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井上馨の情報 (いのうえかおる)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

井上馨の情報(いのうえかおる) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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井上 馨さんについて調べます

■名前・氏名
井上 馨
(読み:いのうえ かおる)
■職業
政治家
■井上馨の誕生日・生年月日
1836年1月16日
申年(さる年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
山口出身

井上馨と同じ1836年生まれの有名人・芸能人

井上馨と同じ1月16日生まれの有名人・芸能人

井上馨と同じ出身地山口県生まれの有名人・芸能人


井上馨と関係のある人

木戸孝允: 明治4年(1871年)、保守的な弾正台が廃止された時、開明派であった木戸を始め、伊藤博文、井上馨、大隈重信らの行動や私生活を内偵した文書が発見され、大隈らはその文書を押収することが出来た。


明治天皇: たとえば外務卿井上馨は各国公使夫妻は賓客にあたるので、臣下に過ぎない日本人参列者より先に朝拝の礼が認められるべきと進言していたが、天皇は、次のように述べてこれを却下している。


明治天皇: また甲申事変で日本軍を攻撃した清軍指揮官の処罰も要求することになったが、こちらは事変時の清軍の行動についての正当性に関わる問題であるため、同時撤兵案以上に清側が受諾する可能性が低く、井上馨や伊藤博文は要求に入れるのを躊躇ったが、対外強硬派が多い陸海軍内薩閥を中心とした主戦論者(高島鞆之助陸軍中将や樺山資紀海軍少将など)が井上の主和論に強く反対していたことから、彼らへの配慮で入れられた要求とみられる。


三条実美: 太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。


明治天皇: 明治15年(1882年)には幕末以来の不平等条約の改正をめぐり、外務卿井上馨が列強諸国代表を東京に集めて条約改正に向けた条約改正予備会を繰り返し行ったことで条約改正の機運が高まった。


山県有朋: 部下たちは密かに「反歯伯」と呼んでおり、井上馨の見合いの際には大隈重信の家の廊下で花嫁候補とぶつかり前歯でけがをさせたと言われる。


黒田清隆: 12月15日には条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件を起こし、謹慎している。


馬越恭平: その後親族の会議では「1000円を出資する代わりに木之子で醤油造りをしてくれないか」と頼まれたが、恭平は東京へ行くことを諦めておらずそれを察知した母古尾子は周りを説得し、岸和田にある実家に立ち寄り話をつけておく事や生活費を渡す事を条件に東京の阪谷朗廬の住居に身を寄せ、井上馨の先収会社に入社することができた。


明治天皇: 実際に日朝会談が始まる前から日本側の要求と朝鮮側の譲歩許容範囲はほぼ一致していたわけだが、1月7日から井上馨と金弘集の間で始まった日朝会談では、金が日本の竹添公使が今回の事変の原因だと批判しはじめ、井上がそれに抗議し、交渉における原因問題の一切排除を主張したが、金は原因論も議論すべきと主張して譲らず、交渉が進まなかった。


大隈重信: 明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した。山田顕義法務大臣は外国人裁判官に日本国籍を取らせる帰化法を提案し、伊藤枢密院議長、井上馨農商務大臣もこれに同意して条約改正交渉の施行を遅らせるよう求めた。


明治天皇: 浜離宮延遼館の老朽化により新たな外国賓客の接待施設として、麹町区内山下町(現千代田区内幸町)の旧薩摩藩装束屋敷(中屋敷)跡地に総工費18万円(当時の外務省庁舎の総工費は4万円)をかけた豪勢な洋館鹿鳴館が建設され、明治16年(1883年)11月28日に外務卿井上馨・武子夫妻がその落成式を主催した。


杉道助: 在学中より三井物産に入りたいと考えていたが、井上馨の側近に久原鉱業所を勧められたため、大阪へ向かう社長の久原房之助と新橋駅の待合室で会い、久原鉱業所の東京事務所に雇われることになった。


豊田佐吉: 1899年(明治32年) - 大隈重信、井上馨ら明治の顕官が武平町工場を訪れる。


末松謙澄: 辞任後は明治29年から毛利氏および家政を統括していた井上馨の依頼で、長州藩に関する毛利氏の歴史編纂事業を開始したが、他藩出身であったことと山路愛山・笹川臨風・堺利彦・斎藤清太郎ら新規採用組も同様であったため、長州藩出身者から疎まれ、井上に更迭された前総裁宍戸璣が人事の不満を暴露した記事が新聞に掲載されるなどして、編纂事業は凍結、日露戦争開始による新たな任務遂行のため一時中断された。


