、2016年2月29日の衆議院予算委員会で発言した。2016年9月28日の参議院本会議において、「民主党政権は児童扶養手当をたったの1円も上げなかった」と答弁し、第48回衆議院議員総選挙前に幼保無償化を発表し2019年10月より実施された。 官民一体で創薬・再生医療を推進する「日本版NIH」の構想を提案した。また、ビッグデータや人工知能を活用した「予防・健康管理」や「遠隔診療」の推進も表明している。 経済政策経済財政諮問会議を第2次安倍内閣で再開した。 2014年に、アベノミクスといわれる以下の3政策からなる経済政策を開始した。 大胆な金融政策 機動的な財政政策。 民間投資を喚起する成長戦略 安倍は、2015年11月に行われた民間の講演会において「GDPは、アベノミクスによって成長率がマイナスからプラスに転じた結果、500兆円まで回復している。以降、毎年名目3%以上成長が実現すれば、2020年ごろにGDP600兆円は十分達成できる」と述べた。 2017年9月25日、衆議院解散演説において、「11年ぶりとなる6四半期連続のプラス成長、内需主導の力強い経済成長が実現」と述べ、雇用は200万人近く増加し、2017年春に大学卒業した学生の就職率は過去最高で、「この2年間で正規雇用は79万人増え、正社員の有効求人倍率は調査開始以来、初めて1倍を超えました。正社員になりたい人がいれば、必ず1つ以上の正社員の仕事がある」と述べた。2018年9月14日の自民総裁選討論会において、賃金に関し「大企業では5年連続、過去最高の賃上げが続いており、中小企業においても過去20年で最高となっている」と主張した。 一方、実質賃金は上がらず、預貯金ゼロ世帯は増加、非正規雇用の数が増え、格差は拡大したという批判もある。 2012年11月14日の野田佳彦首相の解散表明により選挙の争点として浮上した環太平洋経済連携協定(TPP)について、自民党の「聖域なき関税撤廃」のTPP参加の反対派に対し、安倍は日本商工会議所会頭の岡村正との会談で交渉に含みをもたせ、「TPP推進に対して強い交渉力を発揮して頂けるという強い意気込みは感じたので心強く思う」と評価された。この岡村とのやりとりについて、経団連会長の米倉弘昌も「いいことだ」 と歓迎している。しかし、その後の記者会見では「交渉参加に前向きというのはあくまでミスリードだと思います。」 と否定し、その結果として衆院選では160人超の候補者が、TPP交渉参加反対を訴える農協(JA)系の政治団体から推薦を受け当選した。 しかし、農水大臣に農政になじみの薄い林芳正を起用し、甘利明、麻生太郎など経済関係の主要閣僚にもTPP賛成派を配置。さらに外交政策に関して助言を行う内閣官房参与には、日本はTPPに参加すべきとの発言をおこなっていた谷内正太郎を起用した。また、TPP賛成派の岡素之や大田弘子をそれぞれ内閣府規制改革会議議長及び議長代理とし、さらに新設の日本経済再生本部に設置された産業競争力会議のメンバーにも日本維新の会と関係の深い TPP賛成派の竹中平蔵 や、TPP早期実現要請を行なっていた三木谷浩史 を加えた。経済全般のマクロ政策を決める経済財政諮問会議の民間議員も全員TPP賛成派で、高橋進は構造改革派の論客として野田佳彦民主党政権の方針を力強く後押ししていた人物。伊藤元重にいたっては「TPPに参加できないなら、農村部にある多くの工場は閉鎖を余儀なくされる」 というのが持論で、野田佳彦民主党政権の「社会保障制度改革国民会議」のメンバーでもあった。 2013年2月23日、日米首脳会談後に共同声明を出した。それまでの関税に関する見解(カークUSTR代表と玄葉外務大臣との会談)は「物品関税の最終的な扱いについてはTPP交渉プロセスのなかで決まっていくもの」 であったが、今回の共同声明は「一方的に全ての関税を撤廃することをあらかじめ約束することを求められるものではないことを確認する」 との表現になった。この会談後、主要メディアにおいてTPP賛成が増加し、共同通信63%、FNN53%、テレビ朝日51%、日本経済新聞47% となった。 