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小泉純一郎の情報 (こいずみじゅんいちろう)
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【6月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

小泉純一郎の情報(こいずみじゅんいちろう) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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小泉 純一郎さんについて調べます

■名前・氏名
小泉 純一郎
(読み:こいずみ じゅんいちろう)
■職業
政治家
■小泉純一郎の誕生日・生年月日
1942年1月8日 (年齢82歳)
午年(うま年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
神奈川出身

(昭和17年)1942年生まれの人の年齢早見表

小泉純一郎と同じ1942年生まれの有名人・芸能人

小泉純一郎と同じ1月8日生まれの有名人・芸能人

小泉純一郎と同じ出身地神奈川県生まれの有名人・芸能人


小泉純一郎と関係のある人

後藤斎: 2005年の第44回衆議院議員総選挙では、郵政民営化法案に反対したため自民党公認を得られず、無所属で出馬した保坂武、自民党公認で小泉純一郎首相の秘書官を務めていた小野次郎、後藤の三つ巴の争いが山梨3区で繰り広げられ、後藤は保坂に1,943票の僅差で敗れたが、再度比例復活した(小野次郎も比例復活し、山梨3区で立候補した3人は全員当選)。


ナターシャ=グジー: 2005年7月のウクライナ大統領ヴィクトル・ユシチェンコ来日の際には、首相官邸での小泉純一郎首相主催の夕食会に招かれ、演奏を披露。


村上弘: また10万票以上を獲得した落選者による特別番組では旧神奈川2区で落選した小泉純一郎と討論している。


クリスティアン=ティーレマン: なお、2003年の公演はバイロイト音楽祭を公式訪問した小泉純一郎首相も鑑賞している)の指揮者に指名され、2006年からの『ニーベルングの指環』(2010年まで)の内定を受けるなど、音楽祭デビュー後一貫してヴォルフガングの厚い信頼を得ている。


秋元司: 2005年、小泉純一郎内閣において郵政民営化法案の参議院本会議採決で反対票を投じ、党より党役職停止1年(執行猶予2年)の処分を受けた。


与謝野馨: 与謝野の落選について小泉純一郎は後に、「(与謝野さんが)落選していなければ自分ではなく与謝野さんが総理になっていただろう」とも述べている。


板垣英憲: 『小泉純一郎 恐れずひるまずとらわれず』(ベストセラーズ 2001)


森喜朗: 自民党内にも、YKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)の了解を取るなどの根回しを行ったが、中曾根康弘らには最後まで知らせなかった。


高村正彦: 山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎の「YKK」に森喜朗を加えた「MYKK」に高村を加えて、「MY3K」と称されることもあった。


安居剣一郎: アンテナ22特別版特別ドラマスペシャル 総理大臣小泉純一郎(2006年・日本テレビ) - 杉山順次 役


大村秀章: 4月24日に行われた総裁選では小泉純一郎に投票。


永田寿康: 2004年3月11日、衆院本会議の発言で、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎の歴代3内閣に言及した発言について、自民党が「不適切な発言」であると抗議した。


橋本龍太郎: 橋本は3人と面談し藤井の擁立を決定するが、藤井は小泉純一郎・亀井静香の後塵を拝して落選した。


岡野加穂留: 最近は郵便局ファンの会会長を務め、小泉純一郎をアメリカの手先であるとして保守派の政治家・論客とともに批判した。


細木数子: 内閣が第89代小泉純一郎内閣から次期内閣へと移る際、武部勤が次期内閣総理大臣になると2度にわたって占ったが、実際には武部は立候補せず、安倍晋三が第90代内閣総理大臣となった。


田中真紀子: 2001年の小泉純一郎首相誕生に際しては、総裁選での応援を買って出るなど大きく寄与し、女性初外務大臣に就任した。


テリー伊藤: 小泉純一郎の郵政民営化の際には、新聞広告に竹中平蔵とともに登場し、民営化賛成の旗振り役を務めた


萩原誠司: 元々、岡山2区は熊代昭彦の選出選挙区であったが、熊代は首相の小泉純一郎が成立に執念を燃やす郵政民営化法案の採決で反対票を投じたため、自民党の公認を得られず、出馬を断念。


俵孝太郎: “祖父の俵孫一と小泉純一郎の祖父の小泉又次郎は、政治的にも個人的にも盟友以上の親しい仲であり、又次郎が祖父の家を訪ね、茶の間に直行、押し入れから、決まったところに置いてある又さん専用の浴衣に着替え、風呂に入ったり、座敷の真ん中で昼寝をしたり、客と会っている祖父には構わずに“奥さん、めし”と祖母に言って食事をしたり、自宅同然に過ごしていた。小泉純一郎が9歳の時、祖父・又次郎は永眠したが、“「あなたより私のほうがよっぽど、お祖父さんの背中の“絵”を見ているかもしれないよ」と言ったら、彼は苦笑していた”との事。


渡邉恒雄: 盟友の中曽根を強引に引退させ、毎年靖国神社を参拝した小泉純一郎政権に対しては批判的であった。


マリ=アルカティリ: また、2006年3月23日にも来日し、小泉純一郎首相と会談した。


森喜朗: 後任には当時森派の派閥会長だった小泉純一郎から推された福田康夫が就任した。福田は、後の小泉純一郎内閣も含めると内閣官房長官在任日数歴代最長(当時)となった。


関谷勝嗣: 2005年7月7日の山崎派総会で「(法案が否決され)解散になれば自民党は負け、瓦解するかもしれない」と、内閣総理大臣小泉純一郎を批判した。


渡辺淳一: 内閣総理大臣の小泉純一郎は2月20日に国会内で幹事長中川秀直と内閣官房長官塩崎恭久らに「目先のことに鈍感になれ。


加藤紘一: 同月15日に自民党・加藤家合同葬が執り行われ、YKKのメンバーだった山崎拓・小泉純一郎、第3次安倍第2次改造内閣からは安倍晋三・麻生太郎・菅義偉・岸田文雄・石原伸晃・丸川珠代、加藤の乱の当事者だった森喜朗・青木幹雄・野中広務・古賀誠、野党からは小沢一郎・志位和夫・辻元清美・菅直人の他、駐日中国大使の程永華ら1,300人が参列した。