笹野高史: スペシャルドラマ 経世済民の男 第一部「高橋是清」(2015年8月22日・29日、NHK総合) - 井上馨


渋沢栄一: 大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と連携して造幣寮の事務に勤しみ、ドイツで印刷された明治通宝(通称「ゲルマン紙幣」)を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。さらに、同年2月に起きた東京での大火からの再建を大蔵省が主導することとなり、井上馨、東京府参事の三島通庸らとともに煉瓦造りの街並みを計画した。しかし、予算編成を巡って大久保利通や大隈と対立し1873年5月7日、大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と共同で財政改革意見を建議し、建議書を『日新真事誌』などに掲載して論議を喚起した。明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。


井上勝: 1863年(文久3年):井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・伊藤博文と共に5人でイギリス留学(長州五傑)。


明治天皇: この悲惨な属国状態に憤慨する親日派の独立党は、事大党(親清派)の閔氏政権との対決姿勢を強め、日本に助力を求めたが、日本の外務卿井上馨は、対清軍事力の不備、財政上の困難、独立党勢力の弱体化などから、過度に独立党を支援して清国と完全な対決関係に入ることには慎重姿勢を崩さなかった。


青木周蔵: なお、この際ロシア公使に対して犯人津田三蔵の死刑を確約しながら、判決が無期懲役となり公使が抗議に訪れると、これを伊藤博文と井上馨の指示だと述べたことによって両名の恨みを買うことになった(相手国公使に対する通告内容に関する最終決定権は大臣である青木にある)。


大正天皇: また、同年には波多野敬直宮内大臣が元老井上馨に「(大正天皇が元老に対して)何を諮問すべきか否かの事の軽重や、職務権限を理解していない」と告げている。


明治天皇: 後任の外務大臣について、井上馨は大隈重信を推挙し、首相の伊藤博文も明治14年時の対立の反感を抑え、大隈を外相に推挙した。


西郷従道: 井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。


益田孝: この時期仕事仲間から紹介された大蔵大輔(大蔵次官)の井上馨の勧めで明治5年(1872年)に大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ赴任し、旧幕時代の通貨を新貨幣にきりかえる任にあたった。


明治天皇: 鹿鳴館は井上馨の欧化政策を象徴する建物となり、煌びやかな舞踏会が世の関心を呼ぶ一方、守旧派からは公衆の面前で男女が抱き合うなど不道徳極まりないなどの批判も多く、何かと物議をかもす施設でもあった。


横井時敬: 明治23年(1890年)農商務大臣井上馨に抜擢され農商務省農務局第1課長となり、大日本農会幹事も兼ねた。


伊藤博文: 文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意し、5月12日に井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(のちの井上勝)らとともに長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。


伊藤博文: オールコックらとの交渉で伊藤は井上馨とともに長州藩の外国応接係を任されるが、下関戦争と禁門の変で大損害を被った藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭、攘夷派の正義派(革新派)との政争が始まった。


明治天皇: 外務大臣に陸奥宗光、内務大臣に井上馨、大蔵大臣に渡辺国武、陸軍大臣に大山巌、海軍大臣に仁礼景範、司法大臣に山縣有朋、逓信大臣に黒田清隆、農商務大臣に後藤象二郎、文部大臣に河野敏鎌という、これ以上に有能な顔ぶれは想像しがたい構成となり、前政権より効果を上げ、長期に政権を保つことができた。


中江兆民: 外相・井上馨の条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加し、明治20年(1887年)には長野で演説、後藤象二郎の農商務大臣辞職を求める封書を代筆するなど運動に関わったため、同年公布の保安条例で東京を追われる。


木村俊夫: 井上馨


井上馨の情報まとめ

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井上 馨(いのうえ かおる)さんの誕生日は1836年1月16日です。山口出身の政治家のようです。

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栄典、人物などについてまとめました。結婚、事件、病気、事故、テレビ、趣味に関する情報もありますね。

井上馨のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日 〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。

太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、その後も元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。

本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れをくむ安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。諱は惟精(これきよ)。雅号は世外(せがい)。

長州藩・井上光亨(五郎三郎、大組・100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現・山口市湯田温泉)に生まれる。嘉永4年(1851年)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学。なお、吉田松陰が主催する松下村塾には入塾していない。安政2年(1855年)に長州藩士志道氏(大組・250石)の養嗣子となり、一時期は志道聞多(しじ ぶんた)とも名乗っていた。両家とも毛利元就以前から毛利氏に仕えた名門の流れをくんでおり、身分の低い出身が多い幕末の志士の中では、比較的毛並みのいい中級武士であった。

