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黒田清隆の情報 (くろだきよたか)
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【9月28日】今日誕生日の芸能人・有名人

黒田清隆の情報(くろだきよたか) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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黒田 清隆さんについて調べます

■名前・氏名
黒田 清隆
(読み:くろだ きよたか)
■職業
政治家
■黒田清隆の誕生日・生年月日
1840年11月9日 (年齢1900年没)
子年(ねずみ年)、蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
鹿児島出身

黒田清隆と同じ1840年生まれの有名人・芸能人

黒田清隆と同じ11月9日生まれの有名人・芸能人

黒田清隆と同じ出身地鹿児島県生まれの有名人・芸能人


黒田清隆と関係のある人

田村茂: 父方の祖父は旧薩摩藩士で、開拓使の長官黒田清隆に従って渡道。


明治天皇: 翌日に開拓使庁(現北海道庁旧本庁舎)を行幸し、開拓使長官黒田清隆の案内で使庁内を視察。


高峰圭二: 田原坂(1987年) - 黒田清隆


西郷従道: 1882年(明治15年)1月11日、黒田清隆が開拓使の長官を辞し、参議・農商務卿兼務のまま黒田の後任となり、同年2月8日に開拓使が廃止されるまで短期間ながら開拓長官を務めた。


幸地真作: 薄桜鬼 碧血録(黒田清隆


山県有朋: 明治十四年の政変では伊藤を支持し、黒田清隆の進める官有物払い下げの中止を求めている。


林董: 翌明治2年(1869年)の敗戦後に捕らえられ、弘前藩へ預けられるも黒田清隆の働きかけで明治3年(1870年)4月に釈放、英語教師、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングの翻訳官を務めた後、兄松本良順の紹介で陸奥宗光と知り合う。


榎本武揚: 1900年、盟友黒田清隆が死去した際、葬儀委員長を務めた。


小室直樹: 黒田清隆は自分の奥さんを殺したって何でもなかった!」などと叫び、そのまま放送されてしまった。


榎本武揚: そこで黒田清隆が手配していた汽船・函館丸に乗船し、10月4日小樽に帰着。


牧野伸顕: 帰国後、太政官権小書記官、法制局参事官、兵庫県大書記官、黒田清隆首相秘書官、福井県知事、茨城県知事、文部次官、在イタリア公使、オーストリア公使等を歴任した。


明治天皇: 屯田兵制度は明治2年に開拓使次官黒田清隆の建議により北海道の開拓と防衛を同時に行う目的で実施された制度で、廃藩置県で失職した士族たちに職を与える救済策でもあった。


井上毅: 馨の後は大隈重信が外相となり、伊藤の首相辞任後に黒田清隆が樹立した黒田内閣の下で条約改正に当たったが、大隈の改正案も外国人判事任用で前の案と変わらない内容に反発して明治22年(1889年)9月に辞表を提出、伊藤に反対運動を起こすよう促す一方で、元田永孚・山田顕義・山縣有朋などを訪ねて改正中止の輪を拡大させた。


江守徹: 水曜ドラマシリーズ 夜会の果て(1997年、NHK) - 黒田清隆


末松謙澄: 明治8年(1875年)、社長・福地源一郎の仲介で伊藤博文の知遇を得て正院御用掛として出仕、同年の江華島事件による李氏朝鮮との交渉を任された黒田清隆に随行、日朝修好条規の起草に参画した。


沖田さとし: 壬生義士伝〜新選組でいちばん強かった男(2002年) - 黒田清隆


大山巌: ただし、大山は陸軍内の意向に従う傾向があり、黒田清隆・西郷従道没後は会議内のバランスをとるためしばらく元老会議のメンバーから外されている。


島田愛野: 幕末動乱美少女伝(2024年、黒田清隆


明治天皇: しかし大隈を入閣させる障害として、黒田清隆と大隈の対立関係があった。


山県有朋: こうしたなかで高島鞆之助が進言した別働隊編成案が閣議で採用され、征討参軍となった黒田清隆を指揮官として山田と川路利良が率いる別働第二旅団が編成された。


明治天皇: 黒田清隆の名誉が傷つけられる形となったが、黒田は政敵大隈の失脚で留飲を下げた。


井上馨: 同年に発生した江華島事件の処理として、翌明治9年(1876年)に正使の黒田清隆とともに副使として渡海、朝鮮の交渉にあたり2月に日朝修好条規を締結した。


木戸孝允: 三浦梧楼の回想によると、ある年の正月、年始の挨拶に木戸のもとを訪れた黒田清隆が散々に飲酒した果てに暴れ出した。


津田梅子: 同年10月、アメリカ訪問時に男女平等・女子教育の必要性を実感した開拓次官の黒田清隆が正院(太政官の最高意思決定機関)に伺い出て実現させた開拓使による女子留学生のアメリカ派遣事業に、仙は梅子を応募させた。


