三条実美の情報(さんじょうさねとみ) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
三条 実美さんについて調べます
■名前・氏名 |
三条実美と関係のある人
明治天皇: そして三条実美に宛てて書いた書簡の中で木戸は次のように指摘した。 明治天皇: 大名たちの他、公家の三条実美や中山忠能らも陪騎した。 西郷隆盛: 太政大臣三条実美は丸腰では危険であり、兵を同行するべきとしたが、西郷は拒絶した。 真田五郎: 勝海舟(1974年) - 三条実美 堀内正美: 奇兵隊(1989年) - 三条実美 木村俊夫: 三条実美 堀内正美: 白虎隊(1986年) - 三条実美 明治天皇: 華頂宮博経親王、三条実美、外祖父中山忠能らが鎧直垂・揉立烏帽子を着用して随従した。 明治天皇: また同月には、天皇の外祖父中山忠能、三条実美、岩倉具視、正親町三条実愛、中御門経之ら反幕府派公卿の連携ができ、薩摩の西郷・大久保らとの接触を深めた。 明治天皇: 天皇は、まず天神地祇を祀り、政府副総裁・三条実美に祭文を読ませ、その後、天皇が玉串を献じて拝礼、ついで天皇は、三条実美に五箇条からなる国家の新方針を、神に誓う形で捧読させた(五箇条の御誓文)。 明治天皇: そこで明治7年(1874年)1月に大久保利通と大隈重信は三条実美の要請を受けて生蛮問罪について調査し、台湾蕃地処分要略を作成し、その中で、清国政府の声明によれば、台湾「生蕃」地域はどこの国にも所属していない、従って邦人が受けた暴行に対する報復は日本政府の義務であることを指摘した。 木戸孝允: この密議は、三条実美と岩倉具視にすら知らされていなかった。 木戸孝允: しかし、木戸と大隈ら木戸派の反発に遭い、また木戸と大久保が2人とも参議から外れる不自然さは「世論紛々、諸官解体」という混乱を呈し、結局は三条実美と岩倉が収拾に乗り出す形となり、大久保、木戸の盟友である広沢真臣、副島種臣の3人が改めて参議に任じられた。 明治天皇: またヤングは同席していた三条実美と岩倉具視について「首相(三条実美)は、印象深い人物である。 中村カンナ: 幕末動乱美少女伝(2024年、三条実美) 明治天皇: 天皇は三条実美や通訳の吉田清成を伴って会談に臨み、グラントは息子と書記を伴っていた。 岩倉具視: しかし岩倉排斥の動きはもはや止まらず、8月16日には三条実美、姉小路公知など13名の公卿が連名で岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を関白・近衛忠煕に提出するにいたる。 山県有朋: やむなく明治天皇は内大臣三条実美に内閣総理大臣を兼任させた。 ハリー=パークス: 新政府の正当性を宣言するため各国外交団に明治天皇への謁見が許された矢先に堺事件がおきたが、同事件解決後に京都に行き、三条実美・岩倉具視などに会い、天皇にも謁見した。 明治天皇: 第1回内国勧業博覧会を盛況のうちに終えて産業振興に対する効果を確信した大久保は、太政大臣三条実美に上申し、内国博を5年に一度の開催とさせて次回を明治14年に予定した。 徳川家茂: 京都では前年の八月十八日の政変で三条実美ら尊王攘夷派が朝廷から失脚しており、家茂は朝廷より歓迎されて従一位右大臣に昇進した。 伊藤博文: 衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。 明治天皇: グラントは有栖川宮熾仁親王御息所(夫人)をエスコートし、三条実美がグラント夫人をエスコートして食卓に着いた。 東久世通禧: 叙爵の時点で功績が考慮された公家は、岩倉具視や三条実美など数少ない。 徳川慶喜: 12月8日(1868年1月2日)の朝議では慶喜の反対を退けて長州藩の復権と三条実美ら五卿帰洛が決定され、さらに翌12月9日(1868年1月3日)には薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩が政変を起こして朝廷を掌握し、慶喜を排除しての新政府樹立を宣言した(王政復古の大号令)。 明治天皇: 公家清華家の出身で、華族である三条実美が日本政府のトップたる太政大臣の地位に長くあり続けたのは、藩士階級出身の士族の参議たちでは権威が足りなかったからであり、近世から近代への過渡的な人事だったといえるが、今やその過渡期も終え、百姓生まれの元足軽が直接政府のトップである内閣総理大臣に就任する時代が到来したのである。 明治天皇: 祭文を読み上げているのは三条実美。 木戸孝允: 木戸が復帰する以前から、大宰府に移動した三条実美らの周辺にいた中岡慎太郎らにより、幕府からの割拠を目指す薩長二藩の提携を推進する動きがあり、慶応元年(1865年)閏5月に木戸と西郷の会見が用意された。 和宮: 10月12日、朝廷は幕府に破約攘夷を督促するため、三条実美・姉小路公知の両名を勅使として派遣した。 吉村和紘: 『裏語 薄桜鬼〜暁の調べ〜』(三条実美、虎太郎) |
三条実美の情報まとめ
三条 実美(さんじょう さねとみ)さんの誕生日は1837年3月13日です。京都出身の政治家のようです。
病気、事件、姉妹、ドラマ、テレビ、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1891年に亡くなられているようです。
三条実美のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字体:三條 實美、1837年3月13日〈天保8年2月7日〉- 1891年〈明治24年〉2月18日)は、日本の公卿、政治家。三条家31代。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉(なしき せいさい、旧字体:梨木 誠󠄁齊)。 幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。内閣発足以後の内閣総理大臣臨時代理も兼任している。 天保8年(1837年)、公卿三条実万の三男として生まれる。幼名は福麿。正室山内紀子の子であったが、三男であったため、三条家庶流である花園公総の養子となる予定であった。幼い頃から聡明であると知られ、また福麿の教育係であった儒者富田織部の影響で、尊皇意識が高かった。 安政元年(1854年)2月、次兄で三条家の嗣子であった三条公睦が早世した。公睦には嫡子公恭がおり、本来であれば公恭が継ぐはずであったが、富田織部の強い推挙によって、4月に嗣子となった。8月には元服し、実美と名乗った。「美」の字を使った名乗りは本来「よし」や「はる」と読むが、実万はこれを忌み、儒者池内大学の勧めにより「実美」は「さねとみ」と読むこととなった。またこの際に公恭を養子として迎えている。 