同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い下向、江戸で伊藤博文と出会い、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。万延元年(1860年)、桜田門外の変の余波で長州藩も警護を固める必要に迫られたため、敬親の小姓に加えられて通称の聞多を与えられ、同年に敬親に従い帰国、敬親の西洋軍事訓練にも加わり、文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役などを務め江戸へ再下向した。

江戸遊学中の文久2年(1862年)8月、藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入したが、次第に勃興した尊王攘夷運動に共鳴。同年11月に攘夷計画がもれて定広の命令で数日間謹慎したにもかかわらず、御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らとともに12月のイギリス公使館焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。

翌文久3年(1863年)、執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、伊藤・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助とともに長州五傑の1人としてイギリスへ密航し、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに学ぶ。留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、翌元治元年(1864年)の下関戦争では伊藤とともに急遽帰国して和平交渉に尽力した。

このときの様子を、『世外井上公傳』は、以下のように記している(182頁)。

。また、寝込んでいたときに伊藤が見舞いに訪れ、危険だから早く離れろと忠告しても伊藤がなかなか承諾しなかったエピソードものちに伊藤が語っている。体調は回復したが、俗論党の命令で謹慎処分とされ身動きが取れなかった。しかし、高杉晋作らと協調して12月に長府功山寺で決起(功山寺挙兵)、再び藩論を開国攘夷に統一した。

慶応元年(1865年)4月、長州藩の支藩長府藩の領土だった下関を外国に向けて開港しようと高杉・伊藤と結託、領地交換で長州藩領にしようと図ったことが攘夷浪士に非難され、身の危険を感じ当時天領であった別府に逃れ、若松屋旅館の離れの2階に身分を隠して潜伏、別府温泉の古湯楠温泉でしばらく療養した。5月に伊藤からの手紙で長州藩へ戻り、7月から8月にかけて薩摩藩の小松帯刀の斡旋により長崎で外国商人トーマス・ブレーク・グラバーから銃器を購入、そのために薩摩入りを果たした。その返礼として9月8日、毛利敬親父子は島津久光父子に宛てて親書を送り、両藩は実質的に和解した。

翌慶応2年(1866年)1月に坂本龍馬の仲介で京都の小松帯刀邸において薩長同盟が成立、同年6月から8月までの第二次長州征伐で芸州口で戦い江戸幕府軍に勝利した。9月2日、広沢真臣とともに幕府の代表勝海舟と休戦協定を結んだ。

慶応3年(1867年)の王政復古後は、新政府から参与兼外国事務掛に任じられ九州鎮撫総督澤宣嘉の参謀となり、長崎へ赴任。浦上四番崩れに関わったあと、翌明治元年(1868年)6月に長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事した。明治2年6月に政府の意向で大阪へ赴任、7月に造幣局知事へ異動となり(8月に造幣頭と改名)、明治2年から3年(1869年 - 1870年)にかけて発生した長州の奇兵隊脱隊騒動を鎮圧した。この間、明治2年11月に死去した兄の家督を継承、甥で兄の次男勝之助を養子に引き取り、明治3年8月に大隈重信の仲介で新田俊純の娘・武子と結婚している。

明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、伊藤と行動を共にし、主に財政に力を入れた。

明治4年(1871年)7月に廃藩置県の秘密会議に出席し、同月に副大臣相当職の大蔵大輔に昇進。大蔵卿・大久保利通が木戸や伊藤らと岩倉使節団に加わり外遊中は留守政府を預かり、事実上大蔵省の長官として「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるう。

しかし大蔵省は民部省と合併してできた巨大省庁で、財政だけでなく地方官僚を通して地方行政にも介入できたため(元幕臣中野梧一の山口県参事登用など)、予算問題で改革にかかる多額の予算を要求する各省と衝突しただけでなく、学制頒布を掲げる文部卿・大木喬任や地方の裁判所設置と司法権の独立を目指す司法卿・江藤新平との対立も発生した。また、行政府の右院は各省の長官が構成員であり、前述の関係上対立・機能不全は避けられず、立法府の左院と最高機関である正院も調整力が疑問視されていた。

こうした事態を憂いた井上は大久保の洋行に反対だったが、西郷隆盛が大久保の代理となることで納得した。しかし、秩禄処分による武士への補填として吉田清成に命じたアメリカからの外債募集はうまくいかず、明治4年9月に大久保とともに建議した田畑永代売買禁止令・地租改正もまだ実現できず、財政は窮乏していた。

