貴ノ花利彰の情報(たかのはなとしあき) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
貴ノ花 利彰さんについて調べます
■名前・氏名 |
貴ノ花利彰と関係のある人
栃ノ海晃嘉: 名字が「花田」で同じ青森県出身ではあるが、若乃花幹士・貴ノ花利彰との血縁は無い。 貴ノ浪貞博: 大関の同時昇進は1977年(昭和52年)1月場所後の若三杉壽人(新大関)・魁傑將晃(再昇進)以来17年ぶり、新大関2名の同時昇進は1972年(昭和47年)9月場所後の貴ノ花利彰・輪島大士以来22年ぶりだった。 下角陽子: 前述の好格から大相撲の仕事を行う様になったが、関取として好きな人物は貴ノ花利彰である。 高見知佳: サントリー ナマ樽 一般大衆篇(レオナルド熊、藤島親方(後の貴ノ花利彰)と共演。 大豪久照: 若乃花幹士 (初代)の義弟であり、貴ノ花利彰の義兄である。 安藝ノ海節男: 1975年11月場所で横綱昇進がかかっていた貴ノ花利彰については「まずダメだね。 吉葉山潤之輔: その吉葉山ファン達の興奮ぶりは、昭和時代後期の貴ノ花利彰・千代の富士貢の幕内初優勝や、平成時代初期の「若貴フィーバー」に匹敵するものだったという。 花田優一: 父は貴乃花光司、母は河野景子、祖父は貴ノ花利彰、伯父は花田虎上、大伯父は初代若乃花、祖母は藤田紀子である。 大鵬幸喜: 同年3月場所でも12勝と健在ぶりを示したが、同年5月場所で栃富士勝健に敗れた際に尻から落ちたことで体力の限界を感じ、さらに5日目には新鋭だった貴ノ花利彰に同じく尻から落ちる敗戦を喫した。 貴乃花光司: 父は貴ノ花利彰(11代二子山)、母は藤田紀子、兄は花田虎上(三代目若乃花)で、初代若乃花(10代二子山)は伯父(父の兄)。 山崎正: 2005年、11代二子山(元大関・貴ノ花利彰)の死去後に表面化したいわゆる「若貴確執騒動」では『スーパーモーニング』や『ワイド!スクランブル』などにゲスト出演し、コメントを寄せた。 |
貴ノ花利彰の情報まとめ
貴ノ花 利彰(たかのはな としあき)さんの誕生日は1950年2月19日です。青森出身の相撲のようです。
兄弟、結婚、父親、家族、テレビ、病気、引退、現在、離婚に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2005年に亡くなられているようです。
貴ノ花利彰のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)貴ノ花 利彰(たかのはな としあき、1950年2月19日 - 2005年5月30日)は、北海道室蘭市出身(番付上は青森県)で二子山部屋に所属した大相撲力士。本名は花田 満(はなだ みつる)。最高位は東大関。身長183センチメートル (cm)、体重114キログラム (kg)、血液型はB型。得意技は左四つ、寄り、吊り、上手投げ。「土俵の鬼」と謳われた第45代元横綱で初代若乃花の弟である血統と、細身で均整に優れる体格と甘いマスクから「角界のプリンス」と称され、大相撲と日本のスポーツで人気を博す。位階は従五位、旭日小綬章受章。 1993年に次男の花田光司が四股名を「貴花田」から「貴ノ花」へ改名後は「初代貴ノ花」や「先代貴ノ花」など称される。 貴ノ花こと花田満は1950年2月19日に、室蘭市で10人兄弟の末子として生まれた。兄は初代若乃花と若緑陸奥之丞(三段目)、母は武ノ里武三の又従姉、義兄に大豪久照、長男は第66代横綱で3代目若乃花の花田虎上、次男は第65代横綱の貴乃花光司、元配偶者は元女優の藤田憲子、孫に花田優一と白河れいがいる。 満が誕生した時、長兄の勝治(若乃花)はすでに22歳で幕内力士となっており、巡業がてら帰省した際に実家で初めて満と対面した。最初は結婚した姉の子供だと思っていたが、両親から「お前の弟だ」と聞かされて仰天し、「いい加減にせえや。何人産んだら気がすむんだ」と半ば呆れたという。1955年に父親が死去すると残された母や兄姉は兄である初代若乃花の下に引っ越しをすることになり、家族は東京に引っ越した。 杉並区立東田中学校在学中に水泳で名を上げ、オリンピック選手の候補になるほどだった。専門はバタフライで100mにて中学新記録を出し、1968年メキシコシティーオリンピック代表でメダルも期待された高田康雄とはライバル関係にあった。2人で交互に中学記録を更新したほどの実力で、将来のオリンピック候補選手だった。 しかしながら、兄でもある二子山(初代若乃花)の相撲部屋への入門を希望した。二子山は、もう一人の弟である陸奥之丞が失敗するのを目の当たりにしていたため猛反対した。二子山はあるテレビ番組で、『オリンピックのドン・ショランダーの活躍を見て、弟には相撲よりも水泳のオリンピック選手になってもらいたかった。』と語っている。結局、母が説得してくれたので、「いいか、今日からは父(22歳離れた兄である勝治は、父が早くに亡くなった後は兄弟たちの父代わりだった。)とも兄とも思うな、敵だと思え!」と兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可した。