実万は攘夷達成のため、戊午の密勅発出の立役者となったことで、幕府に迫害されることとなる。安政5年(1858年)10月23日、父・実万が隠居・蟄居し、富田織部など三条家の侍も多く逮捕された(安政の大獄)。このような状況下で実美は正式に三条家の家督を相続したが、翌安政6年(1859年)4月には実万は出家・謹慎に追い込まれ、10月に死去した。 文久2年(1862年)、島津久光が上洛すると、実美は活発な活動を始めることとなる。5月10日には久光の意見を入れるとともに、関白九条尚忠をすみやかに退任させ、旧例にとらわれず関白を選ぶべきであるとする上書を提出している。翌日には国事書記御用に任ぜられ、朝廷の中枢に触れる事ができるようになった。実美を引き立てたのは実万の教えを受けた中山忠能や親類筋の正親町三条実愛であった。本来実美は公武合体論者であったが、一向に攘夷に進まない幕府への不満をつのらせていた。この時期には平野国臣の『培覆論』を筆写するなど、尊攘派の志士との交流を深めるようになっていた。 7月から8月にかけては、公武合体派の公卿であった内大臣久我建通、岩倉具視を始めとする四奸二嬪を激しく攻撃し、失脚に追いやった。さらに父実万の養女を妻としていた土佐藩の山内容堂に働きかけ、藩主山内豊範とともに上洛させ、土佐藩を中央政界へ進出させた。 この時期、実美らを始めとする、朝廷の権力を増大させようという朝廷改革派が勢力を伸長したが、攘夷論者ではあるが幕府への大政委任論の立場に立つ孝明天皇の考えとは大きく異なるものであった。 8月には長州藩と土佐藩が、14代将軍の徳川家茂に攘夷を再度督促する勅使として実美を派遣するよう運動を開始した。6月には大原重徳が薩摩藩の運動によって派遣されたばかりであり、両藩の動きは薩摩藩の影響力を削ぐねらいもあった。8月10日、実美は攘夷督促のための勅使を再派遣する意見書を出し、10月には勅使の正使として、副使の姉小路公知とともに江戸へ赴いている。実美と長州藩の関係はこの頃から密接となった。12月9日には国事御用掛が設置され、実美はその一員となった。 この頃、実美は近衛忠房に対し、「(江戸のある武蔵国は)昔は野でしたから、また『武蔵野』となってもよいでしょう。」と放言し、近衛の怒りを買っている。また薩摩藩や青蓮院宮尊融入道親王に不満を言い募るなどし、両者の不信を買った。実美は武市半平太の土佐勤王党によって土佐藩をまとめ、長州藩とともに薩摩藩に圧力を掛けるべく動いていた。当時、大久保利通は「長士の暴説に酔った」と評している。 文久3年(1863年)正月23日、親薩摩派の関白近衛忠煕は実美らの攻撃に耐えかねて辞職し、長州藩士を多く出入りさせていたため「長州関白」と呼ばれる鷹司輔煕が次の関白となった。2月20日には学習院で学ぶ公家たちに、草莽の志士が時事を顕現することが許されるようになり、公家たちが尊攘派の影響をさらに強く受けるようになった。2月22日には尊攘派公家の押し上げにより、将軍後見職の一橋慶喜に攘夷期限の奏上を求めることとなった。この交渉役に選ばれた実美は、慶喜を激しく攻め立て、4月中旬を攘夷期限とする言質をとった。 鷹司関白は高齢で自信に欠けるところもあったために、実美ら尊攘派公家に抵抗することができず、実美は「関白殿下ですら時に屈従する」といわれる程の権勢を誇った。この状況を憂いた青蓮院宮は山内容堂に実美の説得を依頼したが、効果はなかった。当時は尊攘派志士の活動が過激化しており、実美の師だった池内大学ですら殺害されるほどであった。実美は容堂に対し、志士たちが強く攘夷を迫る状況を説明し、「予が身の上をも推察せられたし」と訴えている。2月21日に実美は議奏に任ぜられ、病気を理由に辞退したい旨を述べたが許されなかった。 3月4日には将軍家茂が上洛し、実美ら尊攘派は圧迫を強めた。3月11日には上賀茂神社・下鴨神社への攘夷祈願の行幸、4月11日には石清水八幡宮への行幸が行われ、攘夷を迫る将軍への圧力となった。石清水行幸の当日、孝明天皇はめまいのために延期を求めたが、実美は許さず、無理に面会を迫って仮病かどうかを問いただしたという。ついに5月10日をもっての攘夷決行を約束させ、その当日には孝明天皇に「焦土と化しても開港しない」という勅を出させた。島津久光・松平春嶽・山内容堂といった公武合体派は京を去り、長州藩と尊攘派によって京都はほとんど掌握された。しかしこの状況には孝明天皇ですら不快感を示すようになり、尊攘派公家を「暴論の堂上」と呼ぶようになった。 幕府は攘夷派公家の筆頭である実美と姉小路公知の懐柔を図ったが、実美については効果がなかった。一方で姉小路は大坂で勝海舟と議論したこともあり、開国に傾いたという噂が立つようになった。5月20日夜、実美と姉小路は揃って御所を退出し、実美は輿で青蓮院宮邸に向かうために別れた。その後まもなく、北に向かっていた姉小路は朔平門外で暗殺された。実美は青蓮院宮邸を目指して東に向かっていたが、家臣が不審な人物を目撃した。家士の戸田雅楽(後の尾崎三良)は実際の時間より遅い時間を告げて実美に訪問を諦めさせ、帰邸させた。自宅で姉小路遭難の報を聞いた実美は、すぐに姉小路邸に見舞いに向かっている。 姉小路暗殺犯と見られたのは薩摩藩の田中新兵衛であった。長州藩と実美は薩摩藩排除に動き、さらに長州藩が直接朝廷に献金できるよう取り計らった。しかし孝明天皇は実美による薩摩藩排除の動きは「偽勅」であり、早々に実美と徳大寺実則を「早々取除」くべきであると青蓮院宮に伝えている。権勢の頂点にあった実美だったが、薩摩藩の調査によれば、実美は過激派の言動に引きずられて今更意見を変えることもできないと嘆き、脚気がひどくなったこともあって邸に引きこもりがちとなり、「出家遁世したい」とこぼしていたという。 6月、久留米藩より尊攘派のイデオローグである真木保臣(和泉)が上洛して学習院御用掛となり、実美らに直接影響を与えるようになった。真木は「百敗一成」を唱え、攘夷のための準備が整わない状態であっても、天皇が先頭に立って攘夷親征を行うことによって、世の中の動きが変わると主張していた。真木を謀臣とした実美は、長州藩とともに攘夷親征のための大和行幸計画をたて、朝廷の方針となった。 しかし孝明天皇は行幸を望んでおらず、青蓮院宮と薩摩藩に対して救いを求めた。青蓮院宮ら公武合体派の皇族・公卿、薩摩藩、京都守護職である松平容保の会津藩らは連携し、長州藩と尊攘派排除のためのクーデター計画を進めた。 8月13日、攘夷親征のための大和行幸を行う詔が出された。ところが8月18日朝、薩摩藩と会津藩などの兵が御所の九門を固め、攘夷急進派の公家を締め出した。実美の邸には久坂玄瑞や宮部鼎蔵、土方久元と御親兵が駆けつけた。