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貴乃花光司の情報 (たかのはなこうじ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

貴乃花光司の情報(たかのはなこうじ) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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貴乃花 光司さんについて調べます

■名前・氏名
貴乃花 光司
(読み:たかのはな こうじ)
■職業
相撲
■貴乃花光司の誕生日・生年月日
1972年8月12日 (年齢51歳)
子年(ねずみ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和47年)1972年生まれの人の年齢早見表

貴乃花光司と同じ1972年生まれの有名人・芸能人

貴乃花光司と同じ8月12日生まれの有名人・芸能人

貴乃花光司と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


貴乃花光司と関係のある人

稀勢の里寛: 1995年1月場所の貴乃花光司以来となる、22年ぶり史上9人目の新横綱昇進場所優勝を逆転で飾った。また1998年7月場所と9月場所を制した貴乃花光司以来、19年ぶりの日本出身力士の2場所連続優勝となった。


福島善成: 貴乃花光司


貴ノ浪貞博: 特に1996年(平成8年)1月場所では14勝1敗の好成績を残し、横綱・貴乃花光司との同部屋同士による優勝決定戦では曙戦で繰り出した河津掛けで制して、悲願の幕内最高優勝を果たした。


やくみつる: 貴乃花光司については、2018年2月6日放送の『バイキング』で相撲協会の八角体制が盤石であったことから「貴乃花親方は現在45歳。


佐々木信也: 1995年2月末に臨んだ講演で、貴ノ花健士(元・大関貴ノ花)の実子である花田勝(元・横綱三代目若乃花)・貴乃花光司(元・横綱)兄弟を取り上げた際に、「若乃花の父親は初代若乃花」と発言。『アサヒ芸能』がこの講演の概要を「若(花田勝)・貴(貴乃花光司)は本当の兄弟じゃない!」というキャプション付きの記事で掲載したところ、発言を訂正するとともに、貴ノ花健士と講演会の聴衆に対する謝罪文を公表した。


高望山大造: この選挙では現職理事・貴乃花光司の当落を巡り話題となる中で、前回落選の雪辱を果たした。


千代大海龍二: なお2009年の幕内成績は30勝52敗8休で、同年幕内を6場所務めた力士の中では最低となり、また大関で年6場所務めて(公傷制度適用時を除く)の年間30勝もワーストタイの記録となってしまった(横綱を含めれば2002年の貴乃花光司の年間12勝に次ぐワースト記録)。


貴ノ浪貞博: 相手に十分攻めさせておいて手玉に取るという意味では真の横綱相撲が取れる唯一の力士と言っても良かったが、二子山部屋には既に貴乃花光司・若乃花勝が横綱だった事情もあってか、「横綱・貴ノ浪」は幻に終わった。


佐田の山晋松: 引退相撲における横綱土俵入りは現役横綱が露払い・太刀持ちを務めることが通例だった当時としては異例の組み合わせだが、2003年の貴乃花光司以降は、大関以下の現役力士が務める場合も増えた。


近本光司: 名前の「光司」は元横綱の貴乃花光司にあやかって名付けられた。


栃乃洋泰一: 1999年3月場所の10日目には横綱若乃花勝戦、翌11日目には横綱貴乃花光司戦と、史上初となる2日連続での不戦勝を記録した。


松井秀喜: 貴乃花光司(元横綱・貴乃花)とは現役時代に同じ施設でトレーニングに励んでいた間柄。


吉高由里子: トヨタレンタリース「トヨタレンタカー」(2012年)ガダルカナル・タカ、貴乃花光司、大杉漣、西尾由佳理と共演。


旭豊勝照: その後も幕内上位での相撲が続き、曙太郎・貴乃花光司から金星を獲得するなど地力の高さを見せた。


貴ノ浪貞博: 大関昇進がかかっており対横綱戦未勝利の中で曙太郎に対して繰り出した一番、初の幕内最高優勝がかかった同部屋・貴乃花光司戦などの大一番でも決まった。


剣晃敏志: 剣晃は平成の大横綱・貴乃花光司など、上位力士相手にも容赦ない張り手をかますなど闘志溢れる相撲が取り口で、自ら「ヒール」を公言していた


大至伸行: 相撲甚句に絶品との評価が高く巡業や花相撲で重宝がられ、2003年6月には横綱・貴乃花光司の引退に際して記念の甚句を披露した。


花香よしあき: 貴乃花光司


男女ノ川登三: この日は、奇しくものちに貴乃花光司と共に「若貴兄弟」として爆発的な人気を呼び、自身も横綱へと昇進する若乃花勝(現・花田虎上)が生まれた日でもあった。


朝青龍明徳: 2009年1月場所は、場所前の横綱審議委員会稽古総見では調子が良くなく、進退問題も取り沙汰された状況で臨んだが、初日から14連勝と次第に調子を上げ、千秋楽では本割の一番は立合いを失敗して白鵬に敗れたものの、優勝決定戦では本割と一転して厳しい攻めで白鵬を寄り切りで下し、貴乃花光司を抜き歴代単独4位となる通算23回目の優勝を果たした。


花田優一: 父は貴乃花光司、母は河野景子、祖父は貴ノ花利彰、伯父は花田虎上、大伯父は初代若乃花、祖母は藤田紀子である。


貴ノ花利彰: 兄は初代若乃花と若緑陸奥之丞(三段目)、母は武ノ里武三の又従姉、義兄に大豪久照、長男は第66代横綱で3代目若乃花の花田虎上、次男は第65代横綱の貴乃花光司、元配偶者は元女優の藤田憲子、孫に花田優一と白河れいがいる。