山田顕義: 明治2年(1869年)6月、宮中において黒田清隆らとともに明治天皇に謁見、戦功を賞される。


明治天皇: 明治18年(1885年)11月に太政大臣三条実美は、岩倉具視の薨去以来空席となっていた右大臣の職位に内閣顧問黒田清隆を任命する人事案を提案した。


西郷隆盛: この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。


明治天皇: 伊藤が内閣総理大臣を辞職して枢密院議長に就任することを希望したため、天皇は伊藤の辞表を受理し、後任の第2代内閣総理大臣に伊藤の推挙で黒田清隆を任じた。


明治天皇: 外務大臣に陸奥宗光、内務大臣に井上馨、大蔵大臣に渡辺国武、陸軍大臣に大山巌、海軍大臣に仁礼景範、司法大臣に山縣有朋、逓信大臣に黒田清隆、農商務大臣に後藤象二郎、文部大臣に河野敏鎌という、これ以上に有能な顔ぶれは想像しがたい構成となり、前政権より効果を上げ、長期に政権を保つことができた。


郡司成忠: これら世論の高まりによって、岩崎弥太郎や黒田清隆、谷干城といった面々を始めとして寄付金は当初の予定額を超えるほどに集まり、また入会希望者も続々と増えることになった。


黒田清隆の情報まとめ

もしもしロボ

黒田 清隆(くろだ きよたか)さんの誕生日は1840年11月9日です。鹿児島出身の政治家のようです。

もしもしロボ

事件、現在、結婚、再婚、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。1900年に亡くなられているようです。

黒田清隆のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

黒田 清隆(くろだ きよたか、旧字体:黑田 淸隆󠄁、1840年11月9日〈天保11年10月16日〉- 1900年〈明治33年〉8月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。1888年(明治21年)から1889年(明治22年)にかけて第2代内閣総理大臣を務めた。陸軍軍人としての階級は陸軍中将。栄典は従一位大勲位伯爵。通称は仲太郎、了介。

薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年(1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。しかし薩摩閥の最有力者であることには変わりなく、実質的な首相選定者である元老の一人となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。1900年に死亡したため、19世紀に亡くなった唯一の内閣総理大臣である。

天保11年(1840年)に、薩摩国鹿児島城下新屋敷通町(現在の鹿児島県鹿児島市新屋敷町)で薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。黒田家は家禄わずか4石の下級武士だった。なお、明治期に子爵になった黒田清綱の家(記録奉行や教授を輩出していた。代々小番。)と同族であるが、遠縁であるという。

幕臣・江川英龍に学び、長じて砲手になった。文久2年(1862年) 6月の生麦事件には、随行の一人として居合わせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。なお、黒田自身は示現流門下でも有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝を受けている。

文久3年(1863年)、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。慶応2年(1866年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷吉之助と桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。

慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。同年3月、北陸道鎮撫総督・高倉永祜の参謀に、山縣有朋とともに任命され、鯨波戦争に勝利した。北越戦争に際しては、黒田は長岡藩を降伏させて河井継之助を登用すべきと考え、河井に書簡を送ったが届かなかった。長岡城を占領したとき、黒田は海路新潟に出て敵の背後を脅かし、武器弾薬の補給を断つ作戦を立て、山縣に新政府軍主力を預けて自らは松ヶ崎に上陸した。このとき長岡城が夜襲され、新政府軍主力は一時潰走したが、黒田は新発田藩を降し、新潟を占領して所期の目標を達した。

越後の戦闘が決してから、黒田は秋田に上陸して庄内藩を背後から攻略する作戦を立てた。ここに西郷が合流して秋田藩兵の疲弊を告げ、米沢を先に攻めるよう変更した。西郷と黒田は寛大策をもって臨み、米沢藩と庄内藩を帰順させた。9月27日に庄内の鶴岡城を接収してこの方面の戦闘を終わらせた。

いったん鹿児島に帰り、翌明治2年(1869年)1月に軍務官出仕に任命された。箱館戦争が始まると、黒田は2月に清水谷公考中将の参謀を命じられ、3月に東京を出港した。途中、宮古湾停泊中に宮古湾海戦に際会した。4月9日に上陸した山田顕義に続き、黒田も19日に江差に上陸して旧幕府軍との最後の戦いの総指揮を執った。5月に旧幕府軍が箱館に追い詰められたのを見て、助命のための内部工作を手配した。11日の箱館総攻撃では、自ら少数の兵を率いて背後の箱館山を占領し、敵を五稜郭に追い込んだ。榎本武揚に降伏を勧め、17日に降した。

戦後は榎本助命を強く要求して、厳罰を求める者と長い間対立し、榎本のために丸坊主に剃髪したこともある。榎本問題は明治5年(1872年)1月6日にようやく、榎本らを謹慎、その他は釈放として決着した。

戦後まもなく、明治2年(1869年)11月22日に黒田は中山清(せい)と結婚した。樺太でのロシアの圧力が増したため、明治3年(1870年)5月に樺太開拓使次官となった。このころ政府内では樺太に出兵する意見が強まっていたが、黒田は出兵に批判的であった。7月から樺太に赴き、現地のロシア官吏との関係を調整し、北海道を視察して、帰京した。黒田は樺太の領有を放棄するべきであると考えるようになり、ロシア側にもその意見を伝えていた。10月20日には樺太は3年も保たないとし、開拓使本庁を札幌に移し、北海道の開拓に本腰を入れなければならないと論じた建議書を提出している。