後に巷間に名言として伝わった「水泳じゃメシは食えない(から力士になろうと思った)」の発言について、師弟揃って否定している。一方で自伝『あたって砕けろ』には「水泳では将来が不安だ。そして出した結論が、相撲のプロの道を選ぶということだった」の記述がある。当時は水泳のオリンピックで金メダルを獲得しても経済的に恵まれるような時代ではなく、体の大きな若者がスポーツで身を立てようとすると、野球か相撲ぐらいしか選択肢がなかった。 1965年(昭和40年)5月場所、本名のままで初土俵を果たす。兄から師匠へと立場の変わった二子山は、花田を徹底的に厳しく指導した。「弟だから甘くしている」と言われないため、二子山は花田にわざと厳しく接していたといわれている。実際、二子山は陸奥之丞を肉親の情から甘やかして大成させることができなかったことによるトラウマを持っていた。新弟子時代のある時にぶつかり稽古で失神すると、二子山にそのまま隅田川へ投げ込まれた。兄弟子たちからも限度を超えたしごきを受けたとも伝わる。二子山の指導は厳しく弟が仕返しの標的にされた。二子山は日頃から「相撲に入った以上、痛いとか苦しいということを口にするな」と教えていた。そのため貴ノ花は1965年7月場所を6勝1敗の成績で終えて序ノ口優勝を果たした後に、東京へ帰り日大病院に入院した時も病気が悪化するまで誰にも言わずに頑張った。 当時、まだ日本大学の相撲部員だった輪島が二子山部屋に稽古に来た際、十両時代の貴ノ花が相手をしたことがあった。年齢は輪島の方が貴ノ花より2歳上なのだが、プロの十両力士の方が強いだろうとの周囲の予想に反し、貴ノ花は学生の輪島に負けてしまった。これに怒った二子山が「おい!黒い廻しを持って来い!」と怒鳴ったエピソードがある。相撲の稽古用の廻しは、十両以上の関取が白で幕下以下は黒とする決まりがあり、二子山は学生の輪島に負けた貴ノ花に対して「満よ、お前には関取の資格はない!」と怒ったのである。 1965年7月場所序ノ口で優勝、1968年(昭和43年)3月場所に18歳0ヶ月の史上最年少(当時)で新十両となり、新十両の場所も8勝7敗と勝ち越して初土俵以来17場所連続勝ち越しの新記録(当時)を樹立した。同年5月場所には7勝8敗と負け越したものの9月場所で11勝4敗の成績で十両優勝を果たし、11月場所には新入幕を果たした。18歳8ヶ月15日での入幕は武藏山の19歳5ヶ月1日を破り、これも当時の新記録であった。これにより、兄の若乃花とともに明治以降では初の兄弟幕内力士となった。 新入幕当時、二日酔いで稽古を休もうとしたところを二子山に見つかったことがあった(当時未成年であったが、取的時代の兄弟子の強要もあり、飲酒は常態化していた。)。激怒した二子山は花田を青竹で殴って叩き起こし(聞くところによると、布団が血で真っ赤になるまで叩きつけたらしい。)、稽古場に連れていった。 新入幕の1968年11月場所は8勝7敗と勝ち越したが、1969年(昭和44年)1月場所は7勝8敗と負け越した。次の3月場所は初日黒星の後2日目に急性上気道炎のため、不戦敗・途中休場となった。7日目から再出場したが5連敗を喫し、この場所一つも白星を挙げられず(8敗7休)に12日目に2度目の不戦敗・再休場となる。 その後一度十両に下がり、再入幕するまでの間のある時に40度の高熱を押して出場した結果肝硬変寸前の状態になったことがある。1970年(昭和45年)1月場所で花田から貴ノ花と改名、再入幕を果たし10勝5敗で敢闘賞を獲得した。同年9月場所は新小結で9勝を挙げ殊勲賞を獲得、場所後に藤田憲子との結婚式を挙げた(媒酌人は二子山部屋後援会長である安西浩・東京ガス社長)。同年11月場所では7勝8敗と負け越したものの、連日の健闘が讃えられ会場(当時)の福岡スポーツセンターから表彰された。その後、横綱の大鵬との対戦(1971年(昭和46年)1月場所5日目)で足を負傷するが、5月場所5日目にその大鵬に黒星をつけて名を上げた(大鵬は、この日の敗戦を最後に引退した。)。大鵬との対戦成績は通算2勝3敗であった。この1月場所は途中休場の憂き目にあったが、1月20日に誕生した長男の勝に病院で対面して「まずはこの子のためにも頑張らなきゃ。」と意識が変わった。その後も9月場所6日目、大関の清國に足を取られながら逆転勝ちをするなど驚異的な足腰の強さを発揮し、角界一の人気を不動のものとした。7日目には横綱の玉の海と対戦、もろ差しになり土俵際まで攻めながら差した両腕を抱えられ、吊り出しで敗れた。玉の海とは7回対戦したが貴ノ花は1度も勝てず、玉の海の堂々とした相撲ぶりや稽古熱心さを尊敬し目標としたものの1971年10月、玉の海が急逝したためついに恩返しをすることはできなかった。新入幕当時からの対戦相手として羽黒岩と大麒麟(対戦当初の四股名は羽黒岩が戸田、大麒麟が麒麟児)を苦手としていた。両者とも喧嘩四つ(玉の海同様、羽黒岩、大麒麟も右四つ。貴ノ花は左四つ。)の相手であり、立合い一気の押し相撲を得意とする羽黒岩には通算3勝9敗(貴ノ花が大関昇進後も1不戦敗を含めて1勝4敗)、柔軟で差し身が良く腰の重い大麒麟にも通算6勝13敗(貴ノ花が大関昇進後も2勝6敗)と玉の海同様、貴ノ花にとっては苦手な対戦相手でもあった。 