中山博道の情報(なかやまはくどう) 剣道 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
中山 博道さんについて調べます
■名前・氏名 |
中山博道と関係のある人
桂川質郎: 1938年(昭和13年)春の大相撲大阪巡業の際、通りかかった武徳殿で居合の演武を目にしてその姿に魅せられ、同年9月に東京の有信館(夢想神伝流中山博道)に入門した。中山博道の最初の言葉は「座れますか、力士は座るのが大変だから、やれますかな」であった。 戸部新十郎: 中学生のとき当時の剣道界の大御所・中山博道に剣道の稽古をつけてもらったことがある。 持田盛二: 父の指南を受けた盛二は17歳のとき上京し、中山博道の有信館、高野佐三郎の明信館で短期修行する。 木村篤太郎: 大学でも撃剣部に属して木下寿徳、山里忠徳、中山博道の師範に学んだ。 望月稔: 中山博道の道場・有信館に入門し、居合の修行を始める。 高野佐三郎: 昭和4年(1929年)、同9年(1934年)、同15年(1940年)の天覧試合で、佐三郎は中山博道と共に剣道形演武と審判員を務めた。 持田盛二: 1902年(明治35年) - 上京し、中山博道の有信館、高野佐三郎の明信館で短期修行する。 高野佐三郎: 昭和初期の剣道界において中山博道と並ぶ最高権威者となり、「昭和の剣聖」と称される。 野間清治: 屋敷内に野間道場を開設し、持田盛二や中山博道など有名な剣道家を歓待するとともに、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め、「剣道社長」と呼ばれた。 |
中山博道の情報まとめ
中山 博道(なかやま はくどう)さんの誕生日は1876年2月11日です。石川出身の剣道のようです。
現在、解散、引退、卒業、兄弟に関する情報もありますね。1958年に亡くなられているようです。
中山博道のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)中山 博道(なかやま はくどう / ひろみち、1872年3月19日〈明治5年2月11日〉 - 1958年〈昭和33年〉12月14日)は、日本の武道家。流派は神伝重信流、神道無念流剣術、神道夢想流杖術。称号は剣道範士、居合術範士、杖術範士。大日本武徳会から史上初めて剣・居・杖の三道で範士号を授与された人物である。 旧加賀藩士(祐筆役)中山源之丞の八男として、現在の石川県金沢市に生まれる。明治維新の混乱で家が零落し、5歳のとき一家で富山県富山市に移住。8歳で同市の商家へ丁稚奉公に出され、働きながら剣術、柔術を学ぶ。 18歳のとき東京府神田西小川町の有信館道場(神道無念流・根岸信五郎)に入門。23歳で順免許、27歳で免許、28歳で師範代を許され、根岸の養子となる。中山家に復したのち、本郷真砂町に道場を建て、神道無念流・有信館を継承する。 神道夢想流杖術を内田良五郎に、無双神伝英信流居合を細川義昌に学ぶ。その後、大日本武徳会から前人未到の剣道・居合術・杖術の三範士号を授与され、昭和初期の剣道界において高野佐三郎と並ぶ最高権威者となった。 太平洋戦争後、戦犯容疑者として一時収監される。戦後は剣を捨てたが、武道団体の名誉職にあり、晩年の口述集が残された。「昭和の剣聖」、「最後の武芸者」と評される。 少年時に富山市で斎藤理則から山口流(山口一刀流)を学び目録を授かる。また、14歳のとき囲碁の段位を取得する。17歳で上京。その目的は囲碁であったとも剣術であったともいわれる。1890年(明治23年)4月、18歳で神道無念流・根岸信五郎の道場・有信館の内弟子となる。身長160cm、体重60kg足らずの貧弱な体格から、到底ものにはならないだろうと言われたが、睡眠時間を4時間に削り、死ねばそれまでといわれる厳しい修行をして実力を付けた。1902年(明治35年)、免許皆伝を得て根岸の養子となり、神道無念流・有信館を継承した。 