明治4年(1871年)1月から5月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行した。旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、他多数のお雇い外国人の招請の道を開いた。この時に海外に派遣される岩倉具視に随行する主任通訳官として外務省から辞令が出ていた山内堤雲の語学力と頭脳明晰さを高く評価して開拓使に登用、ホーレス・ケプロンと黒田のパイプ役を務めさせて行政を学ばせた。

帰国後、10月15日に開拓長官東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立った。黒田はケプロンの献策にもとづき基盤整備事業を起こしたが、たちまち支出超過を招いた。これに苦慮した黒田は、明治6年(1873年)に事業を縮小し、即効性を求めて産業振興に重点を移した。

黒田は樺太放棄の意見を強め、岩倉遣欧使節団派遣後の留守政府では、樺太を買収しようと考えていた外務卿副島種臣と対立した。しかし副島は征韓論で朝鮮出兵を行う際にロシアに中立を守らせる代償としての樺太放棄を唱えるようになり、黒田はこれを牽制するために樺太への出兵を建議した。西郷・板垣退助らも副島を支持しつつあったが、帰国した大久保による明治六年政変で、西郷・副島らは政府を去ることになった。

明治7年(1874年)の台湾出兵に際してもロシアの脅威を挙げて不可の立場をとり、出兵後には清国との全面戦争を避けるため速やかに外交交渉に入ることを唱えた。ロシアとの交渉にあたっては、黒田は榎本武揚を使節に推薦して容れられ、大久保・黒田・榎本のラインが樺太放棄論の政策を強く進めていくこととなる。榎本はロシア側との交渉で当時対象となっていなかった北千島の交換の約束を取り付け、樺太・千島交換条約の交渉と締結を実現させた。黒田は6月23日に陸軍中将となり、北海道屯田憲兵事務総理を命じられた。8月2日に開拓使長官となるとともに参議となり、大久保政権の中枢に参画することとなった。明治8年(1875年)の江華島事件をきっかけに、同9年(1876年)2月に朝鮮と交渉する全権弁理大臣となり、日朝修好条規を締結した。

樺太と千島は開拓使の管轄であるから、受理と明け渡しは黒田の職務であり、黒田は樺太アイヌを北海道に移住させることとした。しかし事前の約束では宗谷が移住先となるはずであったが、樺太アイヌたちは対雁への再移住を強要された。札幌本庁を預かっていた松本十郎は、強制移住に反対して辞任した。樺太アイヌは日露戦争で南樺太が日本領となった後に帰還することとなる。

また留学生の派遣にも力を入れ、日本初の女子留学生の派遣も実現させた。開拓使による留学生事業の出身者には、山川健次郎・大山捨松兄妹や津田梅子、新島襄らがいる。

明治10年(1877年)に西南戦争が起きると、黒田は2月に海路鹿児島に至ってここを確保し、いったん長崎に引き上げた。3月14日に征討参軍に任命された。このとき熊本城は包囲され、北から来る山縣有朋の主力軍が解囲戦に苦戦していた。黒田は敵の背後を衝くため八代付近に上陸し、3月30日から交戦をはじめ、前進を続けて4月15日に熊本城に入った。翌16日、山縣と合流した当日に自らの辞任を請い、23日に辞令を受け取った。開拓使で黒田が育てた屯田兵は、入れ替わりに戦線に到着し、以後の戦闘で活躍した。

明治11年(1878年)3月28日、肺を患っていた妻の清が死んだ。ところが酒に酔って帰った黒田が、出迎えが遅いと逆上し妻を殺したのだという記事が新聞に載った。黒田は辞表を提出したが大久保利通の説得でこれを撤回した。岩倉具視の秘書の覚書によると、伊藤博文と大隈重信が法に則った処罰を主張したのに対して、大久保は黒田はそのようなことをする人間でないと保証すると述べ自身の腹心である大警視の川路利良に調査を命じた。川路は医師を伴って清の墓を開け、棺桶に身を乗りだして中を確認したのみでこれを病死であると結論付けた。黒田はこのころより酒が過ぎることが多く、酔って怒気を発することがあった。開拓長官時代にも商船に乗船した際に、酒に酔って船に設置されていた大砲(当時は海賊避けのため商船も武装していた)で面白半分に岩礁を射撃しようとして誤射し、住民を殺害したことがあり、これは示談金を払って解決した。同年5月に大久保が暗殺(紀尾井坂の変)されると、黒田は薩摩藩閥の最有力者とみられるようになった。

明治14年(1881年)に開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使の事業の継続のため、設備や不動産を払い下げる計画を立てた。この時払い下げの候補者となったのが、旧開拓使官吏のつくった北海社と、薩摩出身の五代友厚らが参加した関西貿易社である。