近藤昭一: 2003年の第43回衆議院議員総選挙の選挙戦中、小泉純一郎首相の公約は「自民党内のコンセンサスを全く得ていない口約」と皮肉り、民主党の公約であるマニフェストは、実現を約束する誓約書まで書いていると有権者に訴えた。


安藤百福: 葬儀委員長は生前から安藤と親交があった中曽根康弘元首相が務め、小泉純一郎元首相、福田康夫元首相夫妻などのほか、政官学界、実業界から親交の深かった6,500名が参列し別れを惜しんだ。


高鳥修: 野中(広務)さんだと派が分裂する」と総裁選への立候補を進言したが、橋本は小泉純一郎に大差で敗れ去り、以降青木幹雄、久間章生など親小泉の議員が派内で発言力を増すようになった。


田中康夫: 小泉純一郎と竹中平蔵の打ち出したアメリカ的な経済政策を導入する新自由主義経済路線を弱肉強食だと強く批判し、最下層の幸せを確保する最小不幸社会を主張している。


緒方貞子: 小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関として、2004年(平成16年)12月27日に設置された「皇室典範に関する有識者会議」に、メンバーの一人として参加した。


小泉純一郎の情報まとめ

もしもしロボ

小泉 純一郎(こいずみ じゅんいちろう)さんの誕生日は1942年1月8日です。神奈川出身の政治家のようです。

もしもしロボ

経歴、政策などについてまとめました。引退、卒業、結婚、離婚、父親、事件、家族、解散、テレビ、病気、事故に関する情報もありますね。去年の情報もありました。小泉純一郎の現在の年齢は82歳のようです。

小泉純一郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

小泉 純一郎(こいずみ じゅんいちろう、1942年〈昭和17年〉1月8日 - )は、日本の政治家。

内閣総理大臣(第87・88・89代)、農林水産大臣(第37代)、外務大臣(第127代)、厚生大臣(第69・70・81代)、年金問題担当大臣(竹下改造内閣)、郵政大臣(第55代)、大蔵政務次官(第2次大平内閣)、衆議院大蔵委員長、衆議院議員(12期)、自由民主党総裁(第20代)を歴任した。

福田赳夫の秘書を経て、1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙で初当選し、以来12期連続当選。自由民主党では清和会(福田派、安倍派、三塚派、森派)に所属した。また、山崎拓や加藤紘一と「YKK」を結成し、経世会支配からの脱却や党の世代交代を訴え「グループ・新世紀」を旗揚げした。

竹下政権にて厚生大臣として初入閣、宇野政権、橋本政権でも厚生大臣を務め、宮澤政権では郵政大臣を務めた。森喜朗の後任として自由民主党総裁に選出され、2001年(平成13年)4月に内閣総理大臣に就任した。内閣総理大臣の在任期間は1980日で、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては安倍晋三、佐藤栄作、吉田茂に次ぐ第4位。平成においては安倍晋三に次ぐ第2位の長期政権である。2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙には立候補せず、二男の進次郎を後継に指名し政界を引退した。引退後は奥田碩、田中直毅らとシンクタンク「国際公共政策研究センター」を設立し、その顧問を務めた。公益財団法人日本尊厳死協会の顧問を務めている。

経歴

生い立ち

1942年(昭和17年)1月8日、神奈川県横須賀市に、父小泉純也と母芳江の長男として生まれる。母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務め、若いころに全身に入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる大衆政治家だった。

戦後、又次郎と純也は相次いで公職追放にあったため、小泉家の経済状態は決して恵まれていたわけではない。井料克己によれば「日本全体が食べるのに必死だったけど、小泉家もまだまずしくて夕食の食卓には芋の煮っころがしなんかが並んでいた。僕がたまに川や海に行って魚やうなぎを釣ってくると純一郎たちが喜んでくれた。」という。

学生時代

神奈川県立横須賀高等学校卒業後、東京大学入学を目指し2浪。その後、慶應義塾大学経済学部に入学し、同大学を卒業。英国ロンドン大学群ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン (U.C.L.) に留学の後、1969年(昭和44年)8月に父が急死し帰国。

同年12月、亡父の跡を継ぎ、弔い選挙となった第32回衆議院議員総選挙に神奈川2区から自由民主党公認で立候補し、10万3000票余りを獲得するが、4000票差で落選した。ジャーナリストの池上彰によれば、特定郵便局長からの票がライバル候補に流れたことで落選に至ったという。

福田赳夫の秘書として

福田赳夫の秘書を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。社会人生活の第一歩を浪人でスタートした小泉は、毎朝4時に起床した。横須賀駅5時半発の電車に乗って、2時間かけて世田谷区にある福田赳夫邸へと通った。福田のもとには初当選したばかりの塩川正十郎がいた。当時のことを塩川正十郎は『週刊文春』の阿川佐和子との対談でこう語っている「そうそう。彼は早起きで、福田さんの家の玄関で靴そろえておったね。下足番だったの」「で代議士が帰るときモータープールで“何々先生お帰り〜お車ぁ〜”て運転手を呼んでたの(笑)。だから、僕は彼のホームページに“まさか総理大臣になるとは思わなかった”って書いたんです。大変な苦労をしてますよ。」、「そのとき、福田さんが“こいつは意地の強いやっちゃ。なかなかしっかりしとる。だから、大物になったら、とんでもない大物になるけど、はぐれたら処置ない奴ぜぇ”と言うたことがあるの」。福田邸で秘書の仕事は午前中で終わり、午後からは地元横須賀で自身の政治活動を行っていた。

初当選

1972年(昭和47年)12月、第33回衆議院議員総選挙で自民党公認として立候補し、12万2000票余りを獲得し初当選。清和会(福田派)に属し、後に首相秘書官となる飯島勲が秘書となった。また、同期の山崎拓、加藤紘一と懇意になり、YKKと呼ばれることとなる。