緊縮財政の方針と予算制度確立を図ったが、文部省が学制頒布、司法省が司法改革などで高い定額を要求すると拒絶して予算を削ったことが江藤らの怒りを買い、明治6年(1873年)、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて5月に辞職した。そのときに渋沢栄一と連名で建議書を提出し、政府の財政感覚の乏しさを指摘した。その建議書は新聞雑誌に掲載され、国家予算の明朗化の第一歩となった。その後、9月に使節団が帰国、征韓論をめぐる政争や10月の明治六年政変で西郷、江藤、板垣退助らが下野、大蔵省の権限分譲案として内務省が創設される。また、翌明治7年(1874年)に江藤が佐賀の乱を起こして敗死するなど変遷があったが、すでに下野していた井上にはそれらに関わりがなかった。

政界から引いたあと、一時は三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、辞任していた木戸と板垣の説得にあたり、伊藤に説得された大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年(1875年)の大阪会議を実現させた。同年に発生した江華島事件の処理として、翌明治9年(1876年)に正使の黒田清隆とともに副使として渡海、朝鮮の交渉にあたり2月に日朝修好条規を締結した。6月、欧米経済を学ぶ目的で妻武子と養女末子、日下義雄らとともにアメリカへ渡り、イギリス・ドイツ・フランスなどを外遊。中上川彦次郎、青木周蔵などと交流を結んだが、旅行中に木戸の死、西南戦争の勃発や大久保の暗殺などで日本が政情不安になっていることを伊藤から伝えられ、明治11年(1878年)6月にイギリスを発ち、7月に帰国した。

大久保暗殺後に伊藤が政権の首班となると、同月に伊藤により参議兼工部卿に就任、翌12年(1879年)に外務卿へ転任した。

明治14年(1881年)に大隈重信と伊藤が国家構想をめぐり対立したときは、伊藤と協力して大隈を政界から追放した(明治十四年の政変)。この後も朝鮮との外交に対処、翌明治15年(1882年)で壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、また条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館と帝国ホテル建設に尽力した。同年、海運業独占の三菱財閥系列の郵便汽船三菱会社に対抗して三井など諸企業を結集させ共同運輸会社を設立したが、のちに両者を和睦・合併させ日本郵船を誕生させた。

明治16年(1883年)に鹿鳴館を建設して諸外国と不平等条約改正交渉にあたり、明治17年(1884年)の華族令で伯爵に叙爵された。同年に防長教育会や防長新聞の創設、三井物産相談役のロバート・W・アーウィンを通したハワイの官約移民(明治14年に日本を訪問した国王カラカウアと約束していた)にも尽力している。同年12月の甲申事変で朝鮮宗主国の清が介入すると渡海。翌18年(1885年)1月に朝鮮と漢城条約を締結して危機を脱した(4月に伊藤が清と天津条約を締結)。

明治18年(1885年)、伊藤が内閣総理大臣に就任して第1次伊藤内閣が誕生し、井上は外務卿に代わるポストとして第5代外務大臣(外務大臣の代数は外務卿から数えるため、初代外務大臣ではない)に就任。引き続き条約改正に専念した。

明治20年(1887年)に改正案が広まると、裁判に外国人判事を任用するなどの内容に反対運動が巻き起こり、井上毅・谷干城などの閣僚も反対に回り分裂の危機を招いたため、7月に改正交渉延期を発表、9月に外務大臣を辞任。このほか、山陽鉄道社長に中上川彦次郎を据えて鉄道建設を進めたり、パリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めたりしていたが、条約改正と同じく辞任にともない頓挫した。その際に井上の秘書として活躍したアレクサンダー・フォン・シーボルトは勲一等、兄アレキサンダーとともに交渉に関わったハインリヒ・フォン・シーボルトには勲三等がのちに与えられた。両名は医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男と次男である。

明治21年(1888年)、伊藤が大日本帝国憲法を作成するため辞任した。黒田清隆が次の首相になると、黒田内閣で農商務大臣に復帰したが、かねてより政府寄りの政党を作るべく企画した自治党計画が翌22年(1889年)2月の黒田の超然内閣発言や周囲の反対で挫折、外務大臣に就任した大隈の条約改正案に不満を抱き、5月末から病気を理由に閣議を欠席して引きこもり、10月に黒田内閣が倒閣に陥ると辞任した。12月、悪酔いした黒田が留守中の自宅に押し入り暴言を吐く事件が発生し、黒田に抗議している。