このとき北海社は事業が赤字であったことを理由に、1500万円相当の設備に対し、38万7千円を30年間無利息で支払うという非常に安い値を付けた。払い下げの規則を作った大隈重信が反対したが、内閣で払い下げは決定された。しかしこの決定は新聞にリークされ、払い下げ計画は同郷の五代に黒田が便宜を図ったものだとして、激しい非難が巻き起こった(開拓使官有物払下げ事件)。払い下げは中止になり、大隈が情報を流したせいだと考えた伊藤・黒田ら薩長閥は、大隈を失脚させた(明治十四年の政変)。翌明治15年(1882年)、黒田は開拓長官を辞任し、内閣顧問の閑職に退いた。また、この4年後の明治18年(1885年)、五代は黒田と酒を交わした直後に容態が急変し、10日も経たぬうちに死去している。

黒田の醜聞と疑獄事件は後々まで世人に記憶され、黒田の名声を傷つけた。しかし薩摩閥の重鎮たることは変わらなかった。明治17年(1884年)には華族に列し、伯爵に叙せられた。明治18年(1885年)、伊藤は黒田を右大臣に任ずるよう奏請したが、「右大臣に任ぜられて衆人が納得するような徳がない」「伊藤主導の政権で黒田を右大臣にしても、島津久光の二の舞になり、黒田のためにならない」と明治天皇は難色を示した。三条・伊藤らの政府が重ねて奏請してきたため、黒田に右大臣就任の内命が下ったが、黒田はこれに応じなかった。一方の伊藤もこの案を引くことをしなかったため、天皇は政府制度の改革を行うようにすすめ、これが内閣制度の成立につながった。明治20年(1887年)の第1次伊藤内閣成立とともに黒田は農商務大臣となり、同21年(1888年)4月には伊藤の後をうけて第2代内閣総理大臣となった。在任中もっとも大きな事件は、明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法の発布であったが、憲法制定を主導したのは伊藤であり、黒田自身は深く関与しなかった。公布の翌日である2月12日には、鹿鳴館において、「政府は議会・政党の意思に制約されることなく独自性を貫くべき」とする主張、いわゆる超然主義を表明する超然主義演説を行っている。

外務大臣であった大隈重信は条約改正交渉にとり組んだが、領事裁判権の撤廃のために外国人を司法官に任用する案が大きく反発を受け、10月18日に爆弾で襲撃される事件が起きた。これを受けて閣員のほぼ全てが条約改正を断念し、黒田も同意せざるを得なかった。10月23日、黒田は辞表を提出し、10月25日付で首相を免ぜられるとともに枢密顧問官に任ぜられた。辞職後の2か月間は三条実美内大臣が首相を兼任し、黒田以外の大臣は引き続き留任する形となった。11月21日、黒田と伊藤に対し「大臣の礼によって元勲優遇の意を表す」という詔勅(元勲優遇の詔)が下された。

12月15日には条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件を起こし、謹慎している。

首相退任後の黒田は、明治天皇から内閣総理大臣選定などの重要事項を諮問される重臣のひとりとなり、この地位は元老と呼ばれるようになった。明治25年(1892年)には松方の後任の総理大臣を推薦するため、伊藤・山縣有朋・井上馨・大山巌・西郷従道・松方と協議し、8月8日に成立した第2次伊藤内閣では逓信大臣になった。明治26年(1893年)から体の不調が募り、仕事に支障をきたすことが多くなった。明治28年(1895年)3月17日には逓信大臣を退任して枢密院議長となったが、班列として内閣の一員であることは継続している。また明治29年(1896年)8月31日に伊藤が首相を辞任すると、内閣総理大臣臨時兼任となり、9月18日の第2次松方内閣の成立までその任にあたった。また松方内閣とその次の第3次伊藤内閣でも班列として閣員に列している。1897年(明治30年)の松方の首相退任の際には、明治天皇から黒田のみに後継首相人事の諮問が行われ、黒田は伊藤か山縣が適当であると奉答している。しかしこのころには明治天皇への伏奏を忘れるなど失態が続き、明治30年6月6日の東京日日新聞では「老衰ははなはだしく、痛く頭脳に異常を生じたる」と評されている。明治33年(1900年)8月23日、脳出血のため薨去。享年59。葬儀委員長は榎本武揚であった。墓所は青山霊園(1イ1-9~10)。

薩摩閥の重鎮とはいえ、醜聞と疑獄事件で晩年は浮いた存在となり、同郷の人々は離れていった。代わって旧幕臣との付き合いが濃密となり、特に外交分野などでは榎本武揚を重用するようになった。黒田の死に際し榎本が葬儀委員長を務めたのも、薩摩の人々が黒田を敬遠したためとも言われている。

父の黒田清行は薩摩藩士、母は同藩士・丸太平左衛門の娘で、清隆の幼少期に亡くなった。姉・たか子は薩摩藩士・井上貞教に嫁ぎ、その娘・はる子は酒匂常明の妻となり、その三男・常清は清隆の長男・清仲の養嗣子となり、清隆の外孫・千代子の婿となった。