結婚離婚

1978年(昭和53年)にエスエス製薬の元会長泰道照山の孫・宮本佳代子と結婚。この結婚父親的な存在だった泰道照山は反対だったという。泰道照山の血縁者は「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。“出て行くならその身体一つでいけ”という具合。それでも小泉さんから“何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。”と言われ、その言葉を信じて嫁に行った」と述べている。

3人の子供をもうけたが、1982年に離婚離婚時に妻は三男を懐妊中であった。関係者の話によれば、「小泉の面倒は姉で秘書をしている信子がみており、系図をみてもわかるように周囲は姉弟の身内で固めている。離婚の理由は本人がおかしくなり、よほど結婚にはこりたようだ」という。

衆議院議員

1979年(昭和54年)、第2次大平内閣で大蔵政務次官に就任。

ポストに執着せずもっぱら政策の習熟に徹していたが、子分を作らない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって永田町では「変人」と評されるようになる。

1988年(昭和63年)、竹下改造内閣で厚生大臣として初入閣。

1989年(平成元年)にリクルート事件で竹下政権が倒れ、続く宇野政権も参院選で惨敗し、わずか2か月で退陣した。政治不信が高まり、政治改革の柱として「小選挙区制の導入」が叫ばれた際、小泉はこれに強く反対し、推進派の羽田孜と対立した。

1991年(平成3年)、自民党総裁選で再選を目指し、最大派閥の経世会(竹下派)の支持を受けた海部俊樹(首相)に対抗し、盟友の山崎拓(渡辺派)、加藤紘一(宮澤派)と組んで、「海部続投阻止」「経世会支配打倒」を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派、宮沢派の反主流派が結束したため、海部内閣は機能不全に陥り、海部は総裁選不出馬に追い込まれた。

後任の総理総裁に宮澤喜一が就任すると、小泉は1992年(平成4年)の宮澤改造内閣で郵政大臣に就任する。就任会見で、かねてからの持論の郵政民営化論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人マル優限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを唱えたが、この老人マル優限度額引き上げ見直しは反対派議員(郵政族)などの反発で失敗に終わった。

1993年(平成5年)5月4日に国連カンボジア暫定機構に派遣されていた日本の文民警察官が武装グループに襲撃され、高田晴行警部補が死亡、4人が重軽傷を負う事件が起こった際には、5月7日の閣議の席上で「カンボジアは実質内戦に近い状態にあり、事実上危険な状態であれば、PKOの引き揚げも今後の選択肢に入れるべきだ」などと語り、自衛隊カンボジア派遣に異議を唱えた。また、この死傷事件をきっかけにタケオ州に駐在する自衛隊施設大隊が選挙監視要員を支援することにした政府決定についても異議を唱えている。さらに、5月18日の閣議でも「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会で言ってきたこと、国民に約束したことを尊重すべきだ」とした。

1993年(平成5年)、羽田孜、小沢一郎ら羽田派(改革フォーラム21)らの賛成もあって、宮澤内閣へ不信任決議が可決され、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を割った。小泉は、宮澤の責任や退陣を閣僚懇談会でも要求し、郵政大臣を辞職した。なお、総選挙後に日本新党の細川護熙を首班とする連立政権が成立、自民党は野党に転落した。宮澤の後任の自民党総裁には河野洋平が就任した。

総裁選への挑戦

下野の直後から自民党内では社会党との連立による政権復帰が模索され、小泉は福田赳夫の配下で社会党との連絡役を担っていた。

1994年(平成6年)、自民党は日本社会党委員長の村山富市を内閣総理大臣指名選挙で支持して自社さ連立政権を成立させ政権に復帰、野中広務らの平成研究会(旧竹下派)が主導的な力を持つようになった。

1995年(平成7年)の参議院議員選挙で自民党は新進党に敗北。河野は続投を望んだが、平成研究会は政策通で人気のある橋本龍太郎を擁立した。小泉らの清和会は河野を支持したが、情勢不利を悟った河野が出馬断念を表明したことで、橋本の総裁就任は確実になった。無投票で総裁が決まることを阻止したい小泉らは森喜朗(清和会)擁立を図るが森が辞退したため、小泉が自ら出馬することを決めた。

既に大勢が決していた上に、郵政民営化を主張する小泉は党内で反発を買っており、出馬に必要な推薦人30人を集めることができたことがニュースになる有り様だったが、それでも若手議員のグループが小泉を推した(中川秀直や山本一太、当選1回の安倍晋三もいた)。結果は橋本の圧勝に終わったが、総裁選出馬により郵政民営化論を世間にアピールして存在感を示すことはできた。

1996年(平成8年)に村山が首相を辞任し、橋本内閣が成立すると、小泉は第2次橋本内閣で再び厚生大臣に就任する。小泉は相変わらず自説を曲げず「郵政民営化できなければ大臣を辞める」と発言、国会答弁で「新進党が郵政三事業民営化法案を出したら賛成する」と郵政民営化を主張したときは、与党から野次を受け、逆に野党から拍手を受けることもあった。同年、在職25年を迎えたが永年在職表彰を辞退した。

1997年(平成9年)、厚生大臣時代に厚生省幹部と参議院厚生委員会理事と食事を取っていたが、村上正邦自由民主党参議院幹事長が円滑な参議院審議を求める参議院理事のスケジュール管理の立場から、村上への事前通告がなく参議院理事を動かしたことで参議院スケジュール管理に支障を来たしたことを理由に反発した。村上が参議院厚生委員長に対して議事権発動を促し、厚生省幹部の出席差し止めという形で小泉厚相に反発。YKKの盟友だった加藤紘一幹事長を中心とする党執行部は異常事態を打開するために村上を参議院幹事長から更迭しようとするが、村上は参議院の独自性を盾に抵抗。村上更迭という強行案には、党内連立反対派(保保連合派)らの反発を党執行部が恐れたため、小泉厚相に対して村上参院幹事長に全面謝罪させることを提案、小泉が村上に謝罪したことで収束した(この事件が小泉にとって、参議院の影響力の大きさを実感する出来事であった。2001年に首相になった時、トップダウン方針と言われながらも、参議院の実力者であった青木幹雄に参議院枠を初めとする一定の配慮を示す原因になったと言われている)。