明治25年(1892年)、第1次松方内閣が行き詰まりをみせると、伊藤は側近の伊東巳代治に「黒幕会議」を開催するよう命じた。6月29日に松方邸内で行われた会議の構成員は伊藤・黒田・山縣有朋と現首相の松方正義であり、井上は山口県に帰郷していたため参加できなかった。この会議では第2次伊藤内閣の成立が事実上決まり、「元勲会議」によって後継首相が決まる先例となった。7月30日に松方が辞表を提出すると、明治天皇は伊藤、山縣、黒田に善後処置を諮り、そして2日後には井上馨に対して後継首相の意向を尋ねた。伊藤の伊皿子邸において、伊藤・山縣・黒田・井上、そして山田顕義と大山巌を加えた会議が行われ、伊藤を後継首相とすることが確認された。これ以降、井上はその死までほとんどすべての内閣総理大臣推薦に関与し、いわゆる元老の一人として扱われた。

8月8日伊藤が内閣を組織すると内務大臣に就任。11月27日に伊藤が交通事故で重傷を負うと、翌26年(1893年)2月6日まで2か月あまり総理臨時代理を務めた。明治27年(1894年)7月に日清戦争が勃発、戦時中の10月15日に内務大臣を辞任し、朝鮮公使に転任。戦時中は陸奥宗光とともに伊藤を支え、翌明治28年(1895年)8月の終戦まで公使を務めた。朝鮮では金弘集内閣を成立させ改革に着手したが、三国干渉によるロシアの朝鮮進出と朝鮮の親露派台頭、ロシアと事を構えたくない日本政府の意向で成果を挙げられないまま帰国した。後任の朝鮮公使三浦梧楼が10月に親露派の閔妃を暗殺する事件を起こし解任されると(乙未事変)、 特派大使に任命され次の公使小村壽太郎の助け役として再渡海、11月に帰国した後は静岡県袖師町(現・静岡市清水区)の別荘・長者荘へ引き籠った。 明治31年(1898年)1月の第3次伊藤内閣成立にともない大蔵大臣となったが、半年で倒閣になったため成果はなかった。また、明治33年(1900年)の第4次伊藤内閣で大蔵大臣再任が検討されたが、渡辺国武が大蔵大臣を望み、伊藤がやむをえず承諾したため話は流れた。

明治34年(1901年)の第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業に入ったが、大蔵大臣に大蔵省時代からの右腕だった渋沢栄一を推したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと判断した井上は大命を拝辞するにいたった。組閣断念の理由について、歴史家の村瀬信一は渋沢をはじめとする財界が政治との関わり合いを嫌ったこと、同じ長州派の伊藤と山縣有朋が憲法、軍事で成果を上げ、それぞれ立憲政友会、官僚集団といった基盤を備えていたことに対し、外交・財政いずれも功績を残せず、政党と官僚閥ともつながりがなく、財界以外に基盤がない点から内閣を諦めたと推測している。

大命拝辞したあとは後輩の桂太郎を首相に推薦、第1次桂内閣を成立させた。桂政権では日露戦争直前まで戦争反対を唱え、明治36年(1903年)に斬奸状を送られる危険な立場に置かれたが、翌37年(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得した。明治40年(1907年)、侯爵に陞爵。明治41年(1908年)3月に三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席したときに尿毒症にかかり、9月に重態に陥ったが11月に回復した。

明治44年(1911年)5月10日、維新史料編纂会総裁に任命された。明治45年(大正元年・1912年)の辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助、大正2年(1913年)に脳溢血に倒れてからは左手に麻痺が残り、外出は車いすでの移動となる。大正3年(1914年)の元老会議では大隈を推薦、第2次大隈内閣を誕生させたが、大正4年(1915年)7月に長者荘で体調が悪化、9月1日に79歳で死去した。葬儀は日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区西麻布の長谷寺と山口県山口市の洞春寺に埋葬された。戒名は世外院殿無郷超然大居士。

生前から井上の生涯を記録する動きがあり、三井物産社長の益田孝と井上の養嗣子勝之助が編纂して大正10年(1921年)9月1日、財政面をおもに書いた『世外侯事歴 維新財政談』が上・中・下の3冊で刊行された。昭和2年(1928年)に勝之助の提案で井上の評伝を作ることが決められ、昭和8年(1933年)から翌9年(1934年)にかけて全5巻が刊行された。また、これとは別に伊藤痴遊が明治41年に井上の快気祝いとして評伝『明治元勲 井上侯実伝』を、大正元年に『血気時代の井上侯』を出版している。