大鵬の1人勝ちにより低迷していた大相撲の人気が息を吹き返したのは、貴ノ花が幕内に登場したのがきっかけであるとされている。 「かばい手」「つき手」論争を巻き起こした横綱の北の富士戦(1972年(昭和47年)1月場所8日目)では、立合いから攻めに攻めた北の富士が土俵中央で外掛けを強襲、しかし貴ノ花が残したため、北の富士がもう一本の足も外掛けにして両外掛けの体勢となった。掛けもたれる北の富士を貴ノ花がわずかに左へ振ったかとおもうと、北の富士が右手を土俵に着いた [1]。約5分間も協議が続く大物言いとなるが、結果審判団は「かばい手」と判定して北の富士の勝ちとした(貴ノ花は既に「死に体」だと判断された。)。このとき「つき手」を主張したものの受け入れられず、差し違えとされた立行司25代木村庄之助も千秋楽まで謹慎となり、3月場所前には廃業に追い込まれる事態となった。当時の映像(正面から)を見ると、どちらが有利か際どい内容である。一方、死に体の判断では足の形が重要な基準となるが、写真を見ると(東方からのものが多い)貴ノ花の両足はつま先立ちながらも足の指でしっかりと土俵を噛んでおり、北の富士をうっちゃろうとする力にあふれているようにも見える。 3月場所7日目に両者は再戦したが、このときも土俵際でもつれる展開となり再び行司差し違え(このときの行司は22代式守伊之助)、今度は北の富士が勇み足を取られ敗れている(取組後、北の富士は「“かばい手”はあるのに“かばい足”はないのか」と語ったといい、2016年に出版された自著では「僕は自分の顔をかばっただけ」と改めてかばい手であると主張した)。こうした貴ノ花の強靭な足腰、奇跡的な逆転勝利の連続に対し当時の相撲解説者である玉ノ海梅吉が、「貴ノ花の足腰にはもうひとつの生命がある」との名セリフを残した。 同門の花籠部屋に入門した輪島とはライバル同士になり、共に激しい争いを演じていた。その一方で、プライベートでは大の親友だったともいわれている。両者大関取りとなる1972年9月場所の千秋楽では輪島との水入りの熱戦で負けはしたものの、場所後に二人が揃って大関に昇進した。貴ノ花は昇進前3場所で33勝挙げた一方、直近場所が10勝どまりであった点で注文がついたが前述の熱戦が評価されたことや、輪島と一時代を築き上げることが待望されていたことが後押しになって大関推挙が実現した。ちなみに、この千秋楽は当時の皇太子一家(上皇、上皇后、今上天皇、秋篠宮)が観戦しており、この大熱戦に大喜びした様子がNHKのテレビ中継を通して全国に流れた。 大関昇進当初、貴ノ花は「自分の場合は、周りが大関、大関と騒いでくれたのが結果的に良くって、なれたものと思う」と自分が昇進の機運に乗っかって昇進したと自覚するところを語り、大関昇進伝達式の使者が来るまで昇進を実感できなかった。当時、体力的な問題について記者から聞かれた時には、「自分じゃ無理に体重を増やしてもかえっていけないと思っているが……総合的な体力は、そりゃもっと強くしたいがね。それよりもこのままの体でもっと強くなればいい」と答えている。太れなかったことに関しては、後に北の富士が「貴ノ花の阿佐ヶ谷の頃の部屋の食事を見たら、野菜中心。まあ、肉も食べてたんだろうけど」と当時について証言している。北の富士は、ほとんどベジタリアンのような食事に驚き、あのような食事では太れないと嘆息していたとも伝わる。97kgの体重では力士としてみっともないからと、新入幕を機に公称106kgとしたとも言われる。 ライバルの輪島は大関4場所目に全勝優勝して綱を取ったが、一方の貴ノ花はなかなか優勝できなかった。周囲からは「貴輪時代」(きりん じだい)を期待されたが結局のところ実現せず、その後に急成長してきた怪童・北の湖にも実力面で追い抜かれ、「輪湖時代」(りんこ じだい)が訪れることになったのである。 1974年(昭和49年)7月場所の貴ノ花は休場明けで体調が万全でなかったが、優勝争いのトップを走っていた大関の北の湖と12日目に対戦し、北の湖を吊り出しで破った。この一番は小兵の貴ノ花が、巨漢の力士を豪快に破った名勝負の一つとして記憶されることになる。その北の湖は11日目まで全勝で輪島に2差をつけ、優勝を手中に収めたと思われていたがこの貴ノ花戦で敗れたこともあって千秋楽には1差を逆転され、輪島に優勝を奪われた。ただし前の場所で優勝していた北の湖は場所後、21歳の若さで横綱に昇進している。 1975年(昭和50年)ごろのある時から貴ノ花は、「ただガマンすることではダメなのだ。ガマンをしたって病気は悪くこそなれ、良くはならない。悪いところを治療していかなければならない」ことに気づいた。以来、稽古が終わって風呂をあがると温湿布を約20分間続け、東京にいるときは温湿布の他に特殊な器具で首と腰椎を引き延ばす治療も行い、外出する時には腰にカイロを入れ保温することを忘れなかった。そうした努力もあってか、3月場所には場所中に若三杉と毎朝10番から20番取ってもスタミナ切れを起こさない体ができあがり、11日目の豊山を終えた時点で「今場所は疲れはほとんど残っていない。まだ5分ぐらいの長い相撲を3倍ぐらいとっても平気だ」といつになく強気な言葉を吐いていた。