小城ノ花昭和の情報(おぎのはなあきかず) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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小城ノ花昭和の情報まとめ
小城ノ花 昭和(おぎのはな あきかず)さんの誕生日は1967年11月18日です。千葉出身の相撲のようです。
人物・エピソード、主な成績などについてまとめました。現在、父親、引退、病気に関する情報もありますね。今年の情報もありました。小城ノ花昭和の現在の年齢は56歳のようです。
小城ノ花昭和のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)小城ノ花 昭和(おぎのはな あきかず、1967年11月18日 - )は、千葉県市川市出身(出生地は東京都港区)で出羽海部屋所属の元大相撲力士。本名は小岩井 昭和(こいわい あきかず)。最高位は東前頭2枚目(1990年5月場所・1996年3月場所)。現役時代の体格は身長188cm、体重137kg。得意手は左四つ、上手投げ。現在は年寄・出羽海。父は元関脇・小城ノ花正昭、弟は元小結・小城錦康年。 元関脇・小城ノ花(13代高崎)を実父として生まれる。実弟には元小結・小城錦がいる。千葉商大付属高校では野球部に所属していたおり、相撲経験はなかった。それどころか千秋楽の打ち上げで出羽海部屋に出入りする以外は相撲部屋とは接点が無く、むしろ父親は「(相撲は)お前には無理だ」「勉強しないと相撲取りにさせるぞ」と、入門には反対だった。結局高校は2ヶ月で中退して、1983年7月場所で初土俵を踏んだ。後年小城ノ花本人は「高校入学後、野球で怪我をしたため休んでいる間に、相撲に行くことを決めた」と述懐している。 入門直後の1983年9月場所で負傷し、同場所を途中休場。翌11月場所も治療が長引き全休したものの公傷が適用された。当時の制度上、公傷が適用されて全休した場合は、番付に関係なく直前場所の地位と同じ地位に張出扱いで据え置かれたため、翌1984年1月場所では「序ノ口の地位で張り出される」という、非常に珍しい経験をした。新弟子時代は当時40代後半であった9代出羽海に胸を出してもらった。 負傷から回復して以降は、右からの上手投げで威力を発揮し、確実に番付を上げていった。本場所の土俵で簡単に廻しを取りに行くと親方衆から「まずはしっかり当たらなければダメだ!」と注意され、このようにして自分の相撲スタイルを磨いた。東三段目16枚目で迎えた1987年3月場所では、それまで本名を四股名としていたものを、実父の四股名を受け継ぐ形で小城ノ花昭和と改名。 1989年7月場所で新十両へ昇進し、1990年1月場所には新入幕を果たした。同部屋・同年齢で新十両も新入幕も同時の龍興山との出世争いは大いに注目された。しかし、新入幕の場所後に龍興山が急逝するとライバルを失った気落ちからか全く振るわなくなり、素質的には弟よりも遥かに期待されながらも三役への出世は果たせなかった。また、新入幕の1990年1月場所と再入幕を果たした1991年3月場所には千秋楽に勝てば敢闘賞の受賞が決定するという状況を迎えたものの、1990年1月場所の千秋楽には寺尾に、1991年3月場所の千秋楽には貴花田に敗れて受賞を逃してしまい、現役時には三賞も獲得できなかった。幕内に最後に在位したのは1996年5月場所で西前頭11枚目で4勝11敗の成績であった。翌7月場所以降は十両に在位し、現役後期の1997年9月場所以降は小城乃花昭和に改名している。 東十両8枚目で迎えた1998年7月場所で13日目を取り終えた時点で1勝12敗と幕下陥落が濃厚となったため現役を引退し、準年寄・小城乃花を襲名して出羽海部屋の部屋付き親方となった。同年の5月に制定された準年寄制度を利用した初の人物となり、準年寄の期限が切れる2000年8月に実父の後を継ぐ形で年寄・高崎を襲名した。 2013年9月10日には、出羽海部屋の師匠である10代・出羽海(元関脇・鷲羽山)が2014年4月に停年(定年)退職を迎えることに伴い、その後を受け継いで小城ノ花が11代出羽海を襲名すると同時に出羽海部屋を継承する予定であることが明らかにされた。