栄典

明治2年11月10日 - 従五位

明治4年12月13日 - 従四位

1879年(明治12年)12月15日 - 正四位

1886年(明治19年)10月19日 - 従二位

1896年(明治29年)6月20日 - 正二位

1915年(大正4年)9月1日 - 従一位

1879年(明治12年)2月10日 - 勲一等旭日大綬章

1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵

1888年(明治21年)7月21日 - 銀製黄綬褒章

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章

1895年(明治28年)10月7日 - 旭日桐花大綬章

1906年(明治39年)4月1日 - 大勲位菊花大綬章

1907年(明治40年)9月21日 - 侯爵・貴族院議員章

1915年(大正4年)9月1日 - 菊花章頸飾

1884年(明治17年)3月1日 - スペイン王国:カルロス大十字三等勲章

1885年(明治18年)

    4月6日 - メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライフェン勲章グロースクロイツ

    4月14日 - ハワイ王国:カメハメハ第一世勲章グランドクロス

    5月8日 - ロシア帝国:白鷲大綬章

    1886年(明治19年)2月3日 - 波斯国:獅子太陽第一等勲章

    1892年(明治25年)11月10日 - オーストリア=ハンガリー帝国:鉄冠第一等勲章

    1902年(明治35年)6月21日 - 大韓帝国:李花大綬章

    人物

    業績

    維新後については、制度を作りながら諸施策を進めていくといった行政の舵取りが必要であったが、明治初期に重職に就いた者の中で理財の才能を持った者は井上がその筆頭に挙げられ、財政の建て直しに大変な努力をしている。一度は官を辞職したが、長州系列の人物と革命の元勲としての威光で、同藩出身の山縣有朋とともに過去の汚職にもかかわらず絶大な存在感を示した。

    外務大臣としての従事期間は長く、その間、条約改正に献身的な努力を注いでいた。その成果は次の大隈重信・青木周蔵・陸奥宗光らにいたって現れてきていると考えられる。外交はその国民の代表との長い信頼関係の構築の結果として醸成されてくるものであり、国内での影響力と同じ尺度で評価することは適切ではない。井上は維新政府の財政面から国家運営を見ていたために、諸外国との戦争は極力避けたいと願っていたことがうかがい知れる。

    実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業に努めた。日本郵船・藤田組、小野田セメント、筑豊御三家、特に三井財閥においては最高顧問になるほど密接な関係をもった。これを快く思わなかった西郷隆盛は、岩倉使節団出発前夜の明治4年11月11日、送別会の席で井上のことを「三井の番頭さん」と皮肉っている(佐々木高行の日記より)。尾去沢銅山事件に代表されるように、実際に三井や長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた。

    井上は三井財閥、藤田組などを通して第一国立銀行設立、三井物産創業、三池炭鉱事業の開始、台湾銀行、台湾製糖会社の設立、児島湾干拓事業、洞海湾拡張事業などを手がけ、石炭輸出による外貨獲得、日本の近代化を推し進めた。また、各財閥に家憲を制定して同族間の結束を固めることを強調、藤田家憲は明治9年、三井家憲は明治33年、貝島家憲は明治42年にそれぞれ制定、井上の尽力で3家は日本経済を支える財閥に発展した。

    江戸末期、財政危機にあった南部藩は御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は藩から商人たる村井に貸し付けた文面に形式上はなっていた。藩所有の尾去沢鉱山は村井から借りた金で運営されていたが、書類上は村井が藩から鉱山を借りて経営している形になっていた。1869年(明治元年)、採掘権は南部藩から村井に移されたが、諸藩の外債返済の処理を行っていた大蔵大輔の職にあった井上は、1871年(明治4年)にこの証文を元に返済を求め、その不能をもって大蔵省は尾去沢鉱山を差し押さえ、村井は破産に至った。井上はさらに尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを無利息で払い下げた上で、「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。村井は司法省に一件を訴え出て、司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及し、井上の逮捕を求めるが長州閥の抵抗でかなわず、井上の大蔵大輔辞職のみに終わった。江藤が下野し、佐賀の乱で死刑になったため真相は解明されずに終わった。これを尾去沢銅山事件(尾去沢疑獄事件、尾去沢汚職事件とも)という。

    政界を離れた井上は、鉱山を手に入れた岡田とともに1873年(明治6年)秋に「東京鉱山会社」を設立、翌年1月には鉱山経営に米の売買・軍需品輸入も加えた貿易会社「岡田組」を益田孝らと設立、岡田の急死(銀座煉瓦街で死体となって発見)により鉱山事業を切り離し、同年3月に益田らと先収会社を設立、これが三井物産へと発展していった。