実美は状況を把握するため関白鷹司邸に向かい、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉と出会ったが、肝心の鷹司関白は参内したまま戻っていなかった。やがて彼らは参内を停止されたことを知り、長州藩も御所の警備から排除されたことが伝わった。真木や長州藩士と協議したのち、一旦妙法院に移り、ここで七卿は長州藩に向かうこととなった。 8月19日未明、七卿は京都を出発し、長州藩に向かった。慣れない徒歩のために三条は足から出血し、戸田雅楽らは住民を脅しつけて駕籠を用意させた。一方で徳島藩・広島藩・津和野藩に対し、義兵を挙げるため長州に有志を募る檄文を送っている。8月21日には湊川で楠木正成の墓に参拝した後、兵庫湊から船で長州を目指した。8月24日、許可なく京都を離れたことによって実美ら七卿は官位を停止され、長州藩は京都での勢力を失った。長州藩の上層部は当初七卿を迎え入れることは望んでおらず、藩境で抑留して帰京を勧告するつもりであったが、8月26日と8月27日に七卿を乗せた船が長州藩領の三田尻港に入港した。このため長州藩は七卿を賓客として迎え入れることとなり、公邸である三田尻御茶屋の招賢閣を彼らの居館とした。この頃土佐藩士の中岡慎太郎は、土佐藩で土佐勤王党が排斥されたこともあり、七卿の傘下として動くこととなる。 三田尻で七卿は奇兵隊を護衛とし、高杉晋作らと武力上京について協議している。9月28日には平野国臣が訪れ、蜂起のために七卿の一人を主将としたい旨を告げられた。協議がまとまらないうちに、澤宣嘉は一人脱走し、平野とともに生野の変を起こして失敗することとなる。 元治元年(1864年)正月、長州藩は六卿を三田尻から山口の近郊に移すこととし、実美のみは湯田村高田にうつった。ここで当初は草刈藤太の邸に滞在し、間もなく井上聞多(後の井上馨)の実家に移った。ここでは実美のために離れが建設され、「何遠亭」と名付けられた。 正月27日には孝明天皇から七卿と長州藩攘夷派を批判する詔旨が出された。これは実美らが下賤な攘夷派の暴説を信用し、孝明天皇の「命を矯て」軽率に攘夷と討幕を行おうとしたとし、長州藩の尊攘派も「必ず罰せずんばある可からず」と批判されていた。長州藩は藩主父子と五卿の赦免を求め、朝廷に働きかけていた。実美ら五卿もこの動きを支持し、7月の藩主父子の上京と時を同じくして、京を目指した。7月21日には讃岐国多度津に到着したが、ここで禁門の変の敗報を聞き、藩主父子と合流するために鞆に向かったが出会えなかった。長州藩士の野村靖は内訌必至の長州藩に戻るよりは勤王派の強い岡山藩などに逃れるよう勧めたが、実美は藩主世子定広とは進退をともにすると約したと言って謝絶し、上関を目指した。 第一次長州征伐が迫る中、さらに長州には下関戦争による四カ国連合の攻撃も加えられた。五卿は「長州藩と死生存亡を共にする」決意を固めていたが、恭順派が台頭した藩内では五卿を引き渡すことも検討されていた。高杉晋作らは一時五卿を外国に留学させようとし、実美も一時応諾したが翌日になって断りを入れている。長州征伐総督府は五卿をそれぞればらばらの藩で預かる方針を決め、説得役を福岡藩に依頼した。五卿は条件として藩主父子の赦免と京都の尊攘派公家の処分解除をもとめて交渉していたが、次第に藩内でも五卿の立場は悪化していった。尊攘派の長州藩諸隊は五卿引き渡しと解隊方針に反抗し、五卿とともに長州藩支藩の長府藩にうつった。中岡慎太郎と征討総督府西郷隆盛の交渉の結果、いったん五卿を筑前に移すことで合意が行われた。 慶応元年(1865年)正月15日、五卿は福岡藩黒崎湊(今の北九州市八幡西区)に上陸し、宗像の唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊をへて、2月13日に太宰府に到着した。五卿の身柄は福岡藩が預かるが、薩摩藩・久留米藩・熊本藩・佐賀藩が人を派遣し、費用を提供するという形になっていた。五卿の幽閉先は太宰府天満宮の別当延寿王院であり、ここで学問や身体の鍛錬をおこたらず日々を過ごすこととなる。また福岡藩尊攘派の早川養敬らが薩摩藩と長州藩の提携を模索すると中岡慎太郎や実美も共鳴し、桂小五郎に対して薩摩藩への認識を改めるよう伝えている。桂は薩摩藩を信用するかを「條公(実美)御明察」を通じて見定めるとしており、この後も坂本龍馬・伊藤俊輔・井上聞多らと面会して薩長同盟成立の立役者の一人となった。 慶応2年(1866年)には幕府から使者が訪れ、五卿を大坂に移すよう求めてきた。しかし実美らは死を賭してでも動かないと決めており、薩摩藩・熊本藩も強硬に反対したため幕府は手が出せなかった。この頃になると幕府の失墜は明らかであり、延寿王院は多くの訪問者で賑わいを見せるようになった。慶応3年(1867年)、中岡慎太郎は京都の公家と実美を連携させる案を模索していたが、その候補となったのがかつての政敵である岩倉具視であった。実美は岩倉がかつての「大姦物」であると難色を示したが、岩倉の縁戚である東久世通禧の説得で提携を受け入れることとなった。 慶応3年10月27日、大政奉還が成立し、12月8日には五卿の赦免と復位が達成された。12月14日にこの知らせを受けた五卿は12月21日に出港し、長州藩を経て上洛、12月27日に参内し、議定に任ぜられた。反幕派の大物である三条の復権は、朝廷内における薩摩・長州の力となった。翌慶応4年(1868年)には岩倉とともに新政府の事実上のトップである副総裁の一人となり、外国事務総督を兼ねた。この時期堺事件の対応にあたることとなり、「開国和親の布告」の作成にも携わるなど、かつての攘夷方針を完全に捨てることとなった。戊辰戦争においては、関東観察使として閏4月10日に江戸へ赴き、彰義隊の討伐を目指す大村益次郎を支持した。明治2年(1869年)5月24日右大臣・関八州鎮将となり、5月29日には官吏公選によって輔相に選出され、7月8日には新制の右大臣となった。7月15日に江戸が東京と改称され、鎮将府が置かれると鎮将を兼ねた。実美は岡谷繁実の意見を受けて東京への単独遷都を主張し、これを実現させた。実美は東国と奥州を重視しており、「たとえ京摂を失(うしなう)とも、東京を失わざれば、天下を失うことなし」と述べている。 旧幕府勢力への処罰では厳罰を主張し、戦後の石高を低いものに抑えた。また箱館に籠もる榎本武揚を討伐する総督として前将軍徳川慶喜を起用する策が検討された際には、奇策を用いるべきではないと反対している。 明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県の際には、東京在京中の藩知事56名が西ノ丸御殿の紫宸殿代大広間に召集され、彼らに向けて右大臣の三条実美が廃藩置県を申し渡す勅語を読み上げている。