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剣晃敏志の情報 (けんこうさとし)
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【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

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剣晃 敏志さんについて調べます

■名前・氏名
剣晃 敏志
(読み:けんこう さとし)
■職業
相撲
■剣晃敏志の誕生日・生年月日
1967年6月27日 (年齢1998年没)
未年(ひつじ年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
大阪出身

(昭和42年)1967年生まれの人の年齢早見表

剣晃敏志と同じ1967年生まれの有名人・芸能人

剣晃敏志と同じ6月27日生まれの有名人・芸能人

剣晃敏志と同じ出身地大阪府生まれの有名人・芸能人


剣晃敏志と関係のある人

小城ノ花昭和: 小城ノ花と同学年(1967年度生まれ)の関取経験者は彼と龍興山を含め7人いたが、そのうち4人(剣晃敏志、大翔鳳昌巳、大輝煌正人、龍興山)が2009年までに故人となり、現在の存命者についても舞の海秀平と貴闘力忠茂がすでに角界を去っているため、小城ノ花がこの学年では2024年1月時点で唯一の相撲協会員となっている。


貴ノ浪貞博: 特に剣晃敏志を苦手(通算9勝9敗)としており、剣晃に敗れたことで優勝を逃す場面も見られた。


剣晃敏志の情報まとめ

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剣晃 敏志(けんこう さとし)さんの誕生日は1967年6月27日です。大阪出身の相撲のようです。

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兄弟、父親、母親、引退、病気、家族に関する情報もありますね。1998年に亡くなられているようです。

剣晃敏志のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

剣晃 敏志(けんこう さとし、1967年6月27日 - 1998年3月10日)は、大阪府守口市出身で高田川部屋に所属した大相撲力士。本名は星村 敏志(ほしむら さとし)。最高位は西小結。

守口市で繊維業を営んでいた家の2人兄弟の次男(大阪弁でいう「なかぼんさん」)として生まれた。しかし2歳の時に父親を亡くし、母親が女手一つで育てた。守口市立庭窪中学校では柔道を習い、母校の先輩である8代高田川親方(元大関・前の山)を紹介されたが、「まだ遊びたい」として定時制の大阪府立守口高等学校へ進学した。しかし高校は1年で退学し、セールスマンなどのアルバイトを務めていた。その後、盲腸の手術で入院した際に高田川部屋の体験入門の様子を撮影した写真を見て、高田川部屋に入門した。

剣晃は平成の大横綱・貴乃花光司など、上位力士相手にも容赦ない張り手をかますなど闘志溢れる相撲が取り口で、自ら「ヒール」を公言していた 。特に1993年3月場所での対浪乃花教天戦の張り手合戦は有名である。さらに大関の貴ノ浪貞博には幕内対戦成績が過去9勝9敗の五分で3回にわたり3連勝するなどと圧倒的に強く、「貴ノ浪の最大の天敵」とも言われていた。剣晃は差し身が上手く根は左四つだが、右四つでももろ差しでも相撲が取れて投げや吊り、寄りにも鋭さがあった。

大相撲の愛好家であるデーモン閣下・尾崎亜美からは、その悪役のイメージから「角界(土俵)のならず者」とも呼ばれていた。1997年1月場所後には、相撲雑誌の企画でデーモン閣下と剣晃の対談が実現し、その時に剣晃からデーモン閣下に直接「そのニックネーム(「角界のならず者」)を変えて欲しいんですがね…」と苦笑しつつ要望を申し入れていた(後日デーモン閣下は、剣晃の別のあだ名として「土俵の天然記念物」と名付けている)。一方で悪役イメージとは裏腹に母親思いで若い者からの人望はとても厚く、存命当時から在籍している若手の力士達は剣晃を目標にしている力士として挙げることが多かった。さらに高田川も剣晃の引退後には、部屋の後継者にすることを考えていたとされている。

剣晃は少しずつ番付を上げて、最高位の小結を2場所(1995年5月場所・同年9月場所)務めたほか、三賞は殊勲賞と敢闘賞を1回ずつ受賞している。特に1995年7月場所4日目の貴乃花戦などは、取組後に「顔を出してジッとしていたので、『あれっ、張っていいのかな』と思って張っただけだよ」と張り手を放ったことに対して答え、この取組に寄り切りで負けて貴乃花に睨まれると「チクショー。もう1回、やりたいのかよ」と睨み返した。また1993年3月場所に曙太郎が横綱に昇進してからは、同じ高田川部屋の鬼雷砲良蔵らと共に横綱土俵入りの露払い・太刀持ちをよく務めていた。なお1995年7月場所7日目には、その曙と対戦し送り出しで下して金星を獲得している。露払い・太刀持ちを担当する横綱との対戦が組まれた場合は、その日は担当から外れる事となるが、翌8日目に再び曙の太刀持ちを務める際の剣晃は、曙と顔を合わせた時お互いに気不味くなり言葉が出なかったという。