    逸話

    仕事上で特に深く関わった人物は渋沢栄一、益田孝、藤田伝三郎、貝島太助、杉孫七郎、杉山茂丸ら多数。長寿だったため、大甥である鮎川義介(実姉常子の孫、日産コンツェルン創始者)や鮎川の義弟・久原房之助(藤田の甥、久原財閥の祖)への指導もしている。

    恩義を忘れず情に厚い面があり、旧藩主毛利家一族や長井雅楽、高杉晋作の遺族や、命の恩人の医師・所郁太郎の子孫に手厚く報いた。明治8年、高杉の愛人・梅処尼が貧困に苦しんでいたところを有志を募り生活費を与え、明治14年から3年かけて寄付金を集め、明治17年に東行庵を建てて梅処尼を住まわせた。また、明治23年から26年にかけて毛利一族の結束を図り家憲を制定、明治25年から毛利邸建築に着工(完成は大正5年)したことなどが挙げられる。また、明治25年と明治34年に右田毛利家が経営する第百十国立銀行が経営危機に陥ると、伊藤らとともに財政援助を行い破綻を防いだ。第百十銀行はのちにほかの銀行と合併、山口銀行が誕生した。

    一方、突拍子もないことを言い出す傾向、妥協を許さず主張を押し通すところもあった。文久3年のイギリス旅行の途中に停泊した上海で、外国艦隊を目にして攘夷を捨てて開国論に転向したり(伊藤に話したが相手にされなかった)、下関戦争で攘夷か和睦か方針が定まらない藩を非難したり、外相時代の明治18年と翌19年(1886年)にキリスト教推進、外山正一創立のローマ字会加入および演説、群馬県太田市から桐生市一帯を首都とする上州遷都案を立ち上げたり、明治21年に自治党を発案したりしている。これらは欧化主義と非難されたが、条約改正に取り組む井上としては近代化した日本を列強に見せる狙いがあり、合理的な姿勢、新しいものに対する理解の速さから取得の必要性を感じたため、一直線に欧米文化流入に尽力した経過であり、辞任後は立憲政治への対応を考え、政府与党の創造および政府と世論の接点を近づけようとした。しかし、あまりにも先取りしすぎるアイディアを周囲の反応を省みず実行へ突き進んだため、外相辞任にともない事業挫折、あるいは伊藤らに説得され断念したことは井上の強引な一面が災いしたことを示している。

    親友は吉富簡一(山口矢原の庄屋の生まれ・初代山口県会議長・防長新聞創立、政友会を支援した)。高杉晋作と伊藤博文とは終世親しく交際していた。

    欧米に負けない国劇の創造を目指した演劇改良運動の後援者であり、自らの私邸を天覧歌舞伎の会場として提供した。また歌舞伎役者の九代目市川團十郎がかつての養家から泣きつかれて背負いこんだ経営不振の河原崎座の借財整理に協力したこともあった。そのほかの演芸家では、落語家の三遊亭圓朝、清元節の清元お葉、義太夫の竹本越後太夫などとも親交があった。

    明治19年2月10日、外務大臣として鹿鳴館での舞踏会に出席中、十数名の暴漢に襲われそうになったが、警護役の得能関四郎が応戦して11名を逮捕して難を逃れた。この事件は得能の剣客としての名声を高めることとなった。

    明治21年、同志社英学校創立者の新島襄が同志社大学設立のため自宅を訪れた際、大隈重信、渋沢栄一、益田孝ら親しい事業家たちに募金を募り3万円近く集めた。

    明治24年、九州の金田炭鉱を訪れた際、柏木勘八郎の引き立てで貝島太助と出会い、正直なその性格を見込んだ井上は不況で経営難に陥っていた彼を助けるため、毛利氏の財産を投資して(井上は家憲制定の件で後見人同然の立場にあった)貝島の窮地を救い、のちに貝島の息子太市と鮎川の妹を娶わせ、その後の貝島財閥の繁栄を導いた。一方、毛利氏の家政は三井物産が担当、資金貸し出しを通して貝島の資産調査・炭鉱への介入を繰り返したため、貝島炭鉱の独立は大正9年(1920年)までかかった。

    明治30年、維新史編纂事業が進まないことに怒り、毛利家の編集担当者だった宍戸璣を更迭、後任に末松謙澄を据えた。末松が長州藩士ではなかったこと、末松の頼みで井上が委員を解雇して他藩出身の人間に入れ替えたことなどがもとになり、明治34年8月4日に宍戸が新聞に不満をぶちまける、編集委員の中原邦平(長州藩士)が末松と衝突するなどトラブル続きだった。紆余曲折の末に明治44年に防長回天史が出版され大正9年に完全刊行、現代に残る幕末維新史の基本史料ができ上がった。