白河れい: 父は元大相撲力士で第65代横綱の貴乃花光司、母は元フジテレビアナウンサーでフリーアナウンサーの河野景子(両親は2018年に離婚)。


宮沢りえ: 1992年10月27日、貴乃花光司との婚約を発表。


旭豊勝照: 2012年4月、1月の理事選で貴乃花光司に投票したことへの引責を理由に一門からの離脱を申し入れ(事実上の破門)、貴乃花グループ(後に貴乃花一門)へ合流した。


武藤茉里奈: 河野景子(1984年/元フジテレビアナウンサー、貴乃花光司の元妻)


貴ノ浪貞博: しかし二子山部屋には貴乃花光司・若乃花勝の2大関がいたため、貴ノ浪には同じく大関取りの場所としていた武蔵丸光洋よりも好成績を残すことが求められた。


稀勢の里寛: これにより日本出身力士としては1998年5月場所後に横綱に昇進した若乃花勝(第66代、藤島部屋→二子山部屋)以来19年ぶりに横綱に昇進し、2003年1月場所で引退した貴乃花光司(第65代、藤島部屋→二子山部屋)以来14年間途絶えていた日本出身横綱となった。


河野景子: 元夫は元大相撲力士で第65代横綱の貴乃花光司で、婚姻中は花田 景子(はなだ けいこ)として活動。


貴乃花光司の情報まとめ

もしもしロボ

貴乃花 光司(たかのはな こうじ)さんの誕生日は1972年8月12日です。東京出身の相撲のようです。

もしもしロボ

経歴、引退後 貴乃花部屋誕生とその終焉などについてまとめました。引退、現在、離婚、父親、兄弟、事故、病気、テレビ、事件に関する情報もありますね。去年の情報もありました。貴乃花光司の現在の年齢は51歳のようです。

貴乃花光司のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

貴乃花 光司(たかのはな こうじ、1972年〈昭和47年〉8月12日 - )は、東京都中野区出身の二子山部屋(入門時は藤島部屋)に所属した元大相撲力士で第65代横綱。

本名は花田 光司(はなだ こうじ)。愛称は「貴」、「コウジ」。相撲協会退職後は本名や元 貴乃花親方・貴乃花氏・貴乃花さんと表記されることが多い。

引退のとき現役時代の功績に対して一代年寄貴乃花が認められ、貴乃花部屋の師匠を務めた。日本相撲協会では2010年に理事に当選以来、相撲教習所所長、審判部長、地方場所部長(大阪)、総合企画部長、巡業部長を歴任したが、2018年10月に退職した。

現在は相撲の普及活動を目的とする一般社団法人貴乃花道場の理事を務めており、「貴乃花光司」としてのタレント・絵本作家の活動は、2023年9月より新たに貴乃花事務所(個人事務所)として新体制を取っている。

1972年(昭和47年)、東京都杉並区阿佐ヶ谷に生まれ同中野区で育つ。現役時代、取組前の場内アナウンスでは中野区を出身地としていた。

父は貴ノ花利彰(11代二子山)、母は藤田紀子、兄は花田虎上(三代目若乃花)で、初代若乃花(10代二子山)は伯父(父の兄)。二代目若乃花(18代間垣)はかつて義理のいとこ(伯父の娘婿)だった。

2018年に離婚した元妻の河野景子との間に1男2女があり、長男は花田優一、次女は白河れい(本名:花田晃帆)。

血液型はO型。元々は右利きだったが、長年の相撲の影響で右手に痺れが残ってしまい、今は左手で箸やペンを持つようになっている。

現在は大型自動二輪免許を取得し、ハーレーダビッドソンに乗っていることを明かしている。

好きなアーティストは倉木麻衣。

経歴

少年相撲から中学相撲

当人や周囲の回想によれば、相撲に身を入れ始めたのは1981年の父の現役引退が契機だったという。

「自分が将来、相撲の世界に入って、父が果たせなかった夢を実現させるんだ」という思いで稽古に打ち込み、1982年、わんぱく相撲の全国大会で優勝、わんぱく横綱(小学4年生)となった。わんぱく横綱としての土俵入りを入れれば、蔵前国技館と新両国国技館の両方で横綱土俵入りを行ったひとりであるということになる。

父を慕って部屋によく遊びにきていた鎌苅忠茂少年(後の貴闘力)には兄の勝ともどもかわいがられ、部屋の稽古場で相撲を取ることもあったという。

明大中野中に進学し、同相撲部で武井美男監督から廻しの切り方などの技術面の指導を受けた。このことが、のちの躍進に大きく寄与したとされている。

大相撲入門

1988年、15歳で入門。当初父親は実子を弟子にすることを嫌がり他の部屋へ預けることとしたが、紆余曲折の上、結局藤島部屋に所属することとなった。

入門当時からその優れた素質が話題となっており、新弟子検査時には「これは新弟子の体じゃない、今すぐ幕下でも通用する」と、新弟子検査担当の親方が驚嘆するほど体作りの基礎ができていたという。四股名貴花田として初土俵を踏み、前評判に違わぬ相撲で数々の最年少記録を打ち立てた。