1912年(明治45年)、剣道形制定委員(全国で25名)の一人に選ばれ、師の根岸信五郎(主査委員)と共に大日本帝国剣道形制定に尽力する。昭和初期の剣道界で高野佐三郎(中西派一刀流)と並ぶ権威を持ち、複数回の昭和天覧試合でも模範演武などをつとめている。 太平洋戦争後、戦犯容疑者として一時収監される。戦後は形式的に剣道団体の名誉職に名を留める。1957年(昭和32年)、全日本剣道連盟から初の「剣道十段」授与を打診されたが、十段制度に反対し、受け取らなかった。 現代剣道の成立に強い影響を与えた指導者とされるが、博道自身はスポーツ的な現代剣道には批判的であった。晩年に全日本剣道選手権大会を見て、「選士連の竹刀捌きは、私から見て器用につきてはいるが、所詮あれは竹刀捌きで、忌憚なく申し述べれば、及第点をつけられる者は只の一人といない。よって竹刀選手権と改称されたがいいとさえ存じている。あんな攻防は日本刀ではとても思いもよらぬことであって、非常識も甚だしい。(中略)剣道が竹刀踊りの遊戯化したものに落ちないことを願う」と手厳しく批判している。 また、「竹刀競技で少しも差し支えない、難しいことはいうな、と一部の人々は言うが、元来この二つ(注:竹刀稽古と形稽古)は昔時においては一本であって、この一本が武道といわれた。二つに分けたことがそもそもの誤りで、武道に新古はない。この区別は大変な誤りで、竹刀即ち剣道も古武道即ち各流の形も皆一体となるのが当然である。恐らく今日の若い修業者は、竹刀で稽古を修めていることと、形や居合等の他の各流の教えとは別個なものであると考えられるに相違ない。これは私等の重大な責任と深く御詫び申しあげて置く次第である」とも述べている。 博道が居合を志したのは、一説に後援者・渋沢栄一の居合に触発されたからといわれる。また、博道を慶應義塾剣道師範に任じた福澤諭吉も居合の達人であった。明治時代末期、「高知県(旧土佐国)に神伝重信流という一世唯一伝授が掟の居合が伝わっていると板垣退助と言っていた」と聞いた博道は、土佐藩出身の政治家で、無双直伝英信流第15代宗家・谷村亀之丞自雄の親族でもある板垣退助を訪ね、その口利きで、神伝重信流(神伝重信流下村派)の細川義昌に入門し、細川から免許を允可された。 博道は居合道界の傾向について、「居合自体は一術と雖も対者を予想しない形はないが、普通に於いては一人術の如く主客共に自然に思いがちであり、術も簡単である様考えられ、そこに安易感が生じ、只抜き切り差し納めが練れて三、四十本の本数を覚えた程度で、これが居合だとする考え方が多く、しかも一人での修行のため、優劣というか勝敗を目的にしていないいわゆる競争的刺激がない故、一寸ばかり慣れてくると、はや一角の器用者然として己れの刀法をと慢じないまでも、其れに近い考えになる傾きが非常に多い」と述べ、居合修行者が陥りやすい自己満足を戒めている。 試し斬りも積極的に稽古したが、あくまで居合完成としての試し斬りを行い、単なる据え物斬りや曲芸斬りを批判している。 第二次大戦中は陸海軍からの依頼で一日に500振り以上の軍刀の試し斬りを行った。自身は200振りくらい持っていたが、出征する門人たちに贈呈したために、戦後はほとんど手元に残らなかった。門人は戦地で功績を挙げた者も多かったが、その一方で、刀の平だったため敵を切れず殴りつける結果となった、であるとか、自分の刀で自分を斬ってしまった、といった失敗も多かった。これについて博道は、「剣道の修業者が刀を振って自分で自分の刀に切られ、刀を棒に代えて使用したのでは、全く暗然たらざるを得ない。竹刀で練習充分だから日本刀も同様だと考える多くの人に対する警告の実例」と嘆いている。 神道夢想流杖術を内田良五郎(玄洋社初代社長平岡浩太郎の実兄、黒龍会創始者内田良平の父)から学んだ。杖術を学んだことによって剣道の裏が分かり、杖の技が剣に大いに役立ったという。