妻の清(せい、1854-1878)は旗本の中山勝重の長女で、1869年、黒田が29歳の時に数え年16で輿入れした。清の産んだ長男と長女はいずれも夭折しており、黒田は1868年生まれの清の妹・百子(ヒャク、1868-1961)を養女にしている。百子は1887年ごろに陸軍軍人である黒木為楨の後妻として嫁いだ。1878年3月、清は24歳で肺の病により亡くなるが、その死に際しては黒田が泥酔して殺害したなどと團團珍聞という新聞に書かれた。このため警察が墓を開けて遺体を確認、黒田への疑いは晴れている。その後、黒田は41歳で材木商丸山伝右衛門の娘・滝子(1863年生)と再婚。娘の梅子(1882年生)・竹子(1900年生)と嗣子の清仲(1884年生)を授かり、梅子は明治31年(1898年)に榎本武揚の長男・武憲と、竹子は伊地知貞馨の孫・貞一と結婚している。

清隆の死後、子の黒田清仲が爵位を襲爵したが、32歳で死去した。生来病弱で独身だった清仲には嫡子がなかったため、黒木為楨の三男にあたる黒木清(きよし)を養嗣子として迎えた。清も子がなかったため、清隆の外孫・千代子(清隆長女梅子・榎本武憲夫妻の娘)と黒田常清(清隆姪はる子と酒匂常明夫妻の三男)の子・清揚(1930年生で、IR推進協議会長)が清の養子となり家督を継いだ、子には長女・英利子(1953年生)、次女・眞利子(1955年生)、長男・黒田清德(1980年生)がいる。

黒田清隆は、伊藤博文など他の総理大臣経験者に比較すると政策立案能力の点では劣っていたが、他に追随を許さない独特の人心掌握力を持った人物であった。度量が広く、明治十四年の政変で対立した大隈重信の入閣交渉や自由民権運動のリーダーであった後藤象二郎の丸め込み工作など、説得交渉では卓越した能力を発揮した。必要があれば、相手がたとえ政敵であっても懸命に説得し、最終的には協力を約束させられる優れた調整能力の持ち主であった。一方、愚直で頑固な硬骨漢という面を併せ持っており、開拓使官有物払下げ事件でも自らの意志を曲げることなく、結局辞任に追い込まれた。

平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であったと言われている。前述のように酔って大砲を誤射して死亡者を出したほか、最初の妻を斬殺した疑いもかけられた。また、酒席で暴れ武術家(柔術家)としても知られていた木戸孝允に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られて、簀巻きのまま自宅へ送り返された。以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。

「榎本を殺すのなら、そんな新政府、自分は辞めて坊主になる」― 五稜郭の戦いで降伏した榎本武揚の処分に際し、黒田が同郷の西郷隆盛に榎本の助命嘆願した際のことば。

「大隈どん、貴君の片足を失ったのは、私の片足を失ったより残念じゃ」― 大隈遭難事件(爆弾テロ事件)で右足を切断した大隈重信を見舞ったときのことば。

西郷隆盛「実に頼もしき人物に御座候」

高杉晋作「豪快な男」

東郷平八郎「深謀ありし人なり」

岡本柳之助「なにしろ黒田は恐ろしく腕力が強かったので俺もなかなか勝てなかった」

『環游日記』 上、1887年11月。NDLJP:761045。 

『環游日記』 中、1887年11月。NDLJP:761046。 

『環游日記』 下、1887年11月。NDLJP:761047。 

    『環遊日記』 上、朝倉治彦監修(復刻版)、ゆまに書房〈明治欧米見聞録集成 第5巻〉、1987年5月。全国書誌番号:87050926。 

    『環遊日記』 中、朝倉治彦監修(復刻版)、ゆまに書房〈明治欧米見聞録集成 第6巻〉、1987年5月。全国書誌番号:87050927。 

    『環遊日記』 下、朝倉治彦監修(復刻版)、ゆまに書房〈明治欧米見聞録集成 第7巻〉、1987年5月。全国書誌番号:87050928。 

    1870年(明治3年)

      3月14日 - 従五位

      5月9日 - 従四位

      1874年(明治7年)11月5日 - 正四位

      1882年(明治15年)6月23日 - 従三位

      1887年(明治20年)4月12日 - 従二位

      1896年(明治29年)10月10日 - 正二位

      1900年(明治33年)8月25日 - 従一位

      1877年(明治10年)11月2日 - 勲一等旭日大綬章

      1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵

      1889年(明治22年)

        11月1日 - 元勲優遇の詔勅

        11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章

        1882年(明治23年)10月21日 - 銀牌一個

        1895年(明治28年)8月20日 - 旭日桐花大綬章

        1900年(明治33年)8月25日 - 大勲位菊花大綬章

        1877年(明治10年)12月24日 - ロシア帝国:神聖スタニスラス第一等勲章

        1887年(明治20年)5月7日

          ロシア帝国:白鷲勲章

          オスマン帝国:美治慈恵第一等勲章

          ギリシャ王国:救世主第一等勲章

          日本ロマンス旅行(1959年、演:細川俊夫)