「内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セントス因テ今藩ヲ廃シ県ト為シ務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ更ニ綱紀ヲ張リ政令一ニ帰シ天下ヲシテ其向フ所ヲ知ラシム」(国内において億兆の民を守り、国外において万国と対峙しようと考えている今、藩を廃して県と為す。無駄を去って簡潔にし、有名無実の幣を除き、綱紀を全国に行きわたらせ、政令を統一し、天下にその進むべき方向を指し示す)。ここでいう「有名無実の弊」とは一国が何藩にも分断される封建主義のことを指す。 また同年の制度改革により、太政大臣となった。この太政大臣は律令下のものと異なり天皇の代行者としての役職であり、「万機条公に決」される体制を目指したものであった。ただし実美の役割は自ら政策を主導していくと言うよりも、調整役やバランサーとしての面が大きくなる。伊藤博文は実美が百官に尊重され、一度も悪評が起こったのを聞いたことがないと回想している。この年の11月21日には岩倉使節団の派遣が行われ、実美は留守政府のトップとして島津久光からの圧力、太政官制の改革、台湾出兵問題、朝鮮との国交問題などの様々な問題に取り組むこととなった。 明治6年(1873年)6月、参議板垣退助が朝鮮への出兵を求め、西郷隆盛は大使を派遣することを主張した。西郷は7月頃から自らを使節として派遣するよう要求を始めたが、実美は必ず殺されると反対した。しかし西郷は自ら実美を訪問するなど圧力をかけ、8月17日には閣議で西郷の派遣が決定された。しかしこれは実美が後に「初発僕等の軽率」と認めるように、征韓反対の立場に立つ実美としては失策であった。実美は明治天皇の元を訪れ、「岩倉帰朝の後に熟議」して決定するという「聖断」を受けた。内藤一成はこれは実美の主張をなぞっただけではないかとみている。 岩倉の帰朝後には征韓反対派と西郷らの争いはますます激しくなり、政府分裂を恐れた実美は、10月15日の閣議で西郷の案を決定し、派遣時期については軍備が整うまで決定しないという形で引き伸ばしを図った。しかし征韓反対派の岩倉・木戸孝允・大久保利通が辞表を提出し、いずれにしても政府の分裂は避けられなくなった。心身共に疲弊した実美は10月18日朝に倒れた。実美は胸の痛みを訴えており、家近良樹は狭心症か心筋梗塞、内藤一成は脚気からくる心臓病(脚気衝心)ではないかと見ている。 これをうけて大久保は、岩倉を太政大臣摂行(代理)とするよう働きかけた。岩倉は征韓論争を解決する方法として、明治天皇の「聖断」を仰いだ。10月24日には宮中に影響力をもつ岩倉の意見が通り、西郷らは政府を去った。実美も辞意を伝えたが許されず、12月23日には参内して辞表を提出したが却下され、引き続き太政大臣をつとめることとなった。 明治7年(1874年)4月27日、西郷なき政府の安定を図るため、保守派の重鎮である島津久光が左大臣となり、政府の欧化政策を批判・撤回させるべく動きを強めた。久光は幕末以来の親交を持つ華族を動員して政府に圧力をかけ、明治8年(1875年)には太政大臣の権限を左右大臣に譲らせるよう働きかけた。この動きは失敗し、10月19日にはついに久光は実美を辞職させるよう上奏した。久光は親しい有栖川宮熾仁親王に裁定させることで実美の辞職を勝ち取ろうとしたが、宮内卿徳大寺実則は右大臣岩倉に裁定させるべきであるとした。岩倉は実美を支持するべきであると奏上し、久光の弾劾は失敗に終わった。久光は辞表を提出したが岩倉によって差し戻され、10月25日の閣議で正式に免官となった。内田政風、海江田信義、奈良原繁も三条を弾劾したが、いずれも退けられた。 一方この頃三条家の家令達が事業に失敗し、実美は莫大な負債を抱えることとなった。毛利家の支援で破産は免れたものの、三条家が負債を完済するのは明治38年(1905年)のことであった。 久光が去った後の政府は大久保の独壇場となり、実美はその方針をほとんど支持している。参議の間で意見がまとまらない時には大久保はほとんど黙っており、実美に議論の内容を伝えると、実美は大久保の意見はどうかと問うのが常であった。大久保の意見を実美がよしとすると、大久保は実美の意見であると言って参議をまとめていたという。明治11年(1878年)に大久保が暗殺されると、伊藤と大隈重信が実力者となったが、明治十四年の政変で大隈が下野すると、伊藤の独壇場となった。 明治15年(1882年)、大勲位菊花大綬章を受章する。明治18年(1885年)には太政官制が廃止されて、内閣制度が発足したため、内大臣に転じた。この際実美の旧臣尾崎三良は太政大臣辞任の撤回を実美に訴えたが、国家将来のためであり、他に策はないと伝えて撤回しなかった。 内大臣職はしばしば実美を処遇するための名誉職と取られるが正確ではない。天皇親政の建前が取られた明治政府では、宮中において天皇を輔弼する重要な役割であった。薩長のバランサーとして自らを位置づけていた実美は、藩閥内部の混乱時に調整役としての力を発揮した。また政変や重要人事に関する天皇の下問に応じたが、内大臣としての職責ではなく、実美個人の人格に基づくものであった。また実美は伊藤らの動きを阻害しないためあえて主体的な動きは取らず、宮中の保守派が政治に介入しないための重しとなった。 明治22年(1889年)、折からの条約改正交渉が暗礁に乗り上げ、外務大臣の大隈重信が国家主義団体・玄洋社の団員に爆裂弾を投げつけられて右脚切断の重傷を負うという事件が発生した。進退窮まった黒田内閣は、1週間後の10月25日、全閣僚の辞表を提出した。ところが、明治天皇は、黒田清隆の辞表のみを受理して、他の閣僚には引き続きその任に当たることを命じるとともに、内大臣の実美に内閣総理大臣を兼任させて、内閣を存続させた。実美は総理大臣の職権の強さが条約改正交渉問題の混乱を招いたとして、内閣職権を内閣官制に改めて当面の課題を解決した。同年12月24日、内務大臣山縣有朋が総理大臣に任命され、第1次山縣内閣が成立した。実美は「病痾」を理由とする辞表を提出し、兼任していた内閣総理大臣を免ぜられ、内大臣専任となった。 この期間、ひとつの内閣が存在したものとして、これを「三条暫定内閣」と呼ぶことがある。以降内閣総理大臣の「臨時兼任」や「臨時代理」が制度として定着すると、この実美による総理兼任の背後事情は、次第に過去の特別な例外として扱われるようになった。今日ではこの2ヵ月間に「内大臣の実美が内閣総理大臣を兼任していた」とはしながらも、それは「黒田内閣の延長」であって「実美は歴代の内閣総理大臣には含めない」とすることが研究の趨勢となっている(なお、明治天皇本人にも「西園寺公望の首相就任時に『公家から初めて首相が出た』と喜んでいた」という逸話がある)。