親方の息子であることからやっかむ者もあり、部屋の番付上位の力士が下位の力士に指示を出して昼寝を妨害することもあったが、トイレにダンベルを持ち込んで黙々と自らを鍛えた。母の藤田紀子は「それに打ち勝つことが稽古より大変なんです」と話している。

1989年11月場所、17歳2か月で新十両に昇進。出世に髪の伸びる早さが追いつかなかったため大銀杏が結えず、ちょんまげ姿で土俵に上がった。名大関貴ノ花の息子として兄とともに入門したことは、マスメディアを通じて国民に広く報じられ、入幕前から相撲ファンの枠を超えた注目を集めていた。

入幕

1990年5月場所、17歳8か月で新入幕。場所直前に足の親指の靭帯を切る負傷をしたため4勝11敗と大きく負け越し十両に落ちたが、11月場所で幕内に復帰した。その後二場所は小幅の勝ち越し、負け越しが続きやや勢いが減速したものの、東前頭13枚目に下がった1991年3月場所では27年ぶりとなる平幕での初日から11連勝を記録。その後小錦、旭富士らに敗れ、幕内優勝はならずも12勝3敗の好成績を挙げ、敢闘賞、技能賞をダブル受賞した。

西前頭筆頭まで番付を上げた1991年5月場所、かつて父とも対戦した千代の富士といきなり初日に取組が組まれた。伯父の二子山理事長は「何回、"残った、残った"の声が聞かれるか楽しみだ」と甥の貴花田が横綱にどれだけ相撲を取らせてもらえるかに注目していたが、結果は貴花田の完勝で大相撲史上最年少(18歳9か月)の金星を獲得。千代の富士は同場所の3日目、貴闘力にとったりで敗れた取組を最後に現役引退。結果的に同場所初日の貴花田が千代の富士を下したのを機に引導を渡したことで、次代の第一人者候補としての評価を固めていく。7月場所は小結、9月場所は関脇に昇進した。

弟にわずかに遅れて入幕した兄若花田とともに活躍した頃に起こった平成初期の大相撲ブームは「若貴フィーバー」と呼ばれた。ブームの頃には若貴兄弟が女性誌の表紙を飾り、女性週刊誌や写真週刊誌には毎号のように記事が掲載され、スポーツ新聞も相撲専門の新聞のようになり、コンビニに相撲専門誌が置かれているほどであった。世話人の友鵬は当時について「出待ちの女性ファンが若貴に群がり場所入りする力士がもみくちゃになることもあったため、柵を作ってファンの接近を制限することもあった。今(2017年時点)のファンは整然として行儀が良い」という内容の証言をしている。

一日20番の申し合いをこなし、下ろしたばかりのまわしがその当日の稽古が終わるころには汗が染み込むなどの猛稽古ぶり、勝負に負けて土俵に落ちる際には顔から落ちるなどの勝負師ぶりを見せ、その後も順調に成長していった。稽古熱心さに関しては井筒部屋の元幕下・神光で実業家の村上光昭が「土俵に足を入れたら五時間、体を休めていることは一度もなかった」と2017年の座談会で明かしている。

平幕に下がった1992年1月場所は14勝1敗で19歳5か月での幕内初優勝を果たした。このときは、明確な相撲の型はないものの強い精神力と19歳とは思えない落ち着きぶりを絶賛された。この場所は伯父・二子山の理事長としての最終場所であり、伯父から甥への賜杯授与が実現した。14日目の打ち出し後に貴花田を乗せていたハイヤーが玉突き事故の被害に遭って付け人2人が体を強打して病院に運ばれたが、貴花田は無事であった。幕内最高優勝達成者恒例の祝杯は、未成年であったためウーロン茶で行った。優勝した千秋楽の翌日、父の勧めで若貴フィーバーで骨休めにならない国内を離れ、サイパンへ出掛けている。この頃は兄弟関係は良好だった。1992年9月場所は小結で14勝1敗とし2度目の幕内優勝、翌11月場所は関脇に戻り10勝5敗。1992年は60勝30敗と6場所制定着後最少勝ち星(当時)ではあったものの史上最年少の年間最多勝を受賞した。

1993年1月場所は関脇に並ぶ琴錦、武蔵丸とともに「大関取り」の場所となった。この1月場所は11日目で平幕相手に3敗を喫した時点で一度は大関昇進は「破談」とされた。その後連勝し11勝3敗と盛り返すも、千秋楽結びの一番で横綱昇進を賭けていた曙との直接対決ではわずか2秒余りで圧倒され完敗、11勝4敗の成績に終わった。師匠の12代藤島は千秋楽終了後に「もう、(昇進は)だめでしょう。仕方がないです」と語ったが、直前3場所をすべて三役の地位で合計35勝を挙げたことで、場所後の理事会で大関昇進が決定した(このとき、同時に曙も横綱昇進が決定した)。20歳5か月での大関昇進は北の湖が持っていた最年少記録を更新するものであった。これを機に、四股名を父と同じ貴ノ花に改める。昇進伝達式では「謹んでお受けします。今後も不撓不屈の精神で相撲道に精進いたします」と述べた。