千秋楽は13勝1敗の貴ノ花と12勝2敗の北の湖の対戦となり、貴ノ花が勝てば初優勝だったが負けて13勝2敗同士の優勝決定戦にもつれこんだ。休憩時間に北の湖が床山に髷を整えてもらうなか黙想していたのに対し、貴ノ花も支度部屋で乱れた髷もそのままに黙々と四股を踏み続けた。決定戦で貴ノ花は仕切り2回目でつっかけ、北の湖もこれに対して4回目の仕切りでつっかけた。しかし、時間いっぱいになってからはお互いにけん制して立てず、制限時間後4回目に立った。北の湖は右で上手を引き、貴ノ花は左を引きつけ、左に頭を下げて食いついた。正面土俵で北の湖は強引な上手投げを放ったが、腰の据わっている貴ノ花はぐっとこらえた。貴ノ花は右手を送り、左手を浅く入れてぐっと腰を落とし西土俵によって出ると、北の湖はこらえきれずに土俵を割った。北の湖を下し、悲願の初優勝を果たした。その瞬間、場内では興奮した観客が投げた座布団がかつてないほどに乱れ飛び、土俵や天井が見えなくなるほどの光景となったが、これも貴ノ花の人気がいかに凄まじかったかを物語るものである。優勝旗は、本来なら審判部長の高砂が渡すべきところだったが、協会の粋な計らいによって兄であり師匠でもある二子山審判部副部長の手から渡された。優勝旗授与の瞬間、「土俵の鬼」と言われた師の二子山の目には、涙が浮かんでいたのを相撲中継のカメラが捉えた。二子山は貴ノ花のこの優勝劇に対して、「ワシが部屋を持って13年。早く関取を出したいとは思ったが、まさか、13年目で優勝力士が出るとは思わなかった。貴ノ花は妻を持ち、子を持ち、人の親となって大きく成長した。技術的にはまだまだだが、今度は、当然横綱を目ざさなくてはならない。そのためには今までどおり、相撲に関しては兄でも弟でもない師匠として厳しく鍛えていかなければならないと思う。花田家はオクテだから、貴ノ花が本当の力を発揮するのはこれからと信じている。最高位を目指し、相撲命の灯が消えた時、兄弟として盃を酌み交わしたい。それまでは横綱を目ざして2人で頑張る……。」と頑なにコメントしている。大鵬親方も「わずか2場所ぐらいの間にこんなに大きく変わった人も珍しい。相撲の取り口もガラッと変わったし、精神的にも著しい成長の跡が伺える」と驚きの声を上げていた。 同年9月場所にも貴ノ花は北の湖との優勝決定戦を制し、12勝3敗で2回目の優勝を果たす。2回の優勝の後には横綱昇進を期待されたが、次の場所では好成績を出せず目標となる綱取りは果たせなかった。貴ノ花もこのころから腎臓病や足の怪我に悩まされていたといわれ、開運を期待して貴乃花と改名もしたが効果はなく、すぐに元の貴ノ花に戻している。 結局のところ貴ノ花の優勝はこの1975年の2回のみで、この頃が貴ノ花の力士としての全盛期だったといえる。以後はゆるやかに力が衰えていき、大関在位50場所の当時史上1位の記録は立てたが優勝争いに絡むことはほとんどなくなり、1977年(昭和52年)1月場所に12勝3敗、3月場所に13勝2敗と2差ながら優勝次点の成績を収めた時を例外として、以後は新聞記事で「貴ノ花」の名が「横綱」の文字に絡むことも絶えた。 当時、最大級の巨漢だった高見山との取組は、牛若丸と弁慶との対決にもたとえられる大相撲きってのゴールデンカードとして知られていた。過去に45回も対戦し、貴ノ花の29勝16敗だったが数々の名勝負が生まれている。両者最後の対戦となった1980年(昭和55年)9月場所7日目の取組では、土俵際での高見山の左小手投げと貴ノ花の右掬い投げの打ち合いで、高見山の右手が先に落ちたように見え、行司二代目式守伊三郎の軍配も貴ノ花に上がった。しかし物言いがつき、貴ノ花の髷の先端がわずかに早く土俵に付いたとして軍配差し違えで高見山の勝ちとなった。投げの打ち合いの際、貴ノ花は一切手を付かなかったため鼻を土俵に強打して出血していた。取組後のインタビューでNHKアナウンサーの「髷がなければ勝っていましたね」の問いに貴ノ花は、「髷がなければ相撲なんて取れないですよ。」と機転の利いた返しで有名になった。 貴ノ花の弟弟子でもある横綱の二代目若乃花が、北の湖と優勝を争った際には見事な援護射撃も行っている。この頃までには、脂が乗り切った大横綱の北の湖との取組ではよほどのことがない限り、貴ノ花が勝つことはなくなっていた。ところが、貴ノ花は立合いで一瞬の変化を見せ、北の湖は全く為す術もなくあっさりと土俵を割ってしまった。北の湖は取組の後で、「他の力士なら変化もあるだろうと警戒するが、貴ノ花関は今まで一度も変化したことがないから、全く無防備だった。」と後に語っている。貴ノ花が本場所の土俵で立合いの変化を見せたのはこの一回だけだといわれており、これも貴ノ花の土俵態度をよく物語る逸話の一つとして知られている。貴ノ花は黒姫山との対戦を終えたある時花道で、観客から「何だ、貴ノ花でもあんな相撲を取るのか。」と投げかけられ、以来絶対に変化しないように誓った。 1980年(昭和55年)1月場所は7勝8敗と大関昇進後唯一の皆勤での負け越しを喫し、この頃から貴ノ花の限界説が危惧されはじめていった。貴ノ花も「次で負け越したら引退する」と背水の陣で望んだ3月場所は5度目の大関角番を脱出して10勝5敗の成績を挙げ、何とか面目躍如となったもののこの場所が貴ノ花の現役最後の2桁勝利となってしまった。 