1998年(平成10年)の参議院議員選挙、自民党は大敗を喫し、橋本は総理大臣を辞任した。後継として、小渕恵三、梶山静六と共に小泉も立候補したが、盟友の山崎・加藤の支持を得られず、仲間の裏切りにもあい、所属派閥の清和会すらも固めることもできず最下位に終わった(総裁には小渕が選出)。前回総裁選とは異なり政治的には少なからずダメージを負ったとされ、本人は「失敗した。ピエロになってしまった」と嘆いたという。以後しばらくは表立った役職に就かず、派閥に戻り雌伏の時を過ごすことになる。YKKとして小渕の政権運営に批判的な立場を取る一方、派閥会長の森が幹事長として政権を支えており派としては主流派に位置していたため、小泉の立場は矛盾を孕んだものになっていた。この矛盾は森政権となっても続くが、以下の「加藤の乱」で立場を鮮明にすることを迫られることになる。

加藤の乱

2000年(平成12年)、小渕が急死し、党内実力者の青木幹雄、野中広務らの支持により幹事長だった森喜朗が総理・総裁に就任。小泉は清和政策研究会(森派)の会長に就任した。第2次森内閣組閣では安倍晋三が内閣官房副長官に、中川秀直官房長官のスキャンダル辞任後の後任に福田康夫が、それぞれ小泉の推薦を受けて就任した。

この総理就任の経緯は密室談合と非難され、森内閣は森の旧来政治家的なイメージも相まって人気がなく、森の失言が次々とマスコミに大きく取り上げられ、支持率は急落した。このころの小泉は公明党との協力に批判的で、2000年6月の衆院選で公明党候補が多く落選したことについて野中幹事長が「大変なご迷惑をかけた。万死に値する」とコメントしたことを、猛然と批判している。森内閣の支持率は2000年11月には18.4パーセントを記録し、これに危機感を抱いた反主流派の加藤紘一・山崎拓が公然と森退陣を要求し始めた。加藤と山崎は、自派を率いて、野党の提出する内閣不信任案に同調する動きを見せ、特に加藤は小泉の同調を期待したとされる。しかし森派の会長だった小泉は森支持の立場を明確にし、党の内外に加藤・山崎の造反を真っ先に触れ回った。

加藤はマスコミに積極的に登場して自説を主張し、普及し始めたインターネットを通じて世論の支持を受けたが、小泉ら主流派は猛烈な切り崩し工作を行い、加藤派(宏池会)が分裂して可決の見通しは全くなくなり、加藤・山崎は内閣不信任案への賛成を断念した。これにより、総理候補と目された加藤は、大きな打撃を受け小派閥に転落、一方、森派の顔として活躍した小泉は党内での評価を上げた。

小泉旋風

森の退陣を受けた2001年4月の自民党総裁選に、橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香と共に出馬。敗れれば政治生命にも関わるとも言われたが、清新なイメージで人気があった小泉への待望論もあり、今回は森派・加藤派・山崎派の支持を固めて出馬した。小泉は主婦層を中心に大衆に人気のあった田中眞紀子(田中角栄の長女)の協力を受けた。

最大派閥の橋本の勝利が有力視されたが、小泉が一般の党員・党友組織自由国民会議会員・政治資金団体国民政治協会会員を対象とした予備選で眞紀子とともに派手な選挙戦を展開した。小泉は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。こうした中で、次第に2001年7月に参院選の「選挙の顔」としての期待が高まる。そして小泉は予備選で地滑り的大勝をし、途中で、立候補していた亀井静香元建設相と政策協定を結び、亀井が本選を辞退、小泉の支援に回り(選挙後、政策協定は全て小泉が一方的に反故にした)、中曽根康弘元首相からも支援を得た。結果として、4月24日の議員による本選挙でも圧勝して、自民党総裁に選出された。

4月26日の内閣総理大臣指名選挙で公明党、保守新党の前身保守党、「無所属の会」所属の中田宏、土屋品子、三村申吾の支持を受け内閣総理大臣に指名され、皇居での親任式にて天皇明仁より第87代内閣総理大臣に任命される。

内閣総理大臣

小泉は組閣にあたり従来の派閥順送り型の人事を排し、慣例となっていた派閥の推薦を一切受け付けず、閣僚・党人事を全て自分で決め、「官邸主導」と呼ばれる流れを作った。少数派閥の領袖である山崎拓を幹事長に起用する一方で、最大派閥の平成研究会(橋本派)からは党三役に起用しなかった。人気のある石原伸晃を行政改革担当大臣に、民間から経済学者の竹中平蔵を経済財政政策担当大臣に起用した。また、総裁選の功労者の田中眞紀子は外務大臣に任命された。5人の女性が閣僚に任命された(第1次小泉内閣)。

「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・石油公団・住宅金融公庫・交通営団など特殊法人の民営化など小さな政府を目指す改革(「官から民へ」)と、国と地方の三位一体の改革(「中央から地方へ」)を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「改革の本丸」に位置付けた。特殊法人の民営化には族議員を中心とした反発を受けた。

発足時(2001年4月)の小泉内閣の内閣支持率は、戦後の内閣として歴代1位の数字となり、最も高かった読売新聞社調べで87.1パーセント、最も低かった朝日新聞社調べで78パーセントを記録した。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。こうした小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。

終戦の日の8月15日に靖国神社参拝をすることを、小泉は総裁選時に公約としていた。総理の靖国神社参拝は中国・韓国の反発に配慮して長年行われていなかった。小泉は、批判に一定の配慮を示し、公約の8月15日ではなく13日に靖国神社参拝を行った。翌年以降も、毎年靖国参拝を行った。2006年には公約であった終戦の日における参拝を実現した。

9月11日、米同時多発テロの発生を受けて、ブッシュ大統領の「テロとの戦い」を支持した。米軍らのアフガニスタン侵攻を支援するテロ対策特別措置法を成立させ、海上自衛隊を米軍らの後方支援に出動させた。