大関時代

新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、次の5月場所では14勝1敗の成績で3回目の優勝を果たし、翌7月場所で初の綱獲りを目指すこととなり、千秋楽に13勝2敗で曙太郎・兄若ノ花らとの優勝決定戦に進出した。しかし曙は若ノ花を押し倒し、貴ノ花を寄り倒して破り、貴ノ花は優勝同点に終わる。場所後に日本相撲協会から横綱審議委員会への諮問が無かった為、横綱昇進はならなかった。この時横綱昇進を果たしていれば20歳11ヶ月での横綱昇進となり、北の湖の記録である21歳2ヶ月での昇進より早いスピード横綱昇進記録1位の座を射止めていたことになる。

続いて9月場所は初の全勝優勝を狙った曙を千秋楽で下して阻止。曙に次ぐ12勝3敗の優勝次点で綱獲りを再び繋いだが、翌11月場所は体調不良により7勝8敗と負け越して綱獲りは振り出しに戻る。1994年1月場所では21歳5か月での大関角番も史上最年少の記録となった。この1月場所では14勝1敗で4回目の幕内最高優勝で復活。同年の3月場所で綱獲りを再び期待されるが、11勝4敗で優勝を逃し綱獲りは失敗。5月場所では14勝1敗の成績で5回目の幕内最高優勝を果たすが翌7月場所では11勝4敗に終わり、またしても綱獲りは失敗に終わった。

次の9月場所では初の全勝優勝(史上最年少の全勝優勝)。場所後に協会は横審に貴ノ花の横綱昇進の諮問をし、約2時間の審議の末、最後は無記名投票の結果11人の委員中6人が賛成したが、横審の内規である「3分の2以上の賛成」に及ばず、横綱昇進は否決された。審議前から反対を明言していた一力一夫は「諮問があるとは思っていなかった。先場所は準優勝でもないのに、どこを見ても内規に則していない。そのことは理事長も百も承知のはず。内規を無視する覚悟を決められたということでしょう。」と協会の態度を強く批判し、反対票を投じたと明言した加藤巳一郎は「協会の立場、本人の成長ぶりはよくわかるが、横綱は絶対的なものでないといけない。連続優勝できないということは何か欠けるものがあるからだ。」と述べ、他の反対票を投じた委員も「横綱になれる力を充分持っているのだから、あせる必要がない。」としてもう一場所様子を見るよう主張した。

それでも、貴ノ花から「貴乃花」と改名して迎えた翌11月場所でも他を全く寄せ付けず、双葉山以来の「大関で2場所連続全勝優勝」を果たし、先場所からの30連勝も達成した。千秋楽結びの一番での曙との一番は49秒の死闘の末に、土俵際で貴乃花が右上手投げで逆転勝利し、「これぞ、名勝負というのだろう。」「角界の第一人者の座をかけた攻防はまさに互角。一年納めの場所を締めくくるにふさわしい死闘だった。」と称賛された。

横綱時代

11月場所後の横審ではわずか10分の審議で、全会一致で横綱昇進を答申した。11月23日に行われた昇進伝達式の口上で「謹んでお受け(致)します。今後も『不撓不屈』(自身大関昇進の伝達式でも用いた)の精神で、力士として相撲道に『不惜身命』を貫く所存でございます」と使者に答えた。『不惜身命』の語は、貴乃花を贔屓にしていた藤真利子を通して緒形拳が提案したものである。尚横綱土俵入りは「雲龍型」を選択、当時同じ二所ノ関一門の横綱だった18代間垣(第56代横綱・若乃花)と13代鳴戸(第59代横綱・隆の里)の二人が主に指導した。

新横綱で迎えた1995年1月場所は初日に武双山に敗れ、1994年9月場所初日から続いた連勝は30でストップした。8日目に魁皇にも敗れたが、14日目に1敗の武蔵丸を破り、千秋楽は13勝2敗で並んだ武蔵丸との優勝決定戦を制し、自身初の3連覇を達成。新横綱の優勝は15日制になってからは、大鵬・隆の里以来史上3人目。3月場所は曙との13勝1敗同士の相星決戦となり、敗れて4連覇は逃したが、翌5月場所でも2場所連続で曙との相星決戦となり、雪辱を果たして14勝1敗で優勝した。7月場所では14日目に優勝を決めたが、千秋楽に曙に敗れ、13勝2敗で終えた。翌9月場所でも14日目に優勝を決め、千秋楽は曙を押し出しで破り、自身2度目の3連覇を全勝優勝で飾った。11月場所は初日に琴稲妻、7日目に土佐ノ海に取りこぼして早くも2敗。中日以降は順調に白星を重ね、14日目まで12勝2敗で兄の若乃花と共に優勝争いのトップに立った。千秋楽では若乃花が武双山に敗れ、自身も武蔵丸の注文相撲に屈したため12勝3敗同士の史上初の兄弟優勝決定戦が実現。若乃花の右四つからの下手投げで敗れ、4連覇を逃した。

この優勝決定戦の前日に二子山から兄に勝ちを譲るように仄めかされたとする一部報道、またこれを切っ掛けに貴乃花が父の11代二子山への思慕を失ったとする分析も存在したが、貴乃花本人は協会退職後の自叙伝でこれを「あり得ません」と否定し「やりにくさを感じた自分の未熟さが、そのまま結果に出たということです。兄の勝敗がどうあれ、本割に勝って優勝を決められなかったことも含めて、まだまだ精神をコントロールできていないと思い知らされました」と述べている。