1980年11月場所3日目、大関候補とも呼ばれ日の出の勢いだった元横綱の北の富士の愛弟子でもある千代の富士に一方的に敗れると、この時の相撲を引き金に貴ノ花は引退を決意したといわれている。貴ノ花と同じく軽量の千代の富士にはかねてから特に目をかけており、「喫煙を止めれば体重は増える。自分は結局止められなかったが、お前は止めろ」とのアドバイスによって千代の富士はきっぱりとタバコをやめた。その後、千代の富士も「貴ノ花関のおかげで横綱になれた。」とも後に語っている。 後年に「昭和の大横綱」へ成長した千代の富士が1991年(平成3年)5月場所限りで引退を決意したのは、奇しくも貴ノ花の実子でもある貴花田に同場所初日の初対戦で敗れたことがきっかけといわれている。千代の富士の現役最後の一番となった同場所3日目の取組相手は、同じく貴ノ花の愛弟子だった貴闘力であった。 1981年(昭和56年)1月場所では当時前人未到の大関在位50場所目を迎えた。現在は大関在位65場所・共に歴代1位タイの千代大海と魁皇に次いで歴代3位タイである。貴ノ花も序盤から全く波に乗れず、6日目の対蔵玉錦戦を最後に貴ノ花は30歳11か月でついに土俵を去った。7日目は貴ノ花の引退により不戦敗、成績は2勝5敗。貴ノ花は7日目の対戦相手でもある朝汐戦を最後の相撲として取りたかったが、貴ノ花の師匠にあたる二子山は「引退を口にした者が相撲を取ることは許されない。満、引き際というのは肝心なんだぞ。」と止められた。貴ノ花が引退した際、二子山は「さあ、これで初めて兄と弟に戻って、うまい酒が飲めるぞ。」と喜んでいる。 朝汐が不戦勝の勝ち名乗りを受ける時、館内からは貴ノ花の引退を惜しむファンからは「たかのはなあ〜」の歓声が挙がっていた。この日、実況を担当した当時NHKのアナウンサーだった杉山邦博が「今日、貴ノ花関が引退です……。」と伝えた後、思わず涙で言葉を詰まらせてしまった(このことから、後に週刊誌などで「泣きの杉山」と書かれている。)。その杉山の状況を察した解説の玉ノ海も、機転を利かせてしばらくひとりで貴ノ花評を語り続けている。この1月場所で貴ノ花は力の衰えを感じ、それを体重でカバーするために禁煙を試みたもののかえって体調不安を起こす結果となった。貴ノ花は長年、頭からぶつかる相撲だったために頸椎を痛めるなど満身創痍の状態での現役引退だった。貴ノ花の子息である長男の3代若乃花は29歳2か月、次男の貴乃花も30歳5か月と父親とほぼ同年齢の若さでそれぞれ引退している。 引退後は年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方となった。1982年には藤島に名跡変更して初代若乃花の二子山部屋から分家独立し、藤島部屋を興した。後に長男の若花田(横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田(横綱・貴乃花)が入門し、大きな話題になった。卓越した指導能力は折り紙つきで、他にも後に大関となる貴ノ浪、関脇の安芸乃島や貴闘力など有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。琴錦も藤島部屋の稽古について、「あの部屋は稽古量が多い上に、一つひとつ中身が濃く無駄がない。最後の仕上げのトレーニングまで、若い衆だけでなく関取も含め全員でやっていたんですよ」と後年振り返っている。歴史学者で、江戸東京博物館の竹内誠名誉館長が部屋の新弟子が相撲教習所に入所する度に藤島が挨拶に出向いたことを話しており、親方としての礼儀正しさを評価している。未成年時代に兄弟子に酒を強要されたことから、弟子の飲酒に関しては気を遣った。パワー相撲を得意とする巨漢力士の育成を苦手としており、豊ノ海、五剣山は将来を大きく期待されながらも、大きな体を活かした相撲を身につけることができず期待に応えることができなかった。同じく巨漢であった摩天楼と藤ノ花は関取にすらなることができなかった。 1993年、兄でもある二子山の停年直前に年寄名跡を交換して年寄・二子山となり兄が一代で大勢力に育てた二子山部屋を継承、藤島部屋と二子山部屋の合併により二子山部屋は一気に大部屋になったが、当時の貴花田にとって数少ない強敵(通算対戦成績で負け越している。)だった三杉里との対戦がなくなるなどの点が指摘された。角界一の大部屋とあって、タニマチや食糧事情は非常に充実していた。1994年11月場所後に次男の貴乃花が横綱に昇進すると、二子山部屋は絶頂期を迎えた。1998年5月場所後には長男の若乃花も横綱に昇進し兄弟同時横綱の壮挙が実現するが、その直後から若乃花・貴乃花兄弟の不仲や貴乃花の「洗脳騒動」など周囲に暗雲が漂いはじめる。弟子の貴乃花が2003年に引退すると、部屋を譲り部屋付きとなった。(これを機に二子山部屋は貴乃花部屋と改称された。) 日本相撲協会では1992年に監事(現在の副理事)、1996年には理事に昇格し、巡業部長となった。同年に年寄名跡『二子山』の譲渡金およそ3億円の申告漏れを指摘され、巡業部長の職を解かれたが後に復帰し2002年には審判部長、2004年2月から事業部長に就任した。 