    明治35年(1902年)、莫大な借金を抱えた東本願寺に泣きつかれ、本山の放漫財政が赤字の原因と知ると、対策として末寺からの本山統制を主とした財団法人設立を企図した(東本願寺借財整理)。東本願寺の抵抗によりすぐに成功しなかったが、のちに財団が設立された。

    明治44年11月、中国から製鉄コンビナートの漢冶萍公司総理盛宣懐が訪問した際、三井物産の上海支店長山本条太郎とともに漢冶萍公司の日中共同経営を考え、第2次西園寺内閣の内務大臣原敬にかけ合い資金援助を実現させた。翌明治45年、漢冶萍公司の株主の反発で盛宣懐が解任されたため事業は失敗に終わるが、盛宣懐が井上に送った称賛の言葉を綴った軸が洞春寺に残っている。

    美術品収集に熱心で、茶会に招かれた先で気に入った茶碗や掛物を「もらっておく」と言い、半ば強引に奪い取っていた。持ち主は権力者である井上には逆らえず、泣き寝入りするしかなかったという。この話を聞いた明治天皇は井上の茶会に行幸し、掛物を「もらう」と言い出し井上を狼狽させ、横暴をたしなめたという。

    ほぼ毎年遺言書を更新していた(そのうちの1枚がテレビ番組『開運!なんでも鑑定団』で取り上げられたことがあり、200万円の値がついている)。

    鉄道庁は明治41年、長者荘への病気見舞客のため新橋および神戸発の最急行を興津駅に停車させることにした。

    嗜好

    関直彦 「井上伯の好物は数の子にて、その季節には三度の食膳に必ず供せられ、一と鉢位は難なく平らげらる」

    自ら料理をし知人をもてなすほどの料理好きだった。「(材料は)遠近を問はず何処までも往つて捜させた。そして必ず手に入れねば承知しなかった。また手に入れた上は之を如何にして調理すれば最も口に適するかといふことを研究し、それには一方ならぬ苦心をしたものである」(『世外井上公伝』)「井上候の特技中の特技はなんといっても料理通であることと、すばらしい(?)料理人であることでした。ところが、すばらしいといっても少々意味が違います。(略)そのぜいたくぶりは正に天下第一でありましたが、反面、世間から井上料理を恐れられたくらいで、そのズバ抜けた下手趣味に徹している、これまた風変わりな点においてはまことに徹底したものでした」(『花外楼物語』)「要するに公の料理は、その性格と同様に、尋常の味覚を以ては味はひ得ない所のものであつた」(『世外井上公伝』)

    建築の嗜好があり、都内のほか、各地に多数の別邸を普請した。

      鳥居坂本邸 - 1880年竣工。1887年には増築された棟で天覧歌舞伎が行われた。その後、久邇宮、赤星弥之助・赤星鉄馬、岩崎小弥太と所有者が変わり、戦後跡地に国際文化会館が建てられた。

      内田山本邸 - 鳥居坂近くの麻布宮村町内田山(現・元麻布3丁目、六本木6丁目)に1894年建築。1905年に邸を訪ねたフリーダ・フィッシャー(東洋美術収集家)は屋敷の典雅さに驚き、「なんという静謐さ、なんという気品、なんという簡素さだろう」と感嘆の言葉を残している。1922年に4000坪が売却され、宅地化。

      龍土町別邸

      興津別邸「長者荘」 - 62歳の1896年に隠居所として建設され、興津の別荘地化のきっかけを作った。この家で没したのち養嫡子の井上勝之助が住んだが、1945年の清水空襲により焼失した。約5万坪の敷地に磯部温泉別邸を移築した本館、鳥居坂から移築した別館のほか、みかん畑や庭園、高さ5m弱の巨大な井上馨像(戦時中に供出)などがあった。跡地は静岡市埋蔵文化財センターなどが建つ。

      神奈川県には富岡別邸、横浜野毛別邸、鎌倉稲村ケ崎別邸などがあった。

      内田山本邸、光琳の間
      内田山本邸、光琳の間

      内田山本邸、周文の間
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      内田山本邸の茶室八窓庵。鳥居坂本邸から移築
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      興津別邸全景 明治43年撮影
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      井上馨銅像。右より井上三郎、幸子、千代子、末子、武子、井上馨
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2024/06/17 13:55更新

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