首相官邸等で歴代内閣を表す際、山縣は伊藤・黒田に次ぐ第三代総理大臣とされる。 明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法公布式典では明治天皇の脇に控え、憲法文を天皇に奉呈する役割を負っている。以降も臣下では最高の席次を持ち、最高位の功臣として遇された。 明治24年(1891年)2月18日、インフルエンザ罹患により53歳で薨去。薨去の直前である2月17日には明治天皇が親しく見舞いに訪れ、正一位に叙せられた。天皇は三日間の廃朝を宣言し、2月25日に国葬が行われることになった。当日の天候は晴天で、気温も暖かった。明治天皇は以降このような日のことを『三条日和』と呼んでいたという。また国葬以外に各地で自発的に追悼行事も行われた。 東京の旧居は目黒区目黒1丁目(現ホテルプリンセスガーデン、敷地の一部はマンションで三条苑の名称が残る)であるが、それ以前の京都の住居は京都御所に隣接した三条邸跡にあり、父実万を祀っていた梨木神社に、大正時代になって合祀された。墓所は東京都文京区大塚の護国寺にある他、遺髪塚が京都市二尊院にある。 七卿落ちの途中、長州藩に匿われていた折の歌碑が萩市の明神池にある。井上公園には実美が使用した「龍尾の手水鉢」などが残る。また、宗像市の唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊した記念に、赤間には「五卿西遷の碑」がある。太宰府天満宮の延寿王院前に「七卿落ち」碑、邸内に「五卿遺跡」碑があるが、太宰府市、筑紫野市周辺には実美に関係するものが残っている。 14、5歳の頃、公家の子弟の間では「軍さ事(いくさごと)」という遊びが流行っていた。他の子供が有名な武将の紋を旗印にしていたが、実美は日の丸の紋を用いた。「お日様が戦をするのはおかしい」と言われた実美は、「これは国の印である。国と国と軍さする時はこの印でなければならぬ」と返したという。 内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の1つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって三条は初代内閣総理大臣になり損ねたのである。 事典等では常用漢字体で「三条実美」と表記されることが多いが、内閣官房内閣広報室が運営する総理大臣官邸のウェブサイトでは「三條實美」と表記している。 養嗣子であった公恭には海外留学をさせるなど世話をしているが、公恭は遊興にふけり、度々金銭問題を起こした。明治19年(1886年)6月25日に廃嫡している 本多辰次郎は三千年に一人の大人物であるが、賢明であるかと思えば凡庸であるなどその輪郭は捕捉が難しく「最も論評の困難な標本である」としている。また出処進退が鮮やかであることや、西郷隆盛や大久保利通といった優れた英傑を操縦したことを評価している。 伊藤博文
「その徳望はもとより世人の知る所であって、公が在世中は朝野共に重望を寄せ、公に向っては一回も悪しき批評をするものはなかった。ソコが條公の條公たる所以である」 「三条公は立派な玉を見るような人物で、是は勿論別格だ」。 「公は学問もなされて、歌は中々善く詠まれた。殊に筆跡は頗る見事なもので、雲煙飛動の妙を備えて居られた。是は種々の書風を習われて、終に一家を成されたのである」 大村益次郎 「三條さんは一言も批難する所はない、玉子を剝いたような、実に立派な精神のお方である」 渋沢栄一
また渋沢は「仁の人」であったと評している。一方で「至つて円満で、見た所如何にも優しさうに想へたものであるが、それで決して仁一方といふ丈けの人では無く、外面の柔かなるにも似ず内面には却々硬骨なところのあつた方である。」 また政策には通じておらず、無定見であったと指摘している。「こう申すのは、はばかり多いことであるが、三条公はまったく無定見であらせられた。今日ある者から意見を申し上げると、その日はその気になっていられるが、明日になってまたほかの者から意見を申し上げると、やはりまたその気にならせられる。いつもご自分のご意見はフワフワして、どっちにでもなるという具合の方であったのである。とくに経済上の問題となると、この無定見が一層はなはだしかったように私には思われたのである。三条公はもともと位の高い公家のご出身であらせられたから、経済のことなどに精通していられるはずもなく、したがって財政上の知識も乏しく、このように無定見に陥られたものでもあろう。それにしても太政大臣をしていられた頃、太政官の参議から、『かくかくの事業のために経費を支出するように』との依頼をお受けになれば、それだけの支出をする財源が果たしてあるか否かをきちんと調査もせられずに、これに承諾を与えられてしまったものである。しかしそれが大蔵省の方に回ってきてから、私たちが、『とてもそんな事業のために支出するだけの財源がないから』といって跳ねつけてしまえば、『なるほどそれももっともだ』という気になり、少しも確固たる定見があって決済を与えられたのではなかったのである。したがって三条公は太政大臣の職に在らせられるあいだ、常に太政官の参議側と各省の当局者との間にはさまって、非常に困られていたものらしい」。留守政府の頃、大蔵大輔であった井上馨と渋沢が政府支出の問題で参議と対立した際、三条は渋沢の屋敷を三度訪れて「(井上を)余り騒がせぬやうにしてくれ」と依頼したという。 三条家は、藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任することができた清華家の一つである。 父:実万(贈右大臣) 母:紀子(土佐藩主・山内豊策女) 妻:治子(1848年 - 1924年、関白・鷹司輔煕九女)
男子:公輝 男子:河鰭実英 女子:智恵子(1872年生、閑院宮載仁親王妃) 女子:美佐子(1874年生、毛利元昭公爵妻) 女子:章子(1876年生、大谷光演伯爵妻) 女子:高子(平松時陽子爵妻) 女子:篤子(1880年生、高倉篤麿子爵妻) 女子:夏子(酒井忠興妻) 女子:末子(1888年生、松永安彦長男安衞の後妻) 養子:東三条公恭(兄・公睦の子) - 明治19年(1886年)6月25日に廃嫡 嘉永2年12月19日(1850年1月31日)、従五位下に叙位。 嘉永7年(1854年)
8月8日(9月29日)、侍従に任官。 8月27日(10月18日)、元服し禁色を賜り、昇殿を聴される。 改元して安政元年12月15日(1855年2月1日)、正五位下に昇叙し侍従如元。 安政2年(1855年)
9月17日(10月27日)、右近衛権少将に転任。 12月22日(1856年1月29日)、正四位下に昇叙し右近衛権少将如元。 文久2年(1862年)