2003年秋頃からは顎の痛みを訴えるなど体調を崩していたため、入退院を繰り返しながら病気療養を続けていた。2004年夏頃に再入院してからは喉が詰まって普通に話をすることさえままならない状態となり、相撲協会の職務を休みがちとなっていた。当初の病名は公には「口内炎」と発表していた。入院時には北の湖理事長(1期目当時)を初め、相撲関係者からの見舞いはほとんど断っていた。 2005年1月30日には、二子山が自らスカウトした愛弟子の音羽山(元大関・貴ノ浪)の断髪式に入院先の病院から駆け付け、国技館内の好角家からは大きな拍手が送られた。ところが、投薬治療が長く続いた影響か、この時の二子山の顔色は明らかに優れず頭髪も薄くなっていた。二子山は土俵に上がる際には足がよろけて自力で登ることができず、呼出の手を借りなければならないほど体調は相当に悪化した状態だった。昭和の大相撲を彩り、一時代を築いた人気力士だった頃の面影もほとんど失われ、まるで別人のように衰えた二子山の姿に会場の好角家は衝撃を受け、涙を禁じ得ない者もいた。 この頃から二子山は重病説などが囁かれるようになったこともあり、同年2月23日にはそれまでの口内炎の病名を改め、次男の貴乃花からは「口腔底癌です」であることが発表された(二子山は現役時代からヘビースモーカーとして知られ、これが一番の病因ともいわれている。)。顔の下部を切除して癌を全摘すれば予後は必ずしも悪くはならないとされたが、そうなると人相がハッキリと変わってしまう。それが美男と知られた二子山にとっては屈辱であったのか、患部の部分切除に留めた。その後、二子山は意識不明の重体に陥り、3カ月後の5月30日に口腔底癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。55歳没。結果的に同年1月の貴ノ浪の引退相撲が二子山の生涯最後の公の姿となった。その貴ノ浪も、10年後の2015年に43歳の若さで死去している。 自ら手塩にかけ育て上げた2人の愛息子であり、愛弟子でもあった若貴兄弟の確執を巡るスキャンダルに悩まされ貴乃花部屋の規模も衰えて関取不在の状況となり、妻の憲子とは2001年には離婚するなど現役時代に「角界のプリンス」と呼ばれた花形力士としては、いささか寂しい晩年でもあった。 6月2日に各界著名人、ファンを集めて二子山の告別式が行われた。6月10日、従五位に叙せられ旭日小綬章を授与された(叙位・叙勲の日付は逝去日の5月30日)。6月13日には両国国技館において、北の湖日本相撲協会理事長(当時)を葬儀委員長として日本相撲協会葬が執り行われた。戒名は霊友会からの「誠生院法憲祐幸智徳善士」と天桂寺からの「双綱院貴関道満居士」の二つがある。 年寄名跡の藤島は最終的に出羽海一門の武双山に譲渡されたが、この決定に貴乃花が激怒したと伝わる。もっとも藤島は貴ノ花が保有するまでは長年出羽海一門の保有する名跡であって、旧に復するものであった。2004年6月上旬に順天堂病院に再入院した際に、部屋の土地と建物の権利書を貴乃花が持ち出したことに二子山が激怒して貴乃花の見舞いを拒否した、と報じられる。 ┌○─○┬ 武ノ里 │ └ 吉崎 │ ┌ 若剛志 │ ┌ 若乃花Ⅰ―┤ │ │ └(女) │ (男) ├ 若緑 ‖(離婚) │ ‖ ─┤ 若乃花Ⅱ └○─○┬ (女) ├─(女) │ │ ‖ │ │ 大豪 │ │ ┌ 若乃花Ⅲ │ └ 貴ノ花――┤ └ (女) └ 貴乃花 ‖ ‖ ――花田優一 峯ノ越 河野景子 主な成績
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
改名歴花田 満(はなだ みつる) 1965年5月場所 - 1969年11月場所 貴ノ花 満(たかのはな - ) 1970年1月場所 - 1973年7月場所 貴ノ花 利章( - としあき) 1973年9月場所 - 1973年11月場所 貴ノ花 利彰( - としあき) 1974年1月場所 - 1974年3月場所 貴ノ花 満郎( - みつお) 1974年5月場所 - 1974年7月場所 貴ノ花 健士( - けんし) 1974年9月場所 - 1977年9月場所 貴乃花 健士(たかのはな - ) 1977年11月場所 - 1978年5月場所 貴ノ花 利彰(たかのはな としあき) 1978年7月場所 - 1981年1月場所 鳴戸 満(なると みつる) 1981年1月 - 1981年12月 藤島 利彰(ふじしま としあき) 1981年12月 - 1993年2月 二子山 利彰(ふたごやま としあき) 1993年2月 - 1995年11月,11代二子山 二子山 満( - みつる) 1995年11月 - 2005年5月(死去) ※藤島部屋時代から2003年1月まで 貴乃花光司(65代・東京) ※藤島部屋時代に入門 若乃花勝(花田虎上)(66代・東京) ※藤島部屋時代に入門 貴ノ浪貞博(青森)11代二子山・貴乃花弟子 ※藤島部屋時代に入門 若翔洋俊一(東京)10代・11代二子山弟子 安芸乃島勝巳(広島) ※藤島部屋時代に入門 貴闘力忠茂(兵庫) ※藤島部屋時代に入門 