          巨人 大隈重信(1963年、演:小池朝雄)

          榎本武揚(1964年、NHK、演:金田龍之介)

          幕末(1964年、TBS、演:沼田曜一)

          五稜の星(1966年、NHK、演:舟橋元)

          石狩平野(1968年、フジテレビ、演:加藤武)

          竜馬がゆく(1968年、NHK大河ドラマ、演:嵐圭史)

          風が燃えた(1978年、TBS、演:睦五郎)

          春の波涛(1985年、NHK大河ドラマ、演:小瀬格)

          田原坂(1987年、日本テレビ、演:高峰圭二)

          五稜郭(1988年、日本テレビ、演:西郷輝彦)

          妻たちの鹿鳴館(1988年、TBS、演:すまけい)

          夜会の果て(1997年、NHK、演:江守徹) - 第2代内閣総理大臣となった黒田を描いたテレビドラマ。発足したばかりの当時の内閣は閣議を開催する場所すらなく、各大臣が交替で自宅の一室を提供し、そこへ全大臣が集まり閣議を開いていた、といった史実に基づいた演出がされている。

          壬生義士伝(2002年、テレビ東京、演:沖田さとし)

          新選組!(2004年、NHK大河ドラマ、演:峯尾進)

          ^ 学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「黒田清隆」、御署名原本における本人の署名は「黒田清隆」、『枢密院高等官履歴』における枢密院書記による氏名手記も「黒田清隆」である。印刷物では本字に統一するという慣例に従い、印刷局刊『職員録 明治21年(甲)』(1888年3月31日現在)における内閣総理大臣名の表記は「黒田淸隆󠄁」、同時代の新聞紙上での表記は「黒田淸隆󠄁」ないし「黑田淸隆󠄁」である。

          ^ 明治43年10月19日の報知新聞にも、大久保の部下であった千坂高雅が、清の妹から娘が聞いた話として、黒田による殺人であったことを断言しているインタビューが掲載されているが、10月27日に「記者の筆記に誤りがあった」として全文が取り下げられている。同年11月26日には「大久保はよく人に調べさせて、証拠を持った上で弁護されたのだ」として擁護する小牧昌業の主張が掲載されている。

          ^ 島津久光が左大臣となったものの、大久保政権と対立して隠退した事例を指す

          ^ 新聞によると死亡時の清の年齢は33。

          ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「黒田清隆」(コトバンク)

          ^ “黒田清隆|近代日本人の肖像”. 近代日本人の肖像. 2022年3月2日閲覧。

          ^ 醍醐龍馬 2022, p. 135.

          ^ 醍醐龍馬 2022, p. 138.

          ^ 北海道総務部行政資料室編『開拓の群像 下巻』P 214

          ^ 醍醐龍馬 2022, p. 140.

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          ^ 醍醐龍馬 2022, p. 144-145.

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          ^ 醍醐龍馬 2022, p. 146-147.

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          ^ 「黒田清隆」 アジア歴史資料センター Ref.A06051168300 

          ^ 「元勲優遇ノ詔」 アジア歴史資料センター Ref.A14110275200 

          ^ 伊藤之雄「元老の形成と変遷に関する若干の考察--後継首相推薦機能を中心として」『史林』第60巻第2号、史学研究会、1977年、241-263頁、doi:10.14989/shirin_60_241。 

          ^ 小林吉弥 (2019年5月23日). “歴代総理の胆力「黒田清隆」(2)酒乱で妻を殺害したと風評が…”. エキサイトニュース. https://www.asagei.com/excerpt/126655 2021年2月12日閲覧。 

          ^ 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』 竹内正浩 実業之日本社 2017、黒田清隆の章

          ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、589頁。ISBN 978-4-06-288001-5。 

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          ^ 池上彰「池上彰と学ぶ日本の総理 黒田清隆」

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          ^ 桂四郎への書状

          ^ 『風雲回想録』p.55

          ^ 『官報』第1134号「叙任及辞令」1887年4月14日。

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          ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。

          ^ 『官報』号外「詔勅」1889年11月1日。

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          ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。

          ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。

          井黒弥太郎『黒田清隆』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1977年、新版1987年

          奥田静夫 『青雲の果て 武人黒田清隆の戦い』北海道出版企画センター、2007年

          『黒田清隆 歴代総理大臣伝記叢書2』 御厨貴監修、ゆまに書房、2005年

          醍醐龍馬「黒田清隆の樺太放棄運動」『年報政治学』第72巻第1号、日本政治学会、2022年、doi:10.7218/nenpouseijigaku.72.1_132、ISSN 1884-3921。 

          CEKAI KYOTO HAUS

          黒田家 (伯爵家)