9月15日(11月6日)、従三位に昇叙し、左近衛権中将如元。 9月28日(11月19日)、権中納言に転任。 12月27日(1863年2月15日)、朝廷内に国事御用掛を設置するに伴い、兼帯。 文久3年8月24日(1863年10月6日)、国事御用掛を含めて解官。 慶応3年(1867年)
12月27日(1868年1月21日)、明治政府の議定に就任。 慶応4年(1868年)
1月17日(2月10日)、政府外国事務総督を兼帯。 1月20日(2月13日)、政府外国事務総督を辞す。 2月2日(2月24日)、権大納言に転任。 4月22日(5月14日)、左近衛大将を兼任。 閏4月21日(6月11日)、政府の制度改正により、副総裁から輔相に異動。議定は、議政官たる上局議定となる。 閏4月22日(6月12日)、従一位に昇叙し権大納言左近衛大将輔相議定如元。 5月24日(7月13日)、右大臣に転任。左近衛大将輔相議定如元。 明治2年(1869年)
7月8日(8月15日)、制度改正により、右大臣に。 明治4年(1871年)
7月29日(9月13日)、制度改正により、太政大臣に。 8月10日(9月24日)、神祇伯を辞す。 明治9年(1876年)12月29日、勲一等旭日大綬章を受章。 明治15年(1882年)4月11日、大勲位菊花大綬章を受章。 明治17年(1884年)7月7日、公爵授爵。 明治18年(1885年)12月22日、太政官制廃止と内閣制度発足を受け、内大臣に。 明治22年(1889年)
12月24日、第1次山縣内閣発足により、内閣総理大臣兼任を解く。 明治23年(1890年)2月、帝国議会発足により、貴族院公爵議員に。 明治24年(1891年)
1891年(明治24年)2月18日 - 正一位 1884年(明治17年)7月7日 - 公爵 1876年(明治9年)12月29日 - 勲一等旭日大綬章 1882年(明治15年)4月11日 - 大勲位菊花大綬章 1889年(明治22年)2月21日 - 銀製黄綬褒章 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 維新の京洛(1928年、日活) - 演:谷幹一 大村益次郎(1942年、新興キネマ) - 演:三桝豊 徳川一族の崩壊(1980年、東映) - 演:林彰太郎 燃えよ剣(2021年、東宝) - 演:島川直 風雪(1964年、NHK) - 演:川合伸旺 三姉妹(1967年、NHK大河ドラマ) - 演:菅貫太郎 竜馬がゆく(1968年、NHK大河ドラマ) - 演:青山哲也 花神(1977年、NHK大河ドラマ) - 演:永井秀和 雲を翔びこせ(1978年、TBS) - 演:小室等 白虎隊(1986年、日本テレビ) - 演:堀内正美 田原坂(1987年、日本テレビ) - 演:堀内正美 奇兵隊(1989年、日本テレビ) - 演:堀内正美 翔ぶが如く(1990年、NHK大河ドラマ) - 演:角野卓造 徳川慶喜(1993年、NHK大河ドラマ) - 演:宇津木真 夜会の果て(1997年、NHK) - 演:角野卓造 龍馬伝(2010年、NHK大河ドラマ) - 演:池内万作 JIN-仁- 完結編(2011年、TBS) - 演:春延朋也 八重の桜(2013年、NHK大河ドラマ) - 演:篠井英介 花燃ゆ(2015年、NHK大河ドラマ) - 演:上杉祥三 西郷どん(2018年、NHK大河ドラマ) - 演:九世野村万蔵 青天を衝け(2021年、NHK大河ドラマ) - 演:金井勇太 まんが日本史(1983年、日本テレビ) - 声:寺島幹夫 ^ 青蓮院宮は8月27日に還俗し、中川宮朝彦親王を称する。 ^ 実美の建議によって十万石以上の大名から差し出させた天皇護衛の兵。 ^ 他の五卿は氷上山真光院にうつっている。 ^ 現在の井上公園。 ^ 元治元年4月25日に錦小路頼徳が病死している ^ 生前の正一位叙位は史上6人目で、源方子以来745年ぶりで、男性としては藤原永手以来1121年ぶり。また生前に正一位を叙位された最後の例である。(内藤一成 2019, p. 223) ^ 笹部昌利 2001, p. 26. ^ 内藤一成 2019, p. 11-12. ^ 笹部昌利 2001, p. 26-27. ^ 内藤一成 2019, p. 13. ^ 内藤一成 2019, p. 13-14. ^ 内藤一成 2019, p. 28-29. ^ 内藤一成 2019, p. 30-32. ^ 内藤一成 2019, p. 36-37. ^ 内藤一成 2019, p. 38. ^ 内藤一成 2019, p. 47. ^ 内藤一成 2019, p. 41-42. ^ 内藤一成 2019, p. 42-43. ^ 内藤一成 2019, p. 45-46. ^ 内藤一成 2019, p. 43-44. ^ 内藤一成 2019, p. 51-52. ^ 笹部昌利 2001, p. 34-38. ^ 内藤一成 2019, p. 54. ^ 笹部昌利 2001, p. 60. ^ 内藤一成 2019, p. 62. ^ 内藤一成 2019, p. 63. ^ 内藤一成 2019, p. 65-66. ^ 内藤一成 2019, p. 65. ^ 内藤一成 2019, p. 63-65. ^ 内藤一成 2019, p. 67. ^ 内藤一成 2019, p. 68. ^ 内藤一成 2019, p. 71. ^ 内藤一成 2019, p. 68-69. ^ 内藤一成 2019, p. 72. ^ 内藤一成 2019, p. 73-74. ^ 内藤一成 2019, p. 74. ^ 内藤一成 2019, p. 79. ^ 内藤一成 2019, p. 75-76. ^ 内藤一成 2019, p. 77-78. ^ 内藤一成 2019, p. 78. ^ 内藤一成 2019, p. 80. ^ 内藤一成 2019, p. 82. ^ 内藤一成 2019, p. 84. ^ 内藤一成 2019, p. 83. ^ 内藤一成 2019, p. 83-84. ^ 内藤一成 2019, p. 86. ^ 内藤一成 2019, p. 87. ^ 内藤一成 2019, p. 86-87. ^ 内藤一成 2019, p. 89. ^ 内藤一成 2019, p. 92-93. ^ 内藤一成 2019, p. 93-94. ^ 内藤一成 2019, p. 95-96. ^ 内藤一成 2019, p. 96. ^ 内藤一成 2019, p. 97-98. ^ 内藤一成 2019, p. 98. ^ 内藤一成 2019, p. 99-100. ^ 内藤一成 2019, p. 103. ^ 内藤一成 2019, p. 105-107. ^ 内藤一成 2019, p. 111-112. ^ 内藤一成 2019, p. 113-114. ^ 