翌年の通常国会が始まると、国際情勢が緊迫する中、外務省は、田中外相が外務官僚や元外務政務次官の鈴木宗男議員と衝突し、機能不全に陥っていた。小泉は2002年2月に田中外相を更迭した。人気の高い田中の更迭により、80パーセントを超える異例の高支持率であった小泉内閣の支持率は40~50パーセント台にまで急落した(読売新聞では支持率48.9%、下げ幅30.7ポイントという急落ぶりだった)。田中は大臣更迭後の同年8月に秘書給与流用疑惑が浮上し議員辞職した。同年の通常国会では鈴木宗男、加藤紘一、井上裕などの有力議員のスキャンダルが相次いで問題視され、内閣支持率は続落、NHKでは年初に79%だった支持率(不支持率は11%)が国会末期の6月には39%(不支持率52%)となっていた。

小泉は、2002年(平成14年)8月30日に電撃的に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)訪問を発表し、9月17日に金正日国防委員長と初の日朝首脳会談を実現、日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を公式に認め、拉致被害者のうち5名を日本に帰国させることを承認した。しかし、残りの拉致被害者のうち8名が死亡・1名が行方不明とする北朝鮮の回答に対し、拉致被害者家族は怒りを隠さず、交渉を終え帰国した小泉を批判する場面もあったが、世論は成果を比較的高く評価した。

2002年9月30日、小泉改造内閣が発足。柳澤伯夫を金融担当大臣から更迭して、竹中平蔵に兼務させた。これにより、以後は不良債権処理の強硬策を主張する竹中が小泉政権の経済政策を主導した。こうした内政・外交の実績から、秋には内閣支持率は回復傾向となった(NHKの11月調査で68%)

2003年(平成15年)3月、アメリカはイラクへ侵攻してフセイン政権を打倒した。小泉は開戦の数日前にアメリカ支持を表明し、野党やマスコミの一部から批判を受けた。日米同盟こそが外交の基軸とのスタンスを崩さず、ブッシュ大統領との蜜月関係を維持した。イラク戦後復興支援のための陸上自衛隊派遣が喫緊の課題となり、7月にイラク特措法を成立させた。これに先立つ6月には、長年の安全保障上の懸案だった有事関連三法案(有事法制)を成立させている。ここで、小泉がイラク戦争を公式に支持する際、数日前の2003年3月2日に起きたアメリカ軍電子偵察機に対する北朝鮮戦闘機のスクランブル発進を引き合いにして朝鮮有事における日米同盟の重要性を強調している。

9月に行われた自民党総裁選で平成研究会は藤井孝男元運輸大臣を擁立して小泉おろしを図ったが、参院自民党幹事長であった青木幹雄がこれに与せず派閥分裂選挙となり、藤井は大敗。藤井擁立の中心となった野中広務は10月に政界を引退した。平成研究会(旧経世会)の凋落を示す事件で、清和政策研究会(森派)が党の主導権を掌握することになる。

2003年9月、自民党総裁選で再選された小泉は小泉再改造内閣発足させ、党人事では当選わずか3回の安倍晋三を幹事長に起用する異例の人事を行い、11月の総選挙では与党で絶対安定多数の勝利を得たものの、自民党としては単独過半数を割り込んだ(後に保守新党を吸収して過半数を確保した)。閣僚を留任させた第2次小泉内閣が発足した。同総選挙に際しては、中曽根康弘元首相、宮澤喜一元首相に引退を勧告した。

2004年(平成16年)1月、陸上自衛隊をイラク南部のサマーワへ派遣したが、4月に武装集団がイラクにいた日本人を拉致して「イラクからの自衛隊の撤退」を要求する事件が起きた(イラク日本人人質事件)。小泉は「テロには屈しない」とこれを明確に拒否。人質3人は後に解放された(地元部族長の仲介によるものとされる)。また、この際には「自己責任論」を主張し、解放された人質らに対して外交経費を請求した。

2004年5月、小泉は再び北朝鮮を訪問、同国首都の平壌市で金正日総書記と2回目の日朝首脳会談をした。北朝鮮に対する25万トンのミニマム・アクセス米や1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表した。この会談で新たに5名の拉致被害者が日本に帰国した。小泉はアメリカとの連係を強化して「対話と圧力」の姿勢を維持した。

2004年6月、2003年6月に制定された有事関連三法に基づいて、「米軍と自衛隊の行動を円滑かつ効果的にする法制」、「国際人道法の実施に関する法制」、武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(国民保護法)などの有事関連七法(有事法制)を成立させた。

2004年7月の第20回参議院議員通常選挙を控え、年金制度改革が争点となった。小泉内閣は参院選直前の6月に年金改革法を成立させたが、選挙では自民党が改選50議席を1議席下回り、民主党に勝利を許した。この責任をとって安倍幹事長が辞任し、武部勤が後任となったが、この人事は誰も予想しておらず、「サプライズ人事」と呼ばれた。この年には一連の小泉の政治手法を指す「サプライズ」が新語・流行語大賞に選ばれ、武部が授賞式に登壇した。

小泉の最大の関心は、持論の郵政民営化にあった。参院選を乗り切ったことで小泉は郵政民営化に本格的に乗り出し、2004年9月に第2次小泉改造内閣を発足させ、竹中を郵政民営化担当大臣に任命した。「基本方針」を策定して、4月に開設した郵政民営化準備室を本格的に始動した。

小泉劇場

2005年(平成17年)、小泉が「改革の本丸」に位置付ける郵政民営化関連法案は、党内から反対が続出して紛糾した。小泉は一歩も引かぬ姿勢を示し、党内調整は難航する。反対派は亀井静香、平沼赳夫が中心となり長老の綿貫民輔を旗頭に100人近い議員を集めた。法案を審理する党総務会は亀井ら反対派の反発で紛糾し、遂に小泉支持派は総務会での全会一致の慣例を破って多数決で強行突破した。反対派はこれに激しく反発し、事態は郵政民営化関連法案を巡る小泉と亀井、平沼ら反対派との政争と化した。