そして2014年1月場所後に10代目と名跡交換し、11代・出羽海を襲名することが日本相撲協会から正式に発表され、同年2月1日付けで出羽海部屋を継承した。当時の世論は既に現役時代の最高位にこだわる風潮がなくなっていたため、かつての名門であった出羽海部屋の師匠の座に元平幕が就くこととなったことにはほとんど批判意見はなかった。同年5月場所後に襲名披露パーティを盛大に開いたが、直前に右足を負傷し、包帯姿での出席となった。続く7月場所の勝負審判の職務も春日野が代理を務めている。部屋継承後には先代からの弟子である出羽疾風が十両昇進、直弟子の御嶽海が大関昇進と幕内最高優勝(3回)を果たしている。 2016年1月29日の日本相撲協会理事選挙に立候補し初当選、3月30日の職務分掌で名古屋場所部長に就任した。 同年9月場所には、同じ出羽海一門の副理事で審判部副部長を務める藤島が腰痛で審判の業務から外れたため、代役として審判長を務めた。また2018年1月場所には、審判部長代理に就任することとなった。これは、現職の審判部長である二所ノ関が10月に病で倒れ、11月場所に部長代理となっていた伊勢ケ濱が、弟子である日馬富士公平の暴行問題の責任を取る形で辞任したことによる措置である。この1月場所千秋楽の表彰式では部長代理として、優勝力士である栃ノ心剛史への優勝旗授与も担当した。また同年5月場所後の栃ノ心の大関昇進伝達式、2019年3月場所後の貴景勝光信の大関昇進伝達式、および2020年3月場所後の朝乃山英樹の大関昇進伝達式では、ともに協会理事として使者を務めた。 2020年1月30日の役員候補選は定員を超過しなかったため2008年以来6期12年ぶりに無投票となり、出羽海を含む理事候補10人、副理事候補3人が全員当選。同年3月23日の評議員会で正式に理事として選任された。 人物・エピソード小城ノ花と同学年(1967年度生まれ)の関取経験者は彼と龍興山を含め7人いたが、そのうち4人(剣晃敏志、大翔鳳昌巳、大輝煌正人、龍興山)が2009年までに故人となり、現在の存命者についても舞の海秀平と貴闘力忠茂がすでに角界を去っているため、小城ノ花がこの学年では2024年1月時点で唯一の相撲協会員となっている。また、この学年では横綱・大関になった力士が一人もいないことなどから、同学年のプロ野球選手(桑田清原世代)が黄金時代を築いたのとは対照的となっている。 ライバル龍興山が急逝したという悲劇を経験しているため、「病気は気にかけて、すぐ病院に行かせる。あんなことだけは避けたい」と、弟子の体には人一倍気を配っている。 怪我により力士達の稽古相手がいなくなることを避けるために、場所後の稽古始めの3日ほどは土俵の中での稽古はせずに基礎体力トレーニングを重点的に行うように指導している。 2017年夏巡業中に部屋の幕下以下の力士を対象にした東庄町笹川地区での夏合宿では、神社での稽古だけでなく最終日のファン感謝デーも無料公開し、ちゃんこも無料配布していた。合宿導入開始当初の2001年は相撲が不人気であり巡業も少なかったため関取衆もたくさん参加していたが、関取が増えてからは幕下以下のみで行うようになった。
笹川地区は相撲で町おこしを行っており、地区の理髪店は力士の髷を結うのに必要な処理である中剃りを行うほど相撲に精通している。部屋の特等床山であった床安は停年退職後もこの合宿に参加するなどして床山としての技術を提供している。 同学年の貴闘力は、小城ノ花のことを穏やかな好人物としてこそは認めてはいるが、上の立場で物事を進めるタイプではないと協会運営者としての適性について証言している。 主な成績通算成績:540勝491敗39休 勝率.524 幕内成績:169勝216敗5休 勝率.439 現役在位:91場所 幕内在位:26場所 各段優勝
幕下優勝:1回(1988年5月場所)
幕内対戦成績
2024/06/15 05:21更新
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oginohana akikazu
小城ノ花昭和と同じ誕生日11月18日生まれ、同じ千葉出身の人
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