内藤一成 2019, p. 119. ^ 内藤一成 2019, p. 121. ^ 内藤一成 2019, p. 123. ^ 内藤一成 2019, p. 128. ^ 内藤一成 2019, p. 129-130. ^ 内藤一成 2019, p. 130. ^ 内藤一成 2019, p. 131. ^ 内藤一成 2019, p. 135. ^ 内藤一成 2019, p. 144. ^ 内藤一成 2019, p. 136. ^ 内藤一成 2019, p. 137-141. ^ 内藤一成 2019, p. 134-142. ^ 内藤一成 2019, p. 142. ^ 打越孝明 2012, p. 59. ^ ドナルド・キーン上巻 2001, p. 315. ^ 内藤一成 2019, p. 145-146. ^ 内藤一成 2019, p. 147. ^ 内藤一成 2019, p. 148. ^ 内藤一成 2019, p. 153-154. ^ 内藤一成 2019, p. 156. ^ 内藤一成 2019, p. 16三. ^ 内藤一成 2019, p. 157-158. ^ 内藤一成 2019, p. 163. ^ 内藤一成 2019, p. 164. ^ 内藤一成 2019, p. 166. ^ 内藤一成 2019, p. 167-168. ^ 内藤一成 2019, p. 173. ^ 内藤一成 2019, p. 175-183. ^ 内藤一成 2019, p. 185-186. ^ 内藤一成 2019, p. 186-187. ^ 内藤一成 2019, p. 189-190. ^ 内藤一成 2019, p. 190-193. ^ 内藤一成 2019, p. 178-179. ^ 内藤一成 2019, p. 178-198. ^ 内藤一成 2019, p. 216. ^ 内藤一成 2019, p. 218. ^ 松田好史「大正期の常侍輔弼と内大臣--新帝輔弼から元老内大臣兼任方式へ」『史観』第163巻、早稲田大学史学会、2010年9月、1-14頁、NAID 110007880529。 、1-2p ^ 内藤一成 2019, p. 218-219. ^ 「内大臣公爵三条実美内閣総理大臣ニ兼任シ内閣総理大臣伯爵黒田清隆枢密顧問官ニ任セラル」 アジア歴史資料センター Ref.A15111667700 ^ 内藤一成 2019, p. 221. ^ 「内務大臣伯爵山県有朋ヲ内閣総理大臣兼内務大臣ニ任シ内大臣兼内閣総理大臣公爵三条実美願ニ依テ兼官ヲ免ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15111667900 ^ 歴代内閣 | 首相官邸ホームページ ^ 内藤一成 2019, p. 219-222. ^ 内藤一成 2019, p. 222. ^ 内藤一成 2019, p. 224. ^ 例:国会図書館サイト ^ 「黑田内閣-明治21年4月30日成立」『黑田内閣』内閣官房内閣広報室。 ^ 刑部芳則 2016, p. 28-27. ^ 内藤一成 2019, p. ii. ^ 『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』 ^ 内藤一成 2019, p. iii. ^ 『大村先生逸事談話』P23 ^ 内藤一成 2019, p. iii-iv. ^ “デジタル版「実験論語処世談」(15) / 渋沢栄一”. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2021年10月24日閲覧。 ^ 三條公輝『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月] ^ 霞会館 1996, p. 697. ^ 刑部芳則 2016, p. 28. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。 ^ 『官報』第1694号「彙報」1889年2月25日。 ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。 内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』中央公論新社、2019年。 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《上巻》吉川弘文館、1996年。 中央新聞社 編『伊藤侯 井上伯 山県侯元勲談』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、文武堂、1900年。 笹部昌利「幕末期公家の政治意識形成とその転回 - 三条実美を素材に」『仏教大学総合研究所紀要』第8巻、佛教大学総合研究所、2001年、25-44頁。 刑部芳則「東三条公恭の海外留学」(pdf)『総合文化研究』第21-3巻、日本大学商学部、2016年、40-27頁。 ドナルド・キーン上巻『明治天皇』 〈上巻〉、新潮社、2001年。ISBN 978-4103317043。 打越孝明 著、明治神宮 編『明治天皇のご生涯』新人物往来社、2012年。ISBN 978-4404042095。 •赤井誠「文久・元治年間における三条実美の歴史的位置 ー長州藩領滞在期に着目してー」『駿台史学』178号、2023年、1頁-26頁、https://meiji.repo.nii.ac.jp/records/17636 •赤井誠「七卿落再考 ー慶応年間における三条実美の検討を通してー」『駿台史学』181号、2024年、(27)-(53) 、https://meiji.repo.nii.ac.jp/records/2000587 •刑部芳則『三条実美 孤独の宰相とその一族』吉川弘文館、2016年。 •佐々木隆「内大臣時代の三条実美」、沼田哲編『明治天皇と政治家群像』吉川弘文館、2002年所収、235頁-284頁。 •奈良勝司「近代日本形成における意思決定の位相と「公議」」『日本史研究』618号、2014年、143頁-174頁。 •町田明広「慶応期後半の中央政局と薩摩藩―幕薩・薩長融和と薩英交渉を中心にー」『神田外語大学日本研究所紀要』15号、2023年、1頁-43頁、https://kuis.repo.nii.ac.jp/records/2005