          『黒田清隆』 - コトバンク

          『黒田 清隆』 - コトバンク

          『黒田清隆内閣』 - コトバンク

          黒田清隆 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館

          黒田清隆関係文書(MF1:黎明館蔵) | 憲政資料室の所蔵資料 | 国立国会図書館

          黒田清隆関係文書(MF2:黎明館蔵) | 憲政資料室の所蔵資料 | 国立国会図書館

          明治宰相列伝 : 黒田清隆 | 国立公文書館

          歴代総理の写真と経歴 第2代 黒田清隆 - 首相官邸

          榎本武揚

          後藤象二郎

          黒田清隆

          渡辺国武

          白根専一

          野村靖

          末松謙澄

          林有造

          芳川顕正

          星亨

          原敬

          芳川顕正

          曾禰荒助

          大浦兼武

          山縣伊三郎

          原敬

          堀田正養

          後藤新平

          林董

          後藤新平

          元田肇

          武富時敏

          箕浦勝人

          田健治郎

          野田卯太郎

          前田利定

          犬養毅

          藤村義朗

          犬養毅

          安達謙蔵

          望月圭介

          久原房之助

          小泉又次郎

          三土忠造

          南弘

          床次竹二郎

          岡田啓介

          望月圭介

          頼母木桂吉

          山崎達之輔

          兒玉秀雄

          永井柳太郎

          塩野季彦

          田辺治通

          永井柳太郎

          勝正憲

          村田省蔵

          寺島健

          八田嘉明

          小松茂

          塩原時三郎

          塩原時三郎

          松前重義

          (心得)新谷寅三郎

          一松定吉

          三木武夫

          冨吉榮二

          降旗徳弥

          小沢佐重喜

          伊藤博文

          黑田淸隆

          山縣有朋

          松方正義

          大隈重信

          桂太郎

          西園寺公望

          山本權兵衞

          寺内正毅

          原敬

          高橋是清

          加藤友三郎

          清浦奎吾

          加藤高明

          若槻禮次郎

          田中義一

          濱口雄幸

          犬養毅

          齋藤實

          岡田啓介

          廣田弘毅

          林銑十郎

          近衞文麿

          平沼騏一郎

          阿部信行

          米内光政

          東條英機

          小磯國昭

          鈴木貫太郎

          東久邇宮稔彦王

          幣原喜重郎

          吉田茂

          片山哲

          芦田均

          鳩山一郎

          石橋湛山

          岸信介

          池田勇人

          佐藤榮作

          田中角榮

          三木武夫

          福田赳夫

          大平正芳

          鈴木善幸

          中曽根康弘

          竹下登

          宇野宗佑

          海部俊樹

          宮澤喜一

          細川護煕

          羽田孜

          村山富市

          橋本龍太郎

          小渕恵三

          森喜朗

          小泉純一郎

          安倍晋三

          福田康夫

          麻生太郎

          鳩山由紀夫

          菅直人

          野田佳彦

          菅義偉

          岸田文雄

          河野敏鎌

          西郷従道

          谷干城

          西郷従道

          山縣有朋

          土方久元

          黒田清隆

          榎本武揚

          井上馨

          岩村通俊

          陸奥宗光

          河野敏鎌

          佐野常民

          後藤象二郎

          榎本武揚

          大隈重信

          山田信道

          伊東巳代治

          金子堅太郎

          大石正巳

          曾禰荒助

          林有造

          平田東助

          清浦奎吾

          松岡康毅

          大浦兼武

          小松原英太郎

          牧野伸顕

          仲小路廉

          山本達雄

          大浦兼武

          河野広中

          仲小路廉

          山本達雄

          荒井賢太郎

          田健治郎

          岡野敬次郎

          前田利定

          高橋是清

          山崎達之輔

          内田信也

          島田俊雄

          石黒忠篤

          千石興太郎

          鍋島直正

          東久世通禧

          黒田清隆

          西郷従道

          時任為基 函館県令

          調所広丈 札幌県令

          湯地定基 根室県令

          岩村通俊

          永山武四郎

          渡辺千秋

          北垣国道

          原保太郎

          安場保和

          杉田定一

          園田安賢

          河島醇

          石原健三

          山之内一次

          中村純九郎

          西久保弘道

          俵孫一

          笠井信一

          宮尾舜治

          土岐嘉平

          中川健蔵

          沢田牛麿

          池田秀雄

          佐上信一

          池田清

          石黒英彦

          半井清

          戸塚九一郎

          坂千秋

          熊谷憲一

          持永義夫

          留岡幸男

          増田甲子七

          岡田包義

          田中敏文

          田中敏文

          町村金五

          堂垣内尚弘

          横路孝弘

          堀達也

          高橋はるみ

          鈴木直道

          伊藤博文

          山縣有朋

          黒田清隆

          松方正義

          井上馨

          西郷従道

          大山巌

          西園寺公望

          桂太郎

          ※桂太郎の元老としての地位には議論がある。

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          IdRef

          黒田清隆

          日本の枢密顧問官

          明治時代の閣僚

          逓信大臣

          日本の内閣総理大臣

          日本の農商務大臣

          大日本帝国陸軍中将

          開拓使の人物

          日本の官僚 (1868-1949)