隆三杉太一(神奈川)10代・11代二子山弟子 三杉里公似(滋賀)10代・11代二子山弟子 浪乃花教天(青森)10代・11代二子山弟子 豊ノ海真二(前1・福岡) ※藤島部屋独立に同行 五剣山博之(十6・香川) ※藤島部屋時代に入門 東京ガス(1969年 - 1978年) 大英産業「大英郡山ハイツ」(妻の憲子と共演、鹿児島ローカル) パンアメリカン航空(柳生博と共演、1983年) 霊友会(師匠・二子山や息子達と共演) 資生堂「アウスレーゼ」「WAVY BOY」(輪島大士…当時の花籠と共演) サントリー「ナマ樽」(成田三樹夫・田中好子・桂三枝(現在の六代目桂文枝)→レオナルド熊・高見知佳→所ジョージ・田中美佐子と共演) 紀文「越前棒」(妻の憲子と共演) 黄桜「本造り」 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p23 ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム ^ 知ったら笑う関取の異名 ライブドアニュース 2013年2月24日 16時30分 (2024年4月29日閲覧) ^ 相撲協会の届出は、兄の初代若乃花の出生地である青森県弘前市となっていたが、兄の幼少時室戸台風のため 経営していたリンゴ園が崩壊し、一家で室蘭市に引っ越したため、当人は弘前市で生活したことはなく、また、幼少時に父の死去で母とともに当時既に相撲界に入り関取になっていた兄の居住する東京都杉並区に転居している。そのため、実際には北海道生まれの東京育ちである。 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p61 ^ 貴ノ花の現役中ライバルの一人だった元大関の増位山太志郎(日本相撲協会停年後の現在は歌手として活動中。)も、高校時代まで水泳部に所属しインターハイ出場の経験もあった。 ^ 『大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史』(杉並区立郷土博物館編、1991年) ^ 《三代で家業消滅》「これからは父とも兄とも思うな」「縁を切って敵だと思え」花田家が角界から去るまでの波乱万丈すぎる軌跡 (2/6ページ) 文春オンライン 2022/01/13 『人間晩年図巻 2004-07年』より一部抜粋 (2023年5月26日閲覧) ^ 幕内最年長優勝・玉鷲の快挙の裏に潜む角界の「危機」とは nippon.com 2022.11.14 (文・長山聡、2023年9月22日閲覧) ^ 《三代で家業消滅》「これからは父とも兄とも思うな」「縁を切って敵だと思え」花田家が角界から去るまでの波乱万丈すぎる軌跡 (1/6ページ) 文春オンライン 2022/01/13 『人間晩年図巻 2004-07年』より一部抜粋 (2023年5月26日閲覧) ^ 『相撲』(別冊師走号)42ページから43ページ ^ それまでは羽黒山の12場所(ただし年2場所時代)。その後曙が1991年(平成3年)3月場所に更新している。 ^ のちに北の湖、ついで次男の貴乃花(当時・貴花田)が更新し、さらに稀勢の里もこの記録を上回った。 ^ 『相撲』2014年3月号53頁 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p72 ^ 【連載 名力士たちの『開眼』】大関・貴ノ花利彰編 カミさんのために、そしてこの子らのためにも――[その4] ^ 【連載 名力士たちの『開眼』】大関・貴ノ花利彰編 カミさんのために、そしてこの子らのためにも――[その5] ベースボール・マガジン社WEB 2020-06-19(2020年6月19日閲覧) ^ 『大相撲中継』2017年5月27日号18頁 ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p27 ^ 大関昇進の星事情 東スポWeb 2014年07月29日 ^ 『相撲』(別冊師走号)20ページ ^ 『相撲』(別冊師走号)22ページ ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p186 ^ 『相撲』(別冊師走号)43ページ ^ 『相撲』(別冊師走号)40ページ ^ 『相撲』(別冊師走号)41ページ ^ 胸痛む黒ネクタイ取材…故人の人柄にじむ数々の言葉 日刊スポーツ 2019年5月10日10時0分(日刊スポーツ新聞社、2019年5月10日閲覧) ^ 反対に朝潮はかねてより太り過ぎに悩み、喫煙を減量に利用していたという。次男の貴乃花も、引退後に葉巻を大量に喫して減量に成功したとされている。 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p75 ^ 『大相撲中継』2018年2月17日号 p.86-87 ^ 力士の酒豪伝説 日本酒を36L飲んで酩酊しなかった雷電 NEWSポストセブン(週刊ポスト2017年12月22日号) 2017.12.16 16:00 (小学館、2019年3月20日閲覧) ^ ただし、二子山本人は貴闘力に「お前と濱田(豊ノ海)はオレの部屋じゃなかったら関取になってねぇ!」