衆議院本会議における採決で、反対派は反対票を投じる構えを見せ、両派による猛烈な切り崩し合戦が行われた。7月5日の採決では賛成233票、反対228票で辛うじて可決されたが、亀井、平沼をはじめ37人が反対票を投じた。参議院では与野党の議席差が少なく、亀井は否決への自信を示した。小泉は法案が参議院で否決されれば直ちに衆議院を解散すると表明するが、亀井ら民営化反対派は、衆院解散発言は単なる牽制であり、そのような無茶はできないだろうと予測していた。

2005年8月8日、参議院本会議の採決で自民党議員22人が反対票を投じ、賛成108票、反対125票で郵政民営化関連法案は否決された。小泉は即座に衆議院解散に踏み切り、署名を最後まで拒否した島村宜伸農林水産大臣を罷免、自ら兼務して解散を閣議決定し、同日小泉は、憲法第7条に基づき衆議院解散を強行した。

小泉は、法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、その選挙区には自民党公認の「刺客」候補を落下傘的に送り込む戦術を展開。小泉は自らこの解散を「郵政解散」と命名し、郵政民営化の賛否を問う選挙とすることを明確にし、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略に成功。また、マスコミ報道を利用した劇場型政治は、都市部の大衆に受け、政治に関心がない層を投票場へ動員することに成功した。それにより9月11日の投票結果は高い投票率を記録し、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327議席を獲得した。この選挙はマスコミにより「小泉劇場」と呼ばれた。

2005年9月21日、小泉は圧倒的多数で首班指名を受け、第89代内閣総理大臣に就任する。10月14日の特別国会に再提出された郵政民営化関連法案は、衆参両院の可決を経て成立した。この採決で、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回り、小泉の長年の悲願は実現した。

なお、賛成票を投じた永岡洋治議員の自殺のように郵政民営化関連法案の成立には多くの事件が発生していた(葬儀に小泉が出席した後、故人の親族は本法案の賛成を表明)。

ポスト小泉

2005年10月第3次小泉改造内閣が発足。ポスト小泉と目される麻生太郎が外務大臣に、谷垣禎一が財務大臣に起用された。

この後2005年11月 - 2006年1月にかけて、構造計算書偽造問題、皇位継承問題、ライブドア・ショックと堀江貴文の逮捕、米国産牛肉輸入再開問題など、政権への逆風となる出来事が相次いで発生した。野党は攻勢を強め、9月の退陣へ向けて小泉内閣はレームダックに陥るのではないかとの予測もあった。しかし堀江メール問題で民主党が自壊したため内閣の求心力が衰えることはなく通常国会では「健康保険法等の一部を改正する法律」(後期高齢者医療制度を創設)などの重要法案を成立させている。なお堀江メール問題の後永田寿康議員は自殺している。

2006年(平成18年)8月15日の終戦の日に小泉は最初の総裁選の公約を果たして靖国神社へ参拝した。小泉はこの時のインタビューで自身の参拝理由を明確かつ丹念に提示することに努めている。

2006年9月20日の自民党総裁選では選挙前から確実視された安倍晋三が後継に選ばれる。翌9月21日に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日に総辞職して内閣総理大臣を退任した(同日、安倍が第90代首相に就任して第1次安倍内閣成立)。任期満了による退任は1987年の中曽根康弘政権以来であり、また、小泉政権は戦後4位であり21世紀最初の長期政権となった。

内閣総理大臣退任後

首相退任後は、テレビ出演やインタビューなど、国民の前でほとんど発言していない。マスコミ記者からインタビューを受けても何も言わないで去っていくことが多い。ただし、講演会などをまれに行っており、立ち見が出るほどの反響になる。

小泉には院政の意思はなく、もともと一匹狼であるため子分もおらず、かつて所属していた森派にも戻らなかった。岸信介や田中角栄、中曽根康弘、竹下登など大派閥を擁し退任後も政界に影響力を残した元総理たちのような政治的基盤はない(清和会はもともと森喜朗の派閥で、町村信孝が継承)。

「小泉再登板待望論」も一部で囁かれていたが、小泉は再登板を完全に否定している。2007年9月12日に、安倍晋三が首相辞任を表明した際、ポスト安倍としていわゆる小泉チルドレンたちから小泉に総裁選立候補の強い要請があったが、本人は「100パーセント出馬しない」と出馬の可能性を否定。小泉自身は、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人じゃないか」と福田康夫支持を表明したが、これが飯島秘書官に辞任を決意させたとも言われる(飯島は小泉在任中に福田としばしば対立し、2007年の総裁選でも小泉擁立に動いたとされる)。

2006年以降は8月15日(終戦の日)に靖国神社参拝を実施している。また、息子進次郎も父と同様に靖国神社参拝を実施している。

2007年(平成19年)9月、安倍が退陣を発表後、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人」と福田康夫支持の意向を示した。また、2008年5月22日には、東京都目黒区(東京5区)にてかつて岐阜1区で造反した野田聖子議員への刺客だった佐藤ゆかりの応援演説を行った。

政界引退

麻生内閣が成立した翌日の2008年(平成20年)9月25日、地元支持者の会合において、次回の衆議院議員選挙に立候補しない意向を明らかにした。首相経験者が首相退任後の衆院選に立候補せずに政界を引退するのは、池田勇人や小渕恵三の病気退任を除けば、戦後初めてのことである。

ただし、国会の外での政治活動は継続すると表明している。政界引退後の2009年総選挙においては(自民党が大敗し民社国連立政権の鳩山由紀夫内閣へ政権交代が起きたが)、かつての選挙区である神奈川11区から小泉の次男で私設秘書の小泉進次郎が後継(世襲候補)として立候補し、当選した。

2012年夏に消費税増税法案で民主党が分裂するなどした際には、自民党幹部や派閥領袖に対して「野党が解散権を握ってる政局というチャンスは珍しいんだ。ちゃぶ台返しをやれ」と民主党に強硬姿勢で臨むことを支援した。

2023年10月4日、盟友である山崎拓の仲介により、自民党総裁選や郵政民営化をめぐり、かつて対立関係にあった亀井静香と東京・銀座の日本料理店で3時間ほど会食したと報じられた。小泉は朝日新聞の取材に「(郵政民営化の時には)意見は違ったけど、(今日は)仲良く食事した。昔の話をして、今日は面白かった」と話した。