1996年1月場所は13日目まで全勝で優勝争いのトップを走り、1敗で同部屋の貴ノ浪が追っていたが、14日目に魁皇に敗れ初黒星を喫し、貴ノ浪が1敗を守ったため、両者1敗で並んだ。千秋楽は14勝1敗で並んだ貴ノ浪と優勝決定戦に進出したが、河津掛けで敗れ、横綱昇進後初めて2場所連続で優勝を逃した。貴闘力の証言によれば、貴乃花は貴ノ浪に敗れたあと、風呂場で桶を叩きつけて「チクショー」と声を上げ、真剣勝負に行って負けたことを悔しがっていたという。3月場所は3日目に旭豊に敗れ金星を許すも、その後は白星を重ねて14日目に優勝を決めた。千秋楽も武蔵丸を寄り切って14勝1敗で終えた。5月場所は6日目に剣晃に敗れ金星を許すも、その後は白星を重ね、千秋楽に2敗で追っていた若乃花、貴ノ浪が共に敗れ3敗となったため、自身の取組前に13回目の優勝が決定。結びの一番では曙を下手出し投げで破り、14勝1敗で終えた。7月場所は3日目に琴の若に敗れ自身7個目の金星を許し、その後も13日目に魁皇にも敗れ2敗に後退。1敗の曙を追う展開となったが、14日目に武蔵丸を寄り切って2敗を守り、曙が若乃花に敗れ、2敗で貴乃花、曙、貴ノ浪が並んだ。千秋楽では貴ノ浪が魁皇に敗れ優勝争いから脱落したため、結びの一番は曙との12勝2敗同士の相星決戦となり、寄り倒しで制して輪島に並ぶ14回目の優勝を果たした。9月場所は5連勝で5日目で早くも単独トップとなり、12日目には12連勝で幕内連続12勝以上勝利が、北の湖の12場所を超える、13場所目の新記録(当時)を達成した(現在は白鵬の22場所(2008年7月場所 - 2012年3月場所)、17場所(2012年7月場所 - 2015年3月場所)に次ぎ歴代3位)。13日目には同部屋の貴闘力が、2敗で追っていた武蔵丸を破って「援護射撃」を果たすと、自身も結びの一番で魁皇を送り出しで破り、4場所連続15回目の優勝を決めた。4連覇は自身初。14日目は武蔵丸、千秋楽は曙を退け、全勝優勝で締めくくった(これ以降、日本人力士の全勝優勝は2016年9月場所の大関豪栄道まで丸20年途絶えた)。当時まだ24歳という年齢で、幕内優勝15回という実績や、ほとんど隙のない当時の取り口から考えると、大鵬や千代の富士の優勝回数の突破は、時間の問題とさえ言われていた。

しかし、1996年(平成8年)9月場所後の巡業中、背筋の肉離れを起こすケガにより緊急帰京。肉離れが完治しない中、同年11月場所を一旦強行出場することを表明したが、場所初日の前日に急性腸炎による発熱で入院、結局11月場所は初土俵以来初めて本場所を全休することとなる。

この休場をきっかけに、貴乃花の相撲に陰りが見え始め、また休場中の間に上体だけが肥えてしまい、1997年(平成9年)以降は体をのしかけて潰す相撲に変貌してしまう。更に強引にねじ伏せたり浴びせ倒したりするなど、明らかに相撲の質が落ち、好角家からも批判されるようになった。大型力士に対抗するために自らの判断で増量したが、あまり上手くいかなかった。それまではかなり熱心で体の毛も生えないほどだった稽古も、準備運動は入念にするものの実戦的な稽古量が激減するという事態に陥った。

1997年(平成9年)は過去の稽古の貯金もあって3度優勝、通算5回目の年間最多勝(同1997年が自身最後の年間最多勝)も受賞して横綱の面目を十分に保てたが、1998年(平成10年)以降はその貯金も底を突いた状態となった。1998年(平成10年)1月場所終盤、急性上気道炎による高熱と、顔面に現れた原因不明の発疹による体調不良で、勝ち越しながらも途中休場(これにより同年2月に開催された長野オリンピック開会式及び横綱土俵入りも欠席した。横綱土俵入りの代役は曙が務めた)。翌3月場所も序盤から崩れて、肝機能障害によりまたも途中休場に追い込まれた。7月場所と9月場所は連覇して(7月場所の優勝インタビューでは、引退も考えていたとコメントした)優勝回数を20回の大台に乗せたが、その後は怪我や病気に苦しみ、2年以上優勝から遠ざかることになった。

同年秋場所直前に、父の11代二子山が兄を拒絶するようになった貴乃花について「貴乃花は懇意にしている整体師から洗脳されている」と発言したとする「貴乃花洗脳騒動」が起きた。この騒動により一時期若貴兄弟は二子山からの信用を失い、その影響で部屋の力士の殆どから稽古相手をしてもらえなくなったとも伝わるが、そんな時に犬猿の仲であった安芸乃島だけは延々と稽古相手を務めたという。(後述)