と発言しており、育成失敗を否定している(【豊ノ海】56歳の早すぎる永眠。超重量級力士の素顔を語る。曙キラーを育てた男 貴闘力部屋 2021/12/04 2021年12月4日閲覧) ^ 大の里にライバル心メラメラ!「稽古で涙」熱海富士、7月名古屋で爆発の予兆 Asagei Biz 2024年6月2日 6:00 (2024年6月3日閲覧) ^ 《三代で家業消滅》「これからは父とも兄とも思うな」「縁を切って敵だと思え」花田家が角界から去るまでの波乱万丈すぎる軌跡 (5/6ページ) 文春オンライン 2022/01/13 『人間晩年図巻 2004-07年』より一部抜粋 (2023年5月26日閲覧) ^ 《三代で家業消滅》「これからは父とも兄とも思うな」「縁を切って敵だと思え」花田家が角界から去るまでの波乱万丈すぎる軌跡 (4/6ページ) 文春オンライン 2022/01/13 『人間晩年図巻 2004-07年』より一部抜粋 (2023年5月26日閲覧) ^ 急性上気道炎により2日目から途中休場・7日目から再出場・12日目から再休場 ^ 左足首関節挫傷により6日目から途中休場 ^ 急性糸球体腎臓炎・頸椎捻挫により3日目から途中休場 ^ 角番(全5回) ^ 急性肝臓炎により6日目から途中休場 ^ 北の湖と優勝決定戦 ^ 肝臓炎・慢性腸炎により4日目から途中休場 ^ 右脛骨不完全骨折・低血圧・肝機能障害により5日目から途中休場 ^ サイトや書物などで「みつお」と表記されているものが多いが、NHKの大相撲放送でアナウンサーが「まんろう」と紹介していたこともあった。どちらが正しいかは、定かでない。 ^ 『東京ガス 暮らしとデザインの40年 1955→1994』1996年2月1日発行、株式会社アーバン・コミュニケーションズ。128頁~131頁 『あたって砕けろ : 貴ノ花自伝』(講談社、1975年) 『裸の交友番付』(スポニチ出版、1981年、ISBN 4790309088) 『土俵の鬼 三代』(杉山邦博著、講談社、1992年) 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p102-104 『大関にかなう』(文春文庫、石井代蔵著、1988年)ISBN 4-16-747501-4 『大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史』(杉並区立郷土博物館編、1991年) ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年) 大関一覧 日馬富士公平 - 貴ノ花を尊敬しており、その相撲を参考にしている。 貴ノ花 利彰 - goo 大相撲 貴ノ花 健士・生涯星取表 OCNスポーツ ESPA号外:追悼、二子山親方 - Internet Archiveのキャッシュ 貴ノ花利彰 - NHK人物録 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 表 話 編 歴 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆 1960 若乃花幹士(※) 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 大鵬幸喜(※) 1967 大鵬幸喜 1968 玉乃島正夫 1969 大鵬幸喜(※) 1970 北の富士勝昭 1971 玉の海正洋(※) 1972 貴ノ花満(※) 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 三重ノ海五郎(※) 1976 輪島大士 1977 輪島大士(※) 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満 1980 北の湖敏満 1981 千代の富士貢(※) 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 千代の富士貢(※) 1988 千代の富士貢(※) 1989 千代の富士貢(※) 1990 旭富士正也 1991 小錦八十吉(※) 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 日馬富士公平(※) 2017 受賞者なし 2018 栃ノ心剛史 2019 白鵬翔(※) 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鉄力 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 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2024/11/19 23:04更新
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takanohana toshiaki
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