現代剣道、居合道と並ぶ現代杖道普及の端緒を開いた。 博道は、「故郷(富山市)においては剣道ではなく、柔術を9歳頃から17歳ぐらいまで修行した」と述べている。師は高山藤吉という人物であったという。その後柔術を人前で見せることはなかったようであるが、同じ根岸門下であった稲村幸次郎の道場を訪れた際には、稲村と様々な柔術流派の技を試し合ったという。 合気道創始者の植芝盛平と親交があり、弟子を植芝の道場皇武館に派遣して剣道を指導させたり、高弟の中倉清を植芝の婿養子にするなどした。 また、大学生時代に有信館の門人であった空手家の小西康裕(神道自然流空手創始者)によれば、当時、本土に伝わった唐手(空手)を低級な武道と見なす武道家が多い中、博道は唐手の真価を見抜き、「唐手は素手による剣術である」と評価したという。 日本の敗戦後、大日本武徳会は占領軍(GHQ)の指令により解散し、剣道の組織的活動は禁止された。博道は戦犯容疑をかけられ、横須賀拘置所に収監された。無罪釈放されたが、高齢でもあったため疲弊し、戦後の混乱で有信館道場も人手に渡ってしまった。戦後は形式的に武道団体の名誉職に就くにとどまった。 1950年(昭和25年)頃から入退院を繰り返し、脳軟化症と診断された。1958年(昭和33年)、死去。享年86。全日本剣道連盟会長木村篤太郎が葬儀委員長を務め、青山斎場において日本剣道葬が執行された。正力松太郎、笹森順造、小川金之助、持田盛二など名士が参列した。戒名は大雄院殿無双博道大居士。師・根岸信五郎と同じ東京都港区南麻布の天真寺に葬られた。 1893年(明治26年)、神道無念流目録 1902年(明治35年)、神道無念流免許皆伝 1906年(明治39年)、大日本武徳会剣道精錬証 1908年(明治41年)、大日本武徳会剣道教士 1920年(大正9年)、大日本武徳会剣道範士及び居合術範士 1922年(大正11年)、無双神伝英信流抜刀術免許 1927年(昭和2年)、大日本武徳会杖術範士 1957年(昭和32年)、全日本剣道連盟からの剣道十段を辞退 官庁、企業、大学に剣道師範として招聘され、多いときは1日5回以上稽古していた。 海軍(勅任技官) 警視庁(主席師範) 宮内省皇宮警察部 鉄道省 三井財閥 三菱財閥 慶應義塾 中央大学 東京帝国大学 法政大学 明治大学 二松學舍大学 大東文化大学 交流のあった人物は多い。Wikipedia内に記事が存在する人物を中心に記載する。(五十音順) 植芝盛平(合気道創始者。博道の高弟中倉清を養子とした) 植田平太郎(博道と同時期の細川義昌門人、無双神伝抜刀術兵法十七代宗家) 大浦兼武(政治家。大日本武徳会会長) 大錦卯一郎(大相撲第26代横綱。引退後、有信館に入門) 勝瀬光安(水鷗流第14代。博道が「碧雲館」道場を命名) 紙本栄一(居合道範士九段、剣道範士八段) 木村栄寿(長州藩伝神道無念流、夢想神伝重信流抜刀術) 木村篤太郎(政治家。全日本剣道連盟初代会長。東京帝国大学の剣道部で博道に学んだ) 黒田泰治(富山県出身の同郷にあたる) 小西康裕(神道自然流空手創始者) 今裕(医学博士。慈恵大学教授時代有信館に入門) 正力松太郎(政治家。柔道十段。富山県出身の同郷にあたる) 末次留蔵(有信館で学んだ夢想神伝流を九州に広めた) 末弘厳太郎(東京帝国大学法学部教授。有信館で剣道を学んだ) 檀崎友彰(大相撲前頭筆頭。戦後、居合道範士九段) 寺井知高(大村藩伝神道無念流) 中倉清(昭和の武蔵とよばれた。剣道・居合道範士九段) 中島五郎蔵(警視庁剣道師範。剣道・居合道範士九段) 中村吉右衛門(歌舞伎役者。機会あるごとに博道を訪ね、居合を学んだ) 中山善道(博道の実子) 野間清治(講談社創業者。野間道場を開き、博道を歓待した) 野間恒(講談社第2代社長。昭和天覧試合優勝) 羽賀準一(一剣会羽賀道場、日本剣道協会の祖) 橋本統陽(有信館幹事長) 橋本正武(統陽の甥。