2013年3月8日、日本政府が野田内閣当時の昨年3月の段階から『TPP交渉参加後発組に出された3条件』を把握していたにもかかわらず、国民に条件を告知することなく交渉参加を推進していたことが判明した。安倍はこの問題に関して衆院予算委員会で答弁を拒否し、質問した日本維新の会の松野頼久国会議員団幹事長が「政府が交渉参加のルールを探って議会に説明するのは当然の責任だ」と批判した。また岸田文雄外相は「少なくともわが国には、そうした条件の提示は全くない。引き続き情報収集に全力を挙げる」と答弁していたが、9日になって安倍は「ルールを作っていく上で、最初に入った人たちが後から入った人に議論を覆されたら困るというのは、それはそうだろうと思う」と述べた。安倍政権はこの3条件を政権移行直後に把握したが公表はしていなかった。 2013年3月15日、TPP交渉参加という形で決着が図られることとなった。 2013年4月12日に決着したTPP交渉参加に向けた日米事前協議は大手各紙上でも『高い「入場料」』という言葉が飛び交い、米側に譲りに譲ったもの となった。日本政府のTPP交渉担当者が「なんとしても7月中には交渉に加わりたいのだが……」とあせりの色を隠せない中での事前協議であり、交渉に入る前から通商条件で大幅な譲歩を迫られる可能性があった が、現実のものとなった。焦点の自動車・保険分野では双方とも大幅譲歩であり、自動車分野では自動車関税について当面は乗用車・トラックの関税を維持した上、撤廃時期はTPPが認める範囲で最大限遅らせることで決着、保険分野ではかんぽ生命のがん保険など新商品の申請を事実上凍結したため、投資家に訴える新規事業への参入が不可欠な2015年秋までの株式上場は計画の見直しが不可避 となり、政府が復興財源として期待していた日本郵政株式の売却収入4兆円が見通せなくなってしまった。のみならず、非関税措置について9つの分野で日米間で継続協議 とされたため、1990年代に経験した日米構造協議、包括経済協議と同様に2国間の枠組みを使って日本に市場開放の圧力をかける構図が繰り返されることになった。 2013年9月25日、ニューヨーク証券取引所で行った講演で、「もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました。世界の成長センターであるアジア太平洋。その中にあって、日本と米国は、自由、基本的人権、法の支配といった価値観を共有し、共に経済発展してきました。その両国が、TPPをつくるのは、歴史の必然です。」との見解を示した。 2016年12月9日、参議院本会議で記名投票による採決を行い、TPP参加が決議された。しかし、2016年アメリカ合衆国大統領選挙でTPPの離脱を掲げるドナルド・トランプが当選したことを受け、前月の2016年11月に安倍はTPPが停滞すれば軸足は中国が主導する東アジア地域包括的経済連携(RCEP)に移っていくとの見方を示していた。 2017年1月20日、第45代アメリカ合衆国大統領に就任したドナルド・トランプは、同日TPP離脱を表明した。TPP発効条件が加盟12か国のGDPの85%以上を占める6か国以上の国内批准であり、米国のGDPは全加盟国の約60%を占めることから、TPP発効は困難となり、日本政府はTPPに代わる域内経済協定を検討することとなった。同年2月10日(米国時間)、安倍は初の日米首脳会談において、日米間の経済対話、これをさらにアジア太平洋地域に拡大する方向性を話し合った。訪米に同行した財務省関係者は、二国間自由貿易協定(FTA)に発展する可能性を否定しなかった。 2017年3月1日の参議院予算委員会で、安倍は米国のTPP離脱に関し「日本の求心力を生かし、今後どのようなことができるかを米国以外の各国とも議論したい」と語った。 2006年12月22日、巨大地震に伴う津波が生じた場合の原子力発電所の安全性に関する質問に対し、日本の原子力発電所は外部電源または非常用所内電源のいずれからも電力の供給を受けられる設計であり停止した原子炉の冷却は可能であること、崩壊熱が除去できず核燃料棒が焼損した場合の原発事故について評価は行っていない旨、衆議院で答弁している。 