脱原発

総理大臣時代は原発推進の立場だったが、東日本大震災を経た2011年夏ごろまでには「脱原発」を主張するようになっていた。2013年秋ごろからは、講演会などでも盛んに発言するようになり、メディアに頻繁に取り上げられるようになった。この発言を脱原発や反原発を主張するみんなの党代表渡辺喜美や生活の党代表小沢一郎など野党各陣営が歓迎し、10月29日には反原発を掲げる社民党党首吉田忠智と会談まで行った。2014年2月の東京都知事選では、脱原発を争点に立候補した細川護熙を支援したが、細川は落選した。

2018年1月10日には、自らが顧問を務める民間団体「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」の記者会見で「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」を発表。内容は原発の即時停止を求めるもので、法案への支持を与野党に呼び掛けた。

また、細川護煕、村山富市、鳩山由紀夫、菅直人の元首相4人と一緒に、EUの執行機関・欧州委員会の委員長であるウルズラ・フォン・デア・ライエンに対して、EU内での原発反対を求める書簡を2022年1月27日付で送った。しかし、書簡の中の「福島原発事故の影響で子供たちが甲状腺癌に苦しんでいる。」との記述に関して、「偏見を助長する。」として各方面から批判の声が上がった。山口壮環境相は「(県や国連の専門家による調査で)現時点では放射線の影響とは考えにくいという趣旨の評価がされている。」「いわれのない差別や偏見を助長することが懸念される。」として抗議し、内堀雅雄福島県知事も「福島復興のためには、科学的知見に基づいた情報発信が極めて重要。」「客観的な発信をお願い申し上げます。」として小泉らに慎重な対応を求めたほか、与野党幹部らが小泉らを批判し、とりわけ自民党は小泉らに対する非難決議を取りまとめる構えを見せた。一方、小泉らは市民団体を通じて山口環境相や内堀知事に逆に抗議し、質問書を送った。

政策

政権公約となった政策

紺谷典子によれば、2004年9月におこなわれた自民党内の与党手続きでは多数決を採らず、怒号の中、「多数と認めます」との宣言だけが行われ、「少数決」だと批判された。以降の手続きは中央省庁改革法33条6項「民営化等の見直しは行わない」を削除修正せず、これに反して行われたという。

2005年に政府が国会に提出した郵政民営化法案が衆議院において可決された後、参議院において否決されたため衆議院を解散した(郵政解散)。この解散は参議院の意義を否定するものとして一部では問題視されたが、解散により実施された衆議院選挙で自民党は、結果的に法案が参議院で否決された場合でも衆議院で再可決することにより成立させられる3分の2超の議席を与党自民党で確保した。選挙後の特別国会において衆参ともに郵政民営化法が可決された。

小泉が郵政民営化にこだわった動機については、特定郵便局長会との個人的な遺恨にあるとの見方もある。

2001年の自民党総裁選で「私が首相になったら毎年8月15日に靖国神社をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と公約。しかしながら、2001年から2005年までは国内外からの批判に配慮して8月15日以外の日に参拝していた。自民党総裁の任期が満了する2006年には公約通り8月15日に参拝した。なお首相就任前は厚生大臣在職時の1997年に終戦記念日に参拝している他(私的か公的かについては明言せず)、それ以前も初当選以来ほぼ毎年、終戦記念日を含む年数回の頻度で参拝してきた。退任後は2009年に参拝した。2010年の8月15日は参拝していない。

タウンミーティングの構想は2001年に行われた小泉純一郎首相の所信表明演説で初めて打ち出され、政権公約となった。タウンミーティングは全国で開かれ、まず特定テーマは設けずに都道府県を一巡し、その後「地域再生」「市町村合併」「教育改革」などをテーマに開かれるようになった。このタウンミーティングでは、謝礼金を使ったやらせ質問の横行、電通社員へ日当10万円の払い、エレベーター係へ一日数万の払い、などといった実態が明るみに出た。コストは平均2000万円、全国一巡したことで20億円弱かかっていた。

小泉内閣は各年度予算編成において国債発行額を30兆円以下に抑制することを公約として掲げた。実際に達成できたのは政権初期の2001年度と政権末期の2006年度予算の2回のみであった。ただし2001年時などでもNTT株の売却収入によって歳出補填がされるなどしたため、実質的な歳出削減は行われなかったことから批判が相次いだ。 国債30兆円枠はシーリングによる財政管理政策であり、その結果として一貫して増加傾向であった一般歳出の増加は抑制されその後微減傾向に転換した。 しかし、当時の政権が推し進めていた緊縮財政の下で、国債発行が抑制されて景気対策が疎かになり、日本のデフレを悪化させたという見方も出てきている。

2001年の自民党総裁選で他の総裁候補と同様にペイオフの解禁を公約に掲げた。しかし、不良債権処理が2004年までかかったため2005年4月まで解禁は先送りされた。

小泉は閣僚の交代に批判的で、「一内閣一閣僚」を標榜していたが、田中眞紀子外相の更迭で原則を破り、2002年9月30日に内閣改造を行い、以後1年間をめどに内閣改造で定期的に閣僚を交代させていった。2001年の小泉内閣誕生から2006年の退任まで、一貫して国務大臣だった竹中平蔵のみが一内閣一閣僚に該当するという意見もある。また、これまでの内閣と異なり、大臣人事においては派閥領袖が推薦した人を任命せず、派閥均衡人事を保ちながら首相の一本釣り人事を行った。

政権獲得後に推進した政策

小泉内閣は「金融再生プログラム」を推し進め、バブルの遺産と呼ばれていた不良債権を処理し、日本の金融システム正常化を果たした。

特殊法人改革においては「原則として廃止か民営化」を掲げ、郵政民営化・道路公団民営化・政策金融機関再編・独立行政法人の再編・民営化を実現させた。

また、小泉純一郎は「骨太の方針」の中で「貯蓄から投資へ」をスローガンに掲げ、2003年からは、個人投資家を対象に株式と株式投資信託の売却益や配当・分配金に対する税率を20%から10%に引き下げる証券優遇税制を実施した。