有信館に住み込みながら東京帝国大学を卒業) 福島小一(剣道範士、居合道範士九段、杖道範士) 細田謙蔵(大学教授。博道に有信館への入門を勧めた) 望月稔(養正館武道創始者) 森寅雄(全米フェンシング選手権準優勝) 山蔦重吉(『夢想神伝流居合道』を著す) 山本忠次郎(1926年の台覧試合、1934年の天覧試合で優勝) 渡辺昇(政治家。元練兵館塾頭。根岸信五郎の兄弟子) 有信館には、後援者として政財界の人物も参加していた。門人を兼ねる者もいた。 赤星鉄馬 今村繁三 岩崎小弥太 岡田啓介 小室三吉 近藤滋弥 渋沢栄一 奈良武次 野口遵 畠山一清 服部金太郎 浜口雄幸 早川千吉郎 林銑十郎 三井八郎右衛門 三井守之助 森村市左衛門 渡辺七郎 ^ 息子の中山善道が作成した資料では1872年(明治5年)とされているが、生前の博道はすべての記録で1873年(明治6年)としている。明治6年は戸籍上で実際は明治5年まれともいわれる。 ^ 形と居合の模範演武の他、模範試合、審判員、詮衡委員など。 ^ 『新装版 中山博道剣道口述集』23頁。 ^ 『新装版 中山博道剣道口述集』22頁。 ^ 『新装版 中山博道剣道口述集』133頁。 ^ 『新装版 中山博道剣道口述集』64-65頁。 ^ 『新装版 中山博道剣道口述集』43頁。 ^ 『新装版 中山博道剣道口述集』58頁。 ^ 『新装版 中山博道剣道口述集』132頁。 ^ 『明治剣客伝 日本剣豪譚』261頁。 ^ 『中山博道有信館』27頁。 ^ 『新装版 中山博道剣道口述集』110-111頁。 ^ 『月刊剣道日本』1999年8月号、スキージャーナル ^ 『月刊剣道日本』1988年4月号、スキージャーナル ^ 『明治剣客伝 日本剣豪譚』245頁。 ^ 『明治剣客伝 日本剣豪譚』263頁。 ^ 『月刊剣道日本』1984年5月号55-56頁、スキージャーナル ^ 『新装版 中山博道剣道口述集』148頁。 ^ 『月刊剣道日本』1988年4月号、スキージャーナル。 ^ 『新装版 中山博道剣道口述集』194頁。 ^ 『中山博道有信館』7頁。 堂本昭彦編著、中山善道・稲村栄一原著『新装版 中山博道剣道口述集』、スキージャーナル 堂本昭彦『中山博道有信館』島津書房、1993年。ISBN 4882180480 戸部新十郎『明治剣客伝 日本剣豪譚』〈光文社文庫〉光文社、1996年。 庄子宗光『剣道百年』時事通信社、1966年。 中山博道『剣道手引草』体育とスポーツ出版社、2002年。 中山博道・中山善道『日本剣道と西洋剣技』体育とスポーツ出版社、2002年。ISBN 4884581342 『達人の秘術と剣聖の心 植芝盛平と中山博道』クエスト 『昭和天覧試合』クエスト 『剣聖と極意 日本剣道形』クエスト 『時代をつなぐ剣の道 ~剣道殿堂顕彰者 その足跡と功績~』全日本剣道連盟 表 話 編 歴 柳生宗矩 宮本武蔵 男谷精一郎 斎藤弥九郎 千葉周作 山岡鉄舟 榊原鍵吉 西久保弘道 内藤高治 高野佐三郎 中山博道 木村篤太郎 笹森順造 小川金之助 持田盛二 桃井春蔵直正 根岸信五郎 斎村五郎 大麻勇次 星野仙蔵 小沢愛次郎 小西新右衛門業茂 小澤寅吉 野間清治 VIAF 日本 CiNii Books CiNii Research 武術家 大日本武徳会の武道家 剣客 男性剣道家 剣道範士 神道無念流剣術 居合 神道夢想流杖術 警視庁剣道の人物 宮内省剣道の人物 昭和天覧試合出場者 石川県出身の人物 1872年生 1873年生 1958年没 プロジェクト人物伝項目 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 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2024/11/21 17:33更新
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