福島第一原子力発電所事故の影響で停止している、日本各地の原子力発電所について、2014年5月1日にシティ・オブ・ロンドンでおこなった演説の中で、安全基準を満たしたところから順次稼働させていく方針を表明した。 財政再建財政について、「成長せずに財政再建できるかというとそれは無理で、絶対に有り得ない」と述べている。プライマリーバランスを2020年に黒字化する目標だったが2025年に延期した。2020年1月20日、来年度予算の税収は過去最高となり公債発行は8年連続での減額であると述べ、財政健全化の進捗を述べた。 消費税増税について、2012年自由民主党総裁選挙に立候補した5人による日本記者クラブ主催の公開討論会で「時期を間違えると結果として経済の腰を折ってしまう。デフレがずっと今と同じままなら上げるべきでない」と述べた。2013年10月1日に正式に税率の8%への引き上げを表明。 2013年10月1日、消費税増税の判断をこれまで保留してきた安倍は、「国の信認を維持し、持続可能な社会保障制度を次の世代にしっかりと引き渡していくため、14年4月1日に消費税を5%から8%に引き上げる判断をした」と言明した。消費税増税法には「景気条項」が盛り込まれていたが、日銀短観やGDP成長率の状況から最終判断した。2014年4月、17年ぶりに消費税増税が起きた。 再増税は2015年10月に予定されていたが、2014年6月24日のインタビューで安倍は「やっとつかんだ(デフレ脱却の)チャンスを逃してしまうかもしれないなら、引き上げることはできない」と述べ、11月発表の7〜9月期の実質国内総生産を待って最終判断を下す考えを示した。8月9日発売の「文芸春秋」において、安倍は「経済成長こそが安倍政権の最優先課題であることを明言する」とデフレ脱却への決意を語った。 2014年10月7日の参議院予算委員会で、安倍は「今の社会保障制度を次世代に引き渡し、子育て支援のために資金を国民に負担してもらうための消費税だ。仮に消費税率を10%に引き上げなかった場合、社会保障の予算は減ることになる」と述べた。また、同日にIMFは、2015年10月に予定される10%への消費税率引き上げを予定通り実施するべきとの見解を示した。 2014年10月17日、安倍はフィナンシャルタイムズのインタビューに応じ、増税で景気後退すれば歳入も減少して施策自体が無意味になると述べた。11月13日、安倍は消費税率再引き上げの先送りを決めた上、次週に衆議院を解散する方針を固めた。1年半延期して2017年4月からとした。11月18日、安倍は記者会見において、7月・8月・9月のGDP速報から「成長軌道に戻っておらず」、「デフレから脱却し、経済を成長させる、アベノミクスの成功を確かなものとするため」に、2015年10月1日に予定されていた消費税増税は1年半延期すべきことを表明した。 2016年6月1日、安倍は記者会見において、「内需を腰折れさせかねない消費税率の引上げは延期すべき」という判断に基づき、2017年4月1日に予定されていた消費税増税は2年半延期すべきことを表明した。併せて、消費税増税の際は軽減税率を導入する旨を表明した。 2017年9月25日、衆議院解散演説にて、社会保障制度を全世代型へ転換・子育て世代への投資のため、消費税の使途変更を表明した。使途変更は、2020年度の基礎的財政収支(プライマリーバランス)を黒字化する財政再建目標の達成が「困難になる」とし、事実上撤回した。 2018年10月15日、翌年10月からの消費税率10%への引き上げを予定通り実施する方針を表明した。確実に実施するため、景気条項は削除した。主要政党で唯一消費税増税を掲げて挑んだ2019年参院選でも勝利した。2019年10月に再増税が実施された。ただし、公明党への譲歩もあり、軽減税率制も導入された。 2024/06/17 11:55更新
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abe shinzou
安倍晋三と同じ誕生日9月21日生まれ、同じ山口出身の人
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