その結果、本格的な景気回復については持ち越されることになったものの、日本経済は一旦底打ちし、外需に牽引される形で「失われた10年」と呼ばれた長期停滞を脱出した。

小泉内閣は「プライマリーバランスの回復」を目標とした財政計画作成・国債30兆円枠・公共事業の大幅削減・社会保障の抑制などを行い財政再建を推進した。その結果、就任時には一般予算・補正予算合わせて11兆8000億円あった公共事業費は退任時の平成18年には7兆8000億円にまで削減され、その一環として道路公団は民営化された。また社会保障費にはマクロ経済スライドが2005年4月に導入された。

その結果、日本経済の回復(いざなみ景気)による税収増もあり、財政は大幅に改善した。しかし一方で公共事業削減に対しては、亀井静香議員などを始めとする、道路族と呼ばれる族議員などが反発した。また社会保障費の年間2,200億円削減は、社会保障受給者や病院などの供給者などの負担となり、医療制度問題となった。

対照的に消費税の増税については、自身の内閣では行わないと発言し、議論も低調となったほか、累進課税色を薄めることも行わなかった。

年金制度を変革。マクロ経済スライドを導入、また老齢者控除廃止や公的年金など控除の縮小をした。

30兆円を超える国民医療負担の膨張に歯止めを打つため、小泉は患者・医療機関・保険者の「三方一両損」による改定を指示、医療制度改革関連法案を国会で可決させた。

被用者健康保険の医療費自己負担を2割から3割へ引上げた。また高所得の後期高齢者医療制度加入者(夫婦世帯で年収約621万円以上)について医療費の窓口負担が2割から現役世代と同じ3割へ上げた。2008年度からは70 - 74歳で今は1割負担の人も2割負担になる。

2006年度の診療報酬改定において、再診料を引き下げ(病院で10円、診療所で20円)、医療費を削減した(本体部分:2002年-1.3%,2004年0%,2006年-1.36%、薬価部分:2002年-1.4%,2004年-1.0%,2006年-1.8%、総額:2002年-2.0%,2004年-1.0%,2006年-3.16%)ほか、病院と診療所で異なっていた初診料の統一、小児・救急医療など医師不足が指摘される分野で重点的に報酬を加算することなどが決まっている(財務省主計局の平成22年調査では勤務医の平均年収は1479万円、開業医の平均年収は2530万円)。

政管健保の保険料率を値上げした。

2003年1月に「2010年に訪日外国人を1000万人にする」とする趣旨の施政方針演説で観光立国への意欲を見せ、「ビジット・ジャパン・キャンペーン」と呼ばれる訪日促進活動が実施された。リーマン・ショックによる影響などにより、この目標自体は在任中には達成できなかったものの、観光政策は成長戦略の一環として歴代政権に引き継がれた。

日本の査証発給緩和や訪日プロモーションが実を結び、特に2010年代の訪日外国人旅行の伸びは、東日本大震災による落ち込みを経ながらも目覚ましいものとなり、第3次安倍内閣が2016年に打ち出した日本国政府目標では、2030年までに6,000万人を目指すこととされている。

2005年8月15日、戦後60年目の終戦記念日に過去に日本がアジア諸国に対して行った侵略と植民地支配を謝罪する「小泉談話」を閣議決定の上、発表した。談話の内容は10年前の1995年8月15日、戦後50年の終戦記念日に当時の村山富市首相が閣議決定の上、発表した村山談話を踏襲したものであり、村山談話と並ぶ日本政府の歴史認識の公式見解として扱われる。

長い間、とりわけ平成の皇室に皇位継承権を有する男子が誕生していなかったことなどから、皇室典範に関する有識者会議を設置して女性天皇のみならず、女系天皇容認に向けた皇室典範改正への動きを積極的に推進した。その後、秋篠宮家における男子継承者誕生(悠仁親王)から改正議論を棚上げしたものの、根本的な問題(継承者不足)が無くなった訳ではないとして「女系の天皇陛下も認めないと、将来については皇位継承というのはね、なかなか難しくなるんじゃないかと思ってます」との見解を述べた。

2024/06/21 01:26更新

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1998年2月27日生まれの有名人 埼玉出身

小泉 留菜(こいずみ るな1998年2月27日 - )は、日本のアイドルであり、女性アイドルユニットナナランドの元メンバーである。埼玉県出身。前身ユニットの『drop』での属性は毒、担当カラーは紫、愛…

小泉 陽一(こいずみ よういち)
1965年8月13日生まれの有名人 神奈川出身

小泉 陽一(こいずみ よういち、1965年(昭和40年)8月13日 - )はフジテレビアナウンサー、報道記者、解説委員。 神奈川県平塚市出身。神奈川県立二宮高等学校、コロンビア大学留学を経て、慶應…

小泉 堯史(こいずみ たかし)
1944年11月6日生まれの有名人 茨城出身

小泉 堯史(こいずみ たかし、1944年11月6日 - )は、日本の映画監督。茨城県水戸市出身。 茨城県立水戸第一高等学校、東京写真短期大学(現在の東京工芸大学)写真技術科、早稲田大学卒業。早大卒…

小泉 まき(本名・旧芸名:小泉 真希)
1981年11月18日生まれの有名人 東京出身

2002年:文学座附属演劇研修所に入所 2005年:新国立劇場研修所に入所 小泉 まき(本名・旧芸名:小泉 真希、1981年11月18日 - )は、東京都出身の女優。東京俳優生活協同組合及び中野成樹…

小泉 知也(こいずみ ともや)
8月28日生まれの有名人 出身

小泉 知也(こいずみ ともや、8月28日 - )は、日本の男性声優。 北海道旭川市出身。身長 183cm。以前は、ケッケコーポレーションに所属していた。 2005年 ロックマンエグゼBEAST…

あっぱれコイズミ(あっぱれこいずみ)
1979年7月13日生まれの有名人 神奈川出身

あっぱれコイズミ(1979年7月13日(44歳) - )は、日本のお笑い芸人。本名は、小泉 信。旧芸名は、アッハー小泉。神奈川県川崎市出身。吉本興業東京本社(東京吉本)所属。東京NSC4期生。武相高等…

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