尾崎三良 官報 - 題字の揮毫者が実美。 石津太神社 - 鳥居に掛かる扁額を書いたとされている。 山形市立病院済生館 - 開院に際しての命名および旧本館の扁額を揮毫。 景山龍造 三条実美 | 近代日本人の肖像(国立国会図書館) 国立国会図書館 憲政資料室 三条家文書(所蔵) 国立国会図書館 憲政資料室 三条家文書(MF:神宮文庫蔵) 『三条実美』 - コトバンク 表 話 編 歴 大友皇子671-672 高市皇子690-696 刑部親王(知太政官事)703-705 穂積親王(知太政官事)705-715 舎人親王(知太政官事)720-735 鈴鹿王(知太政官事)737-745 藤原恵美押勝(太師)760-764 弓削道鏡(太政大臣禅師)765-766 藤原良房857-872 藤原基経881-891 藤原忠平936-949 藤原実頼968-970 藤原伊尹971-972 藤原兼通974-977 藤原頼忠978-989 藤原兼家990 藤原為光991-992 藤原道長1017-1018 藤原公季1021-1029 藤原頼通1062 藤原教通1070-1071 藤原信長1080-1089 藤原師実1089 藤原忠実1113 源雅実1123-1124 藤原忠通1129 藤原忠通1149-1150 三条実行1150-1157 藤原宗輔1157-1160 藤原伊通1160-1165 平清盛1167 藤原忠雅1168-1170 松殿基房1171 藤原師長1177-1179 九条兼実1190 藤原兼房1191-1196 藤原頼実1199-1204 九条良経1205 藤原頼実1209 三条公房1218-1222 近衛家実1222 西園寺公経1222-1223 九条良平1238-1239 近衛兼経1241-1242 西園寺実氏1246-1247 久我通光1247-1248 鷹司兼平1252-1253 徳大寺実基1253-1254 西園寺公相1262 花山院通雅1275-1276 鷹司兼平1277 鷹司基忠1285-1287 堀川基具1289-1290 西園寺実兼1292-1293 洞院公守1299 二条兼基1299-1300 土御門定実1301-1302 徳大寺公孝1302-1304 一条実家1307-1309 大炊御門信嗣1309-1311 鷹司冬平1311 三条実重1318-1319 久我通雄1319-1323 鷹司冬平1323-1327 今出川兼季1332-1333 久我長通1352-1352? 洞院公賢1353-1354? 西園寺公重????-1364 久我長通1341-1342 洞院公賢1348-1350 久我通相1366-1368 二条良基1381-1387 徳大寺実時1394-1395 足利義満1395 久我具通1395-1396 三条実冬1402-1407 徳大寺公俊1420 二条持基1432-1433 一条兼良1446-1450 久我清通1452-1453 西園寺公名1455-1457 二条持通1458-1460 近衛房嗣1462 久我通博1481-1482 鷹司政平1485 近衛政家1488-1490 一条冬良1493-1497 徳大寺実淳1510-1511 近衛尚通1514-1517 花山院政長1518-1521 三条実香1535-1536 近衛稙家1538-1541 近衛前久1582 豊臣秀吉1587-1598 徳川家康1616 徳川秀忠1626-1632、武家官位 近衛基熙1709-1710 近衛家熙1711 近衛家久1733-1734 一条兼香1746-1751 近衛内前1768-1770 九条尚実1781 徳川家斉1827-1841、武家官位 鷹司政通1842-1848 三条実美1871-1885 → 内閣制度発足にともない廃止 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 近衛篤麿1884-1904 近衛文麿1904-1945返上 鷹司熙通1884-1918 鷹司信輔1918-1947 九条道孝1884-1906 九条道実1906-1933 九条道秀1933-1947 一条実輝1884-1924 一条実孝1924-1947 二条基弘1884-1920 二条厚基1920-1927 二条弼基1927-1947 徳川家達1884-1940 徳川家正1940-1947 三条実美1884-1891 三条公美1891-1914 三条実憲1914-1924 三条公輝1924-1945 三条実春1945-1947 毛利元徳1884-1896 毛利元昭1894-1938 毛利元道1938-1947 島津忠義1884-1898 島津忠重1898-1947 島津久光1884-1887 島津忠済1887-1915 島津忠承1915-1947 岩倉具定1884-1910 岩倉具張1910-1914 岩倉具栄1914-1947 徳川慶喜1902受爵-1910 徳川慶久1910-1922 徳川慶光1922-1947 伊藤博文1907陞爵-1910 伊藤博邦1910-1931 伊藤博精1931-1947 大山巌1907陞爵-1916 大山柏1916-1947 山縣有朋1907陞爵-1922 山縣伊三郎1922-1927 山縣有道1927-1945 山縣有信1945-1947 徳大寺実則1911陞爵-1919 徳大寺公弘1919-1937 徳大寺実厚1937-1947 桂太郎1911陞爵-1913 桂広太郎1913-1947 西園寺公望1920陞爵-1940 西園寺八郎1940-1946返上 松方正義1922陞爵-1924 松方巖1924-1927返上 徳川圀順1929陞爵-1947 表 話 編 歴 実行 公教 実房 公房 実親 公親 実重 公茂 実忠 公忠 実冬 公冬 実量 公敦 実香 公頼 実教 実綱 公広 実秀 公富 実治 公兼 公充 実顕 季晴 実起 公修 実万 公睦 実美 公美 実憲 公輝 実春 公隆 実久 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 三条実美 三条家 幕末の公家 日本の内閣総理大臣 明治時代の内大臣 貴族院公爵議員 明治時代の貴族院議員 在職中に死去した日本の貴族院議員 復興神祇官人 修史館の人物 日本の外務大臣 インフルエンザで死亡した人物 日本の神 (人物神 幕末維新) 維新の元勲 正一位受位者 大勲位菊花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 銀製黄綬褒章受章者 京都市出身の人物 1837年生 1891年没 国葬された人物 大日本帝国憲法関連の人物 プロジェクト人物伝項目 Reflistで3列を指定しているページ FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/23 14:24更新
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sanjou sanetomi
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