新三役(小結)だった1995年5月場所では40度を超える高熱を発したが、一切休場せずに5勝10敗で取り終えた。剣晃はその後も持病の痛風にも悩まされながら、幕内上・中位で活躍していた。

ところが、1996年11月場所辺りから再び体調を崩し、原因不明の発熱と貧血の症状に苦しむも場所中に点滴治療などを続けながら強行出場していた。だが1997年3月場所に入ると急激に体重が落ち、120kg台まで痩せてしまう。次の同年5月場所には前頭11枚目の地位で千秋楽に勝って8勝7敗と勝ち越したが、これが剣晃にとって生涯最後の出場場所となってしまった。

剣晃は1997年5月場所後、大阪市内の病院に緊急入院。同年7月場所(前頭6枚目)の剣晃は、初土俵以来初めての休場(休場理由は「不明熱」)となった。当場所以後は、一度も出場が無いまま全休を続けたために、番付は幕内から十両(1997年9月・11月場所)を通り越して、幕下(1998年1月・3月場所)の地位まで転落した。剣晃はこの際に、検査によって病名が「汎血球減少症」と判明し、抗がん剤など投薬の影響によって剣晃の髷は全て抜け落ちてしまっていた。汎血球減少症とは白血病の一種で、当時の日本ではまだ4例しか報告例が無い(そのうち2例は当時既に死亡)奇病であり、治療法は確立されていなかった。入院して間もない1997年の夏、剣晃の実母は既に医師から「残念ですが、息子さんは助かりません」との宣告を受けていた。

なお発症の原因について、ある担当医は痛み止めの注射が好ましくない化学反応を起こしたという説を、またある担当医はウイルス感染説も唱えていた。ただ、剣晃は最後まで生きる希望を捨てなかった。「オレの本当の病気はなんなんだ。もう一度社会復帰できるのか、出来ないのか。親には言わずにオレにだけ、本当の事を言ってくれ!」と迫り、自身も枕元のカバンが一杯になるほどの医学書で真相解明に励んだ。翌1998年2月、一時退院出来る程に体調が一旦回復した剣晃は、実兄と共に小・中学校や幼少時に遊んだ公園など思い出の場所を歩いたり、家族揃って和歌山県へ3泊の温泉旅行に出掛けたりしていたという。だが、この頃の実母は「本人も死が近い事を分かっていたようです…」と述懐している。

1998年3月に入ると血圧が急降下するなど病状が悪化し、さらに全身の痛みから気が動転し、ベッドの傍にあるものを掴んでは投げるを繰り返していた。3月7日には意識不明の重体に陥る。そして、地元の大阪で開催された同年3月場所は幕下55枚目まで下がっていたが、3月場所3日目だった3月10日11時50分、剣晃は母と兄が見守る中で、汎血球減少症による肺出血のため、大阪狭山市の近畿大学付属病院で死去した。30歳没。生涯独身だった。

剣晃の生涯最期の言葉は「母ちゃん、もう眠りたい…」だったという。剣晃が亡くなった数分後に病室へ駆け付けた高田川親方は「必ず治るものだと信じていたから、今は思い出なんて振り返れない…」と号泣。その余りにも早過ぎる病死に、現役力士や相撲関係者らにも大きな衝撃を受けたという。葬儀の席では親族や部屋の弟弟子達が涙を流し続け、告別式で最後の挨拶時に高田川親方は、剣晃の遺影に向かって「剣晃!俺はまだ死んだとは思ってない!!」と大声で泣き叫んでいた。奇病のため病理解剖による研究の進歩が期待され、担当医も病理解剖を申し出たが「力士だから綺麗な体をお客さんに見せたいので、メスを入れたくない」という生前の本人の遺志によって行われなかった。

剣晃に対して『角界のならず者』というあだ名を付けたデーモン閣下は、死の1年前に相撲雑誌で直接対談した事を懐古しながら、剣晃の訃報に関し「あの頃から既に体調が悪くしんどそうだったが、事前に点滴を打って登場し、脂汗をかきながらも2時間近くの取材に笑顔で応じてくれた。まさかこんなに速く逝ってしまうとは…『残念』という以外、言葉が見つからない」と追悼のコメントを述べていた。

剣晃の四股名は、入門前の荒れた生活とかつ不摂生で顔色が悪かったことから「健康」を願ったもので、初めて番付についた1985年1月場所に当時幕下格行司の木村英樹(のちの38代木村庄之助)が命名した。「剣」という文字は「折れるもの」「割れるもの」として不吉な意味合いがあるため、四股名を付ける時に高田川からは止められたものの、剣晃は頑として譲らず、「折角(木村)和一郎さんが、一生懸命に考えて名付けてくれた四股名だから」と、一生その四股名で通していた。