1999年(平成11年)1月場所は、序盤から大崩れとなり盛り返すことなく8勝7敗に終わった。3月場所は10日目の闘牙戦で勝ち越しを決めたものの、左肩を骨折して途中休場。5月場所は全休。休場明けの7月場所は8日目まで1敗だったものの、9日目の出島戦で左手薬指を脱臼し、その影響で12日目から4連敗と大きく崩れ、9勝6敗に終わった。9月場所は出場したが一つも勝てずに3日目から休場。再起を賭けた11月場所も初日に玉春日に敗れた(この敗戦で不戦敗を含まず7連敗となり平成以降の横綱では当時の最多記録となった)。さらに6日目に栃東、9日目に魁皇にそれぞれ敗れ9日目で早くも3敗。しかしその後は持ち直して14日目まで3敗を守り、千秋楽に武蔵丸と横綱同士の相星決戦にまで持ち込み、敗れはしたものの、11勝4敗の準優勝を果たして望みを繋いだ。

この頃から稽古量が再度上向きになり、2000年(平成12年)1月場所は12勝3敗(優勝次点)、3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗(優勝次点)と復活間近を思わせた。だが7月場所は、5日目の土佐ノ海戦で勝ちながらも左手の上腕二頭筋を断裂する怪我を追い、2日後の7日目・魁皇戦で切り返しで敗れた際、その左腕のケガが悪化した為また途中休場となった。翌9月場所は全休。休場明けの11月場所は初日から順調に白星を重ね、14場所ぶりに中日勝ち越しを決めた。9日目に武双山、10日目に千代大海と連敗し、優勝争いからは後退したものの、12日目は、この場所1横綱3大関を破り、13勝を挙げ、三賞を総ナメにした新鋭の琴光喜の挑戦を小手投げで退け、横綱の意地を見せた。13日目に武蔵丸、14日目に曙と両横綱には敗れたものの、千秋楽は3連敗中だった魁皇を寄り切りで破り、11勝4敗で繋いで不振脱出の兆しを見せた。

2001年(平成13年)1月場所は初日から14連勝したが、千秋楽で横綱・武蔵丸に敗れて14勝1敗に終わる。武蔵丸と同点となり優勝決定戦にもつれ込むも、その一番では武蔵丸に勝利を果たし、14場所ぶり21度目の復活優勝を遂げた。一度変貌した相撲内容は更に変貌し、嘗ての自在の内容に代わり、完全に腰を固め、充分に捕まえて逡巡せず勝負に出るようになって新生貴乃花を印象付けた。安定感はやや低下したものの、力強さは逆に最盛期以上の相撲振りを印象付けた。

3月場所は3日目に栃乃洋に敗れ1敗。13日目には武双山にも敗れ2敗に後退。14日目に1敗の魁皇を上手出し投げで破り、優勝への望みを繋いだが、千秋楽に魁皇が武双山との2敗同士の対決を制し、自身が結びの一番で武蔵丸に敗れたため、優勝は魁皇となった。

5月場所は初日から13連勝して完全無敵の強さであったが、14日目の武双山戦で土俵際で巻き落としを喰らって右膝半月板を損傷する大けがを負った。もはや立つことも困難なほどの重傷であった。11代二子山ら関係者も休場するよう貴乃花に勧めたが、幕内優勝が掛かっていたため、周囲の休場勧告を振り切り、翌日の千秋楽に強行出場した。千秋楽は協会トレーナー(出羽海部屋の元幕下・若鷲)がテーピングをしたらどうかと勧めたが、テーピングをせずに横綱土俵入りを披露した。しかし本割りの仕切り最中にすら右膝を引き摺るような仕草があり、勝負にならないことは明らかであった。その悲惨な状況に審判部として土俵下に座る13代九重は仕切りの最中にも「貴乃花、痛かったらやめろ!」と忠告したほどであった。予想通り千秋楽結びの一番の武蔵丸戦では、武蔵丸の立合いの変化に全くついて行けず一瞬で勝負がつく様な敗退で武蔵丸と相星となった。

続く優勝決定戦は、大方の予想を覆し、武蔵丸を上手投げで破った。勝利を決めた直後の鬼の形相と奇跡的な優勝で、後世相撲史に語り継がれる大一番となった。当日、表彰式で内閣総理大臣杯を授与した小泉純一郎は「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!!おめでとう!!!」と貴乃花を賞賛した 。貴乃花が怪我を押して出場した背景には「休場すれば本割、優勝決定戦と不戦勝で武蔵丸が優勝をさらう史上初の事態になった」という状況があり、この優勝の際のスポーツ新聞の記事で貴乃花は「横綱としてというより、1人の力士としてやろうと思った。ひざがダメになったらという不安?そうなったらそうなったときですから」と言っていた。表彰式での優勝インタビューで怪我の痛みを聞かれ「特にないですよ」と答えると、大きな拍手と歓声が沸いた。

相撲史に残る大一番を制した貴乃花であったが、間もなくその代償は予想以上に大きい事が判明し、逆に大きな禍根を残すことにもなった。

全休となった2001年(平成13年)7月場所後、大けがをした右膝の半月板を除去する手術をフランスで受けて再起を目指した。しかし、2002年(平成14年)7月場所まで、1年以上も全ての場所で休場となってしまう(なお7場所連続全休は大相撲史上ワースト1位である)。世間も最初は「休場してゆっくり治せば良い」と温かい目で見ていたが、休場が1年近くになった頃から、貴乃花に対する風当たりは強くなり、一部の横綱審議委員も苦言を呈するようになった。なお大相撲力士は本来休場中のTV出演はNGだが、この長期休場中に『BISTRO SMAP』にゲスト出演して物議を醸した。