          西南戦争の人物

          台湾出兵の人物

          戊辰戦争の人物

          箱館戦争の人物

          薩英戦争の人物

          日本の神 (人物神 開拓神社)

          元老

          維新の元勲

          日本の伯爵

          大勲位菊花大綬章受章者

          勲一等旭日桐花大綬章受章者

          勲一等旭日大綬章受章者

          聖スタニスラフ勲章受章者

          白鷲勲章受章者 (ロシア帝国)

          鹿児島県出身の人物

          薩摩国の人物

          幕末薩摩藩の人物

          樺太史の人物

          1840年生

          1900年没

          大日本帝国憲法関連の人物

          青山霊園に埋葬されている人物

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2024/09/25 01:53更新

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1998年12月20日生まれの有名人 兵庫出身

黒田 みゆ(くろだ みゆ、1998年12月20日 - )は、日本テレビのアナウンサー。 兵庫県西宮市出身。三田学園高等学校、関西学院大学社会学部社会学科卒業後、2021年日本テレビにアナウンサーとし…

黒田 万結花(くろだ まゆか)
1990年9月12日生まれの有名人 埼玉出身

黒田 万結花(くろだ まゆか、1990年9月12日 - )は、埼玉県出身の元グラビアアイドル、元レースクイーンである。愛称はちゃんまゆ。 埼玉県にて3人兄妹(姉と兄がいる)の末っ子として生まれる。5…

黒田 彩(くろだ あや)
1989年10月21日生まれの有名人 東京出身

黒田 彩(くろだ あや、1989年10月21日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドルである。 東京都出身。 プロマージュ所属。 趣味はショッピング・映画鑑賞。 2008年に結成された芸能人女子…

黒田 百合(くろだ ゆり)
1975年3月16日生まれの有名人 神奈川出身

黒田 百合(くろだ ゆり、1975年3月16日 - )は、日本の女優、ダンサー、演出振付家。神奈川県出身。 18歳のときにジャズダンスを始める。単身イギリスへ渡り、帰国後にダンス創作活動を開始する。…

黒田 知永子(くろだ ちえこ)
1961年6月3日生まれの有名人 東京出身

黒田 知永子(くろだ ちえこ、1961年6月3日 - )は、日本のファッションモデル、タレント。東京都出身。アクラ所属。 成城学園高等学校を経て、成城短期大学在学中からファッション雑誌『JJ』のモデ…

黒田 大地(くろだ だいち)
1978年8月29日生まれの有名人 愛知出身

黒田 大地(くろだ だいち、1978年8月29日 ‐ )は日本の俳優、モデル、歌手である。愛知県出身。1994年に第7回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストに選出された。The Seekerのボーカル…

黒田 美礼(くろだ みれい)
1978年4月20日生まれの有名人 埼玉出身

黒田 美礼(くろだ みれい、本名: 加藤 千帆、1978年4月20日 - )は、日本の元タレント、元グラビアアイドル。1996年(平成8年)度のフジテレビビジュアルクイーン。 1994年(平成6年)…

黒田 としえ(くろだ としえ)
1987年5月4日生まれの有名人 岡山出身

黒田 としえ(くろだ としえ、1987年5月4日 - )は、岡山県出身のタレント。身長163cm、血液型はO型。BLUE ROSE所属。 かつては黒田 稔恵名義でローカルアイドルユニット・Bachi…

黒田 福美(くろだ ふくみ)
1956年7月21日生まれの有名人 東京出身

黒田 福美(くろだ ふくみ、本名:同じ、1956年7月21日 - )は、日本の女優、エッセイスト、翻訳家である。キャストパワー所属。2008年2月末まではアミューズに所属していた。東京都立豊多摩高等学…

黒田 義之(くろだ よしゆき)
1928年3月4日生まれの有名人 愛媛出身

黒田 義之(くろだ よしゆき、1928年3月4日 - 2015年1月22日)は、日本の映画監督、特撮監督。 1928年(昭和3年)、愛媛県松山市生まれ。京都市立太秦小学校の同級生には、森田富士郎がい…

黒田 友佳(くろだ ゆか)
1984年8月9日生まれの有名人 茨城出身

黒田 友佳(くろだ ゆか、1984年8月9日 - )は、日本の声優、ナレーター、タレント。茨城県出身。サンミュージックプロダクション所属。 当初から声優になりたかったというわけではなく、警察官、カメ…

黒田 弥生(くろだ やよい)
3月1日生まれの有名人 北海道出身

黒田 弥生(くろだ やよい、1971年3月1日 - )は、日本の女性声優。 2012年5月までマウスプロモーションに所属していた。北海道出身。 太字はメインキャラクター。 1996年 超者ライ…

黒田 崇矢(くろだ たかや)
1965年4月17日生まれの有名人 東京出身

黒田 崇矢(くろだ たかや、1965年4月17日 - )は、日本の俳優、声優。東京都出身。アクセルワン所属。本名・旧芸名は黒田 隆哉(読み同じ)。 ブラジルの帰国子女である。 腰椎分離症、すべり症…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「黒田清隆」を素材として二次利用しています。

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