かねてから健康を気遣っていた剣晃は、巡業先へ大量の青汁を作って持ち込み健康管理に努めており、このことは生前から大変有名だった。新三役昇進会見では「ウーン、まずい」と当時の『キューサイ』の青汁のCMをまねるパフォーマンスを行っていた。また新年のインタビューでは「四股名が剣晃なので健康な1年に」と答えることが恒例になっていた。

幕内在位歴のある力士で現役中に夭折したのは龍興山一人以来(1990年)だが、奇しくも剣晃と龍興山は同じ大阪出身で、さらに1967年6月生まれの同い年だった。他に1967年度生まれ(1983年3月に義務教育を修了した年齢)で40代までに病死した力士は大翔鳳昌巳(1999年、現役引退し準年寄在任中だった。北海道出身)と大輝煌正人(2009年、廃業後。和歌山県出身)がおり、同年度生まれの幕内在位歴のある力士7人のうち4人が20代~40代の若さで亡くなっている。

1996年1月場所の敢闘賞受賞は、史上初めて他力の条件付きでの受賞である。7勝7敗で千秋楽を迎えた剣晃は、5日目に優勝を争っている大関の貴ノ浪に勝利していた。千秋楽当日に開かれた三賞選考会で、13代九重親方(元横綱・千代の富士)から「もしも貴ノ浪が優勝したら、その貴ノ浪に黒星を付けた力士に三賞を授与しないのはおかしい」との意見があり、剣晃には受賞条件として三賞受賞最低条件の勝ち越し、すなわち千秋楽の勝利に加え、貴ノ浪が優勝した場合に限りという他力条件も付された。果たして剣晃は千秋楽に勝利し、貴ノ浪も横綱の貴乃花との同部屋力士同士の優勝決定戦を制して優勝し、剣晃は初の敢闘賞を受賞した。受賞が決まった時、「大将(九重親方)、サンキューって感じ」と歓びの談話を残した。

1997年11月場所、高田川部屋の宿舎の稽古場で闘病中の剣晃がテッポウをしていたという。「力士はなあ、年6場所で生きとるんや。特に春は大阪、夏は名古屋、秋から冬は九州の空気を吸う。だから俺は福岡に来た。そういう体なんよ。だからもう一回、場所に出たいなあ……」と記者に話しており、それがその記者との最後の会話であった。

通算成績:414勝411敗54休 勝率.501

幕内成績:181勝224敗15休 勝率.447

現役在位:81場所

幕内在位:28場所

三役在位:2場所(小結2場所)

三賞:2回

    殊勲賞:1回(1995年7月場所)

    敢闘賞:1回(1996年1月場所)

    金星:2個(曙1個、貴乃花1個)

    ^ 非業の死を遂げた名力士「剣晃(小結) 」スポーツ・週刊実話 2018年12月14日 22時00分(リアルライブ)

    ^ 当時相撲雑誌でそのニックネームをつけられた剣晃は、デーモン閣下に対して大爆笑しながら「許せん!デーモンの方こそ『芸能界のならず者』だ。もし街で逢ったら張っちゃうぞ」等と挑発するコメントを述べていた。

    ^ 朝日新聞東京本社版、1998年3月11日付24面、「剣晃のしこ名、願いは届かず」

    ^ 剣晃が直接の死因となった病名の「肺出血」は、切れた血管が血液の異常により凝固出来なくなった為と言われている。

    ^ 相撲レファレンス 大嵐浩之因みに本項の力士以前にも剣晃を名乗った人物がおり、その力士は始めに大嵐を名乗り初土俵から丸1年で幕下に上がるなど才能のある力士だったが、剣晃を名乗り始めた場所から1勝も出来ずに廃業した。

    ^ 朝日新聞東京本社版、1998年3月11日付24面、「剣晃のしこ名、願いは届かず」より

    ^ 「相撲」2020年6月号(ベースボールマガジン社) 5頁

    ^ 不明熱・汎血球減少症により全休

    ^ 3月場所3日目の3月10日に死去

    小結一覧

    現役中に死亡した力士一覧

    剣晃 敏志 - 日本相撲協会

    悪役・剣晃、30歳で逝く(月刊お好み書き内・アーカイブ)

    大神風です。高田川部屋の関取衆、小結・剣晃敏志について(高田川部屋ブログ内)

    剣晃敏志 力士情報

    再生不良性貧血(国立国際医療センター内)

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2024/11/10 23:14更新

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