2002年(平成14年)9月場所、横綱審議委員会からの勧告もあって、遂に8場所ぶりの出場に踏み切った。注目された初日の高見盛戦では勝利したものの、序盤の2日目・旭天鵬戦と5日目・琴龍戦でそれぞれ金星を献上してしまい、この場所途中での引退さえ囁かれた。しかしその後中盤の6日目から終盤14日目にかけて星を伸ばして12勝2敗、千秋楽に武蔵丸と横綱同士の相星決戦にまで持ち込み、敗れはしたものの12勝3敗の準優勝を果たした。武蔵丸の存在が自身の力を測るバロメーターになっていたことを考えると、貴乃花は「ああ、もう自分はそろそろだな」と感じたという。他の幕内力士との実力の違いを見せつけたが、場所終盤には再び右膝の怪我の状態が悪化したため、翌11月場所はまたも初日から全休することとなる。

現役引退

2003年(平成15年)1月場所、右膝の状態が万全ではなかったものの出場を決意。初日の若の里には土俵際の小手投げで辛うじて勝ったが、翌2日目の雅山戦では二丁投げを喰らって左肩を負傷してしまう。明らかに不利な体勢であったが、審判委員から物言いがつき「両者同体」と判定された。その取り直しの一番は雅山に左からの上手投げで勝利したものの、左肩の怪我により翌3日目の旭天鵬戦は不戦敗、4日目まで途中休場する羽目となる。

だが、5日目から場所途中からの再出場(1954年1月場所の東富士以来49年ぶり)を決断する。5日目・闘牙と6日目・土佐ノ海に連勝はしたものの、貴乃花らしい相撲は全く見られず、7日目の出島には一気に押し出され、8日目には初対戦の安美錦にも送り出しでそれぞれ敗れてしまった。この再出場に関して本人は2019年のインタビューで「神風特攻隊のように死に花を咲かせるため」とその意図を語った。

この同1月場所8日目の安美錦との一番を最後にその翌9日目でついに現役引退を表明(取組予定だった琴ノ若戦はこの場所2度目の不戦敗)した。当時まだ30歳で、父とほぼ同年齢での引退でもあった。引退会見で連発した「非常にすがすがしい気持ち」、「心の底から納得しております」は、一時流行語にもなった。

貴乃花の引退相撲と断髪式は2003年(平成15年)5月場所後に行われ、武蔵丸、魁皇、兄、長男などに鋏を入れられ、留めバサミは父が入れた。断髪式後、土俵上で作文朗読をした長男は涙をこぼしていた。

引退後 貴乃花部屋誕生とその終焉

貴乃花は、2003年(平成15年)1月場所限りで引退して、一代年寄・貴乃花を襲名。父の11代二子山が師匠を務める二子山部屋の部屋付き親方となる。

2004年2月1日付で二子山部屋を継承し、同時に部屋の名称も貴乃花部屋へと変更された。3月場所にて藤中ら2人が初土俵を踏んだ。一方、同年5月場所で貴ノ浪が引退。部屋付き親方の17代藤島(元関脇・安芸乃島)との対立が表面化し、17代藤島は先代の11代二子山に許可を受けて同年に高田川部屋へ移籍(事実上の破門)する。兄で元横綱若乃花の花田虎上への批判を強める。

2005年5月に父の11代二子山が死去した後、貴乃花は協会運営などに関する持論をメディアで繰り返し発言、その挙動がマスコミを連日にぎわせ、相撲協会内との確執が表面化した。役員全員が口頭で厳重注意し、本人もこの時は頭を下げていた。

2010年日本相撲協会理事選、理事として

2010年1月場所8日目(17日)、大相撲中継で6年半ぶりに正面解説を務め、テレビ出演中に同年2月に行われる協会理事選挙に立候補することを表明した。貴乃花は出馬を希望していたが、二所ノ関一門は既に現職理事の17代放駒と10代二所ノ関のほか、新人の13代鳴戸が立候補を予定していた。協会の理事選は10人の改選で5つある一門ごとに理事候補を調整して無投票で決定することが慣例となっていたこともあり、2009年12月から一門で候補者選定会議が行われた結果、最年少であった貴乃花に立候補を断念させる方針に傾いたためである。

同月19日に二所ノ関一門は緊急会合を開き、貴乃花を支持する18代間垣、12代阿武松、16代大嶽、12代二子山、19代音羽山、15代常盤山の親方6人および間垣部屋、阿武松部屋、大嶽部屋の3部屋は事実上破門とした。既に一門からの離脱を明らかにしていた貴乃花と貴乃花部屋に対しても、同様の措置が執られた。同時に二所ノ関一門からは現職の17代放駒と10代二所ノ関の立候補が決まり、13代鳴戸は事実上立候補を断念せざるを得なくなった。

このため、4期(8年)ぶりに評議員の投票で11人が10人の理事を争う形になり、騒動になったことを武蔵川理事長が厳しく批判するなど話題になった。固めている票は上記7親方の票だけで当選ラインの10票まで届いていないために苦戦が予想され、他一門からの票の上乗せを目指すことになった。2月1日の理事選の投開票では落選という予想に反し、上記7親方の票以外にも3票の上積みがあり、10票を得て当選した(落選は2代大島)。新理事会の結果、理事長は14代武蔵川の続投となった。この一連のことを一部マスコミでは「貴の乱」と称し、貴乃花を「相撲協会の革命児」と報道している。

貴乃花とその支持派閥は暫く、マスメディアで「貴乃花派」「貴乃花グループ」と呼ばれる派閥を形成し、合同で稽古を行うなど一門に準じた形態で行動していたが、2014年度より他の一門と同じく協会から助成金を支給される待遇を得たことを契機として同年5月23日から「貴乃花一門」に改称となり、これにより5つあった一門が1つ増えた格好になった。

部屋の師匠としては一門外だが臥牙丸が「一番怖い親方」と評するほどの厳しさを見せた。臥牙丸によると、自分の弟子には稽古からテーピングの巻き方まで、隅々に渡る厳しさを見せたという。

2010年7月4日に行われた臨時理事会で大関・琴光喜が野球賭博に関与して解雇処分になったことを不服として、貴乃花は処分軽減ならびに現役続行を強く訴えたが、外部理事からの反発により却下された。理事選にて自身を支持した12代阿武松の弟子と床山、それに16代大嶽が野球賭博に関与して処分の対象となったこともあり、貴乃花は退職願を提出した。武蔵川理事長や村山弘義理事長代行は受取を拒否、貴乃花は翌日の朝稽古を見た後に退職を撤回した。

同年8月12日、武蔵川理事長が健康上の理由と野球賭博問題の引責で辞任したため、同日行われた理事長選挙では北の湖を推薦し「貴の乱再び」と言われた。後任の理事長は17代放駒に決まり、放駒理事長となってから初めて行われた8月20日の理事会にて、審判部長に就任。38歳での審判部長就任は、35歳で就任した9代出羽海(第50代横綱・佐田の山)に次ぐ、2番目の若さであった。

2012年1月場所後の1月30日に行われた理事選にも立候補し、再選。大阪場所担当部長に就任した。

2013年11月場所の途中より、病気休場した伊勢ヶ濱審判部長に代わって勝負審判(審判長)を務めている。2014年4月以降も引き続き理事を務めることになり、協会常勤の執行部・総合企画部長など部長職5つを任される厚遇に与った。

2014年3月場所後、鶴竜が第71代横綱に昇進した。鶴竜は時津風一門の井筒部屋所属だが、当時時津風一門に元横綱の親方が不在のため、代役として無所属の貴乃花が鶴竜に対し、雲龍型の横綱土俵入りを指導した。

2014年6月に両耳の手術を受けた。関係者は「小学校からの相撲の稽古で両方の耳たぶが腫れて血が固まって硬くなってしまい、人の話など聞きづらく、眼鏡などをすると擦れて激痛が走る状態」と説明。2014年7月場所は手術した両耳が完治しておらず、北の湖理事長と相談の上体調不良による検査入院のため大事を取って全休。同場所後の7月28日、両国国技館での横綱審議委員会より公務に復帰した。

2014年11月場所で自己最高位の西幕下3枚目に昇進した貴斗志を引退させた。これについて貴斗志は「親方が勝手に引退届を提出した」として、2015年3月に相撲協会を相手に地位確認や報酬の支払いなどを求めて東京地裁に提訴した。この裁判において、貴乃花が洗濯ができていないことを理由に付け人に何度も往復ビンタや殴打をしたり、指輪をした手で弟子を殴り目の上が切れる怪我を負わせるなどの暴力を振るっているという証言が裁判記録や陳述書に記載されているが、2017年3月に東京地裁は貴斗志の請求を棄却した。貴斗志側は判決を不服として東京高裁に控訴したが、2018年2月23日に相撲協会と和解が成立している。

2016年1月29日の理事選挙では4選、3月28日に行われた理事長改選では現職の8代八角と共に次期候補となるが、多数決の結果6対2で8代八角に敗れた。理事長選に際して頭を丸刈りにしたことが話題になった。続く3月30日の職務分掌では執行部から巡業部長へ異動となった。

その後、貴乃花と協会執行部との対立が深まる中、2017年11月、モンゴル出身力士の会合で、日馬富士が貴ノ岩を殴ったことが表面化すると、貴乃花は協会の対応を猛烈に批判する(後述)。

日馬富士は責任を取る形で引退するが、2018年1月、相撲協会は貴乃花を理事から解任した。翌2月の理事選で、貴乃花一門の12代阿武松らは貴乃花親方に不出馬を要請していたが、強硬に出馬して落選。ワイドショーで協会批判を繰り返したり、内閣府に告発状を送ったりと過激な行動を続けた。だが、3月の春場所中に、貴乃花部屋の貴公俊が付け人を殴る事件が発生。日馬富士の暴力を批判してきた貴乃花親方は窮地に陥る。協会は平年寄に降格処分を行う。

その後、6月に貴乃花部屋は無所属となり、貴乃花一門は解体。貴乃花は9月に相撲協会を退職する形になり、同月末で貴乃花部屋は消滅。所属力士らは千賀ノ浦部屋(現・常盤山部屋)に移った。「平成の大横綱、貴乃花」の部屋としてはあまりにも寂しすぎる幕切れとなった。

明治神宮例祭奉祝 奉納70回全日本力士選士権大会(2011年10月撮影)
明治神宮例祭奉祝 奉納70回全日本力士選士権大会(2011年10月撮影)

横綱審議委員会稽古総見(両国国技館 2011年12月撮影)
横綱審議委員会稽古総見(両国国技館 2011年12月撮影)

横綱審議委員会稽古総見(両国国技館 2017年5月撮影)
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2024/06/24 15:04更新

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